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さいきん勤務先の若い人たちのメールに 「御座います」 という文字遣いが増えている。わたしの感覚だと、業務上のメールや文書に 「御座います」 などという文字遣いはありえない。呑み屋の女将(おかみ)が「近ごろは御来駕いただけずお淋しゅう御座います」と書いたりするのに使うものではないか。手書きの時代に、筆画の多さをものともせず 「御座います」 などと書くのは手間をいとわぬ水商売の意気があればこそ。そもそも社内に、まどろっこしい 「ございます」 調の文章は、まずなかった。ところが、パソコンだと漢字変換で簡単に 「御座います」 が出る。世間ではあまり使われない文字遣いなのだが、そもそも読書量が少なく、手書きの文章修行もしていない若いひとは、漢字変換機能を先生にしてしまう。年長者が言ってやらないと分からないだろう。お触れ書きを部の全員にメールした。世間さまのお役にも立つかと思うので、ほぼそのままご紹介しよう。≪最近、一部の人たちのメール表現等で気になる点があります。以下の2点に折々留意いただければと思います。いずれも、パソコン使用に伴って漢字変換をしすぎる例です。当部では、経伺書類等で日本語の文章の書き方も大切なので、あえて指摘させていただきます。1. 「御座います」 「御座居ます」「明日の夕食会の場所は xxxxx で御座います」「有難う御座います」のような例を最近 とくに若い人たちのメールでよく見ますが、手書きなら 「御座います」 とはまず書かないことでしょう。「明日の夕食会の場所は xxxxx です」「ありがとうございます」が、自然です。社内業務で、丁寧なほうがいいと思って 「御座います」 を使うのは逆効果です。 バカ丁寧は、失礼なことさえあります。(「御座います」 などという文字表現は、飲み屋の女将(おかみ)が来店催促の手紙に使うようなものだと、あえて付言しておきましょう。)2. 「xxxで有る」 「xxxx大きく無い」「Aさんは肉を食べ無い」「集合場所は渋谷で有る」と書いてあったら、おかしな感じがするでしょう。「食べない」 「渋谷である」 と書きますね。ところが、最近以下のような例が経伺書類等に散見します:「融資組成が好調で無い時期には」「事業収益額は大きく無い」「事業収益は xxx 億円で有る」ついつい漢字変換してしまったのでしょうが、このような不自然な漢字の使い方は、かえって文章を読みにくくします。「融資組成が好調でない時期には」「事業収益額は大きくない」「事業収益は xxx 億円である」と書いてあるほうが、目がつっかえずに、すっと読めるでしょう。総じていえば、「ある」 「ない」 は、すべて ひらがなで書いておくのが無難です。漢字変換しても字数は減らないし、読みにくくなるだけです。とくに 「~である」 や 否定の助動詞の 「ない」 は、漢字で書くのは間違いです。(「そういうことも有りうる」 「連絡がなかなか無い」 のように、漢字で書いたほうが読みやすい場合もあります。それは、 「ある」 「ない」 が独立した動詞・形容詞として機能しているときです。)以上、参考にしてください。≫いまの若い人たち、よく頑張っている。その姿を見ているから、わたしは日本の将来に対してまったく悲観的でない。パソコンとメールの時代になって、若い人たちの雑用が減り、実務量が飛躍的に増えた。日々鍛えられていく様子は、見ていて頼もしい。ただしその一方で、わたしが入社したてのころのように、書く文章すべて真っ赤になるまで添削されて文章修行をするということが、いまの若い人たちには無い。だから、ときどきは愛想ならぬ老婆心をふりまくことも必要だ。*ふと思い立ってグーグル検索をしてみた。世間では 「ありがとうございます」 をどう書いているのか。ありがとうございます 67,500,000件有難うございます 5,680,000件有難う御座います 2,240,000件有り難うございます 1,760,000件ありがとう御座います 928,000件有り難う御座います 678,000件有難う御座居ます 57,600件有り難う御座居ます 8,430件ありがとう御座居ます 4,360件「有難う御座います」 「ありがとう御座います」 が大健闘しているのにはビックリである。こういう文字遣いの傾向は年ごとに変化していくと思うので、このようなグーグル検索結果を定期的に行った結果が残っておれば、国語史を書くうえでも有益だろう。
Feb 3, 2009
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美樂舎マイ・コレクション展で、わたしは台湾の Natako Oo さんの作品を展示している。展示した2作品のうちの1つは、アートファンなら一目見て分るとおり、会田 誠(あいだ・まこと)さんの有名な問題作「犬 雪月花」シリーズが影響している。剽窃でもパロディーでもなく、Natako Oo作品は会田誠作品を消化し、写真コラージュの手法で昇華したものだ。ここにひとつの系譜があり、アート史の1頁が開かれたと、ぼくは思うね。展示会場には、会田誠作品を画集から縮小カラーコピーしたものを、Natako Ooさんの作品の下に <参考> と明記して貼りだした。展示の初日の午後になって、会田誠さんの所属画廊であるミヅマアートギャラリーの社員が会場に来訪し、カラーコピーを撤去するようにと伝えてきた。会場係がすぐに撤去してくれた。わたしに言わせれば、来訪者が会田誠作品と Natako Oo 作品を見比べることができるようにしたのは、現代アート史を語るためという立派な目的があったのだが、適法違法の微妙なところだから撤去はやむをえないと思った。かりにわたしが、画集の絵を次々に額装して壁に展示し、「会田誠作品展」と銘打った展覧会を行ったとしたら、これはもう完全な真っ黒け。文句なしにバツである。そういうケースと今回のマイコレ展のケースは明らかに異なる。しかし、率直に言って線引きはむずかしい。今回のケースはグレーなのである。* * *しかし、ここから先はミヅマアートギャラリーのほうが非常識だと思う。ミヅマの社員は、あろうことか展示の説明文にまでクレームをつけてきたのである。ミヅマアートギャラリーが問題にしたのは、このくだり:≪アートファンなら、会田誠(あいだ・まこと)さんの有名な問題作「犬 雪月花」の3連作を思い出すはずです。いわばその実写版写真コラージュが「少女恋物 #01」ですが、丹念な仕事には驚くばかりです。そして、うつくしい。≫驚いたことにミヅマの社員曰く、「会田誠の名前に言及してはならない」。仕方がないから会場係が、Natako Oo 作品の展示説明文も撤去した。勤務先まで急報があり、わたしは勤務を終えたあと会場へ行って、以下のような文章に改めて壁に貼り付けた:≪アートファンなら知っている、ある有名な問題作。いわばその実写版写真コラージュが「少女恋物 #01」ですが、丹念な仕上げにはドキリとさせられます。Kawaii装飾に彩られた、美しくも目くるめく世界です。≫説明文としてはよくなった。ミヅマちゃん、ありがとう!しかし、である。「会田誠の名前を出すな」とは、いったいどういうことなのだろう。アーティストの名前に言及するためにいちいち所属画廊の許可が必要なのであれば、およそアート史を書くことはできない。ミヅマアートギャラリーの非常識には驚いた。劇評で石原さとみや笹本玲奈について書くために、いちいちホリプロの了解が必要か? みたいな話だ。今回のケースでは百歩譲って、会田誠さんについて「言及がないとはけしからん」と言われるのなら、まだ分る。(その場合だって、会田誠に言及するかどうかは、あくまでわたしの裁量の範囲だと思うがね。)「会田誠の名前を出すな」というくらいなら、この際、会田誠さんの名前を廃止してはどうか。案外、会田さんは「名無しもいいね」とゲラゲラ笑ってオーケーするかもしれないね。【蛇足】 展示会場に来たミヅマアートギャラリー社員を名乗るひとは、会社を代表して掲示物撤去を要求しながら名刺は出さなかったという。社会人として、非常識。ミヅマアートギャラリーは、社員教育からやり直したほうがよいのかもしれない。【続・蛇足】ミヅマアートギャラリー代表の三潴末雄(みづま・すえお)さんが、平成26年8月19日の午前11時ごろに、わたしのFacebook上に以下のようなコメントを書き込んだ。≪会田誠の表面のイメージをパクった醜悪なものだ。作品とは呼べない。会田誠にはきちんとした社会批評としっかりしたコンセプトがある。≫≪会田誠の作品イメージを勝手に参考資料として、展示しているが、即刻辞めて欲しい。迷惑な話だ!≫三潴さんが書いた「作品とは呼べない」といった内容は わたしには罵詈雑言に思えるが、アート界でご自身が育てたと自負されているであろう会田誠さんへの父親のような愛情が、三潴さんをして我を忘れさせたのかもしれない。Natako Oo 作品は会田誠作品と以下の点で決定的に異なり、パクりではない。そこがすごいところ。Natako Oo 「少女恋物 #01」 (平成25年)(1) 会田誠作品「犬 雪月花」連作の少女が犬への連想を喚起することを強く意図している。それに対し、Natako Oo 作品「少女恋物」連作は犬を連想させない。むしろ犬を連想させては邪魔になるから、会田誠連作に存在する首輪を Natako Oo 作品はあえてつけていない。(2) 会田誠作品「犬 雪月花」連作が雪月花というモチーフによっているのに対して、Natako Oo作品「少女恋物」連作は医療行為がモチーフになっている。それによって、会田誠作品が描く少女たちの手術前はどうだったろうね? という問いかけにもなっている。会田誠作品「犬 雪月花」は社会的波紋を呼んだ作品であり、それに対するひとつの批評を提供しているという意味で、Natako Oo作品はきちんとした社会批評としっかりしたコンセプトがある。こういうのを、換骨奪胎というのである。三潴さんご本人が後で否定しないように PC 上で三潴さんの書き込みを撮影した。(なお、17 saat once とあるのは「17時間前」ということ。わたしのFacebookは言語設定がトルコ語になっているので、「いいね」もBegenとなっている。三潴さんの名が Mizuma Sueo とローマ字書きになっているのもそのため。)【8/21 夜、追記】ここ数日、ブログへのアクセスが急増している。8/18 757 (実力値)8/19 4,100 (えらく増えた)8/20 16,981 (こんなこと初めて)8/21 22,894 (23:20現在)「ミヅマアートギャラリー」を風呂に入る前にGoogle検索したら、このブログが検索ヒットの2件目に来た。Wikipedia も抜くとは、ビックリ:ところが風呂から出てみると順位が下がっていた。あれ…? 順位は刻々と入れ替わるようだ:
