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Zero-Alpha/永澤 護のブログ
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宮永:そこは始まりじゃないですか?
萩原:ちょっと今の意見に一言だけ。この後、議論が混乱するといけないので。
宮永:どうぞ。
萩原:今のポストモダンの定義ですが、これはもうちょっと事態は複雑なので、その点だけ押さえておきます。絶対的なものに到達できるという考えというよりもむしろ、どこまでも真理というものは先に引き延ばされていく。それで、どこまでも進歩していく。こういう認識は、科学者の人たちには、比較的よく見られるものです。そして、そのような認識をする人の多くがポストモダンというものに批判的で、モダンに肯定的なんです。あるいは、科学者は自分たちの言説に関して、それがポストモダンというようには必ずしも認識していないかもしれない。しかし、思想的にその観点を見ると、絶対的なものへの還元や到達といったモダンの言説に対する批判という意味での、モダンの自己批判としてのポストモダンとしても捉えられる。こういうふうに、思想の中ではポストモダンと位置づけられますけれど、他の領域では、その見方についてもいろいろ変わってくるわけです。この点を押さえておかないと、全部包括してポストモダンと言ってしまうと、いわゆる科学論と科学との対立としての「サイエンス・ウォーズ」のような不毛な議論になってしまいます。だから、その点だけは整理しておいてください。
宮永:またちょっと難しくなってきました。質問したい人、質問して下さい。お願いします。できるだけ、素人に分かる言葉で言ってください。
後藤:この分科会自体がどういう方向に向かっているのか、というのが一番良く分からないんですけど。
宮永:どういう方向に向かわせたいのですか?それを言って下さい。
後藤:そうですね。それを皆さんから聞くのがいいのかな、と思うんです。
宮永:あなたご自身はどう思うのですか?
後藤:僕は、宮永先生の話を聞いておもしろいなと思いましたが、事実として他者を認識すること、というあたりがよく分からなかったので、そこをもっと知りたいというのが一点と。あと、良く勝つということ、というのがどういうことを意味しているのか、というのをもっと知りたいので、この分科会に来ました。そうした問題意識を皆さん持っているはずなので、それを出してからじゃないと分科会にならないのではないかと思います。
宮永:科学史の方はじゃあちょっと括弧に入れて頂いて、この後お休みした後はそっちに行きましょう。
確かに、事実をどうやって掴むかという話は、初歩的なところで止めておいて、それがグローバル化とどう関係があって、その中で私たちが良く生きる、ということにどう関係してくるか、という方に話を展開させたいとおもいます。その他ありますか?要望を出してください。
池松:先ほど、永澤先生が数値化された世界のお話をされていたと思うんですけども。実際会社に入ってみて感じたことですが、事実をもとに人を評価しようという意識はあると思うんです。ただ、その事実の評価のし方というのが日本ではちゃんと把握されていなくって、その状況で誰にとっても同じ価値を持つようなやり方で評価しようとする。それがきっと、数値化として表れてしまっているんじゃないかな、と思うんです。本当の事実と価値の結びつきというのは一体どういうものなのか、ということが今まで日本で生きてきた経験の中や、会社の中での経験からでは全然見えないんです。その結びつきが新たに見えてくるようになると、先ほど仰っていたよく勝つ、ということにつながってくるのかな、というのがお話を伺ってきて考えたことなので。その部分へお話をつなげられるといいなと思います。
宮永:この後、そういうのでやるかやらないか、こういうこともやってほしいという要望を皆さんどうぞ。マイク持っている方、どうです?
木下:まさしくその、事実と価値のところをお聞きしたいと思っていました。
宮永:どうですか?まだ何も仰っていない方、御願いします。
小川:私もこの分科会に参加したのは、グローバル化する時代の中で、そして日本社会で、生きていくために、個として自分自身に誇りをもって生きれる人間になるにはどうすればいいのかということに関心があったからです。また、個人的にですが、自分がどういう人間になっていくかという過程には、知の力や科学などが必要だと思っているからです。それを身に付けたいなと思って、ここに参加しました。私も、ここに来るまではあまり考えていなかったんですが、価値と事実の違いというのを、言われてみるとすごく納得できました。実際に自分がこの二つを分離するのはすごく難しいことです。そうしているようでいて、実はそれも自分が思い込んでいるだけで、分離できていないと思います。それを、できるかは分からないんですけど、事実と価値を分離するということができるようになるにはどうしたらいいかというのを、ここで教えて頂きたいと思いました。
宮永:どうぞ。
羽後:私も価値と事実に興味があります。グローバル化の中で、価値と事実を分けることができる人とできない人、また、それをしようとする人としない人との関係なども。そこの違いが、いわゆるグローバル化の中で、弱者と強者に分かれてくるということに関係するのかなと思いまして。その辺の関連性をお聞きしたいです。
粟谷:私も同じように、事実と価値のテーマに興味があります。先ほど、事実とは何かという点で科学の話を出されていましたね。確かに、科学というのはある意味で事実を証明しやすい部分があるかと思います。一方、宗教などでは、個々人の持っている信条によって事実が違います。今の世界にイスラム教やキリスト教徒という宗教が夫々事実として存在していて、それらはどれも価値と不可分のものです。そういう場合に複数の事実と価値をいかに見分けていくのかというのは、非常に難しい問題だと思います。今回この点についてお聞きしたいと思っています。また、「良く勝つ」ということに関しても、今は、良い人でなくても富や地位や名誉を得ることができる世の中が現実に存在しています。良く勝つことを本当の意味でどうすれば実現できるのか、とても考えさせられます。
