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1月31日の日経歌壇におもしろい短歌があった。岡井 隆さん選の作品にモ ナ リ ザ が 「 三 度 目 で す ね 」 阿 修 羅 の 目 は 「 あ な た は 八 千 万 人 目 で す 」 吉 村 一 (横 浜)モナリザの絵も阿修羅像もどちらも、作品と鑑賞者の関係という意味では同じはずなのに、かたや 「三度目ですね」 かたや 「八千万人目です」 と、声をかければ答えてくれそうに思える。モナリザの絵は、鑑賞者ひとりひとりと 1 対 1 の私的関係を取り結ぼうとするパワーがある。鑑賞者という個人にまで降りてくる微笑のちから。個人にまで降りてきて「あぁ、あなたはもうわたしに3度も会いに来てくれたのね」と言ってくれているような。それに対して阿修羅像が鑑賞者に対して発するパワーは、私的関係でも公的関係でもなく、それを超えた天空の一体感だ。存在ひとしき何千万もの衆生(しゅじょう)に、阿修羅のちからが注がれる。だから、阿修羅にとっては「あなたは八千万人目です」理屈を解説したら 200字以上もかかることを、じつにさらりと述べた。解釈することを楽しめる歌だ。岡井 隆さんは≪モナリザが日本へ来るたびに見に行くのだろう。阿修羅の数字は情報が教えた。≫と解説している。*穂村 弘さん選の作品に冬 山 に 吾 れ 専 用 の 方 舟 (はこぶね) を 作 る 音 せ り 耳 を 澄 ま せ ば 藤 原 建 一 (盛 岡)厚めに岩絵具を塗った、モノトーンにやや茶色の混じる日本画を感じた。「吾れ専用の方舟」 は、いろいろに読むことができる。ひそやかな安逸へ逃避するための場所だろうか。冷気を浴びた傲岸(ごうがん)の砦(とりで)とも読める。「冬山の音」 は、石を撃つように透き通った木こりの音のイメージ。読むほどに、より深い幻想に迷い込みたくなってくる。
Jan 31, 2010
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さわやかで地に足ついた語り口に引き込まれて、一気に読んでしまった。著者の中嶌重富さんには かつて、月刊 『リーダーズ・ダイジェスト』 誌の復刊計画について相談しにうかがったことがあって、それが縁で本書も出版後すぐ送ってくださった。翻訳会社アラヤ社を56歳のとき立ち上げて業界大手に育てた。会社のサイトには日本のポップな文化を日本語と中国語で発信するページも設けてある。英語版をはじめ各国語版を日本語に移し、さらには日本版オリジナルの記事を各国語版へ発信することをねらう 「リーダイ」 復刊のわが夢と、アラヤ社のフィールドは、相通じているように思えた。アラヤ社のオフィスはこころよいアート空間。お話を聞いてみると、アラヤ社の業務分野は技術翻訳だった。商品マニュアルや製品内蔵の表示文を20も30もの言語で用意せねばならぬ需要が輸出メーカーにはあって、そこにソリューションを提供するビジネスをくりひろげる。「リーダイ」 とは分野が違いすぎた。もちろん面会のアポをとりつけて出向いたのだけど、目途が立っているわけでもない 「リーダイ復刊」 を夢見る男など、ほとんど闖入(ちんにゅう)者のようなものである。口下手のわたしの話に中嶌重富さんは懇切に耳を傾けてくれて、「紙の雑誌として出すのはビジネスモデルとしては難しいのではないか。有料閲覧サイトで電子雑誌としてはじめてはどうか」といったアドバイスをくださった。中嶌重富さんのブログ:http://ameblo.jp/alaya2009/*中嶌重富さんのことを知ったきっかけは、渋谷だった。Bunkamura ギャラリーの笹尾光彦個展 (毎年開催) の一角に、中嶌重富さんの前著 『56歳での起業。』 がそっと積まれてあったから。笹尾さんはアラヤ社のアドバイザーでもある。今回の 『起業適齢期』 は、平成16年のアラヤ社起業から現在にいたる経営の道のりを語りつつ、中嶌さん自身の生い立ちから三井銀行勤務時代のできごとなどを織り交ぜてある。日経の文化面 「わたしの履歴書」 のような読み口だ。納得のいく人生とは、過去が現在のためのふしぎな肥しとなり、思いがけない花をつけ、その種子が予想もしないところへ飛んでゆく、そういうものではないかと思うのだが、中嶌重富さんの本を読んでその思いを深くした。昭和22年生まれだから62か63歳でいらっしゃるが、まるで40代のひとが書いたような溌溂とした活力を感じる。企業を育てることで人を育てる。経営とは、人の生き方をよき方向へ向けることでもある。経営の原点を思い返させてくれた。(中嶌重富・著 『起業適齢期 ― 56歳だから実現できた 「ブランド」 』 ダイヤモンド社・刊、 1,500円 + 税。)
Jan 30, 2010
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いらっしゃいませ。フランス大使館の旧庁舎 (港区南麻布四丁目11-44) へようこそ。旧庁舎の本館の入り口の柱に描かれた女性の画像でした。アーティストの名を確認しそこねたのですが、この女性は激しくぼくの好みです。彼女も、本館が取り壊されるとき一瞬にして昇天してしまうのです。できれば、この柱を10万円で売ってもらえないでしょうか…。こんな感じで、旧庁舎の外壁から廊下、ひとつひとつの部屋にいたるまで、美術空間になっています。本館は、ややごちゃごちゃと大学の学園祭の様相です。「No Man’s Land: 創造と破壊@フランス大使館 ―― 最初で最後の一般公開」 と題された粋な企画は、11月26日にはじまりました。1月31日で終了して旧庁舎は取り壊しにかかる予定でしたが、好評のため展示企画が2月18日まで延長されることに。本館の3階だったか、ほんものの金庫扉を開けると、なかに鉄格子があってギャングに扮装したアヒルが閉じ込められて監獄と化していました。 あの部屋のギャグは おもしろかったな。 いっぽうこちらは旧庁舎の別館入り口横の相撲とり。本館展示が大使館による運営なのに対し、別館展示は藝術家グループが運営する企画展です。目下、「団・DANS」 という若手アーティスト グループの展覧会 (1月21~31日)。一流の現代アート作品が並んでいて、見ごたえがあります。作家の皆さんも展示室に待機しておられる方が多く、ぼくも佐藤雅晴さん、小林雅子さん、SONTON さんらとお話ししました。これは、SONTON さんのインスタレーション。題して 「大欲情」。旧庁舎別館の屋上に作られた、これまたこの場かぎりの藝術作品です。