Aug 19, 2014
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ドイツの高級紙 Die Welt のウェブサイトで 「熊の餌食となった顔を整形した中国人」 の写真に驚愕した。ドイツの通信社 DPA が配信したものなので、願わくはウソ写真でありませんように。「まえ」 と 「あと」 である。右の写真だけ見ると、これが 「まえ」 みたいだが、左の写真の悲惨さはどうだ。この男性が熊に襲われたのは4年前。当時、本人の皮膚を移植して整形を試みたが、結果は左の写真のような具合。横から見たところ。まさしく顔を失った感じだ。そこで熊の襲撃の2年後に、死人の頬・鼻・唇を移植する本格的整形手術をした。右側の写真は手術2年後の最近のようすだ。上が、死人の顔の一部を移植した手術直後のようす。フランケンシュタイン博士の 「怪物」 状態だ。ドイツの通信社 DPA の記事によると、手術はじつに18時間に及んだ。中国・陝西省西安市の第四軍医大学西京医院整形外科研究所の李会元さん率いる医師団の成果という。(李会元の「会」の字は、正しくは「草かんむり」がつく。)美少女の歌唱代演や、漢人による異民族仮装行列など「これはいくらなんでもホンモノでなければ!」という局面でさえ、世界の常識をサッサと裏切ってくれることが続く中国五輪を見ていると、この整形手術 「まえ と あと」 だって「じつは映画制作現場の特殊効果最前線の取材でしたァ」と、明日の Die Welt ウェブサイトに訂正が出ているかもしれない。ウソ写真と判明しても もう驚かないが、いちおう実話であろうと推察したからブログにこうして紹介しておるわけであります。
Aug 22, 2008
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日本橋高島屋は6階の美術画廊のセンスがよく、昼休みに京橋駅から日本橋駅まで ひと駅を地下鉄に乗って、絵や陶藝をみる。きのうも行って美術画廊は楽しかったが、地下1階の入り口のお嬢さんがたの挨拶と店内アナウンスに強い違和感を感じた。「いらっしゃいませ。ようこそ」一流のデパートだから、もちろん言い方は荘重なまでに丁寧である。挨拶ことばを目新しくしようと、若い担当者が考えたのだろう。ところがこれが、気持ちが悪くなるくらい、いただけない。想像してみてほしい。あなたが若い社員で、会社の1階入り口でだいじな客の到来を今か今かと待っているとする。ようやく来られた。そのお客に向かって「いらっしゃいませ。ようこそ」とまで言って、「ようこそ」 で言葉を止めるだろうか。そこで止めたとしたら、ずいぶんと なれなれしい感じだ。「いらっしゃいませ」 という丁寧レベルで始めた挨拶なら 「ようこそおいでくださいました」 まで言うものだろう。「いらっしゃいませ」 という丁寧と 「ようこそ」 という省略形の落差に違和感がある。日本橋高島屋の地下1階の入り口で「いらっしゃいませ。ようこそ」と言われて、「あれ? 挨拶が変わったなぁ」と首をかしげつつエスカレーターに乗ったら、聞こえてくる店内アナウンスでも、デパート独特の荘重丁寧モードで「いらっしゃいませ。ようこそ」と頻繁に挨拶がある。この違和感をたとえて言えば「お客さま、おはよう」と挨拶されたときのような感じ。「ようこそ」 で止めるのは、「おはよう」 のなれなれしさに近い。場末の呑み屋の性格美人の店員さんや、キャバクラのつけまつげ嬢が明る~く「いらっしゃいませェ。ようこそ~~」と言う分には はなはだ結構だが、一流デパートがこれをやってはいけない。趣旨を簡単に名刺に書いて、デパート1階にいたマネージャーに渡した。夕方、会社に日本橋高島屋の 「教育担当」 の女性から電話があったので、趣旨を話したが、教育担当は歯切れが悪かった。おそらく高島屋のかなり上のレベルのひとが思いついて挨拶を “親しみやすく” しようとしたものと察せされた。なにごとも、センスの問題だ。「いらっしゃいませ。ようこそ」 を日本橋高島屋が続けるなら、ぼくが行くこともなくなるだろう。改善案としては「いらっしゃいませ」 だけにするか、「いらっしゃいませ。ようこそおこしくださいました」 (入口の挨拶嬢のふりつけは、これ)、「いらっしゃいませ。ようこそ高島屋へ」 (文章語っぽいが、ぞんざい省略の感じは消えるので、店内アナウンスには使える)というところだろう。
Nov 12, 2013
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遅ればせながら、ことしの初学びのご報告です。扉の内側に紙を貼りました。何でしょう。ハングル(朝鮮文字)で書いてありますね。朝鮮語の数詞です。「11, 22, 33, 44, 55, 66, 77, 88, 99」と書いてあります。日本語の数詞には「イチ、ニ、サン、シ、ゴ、ロク」のような漢数字と「ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ、いつつ、むっつ」ないし「ひい、ふう、みい、よー、いつ、むう」のような和数字がありますね。朝鮮語の数詞も “イル、イー、サム、サー、オー、ユク” のような漢字語と “ハナ、トゥル、セッ、ネッ、タソッ、ヨソッ” のような固有語があります。朝鮮語の固有語数詞は、日本語の和数字よりも出番が多い。例を挙げれば「12時」「23冊」「34歳」は、たとえて言えば “とおふた時” “はたみつ巻” “みそよつどし” といった表現を使うのが朝鮮語。日本語では文学的表現を除けば「11」以上は基本的に漢数字ですね。例外は「20歳」の「はたち」くらいです。でも、大きな数字を固有語数詞で表現しなければならない場面は、さほど多くありません。“ハナ(=1)” から “ヨル(=10)” まで覚えておけば、「1時」から「12時」までは言える。「2016年」と言うときは漢字語の数詞を使い、固有語数詞は使いません。大きな数字はたいてい算用数字で書いてあるので、「20、30、40、50…」がハングルで書かれていることはほとんどない。というわけで、大学2年生のときに朝鮮語を習い始めてから今に至るまで、「20、30、40、50…」の固有語数詞はちゃんと覚えずにいたのです。それを今年の正月は一念発起、トイレの扉の内側に紙を貼って、便座に坐りながら何度も唱えて覚えました。日本語の場合、「4」は「よっつ、よつ」で「40」は「よそ」。「5」は「いつつ、いつ」で「50」は「いそ」。覚えやすいです。でも朝鮮語では「4」は “ネッ”、「40」は “マフン”。「5」は “タソッ”、「50」は “スィーン”。覚えにくいのですねぇ。“マフン” と唱えながら自分の40代のころをイメージし、“スィーン” と唱えつつ50代をイメージするといった具合に、年齢と関連づけながら覚えました。でも、まだ覚えきった自信がないので、1月12日の今になってもトイレの扉に紙を貼ったままです。ぼくは数詞を覚えるのがとても苦手です。語学の最大の苦痛は、数詞を覚えること。
Jan 12, 2016
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観 覧 車 回 れ よ 回 れ 想 ひ 出 は 君 に は 一 日(ひとひ) 我 に は 一 生(ひとよ) 栗木京子ぼくの好きな短歌。あまりにも ことばが流麗だけれども、読み返すたびに心に がしっとひっかかる。たとへば子供と観覧車に乗ってゐるとするぢゃないか。子供はきょろきょろわくわくする。きっとぼくより はしゃいでゐる。たぶん記憶があせて消えるのは早く、砂丘の風紋のやうに明日は別の場所に別の模様がある。でもきっとぼくは、観覧車の光景を増幅させながらそれを一生いとほしむ。あるいは、観覧車の相手は心を寄せる恋人かもしれない。思ひの深さを比べれば、それは確実に片思ひの恋だ。彼女は君に明るく応対するだらう。時はほがらに流れ、楽しい一日でしたね、で幕となる。記憶は君の心の暗室のなかでだけ輝きつづける。昨年 (平22) 11月の 『學士會会報』 を読んでゐたら、名古屋大学名誉教授の諏訪兼位(すわ・かねのり)さんの午餐講演録 「科学を短歌によむ」 に、栗木京子さんが観覧車の短歌を作ったときのことが書かれてゐた。≪栗木京子さんは、京都大学理学部出身の歌人です。京大短歌会にも属してゐました。ゼミの仲間たちと楽しく遊園地で過ごしたとき「観覧車回れよ回れ想ひ出は君には一日(ひとひ)我には一生(ひとよ)」といふ歌が、すんなりとできてしまひました。この、いぢらしさのにじみ出た、深刻さうな歌を、若い戦争未亡人がよんだ哀感にじむ歌だと思ひ込んだ人がゐたやうです。≫ぼくがこの歌を読んだときは男の視点でぼくの想像をひろげたのだけど、女性の視点を想起して夫を戦争で亡くした妻の歌ととらへる読み方もあったか。*諏訪兼位さんが紹介してゐる短歌には このような作品もある。ア ウ シ ュ ビ ッ ツ は 本 当 だ っ た 人 間 の 髪 で 織 ら れ し 毛 布 の あ り て 森尻理恵森尻さんは地球物理学者で、産業技術総合研究所で重力調査・磁力調査などを行ってゐるさうだ。無 人 戦 車 無 人 地 球 の 街 を 野 を は た は た と 哂(わら) ふ ご と く ゆ き か ふ 坂井修一人類滅亡の SF 映画本篇を長歌(ちょうか)とすれば その反歌(はんか)のやうな。坂井さんは東京大学で情報処理システムの開発研究にたずさはってゐるといふ。肉 体 の 死 に や や 遅 れ 億 の 死 の 進 み つ つ あ り Tubercule bacillus (ツ ベ ル ク ル バ チ ル ス) 永田和宏永田さんが3歳のとき、母を結核で亡くした。その死をとりまく時間を超微視的に見つめきった。母の死と、肉眼では見えない結核菌の億の死滅と。永田さんは京都大学の細胞生物学者。(なお、ここで使った仮名遣ひのルールは、「平成かなづかひのご説明」 を参照ねがいます。)
Jul 17, 2011
