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2024/11/20/水曜日/本日の最高気温8度!影向寺と書いてヨウゴウジとよむ。正しくは、威徳山 月光院 影向寺 薬師三尊像が十日まで見学できるれる聞き、好天に恵まれた中、散歩がてら出かけた。ここはなかなかの古刹である。寺縁起によると夢告を受けた聖武天皇が、目を患った光明皇后のために、この地に行基を使わし祈願させたところ平癒したという。それで翌年お堂を建てたのが始まり、というもの。ところが発掘調査で、その起源は百年近く古い、7世紀半ばから後半には既に古代影向寺は既に創建されていたという。今は江戸時代に再建された薬師堂に前立仏がいらして、ご本尊の薬師如来さまは、その裏の庫リに保管され、折々の記念に開陳されている。薬師瑠璃光如来印象は、お顔の優しさの割に身体は奈良時代の仏像のようにがっしりとしていること。古代と平安時代が混ざり合っているような。角度によってお顔も変化する。説明では11世紀後半の制作で、おそらく地元では武州の仏師の手によるものだろう、とのこと。この仏さまの中に胎蔵仏があったそうでそれも展示されている。仏像制作を発心した女人像であろうか。展示には胎内女神像、とある。青銅器文明、すなわち、お互いを殺戮するような武器が発明されるまで、人類信仰の対象は女神であった。生命を産み出す女性が畏怖の対象であった。そのことを考慮すれば、菩薩の胎内に女神像を宿しているのは歴史認識に即している。しかし、もう一体、これは明らかに仏さま。女神像よりだいぶ小さい。薬師如来はお一人ではなく、日光、月光の菩薩さまを脇に従えている。お顔の感じは如来に近く、身体はほっそりとした立像で、背後には十二神将立像などの眷属が控えて迫力がある。これらも平安後期の作。力のある新しいであったことが理解される。寺内には太子堂が新築なって、中に南北朝時代、14世紀作の木造聖徳太子立像が安置されていた。小さいながら非常に優れた太子像で、こちらもお堂に合わせ修復されたらしく、何というか近代的ともいえるようなお姿を見せている。
2024.11.20
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2024/08/30/金曜日/間欠泉みたいな雨、しとど。8/24 新横浜から各駅停車のこだまに乗ると、先ずは小田原、次に熱海、それから三島。わずか30分ばかりの移動なのだねえ↓ユニークな姿の三島駅名古屋方面で用事があり、途中下車して三嶋大社参拝に立ち寄ろうと思い立つ。ほぼ勘当状態で実家を離れた父の、その山里にあった古い神社が三嶋神社なのでかねてより関心持つ。街中を富士の雪解け水が早く走る。三島由紀夫のペンネームは、彼にこわれて誰が付けたのだったか。この街から取られたのだという。雪ぐ、ソソグ。その早い冷たい水であればこそ。ケガレを雪いだイザナギの水もかくやあらん。↓街の中を驚くほど美しい水路が流れる。手を冷やすとひんやり。三嶋大社のご祭神は大山祇、事代主の二神である。天孫より古い国津神たち愛媛県大三島の大山祇神社が全国の大山祇神社、三島神社の総本山なのだとか。いつか訪れることもあるだろうか。↓旧街道からも目印になったろう大楠の神奈備て↓風格の備わる総門伊豆一ノ宮である三嶋大社は、源頼朝の源氏再興祈願が叶えられた霊験アラタカな神宮であると、徳川幕府に至るまで、大名、武士らに深く信仰され繁栄したという。↓政子の椅子が幼児なみで、まさかね。武力、力づくな世にあって女の領分わずかなり。神池に小島といえば弁財天?まあ似たようなものだろうか神仏習合の、龍神たる市杵島姫が祀られ、神社名は何と厳島神社。『平家物語』を読み終えたところなので、この神社を源氏再興祈願のこの地に祀った北条政子の心情が垣間見られるようだ。地には平和。奢れる者全ては久しからず。香取と鹿島の神宮との交流もあったか、神鹿園も。この本殿に、君知るや吉備真備
2024.08.30
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2024/05/08/水曜日/突然雨或いは晴れウチの事務所から徒歩圏内に鎮座する神田明神何度かお参りしているが、お札は未だ頂いたことがない。大体ニレイニハクシュイチレイ、できればご朱印、で済ませる不届者。お札をいただこう、商売繁盛の霊験アラタカというではないか。しかもこの地域の、吹けば飛ぶようなウルトラマイクロ事務所で働いてるんだし。↑男坂よりキツイ謎の階段をはあはあ上り、昨日のお昼休みに思い立ちでかけてきた。お参りを済ませ、やはり御朱印を頂く。コロナ以前からこちらでは書き置きのみ、なのだそうだけど、御朱印が丁度収まるクリアファイルが付いてきた。何かと潤沢なんだなぁ。肝心のお札である。左からずいーと眺めていくと右の方にある。それにしてもありとあらゆる人間煩悩のお守りがうち揃い、守備範囲が広うござります。参拝者がまばらで暇そうな雰囲気なので、日頃疑問に思っていたことを尋ねてみた。今お札を求めると、一年後新たに求め直さなくてはいけないのでしょうか?応えて曰く一年で効力が落ちたりするものではありませんが、そのくらいの頻度でお参り頂けるとよいですね。(こんなにあれこれお守りお札があって)、商売繁盛のご利益あるのでしょうか?などと不躾な質問に必ずあります!と、こうきっぱり肚の底から仰るではありませんか。すごい。この大肯定に背中をびしっとどやされ、背筋を伸ばして緩め男坂、降りる。私はあなたの真っ直ぐな心意気を信じますとも。
2024.05.08
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2024/04/06/土曜日/訪は先週のこの日3/30 午後遅めの熱田神宮鳥居が直角に見える、というのも面白い。杜に入って直ぐ、左にある別宮八幡宮と上知我麻神社←何とも古事なひびき←が鎮座している鳥居と正門が、東面、南面している場所樹木に覆われ隠れる清潔で簡素なところ、それが清々しく嬉しい日本の神社ご祭神の熱田大神は、草薙剣の御霊代とされる天照大神、と御由緒書きにある。自分なりに考えると、やはりご祭神は草薙剣であろうけれど、剣はうつわなり。魂はいづくぞ。ということになりて、倭建命ではなく素戔嗚でもなく天照大神となる次第か。さて、上古。倭姫が霊剣である草薙剣を抱えてその鎮まるところを求め、大神神社から室生寺に至る道には一時的なお宿りもあった。天照大神が夢枕にたち、ここが宜しいとようやく落ち着いた先の伊勢神宮。ここに本来奉納されていた剣であれば天照大神の御霊と共にお祀りする、という運びなのだろう。しかし古代。三種の神器は天皇が代々保持するものではなく、時の政務を司る有力者の合議で次代の天皇が選ばれた後、その証としてこれら三種が一時的に天皇に預けられた、とものの本で読んだことがある。世襲を目論み、二代に渡り天皇に即位した、諡号皇極帝だったと記憶する。どさくさに紛れ彼女は神器のそれまでの扱いを変更してしまった。やまとしうるはし、の衰微始まりぬ。今、鏡は伊勢に。勾玉は皇居に、剣は熱田に。参道をゆくと左手にそれは立派な経年の大クスがあり、空海お手植えとのことだがそれは如何?↓熱田神宮の歴史絵巻が参道で眺められて、歴史がよく理解できる仕組み本宮前で掃除をしていた方に、ここに本当に草薙剣はあるのですか?などと尋ねてしまう。穏やかに応えてくださるには、さてどうでしょうか。剣そのものを見たことのある方はただの一人もありません、この神社でもっとも尊い方でも、儀式の折に布に包まれた剣城を運ぶことができるだけなのです。とのことだった。では、まごころでそうある、と知るのですねと重ねて尋ねるとまごころ、そうです。というお返事で会話を終えた。江戸時代。剣の箱を新調する時に大禰宜らが目にして流罪、謎の死の『薔薇の名前』事件もよく知られる。何故、倭建命は形代とも頼むべき剣を我が身から離して、交わってはならぬときの夜須姫の元に預けたか。我が太刀はや、との声が切ない。ほどよい大きさの くさなき広場は花ざかり日本が世界がどうか安寧でありますようさてさて、神宮側のひつまぶしで有名なお店、2時間待ちの時間の頃合いをみて店内へ。一人前があまりの量で、大喰らいの私も食べ切ったとはいえ、デザートなど何も受け付けない様に。しかし、本当に美味しい!あんまり美味しいを繰り返したので、後ろに控える店員さんが、感に耐えない感じでありがとうございます!と言われてしまう次回はお嫁ちゃん名付けのレディースセットに致します。ひつまぶしが半分より小さめでうまき卵のセットらしい。値段もその分可愛らしい。
2024.04.06
