今月末に友人4人とのウオークを予定しているが、昨日12日にそのコースを下見して来ました。
コースはJR王寺駅前出発、三室山→龍田神社→藤ノ木古墳→法隆寺→中宮寺宮墓→法輪寺→法起寺→古池→九頭上池→甲斐神社→新木山古墳→大納言塚→永慶寺→郡山城→植木八幡神社→近鉄大和郡山駅・JR大和郡山駅(以下はオプションコース、西の市跡→薬師寺→唐招提寺→平城宮趾→近鉄新大宮駅・JR奈良駅)
メンバーは昨年3月10日に飯盛山に登った5人組の鯨麻呂、草麻呂、蝶麻呂、健麻呂各氏とヤカモチである。
<参考> 野崎観音から飯盛山、四条畷神社へ
2016.3.10.
コースは鯨麻呂氏提案の原案にヤカモチが修正・付加などして作りました。原案は王寺駅出発して平城宮趾までというものであったが、体力的にはともかく時間的に無理ではないかと思い、大和郡山から先はオプションとしました。
5名のうち3名は、近江八幡や大津や宝塚などの遠方から来られるので、集合時間も午前11時と遅い時間にならざるを得ない。ということで、大和郡山駅解散が妥当ではないかと考えた次第。果たして、下見で歩いてみてそれが正解だと感じました。ヤカモチはこの付近は銀輪散歩で過去にも何度か自転車走行しているが、歩いた場合の「歩程」の程はよくは分からなかったのである。余程の速足とし、立ち寄り先での時間も極力切り詰めるなどすれば不可能ではないだろうが、そのような強行軍を決行すべき如何なる理由も存在しない(笑)。
近鉄王寺駅で下車し、JR王寺駅改札前から表通りへ出る辺りで、或る友人に電話し、話をしながら歩いていて、ふと反対向きに歩いていることに気付く。表通りに出た処で右折しなければならないのに、左折してしまったよう。引き返す。出だしから躓いてしまう何とも頼りない下見歩きであるが、ともかくも昭和橋で大和川を渡る。
空は雲ひとつない快晴にて、幾筋かの飛行機雲の帯があるばかり。見上げていると、銀色の雲を吐き出しつつ旅客機が今まさに1機西へと飛んで行く処であった。
大和川に合流する竜田川に沿って上流へと行く。
岸辺の桜並木の蕾はまだ固いまま。下掲右写真の左に見えているのが最初の目的地、三室山である。右奥に見えているのは矢田丘陵。中央奥には遠く生駒山も見えている。
三室山は桜の木で覆われている。竜田と言えば「もみぢ」であるが、春も桜の花が目を楽しませてくれる。31日では満開とは参らぬことでしょうが、花見を楽しめるかもということで、予定では此処で「お弁当タイム」としている。
昨日の三室山の桜は上掲右写真のように未だ睡眠中の状態。そんな中で1本の白梅の木だけがひとり気を吐いていました(下掲写真)。
三室山から竜田川沿いの公園の道を行く。地元の「竜田のもみぢを守る会」で植樹されたのであろう楓の木が沢山ある中を行く。
竜田大橋で竜田川とお別れし、龍田神社へと向かう。
龍田神社は法隆寺の鎮守社として創建された古社である。
(能楽・金剛流発祥の地碑) (同・説明碑)
(龍田神社の梅) (奈良街道と当麻街道)
龍田神社を出て東へ旧街道を行く。国道25号に合流した先の斑鳩町役場の前で左折し北へと進むと藤ノ木古墳である。歩いていると後ろからやって来たMTBの男性が追い越して行った。銀輪家持の血が騒ぐが、今日は徒歩、如何ともし難い。
緩やかな上り坂であるが、先程のMTB男性が自転車を押して歩いている。長距離を走って来られたのだろうか、左程の坂とも見えない上り坂でギブアップされた模様。男性に少し遅れて小生も藤ノ木古墳前に到着。「ああ、疲れた」と言いながらベンチに座り込んだ男性が画面に入らぬようにアングルを調整しながら撮ったものが下の写真です。
