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筑波空所属の零式練習戦闘機(以下練戦)です。基本は零式艦上戦闘機二一型を利用しています。この塗装図はレギュラーでご存知の方も多いでしょうが、問題は第3可動風防、第4固定風防下フェアリングです。形状が明らかに前回紹介した練戦と違います。つまり2タイプが存在しており18年に試作機が完成した第二一航空廠製を前期、その後移管されて終戦まで生産した日立航空機製を後期と便宜上分けておきます。さて練戦は謎が多い機体です。解く資料は多分あると思いますが、マイナーな機体の為に表に出てこないのですね。謎の一つは全長。零戦二一型は9.050m(資料によっては9.060)なのに練戦は9.150mと10cmも長い。二つ目はエンジン支持架(防火壁部分)も1区画後方の第1隔壁の位置まで後退しているのに前席(計器板、座席等)は前進しています。釣り合いの関係とも言われますが矛盾しています。とにもかくにも、練戦を深く知る事は新たな「零式艦上戦闘機」の知己を得る事になります。その辺の話はまた。
2020/06/05
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終戦後、進駐軍がカラー撮影したと思われる零式練習用戦闘機(A6M2-K)を紹介します。19年に日立航空機で製造されたと思われる第三三二空の機体です。まず練習機に用いられていたはずの黄色(C3?)が僅かにカウリング下部と主翼前縁、それに補助翼のみに塗粧されていて何とも中途半端。しかも2本ある桁に日の丸を避けて黒が塗られています。イレギュラーな塗粧には違いありません。さらに注目するのは第3可動風防、第4固定風防下のフェアリングの形状が本来公表されている図面とは違う事です。(主翼は五二型仕様)迷彩色は緑黒色(D1)、灰色(J3)。胴体側面の塗料のハゲからは中塗りを省略された超々ジュラルミンがむき出しでにぶく輝いています。次回はよく知られているタイプの第二一航空廠製と思われる機体を紹介します。
2020/06/01
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元祖ゆうさんが言っていたホビーの記事ですけど、私も思い出しました。自身のイラストの参考にしたのはキットの組み立て説明書オスカーマーキングガイドに掲載されていた物だったのですね。それがツイッターにアップされていた…、やっと出典が解明できました。第1中隊の部隊マークは赤になっていますね、詳細は解りませんが一応赤に。キルマーク鳥の羽根は想像です。あ〜すっきりした、感謝です。
2020/02/11
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研究機「研三」の資料が発見されて今月の8日から岐阜のかがみがはら航空宇宙博物館で展示されています。新たに見つかった映像は「研三」が時速699.9キロを記録した昭和18年12月27日の飛行の様子も鑑賞できるそうです。岐阜は遠いですね…天草からでは。閑話休題、最近ツイッターを見ています。驚いた事に大戦中の日本の軍用機にとても詳しい方がいて、解説も鋭く驚く事ばかり。その一つに「japanese WWⅡ Aviation」があります。その記事に目が止まりました。飛行第59戦隊第1中隊小野崎煕曹長(最終階級は大尉)の愛機のラフスケッチが紹介されました。垂直尾翼の部隊マークの下に3つのキルマークが描かれています。クアラルンプール(1942年1月末頃)の状態らしく2月4日に2個?更に書き加えられているとも言われます。どうも写真は存在せず、戦後小野崎曹長の伝記が元だろうとの事。もっと詳細が知りたいと思いましたが、残念ながら2017年でこのツイッターはお休みされています。どなたか小野崎曹長乗機について詳しい方おられないでしょうか。
2020/02/09
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初期の海軍機、とりわけ水偵等の塗装はそれはそれは丁寧に施されています。羽布部分を見ても下塗り(透明)刷り込みと刷毛により2回、中塗り(赤褐色)刷毛で1回。上塗りが銀色を吹き付けて1回、最後の仕上げに灰色を吹き付けて完成です。胴体外面も下塗りが3回も行なわれていました。特に胴体下面、翼面では桁から後方は入念に処理されています。昭和17年に中央協定により練習機には日の丸を除いた胴面、翼面とも黄色に塗装されていましたが、昭和19年頃になると本土への空襲が予見され、工場で迷彩塗装が施されるようになりました。これは推測ですが、この頃になると海軍機全ての機種が中塗り、上塗りが省略され下塗りから、いきなり迷彩色が塗布されたのではないかと思われます。末期の海軍機のカラー写真には迷彩色が剥がれ、下塗り(透明なので地肌の銀が見える)が露出した機体が多く見受けられます。イラストはスパッツに猛禽類の足の爪らしき物が描かれた九六式4号艦戦を改造した練習用戦闘機(A5M4-K末尾Kは機種記号で練習機)です。当初、練習機として黄色に全面塗装された後、19年以降ある時期に迷彩塗装が施された機体と思われます。大村海軍航空隊所属で外見上は照準眼鏡や固定機銃、アンテナ支柱が撤去されています。また車輪部分のスパッツは3分割構成です。本来は車輪前部のみ装着されているのがお約束ですが、絵映えの為、最後部一つを外した状態で描いています。機番号下二桁は推測です。
