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Zero-Alpha/永澤 護のブログ
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東京犯罪被害者支援センタ-機関紙NCCD原稿
【「死刑制度」試論】
私は、「死刑」の執行を、国家が命ずるその都度の殺人であると考えている。まず、このことを心に留めておくことから、この試論を始めたい。さらに、私は次のように考えている。即ち、「死刑」という国家制度は、太古より受け継がれ、そしてなお未来へと生き延びようと欲している。それは国家によって保証されているために、放っておけば、際限もなく《殺される者たち》を増やしていってしまう。それに対して人々がはっきりとした認識を持つこともないまま、いつか国家が自発的に「死刑」の執行を止めるなどということがあるだろうか? 残念ながら、そのようなことは考えにくい。そして、「死刑」という国家制度を我々が是認し続けることは、この制度によって殺される者たちを「社会」から抹消するばかりか、この殺される者たちによって「殺された者たち」をも忘却し、同様に「社会」から抹消することである、と。つまり、「死刑制度」は、国家による「被害者
たち」の忘却命令でもあるのではないか。
「死刑制度」は、《復讐原則》、つまりあのハンムラビ法典(BC.1760)以来はっきりと成文化された「目には目を、歯には歯を」という掟によっ
て正当化されているように見える。人類の「法」は、いくつかの先行する業績を総合的に編集する形ではあったが、「メソポタミア世界全域を対象とした普遍性を持つ国際法」として、ここから明確な形を取り始めた。この掟の極限は,「死(をもたらした者)には死を」である。しかし、この原則の意味をよく考えてみよう。この原則は、殺人に対して《新たな殺人》を《正当な報復》として正当化するものである。ある種の殺人を特権化すると言ってもいいだろう。即ち、殺人そのものは、無条件に《悪》とされ
てはいないのである。
一般に、「死刑制度」を擁護する立場から、殺人は無条件に《悪》であるがゆえに殺人者は「殺されるべきだ/殺されても仕方がない」といった論理が語られがちである。しかし、この論理は自己矛盾しているのではないか。「死刑」の執行は、ある種の条件のもとでの「殺人」である。この「死刑」の執行によって殺人者を殺してもいいのなら、殺人は決して無条件に《悪》とされていたのではなく、もともと(太古の昔から)「死刑」という
形で殺人が許されていたことになる。
国家の絶対命令によって、不可避的に「死刑」の執行、即ち殺人という事態が生じる。もし我々がこのことを是認するのなら、我々は国家の絶対命令による戦争犯罪を問う根拠をも失うのではないか。
ここで、国家による「死刑」の正当化とは一体どういうことなのか、改めて考えてみたい。私の考えでは、「死刑」の正当化とは、あくまでも「報
復としての殺人の正当化/特権化」であり、それ以外の何ものでもない。そしてこの「報復としての殺人」は、ただ国家による「死刑」の執行とい
う形だけを取らなければならない。
ここで重要なことは、国家がこの殺人を一手に引き受け、報復の《唯一の代理人》という地位を占める、ということである。言い換えれば、国家
は唯一報復を許された代理人として自らを正当化する。同時に、「国家」以外のすべての者は、「自ら報復すること」を国家によって《悪》として禁じ
られる。
だとすれば、「死刑制度」の正当化を国家の替わりに行うこと、言い換えれば「死刑制度」を擁護することは、本来倒錯したことなのではないか。
本来国家こそが、この正当性を何とかして「社会」に説得しなければならないからである。
では、一体どのような説得なのか。「死刑」は、今や容易には擁護し難くなっているのではないか。このことを国家はどう説得しようというのか。先に私は、「死刑」という制度は太古より受け継がれてきたと述べた。「死刑」という制度が陳腐なだけ、それを正当化する説得の言葉も我々にとって同じくらい陳腐なものとなる。つまり、“死刑という制度が正当化されるのは、ひとえにこの「社会」の安定のためなのだ”、という説得である。