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3年ぶりの 「ダンス オブ ヴァンパイア」 帝劇公演。演出も舞台芸術も進化し、分かりやすく、かつ華麗になった。その辺のことは、ブログ後半に。このミュージカルで山口祐一郎さんが歌う 「抑えがたい欲望」 は、吸血鬼のクロロック伯爵が、愛する女性のいのちを奪い続ける悲しみを歌い上げたもの。ぼくの大好きな曲で、カラオケボックスにCDプレイヤーを持ち込んで歌っていたことがある。この歌を歌ってしまうと、カラオケボックスでオーダーできる歌謡曲を歌うのがバカらしくなって、他人とカラオケに行っても専ら聞き役に回っている。ぼくの意固地さ、好みにうるさいところが、こういうところに出る。さて、吸血鬼研究の大家、アブロンシウス教授。3年前に市村正親さんがみごとに演じた役を引き継いだ石川 禅さんは藝の広い人なので、どんな教授が誕生するか、今回観劇のいちばんの楽しみだった。市村アブロンシウスの濃厚さに代わって、フットワークの軽い教授が完成していた。さすが石川 禅さんで、教授の皮膚に禅さんの血がとくとく流れているのが聞こえた。*舞台美術の大きな変化は、クロロック伯爵の城のホール。3年前の帝劇公演は簡素なデザインだったが、ヨーロッパ諸国の公演では城のホールはゴチック様式のごてごて感に満ち、城に住まう吸血貴族たちも華麗なコスチュームで登場する。今回の帝劇公演は、城のホールに多数の肖像画を飾り、大道具の階段も電飾で飾るなど、ウィーン公演のCDの解説に出ている写真に近づいた感じだ。吸血貴族たちのコスチュームも華麗さを増して、娘サラがあこがれるのにふさわしいお城の舞踏会になった。演出の変化をいくつかご紹介しよう。クロロック伯爵の初登場のシーン。3年前には舞台用のクレーンに乗って登場なさり、ミュージカルを観なれていなかったぼくは 「美川憲一だ!」 と思ってしまった。今回は登場シーンの直前に客席中央通路を静々と歩きながら舞台中央に上がり、客席に背を見せたまま歌いだすという、落ち着いた演出。もうひとつ。劇の最後、吸血鬼が総出でダンスが始まるところ。3年前にはストーリーが唐突に終わり、あれよあれよという間に吸血鬼が総出で踊りだし、あれ? あれ? という唐突感があった。今回は、ストーリー最後の悲劇をゆっくりと間をもたせながら演じさせ、そのいっぽう悲劇の進行を知らぬアブロンシウス教授が自らの業績を誇るフィナーレ前半を歌い終え、舞台上の3人が客席の中央通路を走りつつ退場することで、ストーリーが終結したことを形で見せつつ、舞台はすばやく吸血鬼ダンサーが埋め尽くす。見ていて、納得感のある演出だった。クロロック伯爵に仕える、言葉が不自由なせむしの下男クコールの駒田 一さん(左) は、その怪演と幕間の掃除姿ですっかり夏の帝劇のアイドル。クロロック伯爵の息子ヘルベルトの吉野圭吾さん (右) は、3年前のアドリブ感あふれる軽やかなステップに代わり、今回は練られた台本に沿って演じて確実に笑いを取る。(演出に変化がありました。)みんなが寄り合いつつキャラクターを育てているのが感じられる、演劇の楽しさ。サラ役の大塚ちひろさん。3年前にはひたすら可憐な女性と見えたのが、すっかり肝が据わってアルフレートをいつも通り越し、結局のところ劇の最後の悲劇でようやくアルフレートはサラの心に近づくことができるのですね。だから、最後の悲劇は究極のハッピーエンドかもしれない。そういう深読みができるのが、この作品の楽しさ。*カーテンコールで再び客席総立ちで「真っ赤に流れる血が欲しいモラルもルールもまっぴら……」とフィナーレを歌うとき、「ミー&マイガール」 のランベス・ウォークみたいに観客のための振り付けが加わったのも、3年前にはなかった。そして、劇場ホールに出るとあれ?壁に貼ってあったアルフレートとサラの肖像写真の口もとが……。(8月26日まで帝国劇場で。そのあと9月2日~27日は博多座で。)
Aug 15, 2009
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2週間おいて観た 「屋根の上のヴァイオリン弾き」 は 期待通り、芳醇な葡萄酒、いや、テヴィエ父さんの好きなブランデーの香りがした。(2週間前の感想は 10月12日のブログ に書きました。)やや狭めの日生劇場の舞台空間に慣れて、群舞ものびのびと、きびきびと。2度目の観劇のすべてが1度目より面白い。この作品の奥の深さを改めて知らされた。25日の昼の部も満員御礼。プログラムが売切れで、係員が頭を下げていた。お節介焼き仲人業のイェンテ婆さんは、10月11日にはクセが強くて憎々しく思われたが、2週間おいて観ると なにかこう丸くなっている。第2幕の最後に聖地へ向かう決意を語って上手(かみて)へ歩き去るイェンテを演じる荒井洸子(こうこ)さんが袖に入り際に、にっこり笑って客席に向かい手を振ってくれた。拍手してあげたかったなぁ。プログラムを見ると、「屋根の上のヴァイオリン弾き」 には34年前の昭和50年 (1975年) から別の役で出ておられたのだと。母ゴールデを演じる鳳 蘭(おおとり・らん)さんは、10月11日に見たときは、とびきり明るい母親と魔女のようにこわい妻との両面をハイテンションで演じ、舞台のオールマイティ・カードだった。あまりにパワフルで市村正親さんを霞(かす)ませるほどだった。10月25日には、役作りがやや変わって素っ気ない母となり、結果的にゴールデという人格に統一感が出た。舞台での突出度が下がり、市村正親さんをいいバランスで守(も)り立てた。あのヴァイオリン弾きは、いたずら天使なのだろう。何の役に立つわけでもないが、いないと寂しい、そんな存在。からだをくねらせ演じる日比野啓一さんに、勝手に親近感を抱いてしまった。いたずら天使がいる文明には、きっと潤いがある。ユダヤの原点の乾いた大地には、いたずら天使が必要なのだ。*次女ホーデルを演じる笹本玲奈さんの第1幕は、のびのびとし、花がこぼれそうな自然な笑顔に飾られて、観ていてハッピーになれた。「ミー&マイガール」 を歌うサリーそのままだった。じつは10 月11日には、ときとしてまるでファミリー・ミュージカルを無理して演じているような固さが感じられた。ホーデルは、サリーより随分若い17歳くらいの設定のはずで、それを意識しすぎているのかなと思った。笹本さんのこぼれるような笑顔は、いのちを捧げてもいいほど美しい。でもじつは、なかなか見せてくれないのですねぇ、これが。今回のあふれるスマイル。きっと、なにかいいことがあったのでしょう。第2幕の、村の駅での父テヴィエとの別れのシーンは、演出が変わっていた。前回は、「今度は、いつ会えるか……」といって嗚咽(おえつ)をもらして父に駆け寄り抱きついた。(これを見て、電撃が走ってしまった。)今回は、「今度は、いつ会えるか、神様だけが知っているのね」といって父から目をそらして立ち尽くし、そのうち感極まって父に駆け寄り抱きつく、という演出だった。理屈では今回のほうがテンションを高める演出なのかもしれないが、ぼくは前回の演出のほうが好きだ。ホーデルの別れの瞬間の気持ちの高ぶりが一気に出ていた。*第1幕、長女と仕立て屋の結婚の儀式のシーン。しずかな歌が滑り込むように 「サンライズ、サンセット」 の斉唱に入った瞬間、ぼくのからだに幾本もの蝋燭が灯った。劇を2度観ると、からだが反応する場面が変わる。次女ホーデルとインテリ青年パーチクが「いつの日にか、わたしたちも」とふたりで歌うのが第2幕への伏線になっていることにも気がついた。こういう発見の楽しさがあるから、いいお芝居は2度目がいい。「サンライズ、サンセット」 は有名なフレーズだから日本語に訳せないのだろうけれど、ぼくなら「朝な夕な」と訳したい。「朝な夕な」 は いまや古語に近いから(ワープロ変換でも出てこない)、最初は観客に理解してもらえないだろうけれど、このミュージカルのちからで現代日本語に復権できるかもしれない。(日生劇場にて、10月29日が千穐楽。)
Oct 26, 2009
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以前から、ぜひ自分で訳してみたかったミュージカルナンバーがある。ミヒャエル・クンツェの Mozart! から、Gold von den Sternen.帝劇版の小池修一郎訳では 「星から降る金(きん)」 だ。あこがれを胸にいだき、夢を見ずにはいられない人間の本能のうずきを愛撫してやまない曲で、ドイツ語の原曲を何度も歌っては涙を流した。幸か不幸か、日本語版の 「モーツァルト!」 は観たこともCDを聴いたこともなかった。先日ついに銀座の山野楽器でCDを買ってしまったので、封を開く前にドイツ語原文から和訳を試みた。もちろん、シルヴェスター・リーヴァイさんの曲で歌えるように。*キラ星を見つけに 泉 幸男 訳むかし石の城に魔法の庭があり王さまが王子と住んでいた王は年をとり、希望うしない扉閉ざし、壁をきずいて「ここが最高」 と王は言うでも王子は外を夢見る誰も行ったことのないかなたにキラ星ふりそそぐ生きるとは学ぶことキラ星みつけに行くひとり、試練の道「どうせ、しくじるぞわしもそうだった魔法の庭にいるほうがいいここなら安全だおまえを守る高い壁、閉ざした扉」王さまなりの愛情は王子の夢とは別ものさいはてに降るキラ星つかめば夢がかなうという生きるとは学ぶことキラ星みつけに行くひとり、試練の道を愛とは解き放つこと愛とは別れることでもある愛とは自分を捨てること愛があればこう言える「はるかな、さいはての地キラ星をさがし求め行け」生きるとは学ぶことキラ星みつけに行くかなたの地へ足ふみしめ試練に満ちた世界試練の道へ*小池修一郎さんの訳と歌い比べると面白いのだが、著作権のつごうで小池訳をここに掲載するわけにはいかない。ミュージカルファンのかたは、どうか東宝CDをかけて比べてみてください。泉訳のほうが小池訳より原文の構成に近い。「ホシからのキン」 というのが日本語では聞いて分かりにくいので、泉訳では「(ふりそそぐ)キラボシ」 と訳してある。小池修一郎訳の 「なりたいものになるため」 「望むように生きるなら」 が、拙訳では 「生きるとは学ぶこと」 となっている。原文は Sein heisst Werden, Leben heisst Lernen.直訳すると「何かであるということは、そうなるということを意味する。生きるとは学ぶことを意味する」といっても分かりにくいだろうから、ドイツ語を英語に直訳すると、To be means to become, to live means to learn.やはり、分かりにくい、か。「生きるとは学ぶこと」 という一節は唐突だから、文脈に合わせて適当に整えた小池訳の考えもわかるのだが、これをあえてリフレーンに据えたミヒャエル・クンツェさんの思いがあるはずだ。やはり、忠実な訳が捨てがたい。「星から降る金」 は劇中、ヴァルトシュテッテン男爵夫人の歌で、東宝CDでは一路真輝さんが歌っている。ことし11~12月の帝劇公演では幸寿たつきさんと涼風真世さんのダブルキャストだ。もちろん、観に行きます。シナリオや歌の和訳の仕事を、いつかやってみたい。キラ星を見つけに!