宮永:榊原さん。
榊原:はい。私もさっき池松さんが言っていたように、事実と価値を分けるということ、そして分けた後にそれをどういうふうに使うかという、良く勝つというところに結び付けていく実際の試みに興味がありました。それで、ここの分科会に来ました。自分の人生をどういうふうに使うかという目的があって、初めてより良く生かせる自分の能力がある。目的によって、どんな能力が生かされるかが決まってくると思います。独り言になっちゃったんですけれど。後半はぜひ、自分のためにも良くて世界のためにも良いという選択を、どういうふうに生み出していくかということを考えながら、議論にもう少し参加したいです。
竹内:私は、自己を主張して今まで生きてきました。だけど、その自己、自己の主張というのが、決して自分自身の為のみの主張じゃなくて、やっぱり相対的に正しいと思われるだろう、あるいは人の役に立つであろうという価値判断の元に、自分を主張して生きてきたつもりです。それで、皆さんのお話をお聞きして、世の中が激しく動き世界がみんな変わってきてますね。そういう時に、あなた方がどういうふうに生きていくか、それをあなた方、やっぱり悩んでる、というのかな?自分を見つけよう、他者との関係を見つけようとしてる。若い方は頑張っているんだ。これからの時日を沢山もった若い方々が、ある意味で羨ましいです。
余村:宮永先生のレジュメの二ページ目に、「グローバル化に対応できる自己」の定義が書いてあります。私は日本企業に勤務する一社会人であり、「グローバル化に対応したい」と切実に願う自己である、と自身を位置付けております。企業という制度の中でどのように自己を支えていくか、試行錯誤する日々を送っております。また、外山さんのレジュメの冒頭部にあるような、ローカルな自文化の中で、自己の世界像を所与のものとして無自覚に生きている(ように見える?)我々の上司と向き合いながら、かつ業務上で自己実現を図ることは、企業人としてはかなり切実な問題です。この問題を解決することは、ある意味、企業の改革のひとつだと私は思っています。小さな一歩ですが、非常に重要なことだと認識しております。それぞれの組織内で小さな「改革」が実行できる一人となれるような皆様と共に、どういう方向性が考えられるのか、この場をお借りしてぜひ考えさせていただきたい、また少しでもそのヒントを頂ければと思い、今日は参加させて頂きました。
村田:今日は、非常におもしろいお話を聞かせて頂きました。事実と価値ということで、いろんな捉え方があるのだと感じます。先程、いろんな層があるという話がありましたが、事実をどうピックアップして、どう見せるかが重要で、そこからまた価値をつくることが出来るということを考えています。
宮永:その話は休憩の後で、ぜひ、また続けましょう。
村田:すみません。
高崎:私も村田さんが仰ったことに同感です。民族誌を書いている時は、私がその社会で見出した価値を、それを実証する事実を掴み出して提示したいと考えているのですが、できたものを読んでみると、事実を並べ立てておけば、自分に見えた価値を他の人も読み取ってくれるだろうといった書き方になっている。そこが私のジレンマです。
宮永:じゃあ休憩にします。
宮永:じゃあ村田さん、さっきすごくおもしろい話をしかけて下さったので、その続きでお願いします。
村田:今日は、すっかりオブザーバーのつもりでやってきました。すみません、ふだん自分の中にある知の層を全然運動させてないため、動きが鈍くなっています(笑)。
宮永:今日、いっぱい運動させてはいかがですか。
村田:既にある事実だとかデータだとか、その他にも見えてないものがいっぱいあるのですが、何かやりたいことがあると、その事柄についての関連する事実がいろいろ見えてきます。事実だけじゃなく、データも事実との関係の中で見えてくる部分があると思います。データもただそこに在るのではなく、使う人がどうピックアップするかによって全然違ってきてしまいます。ローソンの顧客データが外に不用意にあふれ出ていても、悪用する人もいれば上手に使う人もいる。実社会で仕事をしていると、上司もそうですけど今顧客が何を求めているか、その前に自分の顧客は誰なのか、明日の顧客は誰なのか、一か月先、半年先、一年先に顧客がどう変化するかを読むことが重要です。さっき先生が「他者がいる限り自分も変わらなきゃいけない」、とおっしゃっていましたが、企業でも最近はチームで動くことが多くなり、会社の中でも、チームの組成というのは目的によってどんどん変わっていくので、その都度の自分の役割や「自分だったらこれができます」という部分が求められてきます。それが、言葉であったり専門性であったりするのを、その時代に応じてうまくチームの目的にフィットさせながら、新しい価値というか新しい事実というか、これら二つを含んだ見せ方を常に意識した拾い方をしています。この点は、今日お聞きしてて考えていた処です。それと、もう一点は、他者にもいろいろあるということも。他者の層がいろいろある。またこれもちょっと散漫で、あまり学問的じゃなく、感想的で恐縮ですが、今はどの他者をターゲットとしているのか、自分が今いる組織も、誰が今キーパーソンなのか、その人の寿命はあと何年なのか、その次は誰なのか…。そして、その変化の中で自分もやっていくのだということ。別の方のお話で、「村の中で、その中の自己、その村の社会にある自己だけを変えるのでは、自己全体を統合的に変えることができない」とありました。最近、ヘッドハンター達がよく言う話なのですが、自分、自己をいつも六分類なり八分類なりに分けていって、一度にいろいろなことは出来ないというのです。会社の中の自分とか、家庭での自分だとか、趣味の自分だとか、一度に注力することができなくて、その中で少しづつ自己変革をしていくのかなと考えています。散漫で申し訳ありません。
宮永:その分かれている自己が、構築された自己なのかしら?それとも、自分が分けてしまうのですか?それが構築する主体なのですか?それとも、主体の持ち方ですか?