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2023/10/22/日曜日/寒露も末の日小田急鶴川駅からちょっと歩いたところには素敵な営農団地がある。白州正子の武相荘とは逆の南側。そこになかなかの古刹あり岡上山東光院宝積寺開基は東にありがちな伝説の、行基の奈良時代ともいうけれど、1358年に亮長という僧が再興したことが史実として風土記にあるらしい。長く京都醍醐寺三宝院の末寺だったが、江戸後期に新義真言宗に転属した。現在は単立寺院で檀家もあまりない様子。付属の墓地は近隣の現 岡上神社、元諏訪神社↓に隣接し、長い歴史を考えれば規模はとても小さい。何によってか、庭は手が入れられうつくしく、たいへん趣きのある古刹だ。かつては町田市なとに九ヵ寺の末寺を持ち、江戸の初めに幕府から朱印地15石を与えられたという。川崎市の寺の石高一位は王禅寺の30石、川崎区の稲毛神社、中原区の泉沢寺の20石に次ぐ、という。一石は一人の人間が一年で消費する米の量と見積もられるとか。15石は15人を養うと思えば、さまでなことはないのかもしれない。もっとも三度三度お米のご飯を食べられるのは恵まれた地位にある者だろう。麦、ヒエ、アワなど雑穀を混ぜる割合は下々に行けば行くほど増していくはずだ。15石はそれほどの財産とは言えないが、御朱印という幕府のお墨付きが威光をもたらした、かしら。ここに前立ち仏として安置されている兜跋毘沙門天兜跋トバツの語源について決定的なものは無いようだ。案内では、トパン=チベットが転訛した、とあったが、現在は卒塔婆ストゥーパとの説が優勢らしい。中国は玄宗皇帝の時代、五国の軍に包囲された危機に、毘沙門天の加護を不空に祈らせたところ、毘沙門天が現れ難を逃れた伝説から、王城鎮護の武神として中国で信仰された。それから数百年後、平安京羅城門に、唐に見倣い、本邦初の兜跋毘沙門天が安置され、各地へ伝播した。因みにその像は東寺宝物館収蔵、国宝。ところで、羅城門は京の南の中央に置かれた。身分の高い者は南面する、のでお寺の本堂もたいてい南を向いている。このお寺は東光院の名が示すように、本堂は東面している。一説では東面する鎌倉街道の筋がいくつかある中でも、この筋が重要な道であったことから、そのような配置になったのだという本堂は滅多に上がらせてはいただけないらしいけれど、地域観光課のご威光か、小分けにされたグループで拝観叶った。毘沙門天を支える地天女の顔までは判然としない。大地より湧出した大地母神が支える、という構成が興味深い。間近で見られたのは、板碑中世仏教で供養塔として用いられた石碑。市内最大の大きさで、1267年(文永四年)3月15日の日付が刻まれている。このような立派な板碑が全国津々浦々の雛にも奉納された。当時の我々ご先祖は信仰が篤かったか、世がそこまで乱れていたのか。因みに1267年は、漢民族の国が衰退し、蒙古人の王国、元が地上最大の規模で大陸を支配しはじめた。元で官吏に登用されたのはイスラム教徒やネストリウス派の中東や漢人だったそうな。間も無く日本にもその余波が押し寄せる。風雲急なり。その頃にこの板碑が。
2023.10.22
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2023/08/04/金曜日/格別の暑さ、酸素が少ない7/26、民芸館は不発に終わるが、私にはその先のアイデアがあるのざんす。それは 布引観音堂今回のドライブツーリズムのメインイベントである。ここに行きたかった。しかし、カーナビの個性なのか、いつも早め早めを私に指導するため、とてつもなく細いヘアピンカーブを車を唸らせながら右折したのが間違いの元であった。確かに方向は合っている。カーナビは裏の駐車場をすすめているのかな?などと肯定的に受け止め、対向車は無いと信じ←この辺の心理も面白い。民芸館での対向車無し、の経験がはばかる。農道→林道→トレイル、辺りでもう道が消える。さすがにおかしいと気づく、ちょっとトンマだけど。ならば引き返すしかない、のだ。なーんだ、なんまいだー。カーナビはヘアピンのその先の道を示したのね、以降そのクセ尊重致します。布引観音までの道は対向車の道も確保された立派な舗装道路だ、快適だ。実に文明国家だ。駐車場は平日とあってかスキスキ。牛に惹かれて善光寺詣り、の由来となったこのお寺の縁起が興味深い。↑御朱印をお願いしたら、縁起も頂きました。こんな素敵なものは初めてです。布引山への緑濃い入り口、人は何故こんなところにまで分け入ったのか。山全体が岩のように思われる。それが磐座信仰ともつながる面持ちがする。それによって古来からの神聖な場所であったことも窺える。↑奇岩や岩の上に鎮座するような杉の木?蹴上の高い石段を苔や清水の垂れる音を見聞きしながら登る。途中、立派な山門を通して右上方に岩と一体になった観音堂の基礎柱が見える。今年この一部を補修したとのことだった。人知れず、維持にはお金が掛かっています。牛に引かれて、の発祥地だけあって、善光寺穴と呼ばれる風穴がある。善光寺の創建に歴史的に関わりがあるのだろうか。ふうふうと上り来ると、正面に釈尊寺本堂が座る。絶景にぽーとなる。御朱印を求める方は先に帳面を預けておくようにインフォメーションがある。現観音堂の向こうに霞んで、小諸の街、浅間山↑観音堂に入るには、この、好ましいトンネルを潜り抜ける。にじり口。観音堂とは別に二つの先駆け?社堂や御堂がある。開基は行基と社伝にあるそうだが、いささかその説がありすぎるようにも感じる。室町時代のもの、と言われるこの小さなお堂はたいへん美しい。聖観音が祀られたお宮、この地の観音さまはお幸せ。ここで3年修行したという西行も、芭蕉も訪れ、歌や句を作った。地域性や構えを考えると、おそらく修験道や山岳信仰とも深い繋がりがあったのではないだろうか。お宮格天井には、奉納者の手描きらしい板絵が並ぶ。地域の人のもあるが、なぜか東京、神田区とか深川区など、戦前の地名の絵が多い。そういえば、山道には神田市場の名を記した石仏も幾つかあった。何らかの関わり、或いは当地ご出身の方の寄心だろうか。↑左は何となく役小角を彷彿とさせる。ここは朝廷直轄御牧のあった望月氏の所管地ではないだろうか。そうすると、甲賀忍者筆頭の望月との関わりが垣間見え、芭蕉との関わりも見えてくる。そんな歴史を調べれば、更に興味が湧く。幾度も足を運びたくなる場所だ。
2023.08.04
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2023/05/08/月曜日/朝の雨、午後に上がる先日、家人と待ち合わせて、大変な人の中、わっしょいわっしょいと表門に回る。既に縄張りがしてあり、それ以上は進めない。欅下に太鼓、お神輿が出てくるのを待つ。若い人や海外の観光客らしき人も多い。4年ぶりの開催という。6時になり空砲。しばらくすると遠くから太鼓のど、どーん、どどーんが近づくにつれ地面から足元へと振動が伝わり始める。こんな大太鼓の皮はいったいどうやって張るのか。六つの太鼓が大から小へと並びゆく。大国魂神社は六社を祀る武蔵総社なので、六つの太鼓?そもそも総社を造営し土地神をまとめたのは国造が新たに赴任した際、其々を訪ね詣でた慣わしの簡略化と聞く。埼玉東京神奈川に広がる神様をここで一意にお詣りするという天晴れな合理性。それでも神々を勧請するに及び、神々の威光と移行は龍が移動でもしているようにどどーんと響いた古代であったろう。そんな様が1400年を隔て響くかのような祭だ。間も無く神輿が出発するらしいお囃子が鳴り響く大国魂神社前の旧甲州街道を全てが練り歩くと夜はすっかり更けていく。あちこちで太鼓の叩き手に共感と激励の拍手↓祭のメーンを外れたところには里神楽おひねり投げ銭したいところを家人に制される。太鼓に応えるかのような丸い月がぼうやりと。↓昨年6月に訪ねたときの大国魂神社の様子初宮はこちらでお参りしているけれど、電車でやって来たのはかなり久しい。駅の周辺が様変わりしてマゴつきつつも、ケヤキ並木に誘われる。大宮神社よりも小ぶりとはいえ、武蔵総社の威風があり、平日朝ながらお詣りの人が途絶えない。管内神社祭事をまとめて執り行えるよう武蔵国内六社を国府のあったこの地に合祀したという、まあ便利な発想ではある。拝殿からはそれはそれは立派な鏡が据えられていて、その後ろに簡素な本殿があり、中殿左右に六社が祀られている様子。六社は埼玉三社、東京都二社、神奈川一社のバランス。その中の一ノ宮が小野大神。初詣に出かけた神社で、ご祭神はかの瀬織津姫。つまり大国魂神社の主神は大国主命だけれども合祀の一位が瀬織津姫という有り難い国津神神社とのご縁となる。苔むした立派な狛犬。この側に亀石鶴石。重要文化財の狛犬は、しかしこれに非らず。
2023.05.08
