yuuの一人芝居
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老いを書く 「麗老」 老いと死は何人にも平等にやってくる。おいてゆく体力のおとろえを感じながらどのように綺麗に老いを生きようとするのかそれが問題である。何人もそうありたいと考えているのだが中々うまくいかないのが現実なのである。人はあるところで諦観し定めの所為にしてそれに流されようとするものだが、決してそうではなく意外と定めを自らの意志で流れている人も多いものだ。流れているひとこそ定めに従順であると言えまいか。流されると言うことは受動的で、流れると言うことは能動的なのである。お天道様の贈り物と言って作物の生育をなおざりにしているようだが流されているように思えるお百姓の方も水をやり草を抜くのである。とするならばやはりそれは意志が働いていることになり、流されているのではなく流れていると言うことにかわならないのである。行うという意志の力が働いているかどうかで分かれるようである。 わたしは芸術家を遊び人と言うが、好き勝手なことをして生きていて人様のことなどほったらかして好き勝手にいきている、思考の中で何かを創造しながら自己満足の中で生きている得意な種族だが、思考すると言うことで流れていると思う。その人達の生き様を見ていて本当に幸せな人であると常々感じている。そのような生き方をしている人が政府から勲章を受けるというのは果たして妥当なことで満足いく心の満ち引きがあるのだろうかと思うとき、その人の生き方、生きてきた歴史を自分で褒め称えればいいのであって勲章など貰わずに過ごすことの方がいかに重要なのかと問いただすべきなのであろうと思う。まして「林住期」を生きている人ならばなおさらお断りをすべきことではないかと思うのである。思いを決めて生きている人が世間の悪戯や思いつきなどで心や行いを左右されることはさらさらないと言うことなのだ。俗世間に生き俗世間をいきている、そのことを忘却の彼方に押しやって自分自身の世間に生きなければ「林住期」を生きているとは言えまい。何もわたしの考えを押しつけようと言うのではないが、人それぞれであるからそれはご自由になさるといい。だが、それは麗老を生きると言うことでは否と考える。名をなし財をなし、それでも名誉が欲しいと言うことは人の傲慢ではないかと思うのである。そのような物は土に還ってからでもいいのではないかと思うのである。その時には個人の意志や思惑など忖度できないからなのである。人は名誉や財産が欲しくて生きているのではない。五木寛之氏の言葉を借りれば生きるために生きているのである。まして生活の為に生きるのではない。人の総仕上げの死を満足のいく様に近づく為に生きるのである。
2016年05月29日
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