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夢を見た。 真っ暗な中に、たぶん誰かと一緒に歩いていて、 こっち側にぽつんとお墓の石があって、 あぁそれなら反対側にもきっとあるはずと思ったら やっぱりそこの反対側に、ちょこりんとお墓の石があって その上に 天使の次男ちゃんが 座って待っていました。 病院の時の、気管切開した後の顔のまんまで、 すごく元気そうで顔色がよくて、 にっこにこしていて表情があって、 うわぁぁ、すっごく久しぶりに表情を見ることができたよ。 嬉しいなぁ。本当に久しぶりに会えたね。嬉しいよって言ったら ママに会えて嬉しいっていうようなことを言ってくれた。 3歳くらいに見えたけれど、あんまり変わっていないね。 でも前に夢で会いに来てくれたのは、ずいぶん以前のことになるよね。 だって、これ、夢だもんね。 えーと。夢。 ちょっと待って。 一瞬だけ起きるから。 あ。やっぱり夢だった。 続き、続きに戻らなくちゃ!!! だって、夢だったら覚めちゃうから。 それはイヤだ。 夢で会えるのも、もうかなり、めったに無いことなんだから。 もとの映像に戻って。 ありがとう。本当に、ありがとう。 会いに来てくれたこと、本当にうれしいよ。 その気持ちだけは、ちゃんと次男に伝えることができたような気がする。 いつでも、会いに来てね。 いつでも、待っているからね。 そう思っているうちに、また寝てしまった。 でも、夢が覚めても、あの表情は忘れられない。忘れなくて、よかった
March 31, 2008
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今日はともちゃんのおうちに遊びに行きました。新生児ちゃんに会いに行ったら.....ぶろぐで見ているよりも、実物はもっともっとかわいかった♪赤ちゃんって、こんなに小さかったっけ~?(あ、うちは3人とも3600g超えてたから、小さい赤ちゃんは見たことがないのか ^_^;)「お姉ちゃんに似てないかな?」と言ったら、上のお姉ちゃんが産まれた頃のビデオを見せてくれて....そっっっくりでした。そうか、私たちが知り合ったのって、お互いのコドモが入院してからだものね。次男が入院してしばらくしてから、お隣のベットに入院してきて。とても悪そうにも見えたけれど、どう悪いのかもしばらくは知らず、というよりも、うちが自分のことだけでせいいっぱいで、全然よそのベットやご家族のことが目に入っていない状態だったので、話をするようになったのは、ずいぶん後になってからでした。入院期間が長くなる程、病院の思い出も増えてきて、病院の仲間と共有する時間も長くなっていったあの頃。今、私が次男のことを話す時はほとんどが「説明」になってしまっている。実はもう一人いてね、だけど亡くなってしまって、と。だけど、説明ではなく次男のことを話せるんだなぁと思いながら、今日はゆっくりとお話をしたのでした。次男が亡くなって、半年後に本当に壮絶な闘病の末に亡くなられてしまったお姉ちゃん。今でも、おひなたぼっこの時にローシートにミッフィー毛布の姿を覚えてます。うちは長男がいたり、亡くなってしばらくして三男が産まれたりと、お互いの家族環境はそれぞれ違うのだけれど、話をしていて「あぁ、そうだよねぇ」と思ったり、「あぁ、そう思っていたんだ」と思ったり...いろいろ感じました。私は人に、「よかったねぇ、次の子が産まれて」と言われるのが、本当にイヤだった。それで、次男が亡くなったことがチャラになるわけでもなんでもないのに。いつも、そう思っていたのだけれど。カラ元気でにっこりとする顔ではなくて、本当にやさしい顔で赤ちゃんをのぞきこむそのママの顔に、「よかったね」とうっかり言ってしまい、そうか、私の時もみんな、純粋によかったねって思って言ってくれていたんだな、と3年も経ってから大事なことに気づいた私でした。いつも「明日、会える~?」「今日、空いてる?」と突然連絡をしては会いに行く私でごめんよっていう感じだけど。また、遊びに行くね♪いつも、ありがとう!