2020/01/29
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今から十数年前、故ヒストリアン大脇氏から頂いた陸軍用増槽の一部です。大脇氏は零戦の初期上塗り塗装に関して、一貫して「飴色なんて色はない。混じりけの無い、ただの灰色」言われていたのを思い出しました。そのころはjim さんが主宰していたj-aircraft.com でも、国内のHPでも「やや飴色がかりたる色」論争が花盛りの頃です。私も青畳色だの古畳色だのでイラストを描いていました。今思えば大脇氏は真実により近い所におられたのですね。
2020/01/26
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たいらいさんという方がご自身のTwitterの中で故新井勝利画伯の「航空母艦上に於ける日本画」三部作を紹介されています。1.格納庫での作業風景、2.発艦作業、3.離艦と帽ふれの風景です。画伯は東京生まれで日本美術院同人で近代の日本画家です。多摩美術大学の教授もされていました。一連の作品は49歳前後の作と思われます。直接母艦に乗り込んで取材をされたみたいで、鋭く細部を描かれています。たいらいさんの言葉を一部お借りすると、「上の作品は零戦の脚カバー加重標識はちゃんと赤、青(今でも赤、黄、青で描かれている塗装図あり)ペラの警戒帯も赤の二重線」調べるに、陸海軍航空基本部品規格で18年8月に規定変更があり2本の赤線は50ミリ幅の赤線1本になりますので、それ以前に描かれた事になります。下は艦内で、味方識別帯の始点や外翼を支える突っ張り棒が赤色、等々見所満載です。よく見ると増槽の吊るし方が分かります。たいらいさんのTwitterでは肝心の3.の画像が見れませんでしたので新井勝利でGoogle検索したところ出てきました。皆さんも覗いて、調べて見るのも一考かと思います。
2020/01/21
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数十年前の雑誌「ホビージャパン」にニチモのキット制作関係者に対する隼1/48(だったと思う)の模型開発秘話インタビュー記事でのお話です。記事中で主脚柱の位置関係が写真付きで述べられていました。これをヒントに以前イラストにしてブログに紹介しました。その後HP「一式戦闘機「隼」研究所」を覗いたおり、機體構造のコーナーの中程に主翼平面要領(其ノ二)が添付してあり、以前述べた様に脚格納部の位置が翼前縁に対して-2.97度で角度を付けて収納される構造になっています。主翼平面要領に私のイラストを合わせるとピッタリでした。(線図の細かい所は割愛)納得したので描き直して再録しました。参考までに添付のII型図面はAOZORA-1954年-4•5月号に掲載されたもので金田•遠藤氏が作成された物を添付(図面は反転)しました。66年前の図面でも正解です。どの時代に今の形状に間違って変化したのか謎です。
2020/01/12
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あり得ない事ですが、この桜花18号機は胴体と主翼・尾翼が製造所によって微妙に色合いが 違う事は述べました。私が見させてもらった資料(当時のカラー写真)と現物によってカラーイラスト化したのが下の図です。注意しなければならないのは現物が75年以上前の遺物であり、退色等のチョーキングによって色が著しく変化している事もあり得るからです。だからといって塗料試験片が自ら青が赤に、黄色が黒とはなり得ません。また製造所で塗料を独自に調合して機体に塗装するなどは一部を除いてありえません。塗料には多くの基準や規格があり用途によって管理されていたはずです。(仮規117等「詳しくは我が家の趣味の世界•渡邊著海軍航空本部塗料識別標準仮規117別冊とは」参照)では、どうして違って見えるのか、明らかに製造所で色味が統一されていません。しかし…まだこの問題は解けていません。追伸 模型製作でカラーチップをそのまま塗装した場合、悲惨な結果になるかもです。模型自体の縮尺率によって色の見え方も変わります。空気遠近法では遠景に向かうほど対象物は青みがかって見え、同時に遠景ほど輪郭線が不明瞭になり、対象物はかすんで見えます。模型もスケールによっては色の調整をする事になりますが、私の経験からはやっぱりチップをそのままに調合したのを使ってしまいますね。全然色が違うじゃんと言われるのが怖い(笑)
