記事が前後しますが、18日の七宮めぐりの記事の余録です。
四天王寺七宮めぐりの途中に立ち寄ったその他の場所や掲載漏れとなった写真などをご紹介して置きます。
<参考> 四天王寺七宮めぐり
2017.4.18.
先ずは、大江神社境内の芭蕉などの句碑です。この句碑の写真は過去記事で紹介済みであると思い込み、掲載しなかったのですが、その過去記事では、句碑のことに触れた文章はあるものの、写真はピンボケで掲載できなかった、と記述していることが判明。ということで、今回撮った写真を掲載して置こうという次第。
あかあかと 日はつれなくも 秋の風 (松尾芭蕉)
よる夜中 見ても桜は 起きて居る (松井三津人)
綱の子の 名にやあるらん 杜宇
(ほととぎす)
(松井千季)
春風の 夜は嵐に 敷れ鳧
(けり)
(加藤暁臺)
この句碑は松井三津人が文化14年(1817年)に建立したものらしいが、大坂入りした芭蕉が元禄7年(1694年)9月26日にこの神社の隣にあった料亭浮瀬にて句会を開いたことに因んでのものとのこと。
しかし、芭蕉の「あかあかと・・」の句は、おくのほそ道の金沢での句会で披露された句にて、此処で披露されたものかどうかは不明。夕陽ヶ丘の地ということで句碑建立者がこの句が相応しかろうと選んだに過ぎないのかも。でなければ、芭蕉さんが手抜きをして金沢での句を二番煎じしたことになる。
そもそも、松井三津人と芭蕉とは100年近い年代のずれがあるから、此処に記載の句は、浮瀬での句会の句とは無関係のものなんだろう。
千季は三津人の父で、その友人が加藤暁臺。暁臺は蕉門であったと説明しているサイトもあるから、三津人が任意に選んだ句を自身の句と並べてみたまでということかも。
それよりも小生の目を引いたのは「元禄7年9月9日に大坂入りし」の部分。芭蕉のこの折の句に「菊の香にくらがり登る節句かな」というのがあり、その句碑がわが家近くの枚岡公園のくらがり峠へと続く坂道にあるからである。この句碑のことは過去の記事
(暗 (くらがり)
峠 2009.1.29.
)
にも紹介しているが、この旅は芭蕉最後の旅となり、体調を崩し、病に倒れ「旅に病で夢は枯野をかけ廻る」の病中吟を最後に10月12日に亡くなっているのである。享年51歳。遺言により、遺骸は大津の義仲寺に葬られる。
<参考> 行く夏も近江の人と惜しむべき
2012.8.30.
義仲寺余聞-木曽殿と背中合わせの暑さかな
2012.8.31.
堀越神社の裏手は茶臼山である。
標高26mの名山。
七宮めぐりのオマケで登ってみました。
茶臼山という名の山は全国に200以上もあるらしいから、茶臼山と言っただけでは山を特定したことにはならない。此処で言う茶臼山は大阪5低山の一つ、天王寺区茶臼山町にある茶臼山古墳である。
<参考> 茶臼山・Wikipedia
茶臼山古墳・Wikipedia
大阪再発見・大阪市内の山
因みに、大阪5低山とは天保山山岳会が選定した次の山とのこと。
天保山、御勝山(岡山)、聖天山、帝塚山、茶臼山
頂上には、昨年の大河ドラマ「真田丸」のこともあってか、それとも1615年の大坂夏の陣から400年となる2015年に向けて一昨年にでも設置されたものか、真田幸村についてのパネル展示がなされていました。長らく立ち寄ったこともなく居ましたので、気が付かずに居ました。
<参考> 大坂の陣・Wikipedia
次は、四天王寺庚申堂。
四天王寺の南門から200m余南に入った処にある。七宮のうち、痕跡をとどめないという土塔宮(土塔神社)は、どの辺りにあったものかと適当に南門の南側を廻っていて見つけたもの。
土塔神社がこの辺りにあったとしてもおかしくはない位置取りではある。
<参考> 四天王寺庚申堂・OSAKAINFO
七宮ならぬ七福神の像が境内にありました。
そして、久保神社と清壽院との間にあったのがこれ。
関帝廟。大阪にもこのようなものがあったのですな。
<参考> 関帝廟・Wikipedia
次は五條宮。四天王寺の北東隅にある。
こちらは、関羽ではなく敏達天皇を祀る。
<参考> 五條宮・Wikipedia
敏達天皇は第30代天皇。聖徳太子の父親・用明天皇とは異母兄弟になるから、聖徳太子から見れば伯父ということになる。皇后・額田部皇女が後に最初の女帝となる推古天皇である。五條宮は過去記事でも紹介しているので、それもご参照下さい。
<参考> 銀輪散歩・住吉公園まで
2011.10.17.
