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天の王朝
誰がケネディを殺したか3
▼口封じ1
CIA強硬派の陰謀のために一体何人の人が消されたり、死に追いやられたりしたことか。
ケネディ暗殺にはCIAが関与していたと主張していたCIA情報員ゲリー・アンダーヒルは64年5月、頭に銃弾を受け死亡、自殺と断定された。オズワルドをよく知っていた元FBI捜査官のガイ・バニスター(メモ34参照)は64年6月、心臓発作で死亡、自宅からは自分の反カストロ活動を記したファイルが消えていた。
CIAベテラン局員、コード・メイヤーの元妻で、ケネディ大統領と不倫関係にあったメアリー・メイヤーは64年10月、ワシントンDCの自宅のそばで散歩中に銃弾を受け殺された(メモ35参照)。元夫のコード・メイヤーはCIAの対敵諜報活動担当部長のジェームズ・アングルトンと釣り友達で、アングルトンは暗殺直後、メアリーの日記を必死に探していた。
ケネディ暗殺の2日前にラテン系の男2人が大統領暗殺の密談をしていたと警察に通報した、ジャック・ルビーが経営するナイトクラブの女性ダンサーは65年9月、不自然な交通事故で死亡(メモ36参照)。当時著名だったコラムニスト、ドロシー・キルガレンは、刑務所で服役中のジャック・ルビーにインタビューして間もない65年11月、薬の飲み過ぎにより死亡、自殺と断定された。しかし、インタビュー直後、親しい友人にケネディ暗殺の謎が解けてきたと話していた。
CIAが工作員として使った反カストロ活動家で、オズワルドやガイ・バニスターともつながりのあったデービッド・フェリエは、ニューオーリンズ地方検事のジム・ガリソンがケネディ暗殺陰謀の嫌疑で事情聴取しようとした矢先の67年2月、突然の脳塞(そく)栓で死亡。CIAが暗殺に関与していたと確信していたガリソンが、同じく事情を聴こうとして探していた、フェリエの政治仲間でマリオ・ガルシア・コーリーの友人でもあるエラディオ・デル・ヴァレも、フェリエの死の直後、至近距離から撃たれ死んでいるのが見つかった。
(続く)
(メモ34=ガイ・バニスター)
1950年代のはじめFBIを退官後、ニューオーリンズで警察の副所長を務めていたが、レストランでウエイターを銃で脅したため事実上解雇され、自分で探偵事務所を開いた。ロバート・マヒュー同様、元FBIだという経歴がCIAに気に入られ、CIAの活動に関与したとみられている。CIAの秘密工作員だったことが後に分かるクレイ・ショウという企業家にも頻繁に会っていた。特にキューバ人の反カストロ活動には積極的に参加、事務所の住所も反カストロのグループと同じニューオリンズのキャンプ街544(編注:ちなみにオズワルドが配ったカストロ賛美のパンフレットの発行元も奇妙なことに、この住所になっている。ロバート・マローによると、このパンフレットはオズワルドとカストロを結びつけるためのバニスターの策略だという)だった。
バニスターは、オズワルドとの関係などについてウォレン委員会から一度も質問を受けないまま、64年に“心臓発作”で死亡する。
(メモ35=メアリー・メイヤーの暗殺)
一連の暗殺、不審死事件の中で、何故、メアリー・メイヤーが殺されたのか、長年筆者には謎だった。ケネディと不倫をし、それを日記に綴っていただけで殺されるはずがないからだ。ところが、96年10月にようやく全文公開になったロバート・マローの告白に関する下院選抜委員会の報告によると、ケネディ暗殺の陰謀に気付いたメイヤーがコーリーのグループに消された可能性が強いことが分かった。78年5月26日、下院選抜委員会の関係者(推薦人の欄にタイニー・ハットンの署名があるので、おそらく委員会事務局長補佐のハットン)に語ったマローの告白の内容は次の通り。
1964年9月のある日、マローは、CIAやリチャード・ニクソン、それに亡命キューバ政府の事実上の大統領ともいえるマリオ・ガルシア・コーリーに関係するワシントンDCの弁護士、マーシャル・ディッグスに昼食に招かれた。ディッグスはマローに、もしかしたら(ケネディ暗殺の真相を隠していた)蓋が吹き飛ぶかもしれず、恐れていると告げた。というのも、ディッグスの愛人(編注:マローの推測)が、その愛人の大の親友であるメアリー・メイヤーが陰謀の真実を知ってしまった、と語ったというのだ。ディッグスはメイヤーが真相を漏らしてしまうのではないかと心配していた。当時、コーリーは外部との接触を事実上絶たれた状態になっており、マローに何とかコーリーと接触し、このことを伝えてくれないか、と頼んだのだ。マローは了解し、当時ニューヨークに隠れていたコーリーにこのことを伝えた。コーリーはその時、自分が何とかするとマローに告げた。数週間後、10月のさわやかな秋晴れの午後、メイヤーはワシントンDC・ジョージタウンの自宅のそばの運河沿いの散歩道をジョッギング中に、後ろから何者かに捕まれ、押し倒され、頬骨のやや下のところを一発撃たれ、即死した。
マローは76年、まだ下院選抜委員会が発足する前に、暗殺の影にコーリーがいることをトマス・ダウニングらに証言しているが、その時はこの話は一切しなかった。何故、その時にこの話をしなかったのかとの質問に対し、マローは自分が犯罪にかかわっていたわけで、罰せられることを恐れたからだ、と答えている。しかし、その後下院選抜委員会が本当に真相究明に全力を挙げていることや、免責を与える権限を持っていることを知り、自分がかかわった犯罪について語ることにした、と話している。
