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文学と言う謎の言葉 2016/8/24
「この娑婆には、悲しい事、辛い事が沢山ある。だが、忘れるこった、忘れて日が暮れりゃあ、明日になる…」
長谷川伸の「関の弥太ッペ」のなかの名セリフだ。
この言葉にどれほどいやされたことだろう。
私はこのような言葉が書きたくて、今まで沢山の作品を書いてきたのかもしれない。心に残る、いや遺すその言葉を…。
今まで生きてきてついぞその言葉以上に感銘を受け前向きに生きる上での励ましを受けたことがない。
私は一貫して物のあわれを書いてきたが、そこにはこの台詞が常に記憶の中から滲み出てきて書かせてくれたものだった。
時に、「関の弥太ッペ」を見ることがある。中村錦之助の名演技がさらに涙を誘うものになっている。
私も若い頃その世界にいたことがあるが、股旅ものをさせたら錦之助にかなう人はいなかった。今でもそれを超えた人はいない。なかでもこの作品は秀逸なものだ。台詞が生きいいる、これはなかなか出来るものではない。感情を如何に表に出さなくて人の心をとらえるか、錦之助だから出来たことだろう。
まず、それを言って、今の文学が意味のない事をつらつら書きすぎていることにいらだちと不満を感じる。
物を書くと言う事はその作品の中に伝えたいと言う気持ちがあってのことだろうが、それがなぜ伝わらなく書いているのか。書き手の未熟なのか、人間の心を知らない故なのか、また、そんな生活をしてこなかったという事なのか、書くことの必然がないという事に尽きる。
「この娑婆には、悲しい事、辛い事が沢山ある。だが、忘れるこった、忘れて日が暮れりゃあ、明日になる…」
長谷川伸はこの台詞を書くために「関の弥太ッペ」と言うやくざの世界の醜さや、義理と人情、対立を書いて物語を作ったと言えよう。
この二行の台詞のために作者はそれを貫通行動にして色々な反貫通行動を絡ませて書いた物だ。
私は、長谷川伸、山本周五郎の作品を好んで読んだ時期がある。西洋の古典物や、日本の純文学にもよくなじんだが、この台詞以上に感動をしたものはない。
日本人のきっても切れない人情が横溢している。また、池波正太郎の作品には江戸時代の人情風俗食生活が巧みに織り込まれていて、日本人の精神と感性、社会の成り立ちがよりよく伺い理解させてくれる。
長谷川伸には、「瞼の母」「一本が刀土俵入り」などの作品の中に名セリフが溢れている。
その言葉を読む人の心を震わせ心の糧にすべきものが多い。
山本周五郎の作品で一番好きなのは「日本婦道記」のなかの「墨丸」である。これは人が人を愛すると言う根源の在り方を書き現わしている。愛すると言う事はその相手の人の幸せを願う事なのだと作者は言ってはばからない。この物語はかなしいほどの美しさを漂わせている。
また、周五郎の書いたものが映画にテレビになって公開されたが、この人の作品ほど公開された作家の作品は見ない。日本人に馴染んだものだからだろう。武家もの、町人もの、歴史ものにも日本人の心情が満ち溢れている物が多い。稀有の作家と言えよう。
こうして見てくると純文学の小難しい表現になにを言おうとしているのか分からなくなる。
大衆、中間、純文学と分け隔たりをしているが、読む人に与えるインパクトは一番低いのが純文学であろう。
かつて持っていた日本人の精神と心得を思い出させてくれけるものが、本当の文学であろう、人間の側面、新しさをいくら書いても、その前に人間の本質を知らなければ何もならない事を言いえているのだ。
先輩たちが書き遺してくれた物を修学し、その上に新しい物を発見して書き現わす、今の人間、これからの人間の姿勢を書き現わすとしても、
「この娑婆には、悲しい事、辛い事が沢山ある。だが、忘れるこった、忘れて日が暮れりゃあ、明日になる…」
この台詞以上の物がはたして書ける人が出てくるだろうか…。
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