(承前) <1月10日(2)>
ホテルに送って置いた自転車・トレンクルで出発したのは12時40分頃。ホテルに来る前に通った「御前湯」の前にあった夏目漱石の句碑には「温泉のまちや踊ると見えてさんざめく」とあったが、通りに人影は殆ど無い。
ホテル・大丸別荘の前にあったのは三条実美の歌碑でした。先の記事で紹介した大伴旅人の歌も「あしたづ」であったが、三条実美のそれも「あしたづ」なのは、旅人の歌が意識にあってのことか。
ゆのはらに あそぶあしたづ こととはむ
なれこそしらめ ちよのいにしへ (三条実美)
しかし、鶴は勿論、人影も殆どない温泉街の道路とあっては、ネットから印刷して持参した地図だけが頼りである。
葦田鶴も 道行く人も 影を無み たよるは地図のみ 銀輪われは (偐家持)
であります。
温泉街の出口の辻には三条西季知の歌碑もありました。尊王攘夷派の公卿たちもこの温泉で心を癒したようでありますな。
けふここに 湯あみをすれば むら肝の
心のあかも 残らざりけり (三条西季知)
しかし、目指すは万葉歌碑なのである。
けふここに 来たるは万葉 歌碑なれば
幕末明治は 用なかりけり (偐家持)
とて、筑紫野市文化会館へと向かう。県道137号沿い、文化会館前に大伴旅人の歌碑があるのだ。
(大伴旅人歌碑)
橘の 花散る里の 霍公鳥
片戀しつつ 鳴く日しぞ多き (大伴旅人 万葉集巻8-1473)
この歌も亡き妻のことを偲んだ歌であるが、これは弔問に都から遣わされた石上堅魚が詠んだ「 霍公鳥 来鳴き響もす 卯の花の 共にや来しと 問はましものを
」に応えた歌である。この堅魚の歌の歌碑もこれから訪ねる天拝湖の畔にある筈。
因みに、喪葬令には「京官三位以上」で祖父母、父母、妻を喪った者には弔問の使いを派遣する、と定められている。大伴旅人はこの時、正三位で、中納言も兼ねていたので「京官の三位以上」に該当したのである。
県道137号をひたすら南へ。九州自動車道の筑紫野ICの下を潜り、川沿いを上流へ。地図では勝手に下り坂と思い込んでいたが実際は上り坂でありました。考えてみればダム湖へ向かうのですから「下り坂」である筈がないのだが、何かの勘違いで思い込んでしまうと、その呪縛からはなかなか解けないもののようです。現地での実際がその間違いをペダルの重みによってしっかりと教えてくれる。
山口小学校、願応寺を過ぎて大きく右にカーブして少しばかり行くとゴルフ場(皐月ゴルフ倶楽部天拝コース)へと右に上る広い坂道に出る。これを上る。かなりきつい。何とか上り切った処にあった歌碑は沙弥満誓のそれ。
しらぬひ 筑紫の綿は 身につけて
いまだは著
(き)
ねど 暖かに見ゆ (沙弥満誓 万葉集巻3-336)
歌碑の前にはこのようなダム湖が広がっていて、頗る眺めがよろしい。
遠く遥かに見えているのが大宰府政庁北側の大城山(大野山)であろうか。
湖岸周回道路を奥へと行くと筑紫野市総合公園がある。
その途中にある歌碑がこれ。文化会館前にあった大伴旅人歌碑の処で申し上げた歌碑がこれである。万葉集左注には「右は、神亀五年戊辰、大宰帥大伴卿の妻大伴郎女、病に遇ひて長逝
(みまか)
りき。時に勅して式部大輔石上朝臣堅魚をして大宰府に遣はし、喪を弔らひ、あはせて物を賜はしめたまひき。その事既に畢りて、驛使と府の諸卿大夫等と共に記夷城
(きのき)
に登りて、望遊せ
し日に、乃
(すなは)
ちこの歌を作りき。」とある。
(注)記夷城=大城山(別名大野山)。
大宰府政庁跡北側の山・四王寺山の最高点のある中心峰。
ほととぎす 来鳴きとよもす 卯の花の
ともにや来しと 問はましものを (石上堅魚 万葉集巻8-1472)
卯の花が咲くと同時にホトトギスは鳴くものと考えられていた。ホトトギスを旅人に、卯の花を亡妻になぞらえている。
ホトトギスの鳴き声は聞くべくもないが、歌碑の真近くの湖面には水鳥が居るのか、キュ~イ、キュ~イという高い鳴き声と共にバシャバシャという水音がする。いかなる鳥かと木立の間から下の水面を覗き見るが枝や葉に遮られてよくは見えない。
歌碑の場所から見ると奥の公園が一望。何やら楽しげな遊具もあるようだが、万葉とは無縁なれば、今回はパスして、県道137号へと引き返す。奥に見えている山は菅原道真が山頂で祈りを捧げたという天拝山であろう。
本日はここまでとします。( つづく )
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