村田:自分自身というのは、コアとしてあるのかもしれません。自分自身を形成しているのが、会社人である自分と趣味をしている自分と…、そこにコアがあって、それは何かに一生懸命になっている自分かもしれません。それぞれの自分は、つながってる部分もあると思うんですが、それは現象として構築する分野が異なっていたり、TPOで用いるツールが違うのかもしれないですけど。会社ばかりに一生懸命になっていたのでは、なかなか強い自分というのができないなと思うときもあります。そうしたら、MBAスクールに行ったりだとか、何か別に趣味を持ってそれにすごく詳しくなるとか。そういうところで、「ああこの人はこういう一面もあったのか」とアピールすることにもなります。またそれが、何からの形で会社の自分にはね返ってくることがあるわけです。
竹内:でも、私は思うんですけど、私たちって一人の個体であるけど私たちの中にはいろんな部分があると思うんです。あるときはそこを膨張させたりあるときはしぼませたり、それは外側との条件でいろいろ変わる。だけどその中に、コアになる部分に自分は何をもって生きていくか。自分自身がこれを大事にして死んでも渡さないという何かをもっていれば、私は七変化したって八変化したって、そのコアの部分に世界を制覇しようとか、人類を抹殺しようとか、そんな悪しきことじゃないコアをもっているのであれば、私はいいと思うんです。だから、私はすごく曖昧模糊で間抜けのBなので、どうとでも変わっていくと。でも本当のことを言って、この歳まで生きてくると別に歳とってるのをいばってるわけじゃないですけど。やっぱり条件によって自分を変えていかないと、その中で生きていけません。でもゆずれない(一歩たりとも)どうしてもゆずれない時は、私は辞めました。だから、七か所とらばーゆしました。
宮永:あら、そうなんですか?
竹内:先生、知ってらっしゃるんじゃないかしら?ここでお芝居したりして。だから、こちらの方の仰ること、すごく良く分かる。上司をどう教育するか、とか。上司なんて教育できないって…。今の上司はどうか分かんないけど。だから、現実に生きてらっしゃる、十年間社会に生きてらっしゃる方とあなた方は幸いにしてまだ研究室的なムードというのかな?私もずっと研究所にいましたから。シャバは違う、本当にシャバは違う。
宮永:これという自分、というのは、価値でしょうか、事実でしょうか?
竹内:どうなんでしょう。その価値というのが…というか、価値って何ですか?人に値段を付けてもらうんですか?
宮永:いや…、だから難しいんです。
竹内:そうじゃないと思う。相対的なものかもしれないけど、自分は…。自分の価値を人がつけるのか自分自身がつけるのか。社会に向かって何かを言う時、例えば詩人であるとか絵描きさんであるとか。そういうのだったら価値は社会が付けますね?自分はいくら上手いんだ上手いんだって言っても、多くの人たちが認めないと価値は付けてくれない。それと、仕事仕事によって…だから、価値の付け方って…どうなんでしょう?皆さん、どう価値つけていますか?