SONTON さんは、2人のアーティストのグループ名なのだそうで (つまり 「藤子不二雄」 みたいな)、そのうちのおひとりが屋上にものうげに坐っていました。とても かわいいひとです。というわけで、本館と別館で3時間あまり、時の経つのを忘れてしまいました。11月に始まった展示だというのに、平日午後にもかかわらず結構な人の入りでした。ぜひ足をお運びください。【No Man’s Land 展の開催日時】1月29~30日 10:00~22:00 (本館 + 別館展示)1月31日 10:00~18:00 (本館 + 別館展示)2月にはいると、本館展示のみとなります。月・火・水 は休み。木・金・土・日の10:00~18:00 にどうぞ。2月18日(木) が最終日です。場所は、港区南麻布四丁目11-44 在日フランス大使館の旧庁舎。広尾駅から徒歩7分、道路に面してアートの世界が せり出さんばかり。入場はいちおう無料ですが、藝術国に入るための “パスポート” (売価300円) を買うよう入り口で勧められます。
Jan 28, 2010
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「ウーマン・イン・ホワイト」 1月24日の東京公演千穐楽は、3度目のカーテンコールで観客総立ちのさわやかな拍手となった。舞台奥に足場を組んで作られたオーケストラ席から、指揮者の塩田明弘さんと楽員さんたちも降りてきた。7名の役者さんたちが舞台挨拶。その内容は、後半でお伝えしよう。*1月16日公演の感想 と 1月19日公演の感想 で書いた第2幕の注目のシーンに、笹本玲奈さんとカンパニーがすばらしい答えを出してくれた。フォスコ伯爵 (岡 幸二郎さん) がマリアン (笹本玲奈さん) に妹ローラの死を告げる場面。マリアンは、語りはじめるフォスコ伯爵の腕もとに始めからすがりつくようにしている。「いったいどういうことなの?」「うそ…」フォスコ伯爵から徐々に遠のくマリアン。あいてゆく距離がマリアンの拒絶の気持ちを示している。マリアンは、衝撃を懸命に消化しようとしながら息をのむ。うちひしぐものに抗しきれずに体が折れ伏してゆく。何度も、嗚咽するかのように大きく息をのみながら、ふりしぼるように「ローラ……」泣き崩れるのでもなく、茫然自失するのでもなく、驚きと悲しみを舞台で最大限に表わすのにこういう方法があったか。きっと、キャストとスタッフの皆さんが考えに考え抜いた結論だったと思う。千穐楽公演にふさわしい、すばらしい贈り物をいただいた。これに続く妹ローラ埋葬の日のシーン。儀式が終わったあと墓前でひとり身を伏すマリアンが、やがて身を起こしてパーシヴァル卿への憤怒を絶唱する 「このままではいない (Marian's Determination)」。短いナンバーだが、劇場をつきぬけるパワーが確実に伝わり、舞台奥へ駆け去る笹本玲奈さんへ万雷の拍手が送られた。*子役、といっても中学3年生の、石丸椎菜さん。パーシヴァル卿とマリアンの結婚式の不吉を暗示する、半音に満ちたじつに難しい旋律の歌を舞台中央で独唱する清らな声が、みごと。群舞をリードするほど躍動感のある踊りも、腕が気持ちよく伸びる。貧民窟で小銭をせびりスリをして生きる少年にもみごとになりきって、歩く姿の がに股がまた、うまい。プログラムに椎菜さんが書いている。≪高校生になったら挑戦してみたいことがたくさんありますが、やっぱりずっとお芝居を続けて行きたい!そう強く決意した15歳の冬でした (笑)。≫再演観劇3回目の千穐楽では、椎菜さんが舞台にいるときはずっと彼女を目で追いかけた。完全に、父親目線ですが (笑) 。きっとすばらしい女優さんに成長なさると思う。これからも、応援したい。東宝さん、たのみますよ!*役者さんたちの舞台挨拶のさわりのご報告。笹本玲奈さん≪12日間、いのちを削りながら、キャスト・スタッフ一同やってきました。いのちを削りながらこうしてやってこれたのも、皆さまの拍手とご声援のおかげです。≫「いのちを削りながら」 という言葉が、すとんと心に落ちてゆく。まさにそうだったにちがいないと思える、すばらしい舞台でしたよ!田代万里生さん≪ここ数ヶ月、練習を積んできたわけですが、ご覧になっておわかりのとおり大変な修羅場でした。≫朴東河(ぼく・とうが)さん(挨拶の前に、岡幸二郎さんが 「短くね!」 と耳元で言う。それがうけている。)≪ (前略)全員が立ってますねぇ。すばらしいですねぇ。さあ、それでは皆さん、お隣のかたと手をつないで、ここにいるみんな仲間なんだと、そんな気持ちで、さあ、手をつなぎましょう。≫(たぶん、韓国ならここで観客が手をつなぎあって応えるのだろうか。東京ではムリでした。)≪さあ、手をつなぎましょう、みなさん!≫(ようやく挨拶がおわり後ろに引いたところで拍手をうけると、挨拶のアンコールにお応えし、とばかりに舞台中央に。それがまた、うける。)≪では次は、妻のローラです!≫大和田美帆さん≪初演では、わたしはその辺で (と観客席の左手、前のほうの席を指す) 2度観させていただいたんですが、今度は舞台のこちら側に立てて感激でした。≫和音美桜さん≪……わたしは、悲しい部分をひとりで背負っているような役でしたが (笑)、でもこの空間にいられたことが幸せでした。≫光枝明彦さんと岡幸二郎さんが連れ立って≪風邪もひかずに最後まで務められたよね。≫≪そうだよね、よかったよね。≫さすが千穐楽公演は気持ちがよかった。ショップで光枝明彦さんのダンディなCD Dream With Me を買った。ミュージカル 「モーツァルト!」 のナンバー 「心を鉄に閉じ込めて」 も収められていて、聴きながら涙がにじみ、いつしかぼろぼろになった。「関白宣言」 も、役者さんならではの歌い。カンパニーのみなさん、最高の一日をありがとう!(東京公演の後、1月30~31日には大阪のシアター BRAVA! で公演あり。)【観劇マナー】上演中、コンビニのビニール袋やノド飴の小袋のシャカシャカ音は、劇場じゅうに響きます。ビニール袋は手元に置かず足元に。ノド飴は開演前に口に含む。これが大事なマナーです。
Jan 25, 2010
