< 承前 >
和束は茶畑の町。志貴皇子の墓のある奈良の田原地区も茶畑の広がる町だが、安積皇子の墓のある和束町も茶畑の町。こちらは「茶源郷」と自らを呼んでいる。この銀輪散歩は11月23日のこと。この日は亡き父の誕生日である。父が元気であった頃、万葉の故地を訪ねてよく二人で歩いたものであるが、ここ和束もその一つである。そんなことで、父のことなども思い出しての和束行きとなった次第。きっかけは冒頭で述べたビッグジョン氏のブログの和束の茶畑の写真でありましたが、23日に実施したのは父との思い出でありました。
峠から九十九折りの急峻な坂道を下っている時に見掛けた山間の茶畑。何か不思議な静寂が茶畑にはある。里山の静寂。人の手が加わっている風景であって人の影が絶えている、それが「静寂」というイメージを喚起するのでしょう。
山裾に下って突き当りで府道321号は直角に左に折れる。それを行くとすぐに雄大な茶畑の風景が目に飛び込んで来る。
暫し茶畑の風景に目を遊ばせる。
「見らくしよしも」とか「見れども飽かず」というのは、こういう場合に使うのであろう。
砂丘の風紋と同様、この何とも言い難い曲線の折り重なりが、見る人の心に自ずからなるやさしいメロデイーを奏でるもののよう。リズムが「喚起」ならメロデイーは「癒し」である。
遠くに目を転じると、色づいた秋山が日に映えて・・。
春花の 和束もよけど 茶畑の 先にもみたふ 山こそまされ (偐家持)
ゆるやかな坂道を更に下って行くと右手に公園があった。活道ヶ岡公園とある。
「活道 (いくじ)
の岡」というのは安積皇子の別荘があった処であり、天平16年正月11日に市原王、大伴家持らはこの岡に登って集宴している。この折に二人が詠んだ歌がこれ。
一つ松 幾代か経ぬる 吹く風の 声の清きは 年深みかも
(市原王 万葉集巻6-1042)
たまきはる 命は知らず 松が枝を 結ぶ心は 長くとぞ思ふ
(大伴家持 同巻6-1043)
活道の岡については、ここ和束町白栖説のほか、木津川市加茂井平尾の湾漂山説や同岡崎の流岡山説などがあって、何処とも定まらない。
大伴家持の歌碑もありました。
若き大伴家持は安積皇子に仕える内舎人でもあった。安積皇子は上の活道の岡での宴のあった翌月の閏正月13日に急死してしまう。聖武天皇の唯一の男子であった皇子。既に光明皇后との間に生まれた娘の安倍皇女(後の孝謙天皇)が皇太子となっていたので、安積皇子に皇位継承という目は当面なくなっていたが、安倍皇女の次の天皇ということになると安積皇子になる訳で、藤原氏としては邪魔な存在。そんなこともあって、この急死は藤原仲麻呂に毒殺されたのだという説もあったりする。
それはさて置き、安積皇子の死を傷み家持は長歌2首、反歌4首を作っている。上の歌碑の歌はそのうちの1首である。
わが大君 天知らさむと 思はねば おほにぞ見ける 和束杣山
(大伴家持 万葉集巻3-476)
漸く、銀輪万葉らしくなってまいりました(笑)。
安積皇子の墓も茶畑の中。
西方向を眺めると、わが打ち越え来たる山並み。
東方向には和束川。和束川に沿っている道は、府道5号線。これを左に行くとやがて国道307号に合流し、信楽へと行ける。遠山はるか東に行けば伊賀上野、芭蕉さんの生地である。しかし、今日の銀輪はここまで、府道5号を右に取って和束川沿いに下流へと下ります。
安積皇子にお別れし、白栖橋で和束川を渡る。
白栖橋交差点を右折、府道5号線を下る。昔、父と和束へとやって来た時は、恭仁京跡から和束川沿いにこの道を時々は車を避けて脇道を使いながらやって来たのであれば、今回はそれを逆に辿ることとなる。
では、もみぢ見つつや、いざ帰らなむ。
亡き父と 来し道逆に 辿りつつ 和束杣道 われは帰らな (偐家持)
字数制限です。今日はここまでとします。( つづく )
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