天の王朝

天の王朝

ハーバード経済日誌(2)


 ハーバード大学のあるマサチューセッツ州から車で北に二時間ほど走ると、山に囲まれた森林地帯に出る。湖水が点在する静かなこの地は、カナダとの国境も近いニューハンプシャー州。その州にあるアメリカ東部で最も高いワシントン山の麓に、あの有名な保養地ブレトンウッズがある。
ブレトンウッズは、一九四四年七月、戦後の国際経済体制の枠組みを決めるために開かれた会議の開催地だ。当時使われた、落ち着いたヨーロッパ風の赤い屋根のホテルは今でも、観光客が頻繁に訪れるリゾートの中心的なホテルとして使われている。ホテルの部屋もケインズ、ホワイトなど当時会議に出席した閣僚や代表者の名前が付いている。 
 さて、そのブレトンウッズの会議では、国際通貨基金(IMF)と国際復興開発銀行、つまり世界銀行(IBRD)の誕生が決まった。しかし、それ以前に、この会議では、かつての盟主国イギリスと実質的に新しい盟主国となったアメリカの間で激しい主導権争いが演じられた。
アメリカの代表は国務長官ホワイト。一方、イギリスの代表は経済学の巨星、ケインズ。
 ホワイトの案は、金本位制を基本にしながら為替の安定を重視するもので、国際収支の不均衡は国内政策を通じて是正されるべきであるとした。そのため、国際収支赤字国に対する融資は小規模にとどめるよう主張した。貿易についても、多角的で無差別の自由貿易を求めた。
 これに対しケインズ案は、かつて金本位制への復帰で金流出やデフレを引き起こした苦い経験から金本位制には基本的に反対の立場をとった。それよりも戦争で疲弊したイギリス経済の建て直しと成長促進を最重視し、国際収支調整のための低利の大規模融資を求めた。そのため、「バンコール」という国際通貨準備を用いた引き出し権を各国が持つ、大規模な国際清算同盟案を提案した。自由貿易にも懐疑的で、輸入数量制限や高関税といった差別的貿易政策を容認した。
この対立の背景には、大戦後は当然、最大の債権国となるアメリカと、同様に債務国になるのが必至のイギリス、それぞれの思惑の違いがあった。なるべく多額の融資を諸外国から得ようとする債務国の代表イギリスとしては、アメリカなど債権国が国際準備をため込んだまま、債務国への投融資を渋り、同時に債務国に対し失業増大やデフレにつながる緊縮的な財政政策を押し付けるのではないかとの懸念を抱いていた。一方、債権国としてのアメリカは、過度の財政負担を避けるため、海外への投融資に条件をつけるなど何らかの歯止めを掛けたかった。しかし、そのアメリカ政府内部でも、財務省は雇用問題を中心とする各国の国内経済事情を重視するという点では、ケインズ案に賛成だった。
 結局、国際経済の安定と国内雇用の安定を両立させるという観点から妥協点が見出された。ただ、実質的にはアメリカ側がケインズ案を退けた格好になった。このブレトンウッズの地で、アメリカを中心とする国際政治、経済秩序への足場が築かれたのだ。

●為替問題:固定相場制と変動相場制
 固定相場制であれば、為替リスクは存在しない。将来、一万ドルが必要になったとしても、一ドル=一〇〇円であれば、手数料は別にして、いつでも日本円で一〇〇万円あれば十分だ。ところが変動相場制であれば、どうなるだろう。将来、一万ドルが必要になったとして、たとえば、一ドル=一〇〇円が将来、一ドル=一二〇円と円安になれば、一万ドルを得るために一二〇万円が必要になってしまう。逆に将来、一ドル=八〇円と円高になれば、八〇万円で一万ドルが手にはいるわけで、得した気持ちになるだろう。
 では、何故リスクのない固定相場制から変動相場制へと移行したのか。答えは固定相場制が機能しなくなったためだ。
 一九四四年のブレトンウッズ会議で決まった固定相場制は、他国との通貨の交換レートを維持するため、各国の中央銀行が通貨を売買する義務を負っていた。アメリカは外国政府及び公的機関が保有するドルについて、純金一トロイ・オンス=三五ドルで交換することを約束した。日本は一九五二年八月に加盟、一ドル=三六〇円に設定された。
 さて、仮に日本が貿易黒字を出したとしよう。この場合、日本の製品が他の国で人気があり、たくさん売られているわけだから、円で代金を払う動きが強まり円高になりやすくなる。しかし、決められた交換レートを維持しなければならないので、日本は円の値上がりを防ぐため円を市場に放出し、替わりに外国通貨を買う羽目になる。問題は円を市場に放出すると、インフレになることだ。インフレを避けるために金利を上げれば、円高要因になってしまう。逆に、米国が貿易赤字を出したとしよう。この場合、先ほどと同様の理由で今度はドル安になりやすくなる。
国内政策と矛盾する傾向が強いため、結局、固定相場制を維持することができなくなってしまうのだ。

