放り投げた夢の落ちる場所を確かめに行こう(目指せ趣味のエルドラド)

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7号線を北上せよ


東京-青森 日本海側単独自転車紀行 (記録:Tさん)

Prologue 7号線を北上せよ
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 「北上」すべき「1号線」はどこにもある。私にもあれば、そう、あなたにもある。   (『1号線を北上せよ』(沢木耕太郎)より)

 東京から青森まで、自転車で北上しよう。それも、できれば日本海沿いの国道7号線を。最初に何となくそう思ったのは、もう何年も前のことである。

 青森県青森市。新しく拓けて色々と整備が進み、どことなくファッショナブルなイメージさえ漂う北海道の札幌と異なり、日本海側特有の悪天候と積雪量の多さ、恒常的な気温の低さなど、日本の県庁所在地の中で最も気候条件が厳しいといわれる本州北端の街。その一方で、豊かな漁場、八甲田山や岩木山の雄大な山容、一面に広がる津軽平野のリンゴ畑など、厳しくも美しい自然に抱かれた人々の生活と文化が息づく街。過去に登山や山スキーで何度か訪れたことはあるが、その道程は当然高速道路や飛行機などの交通手段に拠ったのであり、東京に住む多くの人々にとってそうであるように、自分にとっても、感覚的には日常生活から分断された遠い土地である。
 それを、日常の生活圏内から交通手段に拠らずに移動し続けることによって、少しでも感覚を近いものにしたい。決して分断された遠方の観光地としてではなく、自分自身の日常と何ら変わることのない、無数の人々の無数の日常の連鎖としてそこにあるという感覚を。

 今回の行為を思い立った理由はこのようなものだっただろうか。いや、しかし、なぜそのようなことに興味をもつのか、そして、なぜ敢えて距離の遠い日本海側を行くのかと問われれば、それはやはり、それが自分にとって「北上すべき1号線」であったからという以外に答えが見つかりそうにない。

 この数年で体も顔もすっかり丸くなった。会社でも、知らないうちに自分より年齢が低い者が増えてきて、仕事や社内的なしきたりを若手に教えるような機会さえ出てきた。何だか最近自分が持っている本来の毒素――本能的に人通りが少ないところを選び、王道的なエリートを嫌い、常に集団の中で低い優先順位に甘んじ――というような自分本来の毒素が、最近どんどん抜けてきているのではないか。そう思ったとき、ふと、この無意味で中途半端な冒険を、今年、いや、今、実行しようという気になった。


Act.1 炎天せまる我と我が影を踏み 
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(9/18(土)浦安-日本橋-熊谷市-前橋市-沼田市 167km)

 「ふと」実行しようと思った以上、準備も万全とはいえない。金曜の午後半日の準備だけでこの長旅に出発してしまった。体力とスタミナさえ大丈夫なら特段入念な準備など要るまいと思ったのだ。
 午前5:00、先ずは国内全ての道の原点、日本橋の道路元標を目指して出発。日本橋は江戸時代の五街道整備の時から全ての街道の起点になっており、今もって「東京○km」というときは、全てこの日本橋を指している。出発地点としてはふさわしいと思う。
 まだ人通りの少ない早朝6:00、日本橋で最初の写真を撮った。各地を示す道標には、恐ろしい数字が並んでいる。仙台○km、大阪○km、下関○km等々。全て数百km単位であり、自転車で移動する距離としてはあまりに現実感がない。もう出発してしまってはいるものの、この時点ではまだ青森に向かうという実感が湧かない。

 日本橋からは国道17号線(旧中山道)を忠実にたどる。東大の赤門や巣鴨のトゲ抜き地蔵など、そうか、こういうものは全て旧街道沿いに築かれていたのかとあらためて気付く。
 浦和を通過するあたりから、時間の経過に伴って日差しが強まり気温も上昇し始めた。暑い。コンクリートの照り返しもきつい。今日から夏の気候が戻ってきているらしく、都市が連なる埼玉県内は景色も単調で、炎天がより厳しく感じられる。群馬県内に入ってようやく緑が増えてくるが、相変わらずの暑さだ。立ち寄るコンビニで買うペットボトルが次々に消費されていく。
 しかし群馬県は自分の出身地でもあり、地理は良く判っている。高崎市は巻いてしまうことにして、県境から一気に前橋市を通過、赤城山麓の利根川右岸を北上。山々が近くなって標高が上がり始める地帯である(綾戸渓谷)。この辺りになってようやく沢筋から涼しい風が感じられ始めた。東京から100km離れた群馬県でも、今や関東平野はすっかり都市化しており、涼風を感じるためには県北部まで来ないとダメなようだ。
 沼田市の河岸段丘の急坂は、この旅で唯一自転車を降りて押してしまった箇所である。やはりあの傾斜は無理だと思う。沼田市の標高は約400m。初日は長距離に加えて結構高度も稼いでいた。