村田:でも常に、他者に価値付けられている中で生きているわけじゃないですか。
竹内:そう、逆にね。
村田:自分がいいと思って作った製品で、絶対すごいのに、時代を先取りしすぎて誰にも分かってもらえなかったとか。今の話は、製品のことですが、そうでなくても、やはり会社の中でも自己の評価と他者の評価にあまりにもギャップがあって、それを埋める作業をしないない人は、だんだん引きこもりがちになるとか。そういう意味では、常に他者からの視線や他者との関わりの中での自己を意識するというのがあると思います。
竹内:意識しなきゃいけない…。
村田:いやおうがなく、他者が見ている鏡を見ながら毎日生きている、ということ自体が個人でもあり会社なのかもしれないです。
池松:その、価値の付け方についてなんですが、先ほど、先生が「価値って何でしょう?」と仰っていたと思うんですけど。価値の付け方について、今すごく社会自体が悩んでいるんだと思うんです。出版社にいるんですけれども。今出版不況の中でどうやって業績をアップするかが常に課題としてあって、システムとか会社の組織自体を何度も変えるということが、入社して一年でありました。で、人事システム自体を変えようという話になりまして。その時に一番問題にされたのが、どうやって個々人を価値づけしてきちんと正当な評価を与えるかだったんです。社長自身も「今後人事考査を公正に行います」と発言していたんですけど、その公正さというのが、日本人にとってはきっと数でしか表せないという、今の時点ではそういう現状になってしまっているのかな、と思うんです。ずっとお話を聞いていて、そうではない価値の表現の仕方がきっとあるんだと思うんですけども。それが今の時点では見えていないような気がするんです。なので、模索はしたいのですけど、一体それは何なのだろう、というのが正直なところです。
粟谷:先ほどのコメントでも結構、「日本は」という話がありましたが、海外と日本が違うのかという点に私は疑問があります。その辺りの違いをどう認識されているのですか。
池松:私は日本の企業でしか働いていないので、日本のことしか分からないんですけれども。大学の時に何度か習って、まだ理解しきれてはいないんですが、アメリカ型のネットワーク社会というのが、日本社会とは別のモデルとして存在しているという意識があるんです。それで、「日本では」という言葉が出てしまうのかもしれません。先ほど村田さんが「今チームとして働くことが多い」、と仰っていましたが、常に新しいチームを作り出すことのできる社会ですよね。ある種の目的に応じて人が集まってきて、その目的に応じた自分の役割を見出すことができて。で、その一つの目的に対して動いていく。決してソリッドでなくて、フィックスしていない。企業という組織の中でも、目的に応じて常に流動的に次々新しいものが組成されていく、という。そういう社会がきっと必要なんだと思うんです。
宮永:どうです?本当に、言いたいこと全部言って下さい。
粟谷:ネットワーク社会では、例えばNPOやNGO等の組織団体のように、従来の会社の事業部制のような組織ではできない横断的なプロジェクトをやる時に有効に機能すると思います。しかし、どのような組織が有効かは、仕事の内容によって様々で、例えば工場労働のような知識と経験の要求される仕事では、その場で与えられた作業を忠実に遂行することがその人の仕事であり役割であると思います。だから、ネットワーク社会ももちろん重要ですが、それは従来の組織体と両立していくものだと思います。それは外国でも同じだと思います。工場労働でなくとも、大企業であれば縦割り社会が結構あるという話を聞きます。いわゆる縦割りにも良い面と悪い面があって、それはネットワーク的要素を取り込みつつ徐々に変わっていくのだと思います。出版社でもネットワーク的要素を求める要件が出てくれば、それによって体制も変わっていくのではないかと思います。
池松:そこでの個々人評価の仕方なんですよね、私が興味を持っているのは。両立していくべきとか、そういう考え方も分かるんですけど。先ほどの、一番先生のお話の中で事実と価値の関係というのがすごく私の中では興味があって。やっていることはもしかして同じなのかもしれないけれども、それに対する価値づけの仕方というのが今模索されているんじゃないかな、というのが疑問点としてあるんです。
榊原:そういう個人的な興味をこえて、もう社会の状態として、事実と価値がずれているぞということが、もう生活のレベルであります。例えば、子育て中のお母さんとかが…。
宮永:例えば?
榊原:例えば、私は自分に実際に子供がいて、英語の教室の先生を今やっています。それで、小さい子供を持っているお母さんたちと話す機会が多いんですけれども、お母さんが共通して持っている問題として、自分の親に教わった子育てを今やろうとしてもうまくいかないということがあります。子供はこういうふうに育てるべきだとか、こういうのが良い子だっていう価値は、すごくずっと固定して持ってるんですけが、何かそれではうまく対応できない事実が出てきちゃった。それで、これは何なんだろう? 自分はこれが絶対だと思い、自然だと思っていたのに、どうも何かうまくいかないということを体験しているんです。
宮永:その何かうまくいかない例を。
榊原:例えば、「子供は親の言うことを聞かなければいけない」というふうに思っていたのに、「もっと子供を伸び伸び育てなさい」と、ある習い事の先生に言われたとか。
宮永:でもそれは、価値が崩れただけの話じゃない? 価値と事実がずれたと仰っているのでしょう? どこが事実でどこが価値ですか?
榊原:そうですね。そこが確かに混乱しています。新しい価値が出てきて、自分の持っている古い価値ややり方では、その新しい価値に対応できなくなった。ごめんなさい。今、事実っていうのはちょっと間違いで、価値と価値がぶつかってしまった。古い世代の価値と新しい世代の価値がぶつかってしまって、そこで今まで自分が自然にやってきたやり方ではうまく乗り切れない現実にぶつかってしまった。というときに、じゃあどういう価値を模索すればいいか、自分を変える必要がでてきてしまったけれど、どういう方向に向かって変えたらいいのか分からない。新しい価値に適応しようとしてできる人は良いけれど、それがなかなか。それは、自分のいろいろな個性と結びついているので…。
宮永:ちょっと質問ですけど、新しい価値にどうして適応しなきゃいけないのでしょうか? 古い価値のままでいいでしょう?
