< 承前 >
大神神社の境内から始めます。前頁の祈祷殿の前庭に歌碑がある。
うまさけを 三輪
のはふりが やまてらす
あきのもみぢば ちらまくをしも
(長屋王 万葉集巻8-1517)
やまとは くにのまはろば たたなづく
青がき 山ごもれる 大和しうるはし
(倭建命 古事記)
ヤマトタケルは東国の蝦夷を征服して尾張から伊勢の能煩野(三重県鈴鹿市北方から亀山市東部にかけての野)へと帰って来るが、この地で病が酷くなり亡くなってしまう。この歌は亡くなる前にヤマトタケルが大和を偲んで詠んだ歌である。
此の
神酒
は 我が神酒ならず
倭
成す
大物主の
醸
みし神酒
幾久
幾久
(日本書紀 崇神天皇8年12月条)
日本書紀には、崇神天皇8年の12月20日に大田田根子に三輪の神を祀らしめ、その日に天皇は宴を催したとある。この宴に高橋邑の 酒人 活日
が神酒を天皇に献上したので、天皇がこの歌を詠んだとある。(歌の意は「この神酒は私の神酒ではない。大和の国をお造りになった大物主神がお作りになった神酒である。幾世までも久しく栄よ、幾世までも久しく。」である。)大神神社を出て狭井神社へと向かう。大神神社には多くの摂社、末社があるが、狭井神社もその一つ。
狭井神社については下の説明板をご参照下さい。
拝殿前庭右側に三輪山登山口がある。神社に申し出て登山することが出来るが、今回はパス。
鳥居を入った参道脇の鎮女池の前に三島由紀夫筆の清明碑がある。
昭和41年にドナルド・キーンと大神神社を訪れた三島由紀夫は三輪山に登り、感銘を受けて下山後にその感慨を「清明」と色紙に書いたらしい。その字を碑にしたのが、この碑である。
狭井神社から少し行った処に歌碑がありました。
狭井河よ 雲立ちわたり 畝火山 木の葉さやぎぬ 風吹かむとす
(伊須気余理比売 古事記)
神武天皇には大和に入ってから妻にした 伊須気余理姫 との間に3人の息子がいたが、日向にいた時の妻 阿比良比売 との間にも 多芸志美美命 という男子がいた。神武崩御後、このタギシミミが「自分が長兄であるから天皇位に即くのが当然」とし、義母であるイスケヨリヒメを妻に迎え、その3人の息子(つまり異母弟)を殺そうと謀る。これを知ったイスケヨリヒメが息子達に危険を知らせるために詠んだ歌がこの歌。母からの知らせで3人の息子(日本書紀では息子は2人になっている)のうちの一人、末弟の 神沼河耳命 ( 建沼河耳 命)がタギシミミを殺す。この功により、カムヌナカハが天皇位に即く。綏靖天皇である。
更に進むと、月山邸の前に出る。ここに歌碑が2基ある。前庭側に万葉歌碑、丘の柿畑の側に古事記歌謡の碑。
葦原
の
穢
しき
小屋
に
菅畳
弥清
敷きて 我が二人寝し
(神武天皇 古事記)
(葦原の、穢い小屋に、菅の畳をいっそう清らかに敷いて、わたし達二人は寝たのだ。)
イスケヨリ姫の家は狭井河(佐韋河)の畔にあり、神武はその家を訪ね彼女と結ばれる。後にイスケヨリ姫を宮中に迎え入れた際に、神武が詠んだ歌がこの歌である。
この直ぐそばを流れるあるかなきか定かでない小川が狭井川(佐韋川)である。古事記ではこの川の畔には山百合が多く咲いていたとあり、山百合の古名は佐韋だとあるから、百合の川という意味なのである。
こちらは万葉歌碑、額田王の有名な歌。近江に都が遷り、明日香から近江へと下る時に作った歌であるが、馴れ親しんだ大和を離れて天離かる鄙へと向かう心情が覗われもする歌である。
味酒
三輪の山 あ
をによし 奈良の山の 山の
際
に い
隠
るまで
道の
隈
い
積
るまでに つばらにも 見つつ行かむを しばしばも
見さけむ山を
情
なく
雲の 隠さふべしや (万葉集巻1-17)
反歌
三輪山を しかも隠すか 雲だにも
情
あらなむ
隠さふべしや
(万葉集巻1-18)
では、私たちも、つばらつばらに三輪山を見つつ、額田王さんご一行の後について参りますかな(笑)。 ( つづく )
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