2020/01/06
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インドのカルカッタ、現在のカルカタで撮影されたという、一連の桜花11型の写真を見せて頂いたのは14年前の2006年でした。桜花がイギリスに運ばれたかどうかは分かりません。ジム•ランズデールさんが、まだ元気な頃で桜花の細かいステンシルについて資料のやり取りをしている最中でした。説明によると、この「海色とほうれん草色」のカモフラージュパターンはシンガポールの海岸水域の岸ラインで役立つ迷彩塗装であること。ジムさんは話を進めて終戦間際、フロートを付けた桜花が現地で試作中であり、テストは戦争が終結したので完成を見ないまま歴史に埋もれたと主張されたのです。シンガポールエリアには桜花が母機不在のままに温存されていました。これらを使ってフロートを装着した桜花をロケット推進で海上特攻をしようと目論んだというわけです。ジョホール海峡にいる艦船に夜間での攻撃を仕掛ける案が検討されていたのでしょう。一連の写真でやや正面からの不鮮明な写真を見ると胴体は従来に比べ下面が平べったくなっており、フロートを支えるヨークにフィットさせるための改造かもしれません。図面では詳細不明で描いてません。細かな所に修正が加えられているのかもしれません。今回は「j-aircraft.com」主宰だった故ジムさんとの思い出話しの一部を紹介しました。補足として外板上面より照門(照星)の中心までの高さが個体によってそれぞれ微妙に 違う事が寸法明示されている事は以前述べましたが、再録しました。胴体と主翼・尾翼が製造所によって微妙に色合いが 違う事(18号機の主翼・尾翼等は「日本飛行機製造」日飛第986号、色は日塗工標準色 C45-85B近似。他に胴体は空技廠製造第1022号、色はC27-60F近似です。ジムさんの事はまた別の機会に譲ります。
2020/01/04
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244戦隊の平沼康彦(特操1期)乗機と言われる機体です。昭和50年代の航空ファンに初めて掲載された占領軍撮影の右側1枚のみと思っていたら、なんと左向きの戦中の写真がHP陸軍飛行第244戦隊「勇士のアルバムから」アルバム6に添付されていました。皆さんも訪問してみてください。何回かお伺いはしていたのですが、気が付きませんでした。これは福ちゃんのHP「我が家の趣味の世界」に載せていた物をここで訂正します。前出のアルバム6の写真はサイズが小さく細かい所を掌握するのが難しいのですが、撃墜マークは描かれていない様に見えます。スピンナーは輝き具合から先端は青、あるいは赤と思われます。オリジナルで調査したら、もっと新事実が分かるかもしれませんね。しかし…これを修正し描いたのは2年前、古い話題でお茶を濁しました(笑)
2020/01/03
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軍需省航空兵器総局微章(若い数字順)陸軍飛行第3戦隊•菊水飛行第22戦隊•陸軍空挺隊•菊水飛行22戦隊•熊谷陸軍飛行学校•下志津陸軍飛行学校•特別射手章•明野陸軍飛行学校•第19振武隊。中には尾翼のマーキングと同一のものも散見される。私は仕事がら意匠にも興味があります。18番は第19の和数字「一九」が素晴らしい形にデザインされています。10番の3も和数字「三」との組み合わせで秀逸ですね。※各徽章は検証はしていませんのでご注意の事
2020/01/02
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明けましておめでとうございます。最後の書き込みから3年ですが、仕事は元気に励んでいます。私の場合は定年がございませんので同じ仕事を50年…半世紀やってます。今年は少し変わったアプローチで挑戦していきたいと思っています。
2020/01/01
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今年もよろしくお願い致します。酉年という事で、鳥の付いた塗装図を載せました。平成29年 元旦
2017/01/01
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あら…気がついたら一年以上経ってますね。今コクピット内部のラフカンプを作成中です。もう少し調べないと描ききれません。しばらく留守をしていましたが、管理画面も変わっています。試験的に出してみます。
2016/09/22