銀輪散歩で訪ねたことがある敏達天皇関連の場所と言えば、今思い付くのは次の二つだろうか。
敏達天皇陵
太子町銀輪散歩(その3)
2010.3.10.
訳語田幸玉宮
磐余銀輪散歩(5)・走り過ぎて足に来るらし
2012.10.14.
最後は、上宮之趾碑のある場所の南側にて見つけた小さな寺。
蔵鷺庵という石漂と永富獨嘯庵國手墓所という石漂が目に入ったので立ち寄ってみた。蔵鷺庵も永富獨嘯庵國手なる人物のことも存じ上げぬことにて、ネット検索してみたら、「 上六うえいくネット・蔵鷺庵
」というのがありましたので、これをご覧下さい。
ネット検索が面倒というお方のために、その一部をコピーして以下に貼り付けて置きます。
上宮高校のほど近く、路地を少し入ったところに小さなお寺があります。その歴史は古く、聖徳太子の祖父である欽明天皇の御代まで遡ります。四天王寺を鎮守する七宮のうち、鬼門にあたる北東の守りとされたのが上之宮神社で、ここで仏事を行う僧の住む坊が春海庵、すなわち蔵鷺庵の前身です。春海庵は長い間無住寺になっていましたが、 1691 年、阿波の藩主蜂須賀の家臣稲田稙栄の奥方が開基となり、天桂傳尊禅師が曹洞宗の寺院として再興されました。
蔵鷺庵には、全国にその名を知られる一人の人物が眠っています。名医として漢方医学や西洋医学に優れ、また日本で始めて本格的な白砂糖の製糖事業を始めた永富独嘯庵(どくしょうあん)です。
1732
年、現在の山口県下関に生まれた独嘯庵は、幼年期より神童として知られ、後に江戸へ出て儒学の他に医術を学びました。 35
年の短い生涯の間、江戸と長州を往来する際、何度か大坂に立ち寄りました。
実は、独嘯庵と蔵鷺庵の関係について、詳しいことは分かっていません。しかし、没後かなりの時間が経って墓が建てられたことから、深い縁があったものと考えられます。
墓石は長年の風雪に晒され表面が浸食されたため、平成 4 年に再建されました。その際、旧墓石は剥落部分が多かったため、旧拓本の写真を原寸大に拡大して、それをもとに忠実に模彫、複製され、旧墓石は現在の墓石の下に安置されました。
現在の天王寺区には江戸後期から昭和にかけて、多くの文人墨客が集まってきました。蔵鷺庵は織田作之助の小説「夫婦善哉」にも登場しており、横山大観の友人でもある北野恒富も寄宿していました。(大正 7
年~ 2
年)。
※恒富が横山大観に送った関東大震災の見舞状が実在し、二人の交流を示す貴重な資料とされています。
以上、四天王寺七宮めぐりのオマケ記事でありました。
自宅療養記・花園中央公園、ライフ新石切店 2025.11.07 コメント(2)
自宅療養記・ホルター心電図と枚岡神社な… 2025.11.04 コメント(2)
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