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2023/02/04/土曜日/立春の温かい始まり昨日、久しぶりに小網神社へ今まで参拝した中で一番混雑していたかもガードマンのおじさん曰く、明日は土曜だから、もっと大変だよーでも本日も福豆が頂ける節分とあってか、三列並び参拝の列銭洗弁天さまの列お守りお札の列私もひと通り並んでいつもの開運みくじを引くおおお〜とうとう青色を引きました!今まで圧倒的に黄色だったけど、これでようやく四色揃いました♪青色は健康お守りコロナ禍をかわして息災な一年となりますよう
2023.02.04
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2023/02/02/木曜日/夕方より寒い先々日晴天のもと浅草へ銀座線浅草駅を吾妻橋の方へ出て、隅田川テラスを遡上すると、やがて優美な言問橋が目に入るここから見るスカイツリーの風景が一番好きかな今のところこの橋をくぐり、低い丘に上ると左前方に待乳山 本龍院俗に まっちゃましょうでんさん に出る。まっちゃましょうでんさんは聖観音宗寺院で浅草寺の子院本尊は歓喜天と十一面観音歓喜天はヒンドゥーのガネーシャと同じ像の頭をもつ昨年お正月にたまたま行き合わせお大根2本いただき 御神楽を愉しみながら、お礼参りができていなかった。ようやくギリギリ正月つごもりに大根2本奉納し、感謝この神さまは霊験あらたかにして一方大変怖ろしい面ももち、至誠を尽くし真心から祈らねばかえって災いをもたらすと聞く。そのためか戦国時代の武将必至の神だそうで有名なのが高島藩藩主の祈祷寺であった長野、諏訪市の仏法紹隆寺神仏習合であるところの諏訪明神を祀る寺でもある。お地蔵さまが20体春の陽射しとやわらかい風に心地よさげその麓には、池波正太郎生誕地とある。流石江戸好みの作家は産屋も選んで生まれて来る。またまた下がりもののお大根を頂き、節分の福豆を買い、お地蔵さまにお線香をお供え。帰り道、好みな和菓子屋さん塩埜ここのこし餡は相当練れております。淡いあずき色も品が良い大福は明日なら買えたのか!残念上生菓子を扱いながら大福も、とはありがたしお湯で溶かすお汁粉があり、懐かしい今回は鶯餅、黄身しぐれ、栗饅頭これで815円はお値打ち俳句画には、古池やかわず〜 見える芭蕉さんは左上か右下か
2023.02.02
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2022/12/22/木曜日/寒い雨とある12月のまだ暖かい午後史跡ガイドツアーに初参加川崎市北部麻生区の地名にもなっている王禅寺という古刹ふるさと公園までは何度か出かけてもその奥にまで来ることはなかったバス停裏門坂は、王禅寺の裏門のある所がほど近く東武士らが行き交いした。往時には塔頭が立ち並び、末寺も多く徳川家縁の葵の御紋残念ながら度重なる火事や、廃仏毀釈の荒波に遭い黄昏てしまったた。境内で最も古いのが17世紀初頭の山門↑左上山号を星宿と称す。何となく宿用占星術の27宿が呼び覚まされる。その占術経を持ち帰ったのは空海であればまんざらでもない。↗︎右上の山門辺りまっすぐな参道あり↖︎左上北原白秋の詞 禅師丸柿のオリジナル表門に出て、ふるさと公園沿いに登り降りすると琴平神社本殿裏に元は金比羅さんではなかったのが何代目かの神主さんが阿波まで何度も赴き熱心に拝顔してとうとうこちらに勧請したのだそうな手元資料の紛失で詳細は不明が一新では部落毎の、大家毎の残暑がまとめられ官立の階級性で管理されたがこの辺りには郷社が今も残る。氷川と文字が異なるのも 聞こえを大切にした気配がある。更にぐるりと巡り、殆ど横浜との境あたり公園の沼は信長妹のお市の方の娘 お江、おごうの奇な伝説があり、また、けわい谷 なる地名にお江の縁が残る。三度目の婚姻となる徳川三代小郡秀頼に嫁すとき化粧代として、この界隈の所領を賜ったという。化粧、すなわち けわいというらしい。
2022.12.22
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2022/11/03/木曜日/美しい晩秋の日都下に国宝建築物は二つその内の一つは東村山市の正福寺境内にある地蔵堂建立は15世紀初めの室町時代。だが北条時宗の鷹狩の折、当地で病に臥したときの夢枕に現れたお地蔵さまの下された丸薬で平癒した、との言い伝えもあるらしく、地蔵堂の前にお地蔵さまが存在したのかどうかは分からない。文化の日の本日、お地蔵様が開陳されお堂の中にも入ることができる。雅楽や舞が境内の八坂神社分祀前で演じられた。場所も時効も中々に、初々しい産な好さがあった。この後、3時から一時間、撮影許可があり、お地蔵さまの写真が頂けるとは有り難い。「地べたにまで降りてきて下さった仏さま」である、野の道、畑の角などにあるお地蔵さまとはちょっと違う。おごさかさと、これから地べたに降りて行こうと決意するような、そんな面持ちが垣間見られる。そしてお堂の床は土のたたき、なのである。因みに正式名は正福寺地蔵堂ではあるけれど、千体地蔵も祀られており、千体地蔵堂と呼ばれる。この小さな地蔵を借り受け、家に持ち帰り願をかける、あるいは厄除けを願う。望みが叶えばもう一体のお地蔵さまを彫っては奉納した民衆の600余年の繋がり、それが尊い。参道を出た所にある和菓子屋さんで千体地蔵モナカを求め帰途に就く。夕焼け空のうつくしさ
2022.11.04
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2022/08/26/金曜日/都心ではにわか雨お習字の後、用向きで三越に行く前に小網神社へ半日3度目のお詣りその度にミミズクのかわいらしさに惹かれてまたこれを求める。三百円。本書は人も少なく殆ど並ばない、ほっ。初めてのときは金色の金運二度目は紫の厄除け今回は赤色強運えーまだダブリ無し!コレ強運かも次は何色?どきどき
2022.08.26
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2022/07/25/月曜日/日差しが強い二度目の上田市当地は国分寺が置かれた所だけあって、古刹名刹が多い。近年その鳥居がレイライン上に置かれているとかで、パワースポット人気があるらしい、ということは全く知らないまま、名前の響きがよくて訪ねた。ご祭神生島大神足島大神出雲から逃れ諏訪大社ご祭神に鎮まった建御名方は、諏訪に辿り着く前にこの地で二神に米粥を献じたのだとか。歴史はこちらが古い、ということかな?鎌倉時代には北条氏、戦国時代には武田氏、真田氏、後上田城主とのつながりなどあり、権力と結びついた神社である事を併設の歌舞伎舞台=資料館から知る。率直に私が感じた事を述べるならば、古代はあったかもしれない何事かが、今はもはや何もないという印象を抱いた。草木染のむせかえるような濃い染液が新しくやって来たメディアにその生命を譲り渡した後の、薄い灰色の液が思い浮かんでしまった。それはあくまで私の印象に過ぎない。全く逆の印象を持つ方もおられるはず。感受性はそれぞれ異なるし、何代にも渡りこのお社に縁の深い方には悦びや厳かな受取があるだろう。むしろ信心とはそういう行為だと思う。何年か前訪れた沖縄の有名な御嶽も観光地であった。滞在時、ガマの多い地域の海辺で地元のご家族が海に向かい跪き神事を行っている場面に 偶然出会った。非常に感激した。当方も敬虔な気持ちに襲われた。そんな有り難さ、というものは求めて出会えるものでも無い。コロナ禍で行く場所が様変わりし、古刹名刹に何となく足が向かい、随分とたくさん訪ねたこの2年最初は全てがもの珍しかったのだけど、少しずつ自分の感じる所が形付けられるこの頃。
2022.08.09
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2022/07/25/月曜日/暑さカムバック長野県上田市の小高いの古刹、前山寺、ぜんさんじ。真言宗智山派 ご本尊は大日如来812年、空海が修行霊場として開祖した縁起をもつが、現在地開山は1331年三重塔は山門階段下から正面に覗かれる。本堂の茅葺も美しく堂々としている。かつて新義真言宗の信州常法談林所として多くの末寺を有する教学の中心地であったことが偲ばれる。廃仏毀釈の嵐にもまれて幾星霜今は四季折々に花々が清楚に4月から11月は事前予約で胡桃おはぎが頂ける。また販売所では天塩の梅や山野草が購入できる。私は練り梅とカリカリ梅と斑入りの不如帰を購入。不如帰は案外ドキッとするような花をつける。山では元気だったのに、里に持ち帰ると息も絶え絶えさて、どうなる?