マローはほかにもこの告白で、自分がCIAのために、63年の夏、ヨーロッパで7・35口径のマンリチェ・カルカーノライフル3丁を購入、ボルチモアに持ち帰った、とも話している。そのライフルは、反カストロ活動家の米国人パイロット、デービッド・フェリエに手渡された。そして、ディッグスがマローに言うには、この3丁がケネディ暗殺に使われたのだ、という。マローはまた、60年代の初めに、CIAの命令で、ワシントンDCの北西区32番街に家を借り、そこをコーリーが自宅兼反カストロ作戦本部として使っていたことや、その家でキューバペソ偽造計画を練ったこと、さらに別の機会に、ロセッリ、ギアンカーナ、トラフィカントといったマフィアがコーリーと相談しているのを目撃したことを明らかにしている。
(メモ36=女性ダンサーの死)
この女性は、ルービーの店で働いていたストリッパー、ローズ・チェラミー(芸名)。1963年11月20日夜、ルイジアナ州で、キューバ人とみられる男二人に走行中の車から放り出され、けがを負い、入院した。チェラミーはこの事件を捜査した州警察のフランシス・フルゲに、自分を車から放り出した男がダラスで、ケネディ暗殺の密談をしていたと告げた。二日後、実際にケネディが暗殺されたことから、フルゲがこの男を探したところ、一人は反カストロ・キューバ人グループのリーダー、セルジオ・アルカシア・スミスである疑いが強まった。しかし、スミスは全面否定。疑惑が解けないまま、65年9月4日、チェラミーはテキサスのハイウエー上のひき逃げ事故で死亡する。状況から走行中の車から放り出され、後続の車にひかれた疑いも強い。
誰がケネディを殺したか30
▼口封じ2
70年代に入ると、今度はCIAのカストロ暗殺計画にかかわったマフィアが殺される。シカゴのマフィアボス、サム・ジアンカーナは75年6月、連邦政府の証人保護計画実施中であるにもかかわらず、自宅の地下室で撃たれ殺される。ギアンカーナはこの時、カストロ暗殺計画でのCIAとマフィアの関係について議会で証言することになっていた。
カストロ暗殺計画で中心的役割を果たしたジョン・ロセッリも翌月、マイアミ沖に浮いていたドラム缶の中で、足を切断された死体の状態で発見される。ロセッリは議会で二度目の証言が予定されていた。
ダラスでオズワルドと交友関係があったジョージ・ド・モーレンスチャイルドは、議会調査団に証言する前の77年3月、“自殺体”で発見。それから48時間後には、CIAと関係しマフィアによる殺しを請け負っていたとみられるチャールズ・ニコレッティが、シカゴのショッピングセンター駐車場で後ろから3発の銃弾を浴び、殺された。
ジャック・ルビーや反カストロ分子と関係があったとみられるカルロス・プリオ・ソカラスも、ニコレッティが殺されてから6日後の77年4月、銃殺体で発見、自殺と断定された。
彼らがケネディ暗殺計画の一端を知ってしまったために殺されたかどうかは断定できないが、少なくともCIAと、マフィアや反カストロ分子を含む裏社会の人間との関係を知る者が次から次へと消えていった。
(続く)
誰がケネディを殺したか31
▼動機
▽極秘の暗殺団存在の可能性
もちろんマフィアを使ったカストロ暗殺計画を秘密裏に進めていたCIAのグループが、そのままケネディ暗殺に荷担したとみるのは短絡的だ。CIA内部に、カストロ暗殺にかかわったマフィアとは別に暗黒社会とつながりを持つ反ケネディグループが存在した可能性が強い。
実際、CIAの情報部員、ハワード・ハントがかかわっていたとみられるオペレーション40という亡命キューバ人の軍人を含むグループは、CIAが未だ公表していないカストロ暗殺計画を実行しようとしていた、との証言もある(メモ37参照)。
いずれにしても、CIAの強硬派にしてみれば十分な政治的動機はあった。ピッグス湾事件でケネディが空爆による支援をしなかった“裏切り行為”に対する怒り。それに続く、ケネディのCIA粛清による遺恨。そして、キューバ危機後もミサイルが撤去されていない可能性が強いにもかかわらず、何ら強攻策をとろうとしないケネディに対する憤り。これらの感情が暴走に駆り立てたとしても不思議ではない。
(続く)
(メモ37=ハワード・ハントと謎のオペレーション40)
1972年6月17日、ワシントンDCにあるウォーターゲートビルの民主党全国委員会本部に忍び込み捕まった盗人5人のうちキューバ人2人が持っていた住所録にハワード・ハントの名前があり、これがきっかけになりCIA、さらにはニクソン大統領を巻き込んだ大スキャンダルに発展した。ハントはウォーターゲート事件で一躍悪名をとどろかせただけでなく、皮肉にもニクソン大統領辞任の“立て役者”にもなったのだ。
ハントはピッグス湾事件やCIAの反カストロ活動にも深くかかわっていた。ウォーターゲートの不法侵入事件でも、ピッグス湾事件でハントの手下だった反カストロのキューバ人、バーナード・バーカー、同様に反カストロ活動に携わった工作員フランク・ストゥルギスら計4人のキューバ人を使って不法侵入させていた。
ケネディ暗殺事件に関連して何よりも注目されるのは、ハント自身が起こした名誉毀損の民事裁判に対し、フロリダの地方裁判所が1985年2月6日に下した判決だ。ハントは右翼団体が発行している雑誌「スポットライト」に、自分がケネディ暗殺にかかわっていたと書かれたことで名誉が傷つけられたとして、右翼団体「リバティ・ロビー」を訴えた。審議の結果、陪審員は被告のリバティ・ロビー側の勝訴とし、ハントの訴えを退けた。特に陪審長、レスリー・アームストロングは、被告側が提示した証拠により、CIAがケネディを殺し、ハントがその中心的役割を果たしたと確信した、との意見を述べている。
