不可思議の海岸線が長くなる為に・・・

不可思議の海岸線が長くなる為に・・・

2010/12/24
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カテゴリ: 日本旅行記
◇月山富田城跡の河側の麓にある 巌倉寺 へ訪れました。
真言宗の寺で、1187年に高顕僧正によって現在の地に移された。
これは富田城築城と相前後するもので、おそらくは城主の意思によって城内の祈願所とするとともに富田城外郭線の守りとしたものと思われる。

山門前に車は停めれます。
少し急な坂道ですが、それほど長くないので一気に登りました。
なぜかミニ88箇所巡りがあるみたいです。
全国にあるので、どうしてかはわかりませんね。
「小那姫の墓」は看板は出ていましたが、場所がわかりませんでした。
寺についての説明看板は見当たりませんでした。
島根安来f1巌倉寺

本堂の少し上に 堀尾吉晴の墓
堀尾吉晴は尾張国丹羽郡御供所村(愛知県丹羽郡大口町豊田)出身の武将。
羽柴秀吉配下の武将として活躍し、豊臣政権においては、三中老の一人に任命されるなど、秀吉の信任が大変厚かった。
近江国浜松城主時代の1599年に隠居し、息子忠氏に家督を譲り、徳川家康から越前府中(福井県)に五万石の隠居料として与えられた。
忠氏が関ヶ原の戦功により雲隠24万石を領主となった際、共に富田城に入城した。
1604年に忠氏が急死の為、まだ幼少であった孫の忠晴の後見として政務に復帰した。
1611年に松江に城を移した。
同年6月17日、65歳で没した。
戒名は「法雲院殿前佩帯松庭世柏大居士」。
遺言によって此の地に帰葬されたと伝わる。
此の五輪塔は来待(きまち)石製で、高さは約3mを測り、来待石製五輪塔としては最大級のものである。
空風輪・火輪・水輪・地輪の各石材の四方には薬研彫りによぅて凡字が刻まれている。また、墓の前面には灯籠の基礎と見られる四角形の石柱があり、四方には仏像が陽像されている。

地味な武将ですが三中老に選ばれたぐらいの人ですから、墓は立派ですね。
子供の墓は、だいぶん離れた山の中にあるみたいですね。
なんでこんなに離れているのだろうかな?
島根安来f2堀尾吉晴の墓

その奥に 鹿介供養塔 があります。
幸盛公の遺徳を偲び、1602年に堀尾吉晴公の御内儀(妻)によって建てられた。
50cmぐらいの供養塔ですので、看板が無ければわからなかったでしょうね。
現地の人に気を使った気もしますね。
島根安来f3鹿介供養塔
島根安来旅行 で訪れた所


島根安来旅行は、まだ続きます





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Last updated  2010/12/24 07:09:50 PM
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