2022.08.08
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2022/07/09/土曜日/秦野って涼しい風が吹く車窓からは国道沿いに随分蕎麦屋が点在しているではないか。研究熱心な蕎麦屋があればまた来たい。昼食後てくてくと出雲大社相模分祠へ何というか、観光アミューズメントな商売熱心さと、いかにもアルバイトな巫女姿の若い娘のぞんざいさに、神の社とはかけ離れた印象。出雲大社そのものを訪ねたことはないけれど、崇敬さが幾分差し引かれた。ただこの地が古来から大切な場所であることは伺われた。社務所でボトル50円を購入している人がいて渡辺も買うと、150円という。はてな?水代100円ということ?めくじら立てる額でないことが災いか、いい諾々と払い取水する。先人がいて、沢山のペットボトルに入れていた。聞くと以前有料でボトルを買ったが自由に頂いているとのこと。納得。そばにお社があるので心あるならここにお賽銭を入れれば良いはず。自然のお水は古来よりここに湧いていた。後から登場した人間が縄張りしてお金を取るのは宗教とはかけ離れた、これぞ水商売ではなかろうか。出雲大社さんは、大国主命はいかが思われる?とろりとまろみのある湧水は美味しい。次回はこちらで求めたボトルをテイキングし、取水に直行しまーす♪
2022.07.10
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2022/07/05/火曜日/晴れ間もある曇り東京駅下車→ひたすら東へ移動。昭和通りの横断歩道を避けるため、京橋寄りに進む。佃大橋へ曲がる頃には潮の香↓佃大橋から中央大橋を見る。住吉神社へはお礼参りに。夏越しの祓いまでに再訪の予定が伸びてしまった。何のご縁か、ここの神社が何となく好き。月島の方は建物も新しい感じだけど、この界隈はちまちまと古さが残り、ほっこりする。お目当てのお蕎麦屋さんが夜から営業なのでがっくりしながら聖路加病院、築地方面へ↓絵になる築地本願寺、羽の生えた狛犬?ここから築地市場を抜けた所に波除神社ここにはまだ茅の輪が設置されていました。左足からレムニスカートを描いて本殿に向かうと初めて知った。
2022.07.05
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2022/05/23/月曜日/晴神奈川県の一宮、寒川神社は不思議な神社だ。祭神はサムカワヒコ、サムカワヒメの二神。記紀には聞かないし、他にこの二柱が祀られた神社も寡聞にして知らず。それでも由緒では1600年もの昔から関八州を鎮護した尊い神さまであるという。訪れた日は月曜日で、参拝者は殆どなくゆったり寛げた反面、神嶽山神苑は休園。遠くからもお社背景の木立が何やら神さびて招かれたくなるような雰囲気がある。この神苑は向かって右後方に開かれ、ご祈祷を受ければ入園できるとか。いつか月曜を外して八方除け祈祷を頂きに参るとしよう。参拝の後はお宮運営のカフェへ。神社の杜が迫るテラス席に座れて極上。気持ちよくスイーツ、八方餅?頂きました。
2022.06.05
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2022/05/02/月曜日/五月晴れ午前中少し時間がとれて初めて代々木八幡宮へご由緒によると1212年、宗祐こと荒井外記智明は元鎌倉二代将軍頼家の側近家来だったが頼家暗殺後に出家し、代々木野で主君菩提を弔い隠遁していた。その年の8月15日八幡大神の夢のお告げで当地に祠を建て鶴岡八幡宮を分霊したのが創始という。別宮に稲荷社、天神社、榛名社。末社に出世稲荷社。社務所には5月第4日曜日に開催される金魚まつりの提灯や手ぬぐいが並び、その提灯のかわいいこと!かわいいといえば、お茶道具の彫られた行燈が。縁者によって奉納されたらしい。かわいいといえば待機猫が。この日は三匹お目見え、近所の方が可愛がっている様子この地からは縄文遺跡が発掘され、境内にはその展示がある、というのも珍しいが当時の竪穴式住まいが再現されてあるのも床しい。緑陰深く盛夏にも涼が得られそうな良い場所が駅のすぐそばにあるのも嬉しい。
2022.05.15
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2022/04/30/土曜日/晴れわたる日かねてより何度か参拝しながら御朱印を頂いてなかった諏訪大社の、寅か申年に催される、おんばしら祭りの本年。今は丁度、山曳きと里曳きの真ん中、その隙を掻い潜り四宮を巡ることにところで諏訪大社は上社と下社に分かれ、それぞれに二つの宮がある。上社には前宮と本宮、下社には秋宮と春宮。上社の御神体は守矢山、下社は秋宮が一位の木、春宮が杉、とある。↑先ずは下社秋宮へ行ったことのない出雲大社もかくや、のしめ縄の雄大さ。お参りをしていると拝殿左でに地下足袋姿の方々がユンボなど用いて作業中。何事かと尋ねると摂社子安神社に昨日の雨で緩んだ大木が直撃したとの事。御柱の年にこのような災い何事ぞと怪しむ。まして未来に関わる子を安んじる神社ではないか。どうぞ荒魂を和ませていただけるよう祈りつつ春宮へ移動する。↑春宮の清掃をしていた氏子の方も秋宮の倒木は知らされてなかった様子。今年は嫌なことが起きているとため息をつかれる。ほんの2週間くらいしか見られない、御柱のない風景をご覧なさいということです。↑春宮の西を流れる急流。小さな橋を渡った所に万治仏。何とも言えないプリミティブさ。この辺りは古代からの神聖な場所らしく、出雲族が諏訪大社を設置する前に既に信州の土地神が座していたと聞いたことがある。その真偽は分からないけれど、確かに独特の清々しい雰囲気を湛えている場所だ。おんばしら館に立ち寄る。1300年の歴史記録の中でトレーラーで運んだのは初めての事かもしれない。上社のある茅野市へと移動。上社には狩猟に関わる神事が、下社には稲作に関わる神事があるのも対照的で面白い。ご祭神は建御名方タケミナカタとその妃の八坂刀売女ヤサカトメノカミであるのは同じ。↓先ずは上社本宮へ。鳥居を潜ると左に折れて拝殿がある。これは守矢山に向かっているのか、前宮なのか。この拝殿にはいつも武張った印象を持つ。神楽殿に置かれている里曳き用らしい綱が迫力。蛇のとぐろのようではある。ラスト、上社前宮へ。下社春宮が水であるならばこちらは山というより風の通る宮、大和路のような鷹揚で明るい土地。↑前宮入口右手には溝上神社。お諏訪様の母君コシノヌナカワヒメが祭神。潰れた下社秋宮子安神社の祭神でもある。どうか幸魂に変容されるよう手を合わせる。日本の最も古い様式の宗教性を感じる場所だ。代々現人神と敬われた大祝の住まいがあったという。天皇家のような三種の神器がお諏訪様にもあった。それが真澄の鏡、八栄の鈴、御鞍だという。信州は古くから馬の産地である事、神宝に鞍がある事、狩猟的な祭事がある事などからお諏訪様はひょっとして大陸、騎馬民族との関わりが?な想像が膨らむ。さて四宮を足速に巡り終わると前宮で、がま口の記念品を頂くサプライズが!お賽銭入れなどにお使いくださいとのこと、ありがとうございます!
2022.05.05
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2022/02/19/土曜日/曇り後晴ときどき根津、谷中方面はたまに訪れるけれど、根津神社を訪ねるのはこれが初めて。近在の方が憩い子どもたちが遊んでいる境内は良いものだ。ご由緒書きによれば日本武尊が千駄木に創祀した古社である由、まあ額面どおりとはいかないかも、だけれど。少なくとも太田道灌によって社殿が奉建されたこと、江戸時代の建造物が今もここに姿のあることは都内ではたいへん貴重。ご祭神は須佐之男命、大山咋命、誉田別命とある。須佐之男命が祭神といえば氷川神社が連想される。また大山咋命といえば八幡神社。やはり武士の時代、武士の街の名残か江戸には須佐之男命を祀る神社が多いような気がする。根津神社には、乙女と駒込の二つの稲荷神社が仲良く並んでいるのも珍しい。相殿に大国主命と菅原道真とある。因みに相殿はアイドノと読み、同じお社に2柱以上の神様が祭られていることだそうです。稲荷神社は道真公と縁が深く、太宰府天満宮の奥つきというか山よりには、ひっそりと伏見稲荷神社が分祀されていた。天開稲荷社という。磐座のあるとても古い形式の神社だ。後継の方が居られぬように伺ったが、先代宮司は折口信夫に学んだ一期生とのことだった。貴重な話を記録も残さず聞き流すばかりで疎ましい。根津神社の社務所では花の絵の板札が五百円だったかで用意されていてた。小さく美しいので2月の梅のお札を求め仏壇のお土産にする。
2022.02.25
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2022/02/01/火曜日/温かい晴四谷怪談は忠臣蔵の裏ストーリーだと聞いたことがある。昨年末に観た文楽の仮名手本忠臣蔵!こんなアレンジがあるのかーと楽しんだ。そういえば、ボルヘスだったか日本で一番のヒーローは吉良上野介との賜ったとか。今日になっても日本人の庶民には忠臣蔵は未だ大きな物語だ。その四十七士と関わりが深い泉岳寺だけに一度は参拝をと思い漸く訪ねた。しかし、墓所への立ち寄りはさすがに真摯なお参りでなければ近づけない雰囲気が流れている。谷中や護国寺辺りの共同墓地とは全然違う。上野戦争で敗者となった会津武士を弔っている千住の円通寺の墓地を何となく彷彿とさせる。仇討ち、幕末、震災、戦災、東京には沢山の慚愧の念が層となって今があるのだろう。こちらの御朱印は手書きしてくださる。その間に例えば色即是空、空即是色などお経の一部を写して奉納させて頂く法があって好ましい。また御朱印料は依頼者に委ねられているのが禅宗らしくてよい。泉岳寺のご縁起は、徳川家康自身によるもので元は今のホテルオークラの地にあったという。寛永の大火でこの地に移り、かつては二百名の学僧を数えた曹洞宗江戸三ケ寺、三学寮の一つであったとのこと。歴史の重さを感じつつ、海はすぐそこの高輪ゲートウェイ駅へ。駅前の開発で数年後に風景は様変わりすることだろう。
