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しかたのない蜜
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今日は水曜日だ。私は職員室のカレンダーにぼんやりと目線を落とす。次に私が受け持っている授業まであと三十分休息が取れる。
放課後でも、始業前でもない、授業中のこの職員室の雰囲気が私は好きだった。教師は受け持ちの授業で席をあけているものが大半で、空きゴマ時間をつぶしている教師しかここにはいない。今の私もその一人だった。午前中のひざしが、書類のどっさり積まれた教頭の机にほこりっぽい光を落としている。
私がピアスを邪夢に入れてもらってから、これで三日たったことになる。邪夢というのはあの店員の名前だ。もらった黒縁の名詞にそう書いてあった。もちろん私は邪夢などという名前があの店員の本名だなんて信じていない。
ただ私はあの店員の本名がどんなにありふれたものであろうとも、彼女のことを「邪夢」と呼んであげようと思った。だって「邪夢って変わった名前ね」と私が言った時、彼女は本当に嬉しそうに、赤ん坊のように無邪気に笑ったのだ。ピアスと同じく、邪夢という名前は彼女の大切な鎧なのだろう。
名詞にはメールアドレスも書かれていた。「何かあったらここにメールくださいね」と邪夢が言うので、私はお礼ついでに邪夢にパソコンからメールを送っておいた。
私のニップルピアスを入れてくれたのは邪夢だから、そのお礼をしたのである。
邪夢のメールは若い娘らしい絵文字がたくさんあるメールで、「ニップルにピアッシングさせてもらったのは初めてだからとても晴れがましい」といった内容のことが書いてあった。邪夢にとって、他人の体にピアスを入れることは名付け親になるくらい名誉なことらしい。
私のピアスをはんでいる乳首はもう痛んではいなかった。
だが蚊に刺された後のような熱をはらみ続けている。今朝、邪夢から「経過はどうですか」とメールが来たが、私はそのことを報告しなかった。邪夢がひどく傷つきそうな気がしたからだ。
だが私は体に穴を開けた代わりにとっておきのものを手に入れた。それは奇妙な開き直りだった。
二時間目の終了を告げるチャイムが鳴り、私は次の授業があるクラスへと向かう。それは私が担任しているクラスだった。今までなら私の胃はこの時間にはしくしくと痛み始めていたはずだった。なぜなら受け持ちのクラスの子供たちに授業中にわざと難解な質問を投げかけられたり、板書をしている最中にゴミを投げつけられたりする時間が待っているからだ。
だが私の胃はもう痛まない。それは今朝飲んだ化膿止めと痛み止めのせいだけではないだろう。
私は教室へ向かった。休み時間がまだ終わっておらず、教室はひどくざわついている。机の上に座ってしゃべっていた女子生徒が私を見て不満そうに鼻を鳴らした。
「えーっ、淳ちゃん、どうしてこんなに早く教室に来るの?」
「そうだよ、邪魔、邪魔!」
私は出席簿を開きながら、彼女たちに言い返す。
「私が受け持っているクラスなんだから、ここにいて当たり前でしょう」
女子生徒たちは驚いた目をしてから、「淳子って最近生意気だよねえ」と言い合い、
「死ね、このブス!」と聞こえよがしに言った。
だが私は微笑んでその声を無視できる。
だって私はとんでもない女なのだから。私の乳首には金属がはさまっているのだから。
この教室で私がいきなり裸になったら、このガキどもは私をなんて破廉恥でキレた女だろうと思うはずだ。
もしかして私を危険人物と思うかもしれない。
けれど私は今、まっとうなつとめ人ーーーーしかも教師としてこの教室にいる。ああ、なんていう二面性。私は自分がもうひとつの顔が持てたことが嬉しくてたまらなかった。
今の私は変身していないスーパーマンのようなものなのだ。だから凡人の悪口なんてなんとも思わず、余裕で聞き流していられる。
けれど私はその時まだ気づいていなかった。一ノ瀬が鋭い目線で私を見ていたことを。
少年Aがチャイムを鳴らした時、それは私にはひどく大きな音に聞こえた。今日が私がニップルピアスを入れてから、初めて少年Aと会う日になる。月曜日と火曜日は私は仕事が立て込んでいるから会えないと携帯電話で少年Aに連絡したのだった。少年Aはとまどった声は出していたが、会えないことを寂しがるような発言はしなかった。一ノ瀬と長時間デートができて良かったとでも思っているのだろうか。
そんな余裕を見せていられるのも今のうちよ、少年A。私はドアノブに手をかけながら思う。あんたにこの鉄の輪っかを見せてやる。
「いらっしゃい」
