退院しました。
と言っても小生ではなく、愛車のトレンクル君です。
先月26日に京都駅から東大阪市の自宅までこのトレンクル君で走りましたが、帰宅すると前輪のスポークが1本折れてしまっていました。その前にもスポークが折れて修理して貰ったことがあったのですが、この時に自転車屋さんから、全体に弱っていて車輪を取り替えて全部張り直した方がいいかも知れない、と聞いていましたので、先月末に入院させることにしました。
入院に先立つ先月28日の生駒の叔母宅訪問・竹林寺への銀輪散歩は、走行する距離も大したことがないので
(その実は、スポークが折れていることをすっかり忘れていて、そのまま持って来てしまったので、止む無くというものでありました)
、このスポークが折れたままのトレンクルで走行したのでありましたが、トレンクル君には悪いことをしてしまいました(笑)
。
昨日、入院先の自転車屋さんから電話があり、修理が完了したとのことで、本日これを受け取って参ったという次第。トレンクル君の入院は15日間でありましたが、入院・治療費は9000円で大したことではありませんでした。
<参考> 健人会・琵琶湖畔銀輪散歩そして京都駅から自宅まで(前編)
2017.7.26.
同(後編)
2017.7.27.
前輪の車輪を少し幅広の新しいものに取り替えたので以前よりはしっかりしたものになっているという話でしたが、 これによってまた少しばかり重量が増したのではないかと危惧、痛し痒しではある。この自転車、購入時は総重量6.5kgであったが、タイヤの取り換え、チューブも一般的なものへの取り替え、左側のペダルの取り換え、ライトの取り付け、チェーンロックの装備などによって、総重量6.5kgという軽量が売りであったトレンクルも現在は7.5kgから8kg程度になっているのではないかと思う。それはさて置き、何にせよお盆に退院して帰宅できたのは重畳と言うべきものではある。
お盆と言えば、今年のお盆は昨年暮れに亡くなった母の初盆ということになる。それで東京在住の妹が帰阪して来た。昨日はその妹と近所(と言っても石切であるから少し離れているのではあるが)に住んでいるもう一人の下の方の妹との3人でお墓参りをしました。12日には小生が妻と共に墓参して居り、11日には、姪が朝早くにお参りし、少し遅れて堺と生駒の叔母たちがお参りしてと、お墓はこのところ「来客」続きとなったようです。
墓参と言えばいつもの門前の言葉であるが、今月のそれはこうでした。
つらくても おもくても
自分の荷は 自分で背負って
生きさせてもらう
その隣には、「わたしたち一人一人が世界の宝物」という言葉も掲示されていましたが、これは夏休みの時期とて、子ども向けのメッセージでもあるか。
自分の荷は自分で背負って行くしかないのはその通りだが、自分のものでもない荷まで背負って不必要なことで悩んでいたりしないかということも考えてみるべきではあります。何れにせよ、人はその人自身が負える荷以上のものは負えないのだから。
上の写真2枚は12日の墓参の折のもの。昨日14日は曇り空でこのようにも青くはありませんでした。墓参の後3人で瓢箪山の商店街に出て昼食。我が家に引き返し、暫く休憩。ここで妹たちが奈良の燈花会に行きたいと言い出したので、小生も同行。下の妹の車は我が家の近くに停めて、電車で行くことに。午後2時過ぎに家を出る。燈花会の点灯は午後7時とのことで、それまで奈良を散策することに。
近鉄奈良駅から登大路を東大寺方向へ。鴎外の門で鹿さんを撮影。
以前の記事
(下記<参考>を参照)
で紹介済みであるが、森鴎外は1917年12月から亡くなる1923年7月まで帝室博物館総長の任にあり、毎年秋になると正倉院宝庫の開封に立ち会うため奈良に滞在したとのこと。その折には奈良国立博物館の敷地の東北隅のこの地にあった官舎に滞在した。その官舎の門が遺っていて「鴎外の門」と名付けられている。傍らの石碑には鴎外の歌が刻まれている。
<参考> 参道の奥に憶良の歌碑ありて
2014.1.16.