Jul 18, 2010
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こう言っちゃ何だけど、ミュージカルでとびきり感動するのって、セックスと同じなんだ。ミュージカルのいいところでコンビニ袋をがさがさやられるのって、セックスでいきそうなときに電話が鳴るようなものさ。……という比喩を温めてきたのだけど、これがまんざら間違いでないことがわかった。≪カナダのマギル大学のザトーレ教授は、お気に入りの曲を聴いて背筋がゾクゾクする快感(いわゆる「鳥肌が立つ」感覚)をおぼえるときの脳の活動を、PET(癌検診にも使われる装置)を用いて捉えることに成功しました。驚いたことに、音楽を聴いてゾクゾクするときに働く脳部位は、食事や、非合法ドラッグの摂取、性的な刺激によって快感を感じるときに働く部位と同じだったのです。≫ (231頁)「ミス・サイゴン」 のような名作になると、ミュージカル・ナンバーの前奏が流れ出しただけでからだじゅうが感動モードになってしまうのだが、この説明もこの本にあった。≪私たち人間には、音楽による感動という “ご褒美” をあらかじめ予測してドーパミンを出す脳部位 (尾状核) と、感動することによってドーパミンを出す脳部位 (側坐核) の2つがあると言えます。……直前に 「来るぞ来るぞ」 と思って期待する脳の働きと、その後、「来た!」 と感動する脳の働きのそれぞれで、脳がご褒美を得られるわけです。サビやクライマックスの直前で、少しテンポを遅くするピアニストがいますが、これは、聴き手が感動を予測することで得られるご褒美を増やそうとしていると言えるかもしれません。≫『ピアニストの脳を科学する ― 超絶技巧のメカニズム』 古屋晋一 著 (春秋社、平成24年刊)名演奏の情感には、テンポのゆらぎが関わっているのだという。まったく楽譜どおりの機械的な演奏 (= ゆらぎゼロ) から、優れたピアニストが弾いたとおりのゆらぎがある演奏まで、ゆらぎの程度の違う演奏を5つ用意して、多くのひとに聴かせて 「どのくらい情感豊かな音楽に聞こえるか」 点数をつけさせた。≪その結果、ゆらぎの量が減るにつれて、聴き手は、演奏の情感が乏しく機械的だと感じることがわかりました。つまり、ピアニストが演奏に込めた表現は、決して独りよがりなものでも無意味でもなく、聴き手の心にちゃんと届いているのです。≫ (221頁)本書の前半では、ピアニストが練習して体得する能力が脳のどの部位に反映しているのかを語ってくれる。巻末の参考文献リストを見ても、ほとんどが英語書きのもの。日本の読者にとってユニークな本である所以である。
Mar 20, 2013
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4日間ほど、台湾のとある発電所ちかくのド田舎にいた。発電所長が「このまちではここがいちばんうまい」という店でわいわい夕食をとっていたら、横合いからギュヒーと鳴きながら豚がのそのそ入ってきて、店の人がすぐ追い出しにかかった。その店の名物が、鶏のぶつ切りと棗(なつめ)、枸杞(くこ)の実、山人参などを米焼酎で煮込んだ“焼酒鶏”という鍋物。酒の肴とアルコール摂取が一度で済んでしまうという手間いらずである。かき混ぜると、目をつぶってくちばしをかわいく開けた鶏ちゃんの生首が鍋の底から浮いてきた。わたしは大丈夫だが、日本の鍋物でこれをやったらたぶん不気味がられる。「煮込んであるからアルコールは飛んでるさ」と台北から同道してきた台湾人が言うのだが、そんなことはない。煮汁に、強めのビールくらいのアルコールを感じた。アルコールを飛ばすために、鍋をがらがら沸かしてフランベしている卓があった。うすいピンク色のほのおを盛大に上げながら、煮汁のなかのアルコールが燃える。じつはそれを見たから食べてみたくなったのだ。その店の他の料理がどれもうまいなか、“焼酒鶏”は塩味がほとんどなく、味は期待はずれだった。「塩を足そう」と言い出そうか……いや、もともと、こういう味なのかもしれない……とにかくアルコールで漢方薬材らしきものも煮たのだから体にはいいだろう……などと考えながら誰よりもたくさんおかわりをしていたのであった。
Feb 1, 2008
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拙著『英語学習の極意』(文春新書)は、帯に≪リスニング強化には高速音読法が効く!≫と銘打ってある。典型的語学教材のような ゆっくりモードではなく、ニュースのアナウンサーのような速度で音読練習をバシバシやることを勧めている。 横山カズさんの新刊も「パワー音読」と称して同じことを勧めている。同志が増えるのはいいことだ。横山カズ 『英語に好かれるとっておきの方法 4技能を身につける』 (岩波ジュニア新書、平成28年刊) 行き着く先は同じなのだけど、パワー音読の途中過程で目新しいのは次の2点だ。【ささやき音読】≪10メートル先に立っている友達に全力で内緒話をする感じです。声を使わずに、息だけで強く口に出します。要するに子音しか使えない状態を作り、全力でやればすべての子音が一気に強化できるということなんです。≫ (79頁) 英語の発音はとりわけ、子音が際立つというか「粒立つ」。子音をはっきり発音するのは、英語の発音でとてもだいじなのだけど、その練習法として「ささやき音読」は確実に効くはずだ。【和訳音読 ⇒ 感情音読】≪英文の内容を和訳して日本語で読みます。直訳でなくても、少し自分でアレンジした日本語でかまいません。「自分だったら日本語でこう言うだろうな」と想像しているとよいでしょう。自分らしい日本語で読めば、当然 感情や思いが格段に乗せやすくなります。≫≪「和訳音読」で感情をこめて読んだ文を、今度は英語で読みます。すでに自分の感情と文を一致させて日本語で読んでいますから、その気持ちを今度は英文にこめて読みます。≫ (80頁) 音読練習をするにしても、英文が機械的な棒読みになってしまっては実戦力につながりにくい。自分自身の英語に感情をこめるのは、英語国に行って英語環境に身を置けば自然にできることだけど、日本にいながらこの境地に達するのはむずかしいことかもしれない。 それを乗り越えるために、和訳音読という迂遠(うえん)な道をあえて経由しようというもの。 自分はそんなこと、さらさらやるつもりはないから、ひとにも勧められないのだけど、方法論としては的を射ているね。 横山カズさんは『CD-ROM付 最強の英語独習メソッド パワー音読入門 英語を話す筋力と反射神経を鍛える』という本を平成27年6月に上梓している。* * * あともうひとつ感心するのが「途切れなく話すための “ ,(カンマ) which” 」というくだり。日本人が苦手とする関係代名詞を自分のモノにするための、とてもいい方法だ。≪ “,which” は「そしてそれが」もしくは「そしてそれを」という和訳で最初は覚えておきましょう。短い文をどんどんつぎ足しながら途切れなく話すことができるようになります。≫ (99頁) たしかに、これも効く。「 “,which” のトレーニング」として著者の横山カズさんが挙げているのが、こんな文だ。≪I went to Kobe the other day and met my old friends, which was a great time because we had such a nice conversation, which I want to do again sometime soon, which could be pretty difficult though as my job usually doesn’t allow me to do it, which I hate.≫ (99~100頁) 横山カズさんは本書前半では身の上話をいろいろ書いている。この辺も『英語学習の極意』の同志だね。
Aug 15, 2016
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兵庫県というのは日本で最も県民意識のない県として知られる。播磨地方も但馬地方も、神戸近辺との心情的親しさがいまだに、ない。不自然に大きい。県というより、道州制の広域行政区もどきだ。(だからいっそのこと徳島県も合併して、神戸をハブとする大 「兵庫県」 になればいい、と拙著 『日本の本領(そこぢから)』 には書かせていただいたけれど。)『NHK知る楽(らく) 歴史は眠らない』 の 4~5 月号 「県境の謎を行く」 (藻谷浩介もたにこうすけさん) を読んで、ようやく疑問が解明された。なんと 「兵庫県」 という化け物は、財政難の明治政府が当時ただの寒村だった神戸を大貿易港へ育てるために、播磨(はりま)平野の豊かな実りがもたらす資本と、但馬(たじま)・丹波の絹織物という商品を神戸という新開地に集約させるための、じつに人工的な枠組みだったというのですね。稀代の指導者、大久保利通の構想だったという説がある由。嗚呼(ああ)!地図をしげしげと見れば確かに、明石の西、加古川、高砂、姫路、相生(あいおい)から赤穂まで、広大な平野が広がる。幾本も川が流れて、水にも恵まれている。そのわりに今日、播磨地方は全国区の場所ではない。印象が薄い。姫路城のような立派な遺産を残せるだけの財力と智力に古来恵まれた地というのに。藻谷さんが書いている:≪大阪から明石まで……(中略)……大きな城跡は1か所もありませんが、播磨国(はりまのくに)に入ると俄然大きな城が出てきます。それは、昔から農業が豊かでたくさんの年貢が上がるため、城をつくるゆとりがあったからです。≫≪そのため、織田信長の命で中国地方の攻略に向かった豊臣(羽柴)秀吉は苦戦を強いられ、結局、播磨を攻略するのに10年ぐらいかかっています。播磨はそれほど大きな力を持っていたわけです。≫NHKテキストの藻谷(もたに)さんの文章を読んで、なるほどと思ったのだが、要すれば播磨地方の税収がどんどん吸い取られて、神戸という港湾都市の建設に投下されたのである。廃藩置県の当初、播磨地方は 「姫路県」 であり、その後 「飾磨(しかま)県」 と改名する。神戸を中核とする兵庫県へ併合されて後も、飾磨県 「再置」 (= 播磨の独立) の運動が盛んに行われたが、ついに明治政府の認めるところとならなかった。さあ、こういう記述を読むと、 <if 播磨地方が姫路を県庁所在地として飾磨県としてインフラ整備をしていたら……> という仮定に、想像が膨らむのである。おそらく、古来からの繁栄の延長線上には、「百万都市」姫路があったに違いない。広島市なみの繁栄都市が播磨平野にあったほうが自然だ。 日本統一に共に寄与した古代国家 「吉備国(きびのくに)」 の繁栄をよろしく思わぬ大和朝廷が、これを備前国・備中国・備後国・美作国(みまさかのくに)に分割して力を削(そ)いだ。同じ大和朝廷が、明治の御代(みよ)にこんどは神戸港の殖産のために播磨国の力を削(そ)ぐこととなったとは、なんとも因縁深い。*姫路は、思い入れのある都だ。姫路城には、中国人を数名お連れしたことがある。美と智の巨大な結晶を、誇らかに思えた。夜の姫路に米国人3名と繰り出したこともある。「姫路は田舎だからタノシいところはありません」 という俗論を無視して路地を捜し歩いたら、かわいい女の子たちのトップレスのお店を見つけた。いまでも彼女たちにしみじみ感謝している。たぶんもう会うことのない彼女らへの恩義は、ほかの女の子たちにお返しすることで許してください……。わが故郷の松山市も同じだが、姫路市は本来もっている実力を十分発揮しきれず今に至った都市という感じがするのだ。勤務先の飄々とした部下が、姫路市出身である。偶然だが、わが故郷の愛媛県出身の女性と結婚している。
