yuuの一人芝居

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小説 立石孫一郎 (現在の目で書く) 開始


   小説

   立石孫一郎
                      今田 東




  浅江から島田に行くには千歳橋を渡らなくてはならない。島田川の両岸は密生した竹藪で覆われていた。前を行く寺僧の堤灯が何故か小刻みに揺れていた。橋のたもとまで来た時、  
「橋を渡りますと、案内の者が待っております。私は今夜通夜が一つ在りますのでここで」とくるりと踵を返した。
「隊長」兵介が心配そうに言った。
「構わん、計る者には計られよ」孫一郎はそう言って橋を渡りやだした。
「たいちょう・・・」兵介の声は濡れていた。
「兵介、今まで色々と世話になったのう、例を言うぞ。私の代わりに生きてくれ、世の移り変わりを確りお前の眼で見てくれ」後を付いてくる兵介に言いった。
 何故か、おけいと三人の子供の事が脳裏に浮かんでいた。
「たいちょう・・・」兵介は泣きながら孫一郎に武者振り付いた。
「人生は川ぞ。人はその上を流れる一つの泡ぞ。私は今ようやくそのことに気付いた。どのように流れに逆らっても、所詮弄ばれるだけだと言うことが。流れに逆らうには、私のような弱い心では駄目だと言うことが・・・。なれど、流れに身を任せることがこれまたどれほどの勇気がいることかも知った。兵介、生きてくれ、生きて生きて、その私の流れがどのように世の中を変えたか見定めてくれ。頼む」
ゆっくりと言った。
「隊長」
 その時、対岸の竹藪の中がパァと明るくなり、銃声がした。
「うらをみせおもてをみせてちるおちば」孫一郎の心に浮かんだ歌であった。
 孫一郎は腹を押さえ片膝をつき対岸を睨みつけた。だが、浮かんだのは生まれ故郷の上月村の大谷家の門前に変わっていた。

    1 倉敷のその時

 敬之助は、播州上月村の大庄屋大谷五左衛門の長男として生まれ、名を敬吉。十六歳で庄屋見習いになり、森家の役人と年貢米の事で百姓との仲裁に入りどちらの言い分も言い発て、藩主の怒りに触れて見習い役を取り上げられた。見習い役を取り上げられたとなると大谷家の後を継ぐことはできない。そこで、母親の生家でありやす作州二宮村の大庄屋立石正介に引き取られた。立石家で無駄飯を食らっている間に、津山で神道無念流の道場を開いておりやした井汲唯一と巡り合い門人となり、剣ばかりではなく尊皇攘夷の手ほどき設けたのだった。だが、敬之助にとってもっとも心を捉えたものは井汲唯一の良寛ヘの造詣の深さが、後々に敬之助の精神形成に多大なる影響を及ぼしたという点は、敬之助のこれからの行動を納得して頂く上で知っておいてもいい。つまり、人を救うことなしに悟ることはできないという事を教えられた。
 立石家、元は毛利の碌をはんでいた家柄であり、戦国時代、毛利輝元から武勇の功ありとしやして高五百石の知行安堵の感状と賞与の短刀を授けられており、毛利が右と言えば右と言う家風、京へ上る勤皇の志士に飯は喰わす、宿は貸す、おまけに路銀はくれてやると言う尊皇攘夷派だった立石家に一年間居る内に敬吉の真っ白の心は尊皇の色に染まっていった。その後、敬吉は倉敷村の大庄屋中島屋大橋平右衛門の所へ婿養子として迎えられることになった、大橋家と立石家、大谷家は横と縦に繋る親類同志、大庄屋同志でもあった。おけいと言う長女と夫婦になり分家、東中島屋大橋敬之助と名乗ったのは十八歳の時だった。文武に秀でていて育ちも良い、中島屋は良い婿を迎えたと、そりゃあ倉敷では羨望の的だった。だが敬之助は、正直の上に大きな馬と鹿を乗せたようなお人で、世間の冷たい風を少しは知っているが人を疑ることを知らぬ、人の難儀を見捨てておけるほどの勇気のあるお人ではなかった。敬之助は中島屋の菩提寺へ檀家としての供養も怠る事無くいたしており、月に一度は玉島の良寛縁の円通寺へ出向いて座禅を組むという生活を、この十五年間続けていた。 



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