本日は河口行宮 (かわぐちのかりみや)
跡へ行って参りました。
河口行宮跡というのは津市白山町川口にある。JR名松線の関ノ宮駅の東方500m位の小高い丘の上にある医王寺の境内地に河口行宮跡碑がある。所在地については異説もあり確かなことは不詳であるが、一応此処として置きましょう。
藤原広嗣の乱が起こった時、聖武天皇は兵を連れて東国へと巡幸する。大宰府で起こった反乱であるが、都でもこれに呼応する動きがあったことから、天武天皇の故事に倣い、東国を巡ることで、身の安全を図るとともに自らの威信の強化を図った、という見解もある。であれば、颯爽と「駆け巡る天皇」であり、「さまよへる天皇」と言うのは聖武天皇に失礼極まりないこととなるが、小生などには過剰反応の弱々しい神経質な人物像が浮かぶので、「さまよへるすめろぎ」というタイトルにした次第。
藤原氏の影響力が強い平城京からの遷都を画策していた橘諸兄が広嗣の乱を奇貨として聖武天皇に必要以上の不安を煽ったのではないだろうか。
で、何故、このタイトルが河口行宮と関係があるのかと言うと、「さまよへる」聖武天皇がこの地に10日間ほど滞在したのであり、反乱者広嗣の捕縛とこれを斬首に処したという知らせを受け取ったのがこの地であるからです。
(近鉄・榊原温泉口駅)
近鉄大阪線・榊原温泉口駅前から出発です。駅前でトレンクルを組立て「颯爽と駆ける」ヤカモチであります。やがて「さまよへるヤカモチ」となるのでありますが。
駅からの坂を下った最初の辻を左に入るとこの道である。この奥で県道28号と合流し南へと下って行く。合流地点付近にある常照寺の近くに紀貫之の墓があったようだがそれは後で知ったことで訪問ご挨拶は叶いませんでした。
県道28号を走りながら右手後方を見やると山上に風力発電の白い塔列。これは伊丹空港に着陸する前にこの付近の上空を飛行するので、飛行機の窓からもよく見えるちょっと印象に残る光景なのである。
県道28号は倭2丁目交差点で国道165号に突き当たる。これを左に取って少し行くと倭1丁目交差点。そこから右(南)に坂を上る道からが再び県道28号である。倭1丁目交差点から1kmほど行くと大きな幼稚園があり、子供たちの声が賑やか。
更に1kmほど行くと白山中央公園・白山運動場。入口に「花灯り」だったか、何かそんな風な名の喫茶店があったが11時からの営業のようで未だ準備中。
幼稚園を過ぎた辺りからはずっと下り坂。白山運動場を過ぎると右にカーブしながら急坂を下り、下りきった処で県道662号と交差する。
県道28号を直進してもいいのだが、662号に入り右(西)に行く。写真奥に見える鉄塔の辺りに架かる八ッ山橋を渡ることとする。
県道662号から南西の方向の眺望は、襞なす山々が眺められてなかなかにいい。
(八ッ山橋北詰。県道662号から橋を渡って県道664号へ。)
県道662号と別れ、雲出川に架かる八ッ山橋を渡る。ここから県道664号となる。
JR名松線関ノ宮駅の前の踏切を渡る。川口の地には関所が設けられていたようで、河口行宮は関の宮とも呼ばれたよう。駅名がそのことを表している。
駅を過ぎて県道15号との交差点を越えると県道580号に変わり左にカーブして行く。曲がり切った辺りに細い脇道があり、聖武天皇行宮址・医王寺の碑が立っている。
左の木立の中が河口行宮跡。正面奥が医王寺の建物である。
天平12年(740年)冬10月、聖武天皇の巡幸に供奉した若き大伴家持がこの地で作った歌である。家持はこの時満22歳であるから、社長の出張にお伴した新入社員といった処だろうか。会社(天下国家)の危機であるというのに歌の内容は都に残した恋人が恋しいというもの。若き社員(官僚)がこんなことで良いのか(笑)。
河口の 野辺にいほりて 夜のふれば 妹が袂し 思ほゆるかも
(大伴家持 万葉集巻6-1029)
この妹というのは彼の妻となる坂上大嬢であろう。
さて、家持殿の名誉のために付言して置くと、その社長たる聖武天皇さんがお作りになった歌も下記の如くなのであるから、新入社員の家持を叱る訳にも参らぬことにて候。
妹に恋ひ 吾 (あが)
の松原 見渡せば 潮干の潟に 鶴 (たづ)
鳴き渡る
(聖武天皇 同巻6-1030)
聖武天皇はこの後恭仁京への遷都を決定するのであるから、今回の銀輪散歩は、今月29日に予定している恭仁京万葉ウォークの周辺取材ということになります(笑)。
この後は取材とは関係なしの単なる銀輪散歩となりますが、そのご報告は明日の事と致しまする。( つづく
)
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