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いよいよ後席左舷に入ります。左舷は主に操縦索(ケーブル)や配線類が前後に走るのですが、側面を覆いで上手く納めています。直ぐ上の配電盤も覆いのおかげでハーネス類がスッキリになりました。資料不足で描いていませんが、長波線輪、帰投発電動機、帰投管制器、空中線転換器等が存在しています。航空図板は普段は計器板下の奥に仕舞われていますが、必要に応じて引き出し、海軍航空図を広げての作業も出来る様になっています。他に偵察要具袋(航法用具や弁当箱等が入っている)を収納するラックがあるはずですが、位置は不明です(あるいは右舷?)。ところで…SCALE AVIATION9月号に「流星風防現る!」と題して、25頁に記事が載っております。千葉県木更津市郷土博物館「金のすず」博物館原題「昭和20年の木更津」10月12日までです。この機会にぜひご覧になってください。当時の工作精度、フレーム形状やジュラルミンと鉄の噛み具合等も実機だから分る事が沢山あります。
2015/08/16
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後席右舷を俯瞰してみましょう。解る様で分らない(笑)無線機装備要領が資料として残っていますので、これを基にガーバー施設の流星の歯が抜けたようなスカスカ機内写真数枚。そして復元晴嵐のこ奇麗な後席写真を元に描いてみます。試作1号機は1942年末に完成したものの、量産型の生産は遅れにおくれて1944年4月からと言われており、私が参考にした初期の装備要領図から随分経っている量産機は、内装機器についても最新の機材に入れ替わっていると推測しています。例えば、無線電信機も同要領図通り九六式空三号風に描いていますが、三式空三号に更新されているらしいのです(資料無しで描けず。ひょっとすると…晴嵐に積まれた物がそれかも?)。ところで流星の場合、爆撃用照準器、照準孔等が右舷に配置されています。それは魚雷を含め懸吊金具、迎え金具等が機体中心線より左側に実機で370mm寄った位置に取付ける関係上、機器の干渉を避ける為です。したがって胴体肋材(ろくざい)10番直後方に取付けてある垂下空中線巻上げ器も当然右舷に装備される事になります。よって「後方銃座及座席他配置図」の巻上げ器位置は右舷に訂正します(詫)風防繋がりでこのブログを続けている訳で、そちらの説明も少し。第2固定風防前部枠にはアクリル製の遮風板が取付けられています。ある程度内部構造が頭に入ったら、各風防の詳細を図にしようと思います。
2015/08/04
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今回は後席射撃兵装関係を整理します。先ず、射撃時は座席を180度回転して後方に向ける。右足を足掛に付属する踏み板の上に乗せて踏めば、ボーデン索(未確認)で繋がった誘導桿の止柱が外れ、座席は誘導桿に沿って任意の仰角(図面上で計ると正位置から下方に移動しつつ最大約34度仰向け可能)に動かせる。踏み板から足を離せば止柱が入って座席は固定され、操縦者が急激な機動を行った場合でも射撃が可能となる。ちなみに旋回機銃の射撃位置は最大仰角40度。銃を格納する時は、下向きの俯角は資料には書いてありませんが、おおよそ18度。銃架レールから手動で外し、可動式架共々後胴体下部に収納しつつ同時に銃身が重ならない様に第4可動風防を都合良く180度回して正規位置に戻し偵察業務の為の視界を確保します。まだまだ現状では詳細な図を描き込めません。そこで似通った機構を持つ晴嵐の略図を載せておきます。参考資料は昭和62年発行のエアーワールド7月号エアモノグラフ「晴嵐」それに平成12年モデルアート別冊「日本海軍艦上攻撃機」が参考になります。なお、晴嵐の旋回機銃射撃位置は最大仰角は45度となっています。(流星も45度説あり)
2015/06/26
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機銃射界確保の為の風防作動要領は、先ず手動で第3可動風防(機首から見て)左手前の固定用垂直レバー(黒色)の上部に付くボタンを押してロック解除し、機首側前方部へスライドさせ、カチッと止まるまで移動させます。ヒンジ下部先端は丸くなっており機体側に付く筒型のレールに沿って風防ごと第2可動風防内側に収納されます。前後しますが風防枠はジュラルミン製。側面平板面は無機ガラス、上面などカーブの多い形状の箇所は有機ガラス(アクリル)で構成されています。無機ガラスは目測で厚みが約8mm位、有機は約5mmと極めて薄い印象です。同博物館の有機ガラスは長い年月の間にたわみやゆがみが見られます。第4可動風防は前回図の様に前後取付け軸を中心に180度回転し射撃時の視界確保のため下部に収納されます。作動方法については現物下部を確認する事が出来ず、今回は分かりませんでした。図の様に13mm機銃固定用の鉄製金具があります。またバレルクリアランスの為のへこみがある事に注意。これは明らかに愛知 M6A 晴嵐と基本構造が一緒ですね。同じと仮定すると図右下のイラストの様にひょっとして銃身もろとも回転して収納される可能性もあります。