Act.2  お山にのぼりくだり何か落としたやうな
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(9/19(日)沼田市-三国峠-湯沢町-長岡市 133km)

 2日目は今回の旅最大の難所がある。群馬・新潟県境の三国峠。太平洋側と日本海側を隔てる谷川連峰の西端を越える峠である。関越道ができるまで、新潟に至る車道はこの道1本しかなく、夏の海水浴シーズンや冬のスキーシーズンにはひどい渋滞になっていた。それも今は昔の話だ。

 この三国峠には思い出がある。
 子供の頃、家族で湯沢にスキーに出かけることが何年か続いたことがある。「国境の長いトンネルを抜けると雪国だった。夜の底が白くなった。」は、川端康成の『雪国』の冒頭の文章としてあまりに有名だが、鉄道の清水トンネルの1/10の長さしかない国道17号の三国トンネルでは、実際には群馬県内からある程度の雪景色になっており、トンネルを抜けていきなり雪景色になったという記憶はない(その頃はまだ温暖化が進んでいなかったということかもしれない)。ただし、群馬県内の雪の量は大したことはなくて、人里が白く凍てついているという程度の、いわゆる普通の雪景色だった。
 ところがこの三国峠に差し掛かると、そういう「普通の雪景色」とは明らかに異なった光景が出現する。一点の黒い部分もなく完全に白一色で毅然と立ち尽くす厳しい表情の山々。雪煙を巻き上げて朝日に染まる山々の姿は、それが人間の日常とは別の世界に存在することを示しており、日常と非日常を隔てる一つの境界線のように見えた。つまり、子供の頃の自分にとって三国峠とは、これからスキーに向かうという子供心の期待と相俟って、日常の退屈な世界から別の世界へ向けての境界線、いわば夢の峠だったのだ。自分が今山岳会なんぞに入って登山を続けているのも、こういう経験がいくつか積み重なった結果なのだと思う。(※今になって考えると、おそらく仙ノ倉~平標あたりの稜線が見えていたのだろう。)
 その峠を、それから20年以上経った今、自力で越える。

 しかし自転車で登るとなると、この三国峠とは何という大きい峠であろうか。夢の峠などどこへやらである。最高点で標高1,086mというのは、自動車道の峠として決して高いほうではないが、20kgの装備をくくりつけて人力で越えて行くというのは相当な負荷である。登っても登っても、途切れることなく傾斜が続く。結局、朝5:00に沼田を出発してから国境の三国トンネルを越えるまで5時間近くを要した。
 大変辛い登りだったが、思うに、2日目でこの峠があってよかったような気もする。これからも道中予期せぬ上り坂がいくつもあるだろうが、基本的にこれ以上大きい登りは、最終地の青森までもう一つもないのだ。そう思うと気分が晴れた。
 湯沢までは、時折予期せぬ登り返しがあったりもしたが、基本的には大下りで、三国峠から25kmの道のりを1時間程度で通過してしまう。その後も炎天の厳しさはあったものの、魚沼産コシリカリの産地である越後魚沼盆地の大田園地帯を順調に走り抜け、宿泊予定地である長岡市に到着。


Act.3 行くまま気まま旅の雨にはぬれていく
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(9/20(月)長岡市-新津市-新発田市-村上市瀬波温泉 123km)

 早朝、朝もやの田園地帯を快適に北上。今日は宿泊地を決めていないが、どうにかなるだろうと思いつつ進む。
 当初新潟市を経由するつもりでいたが、よく考えると何も新潟市街を経由しなければならない義理はないので、新潟市手前の白根市で進路を東にとり、新津市、新発田市を目指すことにする。
 相変わらずの広大な田園地帯。日陰は全くなく、昼になって気温も上昇しだしたが、土地が平坦なので助かった。しかし、3日目になって疲労も相当たまってきている。今日は少し距離は短いが、新潟県北部の村上市までとしよう。休憩中にヨメと携帯で連絡をとってその予定を告げると、インターネットで宿を確保してくれるというので、ありがたくそのお世話になった。