藤ノ木古墳前から東に行くと法隆寺山門前に出る。途中の西里公園の小さな東屋で煙草休憩。
法隆寺前で食事をと考えたが、未だ11時過ぎ。早過ぎるので、山門を潜り、夢殿方向の東門を出て、夢殿の前で左折。中宮寺の裏を通り、出た道を左折し北へ。法輪寺へと向かう。途中、中宮寺宮墓に立ち寄る。
宮内庁が管理している墓地。中宮寺とどういう関係なのかは分からない。6基ある墓石の銘が全て女王であるから、中宮寺の門跡を務められたお方の墓なんだろうか。
成淳女王墓、栄暉女王墓、栄恕女王墓、高栄女王墓、尊覚女王墓、尊智女王墓、後西天皇供養塔などの文字が見える。
(同上)
法輪寺から法起寺へと向かう。
この道は昨年6月27日に若草読書会の仲間、小万知さんとひろみの郎女さん(楽天ブログでは「ひろみちゃん8021」さん)と辿った道でもある。
<参考> 龍田から斑鳩の里へ(その2)
2016.6.28.
法輪寺から法起寺への道の辺には梅の花が盛りでありました。
梅の花 今盛りなり 斑鳩の み寺をつなぐ 道あきらけく (偐家持)
法起寺の北側にある古池は菩薩池とも呼ばれているそうだが、その名で呼ばれる由縁となる伝説がこの池にはあるとのことです(下掲右参照)。
古池を立ち去ろうとしている時に正午を告げるチャイムの音が何処かから流れて来ました。その音の所為でもないが、空腹を覚えたので、何処かで昼食を、と思い付いたものの、そのような店が見当たらない。天気もよしということで、通りかかったファミリーマートでお弁当を買って、九頭上池の公園で昼食ということにしました。
九頭上池到着は12時半。池の四周が公園になっている。西岸奥の東屋でお弁当タイム。小生より少し遅れてやって来た若い男性が少し離れたベンチで同じようにお弁当を広げましたが、小生と同じような発想で此処を昼食場所と決めたのでもあるか。
昼食後、煙草を一服つけていると、早々と食事を済ませた男性は、足早に県道9号を東へと去って行きました。
(九頭上池)
県道9号は県道249号の広い通りを渡った先で左にカーブし、北へと向かう。此処から新木山古墳までの間は歩道もなく、車の走行も結構あるので、少し歩きにくい道となる。
中間地点に甲斐神社という小さな神社がある。何気なく立ち寄ってみたら、何やらお祭りの準備のよう。写真を撮っていると、背後から「2時からです。」という男性の声。振り返ると年配の男性。「何処から来られました?」「大阪からです。」男性は地元の世話役のようなお方なんでしょう。小生が写真を撮っているのを見て、祭りを見に来たものと誤解されたよう。祭りを見に来たのではなく通りがかりに寄っただけ、と言うのは何かすまないような気になり、「そうですか。2時からですか。」と話を合わせて置くこととしました。
(甲斐神社) (同・由緒)
由緒書きを見ると、祭神はアメノコヤネノミコト。我が地元の枚岡神社の神様ではないか。そうと知って居れば、大阪というような漠然とした言い方ではなく、同じ神を祀る枚岡神社の近くからやって来ました、と言ったのに、と思ったが「アトの祭」である(笑)。拝殿前に敷かれたブルーシートの上で稚児舞が奉納されるよう。「子供の数が減って来て、今年舞うのは女の子一人だけになってしまった。去年は3人だったが。」と男性。地域の祭も少子化や人口流出でその運営が危機に瀕していると聞くが、この集落でも同様のことが起きているよう。
コースの下見というミッションが無ければ、午後2時まで待って、舞いを見て行くのだが、そうもならぬと、先へと進む。
甲斐神社から10分程度で新木山古墳である。
