本日は朝のうちに墓参。
墓への坂道を少し上った処の寺の前で、幼馴染のトモちゃんと出会う。彼女もお母様とお墓参りであったようで、その帰りでありました。ムラで小生と同じ学齢の子供は男子が小生を含めて5人、女子も5人いたかと思うが、その内の1人である。小生は「ケンちゃん」と呼ばれていたが、ムラには同学年で1人、一学年上級に1人と3人の「ケンちゃん」が居たので、それぞれ「◎◎のケンちゃん」と上に姓を付けて区別されていた。いくつになっても幼馴染みは◎◎ちゃんである。トモちゃんのお父様と小生の父が同学年で父親同士も同級生であったことなども思い出しました。
お墓への最後の坂道に差し掛かる処に池がある。その池には睡蓮が花を咲かせていました。池はその西側のお家のご所有だと思われるが、このお家の庭先はいつも季節の花が咲いていて、墓参の行き帰りに目を和ませてくれる。そのお家の西側のお庭(つまり池とは反対側の庭)には、信楽焼の狸が東方向(つまり生駒山地の方向)を向いて立っている。まるで、朝日を仰ぎ見ているようでもあったので、1枚その横顔を撮ってみることにしました。
われかくて 今日もありなむ な煩ひそ
明日は明日なり 日はまた昇る (狸麻呂)
さて、トモちゃんと出会ったお寺の門前には、いつもの通り「今日の言葉」が掲示されていました。
本日の言葉は安田理深氏の言葉。
同氏の名は小生は勿論存じ上げないので、Wikipediaで調べて置きました。下記をご参照下さい。
<参考> 安田理深
・Wikipedia
明日のために今日を犠牲にしてはいけない。今日なすべきは今日なすべきであり、今日を精一杯に生きれば自ずから明日はひらける、ということでありましょうか。
「あすのことを思いわずらうな。あすのことはあす自身が思いわずらうであろう。」(マタイによる福音書第6章34節)という聖書の言葉や「昨日またかくてありけり、今日もまたかくてありなむ、この命なにを齷齪明日をのみ思ひ煩ふ」という藤村の詩の一節を連想したりもしましたが、このような言葉は前後の文脈やその言葉の置かれた状況、この言葉を受け止める側の人間の心の在り様などとの関係で「或る意味」を持ったものとなるのであれば、一見逆のことを言っているようにも見える「明日のために今日を耐えよ」という言葉とも左程の違いはないとも言えますかな。
上の狸さんも下の柘榴くんも、そんなことは先刻ご承知にて、今日を今日として生きているのであります。人間だけがあれこれと七面倒臭いことを思い煩い、悩み、物事を分かりにくくしているようでもあります。
この寺の前の空き地には、早くも柘榴が実を付けていました。
草木は、「私」が存在する前にそうであったように、今日の営みを黙々とこなし、「私」が存在しなくなった後も、変ることなくその営みを続けて行くのでありましょう。
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