May 27, 2009
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米国 Platts 社発行の業界誌 Megawatt Daily の 平 270310 号 の冒頭記事に、あれ? と引っかかった文があった。Extreme cold weather and substantial snowfall last month helped put US power burn in the record books for February.【訳】 先月の極寒と大雪で、米国の発電業界は2月としては記録的な燃料消費となった。【逐語訳】 先月の極端に寒い天気と相当な降雪が、米国の発電業界を、2月としては記録的に多く燃やすように仕向けた。 この英文の burn の前には前置詞の “to” が必要ではないか。つまり[to不定詞]でなければならないと思うが。なぜならこの文で burn を支配する動詞は put だから。 put の用例としてはa scheme to put unemployed people to work on government construction projects【訳】 失業者を公共インフラ事業で働かせる仕組みIf you have a spare room, put it to work for you ― take in a lodger.【訳】 もし空き部屋があるのなら、役立てたらどうだい。下宿人を置くのさ。【逐語訳】 もし予備の部屋を持っていれば、それがあなたのために役立つようにせよ ―― 下宿人を収容せよ。 put someone/something to do something である。 目的語のあとには[原形不定詞]ではなく[to不定詞]がくる。 冒頭の引用文を少し単純な形にしてから議論しよう。Cold weather helped put the power company burn more coal.【訳】 寒冷により、発電会社はより多くの石炭を焚くこととなった。 helped put the power company burn は helped put the power company to burn が正しいのではないかというのが、きょうの疑問である。 それとも、文全体の主動詞 help は help someone/something do something のように使うから、これに引きずられて burn も[to不定詞]でなく[原形不定詞]が使われたのだろうか。 ひょっとしたら、help put というのが まとまった動詞句なのかもしれない。 “helped put” や “helps put” でグーグル検索してみたら、いくつも用例が出てきた。Counseling helped put her heart at ease.【訳】 カウンセリングで彼女の心は落ち着いた。Diplomatic dialogue helped put an end to the conflict.【訳】 外交協議のおかげで紛争に終止符が打たれた。Corkage fee helps put a cap on wine expenses.【訳】 ボトルの持ち込み料のおかげで、ワインにかける金額に歯止めがかかる。 これらの helped put や helps put は、たんに put や puts に変えても文としては成立するが、help があることで thanks to counseling/diplomatic dialogue/corkage fee といったニュアンスが加わる感じだ。 これらの3例は help put something + 前置詞句 である。お目当ての help put someone/something + [to不定詞]/[原形不定詞] の用例は、なかなか見つからなかった。 動詞句 help put は使役の意味で使うときは help に準じ、目的語のあとには[to不定詞]ではなく[原形不定詞]がくる―― というのが英語文法なのだろうか。分厚い文法書に答えが書いてあるのかもしれない。* 同じ Megawatt Daily の 平 270313 号 の冒頭記事に、help spur という動詞句があった。In six years the Obama Administration has helped spur a 40,000 MW jump in wind power generation, from roughly 25,000 MW at the end of 2008, to just over 65,000 MW of installed wind power at the end of 2014.【訳】 6年間でオバマ政権は風力発電を4,000万kW引き上げた。2008年末には約2,500万kWだったのが、2014年末には6,500万kW余りの風力発電設備容量となった。 この文はIn six years the Obama Administration has spurred a 40,000 MW jump in wind power generation. . . としても、ほぼ同じ意味だ。 このように help と結ぶことのできる動詞は、何か制限があるのだろうか。それともどんな動詞でも help + 動詞 という形で使えるのだろうか。
Mar 17, 2015
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11月21日の日本経済新聞の1面左隅と13面(企業面)に、住友商事がベトナム企業と共同出資してベトナム南部で大型石炭焚火力発電所を建設する計画が報じられた。ハノイの岩本陽一記者の報道記事だが、商社の口車に乗って不見識なことを2つ書いている。13面で打った見出しに端的に表れている。≪ベトナムで発電所建設住商、「環境」で開拓グループ企業の力も強み≫何が「環境」なのかといえば、熱効率の高い「超臨界圧」の火力プラントを採用することで二酸化炭素の排出量を抑えるから、ということなのだが、こういう一般大衆を惑わせる企業広報垂れ流しは、願い下げにしたい。火力発電システムは、蒸気の温度・圧力を上げるほど効率がよくなる。温度・圧力の向上は、配管の材質の改良など様々な技術の結晶だ。「亜臨界圧」、「超臨界圧」、「超々臨界圧」 と、熱効率は上がってゆく。で、この 「超臨界圧」 だが、日経記事はこれをあたかも新技術のように書いて、記事の目玉にしている。「超」の字に躍らされているが、「超特急」も半世紀ちかく前からある。「超臨界圧」 の火力発電は、1970年代からある技術で、日本ではこれを採用するのが常識だし、中国企業もこれを採用してプラントを製造している。特別なことは何もない、ふつうの技術なのである。日経記事では≪熱効率が高い 「超臨界型」 の石炭火力発電所を建設し……≫などと、 「超臨界型」 という言い方がされているが、これも誤り。圧力が臨界を超えている、というのがポイントだから、「圧」の字を落としてはいけない。“超臨界型” をグーグル検索しても、270件しか出てこない。その4~8件目は、まさにこの日経記事の誤記を引用したものだ。*もう1つの不見識は、以下の箇所。≪「超臨界型」の石炭火力発電所の心臓部分であるボイラーの部材を製造できるのは、世界で住友金属工業など数社とされる。住商はグループ企業とのつながりを武器に、発電プロジェクトを環境関連事業のひとつとして強化する。≫ボイラーの部材を製造できる金属メーカーをグループに持たなければ、超臨界圧発電プラント建設のための投資ができない、などということがあるだろうか。同じ流儀で意地悪くいえば、住友グループにはそもそもボイラーやタービンを作るメーカーがないから、住友商事は火力発電に事業投資しようとしても不利な立場にある、ということにならないか。実際にはそんなことはないのであって、発電事業への投資においてグループ企業にメーカーがいるかどうかは全く関係ない。投資者としての住商、プラントの売り子としての住商が、住友金属工業から直接に部材を調達するわけではない。他案件の分もふくめて部材を一括調達するのは、住友グループではないボイラーメーカーである。経済社会がそもそもどういうふうに動いているか、よく理解せずに書いた上滑りの記事。今年の日経記事のワースト10に入るのではないか。
Nov 25, 2009
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外国語を習って中級以上に達したら、英語なら英英辞典、ドイツ語なら独独辞典を使う頻度をだんだん増やしてゆくといい。よくしたもので、外国人学習者向きの英英だの独独だのがありますね。ちなみにわたしが愛用している独独辞典がこちら。下の青いのは、厚さ6センチ。Walter de Gruyter 社の Woerterbuch Deutsch als Fremdsprache(外国語としてのドイツ語辞典)。電話帳みたいにデカくて、1,329頁あるのに、収録見出し語は約2万語。大きく見やすい字で、用例豊富。語釈が詳しすぎて、買った当初は もてあました。本棚から出すのがちょっとした労働だけど、今ではいちばんよく使う。緑のが PONS 社の Kompaktwoerterbuch Deutsch als Fremdsprache だ。「コンパクト」 と名乗っているが、厚さ6.5センチ。枕みたいに分厚いのに、小説本のような普通の紙を使っているから 1,034頁しかない。4万2千語収録。たしかに語釈・用例は 「コンパクト」 に まとめてある。センスのモダンさが気にいっていて、気分転換にときどき使う。黄色は Langenscheidt (ランゲンシャイト) 社の Taschenwoerterbuch Deutsch als Fremdsprache です。名前は 「ポケット (Tasche)」 辞典でもポケットには入りませんが、ところどころにイラスト入りで、かわいいヤツ。2万7,500語収録。語釈は簡潔。疲れているときは、これを使う。*いっぽう、韓国語 (朝鮮語) の学習には小学生用の辞書を使っております。下の、ハングルで表題が書いてある辞書が、それ。延世大学校言語情報開発研究院が編纂、斗山東亜社が出版した 『初等国語辞典 (チョドゥン クゴ サジョン)』。