榊原:例えば、古い価値のままでも良い部分もあるし…。
宮永:さっきのだったら、別に古い価値のままだっていいじゃない。
榊原:そうですね。
宮永:だって、「もっと伸び伸び育てなきゃダメよ」、と言われて伸び伸び育てようとしたら、今度は、誰かが「そんな自由放任はダメよ」と言ったらどうする? 私、子供を育てた時に育児書読んだら、「おむつは度々かえなければいけない。なぜならだらしない子供になるから」と書いてあるんですよ。それで次の行に、「あまりかえ過ぎると神経質な子ができる」...じゃ、どうすればいいの。かえてれば、誰かが来て、「そんなにかえちゃダメよ。」かえなければ、「もっとかえなきゃダメよ。」って。
黒田:だから、伸び伸びと厳しく、というのは古いか新しいかの問題じゃなくて、子育てに関して永遠にその両極の間を揺れ動く「悩み」ではありませんか。
宮永:価値が問題ならば、それは価値の序列というか、こっちとこっちと両極端の間をどこをとるか、ということだと思うんですよね。事実というのは、この価値のスケール自体を疑問視するということ、だと思うのですけども…。
後藤:例えばそれは、今の子育ての例で言うと、そこにある価値のスケールを相対化する事実というのは...
宮永:竹内先生の…、お医者さんでいらっしゃいますよね?
竹内:すみません。私、子供育てたことがないので。すみません、だから役立つ発言はできません。
宮永:うちも医者だったんです。私が子供の頃から自然だと思っていることを、他の人は自然だと思ってない。それが事実性なんです。医者だと、この薬は素晴らしいと思いたくても、本当に素晴らしくなければ患者は死んでしまう。事実性ということが生死に直結している。思いこみをできるだけ排除する。それで、もうそういうのに慣れてたから、価値性ばかりの集団というのは、私は最初から「ええっ」、と思っちゃうんです。本当のことを言うと「生意気だ」と言われることがあるかもしれません。でも、医者だったら、「生意気だ」ではすまない。
アメリカに長くいて日本に帰ってきてから、アメリカだったら事実的にとってくれたところを、「生意気だ」になることがあることに、よく気づきました。例えば、言ってはいけないということがある。言えない、というのは、こっちが価値を先取りして、保身してるから言えない...とすれば、自分も積極的にその価値を共有してるわけです。ところが、アメリカで何をやっていたかな、と思い出すと、「これは事実だ」と主張することで勝つことが多かった。向こうがそれを受け入れるわけです。長い目でみて、事実的な人たちが勝つと、むこうも思ってる。事実的な判断を下す人が、上に立っていることが多かったという、印象があります。究極的には。それは良く勝つというのに関わってくると思います。
ところが日本の場合は、私、気がついたのは、説明すればするほど状況が悪くなる。これは2つ理由があるんです。1ひとつには、価値的だから、事実の説明をしてるのに価値的なストーリーを作られてしまう。そこに、今度良く生きようとするんで。良い悪いっていうのは価値ですから、ここでまたストーリーが出てきちゃう...すごく難しいものなんですね。ここにある事実性は何か、と推理して他者を理解するのではなくて、非常に価値的なストーリーに流れていってしまう。事実性って、掘り起こさないと、出てこない。「この人は良い人で、あの人は悪い人だ」という価値のほうに話がどんどんいっちゃうんです。
もう一つは、事実を探究するっていうことが基本的に知的な行為だと思うんです。日本は、必ずしも社会制度が知的なものの上に乗っかってなくて、情の上に乗っかっている。漱石が言ってましたけど「知に働けば」ですね?
竹内:そうそう、「角が立つ」。
宮永:で、「情に…」。
竹内:「情に棹させば」。
宮永:情に棹さして、みんなで流されている集団の中で、知に働くということがいかに悪いことかっていうことは、よく分かりますけれど。
竹内:漱石の以前から以後もずっと変わっていない。知に働いて日本で生きるにはとても難しいですね。
宮永:「情に流されていって沈没するな」と思うから、それを止めようと思って知に働くと、すごくまずいことになっちゃうわけです。そうすると、大学教育って何を教えればいいのか?大学というのはもともと知の集団です。知を教えます。知で勝つことを教えるんだけど、どうも自己矛盾が激しいんです。それで、ちょっとお休み頂いてずっと考えてるんですけど。難しいですね、なかなか...どうしたらいいのか...
オックスフォードに行った時に、ある方に、「事実性が足りないからとても悩んだ」と言ったら、「あなたがいたところは本当にこことは違う、と話を聞いてて思いました。ここは非常に事実的な集団です。」とにこやかに、言い切られたのです。「ああ、こういうことの言える人がいる、こういう集団に率いられている、知的に率いられている国、あるいは国々と、私たちは情で対抗しようとしているのか。それがグローバル化なんだ。」と思ったら、それだけでがっくりしました。
粟谷:その事実的な社会を作っている基盤として、アメリカなどは何があるんですか?
宮永:科学じゃないですか?科学的思考じゃないですか?
粟谷:なぜ、アメリカでは科学的思考が生まれて、日本では生まれないのでしょうか。
宮永:...「なぜ」に答えるにはいろいろな答え方がありますけれども。私はもう、それは「なぜ」というレベルじゃなくて、事実というものに執着するというのが西洋人の...