●ニクソンショック
 「ニクソンメモ」などの著述で知られるハーバード大学ケネディ行政大学院のマービン・カルブ教授はリチャード・ニクソンに会ったときのことを次のように話していた。「ニクソンはすべて自分を中心に考える。自分の妻を紹介するときも、これは私の妻と言わず、これはニクソンの妻であると話すのだ。ニクソンの家、ニクソンの書斎、ニクソンの娘、ニクソンのホワイトハウス、ニクソンのアメリカ」ー。
 アメリカ政治史上、ニクソン大統領ほど興味深い人物はいない。ウォーターゲート事件で一躍悪名を馳せたダーティーな政治家としての一面と、中国との国交回復、ヴェトナムからの地上軍撤退などの外交政策を進めた決断力ある政治家としての面、それに経済史的にも後に変動相場制への移行につながった金・ドル交換停止を決めた国際金融に大きくかかわった大統領としての面があり、研究対象として興味が尽きない。
史上初めて現職の大統領が辞任に追い込まれたウォーターゲート事件をここで紹介するのは省くが、経済史上に残る金・ドル交換停止については触れないわけにいかない。
 一九七一年七月、ニクソン大統領が金・ドル交換停止と輸入課徴金の導入を発表した背景には、アメリカの競争力低下、国内インフレ、それに続くドルの価値下落があった。ブレトンウッズ会議で西側世界の盟主になったアメリカだが、やがてヨーロッパ諸国や日本が復興し、経済発展を遂げると、相対的にアメリカの競争力が低下した。さらに追い打ちをかけたのが、ケネディ、ジョンソン両政権時代にケインズ経済型の大型財政支出を実施したためインフレを招いたことだ。特にジョンソン大統領は、既にケネディ政権時代の減税や財政支出増加策によってアメリカの完全雇用状態といえる失業率四%を達成していたにもかかわらず、さらに大規模な福祉政策を実行したため社会保障費が急増、インフレに拍車を掛けた。一九六五年以降はヴェトナム戦争拡大で戦費が膨らみ、その歳出増大を補うための増税も議会の反対で大幅に遅れ、財政状況が悪化した。
 競争力低下を背景にアメリカの貿易収支も黒字幅がどんどん縮小、一九七一年にはついに二十三億ドルの赤字に転落した。それ以前、アメリカは基軸通貨国としてドルの増発を実施したが、これがドルの信認喪失につながった。その矢先、アメリカのドル垂れ流しやヴェトナム政策を批判したフランスが手持ちのドルを金と交換したことから、アメリカからの金の流失が続き、一九六八年にはロンドン金市場が閉鎖されるなど金・ドル本位制が崩れ始めた。
ニクソン大統領はこうした窮状を脱するため、金・ドル交換停止と輸入課徴金の導入を決めた。これはブレトンウッズ体制の事実上の崩壊と保護主義貿易の台頭を意味していた。
 まず、ブレトンウッズ体制の支柱ともいえる固定相場制が、この金・ドル交換停止とその後のスミソニアン合意でのドル切り下げなど為替調整により崩壊、新たな固定相場制(スミソニアン体制)を誕生させた。それでもアメリカの貿易収支は一向に改善されず、とうとう一九七三年二月、ドルが再切り下げされたのを契機にして、翌三月、主要通貨は一斉に変動相場制に移行した。
次に、ニクソン大統領の経済政策は、自国の経済利益保護を最優先したものだった。関税と貿易に関する一般協定(ガット)違反であった輸入課徴金賦課のほかに、一九七四年通商法は、ガットのセーフガード(緊急輸入制限)の発動条件を一方的に緩和してガット枠内で保護貿易措置をとれるようにしたものだった。特に対米貿易黒字が突出している日本に対しては、繊維、鉄鋼、テレビ、自動車、半導体、自動車部品などの分野で輸出自主規制や市場秩序維持協定などによる管理貿易的な政策がとられた。
 こうしてニクソン大統領は、良い悪いは別にして、投機的資本移動により乱高下する変動相場制への道を開いただけでなく、各国が貿易シェアをめぐり戦略的な管理貿易をするという貿易摩擦、あるいは貿易戦争の口火を切ったのだ。

●景気後退の定義
一九八〇年の大統領選で共和党のロナルド・レーガンと、民主党のジミー・カーターが争ったとき、カーターの経済政策を攻撃したレーガンが景気についての絶妙の定義を披露した。「景気後退とは、あなたの隣人が失業するとき。不況とは、あなた自身が失業するとき。そして景気回復とは、ジミー・カーターが失職するときだ」
こうした政治的ジョークはさておき、景気後退の定義は以外とあいまいな点が多い。ハーバードなどアメリカの大学では国民総生産(GDP)の伸びが四半期二期連続でマイナス成長の場合、景気後退とみなし、二年連続でGDPがマイナス成長の場合不況とみなす、などと教えているが、別に国際的に認められた定義があるわけではない。ただ分かっているのは、景気は、好況、景気後退、不況、景気回復を繰り返すということだ。
 今日発表された日本の国民総生産(7~9月)は前期比で〇・一%増、年率換算で〇・三%増の伸びにとどまった。数字上はまだ好況といえるだろうが、これまで続いてきた好景気の波にもやや減速の兆しが見られるようになってきたことは確かだ。

●GDPって何?
昨日の日記で国内総生産(GDP)について触れたので、ついでにマクロ経済を学ぶうえで基本中の基本とされるGDPの恒等式について紹介しよう。ハーバードでもマクロ経済の授業を取れば、必ず最初の頃の授業で教わることになる。だが、ご安心を。それは極めて簡単だ。覚えておいて損はない。
GDPとは、ある国の経済の規模を測る尺度の一つだ。その伸び率がわかれば景気の状態も知ることができる。
GDPをYとすると、
Y=G+C+I+(X-Im)
という恒等式が成り立つ。これがマクロ経済学の真髄だ。つまりその国の経済規模は、政府購入(G=government purchases)、消費(C=consumption)、投資(Investment)、それに輸出(X=exports)から輸入(Im=imports)を引いた純輸出の合計で決まるということだ。景気とは結局、このYが増えるかどうかの問題にすぎない。
政府購入とは何かなど個々の項目やどうやったらYを増やすことができるかについては今後の日記で紹介していくが、まずこの単純化された等式さえ覚えればマクロ経済学など怖くない!
 ちなみに今日(13日)の朝日新聞朝刊11面の経済欄のGDPの記事1行目に、「国民総生産(GDP)」と書かれていますが、「国内総生産(GDP)」の誤りです。国民総生産はGNP。GNPとGDPの違いは、GDPがあくまでも日本国内の経済活動を対象にしているのに対して、GNPが日本の国籍を持つ人が海外でモノやサービスを「生産」した場合の金額も合わせて集計されること。経済記者も時々うっかり間違えるので、朝日新聞になり代わり、お詫び申し上げます。実は私も、昨日午前の日記で最初「国民総生産(GDP)」と書いてしまいました。夜にはちゃんと訂正しましたが・・・。