今回は搭乗員のイラストを描いていて気がついたのですが、落下傘バンド・落下傘形状は操縦席用と偵察、電信席用では形状が異なっています。詳しくはHP「蒼空の果てに」 →陣中談義・うら話→被服・装備品等→飛行服とライフジャケットを尋ねてみてください。また形状や色合いを確認するには、モデルアート社刊「日本海軍航空隊軍装と装備」が大変参考になります。脱出時、操縦員は落下傘を体に装着したまま即、機外に脱出できますが、後部乗員は一度ラックから落下傘を外し自ら抱えて機外に出ます。次に機体内部の色合いですが、全体に奇麗な青竹色が塗布されています。ラックや取付ステー等も基本青竹色。機器や装備品は黒色もあれば暗緑色もあり。風防枠内側は流星の場合は青竹色か暗緑色で塗られているようですが、強度を必要とするヒンジ類は鉄製で黒で塗装されており、よいアクセントになっています。
2015/06/10
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手始めに後方銃座及び座席の配置図から始めます。勿論、今回八代市立博物館の現存風防がイラストを描くのに大いに役立ちました。なにはともあれ、風防の形態を描くには内部の構造物が分からないと先に進めませんので手持ちの資料を確認します。ところが…後部の詳細な資料というのが全くと言っていい程、存在していないのです。スミソニアン航空博物館内ガーバー施設の現存機(1機のみ)の写真が数枚ありますが、内部は歯が抜けた様に空っぽ。かろうじてフレームや縦通材が大体この辺りと見当がつく程度。こりゃ困った(汗)。どこにどう機器が収まり風防とどう関連するのか、まったく暗中模索状態になってしまいました。ところが、ここで理解の手助けになったのが、「くまもと戦争遺跡・文化遺産ネットワーク」高谷和生さんが作成された「パンフレット」の解説です。現物(風防)の詳細が細かく書かれており、頭の中でやっと立体的な風防作動要領が理解出来たのでした。これを元に第2可動風防(現物欠損)部分から後方を描き、さらに次回は対空機銃射界確保の為に第3可動風防、第4可動風防がどのように移動回転するのか図にしてみたいと思います。多くの推測を含んで描いた図である事はご了承ください。いつの日かガーバー施設の流星が完璧に復元された折に、見比べてもらっても困ります(笑)
2015/06/05
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早速、風防の寸法を割り出して図面を起こしてみます。まず参考資料をひも解きます。30年前の模型誌「モデルアート」に流星(B7A1)設計図による新考証なる記事(解説は加藤氏)を確認しましたが、如何せんあまりにも図版が小さく判読出来づらいのが難点です。次に一年後に野原さんが発見された資料を元に航空情報に1/32折込図面を掲載されています。これは良く出来た図面で現在でも十分通用します。更に作者は2001年に「ミリタリークラフト」誌に精密図解「流星」を発表。野原さんも言っておられますが(資料の少なさも相まって、設計図と実際の量産機とでは寸法が大きく異なっている)との事。たしかに言われてみればそうでした。愛知時計電機図面の風防構成図寸法と今回取材した風防の寸法を割り出します。図のピンク色枠が前出図面寸法を1/48のセンチに変換したもの。黒枠が今回実物を見ての大体の寸法です。実は愛知風防図面の数字を参考に描き始めたのですが、円きょう(フレーム)や縦通材の数字と整合性がまったくとれない事に途中から気付き描き直しました。えらく遠回りしています。次は後部風防附近の作動要領を勉強してみましょうかね。※今回発見された風防の中で偵察席可動風防は失われていますので「未」として処理しています。
2015/05/24
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今から70年前の昭和20年熊本の八代市井上町(現在は八代自動車学校地にあった三陽航機株式会社八代工場)で生産されていた艦上爆撃機「流星」の風防を紹介します。発見当時から現在の流れは今でもHPでご覧になれると思いますので割愛しますが、少し八代工場の説明をします。この工場では流星風防生産名を「B7」と呼んでいたそうで、風防の部材は本社(熊本市)から板状のもので来たものを板材カット、曲げ、焼入れ、穴開け、鋲打ち、組立て、塗装の行程まで作業していたとの事。完成品は格子状木枠に入れられ本社を通して長崎県大村市にあった第二一海軍航空廠に送られたそうです。 現物を見た私の感想は思ったより「か細く」きゃしゃな感じです。勿論この飛行機自体は全長11mを超すサイズ(ちなみに一部零戦は9.06m)ですから大きいには違いないのですが…。ちなみにリーフレットを参照すると展示風防の現存長(第二可動風防は欠損)は410.0cm、最大幅80.0cm、最大高80.0cmとあります。