ここで、この説得がいかに恐ろしいかということを心に留めておきたい。なぜなら、この説得は容易に次のような説得、あるいはほとんど脅迫へとその姿を変えるからである。即ち、「社会全体が迷惑を被るより、少数の人間を死刑にするほうがいいではないか」、という説得である。しかも、国家によって利用される説得の材料には事欠かない。
ここで、我々の生きる社会に眼を向けてみよう。いつの時代でも、「社会」の崩壊に対する人々の漠然とした、あるいはあからさまな恐怖が消えてしまうことはない。おそらく、そのような不安や恐怖は今や増大している。ある特定の利害または意図によって、「国家の破滅」を声高に語る者も多い。だが、人々がそのような不安や恐怖を「誰かのせい」にしようとする限り、身代わりの犠牲としてスケ-プゴ-トが選別され続けることになる。こうしたことは、あまりにもありふれたこと、我々の日常でさえあるのではないか。
では、スケ-プゴ-トとして選別されるのは、一体どのような集団なのか。の集団こそ、《マイノリテイ-》と呼ばれてきたのではないか。現実に、最も豊かな者たちと最も貧しい者たちの激しい分裂によってこそ、「社会」は崩壊の危機に瀕する。そのとき駆り出される者たちは、常に《抹消の対象》となるのである。このようなテ-マに直面すると、我々は、「魔女狩り」やナチによる「ユダヤ人抹殺」といった大規模な事例を他人事のように持ち出しがちである。つまり、「(善良なる)我々には関係ない」というありふれた意識である。だがその前に、我々はごく身近な生活の場に目をむける必要があるのではないか。 言い換えれば、我々の抱く、ごく日常的な感覚に潜む罠があるのではないか。つまり、問われているのは、他ならないこの〈我々〉自身なのである。
《抹消の対象》とされる者たちは、「社会」の構成メンバ-、あるいは《人間たち》と慎重に区別されている。つまり、「〈我々〉の仲間ではない」のである。〈我々〉とは、《人間》という資格を持つ者である。この資格を持たない者は、あるいはその資格を〈我々〉によって剥奪され、もはや持たない者は、〈我々〉によって「非人」と呼ばれる。かつて実際と呼ばれた者たちは、究極の「非人」となった「死刑囚」たちを殺す仕事を強制されていた。「殺されるべき/殺されても仕方がない者たち」、そして「死体」は、《我々人間》が生きる日常的空間から隔離され、彼ら「非人」に全面的に押し付けられることになる。
現代でも事情は変わらない。実際に死刑を執行する「刑務官」と呼ばれる者たちの言葉――「何故、刑務官だけがこれほど傷つき、劣等意識と罪悪感にさいなまれ、人間性を破壊され尽くしたような人生を過ごさねばならないのか」 国家も、そして「社会」もこの問いかけに答えることは出来ないだろう。
「死刑」という制度の正当性を主張する国家によって、〈我々〉の社会は、「人間(だけを含む)社会」であることを保証されているかに見える。だがこのことは、同時に次のことを示している。即ち、「人間(だけを含む)社会」が、その内部に《そこにいてはならない者たち》、即ち「人間ではない者たち」を生産し続けている、ということだ。言わばこの「社会」は、自らの内部に自己破壊のフアクタ-を組み込んでいるのである。
よって国家は語り続ける。「人間を拷問したり、誘拐したり、監禁したりしているわけではありません。テロリスト、革命分子……」、要するに「《我々=人間の社会》を破壊しようとしている者たちをそうしているのです」と。こうして、「世界中を通じて、死刑は常に民族的、政治的、経済的、社会的マイノリテイ-に下される」ことになる。《マイノリテイ-》とは、「社会」によって《忘れ去られた者たち》という運命が「予定されている」者たちのことである。言わば、生きながらすでに殺されている。(「いじめ」における「〈皆〉による無視」も同様のものである。) 彼らは、究極的には「死刑囚」にされてしまうことで、完全に《そこ(社会)にいてはならない者たち》、即ち「人間ではない者たち」になってしまう。「死刑囚ほど、社会が我々(=人間)に忘れさせようとする囚人はいない」のである。