この訴訟でもっとも注目される重要な証言をしたのは、カストロの元愛人で、その後転向し、CIAやFBIに雇われ、諜報活動をしていたマリタ・ロレンツだ。ロレンツの証言は77年にニューヨーク・デイリー・ニューズにより取り上げられ、一大センセーションを引き起こし、その後暗殺に関する下院選抜委員会へも、証言やそれを裏付ける証拠が提出された。
そのロレンツによると、ケネディ暗殺の数日前、マイアミに住む亡命キューバ人のリーダー、オーランド・ボッシュの自宅で、後にウォーターゲート事件で逮捕されたストゥルギス、ケネディ暗殺事件の容疑者となったオズワルド、元キューバ空軍指揮官で亡命キューバ人のリーダーの一人でもあるペドロ・ディアス・ランツ、それにボッシュが集まり、テキサス州ダラスの地図を広げ、なにやら相談していた。その会合の後、彼らはロレンツとともに、2台の車に分乗してダラスに向かった。車にはライフルと望遠鏡が積み込まれ、ほかに、ロレンツが名前をよく知らないキューバ人二人も乗っていた。運転を交替しながら一三〇〇マイルの道のりを二日かけダラスに着いた一行は、そこでハワード・ハントと落ち合う。彼らは暗殺の前日の夜にはジャック・ルビーとも会った。ロレンツは公判で「ストゥルギスも大統領を撃った一人だ」と証言した。
さらにロレンツは証言で、オズワルドを除く彼らが、六〇年にキューバ侵攻に備えてCIAがつくった、キューバ人約30人と米国人のアドバイザーからなるオペレーション40のメンバーであることや、オペレーション40が暗殺などを請け負う秘密のゲリラグループであること、それに、当初カストロ暗殺を計画していたが、ピッグス湾事件以降、ケネディ暗殺も謀っていたことを明らかにした。
このような衝撃的な証言に対して、ハントは、ケネディ暗殺当日にダラスの暗殺現場にいたことを示すメモが存在するにもかかわらず、ダラスにいたことすら全面否定。ストゥルギスは、オズワルドに一度もあったことがない、と言い張った。
ロレンツの証言は、ハントの民事訴訟では事実上陪審長により認知されたが、それより以前の下院選抜委員会では、奇妙なことに、ロレンツの証言を支持する証拠はない、として深く調査されなかった。
誰がケネディを殺したか32
▼まとめの推論
推測するに、米国民の世論をカストロ打倒に大きく傾けるためケネディ暗殺を計画した反カストロ分子に、カスト
ロ打倒は国家安全保障上不可欠と判断した
CIA内部の強硬派が協力。実行は反カストロ分子コーリーの精鋭部隊が請け負い、反ケネディのCIA強硬派が、カストロとオズワルドを結びつける工作を担当。その工作がばれないよう、ケネディとカストロの双方に反感を抱くマフィアの一人、ジャック・ルビーを使ってオズワルドを殺させた(メモ38参照)のではないか。
おそらく、ジョンソンは大統領に就任した時、米国政権内部に権力の多重構造が存在しているなどとは夢にも思わなかったに違いない。多重構造といっても、行政、立法、司法という3権分立のようにお互いがそれぞれを監視するような構造ではなく、行政府の中に別の指揮系統ができてしまうような多重構造だ。
そういう状況下では、たとえ長官であっても、マコーンがCIAを掌握していることにはならない。マコーン自身がCIAの一部の勢力に情報操作され、大統領自身も結果的に操られてしまうことも十分にあり得る。だからこそジョンソン大統領とマコーン長官は、ケネディを殺したのはカストロであるというCIA強硬派がでっち上げた情報を信じてしまったのだ。
(続く)
(メモ38=ジャック・ルビーのオズワルド殺し)
1963年11月24日日曜日午前11時21分、何百万もの人がテレビで見ている目の前で、ジャック・ルビーはオズワルドを至近距離から撃ち、暗殺した。オズワルドはダラス警察本部の地下駐車場からダラス郡刑務所に移管される途中だった。ルビーは親しい警察官の計らいで地下駐車場に忍び込めたのではないかとみられている。
ルビーのオズワルド暗殺の動機については、諸説があり、今でもはっきりしていない。本人は未亡人となったジャックリーン・ケネディの苦しみを和らげてあげたいという感情の高まりからやった、と弁明したが、おそらくそのような弁明を信じている人は誰もいない。ただ、言えることは、ルビーは59年ごろ、キューバでのマフィアの銃砲・弾薬の密売に絡み、カストロ側に武器を売るなどして、バティスタ政権打倒を間接的に助けたにもかかわらず、カストロはマフィアが運営していたハバナのカジノやホテルを没収した上、マフィアを国外追放したため、ルビーやマフィアはカストロを恨んでいた節があることだ。ルビーとオズワルドは顔見知りだったとの証言もある。
また、CIAの非合法工作員、ロバート・マローによると、ルビーは亡命キューバ人のコーリーとも関係があった。ルビーはコーリーの友人であるカルロス・プリオ・ソカラス(77年に“自殺”)と共同で、1950年代のハバナで少なくとも一つの賭博場を経営するとともに、銃の取引をしていた。ルビーはソカラスやコーリーといった反カストロ分子右派に何らかの貸しがあり、オズワルド暗殺を請け負ったのではないか、とみることもできる。
ルビーは63年11月27日にオズワルド殺人の罪で起訴され、64年3月3日陪審員が有罪を決定。同月14日、死刑の宣告を受けた。しかし、この判決は66年10月5日テキサスの上訴審で最初の裁判は不規則だったとの理由で覆された。新たな裁判が始まろうとした矢先の67年1月3日、ルビーは突然、そしておそらく都合よく、ガンで死亡する。
誰がケネディを殺したか33
▼推論のまとめ2