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1月16日に続いて、19日の夜の部を観た。この作の演出の注目ポイントは第2幕、妹ローラの死をフォスコ伯爵から告げられたときのマリアン (笹本玲奈さん) の反応。1月16日昼の部 マリアンは、あまりに悲しい知らせに茫然自失(ぼうぜんじしつ)となり、 「え?」 と力なくひとこと言うのみで黙り込み立ち尽した。2年前の初演、マリアンはここで泣き崩れたのだが。この不自然なまでの 「抑制」 のうちに、マリアンは喪服姿となる。埋葬の日、黒幕パーシヴァル卿の握手をしずかに拒否したそのあと、ひとりになったマリアンは疑いと怒りの気持ちを一気にさらけ出す。その爆発をできるかぎり劇的にするために効果を計算された末の 「抑制」 だった。1月19日夜の部の演出では、マリアンが悲しい知らせをフォスコ伯爵から告げられるや、伯爵の腕にしがみつくようにして「いったいどういうことなの?」と聞く。 そして伯爵の白々しい説明に「うそ…」と言って、黙り込み立ち尽くす。かけがえのない妹が亡くなったと言われて無言では不自然すぎたから、せりふが入って自然さは増した。しかし、せりふが入ったために実は一層まずいことになった。悲しい知らせを聞いた後にフォスコ伯爵と まがりなりにも会話をしたことで、舞台上のマリアンはもはや 「茫然自失のひと」 ではなくなってしまった。むしろ、妹が亡くなったと聞いても平然としている冷徹な女性に見えてしまった。これだから、舞台はむずかしい。それなら、ウィルキー・コリンズが1860年に書いた原作小説どおりに演じればいいではないかと思われるかもしれないが、原作にはこのシーンの描写はまったくない。登場人物のキャラクターと大きな流れを生かしつつ長篇小説をミュージカルへと圧縮するために、後半のプロットが大幅に変えられている。原作の和訳 『白衣(びゃくえ)の女』 (岩波文庫で3冊) は2年前の公演のとき青山劇場のショップで買って読み、ぐいぐい引き込まれた。1月19日の終演後、ショップの係のひとに「どのくらい売れてますか。初演のとき ここで買わせていただいて読んだら、とっても良かったです」と聞いたら「ありがとうございます! う~ん、でも売れたのは3セットくらいですね」「え?! それは残念だなぁ。ほんと、おもしろい小説なんですが」ちなみに英語原作の The Woman In White は、Everyman’s Library 版のハードカバーの1巻本を台北の本屋さんで見つけて買った。ところどころ読んでみると、日本の高校2年生用の英語教科書にも使えそうな分かりやすい端正な英語だった。いつか通読したい。*1月19日の夜の部の公演はそのわずか3日前に比べて、田代万里生(たしろ・まりお)さんと和音美桜(かずね・みおう)さんの演技に見違えるような凄みがあった。16日の公演を観たときは、知らずしらず2年前の別所哲也さんの演じた画家ウォルターと比べていたせいもあってか、田代さんが若すぎて見えた。歌声の張りがすばらしいひと。さらに一歩、メイクアップで何とか ふけてもらえないかな、とまで思った。頬に陰をつくるとか、眉を細くするとか。ところが19日の田代さんは表情に厳しさが増し、動きも きびきびとして、よりシャープな画家ウォルターを作り上げた。ウォルターを何度も真剣に生きることで、ウォルターの魂が田代さんに乗り移った。観ていて、とても うれしかった。田代さんが歌うたびにぼくの体がじんじんと反応し、すばらしい舞台を作ってくれたことに感謝の気持ちでいっぱいになった。和音さんの演じるアン・キャスリックは、狂女の風格が出た。16日には心優しいふつうの女性が荒野に追われたようなイメージだったが、19日の公演では狂おしさと ひたむきさが増して迫力あるアン・キャスリックになった。*さあ、きょうは千穐楽公演を観に行く。フォスコ伯爵とのあの場面で、笹本玲奈さんがどう演じるか、ほんとうに楽しみだ。今回の役者さんのなかでローラを演じた大和田美帆さんは、清らな歌声の質が低音から高音まで笹本玲奈さんにそっくりに聞こえた。しかし、平らかな本道からはずれて激情を盛り上げるちからは、笹本さんにかなわない。パーシヴァル卿への怒りを爆発させるシーンの笹本さんの歌が、19日の公演では すさまじいパワーだった。千穐楽では、どう歌ってくれるだろう。(東京公演の後、1月30~31日には大阪のシアター BRAVA! で公演あり。)【観劇マナー】上演中、コンビニのビニール袋やノド飴の小袋のシャカシャカ音は、劇場じゅうに響きます。ビニール袋は手元に置かず足元に。ノド飴は開演前に口に含む。これが大事なマナーです。
Jan 24, 2010
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平成19年11~12月の初演につづき、同じ青山劇場で再演。さる1月16日昼の部をみて深い感動をいただいた。きょう19日の夜の部をまた観にゆく。再演は、ややツルンとした感じもした。出演者が入れ替わって無難にまとまりすぎた気がする。特筆して褒めたいのは子役の石丸椎菜(しいな)さん。中学3年生だ。初演ではダブルキャストの一人だったが、今回の再演では役を独りでつとめた。村の少女として舞台中央で独唱する澄んだ声は天性のもの。これから大きく育ってゆくのを見せてもらうのが楽しみだ。この劇の最大の山場は、第2幕後半の精神病院での出来事だが、場面が近づくにつれて観ているぼくのからだが勝手にじんじんと震えだした。何と、ちからのある劇だろう。ちからのある劇は、予感だけでひとを震わせる。「ミス・サイゴン」 の 「命をあげよう」 など、前奏の弦楽器が数秒流れただけで、からだに電撃が走ってしまう。*笹本玲奈さんの 「オール・フォー・ローラ (All For Laura)」 は初演のあと、彼女のコンサートやイベントでも聴かせていただいたが、やはり舞台の歌は感情移入の深さがちがう。自責の念に打ちひしがれながら突っ伏しての絶唱; やがて天に身を差し出すように立ち上がり、愛する妹を守り抜く決意を歌い上げる。緻密につくられた劇の展開が、歌にパワーを与えてくれる。ミュージカルは、この瞬間を体験するためにあるのだなぁと思いながら、涙がとまらなかった。笹本玲奈さんが快活で饒舌なマリアンとして、田代万里生さん演ずる画家ウォルターを迎える 「どうぞよろしく (I Hope You’ll Like It Here)」 も大好きなナンバー。家族構成をコミカルに紹介しつつ、せりふ劇からミュージカルへと観客の心を導入する歌。笹本さんは、せりふを言う口調に自然にメロディーがついてきたかのように歌ってみせた。この軽快さがいい。*観るたびに演出が変わるのが、妹ローラの死をフォスコ伯爵に伝えられたときのマリアンの反応ぶり。長く床に臥(ふ)し夢にうなされて目覚め、やおら言われる衝撃のことばをどう受けとめるか。ほんとうに悲しいことが起きたとき、ひとは泣き叫びうろたえるのではなく、悲哀を消化しきれず気力を失い鎮まりこんでしまう。そういう演出が、今回の舞台だった。