私の肩幅は約50cm残りを左右に振り分けて15cmに機体操作部位があると思うと確かに狭いですね。(なお当時の原図には第二可動風防も含めた長さは442.2cm)。手始めに固定第一風防を観察します。先ず目に入ったのは風防枠の形状です。流星は資料が少なく正確な形状を掴むには難儀するのですが、この第一風防には私が認識している図面形状と違いがあります。図を見てもらえばお分かりになると思いますが、風防枠基部はなんとジュラルミン一発整形なのです。同博物館の学芸員鳥津さんによるとヒョイと抱えられるくらい軽いそうです。 ところで誤解してほしくないのですが、工作精度は非常に高く、日本人のものづくりに対する繊細さが発揮された素晴らしい工業製品である事は間違いありません。空気抵抗軽減の為の努力が随所に活かされています。同工場では主に整形穴開け等は男性職員が行い、ガラスがはめられた風防のねじ止め等は女子挺身隊が電気ドリルで作業をされていたそうです。以下つづく。
2015/05/05
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数週間前ですが「八代市立博物館未来の森ミュージアム」にお邪魔しました。きっかけは、国内で初めて発見された「流星」の風防が期間限定で展示された事です(現在は期間終了)。新聞紙上でこの風防に関するリーフレット「熊本の航空遺産と海軍艦上爆撃機(流星)」が発行されている事を知り、早速入手したく同館学芸係長の鳥津さんを通して「くまもと戦争遺跡・文化遺産ネットワーク」事理の高谷さんを紹介して頂きました。このリーフレットはA4版4頁ながら熊本県内航空遺産一覧図や流星風防の概要等、実に労作にして資料的価値十分です。これ等も参考にして数回に分けて実際に実物を見た感想をイラストや図面で紹介してみたいと思います。※リーフレットにもあるように、海軍資料「内令兵」でも規程されている「艦上爆撃機」の分類と「流星」の呼称を使わせて頂きます。
2015/04/29
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カシャネンコNo.5(空飛ぶ魚雷)は彼らの夢を乗せて空へ舞い上がります…。否、その前に塗装図を作らねばなりません。完成直後と思われる写真には当然ですが国籍マークが描かれていません。全体に濃いめの単色で塗られており、念入りに磨かれたピカピカの(ベニア製モノコック)胴体回りが印象的です。どんな色なのか調べてみると、簡単な塗装図が見つかりました。真実は別として濃青っぽい色で全面塗装されています。しかしこれが本当だっとしても…なにかしっくりきません。あの時代のクラシカルな色合いから今イチかけ離れています。そこで更に調べると中央ヨーロッパはチェコのレジンキットメーカーOMEGA MODELS(オメガモデルズ)から、なんと!カシャネンコNo.5が実売されているじゃないですか。スケールは1/72。このメーカーは全てマイナーな機体ばかりを作り販売しているらしいのですが(購入した事がないのであやふや)なかにはまったく見た事もないというか、実際存在しているのか分からんブツまで販売しています。ニッチ産業の見本かも(笑)閑話休題。箱絵を見ると正に私が思った通りのイメージにぴったり!イラスト形状は突っ込みどころ満載なのですが、塗装図は当時のクラシカルな雰囲気が出ていて好感がもてます。これを参考にする事にしました。この機体は試作機でしかも1機だけ作られており、塗装に関する資料も皆無です。多分、オメガもフェイクな塗装として購入者に供していると思います。最後に…1916年キエフ科学技術研究所で設計が開始されるも、あいにくシコルスキー設計の戦闘機用プロペラ大量受注によるスケジュールの延滞で、テスト飛行は1917年末まで、のびのびとなってしまいました。ソレツカヤ飛行場の整備が整いやっと初飛行にこぎ着けます。ところが7月1日運命の日が来たのです。そう私も図面を描いていて抱いた感想。心配した事なのですが、離陸のアプローチの最中に尾部を破損し後部胴体は壊滅的なダメージを受けました。不幸中のさいわい、操縦者はなんとか無事に生還しました。通説ではこの時期ロシア革命が勃発し、カシャネンコ兄弟も含めKPI共々歴史に翻弄され、その偉業も含め歴史の中に埋もれたと言われていますが、どっこい、1921年再びカシャネンコ6号機が製作されています。どっこい、彼らは革命後も居残り設計に携わっていたのが分かります。いずれにしてもこれらの貴重な歴史の財産が埋もれて日の目をみていないのは事実。暗闇の中から誰かが引き出して歴史の財産を日のもとに出して欲しいと願うばかりです。これでこの章は終わります。
2014/11/01