一番ケネディが邪魔だったのは、CIA内部の反ケネディ派(強硬派)と、反カストロの亡命キューバ人だったのは、明白だ。しかし、両者とも国民の矢面に立つのは何としても防ぎたかった。そこで、彼らの一部は一計を案じ、オズワルドをカストロ支持者にみせかけることで、“カストロが放った暗殺者”に仕立て上げた。だからこそ、正当な理由もなく、オズワルドの人相の特徴が暗殺事件発生からわずか15分後に警察のラジオ無線で流されたのだ(メモ39参照)。また、最悪でもマフィアの犯行にみせかけるため、ジャック・ルビーを使ってオズワルドを殺させた可能性が強い。
犯行にかかわったCIAのグループはさらに、ケネディ暗殺前にカストロが報復を臭わせていたことをマコーンに報告することで、カストロ陰謀説を耳に吹き込み、米軍によるキューバ侵攻を間接的に促しながら、背後に隠されたより大きな陰謀を隠蔽しようとした。
マコーンはジョンソンにカストロ陰謀説の可能性を指摘。ジョンソンはウォレン委員会という形だけの調査委を設置、オズワルド単独犯の線で結論を出させたのではないか。ただ、暗殺の後に起こる結果が得てして予測不能のように、米国によるキューバ侵攻というCIA・反ケネディ派と反カストロ右派のキューバ人の思惑は、結果的に大きくはずれたわけだ(メモ40参照)。
(続く)
(メモ39=謎の警察無線)
ケネディが撃たれた直後の12時44分、「容疑者は名前不詳の白人の男。推定年齢30歳。体重165ポンド。やせ型。ライフルを携行」というオズワルドを想起させる犯人像が警察無線で流された。一体だれから警察がこの犯人像の情報を手に入れたか、今日に至るまで分かっていない。犯人がケネディを撃ったとされるテキサス学校教科書倉庫の建物に駆けつけた警察官が従業員を点呼したところオズワルドがいなかったからだとか、オズワルドが足早に建物から立ち去るのを目撃したからだとか、いろいろな憶測に近い説明がなされているが、どれも事実と矛盾している。たとえば、点呼でいなかったのはオズワルドだけではなかったのに、何故、オズワルドだけが犯人にされるのか説明がつかない。それに警官が駆けつけたとき、オズワルドは建物のマネージャーと2階にいて、コーラ販売機で買ったコーラを飲んでいるところだった。これではまるで、暗殺の陰謀者が、オズワルドをはめるため、オズワルドの情報を警察にたれ込んだとしか思えないではないか。実際、ウォレン委員会の法律顧問の一人、ウェスリー・レイベラーによると、この謎の警察無線は委員会をひどく苛立たせた。何故なら暗殺が起きる前にオズワルドが既に「かも」として選ばれていたことを示唆するからだ、としている。
(メモ40=暗殺の後に起こる結果)
CIAに長年勤務し、引退後、諜報活動従事者の協会長を務めたジャック・モーリーは1982年、「CIA」(83年出版、スタイン・&・デイ社)の著者、ブライアン・フリーマントルに次のように語っている。
モーリー:暗殺は道徳的に少しも悪くない。問題は暗殺された人間の後継者が、暗殺された人間よりもよくなるとは、だれも予想できないことだ。
フリーマントルは、モーリー以外にも5人のCIA諜報員が同様な見解を述べたとした上で、CIAの中では暗殺の道徳的是非よりも暗殺後に起こる結果の不確定性がよく問題になる、と結んでいる。
誰がケネディを殺したか34
▼二重構造
いずれにしても、政府の内部に、複雑な権力の2重、3重構造ができあがってしまったのだ。大統領とは別の権力が暴走、政府を影でコントロールしていた可能性が強い。ジョンソン大統領のスミスに対する発言は、それを裏付ける“証拠”ともいえるのだ。
分からないのは、あれほどの権力と情報を握っていたエドガー・フーバーが、どういう役割を演じたかだ。ケネディ暗殺前に、マフィアによるカストロ暗殺計画を含め、CIAと、反カストロ分子やマフィアの不穏な動きは当然、つかんでいたはずだ。フーバーはそれを大統領のシークレット・サービスには伝えず、静観していたのか。ケネディ兄弟とフーバーの仲が悪かったことは周知の事実だ。1965年の定年後も長官職に留まりたかったフーバーにとって、ケネディは邪魔な存在だったのかもしれない。
ジョンソンはおそらく、最後までカストロ陰謀説を信じていたのではないか。ちょうどハワード・スミスに自分の信じる真相を打ち明けた約1ヶ月後の4月25日、CIAに対して、CIAによるカストロ暗殺計画を密かに報告させたという記録が残っている。口頭でなされ、文書はジョンソンにも渡されなかった、というその報告書は、CIAが暗黒街の人間を使ってカストロ暗殺を図ったことを認めた内容だった。
推測するに、ジョンソンはスミスに話した都合上、ケネディがカストロ暗殺を企んだが、先にカストロにやられてしまった、というマコーンから聞いた説をもう一度、CIAの内部報告という形で確認したかったのではないだろうか。ジョンソンにとっては、CIAがマフィアを使ってカストロ暗殺を図っていたことさえ驚きだった(メモ41参照)。だからこそすぐに、カストロが報復したに違いないとするマコーンの報告を信じたのだ(メモ42参照)。
マコーンもカストロ陰謀説を信じた一人だろう。何しろ、マコーンら上官が知らないところで、カストロ暗殺計画が実行に移されていたのだから。中止になったと聞いていたカストロ暗殺計画が継続され、しかも、オズワルドがカストロと関係があると部下から知らされたとき、マコーンは仰天したに違いない。すぐにジョンソン大統領にそのことを告げたのだ。
(続く)
(メモ41=ジョンソンに知らされたCIAの暗殺計画)