竹内:そう、血肉になっている。
宮永:そう。だから要するに、西洋人はなぜあそこまで事実に執着するか、ということがわからない。だって、...レオナルド・ダ・ビンチでしたっけ?...あの時代に、人体が知りたいと言って、夜中に墓地に行って掘り返してきて、その人体を持ってきて解剖するなんてすごいこと。今だって私恐いですよ。そんなことできない。「これは医学だから」、とか言われて...医学、という...
竹内:知りたい、ということでしょうね。
宮永:そうですね。でも、医学という何か...私は、お墨つきを持ってやるわけだけど、当時はそれが無いわけでしょう?全然無いわけです。事実を知りたいっていう執着だけでしょう?あれはもう、教会からみたら悪魔の執着としか思えなかっただろうし、時代からみれば、狂気ですよね。
外山:やはり、教育で価値ではなく事実を重視するべきだということを教えていくべきだと、これから…。
宮永:これから、ね?
外山:ええ、これからです。現在でも、ある程度はそのような教育がなされています。例えばテストをするなり、教師が生徒に質問するなりして生徒の理解が正しいか否かが問われてはいます。しかし、日本の学校教育で一つ問題だと思うのは、正しいか間違っているかしか問われないことです。確かに正しいことも重視すべきなのだけれど、もうひとつ、自分が間違っていたと気付くことにも価値をおくべきだと思います。
自分が間違っていたと気付くことに価値をおかないと、自分が間違っていそうだと気付いた時点でその生徒はすごく不安になるわけですよね。すると、その生徒は屁理屈をこねてなんとかして自分が正しいことを繕おうとする。つまり自己批判をしようとしないのです。「自分は間違っていた、こっちが正しかったんだ」という、自発的な発展の方向に進まないのです。これは実際自分が人に教えているときでもそう感じるときがあります。
まとめると、正しいか間違っているかという事実性を重視することは必要ですが、もう一つは、自分が間違っていることを気付くことも重視すべきだと思います。それが内発的な発展の契機となるからです。
宮永:自分が間違っていると気付いたとたんに間違っていない、と言い出す人というのはたくさんいるし、間違っていると気が付いたとたんに、相手に向かって怒り出すっていう人もいますよね。でも、それをしなくなる契機って何でしょうね?
萩原:今お二人の仰ったことに付け加えると、まず宮永先生が言われていたヨーロッパ世界での知に対する関わり方ですが、これはやっぱりキリスト教の影響を無視できないと思うんです。ご存じのように、キリスト教の世界というのは、伝統的に自然界の秩序や構造を探究することと、聖書を読むことは、神の意図や計画を理解する営みとして、並行的に捉えられていました。そういう意味では、信仰と知の探究が、社会制度の中で不可分な形で成立していたと思うんです。先ほど出ましたレオナルドにしても、彼の生きていた時代というのは、現在のように「科学」つまり「分科の学」というようには、それぞれの学問が分かれてなくて、今で言う人文・社会・自然どれもが、キリスト教の包括的な世界観の中で知の体系としてあった。近代化の中で世俗化が進み、科学が誕生してからも、信仰に代わって理性が位置づけられたとはいえ、真理の探究という知の在り方は、そのまま維持されてきました。それどころか、専門家集団においては知の制度化が進行していったのであり、二十世紀には知が社会的な利害と不可分になるという傾向が顕著になりました。
その一方で日本を見てみると、例えば偉い人が言ったから正しいとか、これは学者の言うことだから正しいけれども庶民の言うことは間違っている、あるいは政治家に任せておけば良いといった意見が、今でもよく聞かれます。それから、海外から近代的なものを取り入れると、それは外部から来たものだから正しいとか間違っているとか、そういうふうにして外部からのもの、あるいは上からのものを受けとめる。それに対して自分がどう関わるか、という自己批判力が欠如しているんです。社会がそのような形で運営されてきたから、自分がその文化に生まれ育っていく中で、そういう態度を既に身に付けて、それで成長してきてしまっているという経緯もあるでしょう。しかし、だからこそ、再帰性に関する批判的な観点が必要なのです。もちろん、日本文化と言っても中身はいろいろ多様ですけれども、ただそういった姿勢というものに対して、現在の社会がどういうふうに取り組んでいくかということは、一つの課題ではないかと思います。
竹内:明治維新やなにかの時に、近代化というんですかサイエンスも入ってきた。なぜ、日本人は変わりえなかったのですか?私そこがわからない。
宮永:そう、漱石でさえ最初は個の可能性みたいなことを言ってたのに、しばらくすると則天去私になっちゃって救われちゃうというか。...本当はそうじゃなかったかもしれないけど…。
竹内:なんででしょうね…。
村田:偉くなってしまうと、ポジションを守るというのが第一の目的になるのだと思います。若い頃、革命の獅子だった時代は自己実現・再帰性に燃えていたけれども、自分が偉くなるとなかなか自己実現を続けることは難しくなるという精神構造に、一部原因があるのではないでしょうか。
竹内:じゃあ、なぜその精神構造はできたのですか?私にはわからない。
村田:それは、常に上が変わらなきゃいけないというか…。現状を正確に認識して、戦い続ける訓練をしなければ、赤いスペードに見えるようにならないというか。