June 17, 2005
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今日は救命病棟の最終回でした。小児患者さんの回復と、都市再生とを、重ね合わせたテーマでした。悲惨な状況が続くと、もうだめかもしれない、と思いたくなる気持ち。とても、よくわかります。あきらめた方が、簡単かもしれない。だけど、必死に「生きたい」という気持ちを、子どもが全身で表している。信じよう。信じ続けよう。そう思うには、それを受け止める側にも、絶え間ない覚悟が要求されます。「説明室」で、ドクターから両親へ、現状の説明があります。親は、うちの子が助かるかどうか、大丈夫なのかどうか、それが一番知りたい。医者は、経過を説明し、処置を説明し、現状を述べる。聞きたいのは、助かるかどうか、という親の気持ちと全然かみあわない。「今はなんともいえません」。医者がそうとしか言えないのは、今は理解できるけれど、当事者としてはなかなか納得できないものでした。子どもの病気を前に、親は、なんにもできないんです。ただ、ただ、無力なんです。念を送るしかないっていう感じ。だけど、それでも、「信じましょう」って言ってくれると、それだけでとても救われる。言える医者は、すばらしいと思います。うちの場合は、看護婦さんが「いっぱい、がんばっていますよ。おかあさんもがんばりましょう」って言ってくれた。なにをどう、がんばるのか。わからなかったけれど、ただ、励まされたように思います。ドラマの最終回ということで、最後になかなか過酷な労働環境の設定になっていました。医局長の表情、一番よかった。(対する、進藤先生が変わらずかっこいいのは....)現実としては、あれは医療ミス多発につながるでしょうね。総合病院なら、まずは他科からの応援があるべきでは?というつっこみはとりあえず下げておき、「やっぱり、とにかく人を助けたい」という医者が増えてくれればと思います。お勉強が上手なことの延長ではなくって、ね。私は、次男の主治医との相性はとても悪く、なんども言い合いになったりしました。そりゃぁ、親はとにかく一喜一憂するんです。とにかく、助かってほしかった。少しでもよくなれば、もっとよくなってほしかった。悪化すると、どうしてなんですか、と詰め寄った。ある時、「患者は、よくなれば自分の快復力のおかげだと思い、悪くなると医者のせいにするんだ」と言われました。けっして、患者に言う言葉ではなかったと思うけれど、医者業の本音なんだなぁって、だいぶ経ってから思い出されます。一方、つきっきりで処置をしてくれた研修医の先生には、出会えて本当によかった。息子の死に、絶句し、涙を流して下さった。できれば、退院し、ありがとうございましたと元気な姿を見せることで先生達に答えてあげられるとよかった。きっと、いい先生になって下さい。そう、思いました。医者と患者は、病気にならないと出会えない。患者がよくなれば、感謝の言葉とともに患者は去っていく。患者が悪化すれば、亡くなって患者は去っていく。ずっと続けていると、やりがいを持ち続けることが難しい職業なのかもしれません。希望を持って、明日からも生きる。とてもよい、ドラマだったと思います。ふだんは本当にテレビを見ることがない私でしたが、このシリーズはよかったです。ICUでお世話になった看護婦さん。今年の春に病院を辞めていたことがわかりました。今は長野で研修中。4月から、海外青年協力隊でグァテマラに行くんだと聞いて、びっくり。そして、心から、応援したいと思いました。霊安室で、たくさんたくさん泣いていた、当時はまだ新人だった看護婦さん。お料理教室で再会したら、消防士さんと結婚していて、病院ではベテランとして引き続き活躍中でした。「がんばってますよ」と言われました。うん、私もがんばろうっと!まずは、ファイリング.....家計簿....幼稚園グッズの作成(もうすぐ入園式だってば!)またまた、思い吐き出し系の日記になってしまいました....。ところで、進藤先生が言っていたのはWe are starting to see some kind of hope.で合っているかしら?・3/16救命病棟感想文・救命病棟・フジTV広報によるドラマ設定)・おまけ:秘書の青木さん(小須田康人さん)のブログ・日大医学部によるER医療用語解説救命病棟でもかなり役立ちます