 新発田市でようやくこの旅の本筋である国道7号線に合流。この道こそ、最終地まで続いている「北上」すべき道なのだ。しかしまだ新潟県内。東北地方の南端にすら達していないので、青森県に至るという現実味には乏しい。しかも、ついに心配していた天候の悪化に追いつかれ、激しい雨にたたられる。ようやく7号線に達したというのに、雨カッパの着脱やらスリップに注意しての低速走行やらで、なかなかピッチが上がらない。
 しかし今日は行程を短く切ったこともあって気持に余裕があった。まあいいや、濡れようが何だろうが。ケツは痛いしモモも重いし、腕の日焼けも痛い。もう曜日の感覚も残してきた仕事の内容も何も、よくわからなくなっている。


Act.4 ままよ法衣は汗で朽ちた
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(9/21(火)村上市瀬波温泉-笹川流れ-鶴岡市-酒田市-秋田県本荘市 172km)

 昨日は短く切り上げて温泉でゆったり贅沢してしまったので、今日は距離を稼ごう。目的地を一気に秋田県の本荘市にセットして、まだ暗い午前4:00に瀬波温泉ビューホテルを出発。
 ホテルで訊いた限りでは、山形県境への道は、国道7号よりも海岸沿い、景勝地・笹川流れを経由するほうがアップダウンが少ないとのことであり、そのとおりに進路をとる。

 風光明媚な海岸沿いを、めずらしく追い風に乗って順調に進んだ。スピードもよく出ている。しかし、30km程快適に走行したところで、何の前触れもなく、突然後輪に破断音。確認すると、スポークが一本破断している。タイヤの軌道もかなり歪んで回転しているのがわかった。このまま強引に走れば、次々にスポークが破断し、ホイールの歪みは益々大きくなっていき、やがては回転しなくなってしまだろう。
 朝6:30。困った。店はおろか人家もまばらな場所で、自転車屋もホームセンターもない。しかもこの早朝の時間帯では、どんな店でも営業などしていないだろう。どうしようか。行くにしても戻るにしても数十キロは都市がない。
 思えば、長岡くらいから、タイヤの軌道が少し歪んでいるのが気になってはいた。しかし、まさかホイールそのものが破損するとは。考えが甘かった。事前の準備も甘かった。

 しかし思い悩んでいても仕方がない。だましだまし進むしかない。そう割り切って、とりあえず20km、国道7号線との合流地点まで進む。何とか後輪は回転し続け、ホイールの歪み具合もさほど悪化していないようだ。ええい、ままよ。次の都市は山形県鶴岡市。まだ50km以上あるが、破断地点から20km大丈夫だったのだから、何とかあと50km進もう。こうして、ようやく山形県境に達し、東北圏に突入。

 何とか鶴岡市に到達し、何人かの人々に教えてもらいながら、スポーツサイクルの専門店「大滝輪店」に辿り着く。最初、多少金がかかってもホイールそのものを一式買って交換するしかないと思っていたが、店主の見立てで、スポークの交換とテンションの調整で何とかなりそうだという。しかも1時間程度で作業できると。あらためて自分の知識不足を知る。

 待ち時間の間、コーヒーやお菓子などで丁寧なもてなしを受けた。また、よく考えると、山形県は意外と縁のある県で、先ず、当会のH田会長とH部さんは山形の出身だし、蔵王、朝日、飯豊、西吾妻、月山、鳥海山などは全て訪れているし、何しろ自分の妹夫妻が、現在山形市在住である。加えて、何と店主は山岳部出身で、鳥海山の山スキーなどにもよく出かけるという。そんなこんなで、すっかり雑談にも興じてしまった。
 スポークが破断したのはトラブルに違いなかったが、この店に辿り着けたのは本当によい事だったと思う。店主やその家族の方々の眼差しから察する限り、これまでに、北から南へあるいは南から北へと旅する自分のような若者(私はもう若者とはいえない年齢だが)を数多く見送ってきたに違いない。出かけには、補修用のスポークを2本無料でいただき、おまけに腹の足しにと、ナシも1ついただいた。自分のピンチを救ってくれたという感傷を多少交えて言うなら、「努めて旅人をもてなすべし」という聖書の言葉を思い出してしまった。

