暢気な徒然

暢気な徒然

失敗作



 何をやってもだめ。自分で思ったら暗い沼からは這い上がれない。斉藤みのり19歳。末っ子で甘ったれて育ったせいか、誰かに頼ることに慣れてしまっていた。一人では何も出来ない。しかし、それをまだ自分で認めていない所が、かわいいといえばかわいいのだが。
 大学には推薦で入った。有名な進学校。頭はちっともよくない。しかし頭を良く見せることは得意だった。高校へは毎日遅刻をしないで休まず通い、部活動もそれなりに頑張った。復習はしなくとも、予習はきちんとしていった。友達は多いほうだ。それだけで「普通」の生徒とみなされて、評価はぐっと上がるものだ。こうして大学へは受験なしで入った。

 言い忘れていたが、みのりには4つ上の姉がいた。気立てが良く、大学へは実力で、部活動では常に部長を務めていた。そんな姉のただ一人の妹。幼い頃からみのりの面倒を見るのは、姉と決まっていた。
 電車で2時間ほどの祖母の家へは良く手をつないで行った。みのりはただ姉の手につかまって、言うとおりにしていれば、どんな所へも行けた。

 丁度、みのりが大学へ入る頃、姉は就職が決まった。大手の有名企業だ。みなは挙って喜んだ。もちろんみのりも。しかしみのりの大学入学のことはみなの頭から消えていった。みなの言うことは「おめでとう」ではなく、「よかったね」。良い姉を持ってよかったね。優秀な姉、妹思いで気立ての良い姉、みなの憧れの姉。見本のような姉だわ、誰もがそう思っていた。

 就職が決まった姉は長年勤めていたアルバイトをやめた。辞める条件は次の人を紹介すること。そう、姉に紹介されて入ったのは姉の妹、みのりだった。アルバイトを探していたみのりにとっては好都合だった。姉の妹ということもあって、面接なしで簡単にアルバイトが決まった。ケーキ屋さんのレジ。初めてのアルバイト。学校のお休みの土日の午前中担当になった。みのりは一生懸命に働いた。お客様には笑顔で、愛想良く。床はキュっキュっと音が出るまで丁寧に磨いた。しかしそれだけではだめだったのだ。大切なのは、正確さと時間。みのりにはその二つの言葉が、少し足りなかったのだ。そのうちみのりの耳にも届き始めた。最初は気にしていなかったのだが、次第に言葉はナイフのように鋭くみのりの胸を指すようになっていった。    
 「お姉ちゃんは手際が良かったのに。」
 「お姉ちゃんはレジの計算間違えなんてなかったわ。」
 「お姉ちゃんはもっと元気が良かったわ。」

 もう姉を頼るのはやめた。言葉は矢のように心を刺す。もちろんアルバイトは辞めた。このアルバイトは姉の半分の期間も勤められなかった。

 また次の春がやってきた。姉は就職して2年目になり、家を出た。みのりは大学二年生になり、時間割作りに悩んでいた。去年の今頃は、姉が一緒になって時間割を考えてくれていた。今はその姉はいない。頼らないって決めたんだ。ああでもない、こうでもないと悩みながら、時間割を考えた。提出は明日に迫っていた。それだけではなかった。奨学金の書類の提出も明日だった。優秀な生徒を募集する奨学金制度。姉はもちろん合格してもらっていた。だから妹のみのりももらうつもりになっていた。時間割も奨学金の書類もぎりぎりにはなったが、一人でやり遂げることが出来た。みのりは満足していた。姉のいない生活にも慣れ、一人でやっていけることを知ったから。
 全ては順調のように見えた。しかしその次の日、一本の電話が鳴った。みのりの通っている大学からだ。内容は二つ。時間割の単位計算のミスと奨学金を受ける資格なし、というものだった。理由は成績が足りないから。奨学金をもらえる単位数にわずかに足りていないということだったのだ。

 みのりは声を失った。そんな初歩的なミスに気付きもせず、奨学金をもらう気になっていた自分が嫌になってきた。もう何もかもが一気に嫌になってきた。外は桜が咲き乱れている。しかしみのりの心は悲しみの花びらが吹き荒れていた。
 そう、姉のいない自分なんて成り立たないのだ。何か一つでも姉に劣らないものがあれば立ち直れるように思えた。しかし、見つけることは出来なかった。探したけど何も見つからない。何も見つからないのだ。頑張って外見を磨いても、どうしようもないのだ。中身は隠せない。いつかぼろが出るのだ。もう出ているんだ。自分には何もない、自分はただ良い子の自分を演じていただけなんだ。演じていただけだから今、何も残っていないんだ。

 その夜、みのりは泣いた。次の日がやって来ても泣いた。泣いても泣いても涙は頬を伝う。やがて、頬を涙が伝う感覚も薄れていった。みのりの目から溢れる涙は滝となり、その二つの滝は、みのりの足元で一つの川となった。川はとめどなく流れ、随分先に行ったところで、流れは緩やかになっていった。川岸には花が咲いていた。ピンクや黄色。淡く、優しい雰囲気に包まれていた。空はどこまでも高く、澄んだ青がどこまでも広がっている。「蝶も飛んでいる…」みのりはそうささやいた。蝶を目で追っていくと、その蝶を捕まえようとしている小さな手が見えた。後ちょっと、後ちょっと。小さい手は必死になって、その蝶をつかまえようと花畑を走った。「私だわ…」みのりはそう思った。蝶はどんどんどんどん飛んでいく。みのりには届かないところまで、どんどんどんどん飛んでいく。みのりはただ、そこに立ち、蝶を見つめていた。美しい蝶だった。揺らめく羽からは7色のしずくがこぼれて、キラキラと輝く。なんとも優しい光だった。今まで見たどんなきれいな宝石よりも、輝きに満ちていて、美しいと思った。

 「みのり!」蝶のこぼした輝きに見とれていると、後ろから懐かしい声がした。優しい声、優しい笑顔。そう、姉だった。みのりのただ一人の姉。「お姉ちゃん…」姉は近くにやってきて、みのりの手をつかんだ。二人は歩き出した。手をつないで、どこまでも。みのりは心地よい安心感に包まれて、ただその手についていった。どれだけ歩いただろう。歩いた距離さへ分からない。しかし、疲れることはなかった。どこまでも、どこまでも歩いた。二人一緒に。手をつなぎあって。

 どれだけの時が経ったのだろうか。やがて、二人は立ち止まった。
 目の前には大きな海が広がっていた。押しては戻る白い波。無限の世界だとみのりは思った。気付くと、もう横には誰もいない。みのりは吸い込まれるかのように地面を強くけった。迷うことなく、ただ思いに流されるがままに、広い波打つ海へと飛び込んだ。両手を広げれば、風が体を包み、まるでみのりは本当に飛んでいるかのように感じた。「これでどこまでもいけるわ…」大丈夫、もう怖くない。心地良い良い光と風が、大海原を飛ぶみのりを包み込んだ。

 みのりにもうその次の朝は来なかった。
 姉はみのりの棺に、悲しみの涙を流していた。


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