これに関連する話として、ジョンソン大統領が71年、作家のレオ・ジャニスに対して「大統領に就任するや、米国が、カリブ海を舞台にして忌まわしい“暗殺会社(Murder Inc.)”を経営していたことが分かった」と嘆いた事実がある。このことから類推できるように、ジョンソンは大統領になる前は、CIAのカストロ暗殺計画を知らなかった可能性が高い。
(メモ42=最後までカストロ説を信じたジョンソン)
ハワード・K・スミスにカストロ説を披露した後も、ジョンソンは実は、何度か同じようなことを口にしている(編注:このこともあまり知られていない)。2年後の1969年、ジョンソンはCBSとのインタビューの中で、ケネディ暗殺の背後に国際的な陰謀があった可能性を完全には否定できないと述べた。当時、CBSはこの発言を放映できなかった。というのは、ジョンソンが米国の安全保障上、支障があるとの理由でその部分の放映を認めなかったからだ。ところが73年のジョンソンの死後、まず、新聞コラムニスト、マリアンヌ・ミーンズが、死亡する1年前にジョンソンは、オズワルドはカストロの命令の影響を受けて犯行に及んだ疑いが強いと信じていると語ったことを明らかにした。さらに、ジョンソン大統領時代のホワイトハウス主席補佐官、ジョゼフ・カリファーノも、ジョンソンはケネディ暗殺がCIAのカストロ暗殺計画に対する報復だと信じていた、と証言した。これを受けてCBSは、かつてジョンソンの要求で放映できなかった前出の発言部分の放映に踏み切った。(以上はCIAの75年4月のニュース記録による)
誰がケネディを殺したか35
▼まとめ3
ケネディ大統領
・カストロ暗殺計画などCIAの暴走に気づき、人事による粛清の次にCIA解体、もしくは大改造に動く。
・ミサイル危機を乗り切り、中間選挙にも勝利したケネディは、キューバがミサイルを撤去していないかもしれないという疑惑は無視して、カストロとの宥和政策を進める。
・CIAの強硬派は自分の命令に従い、カストロ暗殺計画は中止されたものと信じる。
ジョンソン大統領
・CIAのカストロ暗殺計画を大統領就任直後に知らされ仰天。
・マコーン長官の報告から、ケネディ暗殺はCIAのカストロ暗殺計画の報復であると信じた。
・ソ連との核戦争につながりかねないキューバ侵攻を避けるため、カストロがケネディ暗殺の背後にいることを隠すように捜査当局に指示。ウォレン委員会に、オズワルドの単独犯行であるとの最終報告を書かせた。
・最後までカストロによるケネディ暗殺説を信じていた。
CIA強硬派
・大統領の命令を無視してカストロ暗殺計画を推進。
・CIA解体を進め、対キューバ政策で柔軟路線を採るケネディを国家安全保障上の危険人物であると判断。
・ケネディに恨みをもつマフィアと反カストロ・キューバ人を使ってケネディ暗殺計画を実行。
・オズワルドをカストロ信奉者の犯人に仕立て上げ、後にマフィアに殺させ、口を封じる。
・ケネディ暗殺の背後にカストロがいることを新大統領のジョンソンに吹き込み、キューバ侵攻に踏み切らせるよう画策。
・ジョンソンが予想に反して、キューバ侵攻に踏み切らなかったため、CIA強硬派の当初のもくろみは崩れ去る。
・CIAによる陰謀が発覚しないよう情報を漏らしそうな関係者を次々に抹殺。
(続く)
誰がケネディを殺したか36
▼実行犯
CIAの強硬派がケネディ暗殺を計画したとして、では実際にケネディを殺した実行部隊は誰だったのか。その謎を解く鍵を握っているのが、CIAのためにカストロ暗殺計画に携わった女スパイ、マリタ・ロレンツと、CIAによるカストロ政権転覆計画に参画した工作員、ロバート・マローの二人だ。
ロレンツによると、ケネディ暗殺計画を実行に移したのは、CIA情報部員ハワード・ハント、反カストロの亡命キューバ人で、ウォーターゲート事件で逮捕されたフランク・スタージス、マフィアの一員で後にオズワルドを射殺したジャック・ルビーらが所属する「オペレーション40」という暗殺集団と、おとり役で実際は犯人に仕立て上げられたリー・ハーヴィー・オズワルドだった。
オズワルドはどうやら、自分はあくまでもおとりで、当初は犯人とされるが、アリバイがあるので無罪放免になると信じていたようだ。ところが、警察官の中にオズワルドを殺そうとしたCIAの刺客(逆にオズワルドが射殺した)がいたことから裏切られたことを知り、真相を話そうとしたため、ジャック・ルビーに口を封じられた。
一方マローは、反カストロの亡命キューバ人であるマリオ・ガルシア・コーリーとCIAの国内作戦部門の極秘作戦を担当するトレイシー・バーンズが暗殺にかかわったという。マローはケネディ暗殺を示唆する言葉をコーリーとバーンズそれぞれから直接聞いている。そのバーンズ直属の部下がハワード・ハントであった。バーンズの上にいたのが、後にCIA長官にまで出世するリチャード・ヘルムズだ。
ヘルムズはバーンズを重用していたことを考えると、ヘルムズ辺りまで、あるいはもっと上層部にまで犯行グループが及んでいた可能性がある。つまり、ニクソンと亡命キューバ人コーリーの仲を取り持って、密約を交わさせた張本人であるチャールズ・キャベルとリチャード・ビッセルといったCIAの元首脳たちだ。キャベルとビッセルはピッグス湾事件の責任を取らされて、ケネディに解任された“粛清組”であった。
(続く)
誰がケネディを殺したか37
▼亡霊
リチャード・ニクソンはどうだろうか。自分が手塩にかけた、密約の当事者でもあるマリオ・コーリーなどキューバ人の反カストロ右派の動きは気になっていたのだろう。コーリーが通貨偽造で捕まったことを知ったニクソンは64年3月、自ら地方裁判所判事に手紙を書き、コーリーの刑期を短くできないかどうか嘆願している(メモ43参照)。