 よき隣人であること。我々は、日々の生活の中で、他人に対しても自分に対しても、時々根拠のない競争心を発揮する。そして人生の中で「何か」を成し遂げなければならないと思ったり、常に「精進」し続けなければいけないと思ったり、社会に「貢献」しなければならないと思ったりして、無意識のうちに自分を追い詰める。しかし、時には心を落ち着けて、静かに思い出すべきだ。よき隣人であること。醜い考えに取り憑かれて愚かなことをしでかすことも時にはあるけれど、基本的には、よき隣人でありたいと願い続けること。何を成し遂げることがなくても、誰に気付いてもらえなくても、人生において、それ以上偉大な行為などありはしないのだ。

 思わぬマシン・トラブルで時間を取られたが、走行に問題がなくなったので、気分は非常に楽になった。
 しかしこの日の行程は長かった。その後も酒田市付近から激しい雨にたたられ、本来なら北方に雄大に聳えているはずの鳥海山は全く望めず、しかも秋田県境からは日が暮れてしまい、路側帯のない狭い道を約40km、雨の暗闇の中で大型車に煽られながら走るという恐怖のサイクリングを味わう。

 秋田県に入って、この旅で初めて「青森」の標識が出た。しかしその距離276Km。東京を出発して4日、もう秋田県に到達しているのに、まだ気が遠くなるような距離が残っている。


Act.5  うしろすがたのしぐれてゆくか (自嘲)
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(9/22(水)本荘市-秋田市-能代市-秋田しらかみ 130km)

 本荘市から秋田市までの道路事情は極めて悪い。地図上は安定した海沿いの直線に見えるが、広大な丘陵地帯を進むため、細かなアップダウンが連続し、行程としてもきつい。しかも道は、この7号線1本しかなく、路側帯のない狭い道路を大型車が猛スピードでひっきりなしに通過していく。基本的に昨日の「死のサイクリング」の続きである。
 途中、地元の父兄会が総出で通学児童の交通誘導にあたっていた。そりゃあそうだろう。子供には極めて危険だし、通過交通のスピードから判断するかぎり、交通事故があったら間違いなく軽い怪我では済まない。
 「事故、多いでしょう?」
交差点での通過待ちの際、地元の人に話し掛けてみると、困ったような表情で何度も頷いていた。

 雨の中、秋田駅で遅い朝食をとり、駅の観光案内所で能代方面の観光情報を入手。今日は平日であるため、ヨメの宿泊サポートはなく、自分で泊まりを確保しなければならない。結局ここで入手したパンフレットによって、今日の行程は青森県境に近い秋田県最北部の温泉施設「ハタハタ館」のトレーラーハウスと決まった。

 秋田県北部、八郎潟周辺の田園地帯は実に広大で見事だった。「あきた小町」の里といってよいのだろうか。雨にかすむ大田園地帯を貫いて、数十キロにわたって北へ北へと道路が伸びる。其の中一人。疲れと雨のため顔が上がらなくなっているから、自分の後姿はさぞかしみすぼらしく見えていることだろう。

 夕方近くになって雨があがり、やや日が差しだすと、豊かに実った金色の稲穂に滴る雫が、いっせいに美しく輝きだした。その光景は、まさしくベートーベンの「田園交響曲」そのものだった。


Act.6  われいまここに海の青さのかぎりなし
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(9/23(木)秋田しらかみ-深浦町-鯵ヶ沢町-五所川原市-青森市(青森駅) 131km)

 距離的には、今日中に最終地・青森市に到達できそうである。もう何日目かもよくわからなくなっているが、とにかく、ここまで来たのだ。あと少し、気を抜くことなく安全に走りきろう。

 今日はこれまでとは打って変わって雲ひとつない快晴である。日本海に沿った国道101号はところどころアップダウンがあって平坦ではないけれど、もうゴールが近いという気持が、傾斜を一つ一つ蹴散らしていく。
 こぎ始めて1時間ほどで、ついに青森県境を越えた。最後の県である。と同時に日の出の時間になって、眼前に青い海が限りなく広がった。深浦からは、遠く津軽半島の山並みの延長に、わずかながら北海道松前地方も望める。ついに北海道が見える位置まで来た。そう思うと、感慨もひとしおのものがあった。
 道中ずっと向かい風ではあったが、堅実に距離を稼いで行く。そして、鯵ヶ沢町が近づいた頃、見覚えのある富士山型の美しい山が姿を現した。津軽の名峰・岩木山だ。もう津軽平野は目前である。