猿の来て 官舎の裏の 大杉は 折れて迹なし 常なき世なり
鹿は鴎外のことなど知ったこっちゃない。
鹿の来て 官舎の跡の 鴎外の 碑の歌知らに 草をはむらむ (鹿家持)
鴎外の ことは存外 鹿言ふに 人多過ぎの 燈花会なりと (鹿家持)
東大寺南大門の手前で吉城川沿いに芝生の広場を通り抜け、春日大社へと向かう。吉城川は立ち入り禁止のロープが張り巡らされていましたが、鹿はこれも知ったこっちゃない。河原に下りて水を飲んでいました。
妹がこれを見て「煎餅をくれる人は居ても、水をくれる人は居ないからね。」と言って笑って居りましたが、いかにもである。
途中で北側参道の中ほどに憶良の歌碑のあったことを思い出し、芝生広場を横切り、北参道へ直進すると、丁度、その歌碑の前に出ました。この歌碑のことは上記<参考>の記事に写真と説明を掲載済みなのでここでは省略します。
万葉植物園の手前で本来の参道に出て奥へ。本殿前を通り、回廊の燈籠と背後の 砂ずりの藤
を見て外へ。
若宮神社へと向かう。
若宮神社から上の禰宜道を抜けて、新薬師寺・白毫寺方面へと向かう。白毫寺の裏門からも入れるかもと、下へ行かず上から回り込もうとしたのが間違いで、昔はなかったような道や道路脇には随分の住宅が建て込んでいるなどの様変わりで、どうやらその道は白毫寺の裏側を大きく迂回している道のよう。で途中で下へと下る道をとり、何んとかという緑地を抜けて、白毫寺の本来の参道に出る。時刻を見ると4時40分位であったろうか。拝観は5時までなので、急いで小生のみ山門へ。山門下で寺の女性の方が立って居られました。未だ大丈夫ですかと申し上げると、15分位なら大丈夫ですとのこと。
急いで拝観の受付を済ませ、先ず犬養先生揮毫の笠金村の万葉歌碑の前へ。この寺が天智天皇の息子で桓武天皇の祖父にあたる志貴皇子の別荘であった地であることや歌碑の説明をして、本堂と宝蔵の仏像を拝観させていただく。
境内は、高円山の西麓の高みにあるので、奈良市街が見渡せる。
正面には生駒山が見えている。
(同上)
<参考> 奈良銀輪散歩(その1)
2009.5.19.
※笠金村歌碑、比売神社、鏡神社などの写真は上の記事に掲載済み。
白毫寺を出て、奈良市街へと高畑の道を引き返す。
能登川を渡り、新薬師寺の前の比売神社では十市皇女のこと、鏡神社では藤原広嗣の乱のことなどを説明しつつ帰る。途中通りかかった民家風の喫茶店で暫し休憩。
喫茶店を出て、鷺池の浮見堂までやってくると、燈花会の点灯を待つひとたちが既に沢山集まって来て居られました。しかし、点灯まではまだ1時間もある。先に夕食を済ませてしまおうと、商店街まで戻る。しかし、どの店もいっぱいで待っている人も居る。並んで待つなど真っ平のヤカモチ、どんどん南へと進む。やがて、見知った眼鏡屋さんの向かいに薬膳料理の店を発見。覗いてみると空席がありそう。そこで薬膳料理をいただくこととする。
夕食を済ませて外に出ると午後7時20分。なら町の路地に並べられた灯りの筒にも既に蝋燭の火が点灯されていて幻想的な雰囲気である。なら町を抜けて猿沢池へ。
既に多勢の人で燈花会は始まっていました。猿沢池を半周して興福寺境内を横断し、登大路から東大寺前の浮雲園地へ。人混みの中をぞろぞろと歩く。
わぎもこが きぬかけやなぎ
みまくほり
いけをめぐりぬ
かささしながら (会津八一)
<追記・歌意>
(采女が身を投げたという猿沢池。彼女が身投げした時に衣を掛けたという柳の木を見たいと思って、池を廻ってみた。傘をさしながら。)
浮見堂の鷺池その他の会場はパスして帰路に。
何年振りかの燈花会でありました。牛に引かれては善光寺であるが、妹らに引かれての燈花会でありました。
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