< 承前 >
今日は先日(12日)の銀輪散歩の続きと昨日(14日)の銀輪散歩の合作記事であります。
昨日の記事で野田恵美須神社の境内にあった「野田藤」の鉢植えの写真をご紹介いたしましたが、今日はその「野田藤」についての話から始めることとします。
表通りから一歩中に入ると、古い道標や民家の佇まいが昔の町並の雰囲気を偲ばせる玉川4丁目界隈であります。
この辺りは、昔は淀川の河口部にて、難波八十島と呼ばれていた海辺の地域。漁業が盛んであったことが恵比須神社があることでも偲ばせるが、その海辺の砂州に根付いた藤が松の木などに絡まって繁茂していたようで、野田藤として有名になる。「吉野の桜、野田の藤、高尾の紅葉」と並び称されたという。
いつの頃よりかこの地域は藤原氏の所領となったよう。春日神社が置かれたのも、そういうことであったのですな。鎌倉時代初期の太政大臣西園寺公経が宝剣を奉納したりなどとこの地の春日神社は広大な敷地を備えて隆盛を誇ったようであるが、今は、町角の片隅の小さな祠として「春日神社」「白藤大神」「影藤大神」を残すのみ。
西園寺公経と言えば、百人一首の96番目の歌「花さそふ嵐の庭の雪ならでふりゆくものはわが身なりけり」の歌が思い起こされるが、この人の「野田藤」の歌に次のようなのがある。
難波かた 野田の細江を 見渡せば 藤波かかる 花のうきはし
玉川コミュニティセンターと新なにわ筋(阪神高速道神戸線)を挟んで向かい側に影藤社、白藤社があり、白藤社から一歩奥に入った処に春日神社と表示の小さな祠があり、其処に「野田の藤跡」と刻された碑が建っている。
戦前まではこの地の春日神社境内に藤の古木が残っていたそうだが、太平洋戦争の空襲で焼失。市街化の進展もあって野田藤は絶滅に瀕していたという。これに危機感を持った人々を中心に野田藤を守護・復活させようとの取組が始まり、野田藤を福島区の花に指定すると共に、行政や地元の方々のご努力によって、野田藤はこの地域各所で着実に甦りつつあるという。あちらこちらに藤棚や藤の鉢植えが見られるのは、そういう地元の皆さんによる「野田藤」再生への取り組みであるのですな。尊い営みであります。
因みに、野田の藤を「ノダフジ」と命名したのは、植物学者として有名な、あの牧野富太郎博士だそうです。
上の説明にある「エスポワール藤」の角の藤棚が下の写真です。
堂島川の一番川下の橋が船津橋、その一つ上流、新なにわ筋が通る処に架かっているのが上船津橋、その一つ上のあみだ池筋が通る処の橋が堂島大橋。
その堂島大橋北詰にあるのが下福島公園。この公園の一角に藤庵の庭が再現されている。
藤庵というのは、この地にあった藤家の屋敷のことで、文禄3年(1594年)に秀吉がこの地の藤見物を兼ねて茶会を開いた場所ということであるが、詳しいことは下記の「のだふじの会」のホームページをご参照下さい。
<参考> のだふじの会ホームページ
同上・ 野田藤の歴史
同上・ 豊臣秀吉のフジ見物
ここまでは12日の銀輪散歩の写真による記事でした。
以下は、14日の銀輪散歩の写真によるもの。
船津橋まで来たのだから、中之島の頭かお尻かは存じませんが、その先っぽを見て置こうと(笑)。
これが島の最西端。
上は北側から見たもの。下は南側から見たもの。
奥に見える白い高層ビルは中之島センタービル(NCB)。
小生が未だ若かった頃、このビルに長らく職場があったので、この付近は懐かしい。しかし、中之島の先端(末端)をそれと意識して覗き見るなんてことはありませなんだ(笑)。
因みに、中之島センタービルを我々は中之島尖端ビルと呼んでいたような気もする。
で、最西端を見たからには最東端も見て置こうと、猛暑の中、土佐堀通りを東へとひた走る。
最東端の方がスマートですな。
どうやら、中之島は上流に向かって進もうとしている風に見える。
見上げると伊丹空港に着陸しようとしている飛行機。
話は戻りますが、中之島の西端の湊橋(新なにわ筋が土佐堀川に架かる橋)の南詰にこんな碑がありました。
副碑を見ると2年前の建立。ブロ友のテラケン氏は宮本輝の大ファン。副碑の氏名に同氏の名があったら面白いと思うが本名を知らないのだから話にならない(笑)。
もう字数制限です。以下は淀屋橋近くでのもの。
趣旨は碑文をお読み下さい。
-完-
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