2022.02.05
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2022/02/01/火曜日/春の訪れの日差しの日Googleに従って入り口を探すと、そこは車止めと閉門の場所で入れない。この通用門は目黒通りに面し、立ち並ぶマンションの間の空地からアクセスする。立派な本堂正面には御本尊のお釈迦さま。右に布袋さんが。こちらは江戸で最初の七福神のお寺の一つ。あまりに布袋さまのおみくじ入れが可愛らしく思わず買ってしまった。社務所窓口の桟に何の虫?温かい日差しで日向ぼっこかな?紅梅一輪咲いています。お寺中庭?水の張られたコートが鏡のように空を映し、深く低い日差しがぐるりと巡って、どことなく根津美術館と似てる。同じ隈研吾設計。こちらでは御朱印の奉納五百円は赤十字に寄付されているとのこと。これはお寺ならでは、なのかしら。神社ではあまり聞かないように思う。
2022.02.04
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2022/01/28/金曜日/曇り時々晴お習字のお稽古、本日は漢字が五文字、おさまりが難しゅうござりまする。先生の香の字はまことに香り立つように見受けられ、伸び伸びうつくしい。お稽古を早めに引けて、ちょっと電車に乗り思い立ち日比谷神社にご参拝。いやいや習字が上達しますようにではなく、瀬織津姫にご挨拶を。こちらの神社も江戸築城計画であちこちとうつられた様子。当時は大名各々の崇敬厚くあったれど、明治になってからは村社に下げられ辛い頃もあったかと想像する。23区で私の知る限り唯一瀬織津姫の名がまします。御朱印は書き置きというのはこの歴史を思えばちょっと寂しいけれど、ビルやら高速道路やら高架の隙間で神さまはさぞ切なかろう。
2022.01.30
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2022/01/25/火曜日/午後から曇天半蔵門線桜新町駅最寄りの神社ならぬ神宮。神社と神宮の違いすら知らないのだけれど、何となく有り難さに吸い寄せられる。こちらは古式神道の総本山的な役割を担うのだという。初詣は瀬織津姫ご祭神の武蔵一宮、小野神社だったし。いいのかしらん。ご朱印帳に並んで。と案じつつ、まあ八百万ヤオヨロズと唱える。ご朱印を待つ間にご由緒をチラ見すると明治15年創建とある。え?思ったより新しいですねーと尋ねてみると、神田今川小路から当地に移ったのは神官にお告げがあっての事だとか。移転は大正8〜11年にかけて行われ、その翌年の関東大震災や大空襲を免れたので、災難除けに霊験あらたかとして参拝される方が多いとの事。小さいけれど格式の高いお社でした。
2022.01.25
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2022/01/01/土曜日/晴天古刹に関心を持ち始めて初めての初詣になる本日、京王聖蹟桜ヶ丘駅側の小野神社を訪ねる。埼玉の氷川神社は大変な大宮だが、こちらは驚くほど小ぶりな神社だ。しかしながら南北朝時代成立の『神道集』では「一之宮小野神社を筆頭に、二ノ宮小河神社、三之宮氷川神社、云々」と由緒書にあるので、ある時代まで小野神社の格は高かったようだ。当時の武蔵六所の宮総社、現大国魂神社が隣接府中市に座していることからも理解される。当時は大国魂神社に比肩する規模のお社であった事だろうが、長い歴史の中、火災や多摩川氾濫などで今に至る。地名、多摩市〈一ノ宮〉に記憶が。由緒書には、主神は天下春命アメノシタハルノミコト、とあるが、神社関係資料を見ると多摩川の水の女神を祀ったのが始まり、なども目にする。この女神が瀬織津姫と呼ばれるミステリアスな姫神だ。そういえば荻原規子の『レッドデータガール』の主人公少女は高野山に住む巫女。彼女の、あまり姿を見せない母こそ瀬織津姫だったかも?鳥居をくぐると立派な門がある。そこには龍神さまが彫られているではないか。天下春命と瀬織津姫の二柱の門でもあろうか。今年の初詣に因んで今年はミステリアスな瀬織津姫を少し辿ってみようかしらん。ところで当地は小野郷と古来呼ばれた土地。かつて琵琶湖西岸にいた小野氏一族のあるグループが、どんな経緯かここに植民したことなど妄想される。そこには暴れ川多摩川の鎮まりを願い、瀬織津姫が先来植民者によって祀られていた?小野郷9社を兼務する社務所があり、御朱印をまとめて頂いた。帰宅後見るとなんと!小野神社の御朱印が欠けているではありませんか。これをどう卜する也?尤も電話で事情を伝え、ご親切にも我が家に送って頂けることに。おみくじならば、遅れるが願いは叶う末吉としよう。
2022.01.01
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2021/12/12/日曜日/温かい晴茅野市にある真言宗智山派のお寺1649何、武田信玄の弟の甥、大和小兵衛の子の武田慶尊法印が諏訪藩2代目藩主から寺領賜り、高野山金剛頂院の法流で、要穴山胎蔵院長円寺と号したのがその始まり。密教と修験道、山伏などの修行場でもあったろうか、本尊は金剛界大日如来。しかし、開山百年ばかりのちに火災で消失し火伏せのため山号を清龍山に変えたという。いつの時代に宗派が移ったかは御縁起では説明がない。1811年に大隈流建築家の鐘楼門が完成たあるが、門の上に鐘があり、いつでも誰でも自由につけるのが嬉しい。音は周囲に響き広がり荘厳のおももちがする。よい体験を頂いた。一行寺楓が評判で近年高揚の季節はそれを目当てに訪れる人が多いという。水琴窟や諏訪明神本地仏の秘仏薬師如来像など見所が多いが、何と言っても石工菊地道悦奉安の百体観音石仏のお顔のよさだろう。これが大政奉還の前年になされたこと、無事今日に伝わることを有難く思う。
2021.12.19
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2021/12/12/日曜日/快晴、温かい地元では「おてなが様」と親しまれている手長神社のご祭神はテナズチノミコト、稲の徳をもつ奇稲田姫の母神にあたる。奇稲田姫は大蛇退治の素戔嗚と結ばれた姫君。この系譜を見ると大国主命はテナズチノミコトから五代下がった国津神で、国譲りに異を唱え敗走したのち諏訪に辿り着いた建御名方神はその子に当たる。このお社は諏訪大社よりずっと古くからここに鎮まる神様であったことが祀る祭神の大によりる想像される。守矢神長官、ミシャクジ神、諏訪湖の龍神さまなどの古い背景を考えれば、出雲族に起きたことが諏訪地方の豪族にも起きたのではないかと思われる。或いは出雲族の分岐がご先祖さまとか。ここには沢山の末社が祀られ、お社からは諏訪湖が望める、気持ちのよい場所だ。近くにはテナズチノミコトの夫、アシナズチの足長神社もある。上社と下社の真ん中あたりに御在所というのも面白い。
2021.12.16
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2021/12/12/日曜日/快晴中々に重々しい寺名、縁起によればそれに相応しい歴史があるようだ。大同元年、806年坂上田村麻呂開山その後空海により真言宗学問所となったという。ところで、この大同年間という時代は日本各地に爆発的な勢いで寺社が置かれた時代。田村麻呂を祀る、アテルイ石碑の京都清水寺もやはりこの時代の開山。都を遠く離れた諏訪地域に仏教を学ぶ場所がほぼ同年に用意されたことの背景には諏訪大社の存在があると思われる。四つの宮を持つ諏訪大社は、更にこの地に古くから勢力のあった集団がいたことも連想される。神仏習合された時代には宮には神宮寺が置かれた。紹隆寺は諏訪大社の別当社務所の位置付けで、諏訪大明神の本地垂迹、普賢菩薩蔵が祀られている。廃仏毀釈の維新時には村の人たちがこの本地を隠し守ったからこそ、今ここに鎮座されてお目にかかることができる。高島藩主諏訪氏の護仏、聖天さま(←何やら最近やたらと聖天さまが…)秘蔵されていたり、伝運慶の小柄な不動明王蔵も宝物殿にある。石の景観が面白い庭もあり、見所は満載。諏訪大社に来た時は少し足を伸ばしたい。
2021.12.15
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2021/12/13/日曜日/快晴大津山実相寺武川町高山の神代桜は樹齢1800年から2000年ともいわれるエドヒガンザクラだそうだ。初めてその樹を、こんな季節に見るというか会いにというか立ち寄ってみると、山中にぽつんとある訳ではなく、お寺の境内にあるのだった。しかも境内には立派な桜がまだまだ沢山あった。山門に入ると大きな枝垂桜のトンネルが。多分春には美しく招き入れてくれる筈。大津山実相寺、おおつざんしょうこくじ、と読むそうだ。1375年、同村大津にあった真言宗の寺を法義の上譲り受け日蓮宗に改宗、大津山実相寺と号したというから開山646年の歴史をもつ。縁起によれば、武田信玄の永代祈願所として山高城址の今の場所に移ってから今年で459年。桜はこの場所でその4倍もの歳月を過ごし来て尚毎年忘れず花をつけている。春には桜と共演するように黄水仙がたくさん咲いてそれは美しいと、毎年観ているお寺のお内儀さんが特別に晴々しい面持ちで教えてくださる。大正時代に天然記念物指定になったが、熱狂的ブームはそんな古い話ではない。1日に百台の観光バスがやって来たこともあるという。コロナで今年は桜祭りも中止だった様子。近在の方がこんな静かなお花見は久しぶりとおっしゃったとか。年降りた神代桜の幹と斜めに伸びた枝は何処からか落ちて来て蹲る年老いたドラゴンのようにも見える。空想で桜満開の境内の様子を描いてみたが少し痛々しく、この神代桜にはもうお休みしてもらい、次の担い手にバトンタッチさせてあげてほしいと感じた。境内には日本三大桜始め、名物の小桜が植樹されているらしい。これから五百年千年、弥栄いやはえ、やさか。