陵墓参考地として宮内庁の管理下にある古墳。被葬者は、藤原良継の正室にして、桓武天皇の皇后・藤原乙牟漏の生母でもある、安倍古美奈の可能性があるとされたが、2011年の発掘調査で出土の埴輪片から、この古墳は5世紀前半築造の可能性が高まっていて、安倍古美奈が被葬者であるという論は成立しないと考えられる。
新木山古墳前の交差点で県道9号と別れて住宅街の道を北進。田北病院の手前の路地を西に入ると大納言塚である。
大納言塚というのは、豊臣秀吉の弟秀長の墓所である。大納言秀長が郡山城にて病没すると、この地に葬り、菩提寺大光院が創建されたが、豊臣氏滅亡後、大光院は京都に移転、秀長の位牌、墓所は春岳院(大和郡山市中新町所在)に託される。その後、墓所が荒廃したため、春岳院の僧と郡山の町衆によって、安永6年(1777年)に復興されたのが、現在の大納言塚とのこと。
豊臣秀長の菩提寺・春岳院は近鉄大和郡山駅の北東500m位の位置にある。今回のウオークの立ち寄り予定先には入れていない。皆さんが立ち寄ろうというのであれば立ち寄るかも知れませんが、下見はパスです。
大納言塚から郡山城へと向かう。途中の郡山城の門を移築して山門にしているという永慶寺があるので、それを見て行くこととする。
永慶寺は、柳澤吉保が甲府城主となった折に、一族の菩提寺として甲府に創建した寺。
享保9年(1724年)二代目吉里の時に大和郡山に国替えとなったことに伴い、永慶寺も甲府から大和郡山に移転して来た。
境内の本堂脇に高浜虚子の句碑があるので見て行く。
村雨や車無ければ歩くまで 虚子
大正6年に虚子が当寺にて作った句とのことである。
春うららついでに見て来よ虚子の句碑 (筆蕪蕉)
昨日、筆蕪蕉が当寺にて作った句とのことである(笑)。
漸くに郡山城である。既に午後2時を過ぎていましたから、王寺駅前を出発して4時間半程度の時間が経過していました。城内をぐるり回るだけでも20分位は必要であり、城の北隣の植槻八幡神社に立ち寄ると更に20分程度を要することになるから、当日の11時集合という時刻に当てはめると、大和郡山出発は早くても午後4時過ぎになってしまう。やはり、平城宮趾まで足を伸ばすオプション案は無理と判断。
下見も、郡山城をひとめぐりして打ち切ることとしました。
天守台とその周辺は工事中にて立ち入り禁止となっている。
藩祖柳澤吉保を祀る柳澤神社の脇から城趾会館へと回る。
城趾会館は図書館として利用されているよう。前の広場は枝垂れ梅が咲き匂い華やいだ雰囲気である。
会館の脇には、観阿弥の供養塔、許六の句碑や小野十三郎の詩碑。
森川許六は彦根藩士にて芭蕉の弟子でもある。
菜の花の 中に城あり 郡山 (許六)
筆蕪蕉も1句したため候。
城の内に 許六の句碑あり 郡山 (筆蕪蕉)
筆蕪蕉は、その名の通り不精者ゆえ、季語を入れ忘れました。
季語を要しない自由律俳句ということにして置きます。
城の北側にある植槻八幡神社は、平城京の裏鬼門(南西)に位置し、平城遷都に際して、都の地鎮の要とされた古社であり、万葉集巻13-3324の長歌(挽歌)にも登場する地名であるが、それだけのことなので、当日立ち寄るかどうかは不明。城を出て10分位の距離なので下見はパスし、近鉄大和郡山駅へと向かう。途中、喫茶店でもあれば珈琲をと思ったが、見当たらぬままに駅に到着。そのまま電車に乗り、帰宅しました。
以上で、下見ウオーク終了。歩くのも疲れるが、ブログ記事にするのもそれに劣らず疲れますな(笑)。
(注)写真はクリックしてフォト蔵写真の画面に入っていただき、更にその写真を
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