March 22, 2005
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今日は子どもも学校に行き、夫も会社に行き、私は小康状態で病院に入院している、祖母の自宅の片付けに行きました。そんな、少しずつまた日常生活を回そうという時に好きなジュディマリのYUKIちゃんの男の子くんが亡くなったというニュースに非常な衝撃を受けてしまいました。1歳11ヶ月。次男と全く同じ月齢です。この、桜がもう少しで咲くという季節に、YUKIちゃんが悲しい思いをするなんて。ホームページには、手書きのメッセージがありました。短くて、切なくて、でも一生懸命で。ただ、ただ、手を合わせたいと思います。昨日、一昨日の連日の濃ゆい日記におつきあい下さり、ありがとうございます。メッセや、メール、コメント、大事に読まさせて頂きました。長男、チビ助、今は4人+1人の家族として、これからもがんばります。子ども達は、なんといっても健康であってくれればいい。そう、思っているのですが....現実の私はとても欲張りで。元気で、学校生活も楽しんでくれて。そして基礎トレはやはり毎日やってほしい....塾の宿題も自主的にやってほしい....結果もしっかりついてきてくれると、なおうれしい...朝はきびきびと動き(だんだん、かなりずぅずぅしい願いになる)、ゲームは1時間、目薬は忘れずに差し、挨拶は大きな声で、友達とも仲良く(ここら辺になると無謀なお願い).....。価値観のぶれが大きい、人間的に未熟なハハを持ったことが、大きなハンデとなっている長男でした....。現実生活にずずぃと私を引き戻してくれたのは、今日返された組み分けテストの結果でした。
March 18, 2005
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昨日に続けて、コメントをつけにくい文章ですのでスルーして下さい。昨日の文章に続けて、一気に書いたものなので、アップしようと思いました。そうか、こう感じる人間もいるのか、と読んで頂ければと思います。17日は次男の命日でした。雨が降り出す中、お墓参りに行きました。横型で、ピンク色の花崗岩に、大好きだったクマちゃんのぬいぐるみが彫ってあるお墓です。チビ助は保育園に行ってもらって、学校を休んだ長男と、夫と、3人でお参りしました。次男が亡くなった当時。長男は、5歳でした。小児病棟は感染防止のため、子どもの入室を禁じています。次男は一瞬たりとも人工呼吸器が離せなかったため、婦長による特別な計らいという扱いでもって、次男にごくわずかな面会を2回しか許されませんでした。毎日長男の写真を見つめていた次男。なのに、実際に会うと興奮して泣いてしまって呼吸器のバッキング(呼吸器から送られる空気をタイミング良く取り込めなくなってしまう)を起こし、すぐに引き離されてしまったのでした。一方の長男は、まだ幼かったためとはいえ、珍しい病室の風景にきょろきょろするばかりで、「感動の対面」を期待していたバカな私は、あっさりと裏切られた思いをしたものでした。冬になって、風邪を引いたり、わずかな鼻水をたらしていたなどと、細かい理由をつけては長男との再会のタイミングを見つけ損ねてしまいました。結局会わせてあげることができないままになってしまった。深夜の、病院からの電話。病棟の入り口の、真っ暗なロビーのソファに長男を一人置いて、私たち夫婦はICUへと急いで入り込んだのですが。そこで、ありえない光景を見て、とても現実のものとは思われない一連の結末を迎えて、それからまるでテレビでも見ているかのような時間の流れがあって。