2021.12.14
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2021/12/03/金曜日/温かい日創建853年は、東京ではかなり古いお寺。宗派が天台宗→日蓮宗→天台宗と変化している。日暮里感応寺(現在は天王寺)もまた幕府により法華宗が禁じられた。釈迦堂は都内の木造建築としては最古参に属する。正確な年号は不明だが、鎌倉時代初期のものという。ところで建立当時の棟梁が天井裏の高い所の材に「我が手よし、人みよ」と記したことが発見された当初は大騒ぎとなったらしい。そして戦後の大規模な改修時に、その任を負った棟梁は…このエピソードは大変面白い。たまたまお寺のブログで見つけたのだが、まるで小説のようで幸田露伴あたりが書きそうにも思ったことだった。さて都下最古の木造建築は東村山市、正福寺の千体地蔵堂(都下唯一の国法木造建築)で1407年建立という。↓この造形美は尋常ならざる風景力強く、かつ優美さも備えている、屋根の反りと深さ。円融寺の仁王門↑釈迦堂は右下の画像。私は釈迦堂よりも仁王門に強く惹かれる。寺務所が見当たらず、縁起を尋ねることが叶わない。円融寺から目黒駅方面へ歩くとその真ん中辺りにある、この公園。わたしたち夫婦の仲人をしてくれたご夫妻が、その昔この公園隣接の官舎に住んでいた。ご夫妻を懐かしく思い出しながら初めて園内を歩いた。自然のまま、というのでもなく、作庭したというのでもなく、植物樹木か何かの研究施設があるわけでもなく、ただ起伏のある、樹木のある大きな空き地のように存在している。その無作為さが人をして気張らせず心地よいのだろう。ジョギングする人、おしゃべりする人、子どもが遊び、老人が憩い、野鳥も集う。大きからず小さからずほどほどの良さ。
2021.12.06
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2021/11/30/火曜日/日差しは暑い⚫️虎ノ門金毘羅宮なんとまあビルの狭間に鎮座まします。四百年の風景の変容にさぞや驚かれている事だろう。幾星霜、庶民の心の拠り所として今に至っても参詣者は途絶える事なく。ご祭神は大物主神と崇徳天皇丸亀藩藩主が藩内に鎮座していた金毘羅さまを江戸屋敷に分霊したのが始まり。当初は芝にあったものが1679年、今の虎ノ門の場所に遷宮したという御朱印は定額ではなく自分で志を納める式、というのは初めての体験。この社の豊かさから来るおおらかさ哉境内には百度石が据えられている。港区内には珍しいものらしい。祈り願い参る、それが堅固なモノに形となる。金毘羅離宮は火消しと関わりが深く、関東大震災の火災の中、宮の上には叢雲立ち上がり、白髭の翁が火の粉を払う姿を宮司たちが認めた逸話もある。⚫️愛宕山神社愛宕山は自然の造形としては都内で一番高い山!なのだそうです。目もくらむような急な階段は「出世の石段」。馬で駆け上がり駆け降り将軍に梅を献じた逸話はこの石段であるか。その馬乗り名人武士が、先述の、この社に程近い金毘羅宮の丸亀藩士、曲垣平九郎とはよくできた話。そしてまた、このご祭神は火伏せの神、火産霊命であれば金毘羅さんと同じく火消しにご縁がある。いい男たちのお社ね境内末社にある太郎坊神社のご祭神は猿田彦神で、旅の神と聞く。第二次世界大戦時の大空襲でお山は灰塵に期すも、太郎坊神社のみ無傷だったとか。拝し奉る。⚫️天徳寺浄土宗のお寺門は開かれていたので、中に入れさせて頂く。商売繁盛?なにぎわう寺社もあれば、ひっそり佇むところもあり、そういう古刹に惹かれるのだけれど。果たしてよいお顔の観音さまが庭隅に。
2021.12.04
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2021/11/26/金曜日/日差し暑い❶石濱神社日暮里駅前バス停から亀戸行きバスで20分余り橋場二丁目下車、進行方向へ3分ほど歩いた左手の小さな公園が石浜城址公園。石浜城は江戸重長が12世紀頃に開き、南北朝時代には足利氏と新田氏の合戦地にもなったという。その後16世紀後半千葉氏と共に滅んでしまう。石濱神社の歴史は古い。724年、勅願によりご祭神二柱が鎮座。房州への交通の要所でもあり関東武将の寄進篤く、大社として発展した。それも今は昔の物語ここの富士塚に風情あり。業平の「名にし負はば…」の歌碑は江戸時代末に遡る。浅草名所七福神の寿老神を祀る。さて、城址公園とその交差点の隅田川に係るのが白鬚橋。橋からスカイツリー。先週の京都滋賀旅で、計画的していたのに寄れなかった白鬚神社。そこで、本日分枝の、墨東通り南下、左手の白鬚神社へ。主祭神が猿田彦大神というのは興味深い。白鬚を吉備真備と見る本を何かで読んだ記憶がふと向島、隅田川、墨客文人に愛されたこの辺りは、関東大震災と東京大空襲で壊滅的な思いを味わった。戦争の悲惨な展示が近所のすみだ郷土資料館に。これから先、この地が本日のお天気のように穏やかでありますよう。
2021.11.27
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2021/11/21/日曜日/晴れ後曇り白州正子さんの近江の随筆で読み、いつか訪ねたいと考えていた天台宗教林坊。今回京都への用件の機会を捉え、偶々のライトアップ公開に当たり、当地夕方到着でも拝観が叶った。西国三十二番観音正寺の元塔中で603年、聖徳太子開基伝の由緒ある寺院だという。ご本尊は太子自作の石仏という。しかし太子のいた飛鳥からこの地までは馬の騎乗を得意とされた太子でもかなりの日数が掛かるものを何故ここで説法されたか?同じ近江八幡市の西にある加茂神社は日本初の放牧地に736年創建された吉備真備ゆかりの神社、と案内パンフレットにあるのが目に入る。当時ここらが牧の地であれば、太子は良い駒を求め来た折に地元の有力者や学者に大陸の進んだ仏典などを教え伝えたのでは無いだろうか、と想像する。近江商人発祥の五箇荘の北、観音正寺の東には石馬寺があり、教林坊は別名、石の寺と言うのも何か繋がりを忍ばせる。さて、その教林坊は昭和50年頃から無人となり庭は地元の人びとの手入れがされていたが建物は荒れて「お化け寺」と呼ばれていたという。そこへ青年住職がやって来て大工並みに働き、復興されていく顛末をお寺に置いてあった「仏教タイムス」で知った。今や壮年のご住職、アイデアは枯れず益々発展している様子。確か宗派に拘らず観音さま胎内への永代納骨、これ素晴らしいなぁ。新しいがもう少し近在なら志納して、多宝納骨塔再建の一助を担いたいと思った次第。十一面観音さまはお寺ホームページより。拝観時、屋内撮影禁止の指定は無いけれど、殆どの方が外部以外での撮影するはされていなかった。事情の分からない外国の方が盛んに撮影していたけれど、察することを期待するのは難しく思う。公開は春は4〜5月の土、日、祝日のみ秋は11/1〜12/10毎日の9:30〜16:3011/15〜12/5の紅葉ライトアップ時のみ19:00まで
2021.11.22
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2021/10/13/水曜日/小雨、薄寒い雨新宿でレッスンの日。駅に戻るとこの猫ちゃんその引きがあったでしょうか、何となく雨の中豪徳寺へ。招き猫の、という枕詞のある豪徳寺は玉電じゃない、東急世田谷線の宮の坂駅が最寄り。寺務所前では看板猫のお出迎え、その座り姿のこんもりぶりと意外な脚長初めて境内に入ったと思う。古刹の名に相応しい風景のお寺。曹洞宗、彦根藩城主の江戸菩提寺になる前は1480年創立の弘徳院という歴史をもつ。お寺で請えば「招福猫児」←まねきねこ由来が頂ける。それによると創建当時は雲水が2、3人修行する程度の貧寺。時の和尚が猫を愛し、自分の食事を割いて可愛がっていた。ある日、和尚が猫に「汝我が愛育の恩を知らば何か果報を招来せよ」とまあ、冗談半分にか言い聞かせた。何事もなく日が過ぎたある夏の日、門の辺りが騒がしい。鷹狩と思しき武将数名が言うに、通りがかりの門前に猫がうずくまりいて彼らに招くようにしきりと手を振る様子を怪しんだと。和尚は招き入れて渋茶など出していたところ、雷鳴と大雨にわかになり、そこで和尚は静かに三世因果の説法をした。武将はその仏縁を喜んだ。その武将こそ江州彦根藩主、井伊直孝で以来井伊家菩提寺となり宗派も臨済宗から曹洞宗へ、寺名も大谿山豪徳寺となり一大伽藍となった。和尚、猫の恩に報い猫の墓を建てるよう言い残す。後年猫の姿形を創り、崇め祀らばその霊験あらたか、知らぬ人はなかりけり、と。井伊家13代藩主にして大老、井伊直弼の墓もここに懇ろに祀られて塀に沿った細い道からも垣間見える。歴史ある寺の側にはたいてい元地主神社があるのが日本人の宗教特性のように感じ受ける。矢張り直ぐ側には世田谷八幡宮がある。この鎮座は、豪雨でこの地に2週間ばかり留まった源義家が帰路に戦勝を感謝して、現大分県の宇佐八幡宮の御分霊を祀ったのが由来という。
2021.10.16