●政府購入=Government purchases(引き続きGDPについて)
GDPは、政府購入(G=government purchases)、消費(C=consumption)、投資(Investment)、それに輸出(X=exports)から輸入(Im=imports)を引いた純輸出(net exports)の合計だと昨日書いたが、では政府購入とは何だろうか。
それは簡単に言えば中央政府や地方政府による消費だ。政府がモノを買ったり、サービスに対する代価を払ったりすればそれは政府購入となる。政府が景気対策として道路を建設するなど公共事業を増やすのもこのためだ。どこかの大国のように武器を買うなど軍事支出を増やして自国の景気を向上させようとする不届きな国もある。しかも他国に一方的に戦争を仕掛けて破壊し、その国の復興事業まで自国(チェイニーらにとっては自社や自分)の利益にしてしまおうという、とてもまともな人間とは思えない冷酷・非情さ。放火殺人犯が自分で放火した家を消火してカネを取るようなものだ。私だったら、そんな国のモノやサービスは極力買わないようにする(たぶんに無理な部分はあるが、現在密かに「単独不買運動」を実施中)。
さて景気対策のための政府の支出といっても、政府が何でも出費すればいいというものでもない。残念ながら政府から個人へと資金が移動するだけの社会保障や福祉関連支出は入らない。こうした支出は資金移動であって「購入」ではないからだ。
また、政府支出を増やしすぎると、財政赤字という「負の遺産」も残す。その赤字を埋め合わせるために国債を大量に発行すると、利回りをよくしないと国債を買わなくなる。その結果、市場金利の上昇を招き、民間投資を抑制するという「クラウディングアウト(追い出し効果)」を引き起こしてしまう(金利上昇で投資資金の調達コストが上がるうえ、本来なら投資に向かうはずの資金が利回りのいい貯蓄に回ってしまうから)。
景気対策としての政府支出に限界があるのはこのためだ。

●消費=Consumption
引き続きGDP:Y=G+C+I+(X-Im)の話。
昨日はGの政府購入の話を書いたが、今日のテーマはCの消費。この場合の消費とは、一般家庭(いわゆる消費者)がモノやサービスを購入することをいう。では消費はどうやったら増えるのだろうか。その一つの方法が減税だ。減税は各家庭の可処分所得を増やす。家計に余裕が生まれれば、自動車や高級家電、ブランド物のバッグなど買いたかったものを買おうとするかもしれない。
これに対して、減税は消費に結びつかないという考えもある(バローの中立性命題)。いま減税をしても、その分を補うために将来増税することが予想されるため、消費は拡大しないのではないかという説だ。確かに減税分がすべて消費に回るとはかぎらない。将来に備えて貯蓄に回る可能性も大きい。
おそらく減税が消費拡大につながる場合というのは、将来に対する不安が払拭されたときだろう。景気が上向きはじめ、将来リストラもされず自分の給料も上がると感じられるようになったとき、減税の効果は上がるだろう。
消費を増やすもう一つの方法が金利の引き下げだ。金利が低くなると、貯蓄しておいても利回りを期待できなくなる。銀行にお金を預けておいてもうまみがない(利子が少ない)とわかれば、モノを買おうとする人も増える。金利が下がれば、借金もしやすく(ローンも組みやすく)なり、車など高級品を買おうとする人が増えるわけだ。ただし、貯蓄や年金で暮らしている高齢者にとっては厳しい生活となってしまう。また、将来に対する不安が大きいとたとえ金利が下がっても消費は増えないだろう。日本で一時期(あるいは今も)、金利が低くても消費が伸びなかったのはこのためだ。

●投資(Investment)
今日はGDPの恒等式のI=Investment(投資)の話。
投資とは将来のために購入されるモノのこと。企業による新工場建設や新設備の購入のほか、個人による新築住宅の購入なども含まれる。厄介なのは、中古の家やマンションなどを買った場合は投資とはみなされないこと。もちろん買った人から見れば、中古のマンションであろうと投資だ。だが、売った人から見れば投資をやめることになり、相殺される。このため経済学者はこれを投資とは認めない。
これに対し大工に頼まず自分で新しい家を建てたら、これは立派な投資。なぜなら新しい家という財産を創り出したからだ。同様に、市場に出回っている株を購入することも投資とはみなされない。ただし、企業が自社株を売り、その売却代金を工場建設資金にするのは立派な投資とみなす。
消費刺激と同じ原理だが、投資を刺激するには、金利を下げることだ。単に借金返済の負担が軽くなるだけでなく、カネが借りやすくなり、もっと投資しようと思う人や企業が増えるからだ。
では誰が、金利を下げてくれるのか。その主役が各国の中央銀行(日本の場合は日銀)。公定歩合(中央銀行が市中銀行に貸し出すときの金利)など政策金利を動かしたりして、市場金利に影響を与える。政策金利が下がれば、それだけ市中
銀行はカネを借りやすくなり、したがって市中銀行が個人や企業に貸し出す金利も下がり、個人や企業もカネが借りやすくなる。すると、企業による新たな設備投資や個人の新築住宅購入が増加し経済が活性化するという仕組み。逆に政策金
利が上がると、カネが借りづらくなり、経済活動は抑制される。
 ただし、金利がきわめて低い状況では、利下げ効果は著しく低下することがある。一時期の日本がそうだったといわれているが、これを「流動性のわな」と呼ぶ。
こうした金融政策はタイミングが勝敗の分かれ目となる。日本は80年代後半、長期間にわたり低金利を続けたため、バブル経済を生み出してしまった。今の低金利も必要以上に長く続けると、バブル経済が再来する?

