昨日(18日)は恩智川沿いを南に走り、八尾市、柏原市、藤井寺市、羽曳野市と銀輪散歩して参りました。
何処に行くという目的もなく、気儘にと言うか、適当にと言うか、地図も持たず出鱈目に道を走りましたので、もう一度同じ道を走れと言われても、無理かも知れません。
大和川に出て、新大和橋を渡り石川沿いの道に入って直ぐに斜め右に入る道があり、そこを行くと国府八幡神社に突き当たる。神社の後が応神天皇の皇后である仲津媛の御陵である。そこを左折すると広い道(府道12号・堺大和高田線)に出る。それを右折し西へ。近鉄南大阪線の土師ノ里駅の前で左折、国道170号旧道を南へ。そこから先をどう走ったのか思い出せない。途中から路地に入ってジグザグに廻っているうちに方向も怪しくなってしまったからである。
途中、路地の奥でザクロを写真に撮りましたが、そこは近鉄南大阪線の古市駅のスグ裏でした。そして白鳥神社の前に出た。
柘榴は下を向いてなっているものですが、この柘榴は何故か上を向いています。隣の柘榴は横を向いている。まあ、どちらを向こうと柘榴の勝手ですから、文句はないのですが、何だか妙な気分です。
古市駅は近鉄南大阪線から長野線に乗り換えの駅でもある。近鉄長野線は古市駅から富田林、河内長野へとつながっている。
初めてこの駅で乗り換えた時、「長野」行きという表示の電車に妙な感じがしたものだが、大阪府にも長野(河内長野)があったことに気付き腑に落ちた次第。
白鳥神社は、偐山頭火さんとの銀輪散歩で4年前に訪れているので、その記事と下の説明板をご参照戴くこととし、コメントは省略です。
<参考>「 藤井寺界隈
」
2009.11.22.
この鳥居を撮影している時にポツリと雨が落ちて来た。空を見上げると雨雲らしきものも見える。結局雨は降らなかったのであるが、引き返すこととしました。
東高野街道を北へと走る。
道は誉田八幡宮の前を通るので立ち寄ることに。ここも、上掲・参考の「藤井寺界隈」をご参照下さい。
今回初めて気付いたのがこれ。古戦場址碑。
南北朝の頃から大阪夏の陣までしばしばこの辺りは戦場となったのですな。千早赤坂の方から流れて来る石川と大和から流れて来る大和川との合流点であり、古代の国道1号線とも言える竹内街道が通っていることなども考え合せると、それも納得されるというものである。
神社の北側は巨大な応神天皇陵古墳であるが立ち寄らず行く。
(注)応神天皇陵は「 古市古墳群めぐり
」 2009.7.31.
の記事参照
更に北へと走ると道明寺である。神仏分離で道明寺と道明寺天満宮に分れているが元々は一つのもの。今回は東側の道明寺天満宮にのみ立ち寄る。
境内に小林一茶の句碑があった。これも今回初めて気付いたもの。特徴のある字は榊莫山揮毫によるもの。
青梅や 餓鬼大将が 肌ぬいで (一茶)
これは、寛政7年(1795年)西国行脚の途中に道明寺に立ち寄った一茶が詠んだ句。一茶がこの時に詠んだもう一つの句がこれ。
暁や 鳥なき里の ほととぎす (一茶)
道明寺には菅原道真の叔母の覚寿尼が住んでいた。大宰府に左遷されて西国へと向かう途上、道真は道明寺を訪れ、叔母との別れを惜しむ。
別れに際して道真は「鳴けばこそ 別れも憂けれ 鶏の音の なからん里の 暁もがな」と詠んで旅立つ。以来、道明寺では鶏を飼わない習わしとなっているそうな。
一茶の上の句の「鳥なき里」はこの故事を踏まえたものである。
境内には復元した修羅も展示されている。修羅は古代の運搬具であるが、詳しいことは下の説明板をご参照下さい。
もう一つ境内に珍しいものがありました。楷の木。
説明板によると、孔子廟の前に弟子の子貢が植えた木の末裔のようである。
<参考> 子貢・Wikipedia
カイノキ・Wikipedia
楷の木の歴史
道明寺の商店街を抜けると道明寺駅である。
駅前で右折。踏切を渡って東に行くと玉手橋付近の石川畔に出る。石川自転車道に入って北へ。新大和橋を渡って恩智川沿いの道に戻り、来た道を帰る。花園中央公園に着いた頃は5時少し前。公園を暫し銀輪散歩したる後、家路に。
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