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2021/10/12/火曜日/曇り小雨向島を幸田露伴住居跡を目指し歩いていると左に立派なお寺が。牛頭山弘福寺 という。縁起を読むと黄檗宗第二代禅師が葛飾郡の僻村にあった堂宇を1673年、黄檗宗の寺として葛西一族の城址に寺領を移して今に至る、とある。中国風の趣、唐風結構、丸窓隅田七福神の布袋さまを祀る。寺務所で見かけた「せき止め飴」が名物のよう。あら買えばよかった。勝海舟がここで座禅に励んだ逸話が『氷川清話』にあるそう。ところで、お賽銭箱の葵紋が気になります。帰宅時間が迫り、幸田露伴住居跡は次回として急ぎ足で対岸の待乳山聖天へ。一般に「しょうてん」さんと呼ばれるみたいだけど石碑には「しょうでん」と認められる。宗派は「聖観音宗」で浅草寺と同じ。本堂扁額は「聖天宮」とあり、明治政府廃仏毀釈の嵐をやり過ごし今でも神仏習合の信仰が生きている、と縁起にある。境内中、印象的でとても美しい神楽殿があった。見学の際にも大根を奉納されている方がいた。確かに暮らしに根付いた様子の伺える奉納大根の山。何で読んだか失念したが、江戸湾が遠浅の潟のようであった時もここの場所だけはこんもりとした高台だったので、真土山と呼ばれていた。それがいつの間にか今の当て字となった、というもの。さて、江戸時代の絵師はここの風景を好んでよく描き、それが聖天さんに保管され公開もしているとのこと。機会があれば訪ねて当時の風景を楽しみたい。
2021.10.15
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2021/10/12/火曜日/曇り小雨鶯谷から言問通りをまっつぐに東の隅田川目指して間もなく、の所から浅草な雰囲気がしてくる。常は松下翁の私財で復活の、雷門から本殿行くのだろうが、そんな訳で西から行くと、手前には浅草寺病院なる立派な建物がある。これはお寺経営どうかは特段調べもしないけど。右手に銭塚地蔵堂。謂れがいかにも落語のようで、ほろりと参る。それにしても真新しく立派で、寄進の大きなお寺であること、末のお堂まで。そこを出るとすぐ左手に「カンカン地蔵尊」なるお堂。置いてある石で願い事を唱えながらこのお地蔵さまを叩くのだという。お地蔵様はそれですり減り、すっかり変わり果てた姿に。何やら申し訳なく思いつつ、そっと感謝を込めてカンカン音を立ててみた。右下から二つ目の画像雷門と参道しか縁の無かった浅草寺も細部を見てみると面白い。浅草寺中の重要文化財2点の内、伝法院は公開かどうかは今回の訪問では判らない。もう一つの二点門、これを通り寺外に出ると、オヤ桜の花が寒そうに咲いている。日枝神社で見たものと同じ種類かしら。この後の墨堤散歩の折、至る所にある桜案内板で「十月桜」ということを知る。隅田堤は江戸時代からの桜の名所。震災と戦災で桜はすっかり入れ替わっている様子。この地区の人びとがどれだけ桜を大切に思っているか、つくづく理解できた。さて、ことの始まり、鶯谷に習字博物館 を訪ねたのだった。そこから言問橋の向こうにある三囲神社←みめくりじんじゃ←を目指していたのだった。ここにある筈の石碑を見たかったが、社務所は無人で尋ねることが叶わなかった。私的散歩ガイド、素白先生によると「昔の東京の筆匠たちが建てた秦の将軍蒙恬の碑」を見に、先生は戦後に三囲神社を訪ねている。「蒙恬は武人で、匈奴を討ち長城を築いた人」で初めて毛筆を作った伝があるという。そんな訳で筆匠たちは蒙恬を称える碑を建て年々集い将軍を祭った、その石碑を私も見たいとはるばる訪ねたのだった。その碑文の盟主となったのが明治初めに日本橋通旅籠町で筆を商っていた、高木翁。先生曰く「この人はただの筆匠ではなく、文字の有る人であった。」そうだ。文字の有る、とは 学問の有る よりも何やら奥ゆかしい。幸田露伴住居跡も白鬚神社もじまん草餅もお預けなので、また次回のお楽しみとしよう。
2021.10.14
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2021/10/08/金曜日/暑い日照り夕日の岡の行人坂を降りて、太鼓橋を渡りV字道の左をゆるゆる上ると左に蛸薬師。福をすいよせるタコさんの十両千両は庶民の気持ちにピッタリ寄り添ってくださる、かたじけなさ。ここにも三葉葵が、それは三観音お祀りお腹さま⁉︎の縁うなぎの八つ目や、解除されたにまだ店内で頂けぬ〜諦め折れたならば、そこが目黒不動への道これは異なり。瀧泉寺は天台宗。なのに不思議なデザインの鳥居があり、先日見た日枝神社のものに酷似している。色々調べていくとぼんやり見えて来るのが日本古来からの地主神の存在と中国朝鮮半島を経てやって来た外来宗教、仏教との折合い。役小角の果たした役回り、山岳信仰背景と鎌倉以降の寺の自衛など含めてこれは先に読んだ『能から紐解く日本史』が理解を少し進めてくれた。実は更に道教、景教も絡んでくるのだか。果たしてここには神仏習合立役者、役行者の像が間もなく19世紀になろうか近世にちゃあんと据えられている。そもそも行人坂、とは出羽三山、特に湯殿山の修験道の行者を指していうらしい。この地にはそのご子孫も随分お住まいのこと拝察。家伝として何事か大切に守り来たものが天台宗寺設立前からあったということではないだろうか。寺の縁起に掲載された1836年江戸名所図会を見るとお不動さん周囲は鬱蒼とした杜、参道は賑やかな茶屋や飴屋団子屋などが並んでいても離れた所にわずかに里の家が見えるだけ。確かに本堂奥に大日との文字が見え、鳥居もあるがいわゆる山王鳥居ではない。維新頃もこのような風景だったろうか。素白先生によれば、目黒の里は春はたけのこ秋は栗が名物で草葺きの二階家が戦後間もなくまで門前に残り、のんびりと鄙びた風景が最後まで残っていた由。飽食とグルメの浮世に明日の米を心配する人も多くある今の世をば、甘藷先生何思う。
2021.10.10
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2021/10/06/水曜日/好天偶々お昼ご飯に立ち寄った所にあったお寺、八幡山森厳寺は浄土宗のお寺。本堂の方に向かうとあれ?これは徳川家の葵では?と怪しむ。一足入れるだけで気持ちよいくらいに衆生、地域に開かれているお寺だと分かる。ただ寺務所が見当たらず、ご縁起は入手できなかった。幸いお寺のHPがあってそれを見て葵の紋との関連が理解できた。肝心の葵の紋を撮影し忘れてしまったが、御本尊も厨子の弁財天もその扉はすべて開かれてあたたかい。縫針の立派な供養塔もある。境内の、世田谷名木百選のイチョウは樹齢400年以上とか。すると赤坂氷川神社のイチョウとほぼ同年。こちらの方が少し大きいように感じたけれどどうだろうか。このイチョウの生育を考えて周辺の建築も配慮しているとの記述がHPにあった。なんか嬉しい。イチョウも千年生きれば神さま、の八州にほん。
2021.10.08
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2021/10/05/火曜日/晴、暑い日神猿と書いて「まさる」と読むそうです。何故か日吉、日枝神社ではお猿さんがトーテムのよう。比叡山は天台宗本山が築かれるずっと前から地主神の聖山だったという。やがてお寺と習合し山王と敬われた。それでお猿=山、の縁もあったのかしら?やがて京都に都が置かれると鬼門を鎮護する日吉大社として隆盛する。その流れが江戸の先駆け、川越にもたらされる。更に太田道灌の江戸の居城に分祀され、それを家康が盛り立てる。明治の御一新でその名が新たに日枝神社となったが、それまでは「お山」とか「山王さん」と呼ばれていたそうだ。ここだけ小高い丘になっている。その裾野はそこそこ広いがお社のある所は思ったよりこじんまりしている。長い階段が疎ましい方には外堀通りに面してエスカレーターが設営されている。相当に豊かな神社と思われる。自民党本部も目と鼻の先。西鳥居の狛犬のたもとの桜の若木。季節外れの花がちらほら付いていた。そういえば何年か前の11月に京都御所の桜の木にもこんな感じで花があったことだった。江戸三大祭りといえば神田祭、深川祭、山王祭。祭りには日吉さまも昔の名前で出ています♪
2021.10.08
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2021/09/29/水曜日/快晴のち曇り本日のお稽古レッスン会場はちょっと遠い八王子市のいちょうホールお、これは子安神社のお招きか?と自己満足を覚え、お蕎麦と甘いもののゴールデントリオを画策し、レッスン後がやや待ち遠しい。ところがお目当て蕎麦屋さんは明日までコロナで閉店。頼みの豆大福「もちとし」も水曜休業、えー?ご相伴あずかれぬなりか。ところが有難いのはお宮、特段な事のない限りいつも胸襟ひらいてお待ちくださる。子安神社には由緒書きと年中行事の写真も立派な冊子が置かれてあった。中を開くと境内が分かりやすくイラストと写真で紹介のページも。まあ規模の小さい所だし奥所には行けないのだけれど由緒によれば、橘右京少輔生命が西暦759年、この地に時の天皇お后の安産を祈念して、木花咲耶姫を祭神に据えられたとある。近在では一番の古社でそのような場所には必ず水が伴う。マップを見ると最奥は大物主命と日留子命が祀られている。ちょっと珍しい?何かいわれがあるかしら。境内には大量の湧水が神池なして、社の森は船の形に植樹されたとか。四季折々に祭事が賑やかに営まれ、こんなに地域に根ざした神社も珍しい。この辺りに住むならば子安様と存分に関わり日々を暮らしたいものお蕎麦にも豆大福にも振られたが、神社側の「金多屋」カフェで、夏に戻ったような午後、白玉抹茶宇治金時のフルスペック頂くのも嬉し
2021.09.29