長男を置き去りにしていることに気がついたのは、1時間以上経ってからかもしれません。亡くなった次男に会わせて、それからおばあちゃん達に連絡して、死体解剖の方に回したり病室の私物の撤去をさせられたり、葬儀社の手続きをさせられたり。いったい、長男はその長い1日をどのように過ごしていたのか。長男がどんな表情だったのか。全く、私には思い出せないのです。お人形のようになってしまった次男を抱っこして連れて帰り、1年ぶりの部屋に寝かせてあげて。たくさんお話をしてあげて。だけど、その間、長男は何をして、何を思っていたのでしょう。お葬式の間、私達の席とは反対側の、私の親族の側におとなしく座っていた長男の姿は思い出せます。長い時間だったのに、静かにおとなしく、ずっといい姿勢で座っていて、「なんてお利口さんにしている坊ちゃん」という、その姿を、ぼーっと遠い思いで私は眺めていました。母親がおかしくなってしまっていても、彼は、静かに、凛とした姿勢で、日々を過ごしていました。育児休職なのに育児するべき子どもがいなくなってしまったので、会社の人事部と相談したところ、四十九日が過ぎてから出社することになりました。理由消失から2ヶ月以降になると、社会保険的になんらかの手続きが必要らしいので、その前に戻れば、ということでした。お葬式が終わると、とたんに人の気配が家から無くなります。いったい、いつから夫が出社したのか、その記憶も定かではないのですが、気がついたら、私は家に一人でいました。朝、無意識にだったのかもしれませんが、長男を登園させて、日中を過ごし、また夕方にお迎えに行って、二人で夕ご飯を食べて、寝る。当時の、断片的な日記には、人がお焼香にきて下さっていたり、私がお仏壇を買いに行ったりしていることが書かれています。だけど、その日常生活をどう過ごしていたのか、全く私の記憶にありません。ガン患者のご家族の方で同様の経験をされることも多いそうですが、それまでの、濃密な看病生活を、突然に、心構えがないままに断ち切られてしまう。毎日病室に行き、隣のベットの人や看護婦さんたちと話をしていたのに、ぽつんと家の中に置き去りにされ、やるべきことが失われてしまう。その喪失感は、非常に激しいものでした。そんな毎日の中、長男はそれまでと変わらずに、ずっといい子で過ごしていました。わからないのかな。そんな風にも、思えてきました。まだ、5歳だもの.....。わからないのも、無理がないのかな。1年の間の入院生活の間に、弟の記憶も、だんだん薄くなってしまったのかな。それも、仕方がないことなのかもしれない。そう、思っていたある日のこと。ちょっと早めにお迎えに行ったところ、園庭で、園長先生から聞いた一言が。「毎日ね、泣いているんですよ。」....え?「楽しそうにしていても、気がつくと、園庭の端で空を見ていたりして。 声をかけようとすると、涙を浮かべているんですよ。 『ボクのオトウトが死んじゃったんだ』って言って。 そうなんだね、亡くなっちゃんたんだよね。さびしくて、涙が出ちゃうね。 そう言うと、 『うん。だけど、ぼく、お家では泣かないんだ。 だって、世界で一番かわいそうなのは、お母さんだから。 だから、ぼく、家では泣かないの。』 そう、言っていましたよ。」と。本当に、驚きました。そんなことを、言っていたんですか。全然、そんなそぶりは見せなかったのに。5歳の子が、そんなことを言うだなんて。5歳でも、男の子は、男の子なんですね。そんな男の子のやさしさに、当時に私はすっかり甘えてしまっていました。本当は、我慢している長男の気持ちをしっかり受け止めてあげればよかったのかもしれない。できなかったけれども。後になって「本当は、もっと会いたかったのに」と言われました。会わせてあげればよかったね。ごめんね。「どうして、死んじゃったの?」と聞かれたこともありました。どうしてなんだろう、お母さんもわからない。そうとしか、答えられませんでした。このお家には、子どもがボクしかいなくなっちゃった。そうか。最初から一人っ子なのと、一人っ子になってしまったのとは、ずいぶん違うものなんだろう。夫婦二人だったら、亡くなった子どもの思いでと共に生きるという人生もあったかもしれない。けれども、兄弟がほしいという長男の気持ち、私の年齢的な限界。いろいろ考えて、兄弟がいてもいいかもしれないな。そう、思うようになりました。