試みに、“ソ” (=牛) という単語を引きますと、韓国語でこんなことが書いてある。≪ソ 飼って乳を絞って飲み、捕らえて肉を食べ、その革を利用し、農家で田畑を耕し荷車を引くのに使った、草を食べる大きな家畜。牛の耳へお経読み <成句> いくら教えてやっても理解できないのか、従おうとしないこと。牛が鶏を見るように、鶏が牛を見るように <成句> なんの関心もなく見ているようでもあり、そうでないようでもあること。牛を失って牛小屋を直す <成句> 事をしくじってしまった後で悔やんだところで何の役にも立たないこと。≫「乳を絞る」 だの 「荷車を引く」 だの 「悔やむ」 だの、日頃あまりお目にかからない関連語にこうやって接しながら、語彙のネットワークを広げ、穴をうめていけるのが、A語学習時のAA辞典の強みだ。この 『初等国語辞典』 は、字も見やすく、本文 1,312ページ。そこに3万5千語収録、基礎漢字8~4級の1000字の音訓・熟語例リスト付きという充実ぶりで、満足しているのでありますが、残念ながら日本の普通の書店では手に入りません。(わたしはソウル出張時に買いました。)ところが、感涙にむせびそうなことが起きた。大韓民国国立国語院と韓国語世界化財団・編の『学習者のために易しく書いた韓国語辞典! (ハクスプチャルル ウィヘ スィップケ スン ハングゴ サジョン!)』という韓韓辞典を、外国語学習書につよい 「アルク社」 が日本の読者向けに昨年12月10日に出版してくれたのですね。日本での商品名は 『韓国語学習者のためのやさしい韓韓辞典』。きょう、足立区の一般書店で見つけて、即買。本文 792頁で、見出し語5千語余り。だから説明が懇切丁寧。「不規則活用動詞・形容詞の活用表」 と、「基本語彙 3,959語の重要度ランク表」 が付録で付いている。こういう良い教材がふつうの書店で買えるようになるなんて!悶絶しそうになる。中級以上の学習者には、ぜひお奨めしたい。この辞書で “ソ” (=牛) を引くと、韓国語でこう書いてある。≪ソ おもに肉を食べたり牛乳を生産したり、農作業を助けさせるために農家で飼う動物。| おじいさんの家には牛が10頭ほどいます。<数え方> 牛1頭。 →挿絵 動物牛の耳へお経読み -だ どんなに説明をしてもよく理解できず従うようにならないこと。| (A): ミンジはきょう習ったことをぼくが何度言っても分からないみたいだ。(B): ミンジがなにかとヨソ事を考えるからだろ。まったく牛の耳へお経読みだな。牛が鶏を見るように なんの関心もないようにも見え、そうでないようにも見えること。| ひとが何かを聞いたら答えるものだ。牛が鶏を見るように、ぽけーっとしていてどうする。牛を失って牛小屋を直す ことがダメになった後で後悔しても何の役にも立たないこと。| 火事がおきてから消火器を工面してどうする? 牛を失って牛小屋を直すようなものだぞ。/泥棒にあってから鍵を直すのは、牛を失って牛小屋を直すのと おんなじじゃないか。≫成句の用例が口語体の文になっているので、じっさいに使われるときの雰囲気が伝わって、いい。……こうやって、優れた辞書をいろいろ揃えても、こつこつ読んで使って宝物を生かす時間が十分でなく、名著の数々に申し訳ない気持ちです。
Feb 8, 2009
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あす1月27日に 「新常用漢字表 (仮称)」 の試案が、文部科学省の文化審議会国語分科会にかけられる。191字を常用漢字として追加する案。1月17日の各紙に報道された。試案は、1月29日の文化審議会総会で了承されたあと一般からの意見公募があるので、そのころ配信コラムに意見を書こうと思っているが、きょうはそのエッセンスを少々。*現代生活で、一般人が 「常用漢字表」 を意識することはほとんどないだろう。さいきんは、「辿る」 とか 「犇く」 のような文字さえ、へいきで電車の吊り広告に使われたりしている。(ちなみに 「たどる」 「ひしめく」 です。)手書きではまず使わないであろう漢字さえ、パソコンで変換できたからというだけのことで大衆社会にまぎれこむ。制約として意識されるのはむしろ、JISの文字コードのほう。JIS第1水準・第2水準に入っていない漢字はブログやメールでは文字化けしがちだ。律儀に常用漢字表を参考にしているのは、官公庁その他の公的機関や新聞のみだろう。虫唾(むしず)が走るような 「まぜ書き熟語」 を世の中にふりまいているのは、官公庁と新聞だ。常用漢字表の改定を待たずに、「ら致」とか「破たん」のような書き方はほぼ一掃され、「拉致」 「破綻」 と書かれるようになった。そうなった今、あらためて「日本人がら致された」をパッと見ると、「にほんじんがら いたされた」と読んでしまいませんか。「銀行が破たんだよ」も「ぎんこうが やぶたんだよ」(?)と読みそうになる。「まぜ書き熟語」 がいかに日本語にマッチしないかの証しだ。*さいきん激増している 「まぜ書き熟語」 のチャンピオンは「障がい者」だ。もともと 「障碍者」 で 「しょうがいしゃ」 と読んでいたのに、当用漢字表の導入に伴って 「障害者」 と字を替えた。そしたら今頃になって、不自由に苦しむひとの呼称に 「害」 の字をつかっては差別を助長しかねないからと「障がい者」と書く方式が広まりつつある。60年以上前の当用漢字表導入時に掛け違えたボタンなのだから、「障害者」 が嫌なら 「障碍者」 に戻せばよいのである。ところが官公庁や病院では 「障碍者」 と書きにくい。「碍」 の字が、常用漢字でも人名用漢字でも表外漢字字体表の印刷標準字体でもないからだ。しかし 「碍」 の字はJIS第1水準の字だから、日本語を扱うすべての機器で打てる。事務上まったく障碍にならない。新常用漢字表にぜひ 「碍」 の字を加えてほしい。「障碍者」 「障碍物競走」 「碍子(がいし)」 「融通無碍(ゆうづうむげ)」 のように、使い道はある。官公庁が 「障碍者」 を使い出せば、あっというまに目が慣れて、またたく間に広まるだろう。*「癌」 という字も、常用漢字・人名用漢字でないから、病院などで「胃がん患者」 「抗がん剤」 「細胞ががん化する」のような文字表現を見る。「癌」 の字を手書きできないまでも、「胃癌患者」「抗癌剤」「細胞が癌化する」が読めない日本人は少数派だろう。「癌」 の字ももちろんJIS第1水準の文字。新常用漢字表に加えてほしい。「斡旋」 も、「あっ旋」と書かれることが多かった。平成16年9月に 「斡」 が人名用漢字に追加されたからか、最近は 「あっ旋」 という書き方が少なくなったようだが、この際 新常用漢字表にも加えてしまってはどうか。同じく官庁用語に 「急きょ」 というのがある。「急遽」 の 「遽」 が常用漢字・人名用漢字でないからなのだが、この字も新常用漢字に加えたい。「碍」 「癌」 「斡」 「遽」の4字を加える代わりに試案上の4字を落とすとすれば、「曖」 「昧」 「瑠」 「璃」の4字だ。いずれもすでに人名用漢字。「曖昧」 「三昧」 「無知蒙昧」 「瑠璃」 のような文藝熟語向きの漢字であって、官公庁の 「まぜ書き熟語」 退治には役立たない。*批判ばかりでは申し訳ないので、今回の試案への褒め言葉を少々。何がうれしかったといって、「填」 の字が入ったのがよかった。それも、つくりが 「真」 ではなく 「眞」 のかたちで。(残念ながら「土+眞」はJIS第3水準なので、ブログ上で使うと 「&#22625;」 のように文字化けする。)これが新常用漢字表に入れば、「充てんする」 「保険のてん補率」 「損失を補てんする」のような読みにくい文字表現も改善され「充填する」 「保険の填補率」 「損失を補填する」のように書かれはじめることだろう。
Jan 26, 2009
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安倍晋三首相の靖國参拝に米国が 「失望している」 と評したとされるのに対して「そこまで言うか」と驚いたひとは、多かったのではないか。 「失望している」 というのは、「お先 真っ暗」 に近い。強い表現である。 これに興奮し、日米分断で 「靖國孤立」 だ などと造語する論者まで出る始末だ。 原文の英語表現は the United States is disappointed. 英和辞典で disappoint を引けば 「失望させる」 とあるが、じつは日本語の 「失望」 と英語の disappointment は相当に異なる意味である。 それを説明したい。「失望している」 が誤訳と言っても過言でないことが分かっていただけよう。■ 鋭い緊張が走る ■ あなたが大事な試験に落ちてしまったとしよう。これに対して親しい友人がI am disappointed.と言うのは、英語では自然だ。 Disappointment とは「こうなればいいなと期待していた通りにいかず、やるせなく思うこと」である。なァんだ、それって 「失望」 のことだろ、とお思いになるだろうか。 I am disappointed. が伝えるメッセージは「きみが試験に受かればいいと思ってたのに、そうはならなくて残念だ」ということ。 では日本語の 「失望」 はどういう意味か。 あなたが大事な試験に落ちてしまった。これに対して親しい友人が「ぼくは失望している」と言ったとしたら、鋭い緊張が走るだろう。 「こいつ、何が言いたいんだ? 俺が努力不足だったと責める気か? まさか、これっきりで友だち付き合いは止めにするとでも?」 「失望する」 には 「期待を裏切られて将来的希望すら失う」 という含みがある。批判の色を帯びている。■ 「失望する」 の大げささ ■ もうひとつ、例を挙げよう。 パーティーで、親しい友人に会えると期待していたら、友人は風邪で休んだので会えない。ここでI am disappointed.というのは、英語としては自然だ。 「会えると思っていたのに、そうならなくて残念だ」 という、それだけの意味である。 「失望する」 はどうか。 パーティーで、親しい友人に会えると期待していたら、友人は風邪で休んだので会えない。「ぼくは失望しているよ」と周囲のひとに語ったとしたら、むしろ反発をまねくだろう。 「は? こいつ、何を大げさなことを言ってるんだ。あのひとは風邪で休んだだけだ。欠席を責めることはないだろ」 Disappointmentに比べて 「失望」 は大層な表現なのである。■ プレス リリースでございました ■ さて、米国の 「失望(?)」 コメントは、どこに掲載されているか。 The White House (米国大統領府) のサイトで Yasukuni を検索しても、ヒットはゼロ。 U.S. Department of State (米国国務省) のサイトで Yasukuni を検索すると33件がヒットするが、今回の安倍首相の参拝関係のものはない。 じつは、米国のコメントは在日本米国大使館のプレスリリースとして、メディア向けに出されたものだ。こちらで読める:http://japan.usembassy.gov/e/p/tp-20131226-01.html じつに短いものだ。