 海岸地帯を離れて津軽平野を東に進む。途中、地元の子供達の自転車集団と並走。普通なら、仮に荷物を積んでいるとはいえ、一応スポーツ車である自分のほうがスピードは速いはずなのだが、もうこのジジイにはそんな体力は残っていないのだよ。子供達にどんどん抜かれていく。

 子供達は郊外型の大型店「まんが・インターネット・ゲーム」という看板のあるところに吸い込まれていった。反対方向からも、同じような年齢の子供達がどんどん集まって、その店に入って行くようである。それを見て、何とも妙な違和感を持った。
 こんな豊かな山河があって、周辺に遊ぶ場所がゴマンとあるのに、なぜあえて画面相手に時間を潰そうとするのかと。もちろん、もう釣りや虫採りなどには飽き飽きしたということなのかもしれないが、都会の子供達は安全に遊ぶフィールドがないから仕方なく室内で楽しみを見出しているという側面があるのであって、何も、国内の子供みんながそれに付き合うことはあるまい。
 「マーケティング」や「潜在顧客の獲得」や「新たな市場の開拓」は、現代商業には不可欠の要素であり、それによって企業は絶えず成長し続けなければならない。そうでなければ従業員は長期に安定した所得を得ることができない。しかし、それによって顧客として「開拓」され、「獲得」されてしまった子供達はどうなるのだろう。子供達を山河田畑から遠避け、自然の営みがwonder-fullであることを洞察するセンスを少しでも奪ってしまうとすれば、それは我々大人たちの列記とした罪ではないか。世の中奇麗ごとだけで回らないのは判っているけれど、安定した所得を得るという大義名分が、子供達に対して、あるいは社会全体に対して強いている犠牲は、数字には表れないかもしれないが、決して小さくないのではないか。そんな考えがふと心をよぎった。

 青森県五所川原市。再び後輪スポークが破断。鶴岡で直してもらったものとは別のスポークである。やはり携行荷物の重量が重すぎたのと、ホイールの強度そのものが長距離のツーリングに向いていなかったのかもしれない。しかし青森市まではあと30kmだ。もう細かなことは気にせずに走りきってしまおう。

 浪岡町からの結構な峠を越えて、夕暮れの青森市に至る。市街の羽越線の跨線橋からは八甲田山の山並みが望め、反対側には津軽海峡の海が北に向かってひらけている。涼しい風を受けて跨線橋の坂を下りながら、北海道に向かうと思われるフェリーを見やって、今回の旅が終わったことを知る。青森駅前で最後の写真を撮った。


Epilogue 夢は枯野をかけめぐる
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 この旅には6日間を要した。しかし、帰りは特急と新幹線を乗り継いで4時間半。時間と距離の感覚がズレてしまい、東京駅に到着したとき、そこが東京だとはとても感じられなかった。

 青森に到達しようという当初の目的は何とか達したが、元々、何か明瞭な動機に基づいて始めた旅でない以上、到達したからといって、それできれいさっぱり旅が終わってしまったというものではないだろう。少なくとも、そうは思いたくない。何か具体的に次の計画がある訳ではないけれど。
 だからこそ、沢木耕太郎が『深夜特急』の旅で1年以上にわたるユーラシア大陸縦断を終えて終着地ロンドンに達した時、東京の親しい友人に宛てて打電したという次のような言葉が出てくるのだと思う。自分も同じようなことを考える。
 「ワ・レ・ト・ウ・チャ・ク・セ・ズ」


<データ>
・使用モデル:GIANT XtC 840 Ltd (MTB)
・携行装備:テント、シュラフ、着替え、雨具、工具等(約20kg)
・総走行距離:856km(1日平均143km)
・最高所:標高1,086m(三国峠・群馬-新潟県境)
・所要日数:6日間(1日12時間行動)
・マシントラブル:後輪スポーク破断2回(新潟県山北町、青森県五所川原市)
・雨カッパの着脱回数:約20回
・消費ペットボトル:500ml約30本
・大型車が右脇20cm以内をかすめて猛スピードで通過した回数:4回

※ Act1~6のタイトルは全て種田山頭火の句。


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