March 17, 2005
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夜中にふっと起きたら夫がちょうど見るところだったので、救命病棟の第11話を見ました。・救命病棟・フジTV広報によるドラマ設定)・おまけ:秘書の青木さん(小須田康人さん)のブログ・日大医学部によるER医療用語解説救命病棟でもかなり役立ちます今シリーズの救命病棟は、医療設定がしっかり行われ、処置もスピード感があり、ERの真似と言われつつも、私はER並に臨場感があると思いました。医局内の「ウェルパスを無駄にしない」という、壁の張り紙に、細部までの注意を感じました。学校の保健室以下だった「おたんこナース」などの医療ドラマとは、格段の差です。松嶋さんや他の出演者が、撮影の空き時間にオペの手技を何度も空で練習していると聞き、医療関係者が見ても違和感のないドラマになっているんじゃないのかな、と思いました。今回は、進藤先生(江口洋介)は全体統括者に徹していて、他の医師それぞれや、寺泉(仲村トオル)議員の成長物語として各話が描かれています。社会的メッセージ性も強く、阪神大震災の忘れかけられていた教訓や真実がこめられているのを感じます。震災前の備えは十分だったか、医療スタッフや消防隊等助ける側の燃え尽き症候、ボランティアは自己責任、クラッシュ症候群、震災後に水で暴利を得る業者.....。ひとつひとつ、今の生活を見直すきっかけとなりそうです。(以下コメントつけにくい内容になってしまったので、スルーして下さいませ。 でも、これを見ている、私を知る数人には、そういうことだったのか、と思って頂ければとも思います。 また、子どもを亡くしてこう感じる人間もいるのかと読んで頂ければと思います。)救命病棟の今回は、現金仕入れのやり手社長が搬送され、応急のオペは成功したものの...という内容でした。緊張性気胸で片肺の呼吸音が聞こえない、サチュレーション(血液中の酸素飽和度)が上がらない、ベット脇でごぽごぽという、チェストチューブ....亡くなった次男は、大学病院のICUで1年近く凄惨な闘病生活を過ごしました。肺がつぶれてしまったので、病院でも3台しかなかった高性能の人工呼吸器で圧をかけてサポートするのですが、状態が悪化するとすぐに血液中の酸素飽和度が下がってしまうのです....気胸という、肺に穴が空いてしまう症状にも悩まされ、まさに今回のドラマで使われていた医療機器の数々が次男のベット脇を占領し続けていたのでした。もう、5年も経つのに。この春が近づいてくる気配、季節感は、あっさりと時を超えて、あの時の辛さを呼び戻します。毎年、3月はとても気が重い時期です。あと、もう少しで春がくる。そういう季節感が、とても私を打ちのめします。春がくる匂いや、雰囲気は、何年経っても、あの時の私をよみがえらせる。残酷なまでに。せっかく、日常生活を回すことで埋もれさせていた、記憶まで。ICUの病室から見える、もうすぐで春だ、という風景。毎日見ていたのに、ある日から突然、もう見ることがなくなるなんて。3月の17日が、次男の命日。働いていた時は、2週間休暇をあてて、ゆっくり休みながら次男のことを思いだしていました。たくさんの方にお焼香においで頂き、まだ次男のことを思いだして頂けることに感謝し、そして命日が過ぎるとふっと軽くなる心に、また、現実の生活を回す努力をするのでした。育児休職後に配属された部署と、その上長は、そういう私にとても理解のある人でした。次男が亡くなって復職した時も、会社の人は、みんな暖かかった。なんにも聞かず、なんにも言わず、ただ、業務のことだけをきちっとやっていればよかった。家にいて、ただただ涙を流すだけの私もふつーの会社員でいさせてもらえた。