マリアンの悲しみはひたすら沈潜したまま、妹ローラの埋葬の日を迎える。パーシヴァル卿の白々しい悲しがりの歌のあと、はじめてマリアンは悲しみと怒りと闘争心を爆発させる。抑えに抑えられた感情がここで一気に噴き出すという演出は、たしかに理屈に合っているが、しかしここは初演の演出のほうがよかったのではないか。英語版CDを聴くと、マリアンを演じる Maria Friedman さんはフォスコ伯爵から「まことにお伝えしにくいことがあるのですが、じつは妹さんが…」と言われたところで、早くも息をのんでいる。そして妹の死を告げられた瞬間に取り乱す。何が起こったか聞いてもいないのに息をのむというのはリアリズムに反するが、それに先立ちうなされた悪夢や、妹の夢遊病への日頃からの懸念が、マリアンの素早い反応を引き出したとも言える。リアリズムに反する展開に、演劇のちからが表れることもある。初演を2度観たが、うち1度目 (平成19年11月18日) はごく普通の演出だった。妹の死を伝えられた瞬間にマリアンは取り乱し、嘆き泣く。2度目に観たとき (平成19年11月24日) の演出では、妹の死を伝えられてしばらく、マリアンは「え?」とひとこと言って、考えに沈みこむ。懸命に、すこしずつ、理解をこえた悲しい出来事に追いつこうとする笹本玲奈さんがいた。短く長い間のあと、笹本さんは泣き崩れる。やはり、この演出がいちばんだと思う。われわれもまたローラの死を、舞台の人と一体になって悲しみたい。ここは舞台のマリアンにも泣き崩れてもらいたいのだけど。*今回フォスコ伯爵を演じた岡 幸二郎さんは、このひとが歌うかぎり舞台はぜったい大丈夫と確信させてくれるミュージカル俳優。今回も文句のつけどころがないが、それでもやはり初演の上條恒彦さんに軍配を挙げてしまう。第2幕後半に、フォスコ伯爵役にはたいへんおいしい場面がある。伯爵を誘惑する半分捨て身のマリアンに、フォスコ役の男性はこれでもかとホントにホントのキスの雨を降らせる。マリアンの困惑の表情と、キスされた唇をぬぐうようすも笑えた。これが上條さんのフォスコ伯爵。岡 幸二郎さんは実年齢がマリアン役に近すぎて (?) 、ホントのキスの雨とはいかなくなったようだ。女性が顔を後ろに向けて唇を合わせないキスをするという、あの平凡なラブシーンになってしまった。初演の女優さんで忘れられないのが、アン・キャスリックを演じた山本カナコさん。劇団☆新感線の出身。狂女の演じ方に凄みがあった。狂女や娼婦の演じがうまい舞台は、ぜったい成功する。今回の再演でアン・キャスリックを演じた和音美桜(かずね・みおう)さんのアンは、狂女というよりむしろ ずいぶん心優しいアンだった。ローラと同じような女性が、野に追われてしまったというイメージ。宝塚出身だけあって高音もよく伸びていた。ローラ役の大和田美帆さんと、舞台上の見かけがそっくりだったところもポイントだった。ローラとアンが瓜二つであることが、この劇のプロットの肝だから。それに比べると、初演の山本カナコさんのアンは神田沙也加さんのローラにあまり似ていなかった。気迫の方向性の差や、年齢の差が出てしまった。だから、初演の配役はプロットを成立させるという観点からは成功していなかったのだが、観ているぼくからすれば初演のほうが山本さんと神田さんのそれぞれの個性を存分に楽しめるいい舞台だった。今回 貧乏な画家ウォルターを演じた田代万里生(まりお)さんは見かけが童顔で、30代前半という設定のマリアン (笹本さんがまたみごとに30代前半になりきっているのである) が心惹かれるにはあまりに若すぎて見える。そういう意味で、舞台を見るぼくの眼は抵抗感を訴えていたのだが (つまり初演の別所哲也さんのほうがよかったという意味で)、しかしぼくのからだは田代さんの真摯(しんし)で端正な歌声にじんじんと反応した。好感度の高い俳優さん。きっと大成されると思う。ミュージカルの役で、こいつ以上の悪役はちょっと想像がつかないパーシヴァル・グライド卿。初演では、石川 禅さんが藝達者なところを見せてくれた。ぼくは石川 禅さんの大ファンなので、石川さんが再演から外れたのは残念だった。再演で演じたのは韓国人の朴東河(ぼく・とうが)さん。成年に達してから学んだ日本語で、これだけ曲者の役をみごとに演じる実力を賞賛したい。パーシヴァル卿の胡散臭い 「陰」 を随所にほのめかす、「気」 のちからを感じた。偏執狂のように賭け事にのめりこむかと思えば、瞬間湯沸し器のように激情に走るパーシヴァル卿。その性格を存分に表現する気迫があった。(1月24日まで青山劇場で。16日の土曜日昼の部では後ろのほうに若干空席あり。ぜひお運びください。1月30~31日には大阪のシアター BRAVA! でも公演あり。)【観劇マナー】上演中、コンビニのビニール袋やノド飴の小袋のシャカシャカ音は、劇場じゅうに響きます。ビニール袋は手元に置かず足元に。ノド飴は開演前に口に含む。これが大事なマナーです。
Jan 19, 2010
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僭主(せんしゅ)小沢一郎氏の側近3名の逮捕は、人命を救いたいという検察の温かい親心だ。目下あの3人は、自殺させられる あるいは自殺と見せかけられるかもしれない典型的状況じゃないか。人命第一の観点から言えば、もっと逮捕者を増やしておいたほうがいい。民主党幹部らが検察を批判しているが、万一のことが起きたら真っ先に疑われる人たちこそ、検察の親心あふれる逮捕措置に感謝するべきだろう。◆ 鈴木宗男氏の来賓挨拶 ◆1月16日の民主党定期党大会の、ごく一部をテレビで見たら、鈴木宗男氏が来賓挨拶で検察の 「暴走」 を批判していた。これに会場からヨイショの掛け声が掛かり「検察を 事 業 仕 分 け しろ!」大会出席の民主党員らは、この掛け声に万雷の拍手。鈴木宗男氏は上気(じょうき)しながら「そう! そうなんですよ」と人差し指を振り上げ、これに会場はますます沸いた。民主党を軽蔑しきっているわたしも、さすがに驚いた。ばらばらであることが取り柄 (?) でもあった民主党が、かくもみごとに正真正銘の全体主義政党として脱皮するとは。指揮権発動も可能な与党の民主党の幹部党員らが、公権力をチェックする機能をもつ機関を 廃 止 せ よ という野次に万雷の拍手を送るとは。背筋が寒くなるとは、こういうときに使う。◆ 一枚看板の 「事業仕分け」 に泥を塗る ◆ショーとして行われた 「事業仕分け」 には、公平に見て妥当だったものも散見する。 (屋山太郎さんも産経新聞の正論欄で言及した、下水道事業 (総額 5,188億円) の国交省から地方自治体への移管など。