最初の部分を見ると、Japan is a valued ally and friend. Nevertheless, the United States is disappointed that Japan's leadership has taken an action that will exacerbate tensions with Japan's neighbors.<泉の和訳>日本は大切な同盟国であり友好国である。しかしながら、日本の指導部が日本の近隣国との緊張を悪化させる行動をとったことは、米国として残念に思う。 重ねて言うが、米国の駐日大使が外務省に来て抗議したわけではない。 外交上の申し入れではなく、マスコミ向けの広報発表である。■「遺憾」と「失望」のちがい ■ 外交の世界でしばしば目にする表現に 「遺憾」 というのがある。英語では regret だ。 こちらは、「一戦交えるほどのつもりはないが、批判はさせてもらうぞ」 という意味である。 Disappointment は、regret よりは弱い。Disappointment は 相手に対する批判ではなく、自分の立ち位置を客観的に表明する表現だ。 ところが日本語で 「遺憾」 と 「失望」 を比べると、明らかに 「失望」 のほうが強烈だ。 あなたが会社でヘマをしたとしよう。上司が 「遺憾だ」 と言えば、「すみません」 と深くお辞儀をして一件落着である。 しかし上司が 「失望した」 と言ったら、あなたは激しく動揺するだろう。 「リカバリーショットをどう打てばいいだろう。このままでは、俺の会社人生、お先真っ暗だぞ」 と思うはず。 日本語の 「失望」 とは、そういう強い意味がある。■ Disappointment と regret のちがい ■ だから、英語の disappointment を訳するときには、ほんらい regret (遺憾) よりは弱いインパクトの日本語表現を探す必要がある。 適語は 「失望」 ではない。 ひらたく 「残念」 「当方の思惑はずれ」 「とても喜べない」 あたりが、ニュアンス的に disappointment に相当する語だ。 Disappointment と regret の違いを解説したページが Wikipedia にあった:http://en.wikipedia.org/wiki/Disappointment その冒頭を訳してみよう。≪Disappointment とは、期待や希望がその通りにならないことに伴って生じる不満の感情である。Regret に似ているが、両者には違いがある。よくない結果に導いた個々人の行動選択に主に焦点を合わせた感情の表現が regret である。一方、disappointment は、よくない結果そのものに焦点を合わせた感情の表現である。≫ 靖國参拝を regret するとすれば、それは 「靖國を参拝するという選択をしたこと」 を不満に思うことだから、外交的には批判となる。 いっぽう disappointment は、「靖國参拝の結果で生じること」 を不満に思うことだから、外交的には単に表明者の立ち位置を示したにすぎない。■ 習近平氏の毛沢東「人間宣言」で ■ ところで12月26日に北京では、習近平氏ら中国の最高指導部が毛主席紀念堂を訪れ、毛沢東の功績をたたえている。 同日付の習近平氏の毛沢東 「人間宣言」 談話が興味深い。≪革命領袖是人不是神,不能把歴史順境中的成功簡単帰功於個人,也不能把歴史逆境中的挫折簡単帰咎於個人。≫<和訳>革命の指導者たちは人であり神ではない。歴史上、恵まれた環境のなかでうまくいったことの功績を単純に個人に帰することはできないし、また歴史上の逆境においてうまくいかなかったことの罪を個人に帰することもできない。 和訳の第2文は、そのまま東京裁判の否定になっている。習近平説に従えば、「A級戦犯」 という設定そのものが間違いだということになる。 靖國参拝を中国政府・共産党が批判する理由が、ますます分からなくなってきた。
Dec 29, 2013
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The New York Times の記事を読んでいたら、「やはりこんな構文も許されるのだな」 という発見に遭遇した。In January, Forbes magazine named Riverside the hardest city in the country in which to find a job.「1月にフォーブズ誌はリヴァーサイド市のことを、米国じゅうでもっとも雇用先を見つけにくい市(まち)と見なした」4月13日付 NYT の Jennifer Medina 記者の記事 “In California, Economic Gap of East vs. West” (カリフォルニアで、東と西の経済ギャップ)から。この文の the hardest city だけを取り出すと、変な表現だ。「最も難しい市(まち)」 って、何?ほんらい hardest だけでは city の形容詞にはなりにくい。上の表現のベースとなるのは、こういう文だ:It is hard to find a job in the city.「仕事をその市で見つけるのは難しい」最上級にしてIt is the hardest to find a job in the city.「仕事をその市で見つけるのは最も難しい」the hardest city in which to find a job「(数ある市のなかでも)仕事を見つけるのが最も難しい市」“in which + to 不定詞” という構文に注目だ。これをちょっと変えてthe city in which it is the hardest to find a jobこれだと「(他のことに比べて) 仕事を見つけるのが最も難しい市」という意味にもなりそうだ。
Apr 20, 2012
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漢人の軍隊の丸坊主の兵士らがチベット僧の服らしきものをもっている図。昨日、この写真を送ってくれた人がいて、この A View On Buddhism というサイトでもお目にかかった。このテの写真というのは いつ誰がどこで撮ったものか分からないといまひとつ信用ならなくて、飛びつけないのである。と言いつつ、掲載してしまったのは、やっぱり気になる写真だからなのだが、いかにもありそうな光景である。中国共産党は、死んでも「捏造写真だ」と言い続けるだろう。どういう作法で否定するか、とくと見届けて、南京事件の捏造写真を批評する際の作法に使わせていただこうと思っている。
Apr 1, 2008
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銀座一丁目の Gallery Q で、星山耕太郎さん (昭和54年生まれ) の 「誘惑」 という日本画を買った。象徴性が高い。タロットカードの逸品の原画にできそうな24枚シリーズ中の1枚。どんな絵だったかは後でご紹介するとして、今回の個展 「顔の中へ」 のメイン作品 「自画像」 を見ていただこう。「自画像」人物写実の腕の確かさ。色遣いは渦を巻くように大胆に変化するが、あれこれ盛り込み過ぎた感じはなく、適度なメリハリ。いいセンスだ。これが DM 葉書に使われていて、何としても実物を見なくてはと思っていたら、気がついたら金曜夜だ。金曜夕は、夜8時まで開館する美術館に行くのが恒例なのだが、やはりこの個展を見ねばと思って Gallery Q へ行った。星山さんは、あごひげをたくわえ にこやかな好青年で、ぼくが画廊に入ると控えのスペースからさっと出てきてくれた。「人物たちを色の渦が巻いていますね。曼荼羅(まんだら)でしょうか」と聞いたところ、「30歳になって、三十而立 (三十にして立つ) を思いまして、これまでお世話になった人たちのことをひとりひとり思い出しながら描いてみようと。それが自分にとっての自画像なのではないか。そんな思いで描きました。渦の出発点にいる子供は、3歳のときの自分です。自画像と言いながら、絵のなかにいる自分は3歳の子供で、あとは親や近所の人や、何かごとで手伝ってくれた人たちです。もう2度と同じものは描けないと思います」と星山さんは言う。「40歳になったとき、同じく自画像をお描きになったら、どんな絵になるか楽しみですね」と応えた。*ぼくが買った 「誘惑」 は、下の写真の右側に並ぶ12枚のうちの1枚だ。それぞれ、緻密に描かれた道具立てを読まないと良さが分からない。この写真からはそれが読み取れないので、ぼくが買ったのがどの絵かは言わずにおこう。絵には、あえぐように天をあおぐ、ひとりの人がいる。その下にぶらさがるように連なる過去のひとびと。天をあおぐ人を見下ろすように支那の仙人と哲人がいて、仙人は赤い液を満たした小さな玻璃瓶を手にしている。その赤い液を飲んで過去を離脱すれば、ひとはラクになる。しかしじつは赤い液は毒。毒にたよることなく、自分の来歴に向き合うしかないのだと、星山さんが自問自答しつつ一気に描いた。*タロットカードの逸品のような24枚は、それぞれにメッセージが隠されていて、それを連鎖させて読むとさらにおもしろい。絵と絵は共鳴する。星山さんにとって初個展だそうで、「誘惑」らの24連作は1枚18,900円という破格のお値段がつけられていた。「これは、どう見ても6万円以上の品です」と思わず言ってしまった。この段階で、勝負あったという感じだ。ぼくは絵の買い方がきわめてミーハーで、だいたい若い女性作家の絵ばかり買っているのだけど、星山さんの描いた仙人がもつ赤い毒薬瓶は手元に置かないと後悔しそうな気がした。まっさらの心で向き合えば、24連作から連鎖ストーリーを作れそうな3~4作をまとめて買いたいところだ。しかし、このところ絵を買いすぎているので、今回は 「誘惑」 の1枚のみ。ごめんなさい。ぼくが絵を買ったことで、星山さんはたいへん喜んでくださった。このかたは、これからぐんぐん伸びるひとだ。24連作も、詩人とタイアップしそれぞれの絵に詩をつけて詩画集として出版したらすばらしい。あるいはカードのセットとして売り出しても。そんなことまで思いを巡らせてしまう、楽しみな作家さんである。星山耕太郎展 「顔の中へ」@ Gallery Q (銀座一丁目14-12) は、10月23日 (土) 午後5時まで。
Oct 22, 2010