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いよいよコクピットです。本来ならこの部分の資料があればすんなりと描くところですが、どっこい!なにも無いのです。僅かに残る断面図から類推するにはあまりにも無謀なのですが、特徴的な機首のしかも一番目立つ操縦席が空洞スッカラカンではお話になりません。1917年代のロシアに関連した機体を探し出してそれに添って傾向と対策を講じようにも当時の機体を伺い知る事が出来ないのが現状です。やむなく当時航空界の先進国だった他国のしかも現存の機体から想像を膨らますことにしました。でも、それでも飛行には絶対必要な計器類や補機類は存在するし、迎え角を操作する装置やフットペダル、操縦棒は人間工学的に大体位置は定まっているはず。無い頭で精一杯描いてこれです(笑)いずれの時か資料が発見されて…赤っ恥じをかくこと覚悟の上でここに載せてご批判を仰ぎたいと思います。追記描いていて気がついたのは…前にも述べたようにルイス機銃の件。撃ち尽くした後、パンマガジン(皿型弾倉)をどうやって交換したのだろうか?操縦棒はニュートラム状態で装填しないと姿勢が傾くは、同時に前方視界は一瞬見えない。戦闘状態では交換は不可能なのではないかなぁ。図のフットペダル部分をご覧下さい。平常時でも難しそうですよね。意外と基本的な部分でこの機体が日の目をみなかった原因なのかもしれない。
2014/10/26
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今回は機体上面です。公表されている写真は僅か3点。図面は怪しいものが2点かな。側面透視図もありますが、どこまでが真実なのか分かりません。左斜から撮られた写真を頼りに小骨「リブ」を数えましたが既存図面と数が合わない。最後は写真を優先して作図しました。ここで悩んだのが補助翼「エルロン」の形状と面積。翼構造の主要部材である桁「スパー」は2本桁になっているのですが後桁(rear spar)はかなり前にありそうです。既存の図面では補助翼取付け位置が後方に寄っているのですが、私はあえて桁に添って作動するよう支直しました。飛行中は絶えず上下を繰りかえすわけですから、しっかりと桁にリンクしているはずだし、作動をつかさどるホーン類もこの桁にそって配置されていると想像するからです。そうは言っても補助翼面積が大きすぎる…。考えるに後桁が前よりなのは、前回述べた主翼の作動機構に関係するのではないかと言う事。ピボットを軸にして取り付け角度が変わるのですが、それを支える柱基部が前よりにあるがゆえに自然とそうなった。あるいはこの完全なプッシャー式のカシャネンコの場合はトラクター式に比べ、低速時にはプロペラ後流の恩恵を受けられないがゆえ、利きをよくする為に面積を大きくしたのか。こっちかな(笑)ここらあたりご存じの方がいたらぜひ御教示戴ければありがたいのですが…。
2014/10/25
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エンジンは回転式空冷グノーム・エ・ローヌエンジン(フランスで1900年に兄弟が作った会社。ローガン・サガンと弟のルイ)。考えてみると航空機関係では兄弟の活躍が多いですね、かのライト兄弟しかりです。ところで驚いた事に…「この当時のロータリーエンジンはキャブレターやスロットルに当たるものがなく、燃料や空気の遮断、プラグの通電・遮断で出力を変更するしかなかった。その間は、慣性でエンジンは回り続けるので完全に停止しないうちに遮断を解除すれば再着火し、回転を得る事が出来た(HP:おっさんの模型の部屋を参照。)」しかも4サイクルでありながら空気と一緒にオイル(ひまし油)をシリンダー内に入れるので2サイクルみたいな感じかな。しかもオイルは排気ガスと一緒に機外に排出するのでエンジン回りはべっちょべっちょになる。ラジコンをされている方ならご存じでしょうが燃料のひまし油のベトベト感はたまりません(汗)すぐに清掃しておかないと固まらずいつまでもねっとり。当時の整備員はさぞ、ふき掃除に時間を費やした事でしょうね。また手前にはエンジン冷却用に大きな開口部が顔を覗かせています。主翼の迎角を変化させる機構は全く不明ですが、下翼に迎角作動用?のロッドが操縦席下部に伸びているイラストを見かけますが真意は不明。図面でお分かりのようにエンジン前方にV型の支柱が上下に配置され、中心に回転軸があります。これ自体で上下主翼の強度を受け持っているわけで、無理な挙動をすれば空中分解するんじゃないかと心配です。あちらの図面には操縦席左横には迎角調整機構とリンクしたレバー?がそれとなく描かれていますがこの時代油圧装置の完成はまだまだ先の事。操縦者が手動で迎角を変えたはずで可成り力を要した事でしょうね。参考に似たような主旨で作られたパラソル翼機の可変構造も載せておきます。
2014/10/11
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こんなことしてる場合ではないのに…結局描いてる(笑)
2014/10/09
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いいえ、今しっかり考証しています。それより新作てっちゃんアトムをみて。