下水道事業は、一律の規格をやめて地域の実情に合わせれば大きなコスト削減が見込めるそうだ。)わたしは 「事業仕分け」 ショーの軽薄さを嫌悪するが、世論調査では評価が高かった。民主党としては、大切にしてゆくべき宝刀だろう。ところが「検察を事業仕分けしろ」という異常な掛け声に民主党大会が万来の拍手が重なるとき、わたしの耳には「検察を ポ ア し ろ 」という犯罪集団の隠語に聞こえた。◆ 「他人事(ひとごと)です」 と聞こえた ◆いっぽう、小沢政権の尻尾(しっぽ)である鳩山大臣の発言「小沢氏を信じています。どうぞ戦ってください」は、文字に起こすと「検察は不当だから戦うべき。最後は指揮権発動して検察を止めます」という宣言に等しいのだが、テレビから流れる鳩山大臣の口調は「わたしには関わりのないことですから、勝手に戦ってください」というふうに聞こえた。鳩山大臣にとっては、他人事なのだろう。うらやむべく、しあわせな人だ。
Jan 18, 2010
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日本語と英語の表現のクセを比べると、英語は細ごまと説明しつくそうとし、日本語は言外のコミュニケーションを重んじる……と、何となく決めつけていた。むしろその逆といったほうがよいようだ。今井邦彦さんの言語学エッセー集 『なぜ日本人は日本語が話せるのか』 (大修館書店) を読んで、認識を新たにした。いろんな例が挙がっているが、たとえば≪A: Do you like haggis? B: I’m a Scot. ≫というやりとり (102ページ)。「ハギス」 というのはスコットランドの羊の内臓ミンチ料理でありまして、日本でもウイスキーに力を入れたパブなどで食べることができて、ぼくも好物ですが、それはさておき、例文を和訳するとすれば≪A: ハギスは好きかい? B: だってスコットランド人だもの。≫となる。この英語と日本語を比べて、従来言われてきたことは「ほらご覧。英語には you と I が主語として欠かせないけど、日本語ではこれを省略してますね」。英語は細ごまと説明しつくそうとし、日本語は言外のコミュニケーションを重んじる ―― という決めつけは、主語の有る無しを比較の切り口にするから。ここで今井邦彦さんは別のところに注目する。さきほどの和訳をさらに省略して≪A: ハギスは好きかい? B: スコットランド人だ。≫としたら、どうか。日本語として成立しない。ここがポイントなのである。英語では I’m a Scot. と ぶっきら棒に言って済む。ところが日本語では 「スコットランド人だからね」 「スコットランド人だもの」 というように文末処理をして、理由を述べているのだということを説明しなければ収まらない。もうひとつの例 (179ページ)。≪たとえば行列に割り込みをした人物がいるとする。これを咎めるのに適切な英語の表現は (1) であろう。(1) Excuse me. You jumped the line.jump the line というのは 「割り込む」 ということである。この例に見るように、相手が行った、あるいは行っている行為をそのまま平叙文で叙述することが、文句・批判として働く場合が英語にはあるのだ。≫これを直訳して 「あなたは割り込みをしました」 と日本語で言われたら、「は?」という一瞬の戸惑いを感じてしまうだろう。さすがに、注意をされていることは分かるから、コミュニケーションは成立する。その意味では通じているのだが、日本語表現としてはどこか不具合がある。≪日本語ではどうしても 「割り込んじゃ駄目じゃないか」 のように、その発話が文句・批判であることを示す要素が必要である。≫言語ごとに異なる表現のクセ。言われてみればその通りなのだが、これまで意識しなかった。この切り口で外国語に接してみると、さらにおもしろい発見がありそうでワクワクする。今井邦彦さんの本を読んでよかった。*著者の今井さんは英語の専門家なので英語についての記述は さすがだが、中国語が受け入れた日本語熟語として 「取扱」 や 「申立」 を挙げたのは間違いというしかない (138ページ)。著者が挙げそこねた “取締” や “取消” は確かに中国語に定着しているが。
Jan 13, 2010
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自宅から2時間半もかけてようやく 宇都宮美術館 に着くと、武蔵野の風景画にこの身をおどらせて入り込んだような、味わい深い林に囲まれていた。時間がたっぷりあれば付近を散策してもよいが、そういうわけにもいかない。入り口左脇の、手水鉢を模した作品の水面から、木造の小学校のガラス窓のような氷を手にとってみた。自然の氷の透明に久しぶりに出会った。一旦なかに入ると暖かで、図書コーナーで日がな図録を繰っていたい気分になる。だか、そういうわけにもいかない。杉浦非水展を見に来たのである。松山が生み、帝都が育てたデザイナー。わが郷土出身の、誇らかに思う人のひとりだ。しあわせな人だったのだなぁ、非水は。実父は松山にとどまることの出来ぬひとで、長男の朝武 (つとむ、のちの非水) は母方の杉浦家に3歳で預けられ、10歳のときに杉浦家の養子となる。11歳のとき、実母も亡くなる。ここまではいささかの不幸を感じるが、それ以後わかいときから絵画の才能を伸ばす機会に恵まれ、21歳で東京藝術学校日本画選科に入学し、卒業の25歳にはフランス留学も計画。これは果たされないが、黒田清輝がフランスから持ち帰った資料を鑑賞・模写するうちにアール・ヌーヴォーの日本の先駆者となる。32歳から三越での仕事が増えてゆく。安定した収入。海外の最先端のデザイン資料を入手し自分のものにする機会。欧州の新潮流の吸収が一段落して40代になると、三越の仕事は週に2日に減らして、浮世絵の自然写実を近代流に蘇らせたとも言うべき 「非水百花譜」 の大仕事をする。50代になると、ポスターの仕事が多くなる。社会性が深い仕事だが、左翼イデオロギーに踊らされることもなく、やがて後進を指導する数々の社会的職務を全うし、89歳のとき、昭和40年には勲四等旭日小綬章を受章し、人生の一部とも言える三越で自らの日本画展を開催して、その3ヶ月後に死去する。起承転結というより起転承結の、まことに円満充実した人生である。*非水の代表作といえば何と言っても、今でいう銀座線が上野・浅草間で開通した昭和2年のポスター 「東洋唯一の地下鉄道」 の、モダンでリッチな群衆がプラットフォームにひしめき、進入する黄色い列車頭部を左端に配した図案だろう。