その時は、うちの会社の社員でいてよかったと思いました。だけど、辞める時の配属部署と、その上長は、全くそういうことに理解がなかった。会社にいれば、そういう時もある。そういうこともある。だけど、この1年2年が、どうしても我慢できなかった。命日の日の前後と、長男のピアノの発表会は休みたかった。その時こそが、年度の中でも最も繁忙期に重なる業務への配転。よりによって、その時期に休むなんて。という無言の圧力。この時期だからこそ、どうしても休みたい私。会社を辞めた今、この時期に、もう、あの上司と顔を合わせなくてもよいのが、救いです。次男は、1歳になった直後に麻疹を移されました。長男の、スイミングの観覧室で、です。「熱が出ちゃっているんだけどさぁ、上の子がどうしても休みたくないっていうから」と、ぐったりしている下のお子さんを連れてきていた、仲良しのママ。お大事にね、といったその翌週。小さい子がいるママがこぞって休んでいました。そして、うちの次男も熱を出していました。症状から、突発性発疹だと診断されていながら、引き続き、麻疹にかかっていると診断されました。突発と、麻疹を、併発するということがあるのでしょうか。4月産まれだったため、ポリオの2回目と、麻疹の予防接種時期が重なっていました。仕事復帰が念頭にあった私は、年に2回しか受けられないポリオを優先し、麻疹を次月にまわすことにしたのです。麻疹が、命取りになるとも知らずに。1歳直後の麻疹罹患は、重篤になった場合はほとんど助からないのだそうです。ネットで調べまくっても、やはり、重篤になった状態から命が助かった例は見あたりませんでした。ところが、次男は、入院して3日後に状態が悪化した以降、危篤状態を繰り返しながら1年闘病していました。そういう例は、たぶん、他でもなかったようです。ムンテラという、担当主治医の説明の時に、私は3度倒れています。人の話を聞いている最中に、気が遠くなるなんて、人生で初めての経験でした。あんなにがんばっていたのに。死んでしまいそうな状態なのに、奇跡的に一命をとりとめたという翌朝の次男。まだ、言語を習得していない時期に、口に人工呼吸器用のチューブを取り付けられてしまって。私や夫になにも言わないのだけれども。生きたい。どうしても生きたい。生きて、おうちに帰りたい。そういう、言葉を獲得できる前の年の子どもの、言葉によらない必死な生きたいという気持ちを助けてあげられなかった。何をしていても、突然くる脱力感というか、こんなことをしている自分ってなんなんだろう。大事なものも守れずに。と思うことがあります。一方、やっぱりそれでも生きなければいけない。生きるしかないんだ。そう思ったりもします。3月は、そんな季節です。
March 16, 2005
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今日は天使のおはなしです我が家では予定外のテレビを見るということは、ほとんどありません。そんな暇、無かった。(勤務後に帰宅したら、あとは食べて寝かせるのでせいいっぱい。)というより、あんまりテレビを見る習慣はありません。ニュースはつけているけれど、基本的にはテレビは録画をしておいて、後でCMカットしながら食事時(これもどうだかとは思うけど)に見る。なので、今日の「ジャッジ」を見たのは、本当に偶然....。初めて見た番組なのに、赤井英和さんが二人の娘さんを亡くされたという話の、ちょうどその部分だったのでスイッチを消せなくなってしまいました。長男を産んだのは、港区の愛育病院でした。いやー、一人目だけはブランド病院(笑)。それも堀口院長(当時)ご指名。大部屋でのおしゃべりや、ぞろぞろと授乳室に向かう日々は、女の子だけの合宿みたいでとても楽しかったです。ちはるちゃんがトウイ君を産んだ一週間後で、へぇぇ芸能人も御用達なのね、と思っていたら、病院のエレベータで赤井さんと一緒になったと母が話していました。切迫早産のために奥様が入院されているらしい、ということでした。