私はできるだけ明るく言ってドアを開けた。少年Aはいつものようにリュックサックを背中に背負って、少し猫背気味に立っていた。私を見てきょとんと口を開けている。
「どうしたの?」
「う、ううん、べつに……おじゃまします」
少年Aは何か言いたげだったが結局何も言わず、部屋に入ってきた。私はほくそ笑む。少年Aは私の堂々とした変化に気がついたのだろうか。
それから少年Aはチーズ入りオムレツとトマトサラダ、そしてコーンスープを作った。
「先生、どうして今日はそんなにはずんだ顔してるの?」
テーブルの上にほおづえをつきながら私は答える。
「どうしてだと思う、少年A?」
少年Aは菜箸を片手に首をかしげていた。眼鏡の奥にある目に不安がよぎったのを見て、私は快哉を叫んだ。この表情が見たかったのだ。あんたがいつも私がそばにいると思っているのは大間違いで、私だっていつまでもさえないただの女教師じゃない。私は少年Aにそう言ってやりたかった。
けれどそんなに自分の手の内を早く明かしてしまってはあまりにつまらないので、私はふざけた調子で言った。
「チーズ入りオムレツがこれから食べられるから。私、少年Aの料理でそれが一番お気に入りなのよね」
少年Aは返答を考えあぐねているかのように、菜箸でかき卵を何度かかき混ぜた。先生のはしゃいだ声にはもっと別の理由があるんでしょう? 少年Aはそう問いたげだったが、私は無視して、「ねえ、早く作ってよ、オムレツ。おなかすいてるのよ」とわざと子供っぽく駄々をこねてみせる。少年Aはあきらめたように私に背を向けて、料理を再開し出した。
夕食を終えた後、私は薬を飲んだ。邪夢からもらった化膿止めだ。皿を片づけ出していた少年Aの目がけわしくなる。
「それ、なんの薬ですか?」
「ただの風邪薬よ。ちょっと風邪気味でね」
私は見え透いた嘘をつきながら、カプセルを水で流し込んだ。こんな嘘、通用しないのはわかっている。T大医学部合格間違いなしで、父親が病院経営をしている少年Aは薬物に詳しいからだ。これがただの風邪薬ではないことなどお見通しだろう。
不意に、少年Aが水を飲み終えた私の手首に手をかけた。
「な、何するのよ」
少年Aはそれに答えず、私のあごに手をかけて上を向かせる。肩まで伸びた髪をはらって耳たぶを見る。それから少年Aは次々と私の体を検分し始めた。
そしてブラウスを脱がせてブラジャーをはずした時、少年Aは息をのんだ。
「……驚いた?」
私はぞくぞくするような快感と、今まで少年Aと築いていたものすべてが崩れてしまうかもしれない不安と戦いながら訊ねた。少年Aの大きな目は、私の胸をかじるピアスに釘付けになっている。どうにでもなれ。私は自虐的な気持ちになって、青ざめている少年Aに語り出した。
「そんなに驚くことないじゃない。ただのおしゃれよ。少年Aだって、ピアス入れてるからいいじゃないの」
「……僕のピアスは耳たぶだよ」
「耳たぶだろうが足の指だろうが、どこに入れたってピアスはピアスでしょ? 体に穴を開けることには変わりないじゃないの」
私は自分の声がうわずっているのを感じながら言葉を続けていた。ほら、なじりたいなら早く私をなじりなさいよ。この変態女だとか、先生はこんな人じゃないと思ってたとか。
そうしたら私はあんたに言ってあげる。そうね、私はあなたにふさわしい女じゃない。もう一ノ瀬のところにいってくれたってかまわないのよ。
だが少年Aは怒りもせず、ただ本当に心配そうな声で私に告げた。
「先生、これやっかいなことになりかけてる」
「まさか、化膿してるとか?」
私は背筋が冷たくなるような思いで訊ね返した。少年Aは首を振る。
「そうじゃなくて、金属アレルギーだよ。ほら、この部分にリンパ液が出てじゅくじゅくして赤くなってるでしょ。体が拒否反応を起こしてるんだよ」
「それって、私の体にピアスが合ってないってこと?」
少年Aはただうなずいた。
「じゃあ、私はピアスがつけられない体だってこと?」
「百パーセントそうだとは言い切れないけど……かなりの確率では。だってこれは生まれつきの体質の問題だから」
その淡々とした物言いに私は腹が立った。少年Aは単に医者の卵としてしか私の体に興味を抱いていないのではないか。もう若くない私の体は、少年Aにとって理科室の標本くらいの価値しか持っていないのか。
さらに私の体はピアスを生まれつきはめられないという。せっかく手に入れたと思った傷つかないための鎧は、私のもとから去ってしまうのだ。みんなみんな、私の指の隙間からこぼれ落ちていってしまう。
私は笑った。笑い声を発していれば泣かずに済むと思った。けれど涙はどうしても私の頬から伝っていってしまう。