有名な作品である。アール・ヌーヴォーそのままの図案と思っていたが実物をしげしげと眺めると、和装・日本髪の女性が混じり 面立ちも西洋とは一線を劃していて、じつは <日本> が匂い立つポスターだ。アール・ヌーヴォーを吸収するだけ吸収しつつもそれに乗り換えるのではなく、浮世絵など日本画の伝統をしっかりと握りしめながら、巧まずして新しさを社会に提供した人。じつはわたしは非水について、アール・ヌーヴォーの本邦への導入者であるという、単にそういう認識しかなかった。1月8日の日経 「文化往来」 に≪「非水百花譜」 など動植物を描いた図案を大量に集めた第2展示室は圧巻だ≫とあるのを読んで、これは見てみないといけないと思ったのが、宇都宮まで遠征した理由だったが、ほんとうに来てよかった。「非水百花譜」 は、美しき花々を木版錦絵とシルエット版画、図鑑的写真と、様々な切り口で解剖してみせた近代的アプローチであるが、なかでも錦絵版画は幼い蕾から種子を結ぶ寸前までの草花の諸相を一枚の絵に収めきっていて、輪郭線のすがすがしさがモダンだ。見れば見るほど完成度の高さが胸に迫ってくる。木版画でありながら花びらや葉を彩る一筆ひとふでが際立つ刷りは、刷り職人の藝の超絶を示し、版画連作の頂点を目の前にしているのだという感動におそわれた。*1月10日には館内で美術史家の土田眞紀さんの講演もあった。杉浦非水の同時代を歩んだデザイナーとして浅井 忠、津田青楓、富本憲吉、藤井達吉の作品をスライドで見せながら、デザインに自然写生を取り入れることが斬新とされた時代について解説してくれた。講演を聴きながら想ったこと。江戸時代あるいはそれ以前に、掛け軸の絵を描くという行為と、染物の意匠を創る行為とはどのような関係にあったのか。現代においてそれはどうなのか。今日において絵画と意匠は別物でありつづけるのか、両者は藝術家の内面において個々に融合をとげつつあるものなのか。明治・大正の意匠の先覚者たちは、欧州のデザインを自分のものにしてゆく過程で、浮世絵の伝統にどういうかたちで接点を見出したか。じつに豊穣な時間を過ごさせていただいた。杉浦非水展は1月17日まで。行ってよかった。
Jan 11, 2010
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横車人事を他人に祝ってもらえないものだから、自分でご祝儀相場を作るとは、世話ァない (=処置なしだ)。わたしが今はたらく部署は円安のほうが当期純利益が上がるから、適度な円安は歓迎ではある。しかし、円安誘導の口先介入は何度も使えるものではない。伝家の宝刀だ。円相場が1ドル85円を割ったときに使うのなら分かるが、1ドル92円のときに宝刀を抜いてどうする。「1ドル90円台の半ばが望ましい」 という具体的数値まで挙げたことで、見識の薄弱さも見せつけてしまった。想像してみよ。ほんの少し前、相場が1ドル85円をつけていた頃だったら、さすがに 「1ドル90円台の半ば」 は口にしないだろう。その状況で10円も円安の相場を口にしたら、ピエロになってしまう。おそらく 「1ドル90円台が望ましい」 という言い方だったはずだ。逆に、1ドル100円を割る円安になったとき、記者会見で「就任時のご発言のとおり、1ドル90円台の半ばがいいと思うか?」と聞かれたとき、愚かな菅直人財務相は何と答えるつもりか。Yes といえば、円高誘導発言になってしまう。No といえば、根拠なき発言のブレを自らひけらかすに等しい。だから 「ノーコメント」 と言うしかなかろう。確たる根拠もなく 「1ドル90円台の半ばが望ましい」 と具体的数値に踏み込んだ軽率発言をし、けっきょく将来の自分を袋小路に陥れた。四半期末の為替相場が大事な意味をもつ企業が少なくない。四半期末の米ドルレートで会計上の損益を計算するからだ。年度末の為替レートは、とりわけ大事な意味を持つ。1月も半ばというこの時期なら、年度末の円安誘導に向けて作戦を練るのが政府の智慧というものだ。その対極にある財務相のタイミング無視。こういう大臣をおだててはいけない。『北國新聞』 は1月9日の社説で小沢政権に媚びている。いわく、≪菅直人財務相が就任会見で、適度な円安が望ましいとする見方を示したのは、前任者の 「円高容認発言」 を完全に払拭(ふっしょく)する狙いがあったのだと思いたい。市場参加者の間では、民主党は内需主導型経済を目指す関係で、円高容認の姿勢が強いと受け止められている。そうした見方を否定するために、菅財務相があえて踏み込んだ発言をしたのだとすれば、大いに意味はある。 鳩山由紀夫首相は、菅財務相の発言に対して「政府としては基本的に為替に関しては言及するべきではない」と苦言を呈した。もとより、為替相場は市場が決めるべきもので、首相の発言は正論に違いない。だが、世界経済は金融危機の後遺症が重く、「病み上がり」 の状態にある。万一の時、教科書通りの対応では、想定を超える現実に振り回され、対応が後手に回る懸念がある。≫すでに前任の藤井裕久大臣の円高容認発言の影響は市場から去り、1ドル92円の相場をつけていたのだ。今さら 「前任者の 「円高容認発言」 を完全に払拭(ふっしょく)する狙いがあった」 と見るのは、外れている。値千金の大砲の弾をムダ撃ちした罪は大きい。
Jan 9, 2010
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河野太郎氏も、よぼよぼになるまで議員をやるのだろう。自民党にいられて不快に思うひとの一人だが、政治家としてのセンスはこの程度かと、改めて知らされる出来事があった。1月5日の首相動静欄を見ると≪午後7時41分、官邸発。58分、東京・新宿のイタリアンレストラン「カフェ・ラ・ボエム」着。加藤秀樹行政刷新会議事務局長の誕生会に出席。仙谷由人行政刷新担当相、古川元久内閣府副大臣、蓮舫民主党参院議員、河野太郎自民党衆院議員ら同席。≫(産経新聞1月6日付の「鳩山日誌」より)河野太郎氏は、よぼよぼになるまで議員をやるだろうが、自民党を率いるポジションに絶対につけてはいけないと感じた。いかにお世話になった人の誕生祝いとはいえ、小沢ショーの主要メンバーが じゃれる場所に いけしゃぁしゃぁと顔を出してはいけない。わたしなど、民主党議員に会ったらひとりひとりに「小沢一郎の奴隷! けがらわしいぞ」と面罵してやりたい、くらいに思っているのに、プロの野党政治家がこんな能天気を演じてはいけないというのが世の中の常識だから、メディアもその夜、河野太郎氏をフォローしたわけだが、当人は ブログ 「ごまめの歯ぎしり」 で いわく「今日は暇ですか?」