●輸出(Exports)と輸入(Imports)
これまで話した政府購入(G)、消費(C)、投資(I)はいわゆる内需(国内需要)の話だが、今回は外需にかかわる話だ。日本はかなり外需に依存しているとして、アメリカから「日本は内需を拡大しろ」といつも批判される。貿易大国ニッポンとしては痛いところだ。ただしその貿易大国の称号も、いずれは中国に譲ることになりそう。
(X-Im)とは、輸出売上額から輸入支払額を引いた貿易収支のこと。輸出の増加はGDPにプラスに働き、輸入の増加はGDPにマイナスとなる。ということは、国内経済を成長させるためには、輸入制限や高率の関税で輸入を抑制し、輸出奨励金など補助金を使って輸出を拡大すればいい。しかし、各国が同じようなことをしたら、貿易戦争が世界中で起きる。世界貿易機関(WTO)では、そうした閉鎖的な貿易をしないよう政策調整や仲裁を行っている。
補助金や輸入制限といった露骨な貿易黒字拡大策ではなく、間接的に貿易黒字を増やす方法もある。自国通貨の価値を下げればいいのだ。そうすれば自分たちが輸出する製品の値段が相対的に下がり、他国の製品に比べ価格面で有利になる(輸出競争力が増す)。
通貨価値を下げるためには、中央銀行が貨幣供給量を増やす方法が手っ取り早い。お金が市場に余計に出回れば、カネの価値が相対的に下がるからだ。その貨幣供給量を増やすには、中央銀行が公開市場操作(open market operation)をする方法が効果的だ。中央銀行が市場から国債を買う(買いオペレーション、略して買いオペ)と、その代金が市場に出回るため流通している現金通貨量が増大する。逆に中央銀行が手持ちの国債を市場で売ると(いわゆる売りオペすると)その代金が中央銀行に入るため、市場に流通する現金通貨量が減る。すると、通貨価値が高くなる。
こうして貨幣供給量が増大すると、自国の通貨価値は下がるが、すぐに貿易黒字が拡大するわけではない。為替レートが下落しても、最初のうちは輸出数量が増えず、逆にレートの下落で輸入金額が上昇するからだ。貿易の売買契約が三カ月後とか四ヵ月後のレートで決算する場合があり、必ずしも現時点でのレートで決算しないというタイムラグもこの現象の一因になっている。このように通貨価値の変動が、最初は貿易黒字の拡大や縮小とは金額的に逆の方向に動き、やがて本来動くべき方向へと変化していくことを、Jの字に似ていることからJカーブ効果と呼んでいる。
さて、以上がGDPの話。難しいところもあったかもしれないけれど、この恒等式を知ってマクロ経済の記事を読めば、理解度が進むはずだ。実質GDPと名目GDPの話はまたの機会にします(なお、ここで記したGDPの説明や構成要素の定義などについては、ハーバードケ・ネディスクールでマクロ経済の教科書として使ったグレゴリー・マンキューの『Macroeconomics』を参照にしています。邦訳も出ておりますので、興味のある方は読んでみてください。結構判りやすく書かれており、お薦めです)。

●スタートレックトと人種問題
ハーバードにいた頃、テレビで「スタートレック」シリーズをよく見た。アメリカは再放送も頻繁にやっており、初代キャプテン、ジェームズ・カークのシリーズ、ジャン・ルック・ピカードの「ネクスト・ジェネレーション」シリーズ、宇宙ステーションを舞台にした「ディープスペース9」(黒人司令官ベンジャミン・シスコ)シリーズ、女性艦長キャサリン・ジェーンウェイの「ボイジャー」シリーズ、をすべて同時にやっていた。
アメリカは潜在的な人種差別意識が根強く残っている国であるだけに、人種に対しては敏感だ。少数民族を、定員の一定割合入学させたり雇用したりしなければならないアファーマティブ・アクションがあるのはご存知だろう。そしてスタートレックも、お気づきのように、それぞれのシリーズの艦長に女性がいたり、黒人がいたり、クルーにも少数民族を入れたり、一応人種に配慮している。ただしアジア人やラテン系の艦長は登場しない。2001年から始まっている新シリーズ「エンタープライズ」の艦長も(私はまだ見たことがないが)、ホームページで見るかぎりは白人。カークとピカードは欧州系白人で、やはりアメリカは白人至上主義的な色彩が強い。まあ、カークとピカードの違いをしいて挙げるならば、髪の毛の不自由な人にも配慮したということか。
「スタートレック」は実に1960年代に生まれた。当時冷戦・軍拡競争の真っ只中で、スタートレックでも地球を中心とする惑星連邦は、ロミュランやクリンゴンと一触即発の緊張関係を保っていた。やがて70年代になり、ニクソンの電撃的な中国訪問により当時ソ連とギクシャクしていた中国と国交を開くという外交上の大転換があった。クリンゴンが連邦に加わったのもこのころだ(もちろんタイムラグはある)。つまり、クリンゴンは中国、ロミュランはソ連にほかならない。スタートレックは現実の国際政治からヒントを得てシリーズが展開されてきたといえる。
ではあの「抵抗は無駄だ」と言って次から次へと宇宙船や乗組員を吸収、宇宙市場を席巻していくボルグはどこの国か。おそらくヒントは画一的でロボットのような日本人をモチーフにしたのではないかと思っている。フェレンギもアメリカ人が描く日本人に似ている。90年代には貿易黒字国日本に対する脅威論が台頭していた。おそらく冷戦終結の話も探せば簡単に出てくるだろう。詳しくプロットと現実の国際政治を比較すれば、かなりパラレルなエピソードが発見できるはずだ。