竹内:だから、結局根本的に、日本にはキリスト教というのはなかったわけです。全然違いますでしょう?はじめに神道ありきで、その後仏教ありきで。神道は日本のものだったかもしれないけれども、一種の多神教でしょう?どこにも…なんでしたっけ?多神教、アニミズムがあったわけです。それが一神教になってゆくわけじゃないですか?なぜ、日本はあるときまでずっと多神教で明治頃になってポッと…。私はわからない…。
黒田:哲学者の三木清がドイツ留学時代にドイツの新聞社からのアンケートに答えた原稿があって、「日本の社会学の発展を阻害しているものは何か?」。彼は二つ答えてます。ひとつは天皇制。ひとつは仏教の自然観です。その彼が最後晩年死ぬ直前にやってたのが親鸞の研究で、やっぱり日本の仏教の中で唯一自己否定を内に持っている親鸞の研究を多分発展させたかったんだろうな、と思います。その途中で終わっちゃってますけれども。実は歴史教科書問題で数年来いろんな仕事をやってますけど、ひとつおもしろかったのは教科書をいろいろ比較してみたことがあって、外国の教科書をです。その最後に日本の歴史教科書も比較をやってみました。実におもしろいことは、内容的に比較的左翼的な教科書であれ、ちょっと右寄りの教科書であれ、天皇制を教えないんですよ。いろんな事件に天皇がどうからんでいるかぐらいのこと、「何なに天皇の時代だ」というのはあるけど、天皇制がどういうものであるかということを教えないんです。それは、最終的には子供の自己判断だから肯定しても否定しても良いとは思うんですけど、少なくとも日本の歴史を教える以上、日本の歴史の中で天皇制というものがどんな役割を果たしてきたか、そのことを最低教える必要があるはずなのに、どの教科書を見てもそれが無いんです。だから、天皇制を相対化することの基礎的な訓練が欠けてしまいます。よっぽど大学でも行って歴史を勉強すれば別ですけれども、ほとんどの日本人はやってないんです。だから、聖書のことを教えているけど、キリスト教会の構造を見ていると、「あれ?これ天皇制じゃないの?」っていうことはいっぱいあります。牧師さんと話してると、どこかにその牧師さんが仰ぐ天皇と思われるような人物がいるというように、そういう権力関係の中でずっとこちらに接してきてるっていうのをよく感じることがあります。
外山:日本に自己批判の伝統がないというのは、日本が他者とぶつからなかったからだと思います。西洋では、今に至るまで数えきれないほどの異文化衝突が起きています。しかし日本では異文化衝突はほとんど起こっていません。確かに異文化の流入はあったけれども、それは中国からコンスタントに穏やかに伝わってくるものであって激烈な衝突ではなかったのです。そのことが日本に自己批判の伝統がない一つの理由としてあげられるかもしれません。
萩原:丸山眞男はかつて、「歴史意識の古層」という概念を掲げました。古層を支えているものとして指摘されるのは「自然」、「じねん」と読むわけです、「おのずからそうなる」。外部から異質な文化を取り入れていく過程で、日本の歴史意識を支える通奏低音として、変わることのない古層の構造があるから批判的な契機が乏しいのだと、丸山は言います。ただし、ここで話は終わらないと思うんです。村上陽一郎先生はかつて、「和魂X才」という表現をなさったことがあります。和魂洋才なら「洋」というように、「X」の所にいろいろ入るわけです。日本が和魂という固定的なもの、何か自分たちにとって不変なものがあるかのように想定して、他の文化を摂取する。けれども実際には、従来の伝統が他の文化と接する場面では、異質なものの認識という行為において、必然的に何らかの知の組み替えは起きているわけです。つまり、伝統の再帰性です。それにもかかわらず日本の場合には、不変の和魂という概念が存在し続けるかのように言われてきました。これはある種のイデオロギーであり、この点が村上先生の問題提起のポイントです。
丸山の場合には、戦時中の彼の議論はナショナリズムとも結びついていたわけですけれども、日本が西欧諸国との関係で不利な位置にあって、その中でどのようにアイデンティティを維持していくか、そしてどのように対峙していくかという問題意識がありました。そういう中でつむがれた丸山の思想においては、「古層」という概念は、一見すると日本の伝統を批判しているようであっても、和魂という概念の性質を十分に捉えきれていないために、結果としてナショナリズムのイデオロギーを支える役割を果たしてしまうのではないでしょうか。今まで言ったことをまとめますと、日本の文化パターンの根底に、不変の和魂があるという議論においては、何か変わらないものが存在するという認識を自明視してしまう。こういった風潮があるからこそ、日本は自己批判力というものに対して目を向けることが少ないのではないか、と考えることもできるでしょう。
池松:何か新しいものに出会ってその説明をしようとすると、価値を語るストーリーになってしまう。日本の場合は、分析じゃなくてストーリーテリングなので、何でも吸収することができてしまうんだと思うんです。その場合っていうのは、その吸収する対象をきちんと分析しているのではなくて、善悪とかそういう価値付けを行っているだけ。私は卒論で妖怪をやっていたんですが、まさに妖怪だとかってそういう説明が付けば社会に吸収できてしまう存在なので。で、一見新しい事実のようなものに出会って新たな価値というのは生まれているように見えて、実はそれまでのものがどんどん肥大化しているだけの文化なのかな、とかそういうことは思いました。