その心は、「よっぽどニュースがないのか、夜11時すぎまでマスコミから携帯に電話が入った。今日は政治部、暇なんだね」こういう軽い人に、将来の自民党を率いさせては絶対にいけない。すっきり民主党に移ってもらいたい。全文をお読みください。こういう人がヘタをすれば自民党総裁になりかねないのだから、ぞっとする。≪今日は暇ですか? (2010年1月5日 23:12)構想日本の加藤秀樹さんの還暦の誕生日のお祝いに、構想日本のスタッフや慶應や東大の加藤ゼミ生、その他諸々の関係者で、サプライズパーティが開かれる。構想日本の伊藤さんの命令で、メインの司会者、蓮舫参議院議員が到着するまでの司会を仰せつかる。みごとにご本人がサプライズされ、パーティがスタート。仙谷大臣や古川副大臣、枝野代議士、山内代議士、亀井善太郎前代議士等々も出席。必殺仕分け人も正装で登場する。と、SPのバッジをつけた目つきの鋭い人がうろうろし始める。仙谷さん、なにかあったのかなと思っていると、いきなり招待されていない鳩山総理が乱入。なぜ私は呼ばれなかったのでしょうか、仕分けられちゃったのでしょうか、とマイクでしゃべる総理に向かって、仙谷さんが、「河野太郎さんが鳩山由紀夫のこと嫌いだから」 とジョークを飛ばす。「本当はあなたが私のことを嫌いなんじゃないの」 と総理が切り返す。司会者が、総理はこれで戻られますとアナウンスしても、総理は帰らない。山内康一代議士が、総理とは話しもしたことがないというので、じゃ一緒に写真撮ろうと三人で収まる。そりゃ、現職の総理がいれば、写真を撮ったりサインもらったり、人はその回りに集まる。結局、スタッフがせっかく準備した余興は行われないまま、パーティは進行してしまう。司会者 (蓮舫!) が、さりげなく総理を追い出そうといろいろとアナウンスするが、総理は気がつかず。教訓もしあなたが総理になって、呼ばれていないパーティに乱入した時は、挨拶が終わったらさっさと引き上げた方がよい。総理が到着すると、あっという間に窓の外にテレビカメラが乱立する。携帯にマスコミから、河野太郎が鳩山由紀夫と懇談してるって話ですけど!?そりゃ、隣に立っていれば「懇談」するでしょ。自民党から河野太郎ただ一人出席という話ですが??ん? 河野チームの亀井、山内も来ているし、僕らの仕分けをやった仕分け人も大勢いるし、別に僕一人で来ているというつもりじゃないが、厳密に言えば、自民党の国会議員は一人だけだ。総理日程に河野太郎が入ってきたという話ですが?河野太郎日程に総理が入ってきました。よっぽどニュースがないのか、夜11時すぎまでマスコミから携帯に電話が入った。今日は政治部、暇なんだね。≫これが野党議員の書くことか? たるんどる! どこが 「ごまめの歯ぎしり」 だ。
Jan 7, 2010
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年末年始は、部屋の隅におかれた数年間 開かずの段ボール箱 3箱を片付けるよう、わたしの女から厳命を受け、わたしの部屋は紙とスクラップブックと本が散乱して収拾がつかず、急遽 娘の子供部屋に布団を敷いて寝るハメに。 でも、若い女の子のうちにお泊りに来たような気がして (おいおい、自分のうちだろうが!) 心がなぜか うきうきしたのであります。 1月3日に配信したコラムをご紹介します。 目下、約 7,500名のアドレスに無料発信しています。メルマガ読者登録していただけるとうれしいです。(↓ こちらで 「まぐまぐ」 読者登録ができます)http://archive.mag2.com/0000063858/index.html◆◆ 元旦社説読み比べ (平成庚寅年1月3日) ◆◆ 恒例の、元旦社説読み比べ。例年、毎日新聞社説を高く評価してきた。 ことしは1面左上に主筆の菊池哲郎さんが年頭の言を書いている。 飄々が天に突き抜けたさわやかさ。ああ、例年の名調子はこのひとの筆だったか。≪スーパーマンはいないのであり、必要でもない。それを求める風潮は危険でありお任せ主義の責任放棄に結びつく。ドジを踏み悩みながらも一緒に成長していくリーダーを、われわれ自身がはぐくんでいくのが民主主義ではないだろうか。そのための情報公開であり、仕分けに象徴させた決定過程の透明化だ。ここは誰か他人の国ではない。われわれが住むところだ。そこのトップはそこに住む住民を映し出している。≫≪民主党が政権維持に汲々(きゅうきゅう)とする姿を見たいと思って我々が多数を与えたのではない。違った顔ぶれで課題に挑戦するさわやかな政治を見たいからだ。≫≪景気は気。政治が見せるさわやかな気が景気上昇をもたらす。失敗したら次の選挙で負ければいいのである。それだけのことだ。≫ まるで老子の 『道徳経』 を読むようなさわやかさがある。 しかし筆が滑ったか、鳩山由紀夫氏を評して≪一朝一夕には育たない。彼も初めてやっているのだ。≫と書いたのは甘すぎる。一気にしらけた。 毎日社説本篇は、筆者交替のせいか凡庸だ。■ 調整インフレしか手がないはずだ ■ 日本経済新聞は将来課題の列挙に終わった。経済紙なら、もう一歩踏み込んで経済政策の方向づけを語ってほしかった。 社説を読むだに、年率3~5%の調整インフレ創出へ向けて国民自身が覚悟を決める以外に道はないと思うが、日経はそれを語らない。 政権の背中を推すことばが欲しい。≪財政や社会保障で若い世代ほど負担が重くなる。5年前の経済財政白書によれば、60歳代以上の人は、生涯を通じて政府に払う税金や社会保険料よりも、政府から受け取る年金給付や医療保険の補助など行政サービスが 4,875万円多い。一方、20歳代は受け取りが支払いより1,660万円少ない。両世代の差は約6,500万円にもなる。≫≪増税や年金給付の削減などの改革をしなければ、100年後に生まれる日本人たちは、今の貨幣価値で 2,493兆円もの公的純債務を負う (島沢 諭 秋田大准教授の試算)。≫ ……と言われても、ふつうのひとは茫然自失。 日経よ、正直に処方箋を示せ。数字の蟻地獄から抜け出すには、額面の帳尻合わせの魔術しかない。 ゆくゆくは物価を2.5倍にし、名目賃金を2.2倍にし、政府の歳入の額面を倍増させ、旧世代へ約束した年金額の額面は維持しつつ価値を目減りさせて、帳尻合わせをするしかないだろう。≪現世代が解決策を出すべきだ。景気が持ち直した後に実施できるよう準備を急ぎたい≫ と言うや良し。 調整インフレ政策を真剣に実施せよというところまで、踏み込んで語ってほしい。 言っておくが、徴収した消費税を国債の返済に当てるというのは、経済を縮こまらせるだけの最悪の政策である。