●スタートレックとアメリカ人
アメリカに滞在中は「スタートレック」シリーズを面白がって見ていた。宇宙に存在する多種多様な宇宙人を比較的好意的に取り上げている点など評価できる内容もあったからだ。とくに「Q」というシェークスピア的「達観した道化」を登場させたことを私は高く評価している。だが次第に、地球を中心とする惑星連邦が独善的なアメリカにみえてきたこともあり、今は見たいと思わない。断っておくが、「スタートレック」はましなほうである。私がアメリカにいたころ(1996~99年)上映していたSF映画『インディペンデント・デイ』や『スターシップ・トゥルーパー』などは宇宙人を徹底的に悪く描き、「正義」の地球人がその「悪」を退治するという吐き気を催すようなヒドイ内容だった。あれをアメリカ人は喜んで見ているのだから、アフガン侵略やイラク戦争と構図は同じである。『インディペンデント・デイ』では、最後のほうでアメリカ人パイロットが神風特攻隊のように敵の宇宙船に突っ込み、自爆攻撃を成功させるのだが、もちろん彼は映画の中では「テロリスト」ではなく、「英雄」として描かれていたことを指摘しておこう。アメリカ人に想像力があれば、少しはパレスチナ人の苦悩やファルージャで起こった惨劇に思いを馳せることができるかもしれない。
多くのアメリカ人をあのように単純な思考の人種にしてしまった要因の一つは、ハリウッドのバカ映画の存在があるような気がしてならない。ほとんどの映画は登場人物を善悪に色分けし、悪を「成敗」する正当性を強調するパターンだ(日本の御伽噺『桃太郎』もこの類)。アルカイダだけでなくサダム・フセインやタリバンまでも徹底的かつ一方的に「悪」として描くアメリカの報道姿勢も、おそらくハリウッドの手法にならったのだろう。アメリカの報道を見るかぎり、99・9%の割合で米軍は「正義の軍」であり続けた。
思い出してほしい。あのウォルフォウィッツや「暗黒の貴公子」と呼ばれるリチャード・パールらのネオコンたちは、大儀もないイラク戦争を「正義のための戦争」「イラク人のための善意の戦争」と言ってのけ、それを多くのアメリカ人が信じたのだ。意図的かどうかは知る由もないが、ハリウッドを利用したアメリカの「洗脳」はかなり深く、重症であるとしか言いようがない。
日本人は果たして、多くの独善的なアメリカ人とは違うのだろうか。今夜宮崎駿監督の『もののけ姫』がテレビで放映されるが、弥生人に滅ばされた縄文人(原日本人)の歴史にまで思いを馳せていただければと願う次第である。

●スタートレックとアメリカの戦争
「スタートレック」の話は今日で最後にするつもりだが、今のブッシュのアメリカがやっているように、自国の利益のために他国を侵略することを我々が許してしまうと、おそらく遠からぬ未来において地球人が宇宙に進出したときに、同じようなことが起きてしまうだろう(あるいはもうすでに起きている)。おそらく「正義」の地球人は、「惑星連邦」の名の下に他の惑星を侵略し、その惑星の資源を搾取するだろう。そのときになって心ある者はやっと、かつてSFの世界で悪役を演じていた宇宙人が、実は地球人(とくにアメリカ白人)にほかならないことに気づくはずだ。

およそスタートレックの世界では(もちろん他のSFの世界に比べればまともなほうだが)、他の惑星の人々を地球人よりも劣ったとまではいえないが、ずるがしこい生き物(フェレンギ)か、野蛮な生き物(クリンゴン)のように描いている。いわば地球人(白人)至上主義だ。ちょうど多くのアメリカ人が世界の他の民族(とくに有色人種=白人を有色人種と区別する考えもおかしいが)のことを理解せずに、その歴史や文化を無視・軽視して、武力や経済力を背景に自分たちの価値観や英語という言語を押し付けるのと同じである。アメリカ人の多くがアメリカを自由で正義の国であると信じているように、スタートレックの世界でも地球人は多くの場合「正義」の宇宙人だ。しかし、スタートレックに出てくる、ずるがしこくて醜い宇宙人こそ、地球人の特徴であることを知るべきだ。

アメリカが今後、宇宙で展開するのであろう戦略防衛構想(SDI、通称スターウォーズ)にせよ、人工衛星を利用した恐怖の監視システムにせよ、アメリカのすることは、スピルバーグのSF映画「スターウォーズ」に出てくる「帝国」がやっていることに極めて似てきている。やがて「デス・スター」を建設して、帝国に刃向かう「テロリストたち」を焼き尽くす恐ろしい大量殺人システムができ上がるかもしれない。

●夏季コース
社会人になって14年も経ってから学生に戻るとなると、そのギャップが大変だった。まるで浦島太郎状態。ハーバードなど各大学院はそうしたギャップを埋めるために、社会人新入学生向けに夏季コースを実施している。

そのなかで数学は面白く、ためになった。なにしろミクロ経済学をやるために、20年ぶりぐらいに微分や積分をやらなければならなくなったのだから。私は文系で大学ではフランス文学を専攻していたから、数学を最後に習ったのは高校二年の数2Bだった。微分のやり方もとっくに忘れていた。

それでも数学に関して言えば日本の学生は優秀で、クラス分けをすると、必ず最上級クラスには日本人か、イスラエル人、インド人、あるいは理系を専攻した人が集まった。アメリカ人の数学の実力は本当に低く、大学院の入るために必要なGREやGMATの中にある数学のテストも、日本の中学レベルの実力があればまず満点が取れるような内容になっている(もっとも数学で満点近く取らないと、日本人が「合格点」を取るのはむずかしい)。数学に関して日本人は自信をもっていい!

