( 承前 )
4月28日の銀輪散歩では宿院交差点で右折し、旧堺燈台へと向かったのですが、同19日の銀輪散歩は開口神社から堺市役所へと向かいました。
すると堺市合同庁舎前に人だかりがあってブラスバンドの音楽。何事かと覗いてみたら、特殊詐欺・ひったくり被害防止キャンペーンの催しでありました。
最近は、こういう催し物にはゆるキャラマスコットの着ぐるみが付き物のようですね。
堺市役所庁舎は、この堺市合同庁舎の隣にある。
21階展望室は無料開放。初めて上ってみた。
巨大な仁徳天皇陵がどんな感じで見えるものか試してみたかったのであるが、21階(94.6m)程度の高さでは、仁徳さんは横顔しか見せてくれませんでした。よって、この企画は失敗。あべのハルカスくらいの高さでないと仁徳陵は太刀打ちできないようです。
地図で見ると、市役所ビルのある位置から仁徳陵のこちら側外周までの距離は約900m、反対側外周までの距離は約1500m。ということは、仁徳陵のこちら側外周から反対側外周までの長さが600mであり、反対側外周から仁徳陵中央部までの長さは300mということになる。
で、市役所ビルの地点(A点)にビルの高さと同じ長さの縦線(垂線・高さ)を引き、市役所ビルから反対側外周地点(D点)まで横線を引いて直角三角形を描き、こちら側外周の地点(B点)に縦線(垂線)を1本引き、陵中央部の地点(C点)にもう1本縦線(垂線)を引くと、横線が1500m、600m、300mという相似形の直角三角形が三つできる。
A地点の市役所ビルの高さは、B地点、C地点では如何なる高さに相当するかが、この相似形三角形から算出できる。A地点での高さを100mとすると、B地点では100の15分の6で40mとなり、C地点では100の15分の3で20mとなる。
通常、御陵の中央部が一番高いと思われるので、中央部C地点での木々の高さ以上の高さがなければ、反対側外周までは見えないことになるところ、この場合はC地点での高さは20mであるから、中央部の墳丘や墳丘上の木々の高さよりも低いことになり、反対側外周部分やその部分の樹木は見えないこととなる。よって、100mの倍200m程度の高さが必要なのではないかと推量される。
現実の市役所ビルは21階建で高さは94.6m。展望ロビーからの見学者の視線の高さはそれよりも低くなるからせいぜい90m程度か。その結果が下の写真のような眺めという訳である。
写真中央が仁徳天皇陵。大仙公園を挟んで右奥の小高い墳丘が履中天皇陵。左に見える線路は南海高野線である。奥には金剛・葛城の山並。南東方向の眺望である。
上の写真は、西方向の眺め。中央に海が見えているが、其処にあるのが大浜公園と旧堺燈台である。この後、立ち寄ります。
子供の頃は大浜海水浴場で、海水浴もできたのであったが、今は埋め立てられてコンビナートになっている。
北方向は「来た方向」でもある。中央奥にあべのハルカスがかすかに見えている。あの下から自転車で走って来たのかと思うとある種の感慨も。ハルカスに向かって一筋に延びている道が阿倍野筋である。堺市役所庁舎も阿倍野筋に面して建っているのでありました。
展望室には喫茶もある。マンゴーのパフェを注文。しかし、館内は禁煙であるから長居は無用。地上に戻り、阿倍野筋を北へと戻ったのが19日の銀輪コース。28日のそれは、冒頭でも述べた通り、市役所には向かわず、宿院交差点から西へ、つまり海側へと走り、大浜公園の先の旧堺燈台へと向かったのでありました。
旧堺燈台は1877年(明治10年)に完成、1968年(昭和43年)1月29日まで現役であった、木製洋式灯台で、我が国最古の木製洋式灯台の一つとして、国の史蹟に指定されているとのこと。
(旧堺燈台)<参考> 旧堺燈台・Wikipedia
上の写真の左隅にも写っていますが、男性が一人、海の方を眺めて居られました。何となく哀愁を漂わせて・・と見えたのは、海辺と後ろ姿の所為がなせるワザか。
灯台の写真を撮り終えて、男性を見やると未だ同じ姿勢のまま海を見て居られる。少し離れた処に、ママチャリが一台。前カゴにザックが乗っかっている。この男性のものだろう。近寄って声を掛けてみた。「なかなかいいところですね。」などと挨拶代わりの短い会話。「では、お先に失礼します。」と小生はMTBで大浜公園正面ゲートの方へと引き返す。