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2021/09/20/月曜日/快晴念願かない、初めて訪れた安曇野その地に鎮座まします神さまに拝礼しない事には何かと心許ない。神社というのはどこを訪ねてもたいてい清々しい。その上穂高神社には独特の温かみがあるように感じる。鳥居に至るまでに道祖神が並んでいたり、ねたろう物語や龍の子太郎の原型などの昔話に迎えられ、海神系らしく山の中にあってもお船が奉納されていて親しみが湧く。この白馬の鞍飾りは日本というよりは大陸騎馬民族の様子。遠い昔、大陸の先のロマン掻き立てる島国に行くには船に乗るしか術はない。日本を統一させた天津神の絶大な武力は騎馬の機動力と実戦向きの鉄製だったろう。また大量の兵糧には時期と収穫の見積が欠かせない。故の塩街道であり稲作であったろう。とつらつら考える配置、なのである。ちょっと驚いたのは、乞われたらしく神主さんと巫女さんが、七五三詣りの記念撮影に一緒に収まる姿。地域のひとびとの折々にこの神社が深く浸透している事が理解できる。穂高山頂にはそう易々とは参れないけれど、有難いことに本殿左の神池に、嶺宮遥拝社があります。
2021.09.28
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2021/09/21/火曜日/快晴栗尾山 満願寺 縁起本尊 千手観音菩薩立像 / 真言宗豊山派西暦725年、裏山の長者ヶ池から出現した黄金の仏像を聖武天皇の勅願で堂宇を建立し安置したのが始まりという。795年、坂上田村麿が八面大央討伐祈願したところ霊夢を得てこれに勝利し、自ら仏を刻み御本尊の体内に封じて堂宇を建立。国会鎮護の霊仏とし、様々な武将、殿様の加護を得た。さて、満願寺に著名なもの「地獄極楽変想之図」「微妙橋」「命水」「石仏」「蓮華池」「つつじ園」「千手観音菩薩立像」など。なんとなんと「地獄極楽変想之図」を拝見することをすっかり失念したのは、十一面観音の拝見を申し出たところ、うちにあるのは「千手観音菩薩立像」でこれは秘仏です、との返事があって、あれ?と逡巡する内、絵の方が抜け落ち。帰宅後、寺の縁起を見直すと「千手観音菩薩立像」の前立本尊としてあるではないですか、十一面観音像のふくよかなお顔が…まあ、全て一期一会のご縁と思い、蓮華池の橋掛など見、またススキの銀色に輝く様など眺めて山を降り来たる。えも言われぬ明るさ静けさをもつ風景は、遠い先人の修養の賜物かと思う。
2021.09.24
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2021/09/11/土曜日/晴れ小雨もあり何と言ってもここは素白先生の旧居のあったらしい所の古刹だ。どうやら先生は小学生途中から妻帯後にかけ住われたと拝察するが、次第に小家が建ち込み「芝小山町の台地に登る渋沢邸前の坂」が見えなくなった様子が『素湯のような話』にも出てくる。ところがまあ、今の風景はこうだから当時の人の想像を絶することだろう。かつての小さな住宅地は地上げされてこんなマンションが建った。まるで近未来の卒塔婆のようでもある。縁起によれば、善福寺は平安時代空海が関東に真言宗を広めるため、西の高野山に模して東の麻布山として開山された由。鎌倉時代親鸞聖人が善福寺に逗留された折、当山住職了海上人、天才と呼ばれた名僧が親鸞聖人の高徳に導かれ全山あげて浄土真宗に改宗した、とある。素白先生曰く「この寺に詣でる人で注意深い人は、門徒寺であるにかかわらず開山堂の軒に鰐口の掛かっているのを訝るであろう」とある。ああ、私はこれを見逃したけれど、これによりこの寺の真言であった事が了とされる訳だ。「化を与えた親鸞の偉なることは言うまでもないが、化を受けて直ちに宗風を転じた了海の宗教的感激に私は打たれる。」と続く。他に見所も多く、かつて江戸の水源にもなったらしい柳の井、親鸞聖人の杖から根付いた逆さイチュウ、最初のアメリカ公使館、福沢諭吉、越路吹雪のお墓も。
2021.09.16
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2021/08/18/水曜日/晴天一時土砂降り縁起をながめると開起は役小角の高弟なので、修験道と関わりが深いのだろう。祭神は荒ぶる神、スサノオノミコトだ。それほど広くない敷地内は明るさや清潔、元気さが満ちている印象。大変暑い時間帯でも木陰が豊かで涼しい。主神スサノオノミコトの逸話から蘇人将来の茅の輪の厄除けお守りが用意されている。厄病が早く収まるようお祈り申し上げた。芭蕉は奥の細道の出立の荒川越えにここで休憩をしたようで、その折読まれた句の碑がある。茅の輪くぐりは夏越の祓い、立夏の日に神社の鳥居下などに設えられる。今年はたまたま神楽坂の赤城神社で朝早い時間に用意されているのを見かけた。観音菩薩像は神社裏にひっそりと敷地内に。なかなかの美貌です。由緒記録は下に画像あり
2021.08.26
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2021/08/23/月曜日天台宗別格本山 宝積山光前寺は霊犬早太郎の伝説と枝垂れ桜、光苔で有名なお寺という。徳川家から六十石寺領と大名格を与えられたという。860年開基、不動明王がご本尊とあれば山岳信仰や修験道の僧であり兵であり薬師でもあった彼らを取り込む戦略的な背景も考えられる。光苔の参道を長く歩くと驚くほどの立派な三門が現れる。杉の木立、苔、苔、苔の庭の本堂裏手には飲用できる水が流れる。甘く清らかな味だ。本山を有名にしている早太郎の像を三つ発見。怪物を退治した山犬らしさは本堂回廊に祀られている木彫の早太郎かな。三重塔を背景にした石像は、やや狐寄り。お墓に小さく座した早太郎は少し愛らしい。怪物退治が行われた現、磐田市見付天神社からは今なお報恩の参拝があるという。丁度お昼時だったのでお寺前で三昧蕎麦ならを頂きましたが、このお寺周辺には他にも美味しそうなところが幾つかあるみたい。トロロ、ワサビ菜、天ぷら(紫蘇、エリンギ、林檎)
2021.08.25
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2021/08/23/月曜日/雨後薄く晴訪れるまで全然知らなかったけれど、このお寺は武田信玄終焉の寺として有名だとか。今の場所は道路工事のため移築したそうで、信玄公の頃は中馬街道、東山道寄りの山中にあり、安永元年=1772年に移転するまで凡そ千年そこにあった修験道や山岳信仰の寺だとある。
2021.08.24
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2021/08/23/月曜日/雨後薄く晴八ヶ岳界隈巡りを楽しみにしている。今回はかねてより関心のあった阿智村に出かけ、先ずはその土地の最も古い場所で訪を申し上げる。記すところによると安布知神社(あふち)は368年、八花鏡を天思兼命の霊代として創建された吾道(あち)大神宮を始まりとする。安布知神社は明治5年に改称されたとのこと。私が訪ねたのはそちらではなく、少し離れた所にある阿知川と黒川の水分の場所にある奥宮の磐座高速道路では雨にたたられ、どうなることやらと石段を上り磐座に着いた頃には樹間から日がさしてきた。古代の人の祈る場所が何とも言えず好きだ。沖縄の御嶽などにも通じる、列島諸島に古くから住んでいた遠い祖を身近に感じる幸がある。
2021.08.24
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2021/07/24/土曜日/快晴やはり長野は上田にある国宝の八角三重塔たまたまインドのバラナシから訪れていたご家族と当地の話、特にニューマルケットなどで盛り上がる。未だに賑わっている様子でも、あの暑さ湿度香り色彩の強烈な都市に赴く勇気はもはやない。年を重ねるごとに静けさと落ち着きを好む傾向が増している。日本人であることの自覚がようよう生じているのかも。一見四重塔のようにみえるのだが…アプローチからして期待の高まるあつらえ清浄な風景の中を登りゆく
2021.08.19
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2021/07/23/金曜日/晴天上田市とその周辺に国宝の三重塔がふたつある。これは、青木村の大法寺の三重塔ふっくらとして優美な軽さの塔がこんもりとした木立に囲まれ、長い呼吸をしているかのよう本堂には白州正子が『十一面観音巡礼の旅』に紹介している観音さま。聖林寺の観音さまは威厳があり、ややもすれば畏れ多いけれどこちらの観音さまは何とも穏やかで花びらのような口元もやわらかい。拝観料七百円国宝三重塔は全国に13カ所 鎌倉六つ奈良には五つ、滋賀に二つ十一面観音縁起
2021.08.17
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2021/08/13/金曜日/曇り時々雨ー霊雲寺ー『素白先生の散歩』「素白集」より湯島 の段泉鏡花と湯島/東京の桜の美しかったころ/震災で焼けて酷くなった表門にクンシン酒肉山門の内に入るを許さず、元禄四年十二月十三日/元の本堂、欄干の付いた廻廊の極めて立ちの低い/当時のもので残っていると思しきものは大きな石くらいのものか、木も少なく花も少し山門入り口と縁起山門入ると目の前に古い桜の木根元からは幼い双樹がすっくりと伸びていた。この若木に花が咲く頃、老木は寿命を終えるのが桜というが、はて。
2021.08.17
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