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台湾正名運動。「正名」 は 「名を正す」 だ。台湾の企業名や団体名の 「中国ナントカ」 「中華ナントカ」 という呼称を 「台湾ナントカ」 に改めることに始まり、ゆくゆくは国の名も中華民国から台湾国に正すことを目指す運動。湯浅邦弘 著 『論語 ―― 真意を読む』 (中公新書) を読んでいたら、この「正名」の概念を孔子がまつりごとの基本として考えていたことを知り、台湾正名運動の拠って立つところに納得した。『論語』 の子路篇から、湯浅邦弘さんの和訳を抜粋すると≪子路が言った、「衛の君主が先生を招いて政治を行おうとすれば、先生は真っ先に何をなさいますか」。孔子は言った、「それは何より名を正すことだろうね」。子路は言った、「またこれだ。先生のまわりくどいことは。何を正そうというのですか」。孔子は言った、「…… 名が正しくないと、言葉はうまく通じない。言葉がうまく通じなければ、事業は成就しない。事業が成就しなければ、儀礼や音楽は盛んにならない。儀礼や音楽が盛んにならなければ刑罰が濫用される。刑罰が濫用されれば、民は身の置き所がなくなる。だから君子は、ものに名づければ必ず言葉にでき、言葉にできれば、必ず実行できるようにする。君子は、言葉を少しもゆるがせにしないのだ」。≫ (163~164頁)事業成就 → 儀礼・音楽 → 社会秩序 という順序立てが、いかにも孔子さまである。
Jan 13, 2013
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Never argue with stupid people, they will drag you down to their level and then beat you with experience. ― Mark Twain 「バカな連中と議論しちゃダメだぜ。やつらはきみを、やつらの土俵に引きずりおろしたところで、やつらの経験則でもって いたぶってくるからな」 マーク・トウェイン そうなんだよね。だからぼくも 「あ、このひとは、どうしようもないな」 と思うと、距離を置いたり、遠ざけたり、無視したりするわけ。遠ざける前に いちどは武士の情けで相手を負かす一球を投げてやることもあるけど。まぁ、どうしようもないひとは、そういう一球を投げられたということに気づかないから、変わらない。世界はひろいから、どうしようもないひとを相手にしなくても、ぜんぜん生きていけるんだよ。ところで、マーク・トウェインの原文の with experience を 「(低いレベルのひとたちなりに)体験したことを尺度にして」 と訳したけど、ひょっとしたら単に 「巧みに」 って意味なのかな。こういうところが、ネイティブに聞いてみないとわからないところなんだ。*マーク・トウェインのことばには、こんなのもあるよ。Be careful about reading health books. You may die of a misprint. ― Mark Twain「健康法の本を読むときは、気をつけな。誤植で死ぬかも」 マーク・トウェインはは、Never read health books. とは言ってないよ。===追記===Yahoo! Canada でこの引用句のことが Do you completely understand this quote? というサイトで取り上げられていた。http://ca.answers.yahoo.com/question/index?qid=20120411205451AAtHQdeこれを読むと、beat you with experience のところはネイティブだって 「ん?」 と反応するんだね。書き込み者の解釈を読むと、たとえばIf they are stupid, they have not bothered learning ― they have been stupid for a considerable amount of time. That time equates experience, so if they bring you to their level, you are both currently stupid, and they have been stupid for far longer, so they can beat you in it.「やつらがバカだとしたら、そもそも学ぶということをしないわけだから、けっこう長いあいだバカなままでいるわけでしょ。その “長いあいだ” イコール 経験なわけで、だからやつらがこっちをやつらの土俵に引きずりこんだ後は、やつらもこっちもバカの土俵に立ってる。となると、やつらのほうがバカ歴が長い分、バカの土俵でこっちをいたぶれるってことさ」また、こんなのも。I think I understand. He is being sarcastic or something. Basically once they put you down to their level they will be able to win not only because you should not have argued in the first place but they have had more experience in being stupid so they win the argument for sure because arguing is stupid.「こういうことかな。辛口コメントだね。要すれば、やつらがこっちをやつらの土俵にまで押し込めたが最後、やつらが勝ってしまうのは、まずそもそもこっちが議論に乗るべきじゃなかったわけだし、やつらはバカ歴が長いからバカな議論をやると議論に勝っちゃうわけさ」こんなのもThey will drag you down to their level ― so you stoop to the level of stupidity and because they have more experience being stupid, they will beat you (with their experience) with stupidity.「やつらがやつらの土俵にこっちを引きずり込むってことは、こちらはバカの土俵に降り立つわけだね。そうすると、やつらはバカ歴が長いから、その経験を生かしてバカさ加減でこちらをいたぶるのさ」これは簡潔。That means that they have more experience being stupid than you do being smart.「それはね、こちらが賢い以上に、やつらにはバカ歴があるってことさ」
Feb 1, 2013
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きのう6月9日は新聞休刊日だったから、駅売り一般紙は SANKEI EXPRESS 紙だけだった。以前『産経新聞』本紙が新聞休刊日に「宅配なし・駅売り限定」で出されたときは、危機感を募らせた他紙がしつこく「休刊日なのに宅配ありの特別号」を出しつづけた。けっきょく皆んな疲れて「止め」になった。毛色のちがう(そしてまだ部数も少ない) SANKEI EXPRESS 紙は、業界(=ナベツネ…?)から新聞休刊日駅売り発行のお許しが出たようだ。その新聞休刊日を前に、けっして許せない陰惨な事件が起きた。SANKEI EXPRESS 紙の腕の見せ所だったのだが、1面見出しが失敗だった。≪「オタクの聖地」凍った≫と大きな明朝体。小さな小さな副見出しが≪秋葉原通り魔 7人死亡、10人けが≫。新聞というより日刊雑誌志向の SANKEI EXPRESS 紙のカラーを出そうとして考えに考えてつけたのであろう大見出し≪「オタクの聖地」凍った≫。文字通りオタクすぎる見出しだ。凝りすぎて、浮いた。駅売りで買ったわたしは、このあまりにオタクな大見出しの新聞を電車のなかで広げる勇気がなかった。大見出しと副見出しが逆でもよかったのではないか。もっと「普通の新聞らしく」てもいいと思う。本文冒頭も≪オタクの聖地アキバの愛称で知られる東京・秋葉原で8日昼、……≫とあるが、この始め方があまりに軽い。痴漢事件ていどなら結構だが、今回のような大事件の第一報として書く記事、つける見出しは、もっと無機質的なほうがよかった。せっかく他紙が出ていない休刊日に出せているのだから、号外を出しているつもりで紙面整理をしてほしかった。SANKEI EXPRESS 紙は横書きの特性を生かして、見出しに横文字を入れることがあるのだが、それも賛成しかねる。駅売りで2つ折りで新聞立てに並ぶと、横文字だけが見えてパッと見、英字新聞のように思えるときがある。駅売りでアピールするよう、1面と最終面の紙面レイアウトや見出しのつけ方を工夫したほうがいい。コンパクトで読むところも結構多く、ほんらい駅売り向きの SANKEI EXPRESS 紙なのに、潜在する実力を発揮できていないのが惜しまれる。
Jun 10, 2008
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若いアートの殿堂 ACT で、ここだけ西武か三越かという感じの、銀座かわうそ画廊企画。ハイレベルの8人展です。きょう6月14日6時まで開催。柳田補(やなぎだ・たすく)さんの写実人物画など、文句のつけようのない すばらしい出来で、このかたが仮に順当に名門美大を出て画壇の階段を上がっていたなら、まったく同じ作品に100倍の値段がついていたでしょう。わたしの郷里・愛媛県の砥部町のご出身、昭和23年生まれのかたです。わたしが買わせていただいたのは、川邊りえさんの「こんぷれっくす」シリーズの1枚。川邊りえ 「こんぷれっくす」普遍的なテーマのアダムとイブの林檎と蛇を軽くもてあそぶ、生き人形の少女。人形、とくに西洋人形は、ぽつんとしたオブジェとして描かれることが多いものですが、このお人形さんはなまじっかな人物画の人物以上に情念を発散させています。こういう人物画がほしいのですよ。いっぽう、怪奇魔術師となった人形ちゃんの、こちらの作品。ミュージカル「オペラ座の怪人」の続篇である「ラブ・ネバー・ダイ」の1場面と言ってもよいでしょう。川邊りえ 「こんぷれっくす」絵の題は、おなじく「こんぷれっくす」。人形ちゃんの着衣もセクシーだし、吹き上がる幽霊たちにも躍動があるし、装飾的な蝶もしっかり生きている。人形ちゃんの表情に陰があるのも魅力です。よほど買いたいと思ったのですが、このところの緊縮財政で断念しております。でも川邊りえ作品は きっとまた買うことになるなと思った一作でした。川邊りえ 「こんぷれっくす」こちらは DM に使われた作品。黒猫を抱える人形ちゃんも白猫になっていて、ミュージカルでいえば「キャッツ」がモチーフですね。振り向きざまの人形ちゃんの表情がじつに劇的。ご紹介した3点、どれも「こんぷれっくす」というお題。全部自分のものにすればいいようなものだったのですが。またいつの日か!川邊りえさんは、昭和37年生まれ、筑波大 藝術専門学群卒、独立美術協会準会員です。銀座かわうそ画廊・二宮真理子企画“Sante”展は The Artcoplex Center of Tokyo, ACT 1 (新宿区大京町12-9) で6月14日6時まで。
Jun 14, 2015
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