結局、「国家に国民の命を奪う権利があるのか」という問いかけは否定的に答えられる他はない、と私は考える。そのような権利はどこにも存在しない。従って、この問いかけを国家はどこまでも忘れさせようとする。なかでも、無実の人間を拷問によって架空の事実(殺人)の「自白」に追い込むという行為が国家にとってありふれたものである場合に実際何が起きたのか。免田栄氏は次のように語っている。
『それから私の生活は一変したんです。いつ執行されるかわからないという不安が迫ってきました。独房の中の机や畳を廊下に放り出し、戸を蹴る、注意する役人に暴力を振るう、……そうした生活を続けている時に、内田という死刑囚に「免田、今日はおもしろい神父さんがみえるから、話を聞いてみないか」と言われたんです。その神父さんが、「皆さんの中で再審が出来る者は、それをやって長生きしてください」と言われました。それを聞いた私は、再審の道があることを知り、それに取り組みだしたのです。……しかし、役人達はそれをなかなか認めてくれず、教誨師のお坊さん達も、因果応報を説かれます』
国家によっては、再審が可能であるということは彼に決して知らされることはなかった。国家に組み込まれた教誨師の言葉と(再審棄却の理由を述べる)司法=裁判所の言葉。
「免田さん、再審を諦めていさぎよく(=従順に命令通りに)刑を受けて(=殺されて)ください。仏教は因果応報だから、あなたは前世において死刑になる因を負って来ているのです。いさぎよく行かなければ、あなたもあなたの家族も救われない」
「一度調べた証拠を再度調べてその中から新しい判断を生むということは、司法の安定性を欠く」
そして、再び免田氏の言葉。
『……私は死刑執行される死刑囚を70人見送りましたが、その70人中にえん罪を主張していた人が6人、最高裁の判決に不満を持っておられた方が20人くらいおりました。それが全部社会との交通が出来ない、金がない、という状況の中にあって、泣き泣き刑場に消えていったんです。それが今日の日本の死刑制度なんです』
日本政府は、先の存在しない(国民の命を奪う)権利の擁護に実に苦労しているようだ。1989年12月15日に、死刑廃止条約の採択に反対票を投じたが、その理由は次のような曖昧なものでしかなかった。第一に、「死刑廃止の問題は各国によりその国民感情などを考慮しつつ慎重に検討されるべきこと」、第二に「死刑廃止についての国際世論の一致があるとは必ずしも言えないこと」、第三に「人権委員会でこの条約の十分な議論が尽くされていないこと」である。「社会」が、“この「社会」から抹消されるべき《凶悪犯罪者》”という認知を絶えず是認し、擁護することは、国家の存立にとって欠かせない。今仮に、いわゆる《無法状態》を仮定してみよう。この時人々の《復讐感情》は何ら偽装される必要はない。即ち、むき出しのままでよいのであり、国家によって代理される必要はない。だが、その場合、「社会」はあの「目には目を、歯には歯を」の掟、究極的には「死(をもたらした者)には死を」の掟がぎりぎりのところで確立した「復讐が合理的である限度」という歯止めさえ失ってしまう。「〈我々〉の社会」は、再びハンムラビ法典以前に逆行し、少なくとも一度は解体へと向かうことになるのだ。なるほど、「社会」はこうした「不健全な」あり方であっても何とかやっていけるかもしれない。しかし、やはり「社会」は、昔ながらの“この「社会」から抹消されるべき《凶悪犯罪者》”という認知によって、可能な限り「健全な」あり方で生き延びようと欲する。この欲望を国家は「死刑制度」によって引き受け、唯一「殺人の資格」を与えられた、即ち自分で自分にその唯一の資格を与えた復讐の《代理人》としてどこまでも引き延ばそうとする。このようにして、国家は《我々=人間の社会》の持つ〈健全性への欲望〉に寄生しながら、それを絶えず管理し、強化す