夏季コースでは、こうした数学のほかに英語での発表の仕方や論文の書き方についても習うほか、模擬授業などをやり、学生として求められるテクニックなどを教えてくれる。学生生活ではリーディング(本や資料を読むこと)の宿題も多いことから、速読の仕方も習った。こうして夏の間に、学生生活を生き残るためのサバイバル・テクニックを学ぶわけだ。

●速読法1
昨日書いた夏季コースで、もっとも実用的に役立ったのが速読法だった。とくに私たちのように英語を母国語としない学生には、出口の見えない絶望的な砂漠の中でオアシスを見つけたようなものだった。夏季コースの講師いわく、「どうせ(ネイティブスピーカーではない)あなた方はリーディング・アサインメントの資料を全部熟読するのは無理でしょうから、速読法を教えましょう」ということで教えてもらった。

その速読法について書く前に、ハーバード行政大学院(ケネディスクール)の読書量にも触れておこう。おおよその分量は一クラスにつき一回の授業で70~100ページ(しかも内容の濃い学術書や論文ばかりで、なかなか読み進めない)。最低4クラス週2回(一回90分)の授業を取らなくてはならないから、単純計算すると最大週700~800ページも本や資料を読まなくてはならなくなる。はっきり言って、これはシンドイ。

もちろんリーディングが少ないクラスもあるので、学生たちはうまく学科を組み合わせて息抜きのクラスも作る。といってもリーディングの少ないクラスは、「クイズ」などの宿題やグループディスカッションや研究発表などのアサインメントが多く出るので、本当に生き抜きできる学科などはない。しかも学期末になると、このリーディングのほかにファイナルペーパーの提出やら何やら大忙しになるので、速読法はサバイバル・テクニックの中でも最も重要なものだと言っていいだろう。

●速読法2
速読の決め手は、いかに短時間で筆者の趣旨を間違いなく理解するかだ。だから最初から最後まで順番に漫然と飛ばし読みしても拉致があかない。要所々々を締めるような読み方が求められる。

では要所とはどこか。まず当然のことだが、タイトルと目次。これは構成を知るための要所だ。次に前文(イントロダクション)を集中して読む。そして真ん中部分をいっさい読まずに、あとがきや結論部分を集中して読む。イントロと結論部分という要所を読めば、少なくとも筆者が何を言いたいのかが、誤ることなく理解できるはずだ。

次に、各章やセクションの初めと終わりのパラグラフ(一段落だけ)をしっかり読む。これにより、各章やセクションの流れがわかる。さらに理解を深めるためには、飛ばして読まなかったパラグラフの初めと終わりのセンテンス(一文章だけ)を読む。つまり、最初を読んで終わりを読み、最後に真ん中を読むというパターンを基本的に繰り返すのだ。そうするだけで、驚くほど作者の言いたことが理解できるだろう。これで終わり。この読み方で論文や本を読めば、おそらく二分の一ぐらいの時間で、完読したのとほぼ同じぐらい内容を理解することができる。

なぜ、そのようないい加減な読み方で済んでしまうのか。それは英語の書き手(著者)がそのような構成で書く習慣を身に着けているからだ。基本的に書き手(あくまでも英語の場合)は、各パラグラフの最初と最後のセンテンスにかなり重要な文章をもってくる。同様に、各章の最初と最後のパラグラフにも重要な段落をもってくる。当然、イントロと結論部分にもその論文の核となる要素をもってくる。とくに結論部分や各章の最後には、筆者は全精力をつぎ込み、核となるアイデアを入れようとする。要するに読者は、その重要なアイデアや部分だけを集中して読めば、あとの細かい部分は飛ばして読んでも支障が出てこないわけだ。

私も最初は半信半疑だった。だが、学期が進むうちに読書量が私の能力を超えてきたので、この速読法に頼らざるを得なくなった。「要所」だけを集中して読む。そして読みながら、各章や各パラグラフの最重要センテンスと思われる文章を書きとめておくようにした。これは後に論文やペーパーを書くときに引用が楽にできるからだ。慣れてしまえば、こうした方法は意外に簡単で、その後の大学院生活でも多大な効力を発揮した。

とにかく一教科だけなら、リーディング・アサインメント(つまり論文を読む宿題)をこなせるかもしれないが、四教科のリーディングをこなすのは、私たちのような「外国人留学生」にとっては不可能に近い。リーディングをしてこないと、次第に授業にもついていけなくなる。私は速読法を使って何とかこなすことができた。学期末の一番忙しいときに、六〇〇ページものリーディングの宿題を三日で終わらすことができたのも、この速読法のおかげだった。

●論文・ペーパーの書き方
一番陥りやすい悪い論文・ペーパーの例は、イントロダクションでこれから書くことについて書き、本論に入ってイントロで触れたことについて書き、結論部分ではこれまで書いたことをまとめる、といったパターンだ。これでは何も言っていないに等しい。

