< 承前 >
今回のシリーズ記事に掲載の写真は、デジカメのオート撮影設定に間違いがあったらしく、殆どの写真がその周辺部分がぼやけるという写り方になっていました。パソコンに取り込んでから、このミスに気付きましたが、時既に遅し。トリミングなどの編集によって何とか誤魔化すものの、それも限界、些かお見苦しい点のあることお赦し下さいませ。
「荒城の愚痴」
夏朦朧の 写真撮り
めぐる回りの 影ぼやけ
うつしてのちは 手遅れと
ああ、銀輪の 夜半の愚痴
さて、前回は倉橋山の歌碑の処で終わりました。
今日は愈々倉橋溜池です。
倉橋池は溜池とは言うものの、ちょっとしたダム湖。周囲にめぐらされた遊歩道を行くと湖畔の散歩さながらの風情である。道の辺には薊も咲いている。みなもを渡る風も心地よい。
上下の写真は池の南岸から撮ったもの。遠景の山は三輪山から続く初瀬の山々である。左端の丸みを帯びた峰が三輪山である。
記憶が曖昧で定かではないが「桜広場」という名であったか、芝生広場の一角に万葉歌碑がありました。
大君は 神にしませば 真木の立つ 荒山中に 海をなすかも
(柿本人麻呂 万葉集巻3-241)
この歌は長皇子(天武天皇の皇子、文屋氏の祖)が猟路
(かりぢ)
の池に出遊した時、これにつき従った人麻呂が作った長歌(万葉集巻3-239)の反歌(或る本の反歌)である。
猟路の池については、桜井市鹿路説や榛原の芳野川と宇陀川との合流点付近説などあって何処とも定まらないが、こうして倉橋池の畔にこの歌碑を置いてみると、いかにもという感じである。正本の方のもう一つの反歌はこれである。
ひさかたの 天行く月を 網に刺し わが大君は 蓋
(きぬがさ)
にせり
(同3-240)
山中に海を造るのもすごいが、月を網で捕まえて傘にしてしまうというのはもっとすごいですな(笑)。人麻呂流誇大表現です。月を日傘にすれば、それは日食ではないの、とヤカモチ独り言です。
ダムを越えて北岸側に渡ると池が大きく湾入した先に芝生広場が設けられていて、トンボ池広場とか野鳥の森広場などと名付けられている。その一つのトンボ池広場でお弁当タイムとしたのですが、これは先に紹介済みです。 <参考>「 トンボ池の蝶 」 2015.5.26.
倉橋池の遊歩道はぐるり一周で約4kmらしいが殆ど人に出会わない。この日池で出会ったと言うか見かけたのは男性4名、女性1名の計5名。何れも一人歩きの方でした。
池の畔のあづま屋で水分補給の後、下って来た坂道を上り、県道37号に戻る。県道を来た方向に少し戻って最初の辻を左(南)に入る。細い下り坂。崇峻天皇陵の前に出る。
崇峻は第32代天皇。欽明天皇の第12皇子。母は蘇我稲目の娘の小姉君。蘇我馬子も稲目の息子であるから、崇峻は馬子の甥になる。馬子の推挙によって天皇となるが、馬子との関係が悪化し、馬子の命を受けた東漢駒によって暗殺されてしまうという天皇。
最近は、崇峻天皇陵はここではなく、倉橋池の北東にある天王山古墳だとする説が有力らしいが、今回は天王山古墳は(更に上なので)パス、宮内庁説に従い、坂を下ればいいだけのコチラの御陵だけに致しました。
崇峻天皇陵を出て、寺川を渡り(この日はこれで3回寺川を渡ったことになる。)、広い舗装道路の坂道の上りに取りかかる。今井谷への道。これが何とも急勾配、途中でギブアップ、押して上る。少し勾配が緩やかになった辺りから再びライド・オン。ようやくにして峠越えとなる高みに到着である。遠く金剛山が見えている。
少し下った処で三叉路に出る。高家
(たいえ)
春日神社の境内に万葉歌碑がある筈と思い込んでいたので、左折して、急坂をまたしても上る。これも早々にギブアップして手押しである。前屈みで丁度良い位の急勾配であるからとても乗っては無理である。銀輪家持も銀輪を杖代わりにして・・という次第。
ところが、歌碑が見当らない。周辺を少し歩いてみたが分からない。
目指した歌碑は此の歌の歌碑であったのだが、見つからないものは仕方がない。諦めて坂を下る。急降下です。
ぬば玉の 夜霧ぞ立てる 衣手の 高屋の上に たなびくまでに
(舎人皇子 万葉集巻9-1706)
もとの三叉路に戻る。ここからは次の目的地・山田寺跡へは坂を下るだけ。しかし、キリがいいので、本日はここまで。続きは明日とします。(つづく)
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