ニクソンの大統領就任後も、いたるところでピッグス湾事件の影がちらついていた。ちょうどウォーターゲートの忍び込み事件が発覚してから約5週間後の1972年7月23日、今後ウォーターゲート事件の捜査が進んだときの対応についてニクソンは、ホワイトハウスで録音されたテープの中で、部下のハルデマンと次のような会話を交わしている。
ニクソン:・・・ハント(編注:前出のCIA情報部員、ハワード・ハント)のやつは知りすぎているし、関係しているからな。気を付けなければいけない。もし、これがすべてキューバのことと関係していることが分かったら、キューバのことは大失態だったことが分かってしまう。CIAが悪者になってしまうだろう。ハントも同じだ。このままでは、まずいことにピッグス湾事件のことまでばらされてしまいそうだな。それはCIAにとっても、我が国にとっても、この時期、米国の外交政策にとってもまずいことになる。何とか止めるようにやつらに言ってくれ。
ハルデマン:確かに、それが我々の行動の拠り所です。そこで止めておくべきです。
ニクソン:やつらにはこちらが何を企んでいるか知られたくない。我々の関心は政治的なものだからな。
それから約10ヶ月後の73年5月18日には、次のようなやりとりも録音されていた。
(続く)
(メモ43=ニクソンの嘆願書)
これも国立公文書館に保存されている資料の中に見つけることができる。ただ、1ページ目の表書きの日付が1965年3月9日となっているが、2ページ目には64年3月9日とある。コーリーの刑期が1年であったことなどを考えると2ページ目の64年が正しく、1ページ目の65年はタイプミスとみられる。以下は、ニクソンによる嘆願書の内容全文。
「エドワード・ウェインフィールド地方裁判所判事殿
外国の通貨を偽造した罪で1年間の禁固刑を言い渡されたマリオ・コーリーのために、彼の弁護士の依頼で、この手紙を書いています。私は裁判内容に関しては詳しく知りませんが、私の知る限りでは、コーリーは評判の良い人物で、今回の有罪につながった行為も、彼個人の利益のためではなく、彼の国のためにやったことであると信じています。
キューバ問題を身近に感じている一人として、私は、現在の困難で、危険で、かつ変化しやすい情勢を鑑みると、カストロ政権に対する米国の政策の複雑さが、特にコーリーのような亡命キューバ人にとって、誤ってはいるが、真摯に、今回のような犯罪行為が米国の利益にも反しないと信じさせてしまうような雰囲気を作り出してしまったことも十分あり得ると思っています。キューバの共産化以来、米国における亡命キューバ人の置かれた状況というのは、多くの点で、我々の歴史の中でも特異であります。彼らが米国にいることは、カストロ政権の米国に対する敵対行為や、米国民やマスコミ、それに米国政府がカストロに抱きつつある反抗心と無関係ではありません。結果として、亡命キューバ人は時として、閣下もご存じのように、米国の激励や支援を受けながら、キューバ政府を打倒するために努力してきたのです。そうした努力は、ことの性質から、秘密であったり、時には法律の範囲を逸脱したりしたものもあったのです。こうした反革命の機運を高めようとする亡命キューバ人の愛国心、勇気、それにエネルギーは、過去においても、また未来においても、キューバの利益になるだけでなく、米国の利益になると見なされてしかるべきです。
私には、公共の利益に反しない限り、これらの特異な状況が、コーリーに下された懲罰の程度を決めるに当たって、考慮されるべきであると思われます。
私がこの手紙を書いている目的は刑の執行停止か減軽を申請している弁護側の意向を裁判所に考慮していただくことであると、閣下に理解していただけると信じております。
リチャード・ニクソン」
誰がケネディを殺したか38
▼亡霊2
ハルデマン:本当の問題は捜査がウォーターゲート以外の問題に及ぶことです。我々はウォーターゲートの捜査など心配ではありません。
ニクソン:その通りだ。
(中略)
ハルデマン:・・・彼ら(編注:ウォーターゲートビル侵入事件に関係した者)が、ずっと以前の別の活動、つまりピッグス湾事件にも関係していたことを我々は知っています。(略)ヘルムズ(CIA長官)は、ピッグス湾事件は何も心配はいらないと言ったことに私は驚きました。というのも私はあなた(ニクソン大統領)からCIAはピッグス湾事件にことが及ぶことを心配しているとの印象を持ったからです。(中略)後でヘルムズが言ったことは真実でないことが分かりました。CIAはピッグス湾事件のことを大変心配しているのです。だからピッグス湾事件に関するとみられる捜査の過程で、重要なメモが、おそらくCIAか誰かの仕業で、消えてなくなった。そのためにピッグス湾事件で本当は何が起きたのか知ることが難しくなったのです。
とにかく、我々は、捜査が行き過ぎて、ピッグス湾事件の問題などCIAがかかわっていることにまで及ぶことについて懸念を提起しました。それにCIAのメキシコマネーの問題も提起したと思いますが。
ニクソン:そう、その通りだ。
これらから推測できることは、ニクソンは、ケネディ暗殺の遠因になっているピッグス湾事件に自分がかかわっていたことを知られるのを気にしていた。ケネディに、前年のニクソン、CIA、コーリーの密約を引き継がず、うやむやにしたために起きたともいえるピッグス湾事件の大失態。意図的であったかどうかは別にして、結果的にケネディを“裏切り者”にしたことが、“負い目”として常にニクソンの頭の中にあったのではないか。あるいは、それ以上の負い目があったために、密約に調査が及ぶよりは、大統領を辞任した方がましだと考えたのかもしれない。
