( 承前 )
玉造稲荷神社へは、JR環状線鶴橋駅の西側の玉造筋を北に入り、直ぐにもう一つ西の真田山公園の東側に沿っている路地に入って、これを北へと走ったのでしたが、途中にあった三光神社には真田幸村の像が建っている。この辺りは大坂城の出城の真田丸があった場所ということらしい。三光神社は以前の記事で紹介済みなので立ち寄らずで、その前を通り過ぎて、直接に玉造稲荷神社に向かったのでありました。
<参考>「 真田丸いずこに
」
2008.12.5.
玉造稲荷神社を出て、まだ少し時間にゆとりがあるので、三光神社の少し西側の心眼寺を覗いてみることにする。この寺は真田幸村(本名:信繁)とその子・大助の菩提を弔うために滋野氏が江戸時代に建立した寺である。滋野氏は信濃の名族。その流れを汲む「滋野三家」が海野氏、根津氏、望月氏で、真田氏は異説もあるようだが、海野氏から分かれた家柄とされているから、言わば「本家」の子孫が「分家」の先祖を供養するために寺を建てたということになる。
<参考> 心眼寺
寺の山号は真田山。寺紋も例の六文銭のそれである。
山門の左側には、京都見廻組・桂早之助・渡辺吉太郎墓所の碑があった。京都見廻組と言えば、近江屋で坂本龍馬と中岡慎太郎を暗殺したとされている、京都守護職・会津藩主松平容保配下の組織で、新撰組同様に反幕勢力を取り締まる警察活動をした集団のことである。本堂の北側に墓地が並んでいるが、そのどれが両名の墓であるのかは、ざっと見て回った限りでは分からなかった。
山門の右側には真田丸跡地であることを示す碑。碑には真田家の六文銭の紋が刻されていますが、山門の扉にも六文銭が付されています。
寺の前は坂道になっていて、心眼寺坂という名が付いている。南に向かって上り坂となっているから、真田丸はこの坂から南側にあったのだろう。心眼寺は真田丸の北端に位置するということになる。
坂道を上ると左側には寺が続き、右側には明星中学・明星高校の校舎である。
心眼寺坂を下り切った角にあるのが、善福寺(どんどろ大師)。境内に入ると修行中の弘法大師の像があり、その隣には勝軍地蔵という大きな像がある。
どんどろ大師というのは通称で、正式には鏡如庵といって、大坂夏の陣の戦死者を弔うために創建されたものだそうな。一方、善福寺というのは摂津国能勢郡にあったのが明治になって当地に移転して来たものだという。この辺の事情は下記<参考>をご参照下さい。
<参考> 善福寺
・Wikipedia
門前には歌舞伎や文楽でお馴染の「傾城阿波の鳴門」(近松半二作)のお弓とおつるの母子再会の場面の像がある。二人が再会するのは、この玉造のどんどろ大師の門前であったのですな。
最期は「巡礼にご報謝」の話になってしまいましたが、「囲碁例会・大坂夏の陣関連銀輪散歩の段」、これにてお開きと致しまする。
<参考>近隣散歩関連の過去の記事は コチラ
からご覧になれます。
自宅療養記・花園中央公園、ライフ新石切店 2025.11.07 コメント(2)
自宅療養記・ホルター心電図と枚岡神社な… 2025.11.04 コメント(2)
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