一言でイントロといっても、ただ漠然とこれから書くことを紹介すればいいというものではない。まずイントロでは、なぜこのテーマを撰んだのかといったテーマの意義付けのほか、必ずその論文の主題を書くことになっている。論文の主題はイントロの最後に来る場合が多い(昨日の速読法2を参照してください)。

具体的に言うと、たとえばブッシュ大統領の問題点を論文のテーマに取り上げた場合、ブッシュの愚かな言動がいかに世界に影響を与えるかと言った意義付けを最初のパラグラフで書く。そしてイントロの締めとしては「ブッシュは史上最悪・最低の米大統領である」とか「ブッシュほど頭の悪い大統領は今後人類には誕生しないだろう」とかいった主題が必要になるのだ。

主題は主張のあるセンテンス(文章)でなければならない。「ブッシュの大統領としての器について書く」とか「ブッシュとキリスト教原理主義について書く」といったような主張のない文章ではいけない。だから何なのかまで踏み込まないと主題のセンテンスを書いたことにはならない。たとえば「ブッシュの狭量さが、人類を危険な世界へと導いている」とか「ブッシュの狂信的な言動の源は、キリスト教原理主義から来ている」といった趣旨の主張を明確にするわけだ(必ずしも断定的に書く必要はない)。

ボディの部分(つまりイントロ後の本論の部分)では、イントロで挙げた主題に向かって、具体的な論述を展開する。ブッシュがいかに無能で邪悪であるか、いかに地球にとって危険な人物であるかを具体的な例を挙げて説明するのは、そう難しいことではないだろう。ブッシュの無能、邪悪ぶりを分析・分類しながら話を進める手もある。ブッシュの無能、邪悪ぶりを生い立ちなど歴史的観点から論ずるのもいいだろう。

しかし、ここで気をつけなければいけないのは、一方的にブッシュを批判するだけでは論文は成り立たないということだ。必ず、カウンター・アーギュメント(つまり反論)を想定した部分が求められる。自分の主張とは異なる意見を紹介し、それについて論駁することが求められるのだ。たとえば、ブッシュはまれにみるバカだが、そのバカさ加減がなければ、リビアのカダフィ大佐は核開発計画を放棄しなかっただろう、とか、ブッシュの戦争主義のおかげで中東に民主化が進むのだといった自分とは異なる意見を紹介したうえで、それがいかに事実と違った評価であるかを、実例を挙げながら論駁していくのだ。

こうしてボディ部分が終われば、いよいよ結論部分である。これはあくまでも一例だが、イントロで示した主題がいかに正当な主張であったかを別の観点から論じる。たとえば「このように地球にとって危険な人物をこのまま放置しておくと、テロは根絶どころかますます増え、温暖化はますます進み、地球の住民は恐怖におののくことになるだろう」といった今後の展開について触れるのもいい。歴史を遡り、ブッシュのようなやり方がいかに悲劇を呼ぶかなどに言及するのもいい。最後に、自分が選んだ主題の広がりを示して終わる。

英語で書く論文の大体の構成は以上のとおりだ。では私自身は、いい論文を書いていたのかと聞かれれば、時々できの悪い論文・ペーパーを書いていたことは認めざるをえない。ケネディ・スクールではAは一度しか取れなかった。それも報道記者出身のマービン・カルブ教授のメディア論だけ。つまり、新聞記者を14年も経験した学生ならAを取るのは当たり前といえば当たり前のテーマだった。他の授業に関して言えば、Aマイナスが多く、Bプラスのペーパーもあった。

●成績1
大学院を卒業するだけの成績を取ることは、そんなに難しいことではない。ケネディ・スクールの場合、Aが4、Aマイナスが3・67、Bプラスが3・33、Bが3、Bマイナスが2・67、Cプラスが2・33、Cが2などと計算して、そのグレードポイントアベレージ(平均点)が3以上であればいい。一年コースの場合、秋と春の二学期制でそれぞれ4単位(教科)づつ年に計8単位取り、その平均点がB(3・0)でいいということだ(二年コースの場合、16単位で平均点B)。つまり、Bマイナスを一つ取ってしまった場合、Bプラスを一つさえ取れば、残りがすべてBでも卒業できる。

秋学期は九月一〇日前後に始まり、一〇月中旬には中間試験がある。最初は学生もどれだけ勉強すれば、どれだけのグレードがもらえるのかわからないため、中間試験までは死に物狂いで勉強する(もちろん、猛勉強しない学生もいる)。中間試験の結果、「これだけやれば、こういうグレードがつくのか」という感触がつかめるため、人によっては手を抜いたり、また人によっては顔が青ざめたりするわけだ。

グレードは相対評価だから、大学側はAをとる人がいれば、Bマイナスをとる人もいるようにばらけるようなグレードを好ましいと考えているようだ。みんながBプラスを取るような付け方はしない。その結果、90点取ってもAを取れない場合もあれば、85点でAの場合もある。平均点をかなり下回れば当然Cもつく。

成績の分布図を見ると、だいたいBプラスとBの中間ぐらいに平均点が来るようにしているようだ。ということは、普通に勉強している学生なら、BかBプラスを取れるということでもある。

さて、私も最初は、久しぶりの学生生活を乗り切れるかどうか不安だったので、中間試験までは全力投球した学生の一人だった。

結果は? 