大浜公園へと渡る横断歩道で信号待ちをしていると、先程の男性が自転車で追いついて来られました。「やあ、・・」と笑顔の交換。信号が青になると「お先に」と今度は男性が先に行かれ、大浜公園の正面ゲートの前の道を南へと走り去って行かれました。
小生は、大浜公園の中を暫く走ってから、東へと戻り、千利休屋敷跡へと向かう。こちらへ来る前に、屋敷の前まで行ってみたのであったが、中学生の遠足か何かなんだろう。大勢の生徒がその前に列をなしていて入場待ちであった。これでは、写真に撮れそうもないと、先に灯台へと向かったのでありました。
今度は、団体さんの姿はなく二人連れの見学者が二組居るだけ。彼らの姿が入らぬよう角度をずらして撮影したのが下の写真です。
中に入るとボランティアガイドの方が二人居られました。その方の説明では、下の写真の井戸があるのみで荒地になっていたのを、道の向かいの「さかい利晶の杜」という施設の建設に合わせて、裏千家がこれを買取り、今のように整備したのだそうな。
19日の銀輪散歩では、さかい利晶の杜に入場してざっと見て回ったので、もう少し注意力があれば、屋敷跡に気が付いた筈なのだが、何処でだか見かけた略地図で、宿院交差点と宿院東交差点を取り違えたようで、東交差点の西側の宿院頓宮の近くにあると思い込んでしまったものだから、さかい利晶の杜を出ると脇目もふらず、フェニックス通りを東へと自転車を進めてしまったという次第。間違いは思い込みによって生じるでありました。
「さかい利晶の杜」は、1階が千利休に関連する展示室、2階が与謝野晶子に関連する展示室になっている。「さかい利晶の杜」については、下記<参考>をクリックしてご覧下さい。
<参考> さかい利晶の杜
さて、利休さんにお別れして、阪堺線の走る紀州街道に戻り、南へ。石津川畔までは2km余である。最後の目的地、石津太神社と太陽橋南詰の北畠顕家墓へと向かう。
石津太神社に到着。鳥居前に「五色の石」の碑がありました。
これを写真に撮って居ると、背後から来られたのは、何んとあの旧堺燈台でお会いした男性。「また、お会いしましたね。」と笑い合う。男性はこの近くの何処かで何やらを買い物しての帰りなのだと仰っていましたが、それが何であるのかはよく聞き取れませんでした。小生が、東大阪の石切方面からやって来たのだということを知って、驚いて居られました。まあ、自転車族は別として、移動手段としての自転車の実用的距離というものを考えれば、常識を超えた阿呆な自転車の乗り方ということになるのでしょうな(笑)。
それにしても、3kmも離れた場所で偶々出会い、別れた人物と再び偶然に出会う確率とはどの程度のものであるのでしょう。
この地下に五色の石が埋まっているそうな。
蛭子命がこの地に漂着し五色の神石を此処に置いたそうな。
石津という地名はこれに由来するとのこと。
この話は石津川を500m程度遡った処にある石津神社を訪ねた際に知った話でもある。石津神社と石津太神社は共に日本最古の戎神社であることを主張しているということも、その折のブログ記事(下記)で紹介しました。
<参考> 銀輪万葉・池上曽根遺跡へ
2017.3.23.
(石津太神社説明板)
<参考> 石津太神社・Wikipedia
石津太神社から紀州街道を更に南へ200mほど行った処が石津川で、其処に架かる橋が太陽橋。太陽橋を渡った処に北畠顕家の供養塔がありました。今一つの顕家墓である。北畠公園の墓然とした立派なものではないが、地元の人々に大事に守られているということが見て取れる墓である。
大型ダンプか何かが当て逃げしたのだろうか、それとも誰か心ない人間が故意に壊したのだろうか。傍らの石漂が一部欠けてしまっている。加えて、中央にひび割れが生じている。 「防犯カメラ作動中」という看板表示がそんな不埒なことも推量させるのであるが、 興醒めの心地こそすれ、である。
(同上)
<参考> 北畠顕家・Wikipedia
石津の戦い・Wikipedia
以上で阿倍野から堺への銀輪散歩は完結です。帰途は中央環状道路に出て、瓜生堂東交差点経由で帰りましたので、阿倍野経由よりも少し遠回りしたことになります。
―完―
<参考>近隣散歩シリーズの過去記事は コチラ
から。
<ご注意>
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