ることによって、この「社会」とともにどこまでも生き延びようと欲するのである。
ここで、あの《女子高生監禁殺人事件》についてのあるジャ-ナリスト
の言葉を引用しておきたい。
『……こんな事件を生み出した社会を自分達が作ったという罪悪感を認めたくない。その意識の裏返しが、こういう“凶悪犯罪”を犯した少年を厳罰にして排除しようという気持ちを強くしているのではないかな。あなたの家も、四人の家庭と境目がありませんよと言われるのがいやなんだね。検察側は、こうした世論の動きを敏感に読みとって控訴に踏み切ったんじゃないかな。極端に言えば、全員無罪にして「裁判所では裁けない。日本人全員に返します」という問題の立て方をしないと、この事件からは、本当の教訓は引き出せないと思う』(極めて残念なことに、「日本人」はその後なんら「本当の教訓」を引き出せてはいないのではないか。)
(横川和夫 保坂渉 『かげろうの家 女子高生監禁殺人事件』 共同通信社)
従って、「死刑」という国家制度、より明確には、「戦争」という事態においてと同様の《国家による殺人の絶対命令とその遂行》が打ち砕き得ない、それにとって致命的な言葉とは、「国民感情」でも「国際世論」でもない、次のような「被害者」の決意の表明である。
『……凶悪犯罪は被害者だけでなく残された人々の人生をも荒廃させ、破壊します。しかし私達は、ある命の替わりに他の命を奪おうとするのでしょうか。この上もない怒りと憎悪の中でさえ、私はその意味を問わざるを得ませんでした。…答えは復讐というものでした。……応報というものでもなく、正義というものでもなく、まさに復讐だったのです。私は、息子を殺した人物に対して同情するものではありません。しかし、行われてしまった暴力に対して暴力を重ねることは私の心の癒しとはならないのです。というのは、社会が私に対して「我々はこの殺人犯を殺す。それで全てがイコ-ルだ」と語りかけることを決して受け入れられないからです。
(……)私は死刑を決して受け入れることが出来ません。そうするには、私の息子の命は余りにも大切だったのです』
(実際に息子を殺され、その後公的な場で活動を続けているアメリカ人女性の言葉を、アムネステイ-インタ-ナショナル・ニユ-スレタ-から引用した。来日時の講演での発言である。)
私はこの試論の冒頭で、「死刑」という国家制度を我々が是認し続けることは、この制度によって殺される者たちを「社会」から抹消するばかりか、この殺される者たちによって「殺された者たち」をも忘却し、同様に「社会」から抹消することである。つまり、「死刑制度」は、国家による「被害者たち」の忘却命令でもあるのではないか、と述べた。まさに国家は、「社会」の唯一正当な代理人として、「我々はこの殺人犯を殺す。それで全てがイコ-ルだ」という説得(その本性は絶対命令である)を〈我々〉に対して行うのである。そしてこの説得はほとんど無意識のうちに根を下ろし、「死刑」が執行されると同時に、「これで全てが終わった」ということになってしまう。そして、殺された「被害者たち」も、その家族や友人たちのこの上もない悲しみと苦痛も、日常の中に紛れ、忘れ去られてしまうのである。それ自体がかけがえのない、絶対的なものである命が、そしその命に対する無限の思いが、他ならない〈我々〉の手で幕が閉じられることによって舞台から姿を消す。このことに、果たして〈我々〉は気づいているだろうか。
もはや「死刑制度」を必要としない社会、それは同時に、「死刑制度」に代わる、新たなる悪しきはけ口を求めることもない社会であろう。そのような、来るべき社会を創造していくことが、今求められている。
【付記】
この原稿は、1992年11月11日に書かれた初稿に手を加えたものである。基本的な趣旨は当時と全く変わっていない。なお、文中での引用符による引用は、主として当時までのアムネステイ-インタ-ナショナル・ニユ-スレタ-からのものである。
1997.11月 3日了
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