(続く)
誰がケネディを殺したか39
▼暗闘
CIA強硬派が、ケネディに恨みを持つ亡命キューバ人とマフィアを使ってケネディを殺させたのは、間違いないであろう。ただし、その背後にある勢力は依然として謎のままだ。ニクソンや南部の石油勢力、武器産業勢力が存在した可能性はある。わかっているのは、CIAの一部勢力がかかわったこと、実行部隊に亡命キューバ人やマフィアを使ったことだ。
CIA強硬派にとってケネディは、それほど邪魔な大統領であった。すでにはるか前からキューバにミサイル基地があることをわかっていながらその事実を隠し、中間選挙に利用するため「ミサイル危機」を演出、ヒーローを演じたケネディ。ピッグス湾事件の責任をCIAに押し付け、CIAを解体・骨抜きにしようとしたのもケネディであった。
着々とヒーローという虚像をつくり上げていくケネディと、組織を死守しようCIA強硬派の間で、お互いの存在意義をかけた暗闘が繰り広げられていただろうことは想像に難くない。
その暗闘の目撃者であり、間接的だがケネディ暗殺に関与した生き証人ともいえるのが、先に紹介したロバート・マローとマリタ・ロレンツである。お互い面識はないが、二人の証言は矛盾しないばかりか、真実を指し示し、なおかつ補完し合っているように思える。
その彼らの証言を基にケネディ暗殺というCIA強硬派の犯行を再現してみよう。
(続く)
誰がケネディを殺したか40
▼再現1
ケネディ暗殺計画は用意周到に行われた。おそらくCIA強硬派が最終的に決断したのは、ミサイル危機の直後であっただろう。
暗殺の五ヶ月前、ロバート・マローはCIAから7・35口径マンリシャーライフル四丁の購入と、市販の機器では傍受できない無線機四台の製造を依頼された。マローは購入したライフル四丁と製造した無線機四台を1963年八月上旬、CIAの運び屋のデービッド・フェリエに手渡した。後にマローは、このときのライフルと無線がケネディ暗殺に使われたと、亡命キューバ人コーリーの弁護士、ディッグスから聞かされた。
同時に八月ごろから、オズワルドをカストロと結びつける工作が始まった。元FBI捜査官、ガイ・バニスターが作成した親カストロ・共産主義賛美のパンフレットをオズワルドが配っている。
九月から一〇月にかけては、オズワルドを名乗る男がメキシコシティのソ連大使館とキューバ領事館にわざわざ顔を出している。このオズワルドを名乗る男の怪しげな行動のために駐メキシコ米国大使のトマス・マンはケネディ暗殺事件後、暗殺の背後に共産主義者がいると信じ込んでしまい、それを本国に報告。逆にジョンソン大統領やフーバー長官から疎まれることになった。
(続く)
誰がケネディを殺したか41
▼再現2
暗殺約1週間前の11月16日、CIAに雇われたガイ・バニスターの一行が狙撃用ライフルを積み、ニューオーリンズからダラスへ、ロレンツと“オズワルド”を含むフランク・スタージスの「オペレーション40」の一行が大量の武器を車に積み込み、マイアミからダラスに向けそれぞれ出発。スタージスの一行は、ダラス郊外のモーテルに泊まり、暗殺の前日までには、そこでCIAのハワード・ハントとマフィアのジャック・ルビーと落ち合い、最終打ち合わせをする。
ロレンツにはどのような計画が進行中か知らされなかったが、ロレンツは何か大きな暗殺計画が進行中であることを察知。やがてグループ内で仲たがいが起こり、まさに暗殺事件の前日にロレンツはグループと決別、マイアミに戻る。そしてケネディが暗殺されたことを知る。
ロレンツは状況証拠から判断して、自分がかつて所属していた暗殺旅団「オペレーション40」がケネディ暗殺にかかわったのは間違いないと言う。オズワルドを「使い捨て要員」にして、“オズワルド”と「オペレーション40」の狙撃班がいっせいにケネディに向けて引き金を引いた。
おそらくマフィアの狙撃手も参加したのだろう。後にケネディ殺害を自白した、シカゴのマフィア、ジェームズ・ファイルズや、他のマフィア、亡命キューバ人に武器が分配された。ファイルズは前方の「芝の丘」に、もう一人は教科書倉庫ビル、さらにはダルテックスビルなどにも人員を配置し、マローが製造した無線機を使って、タイミングを計った。
最後の合図はそれぞれの配置から見える場所に陣取ったハワード・ハントが行った疑いが強い。つまり快晴の広場で、こうもり傘を持った不審な男がハントではないかというのだ。ハントによる傘を使った合図により、やや不揃いではあったが、一斉射撃が始まった。
(続く)
誰がケネディを殺したか42
▼再現3
一斉射撃は、現場を混乱させるのに十分であった。現場にいた目撃者は、それぞれ自分が聞いたり見たりした場所を素直に唯一の射撃現場だと思ったのだろう。だからこそ、前方から撃たれた、いや後方からだと、目撃証言が真二つに割れたのだ。
このため発射された銃弾の数も誰もわからなかった。ウォレン委員会は3発としたが、おそらく最低四発は発射されている。車に同乗していたコナリー・テキサス州知事が証言したように、ケネディに最初に当たった弾はコナリー本人に当たったのとは別の銃弾だ。ケネディに致命傷を与えたとみられる銃弾は、ザプルーダーフィルムが物語るように、前方から発射された可能性が強い。
これと似た手口は、その後も繰り返される。ロバート・ケネディ暗殺の際は、サーハン・サーハンという“犯人”がロバートに向かって銃を発射したドサクサに紛れて、おそらく本当にロバートに致命傷を与えた犯人が同時に至近距離から銃を発射した疑いが強い。
調整役としてのハントは、その後も健在だった。あのウォーターゲート事件では、ハワード・ハントが亡命キューバ人を使って民主党本部に進入させ、ハントは近くのビルから無線などで指示していた事がわかっている。
