昨日、友人の家近氏から絵が届きました。
先月21日に同氏の個展にお伺いしたことは、同22日の日記でご紹介申し上げましたが、その中の作品から1点を適当に選んで送ったから、貰って下さい、というお電話が同氏からあり、それを追いかけるようにして、額装された絵が届きました。思いも掛けぬプレゼントであり、嬉しい限りであります。
額装のままでは、ガラスに電灯や室内の景色が映って絵がうまく撮影できない。ということで、額から絵を取り出して撮影しました。カンバスの裏面には、「〇〇兄へ 2016年10月 家近健二」という、同氏独特の特長のある字体の絵筆による文字が記載されていました。
梱包材の段ボール箱には「玉子と気球」と書かれていましたから、この作品のタイトルは「玉子と気球」なのでしょう。玉子だからニワトリの卵ということになるが、このタイトルは見たままそのもの。この絵によって作者が表現しようとしたもの、或は伝えようとしたものや意図したものは、このタイトルでは何とも定め難い。それは見る側で如何様にも解釈してくれ、ということであるのでしょうか。
音楽について、言葉で説明できるものなら、それを曲にする必要はない、とどなたかが仰っていましたが、それは絵画についても当てはまるでしょう。いくつかの小説や劇作や詩歌など言葉によって紡がれる文学作品に於いてもそれは当てはまるかも知れない。
イメージの世界、夢の世界。それらについて言葉で説明しようとすればするほど、その説明からすべり落ちるものがぽろぽろと生じてしまう。説明することによって、当初のイメージとまるで違ったものになってしまうということはよくあること。
絵から受けるイメージや情動も亦同じであります。
家近氏は、小生のお礼の電話を差し上げた折の会話の中で「僕が描こうとした意図と僕の絵を見ての一般の人の受け取り方、理解の仕方が、少しずれていると言うか、食い違いがある。貴兄なら僕の意図を正しく理解してくれるのではないかと思ったので・・。」という何とも重たいボールを投げて来られました。
作者の意図や狙いを受け手側が正しく受け止め、十全に理解することなど、土台無理なのであるから、上のような齟齬が生じるのは必然的なこと。作品は発表されたその瞬間から、作者の意図とはかかわりなく受け手側の解釈や理解・評価の中を一人歩きするものであるのだから、小生だって自分勝手に解釈し、イメージし、理解したり、理解できなかったりするしかないのである。氏の価値観や思想的なことは小生も共鳴する部分が多く、その人となりもよく存じ上げているから、妙な偏見を持って作品を見ることはない、という意味での上の言葉であるのなら、有難く承って置くというものではあるが(笑)。さりながら、氏の絵画やそのモチーフなどについて、氏からお話をお聞きしたこともなく、そのような会話を交わした記憶もない上に、絵画については全くの素人の小生。絵の理解などとは対極の位置に居り、「吾事に非ず」なのである。
そんな訳であるから、この「玉子と気球」、作者の意図や狙いは、ありていに言えば、小生にもよくは分からないのである(笑)。地上にある玉子と天空へと向かう気球、であるから、玉子は「誕生」乃至は「誕生以前」であり、気球は「死」乃至は「復活」でもあるか、或は、玉子は閉じ込められた思念で、気球は解放された思念、などとイメージを膨らませるしかないのであります。
赤い玉子。内側から赤々と輝き始めている玉子。これを見ていて安倍公房の「赤い繭」という作品がかもすイメージとも重なりましたが、それは赤い玉子と赤い繭という類似に過ぎない単純なイメージ連合。
<参考>安倍公房「 赤い繭
」
繭は蚕が蛾に変身するための第二の卵であるのだが、「赤い繭」のそれは「おれ」という男が足先から糸を出してほどけ出し、「おれ」の消滅と引き換えにその糸が紡いだ繭にて、繭が完成した時には、主体である「おれ」がもういない、という世界。蛾にも蝶にもならない、静けさだけがある終末の世界。
赤い繭が「空っぽな赤さ」であるなら、この玉子はそれとは反対の「充満する赤さ」である。どくどくと脈打つ命の赤さ、まだ何になるとも自身にも分らぬままに、怒りにも似た何かを、或は怒りや悲しみや喜びや希望や絶望やらが未分化のまま絡み合った何とも名指し難い何かを充満させている赤さである。背後の気球が白く軽やかなのと好対照になっている。この絵では「おれ」は気球に乗って、その何とも名指し難いナニモノかの誕生を眺めているのでもあるか。
これ以上、勝手なことをほざいていては、ヤカモチお前もか、と氏に言われそうですから、もう止めて置きます。
一つの絵を見ても、人それぞれにどう見えるかは、人それぞれでしかないし、同じ人でも見る時間や心の在り様が違っていると、違って見えるというものでもある。例えば、この絵の写真をPCの編集機能を使って編集すると下のようになるが、人も亦、自身の脳の中で、このような編集をして、全てのものを自身の見たいように見ているのではないでしょうか。だからこそ、人は互いに話し合う必要があり、互いの違いを認め合う必要があるとも言えるのであるが。
いつであったか、ブロ友のビッグジョン氏が「断定的な物言いは差し控えるように努めている。」というようなことをブログに書いて居られましたが、けだし、達人の言であります。小生もかくありたきものと・・。
さて、この玉子、我が家のどの部屋に飾ろうか。
<参考> 生前葬と言う名の個展ーー家近健二個展 2016.9.22.
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