宮永:飛躍して言っちゃうと、批判力がないということは要するに他者を認識することができないということ。で、他者を認識することができないっていうことは事実を認識ができないということ。これを今まで論じてきたわけですけど、その先にちょっとまた飛躍してしまうと、認識できない理由っていうのは、抽象能力がないからだと思うんです。
バリッジ先生はカトリックですが、なぜユダヤ教の神が抽象かっていう話をしてくださった時に、すごくおもしろいことを、ユーモアたっぷりに仰ったんです。「あの時代というのは部族間で抗争があった時代で、要するに、相手の神を奪ったほうが勝ちだ。抽象の神は奪えない。そういう神を発明したユダヤ人はすごい。」 自分はクリスチャンなのに、そういう言い方をするわけです。そこがやっぱりオックスフォードなのかもしれない。
日本は明治以来抽象を輸入しなかったと思う。それ以外のものは全部輸入した。しかし、西洋が抽象能力を駆使して作りあげた産物は、非常に上手に取り入れたわけです。だけど、それを生み出す力である抽象は、何ゆえか輸入しなかったんです。多分バリッジ先生が仰るように、見えなかったから相手の神を取ることができなかったんじゃないかと思うんです。
抽象っていうのは何かって言ったら、別の言葉で言ったら、構造とか関係性とかってそういうことです。でも、日本人に関係性って何かって言ったら、「上司と部下の関係だからあなたと私の関係であなたも具体、私も具体。それで、感情も行為に表せるからこれも具体。で、実感するから、これも具体。」っていうふうに考える。
そのメリット、デメリットが、グローバル化で問われてると思うんです。グローバル化っていうのは、極端に言えば、仮説を立てるとそれを、実現することができるような、妙な状況にあるわけで、例えば、タテ社会が嫌だからじゃあネットワーキングしようかと思えば、ネットワーキングできるわけです。その時にネットワーキングっていうのは抽象能力を要求する。インターネットの使い方だって、西洋人と日本人と、メールのやりとりだって、全然違いますよね?あのパターンを分析したら、面白いことが分かると思います。どこが欠けてるかが分かると思うんです。欠けてたらそれを補うような仕方でやれば、良く勝つんだと私は思うんです。
で、「良く」っていうのはもうこれは価値ですから、それは最終的に「私」が判断する以外ないんですけど、その良いっていう価値を、事実的につくりあげることができるか、それとも単に幻想の中で「私は良い人間だ」って自己満足に陥ってるか、そこは違う。その価値に対して、一番最初に異議申し立てをするのは、上司だったり部下だったり奥さんだったり旦那さんだったり子供だったり親だったりするわけです。身内や仲間が、他者として現れるわけです。
情しかなければ、もう好きか嫌いかしかないから、自分を不快にする人間は皆悪でバイ菌だらけっていう感じになっていくわけです。だから、やっぱり法とかルールとかこういうものを、これは本当に抽象能力がなければ出て来ないものです。流動しているグローバル化の中で「抽象がどうしても必要だ」っていう人が増えてくれば、しかもその人たちが良く勝つことができて、その周りの人が皆ハッピーになってくような、そういうことを考え出せばいいんじゃないかな、と思うんですけど。で、ありえないことじゃないと思うんです、いろんなことできるんだし。そうしないと世界は悪くなるばっかり、っていう感じがするんです。机上の空論じゃないと思うんですけど。難しいけれど。でも人生はどこ行ったって難しいですよね?
まず赤いスペードになってみるっていうのを提唱したら、ごりごりの構造主義者から「それはアナーキズムだ」とか言われて、反論しました。議論が起きることは、いいことだと思うんです。とにかく話し合いができるっていうのは、どんなことでもいいと思うんです。だから、「アナーキズムだ」って言ってくれれば、「そうではない」って言えるわけだし。それは事実性を追究することでもあるわけです。話し合いができるような根拠を、いつも考えていけばいいわけでしょう?難しいということと、だめだということは、やっぱり三歩違いますよね。三歩の違いは大きいです。
竹内:でも、私ね、このごろの日本の社会みていると、何か恐くって。若いかたは何も割に言わないじゃないですか?アナーキズムになってもいいし、「赤いスペードおかしい」って言ってもいいし、言わないのね。で、私ここに来て、少し安心した。皆さんがいろいろ言われて安心したんですけど。このままでいけば、「右向け右」って言えばそのままずんずんついてく人たちが増えるんじゃないかなっていう、すごく心配なんです。私たち軍隊に行くわけじゃないから、「行ってらっしゃい」って若い人たちに言えば済むんだけどそれでは済まない。私、日本って国あんまり好きじゃないんです、本当のこと言って。だけど、どこに行っても私の背中には日の丸の旗がついている。そしたらやはり、日本、しっかり残ってほしいし。そしたらお金だけ出して世界の政治に口も挟めない、そんなみっともない政治家に生まれてほしくないし。若いかたたちにもっとがんばって頂きたいと思うの。情けない。
===== 休憩 =====
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