(続く)
誰がケネディを殺したか43
▼再現4
実行犯グループは、自分たちの犯行を隠すため、手の込んだ証拠隠滅工作をした。まず「芝の丘」では、銃撃後に駆けつけた警察官や目撃者の前に、ガイ・バニスターが立ちふさがり、シークレット・サービスの身分証明書を見せ、彼らを煙に巻いたとみられているあ。
その間に、実際の射撃犯はライフルと使ったばかりの薬きょうともども現場から姿を消した。元FBI捜査官で、当時はCIA工作員クレイ・ショウと犯カストロ工作に携わっていたバニスターにとって、シークレット・サービスの偽造身分証明書を携帯することも、警察官をだますことも訳のないことだった。
教科書倉庫ビルのそばでは、犯行グループの一人が、実際には狙撃が行われたダルテックスビルではなく、教科書倉庫ビルに目撃者らの注意が向くように仕向けたはずだ。教科書倉庫ビルにはオズワルドが「おとり」として配置されていた。ビルの6階にはマローによって購入されたライフルと薬きょう3発が狙撃現場に見せかけるため事前に置かれていた。ライフルはオズワルドのものだと推測できるように「ヒデル」名義(ヒデルはフィデル・カストロのもじりだと思われる)で購入されていた。
(続く)
誰がケネディを殺したか44
▼再現5
オズワルドは銃撃のあった間中、おそらく教科書倉庫ビル2階の社員食堂にいたのだろう。少なくとも12時15分までは同僚と一緒にその場所にいたことがわかっている。そして12時33分には、駆けつけた警察官とビルの管理責任者が同じ食堂でコークを飲んでいるオズワルドを目撃している。
ウォレン委員会の報告では、オズワルドがこの18分の間に、2階から6回に駆け上がり、ケネディに向けて3発ライフルを発射、狙撃後すぐに階段を駆け下りて再び2階でコークを飲んだことになってしまっている。しかもオズワルドはそのとき、息を切らした様子もなく、まるで何事もなかったかのように落ち着いていたのだ。
オズワルドはただのおとりであったことは明白だ。これはロレンツの証言の通りである。
ダラス警察が見つけたとするライフルについていたオズワルドの掌紋の一部については、犯行グループもしくはオズワルドを単独犯に仕立て上げようとしたFBIによって、でっち上げられたのだろう。確かなことは、実際にライフルを射撃したら残るはずの硝煙反応はオズワルドの頬から検出されなかったということだ。犯行に使われた凶器とみられるライフルと銃を携行した有名な“証拠写真”も、犯行グループもしくはFBIによって合成されたインチキ写真であることも自明であった。
(続く)
誰がケネディを殺したか45
▼再現6
オズワルドは確かに、犯行グループの一員ではあったのだろう。ただ、自分は操作を霍乱させるためのおとりであると思っていた。教科書倉庫二階にずっといることで、アリバイもあるはずだった。
ところが、犯行グループの真の狙いは、オズワルドとカストロを結びつけ、オズワルドを犯人に仕立て上げ、逮捕する際に殺してしまうことであった。オズワルドは、あやうく殺されそうになり、さらには犯人として逮捕されて驚いたに違いない。「誰も殺していない」「私はかもにすぎない」と記者団に語ったのも、正直な感想だった。
犯行グループがいちばん恐れたのは、オズワルドがグループのことをばらすことであった。「私はかもにすぎない」と口を割り始めたオズワルドを黙らせなければならなかった。ジャック・ルビーがその役目を果たした。
だがそのルビーも、最初は「陰謀は全くなく、私憤からやった」などとうそぶいていたが、死刑判決が下されると、気が小さくなり、段々と真相を語りはじめるようになった。その矢先の67年1月、都合よくガンで病死した。あるいは、これも口封じのために、何らかの方法で殺されたのかもしれない。
(続く)
誰がケネディを殺したか46
▼再現7
口封じを含む証拠隠滅工作は続いた。60年代にはCIAによる反カストロ活動にかかわった者たち、あるいは、反カストロ亡命キューバ人による恐るべき計画を知ってしまった人たちが次々殺される。
64年10月に殺されたメアリー・メイヤーもその一人だ。彼女は偶然、もう名キューバ人とCIAによるケネディ暗殺計画の存在を知ってしまったために、ロバート・マローから連絡を受けた亡命キューバ人の手によって殺されたのだ。マローがそのように証言している。
やがて70年代になって、CIAがマフィアを使ってカストロを殺そうとしていたことがわかると同時に、CIA自身が米国内で犯罪組織による非合法活動にかかわっていたことがわかり始めると、マフィア関係者を殺し始めた。関係者がこれほど露骨に、かつ大量に抹殺されていったケースも珍しい。
しかし、これほどCIAの関与を示す状況証拠がそろっているにもかかわらず、米国のメディアはCIA陰謀説を真剣に取り上げてこなかった。ハワード・ハントが民事訴訟で敗れ、CIAの関与が公になったときでさえ、マスメディアの取り上げ方は慎ましいものだった。その態度からは、まるで臭いものには蓋をするかのように、「もう陰謀説はうんざりだ」とする米国民のため息が聞こえてくるようだ。
それは事件の真相を知ろうとすればするほど米国社会の暗部が浮き彫りになってしまうからだ。自由社会のリーダー、自由と正義の国を標榜する米国民にとっても、また米マスメディアにとっても、暗部が明らかになることにより米国の威信が失墜することを望まないという深層心理が働いている。
(続く)
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