いつか きっと 晴れるよ

ショートエッセイ



ゲマインシャフトとゲゼルシャフト
いわゆる身内と見外(みそと)に人を分けて接したがるという
人間の癖

でももう一つソトに真っ赤な他人という同心円があり
ひとを3つに分けて考えたがるというのがほんとのような気がする




あの頃のまま
今日は「あのころのまま」という歌を聴いた。1979年の歌だ。

「6時のターミナルで ふりむいたキミは 板に付いた紺色のスーツ
今でも気まぐれに 街をゆくボクは 変わらないよ ああ あのころのままさ

去りゆく若い時間をひとり止めているようでうらやましいやつだよ とはじめて笑ってくれた

For yourself For yourself そらさないでおくれ その瞳を人は自分を 生きてゆくのだから


ネクタイ少しゆるめ 寂しげなキミが 馴染みの店に 腰すえる夜は
陽焼けした両足を投げだしてボクも"Simon and Garfunkle"ああ ひさしぶりにきく

人生のひとふしまだ 卒業したくないボクと 他愛ない夢なんか とっくに切り捨てたキミ

For myself For myself  幸せのカタチに こだわらずに人は自分を 生きてゆくのだから」


という、随分と昔の歌だけど、今で言えば「ボク」はフリーターで、「キミ」は就職した友人に聞こえる。

昔の状況と少し違うのは、就職した「キミ」も、会社や職業は時々変わるということ、つまり転職が多いという事だ。

この歌を聴いて感じたことは、「ボク」はいつまで、そのままの「ボク」でいるつもりなのだろうということ、そして、いつまでそのままで居られるのだろうということだ。

つまり、皆それぞれに歳をとり、否が応でも大人にあるいは大人の役割を演じなければならないときはやってくる。
それをいつまで引き伸ばそうというのか、そしていつまで引き伸ばせるのだろうか?

ほんと、いつまでなんだろうか・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・









距離

人と人の間の距離とその関係

5メートル。
後姿なら5メートル離れて見る。
頭のてっぺんから、つま先まで見えるから、でも全くの他人

3メートル。
正面からなら、3メートル離れて見る。
表情が良く分かるし、全身が見れるから、ここでも他人。

1メートル
1メートルの距離になると、話をすることが出来て性格がわかってしまう。
人は見かけに寄らぬものということに気づく。ちょっと知り合い。

30センチ
30センチの距離で横にいる。顔も見えないし。歩きながら会話をするお友達。
30センチで正面を見るのは、普通はない。カップルぐらい。かなり近い間柄。

5センチ
5センチの距離は、横にいるのは、横を歩くときぐらい。
顔も見えなければ、姿も見えず。ただ声がするのみ。
姿を見る必要が無く、雰囲気、人格が伝わってくる。
顔を見る必要が無い、極々近い関係。


一番ワクワクするのは5メートルの距離。
姿かたちの全体を見て、どんな人かを想像できる。
容姿だけで中身を見ないでいい。
中身が見えてくると、はじめの印象と変わってくる。

よく変わるか

わるくかわるか。


(ただし、電車の中での距離はこれに当てはまらない)




去るもの
来るものは拒まず、去るものは追わず→ナンパ

来るものは拒めず、去るものは追わず→お見合い

来るものは拒まず、去るものは追えず→浮気

来るものは拒めず、去るものは追えず→風俗嬢?

足りない頭なら
  たりない頭ならーー
  知恵を盗みゃいいーーー
  帳尻あわすなら嘘も必要さ
  (うむ いい歌だ )

コンダラ
小学校の頃、「コンダラ」ってどのくらい重いのかと、ずーっと思っていたという知人がいる。
「なにそのコンダラって」ときくと、知人いわく
「ほら巨人の星の歌にあったでしょ。おもいー こんだら しれんのみちー
 おーって言う歌詞が。
あれの”おもいこむ”のところを、”重い コンダラ”だと思って聞いて
いたんだ」
ということだった。(笑)

実際に聞いた話しなのだが、もしかして古典的な小ネタ?


神々の午睡
題名だけ見て購入した。読むとはまってしまった。
清水義範著
世界に誇る三大宗教(アルカマ教、サライ教、ジブ教)はいかにして生まれたか。開祖が現われ、教典が編まれ、正統と異端が生まれる。衆生を救うためのはずの宗教が争いを生み出すという矛盾の存在を知った本だ。







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