その時のお子さんは元気に育っていらっしゃるようですが、4番目の双子のお子さんが超未熟児で産まれてきて、ももこちゃんは生後3日で天使ちゃんになってしまったということでした。さくらこちゃんは、半年間NICUでがんばって、気管切開をして在宅ケアをするという方向で準備が整った時に、事故抜管により低酸素脳症の状態になってしまったといいます。「それって、医療事故じゃない」と、思わず声が出そうになってしまいました。病院の先生が「自分で呼吸器を外しちゃったんです。その結果20分、酸素が入らない状態が続き...」と説明したようですが、人工呼吸器使っていて、なんでアラームが鳴らなかったの?Nだったら、24時間監視が基本でしょう?きっと今だったら、病院総出で謝罪ものだったのだろうけれど、当時はそういう説明を親に平気でしていたのだと思う。赤井さんが「もう、けっこうです」と言う時のお気持ちを察すると、胸がくぅぅっと痛みました。テレビで、下を向いて涙をこらえる赤井さん。「半年の間、毎日危篤状態だとばかり言われて...」の言葉に、5年前を思いだしました。もう危ない。今晩が山場です。そんなことばかりを言われた、あの狂ったような日々....。こんなに小さい子が、こんなにがんばった。もう、十分。そういう気持ちと、やっぱり連れて帰ってあげたかった、という気持ちと。上のお子さんが「うちのももちゃんの方がもっとかわいい」と、家に遊びに来た赤ちゃんを見て言うのを聞いて「家に連れて帰ってきていないから、見てもおらんのに....」と思いながらも、やっぱり会わせてあげたかったと。その5日後にさくらこちゃんが亡くなってしまった、と。今は、二人の天使ちゃんはおうちにいるそうです。赤井さんはさくらこももこわが逝きし子らよ(小学館文庫)で、詳細を書かれています。私は読めないと思います.....。また、在宅ケアの支援システムについても毎日新聞のインタビューの中で思いを述べていらっしゃいます。その中の、「あまりにも支えてくれる病院が少なすぎる。もっと小児医療に目を向けるべきやなあと感じました。少子化と言われるんやから、それに対する補助があるべきやないですか。」には、強く賛同する思いです。
January 14, 2005
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←--となりのサイトに移動ランダムに移動--→となりのサイトに移動参加サイト一覧今日はチビ助の3歳の誕生日でした。が、一家で寝坊10時起床というぼんやりした1日を過ごしてしまいました。それでもケーキは買ってきて、夕食後に電気を消してハッピバースディを歌いました。チビ助は暗さにびっくりしつつ、自分の出番になると、ハッと気を取り直してフーっ とろうそくを消しました。「いくたん、さんさい」と指を出します。親指で1、人差し指が2、中指が3です。実は私自身も薬指を使っての3ができません。海外在住時には薬指の3は使わなかったので、できなくなってしまいました。「たんじょうび おめでとう」 わかやまけん こぐま社以前、実在の天使ちゃんをモデルにして描かれた、「ぐりとぐらとすみれちゃん」のお話について書きましたが(フリーページ参照)、その本とともに、とても想い出深いのが、わかやまけんの 「こぐまちゃんのほっと けーき」 です。長男が小さい時はこの本を知りませんでしたが、次男には何回も読んであげた記憶が あります。オレンジ、キイロ、アオ、ミドリの組み合わせで、鮮やかだけど くどくない 色合 いです。真ん中の見開きページに、ホットケーキができるまでの絵があります。ぽたぁん、どろどろ、ぴちぴち、まぁだまだ...。そのうち、何回もせがまれてホットケーキを作らされることになるんだろうなぁ、な んて思っていたのに。一度もせがむことなく、逝ってしまいました。命日の翌月命日が、お誕生日です。1歳と11ヶ月で亡くなったので、2歳を迎えるはずだった頃。あの頃私は毎日どうやって過ごしていたのか、全く記憶がありません。