私は泣き顔を見られたくなくて少年Aに背中を向けた。そのままブラジャーをつけようとする。あたたかいものが肩に触れた。振り返ると少年Aが私の肩に手をかけていた。
「……何よ」
私は涙でぼやける視界のまま少年Aをにらみつける。少年Aは白い頬をこわばらせて私を黙ってみていた。
「何か用? さっさと何とか言いなさいよ」
私はこのひとまわりも年の離れた少年に当たっている。慰めの言葉がすらすら出てくるような人間なら少年Aは、私に少年Aなんて名前で呼ばれることもなかったのだ。そんな不器用な人間なのに、少年Aは今や私と一ノ瀬を二股し、今度は私を体でなぐさめようとしているのか。いやはや、私も落ちたものだ。私は仮にも少年Aの担任教師だったのに。
私は自分の肩をつかんでいる少年Aの手をはらいのけようとして、その手首に巻かれているリストバンドを見た。何日か前、少年Aが得意げに私に見せた代物だった。ひょっとしてこれを少年Aに買い与えたのは一ノ瀬なのだろうか。そう考えた時、私の手は勝手に動いていた。
「な、何するの、先生」
私は狼狽する少年Aの制止も聞かず、少年Aのリストバンドをはずした。そのままゴミでも投げ捨てるように畳みにそれを投げ捨てる。リストバンドからガーゼがこぼれ落ち少年Aの手首はむき出しになった。薔薇色の亀裂がそこには幾筋も浮かんでいる。
「ふうん、新しい傷ね。少年A、最近になってもやっぱりリストカットやってたんだ」
「先生、やめてよ……」
少年Aは泣きそうな表情で私に懇願する。その気になればこの前みたいに私を力づくで押し倒せるほどの腕力を持っているのに、私の手を振り払おうとしない。少年Aは狂ってしまった中年に近づきつつある女に、慈悲でもかけているつもりなのだろうか。同情なんて大嫌いだ。
「ねえ、この傷誰かに見せたことある?」
私は少年Aの傷跡を指でさわりながら言う。湿り気を帯びた傷跡は私の指によって広げられていく。
「い、痛ッ」
「ねえ答えてよ、答えてくれたらやめてあげるから」
「……ない」
「嘘つきなさいよ!」
私は一気に少年Aの傷口を押し開いた。生理中の女性器にタンポンを入れるような感触がして、極上のルビーがしたたり落ちる。
「うわああああ!」
少年Aは痛みに悲鳴を上げた。私は少年Aに殴られるのを待った。何をするんだとなじられて、少年Aがこの部屋から出て行ってしまうのを待った。
そう、今の私は少しは強くなっている。大学時代のように、去っていく恋人を自分の手首を切ることで引き留めるようなマネはしなくて済んでいる。少なくとも私は、リストカットしている少年Aよりは強いのだ。
だが少年Aは私を突き飛ばしたりしなかった。
ただ唇を噛みしめて涙をこぼしながら黙って私を見つめていた。三年前、私が初めて少年Aの自宅を訪れた時も、少年Aはこんな表情をしていた。何かを言いたくてたまらないのに、その何かをうまく言葉にできなくて、たとえできたとしてもその言葉によって他人が傷ついてしまうのが怖くて、結局何も言い出せずにいる表情。自分の感情をいつも抑えようとしているから、自然と少年Aの顔はこわばってしまう。それを何も知らない人間は無表情で感情の起伏が少ない鈍感な人間だと馬鹿にし、格好のストレス発散の材料にする。
そして今、私も少年Aに自分の感情を押しつけようとしている。
少年Aは彼なりに今まで一生懸命私に尽くしてきてくれたというのに、それを私は忘れていた。
「ねえ、少年A」
私はまっすぐ少年Aの方を向いて言った。
「私と別れて」
少年Aの瞳がゆらいだ。何か言いたげに唇をうごめかす。
けれど私はそれを無視して腰を上げた。少年Aをこれ以上困らせたくなかった。
ドアの鍵を開けながら言う。
「あなたと一ノ瀬さんのこと、知ってるのよ。あなたたちが買い物してるの見たんだから。だから私、あなたと別れてあげる。さよなら、手塚くん」
私は扉を開いた。目で少年Aーーーー手塚くんに出て行けと合図する。
「先生ーーーー」
手塚くんはふりしぼるような声で言った。私はゆっくりと首をふる。
「手塚くんが出ていってくれなきゃ、私が出て行くから」
私は自分のアパートなのにそんなことを言った。本当に手塚くんがこの場を立ち去らなければそうするつもりだった。
空気の流れる音がするような張りつめた沈黙が流れた。私はそれに耐えきれなくなった。「じゃあ」と言い残して、手塚くんに背を向けてドアの外へ歩み出す。
「待ってよ、先生!」
手塚くんの血のにじむような声がした。と思ったら、私の腰に鈍い痛みが訪れ、私の意識は遠くなった。
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