■ 米国はまったく困っていない ■ 朝日新聞は、これまでの無責任な反米路線へのいささかの反省が感じられる日米同盟肯定論、に見える。≪より大きな日米の物語を≫≪同盟という安定装置≫などという見出しを見て、朝日も少しはまともになったかと、だまされるバカがいる。 全然まともになってません。 朝日の社論のボタンの掛け違いは、たとえばこういう無理なこじつけから始まる。≪米国にとって、アジア太平洋での戦略は在日米軍と基地がなければ成り立たない。日本の財政支援も考えれば、安保は米国の 「要石(かなめいし)」 でもある。日本が米国の防衛義務を負わないからといって 「片務的」 はあたらない。≫ これを書いた論説委員を公開討論の場に呼んで、なぜ 「片務的」 でないのか語るだけ語らせて、吊るし上げてみたいね。≪いま日米両政府が迫られているのは、これらの問題 (=普天間や “密約” 問題) も直視しつつ、日米の両国民がより納得できる同盟のあり方を見いだす努力ではなかろうか。≫ あのね、米国政府はまったく何も「迫られて」ません。米国民もまったく関心がありません。 小沢政権が勝手に騒いでいるだけ。 普天間基地問題? 日本側が決断しない限り、現状のままでしょ。米国は何も困らない。 “密約”問題? 米国は、軍事政策上この問題に全く関心がない。 通常兵器の精度が向上したので、日本に寄港する米国の空母・駆逐艦・原潜などに核兵器は搭載しないと、米国政府は平成4年に わ ざ わ ざ 発表している。(ということは、平成4年以前はどうだったか、誰でも想像はつく。) その段階で、米国にとっては「済」なのである。 朝日社説は言う。≪世界の戦略環境をどう認識し、必要な最低限の抑止力、そのための負担のありかたについて、日米両政府の指導層が緊密に意思疎通できる態勢づくりを急がなければならない。≫ 「日米」を「韓米」に変えれば、そのまま盧武鉉(ろ・ぶげん)政権時代の韓国の新聞社説に使えよう。 語るに落ちるとはこのことで、朝日新聞が欣喜雀躍(きんきじゃくやく)した民主党政権の本質がみごとに物語られた。■ 大連立、いや、部分連合 ■ 読売社説は例年どおり重厚で、日本の課題を過不足なく語った。 いかにも読売らしいのが、いわゆる民主党と自民党の大連立 (あるいは大連立もどき) を示唆したところ。≪国の命運がかかり、国民生活の基盤が左右されるような重要政策・法案の成否に当たっては、野党とも提携する 「部分連合」 や、大胆な政界再編による 「挙国政権」 づくりをためらうべきではない。≫ 普天間基地移転先にせよ、消費税率引上げにせよ、民主党・自民党が本気で連携すれば実はたいていの問題はいい方向にまとめられる。 自民党が妙に静かなのは、単に 「野党慣れしていない」 からではなくて、小沢一郎なき後の民主党との連携を夢想しているのではないかと、わたしには最近そう思えてならない。■ 棘(とげ)の多いアザミの地 ■ 厳しい現実に正面から向き合おうと求めたのは唯一、産経新聞の年頭の言であった。≪イスラエルの政府機関は、自国民になることを希望する人たちにこう呼びかけたという。「われわれは諸君にバラの花園を約束しない」。この一文に野生のアザミの写真が添えられている。≫≪イスラエルの国民を待っているのは薔薇の花園ではなく、とげの多いアザミの地。厳しいことをあえて言わなければ、国家と国民が生き残れないからだろう。≫ 産経は、日本書紀の話を引いた。7世紀後半の、志ある一兵卒の話。 白村江(はくすきのえ)の戦(いくさ)で唐の捕虜となった大伴部博麻(おおともべの はかま)は、唐による日本侵攻の計画を知るや、自らをカネで売って奴隷に身を落とした。 自分が奴隷となることで得られたカネで、4人の仲間を日本へ帰国させ、危急存亡の事態を祖国に知らせたのである。 わたしがこの話をはじめて知ったのは、キリスト聖書塾が発行する月刊 『生命の光』 誌上だった。 そのとき、涙がぼろぼろと止まらなかったのを覚えている。■ 野党に代わり地方首長が中央政治の牽制役に ■ さて、読むに堪えない東京新聞 (=中日新聞) の社説は脇に捨て、今年は北陸金沢の 『北國新聞』 社説を取り上げる。 北國新聞の社説やコラムは、わたしのブログでも頻繁にご紹介している。 地に足のついた論説を展開する保守系の地方紙で、わたしは高く評価している。 元旦社説は、「<地域主権> 元年 <首長の時代> 迎える覚悟を」と題した。≪政権交代によって、自民党議員の力を借りて国の予算をもぎ取ってくる 「利益誘導型」 の政治システムは、もはや機能しない。石川県、富山県の首長は、昨年末の予算編成で、国と地方のパイプ役を事実上失った心細さが骨身に染みたのではないか。≫≪地方の声を首長が代弁し、国に物申す場面は、昨年末、子ども手当をめぐる論議でも見られた。鳩山由紀夫首相が地方に一部負担を求めたのに対し、全国の知事が一斉に反発し、支払い拒否も辞さない態度を示した。「地方負担」 の押し付けは、地域主権の確立を目指す民主党政権の理念と違うではないか、という批判である。 マニフェストを逆手に取って政府に立ち向かう知事の発言力は、もはや野党の有力幹部をしのぐ。鳩山政権は、野党の批判を知らぬ顔で受け流せても、地方から発せられる声を無視できなくなっている。≫ 自民党が異議申し立ての基本的機能すら発揮せぬ現状では、まさしく知事や市長に小沢政権の牽制役を大いに果たしてもらわねばならない。■「地域主権」のお題目の化けの皮 ■ 北國新聞の社説後半では、民主党が 「道州制」 に冷淡であることをプラスに評価しつつ、軽率にも、民主党のいう 「地域主権国家」 というお題目を讃美している。「道州制」のことはわたしも問題視しており、拙著 『日本の本領(そこぢから)』 にも詳しく述べたとおり。 道州制が遠のくのは確かに結構なことだが、問題はそもそも民主党政権の振る舞いが 「地域主権」 とは程遠いことだ。 関東地方の全ての県・都がこぞって推進の意思を再確認した八ツ場(やんば)ダムを見よ。「地域主権」 なら、県・都の意思が勝つはずだ。ところが現実には、小沢一郎氏への貢ぎ物がなかった案件だからだろう、強引に建設凍結に追い込まれた。 ここに小沢政権の本質が端的に示されている。 小沢一郎氏への貢ぎ物があったからか、東北地方のダムは建設続行だ。 民主党の 「地域主権」 とは、所詮そんなものである。 天下の北國新聞が、民主党のお題目に幻惑されては困る。
Jan 5, 2010
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