私は1単位多い、5単位を取っていたが、顔の5分の3は笑顔で、5分の2は少し青ざめていたかもしれない。

●ミッドキャリア
ハーバード・ケネディ行政大学院には社会人になってから入る学生が多い。私が取った修士課程も、ミッドキャリア(mid-career=つまり社会人)のための行政学修士号のコースだった。社会人として約10年以上のキャリアがある人を対象としたものだ。

大学を出たばかりの若い人が取得する修士号と違うところは、彼らが2年で卒業するのに対して1年で卒業できること。高額な授業料(年約2万ドル)のことを考えると、「半額で卒業できるのでバーゲンみたいなものだ」と冗談を言う同級生もいた。

その同級生だが、世界中から集まってきている。平均年齢は36~38歳。大臣経験者も少なくとも三人はいた。ウガンダの国務大臣、アルゼンチンの文部大臣、それにコロンビアの大臣(何大臣だかは忘れてしまった)だ。局長経験者や外交官、国連職員も多い。私のようなジャーナリストも、米国人が3人ほど、韓国から二人、フィジーから一人来ていた。中国から逃れてきた核物理学専攻の学生もいた。

先の日記にも書いたが、二〇〇〇年の大統領選で暗躍した(マイノリティーへの選挙妨害など不正のかぎりを尽くしたといわれている)悪名高いフロリダ州務長官キャサリン・ハリスも、残念なことに私のクラスメートだった。当時ハリスは共和党下院議員で、週末はよく自分の選挙区であるフロリダに帰っていたようだ。ハリスがあのような悪辣なことをするのがわかっていたら、あの時いじめておくのだったと後悔するばかりだ。

日本からは、役人が80%ぐらいを占め、大蔵省、通産省、防衛庁、運輸省(いずれも当時)の出身者がいた。後の20%ぐらいが、ソニーやNTTといった民間企業の社員や私のようなジャーナリストだ。日本の役人の授業料や生活費はすべて我々の税金(血税)から出費されている。「ああ、私の税金も彼らの授業料を払うために使われていたのか」とぼやきたくなる。

日本の役人にとっては、どちらかと言うとこうした留学は「ご褒美」のようなもの。彼らの言う「滅私奉公」を何年かした後、あるいは主計局など激務の職場を経験した後、その苦労に報いるシステムの一環として留学制度があるようだ(もちろん当局は否定するが)。その間、ちゃんと給料ももらえて、私から見れば至れり尽くせりのように見えた。私の場合は、授業料も生活費もすべて自分で稼いだ金(血と汗)をつぎ込んだ。

さて、ミッドキャリアは人生の途上という意味でもある。私たちの間で流行っていたのは、「ミッドキャリア・クライシス」という言葉。人生の途上で、自分がこれから何をやっていけばいいかわからなくなり、パニックを起こすといったような意味だ。人生の危機とも訳せる。会社や役所から派遣されている学生と違って、私は会社を辞めてボストンに来たので、危機感はもっていた。これから私がどうなるかは「神のみぞ知る」だった。しかし、人生の一時期をハーバードで過ごしたことは、いろいろな意味で非常に価値があった。

これとは別に流行った言葉に「ミッドナイト・クライシス」というのもあった。これは明日までにやらなければならない宿題やペーパーが一向に進まず、真夜中になってパニックを起こすといった意味だ。こちらのほうは、すべての学生が多かれ少なかれ味わう危機感・焦燥感だろう。

●ショッピングの日
ハーバードに限らずアメリカの大学では新学期が始まると、まず「ショッピング」をする。ショッピングといっても、何かを買うのではなく、面白そうな講座に顔を出して、その講座が「買う」に値するかどうか、自分に向いているかどうかなどをチェックするのだ。大学側はショッピングの日を二日間設けていて、学生はなるべく多くの授業に出て、「物色」する。

取りたい講座のショッピング時間がバッティングする場合は、友達との情報交換が役に立つ。宿題が楽なクラスがないかとか、グレード(成績)の付け方が厳しいかどうかとか、そういった情報も積極的に交換する。

教授もそうしたショッパーたちのために、その講座の目的や、スケジュール、宿題の多少や必要読書量、成績の付け方(たとえば、成績の判断として討論への参加度20%、中間試験20%、期末試験40%、クイズや宿題の出来20%など構成比が細かく決まっている)などについて書かれたコースのレジュメを配ったり話したりすることになっている。

面白いのは、マサチューセッツ州にあるハーバード・ケネディスクールとビジネススクール、ロースクール、マサチューセッツ工科大学、タフツ大学フレッチャースクールのそれぞれの学生は、自由にお互いの大学院の授業をとることができるシステムになっていることだ。実際、私の友人もフレッチャーの授業やビジネススクールの授業を受けていたし、逆に私が取っているクラスにビジネススクールの学生が参加したりしていた。

私も、他大学院で教えている著名な日本学者エズラ・ボーゲル教授(『ジャパン・アズ・ナンバーワン』の著作で有名)のクラスをショッピングした。非常に温和な方で、講義内容も面白そうだったが、私が取りたいと思っていたクラスと時間が同じだったため断念した。『文明の衝突』で有名なサミュエル・ハンチントン教授なども他大学院におり、そうした著名教授のクラスを好んでショッピングする学生もいた。

私がショッピングでいちばん頼りにしたのが、以前にそのクラスを取った学生による評価やコメントを記された冊子「Student Course Evaluations」。宿題量は適当だったかどうか、授業はわかりやすかったかどうかなど細部にわたり、教授やクラスに対する評価(五段階評価で最高が5)が書かれている。各授業の最後に学生に配るアンケート結果をまとめたものだ。

ただし、わざと、つまり次に取る学生がもっと苦労するように、「宿題の量が足りなかった」(もちろん本当は足りすぎていた)などと記入し、実際とは逆の評価を下す意地悪な学生もいる。実際、私の友達も、すべてのコースで「宿題の量が足りない」にマルをつけたと言っていた。

このように「だまされ」て、学生たちはそれぞれのコースを選ぶわけだ。


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