亡くなった直後に思ったのは、「育児休職中なのに、育児するコドモがいなくなっち ゃった」ということでした。49日が終わるまでは会社に行けないと人事に手紙を書きました。休職事由が消滅して2ヶ月を経つと、社会保険の区分が変わってしまうのですが、それまでは休職扱いにしてもらえることになりました。普通は、速やかに復職しなければいけないところですが、温情ある対応です。復職後はただただ、まず会社に足を運び、最初のうちはぼんやりと入力作業をし、家に足を運んで長男の世話をし、夜は何も考えずに眠りこけていました。考えたり感じたりするのが辛いということを体はわかっていたのか、ひたすら眠くて、現実を考える力が奪われるかのように眠かった。体が日常生活をこなすのに慣れてきて、楽しくもないクリスマスが過ぎ。だんだん春になってくる気配が感じられる頃、息子の命日が近づいてきました。桜が咲きそうになる頃。忘れていた、次男が亡くなった時の、もうすぐ桜がさきそう、という気配、その季節感が、日々の生活に埋没していた感情を一気に呼び起こしたのでした。今でも、春が来るのはとても辛いものがあります。初めての命日が過ぎてから1ヶ月。本当だったら3歳の誕生日を迎える日。大好きだったこぐまちゃんの「たんじょうび おめでとう」を読んであげようとしま した。おめでとう、こぐまちゃん。おめでとう、3歳。一言、一言が、とても辛くて読めなかった。チビ助が3歳になったら、この本を読めるようになるかな、と思っていたけれど。やっぱり、この本は次男に読んであげたかった本。どうしても読んであげることができません。今でも、きっと、声に出して読むことができない。久しぶりに天使のお話でした。送料無料のいちごのお線香です。
September 26, 2004
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今日は久しぶりに海の底です。そうとうへなちょこ(ななみママ、表現お借りしました)なので、抵抗ある方は読み飛ばして下さい。前向きな、ワーキングママのお話については、フリーページを更新しているのでそちらをご覧下さい。 ★ ★ ★ ★ ★事件になっている、お兄ちゃんが発見されたという報道。そして、昨日の御手洗さん(小6女児事件)の声明。そういうものに接すると、普段、一生懸命小学生ママをお努めし、ワーキングママをお勤めしていて、そういう現実生活の努力している私を、本当はウソなんじゃないかと思わせるような、なんとも言えない感情がしみ出てきます。男の子は、肺から水が検出されました。最後の瞬間まで、生きようとしただろうなぁ、と思うと。うちの天使くんが、何回危篤と言われても持ちこたえて回復しようという兆しがあって、理屈じゃなくってただ、生物的なレベルで生に前向きであった。それを、救ってあげることも、祈っても役に立たなかった、なんにもしてあげられなかった、あの無力感が、フタをしていたオルゴールから何万という音が流れ出すかのように思い出されます。そして、御手洗さんの手記は、文章がうまい方なだけに抵抗できない表現力があって、打ちのめされてしまいます。前回の、お嬢さんがいないということがどうしても受け止めきれないこと、お嬢さんはいないのにモノだけはあるということが不思議でしかたがないということ......モノは使われるべき人に使われてこそのモノであって、使う子どもがいなくなっていしまうと、おもちゃですら遺品になってしまうんだ.....という思いが、何年もの時空を超えてよみがえってきてしまいました。今回も.....それでも娘は帰ってこないし、警察の人はわかってくれないって思うよね....という語りかけに。いつも、いつも、ずっとこうして心の中で語りかけ続けているんだろうなぁ、と。来週はお彼岸。私もお墓の前でお話する時間、長くなりそうです。
September 16, 2004
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