2014/10/06
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シコルスキーは次回。
2014/10/04
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どうやら水平尾翼も基軸に対して水平ではなく角度が付いています。図面を製作するにあたり、一箇所でも間違いがあると…側面、上面、前面図総べてにおいて修正を余儀なくされます。一から出直しですね。がっくり(笑)
2014/09/29
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細々と図面を引いていたのですが、既存の図面と写真との差異に気がつき愕然!一から引き直すハメに。詳細は後日(汗)ところで素晴らしい「般若心経現代語訳」が巷のあちらこちらのhpで公表されていますので遅ればせながら私も反復して覚えたいと思います。実に素晴らしい訳です。参考までに。翻訳された方、一度メールください。訳された方。「感謝」超すごく楽になれる方法を知りたいかい?誰でも幸せに生きる方法のヒントだ。もっと力を抜いて楽になるんだ。苦しみも辛さも全てはいい加減な幻さ、安心しろよ。この世は空しいモンだ、痛みも悲しみも最初から空っぽなのさ。この世は変わり行くモンだ。苦を楽に変える事だって出来る。汚れることもありゃ背負い込む事だってある。だから抱え込んだモンを捨てちまう事も出来るはずだ。この世がどれだけいい加減か分ったか?苦しみとか病とか、そんなモンにこだわるなよ。見えてるものにこだわるな。聞こえるものにしがみつくな。味や香りなんて人それぞれだろ?何のアテにもなりゃしない。揺らぐ心にこだわっちゃダメさ。それが『無』ってやつさ。生きてりゃ色々あるさ。辛いモノを見ないようにするのは難しい。でも、そんなもんその場に置いていけよ。先の事は誰にも見えねぇ。無理して照らそうとしなくていいのさ。見えない事を愉しめばいいだろ。それが生きてる実感ってヤツなんだよ。正しく生きるのは確かに難しいかもな。でも、明るく生きるのは誰にだって出来るんだよ。菩薩として生きるコツがあるんだ、苦しんで生きる必要なんてねえよ。愉しんで生きる菩薩になれよ。全く恐れを知らなくなったらロクな事にならねえけどな適度な恐怖だって生きていくのに役立つモンさ。勘違いするなよ。非情になれって言ってるんじゃねえ。夢や空想や慈悲の心を忘れるな、それができりゃ涅槃はどこにだってある。生き方は何も変わらねえ、ただ受け止め方が変わるのさ。心の余裕を持てば誰でもブッダになれるんだぜ。この般若を覚えときな。短い言葉だ。意味なんて知らなくていい、細けぇことはいいんだよ。苦しみが小さくなったらそれで上等だろ。嘘もデタラメも全て認めちまえば苦しみは無くなる、そういうモンなのさ。今までの前置きは全部忘れても良いぜ。でも、これだけは覚えときな。気が向いたら呟いてみろ。心の中で唱えるだけでもいいんだぜ。いいか、耳かっぽじってよく聞けよ?『唱えよ、心は消え、魂は静まり、全ては此処にあり、全てを越えたものなり。』『悟りはその時叶うだろう。全てはこの真言に成就する。』心配すんな。大丈夫だ。
2014/09/29
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「カシャネンコNo5」解説の中に「プッシャー式にした理由として機銃を積むにあたって胴体の前にプロペラがあると邪魔になるから」はどうも表向きらしい。同調式機銃発射装置はすでに1915年から16年半ばには実戦でフォッカーEアインデッカーが使って大いなる戦果をあげていました。たとえパテント問題があったとしても日進月歩の技術伝播は早かった。トラクター式(牽引式)が主流を占めたこの時代、やはりここはКПИ「キエフ科学技術研究所」面目躍如!オリジナリティ指向がこの形態を生んだのでしょう。前回はルイス7.7mm機銃搭載で描いていますが、ブローニング銃搭載説もあります。しかし水冷式で重たいブローニングが空冷式になったのは18年以降の事で17年当時表立って航空機に搭載するには時期早々かと。しかも全長がルイスより40cmも長い。これではコクピットを占有してしまいます。一方ルイスは当時イギリスから6000挺あまりも購入の実績があるし、なにより航空機搭載兵器の地位を確率していました。ルイスで最後まで描く事にします。また機首左側にはピトー管(速度計測器)を付けました。あちらのイラスト等では電源用発電機が取り付けてあるように見えますが…詳細は不明です。今回は各部を合体した胴体側面と輪切りにした各部分を載せてみます。
2014/09/28
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ラダー用操作索位置の関係を見直しています。写真をご覧になると判りますが、やはり旧来図面より主車輪前方支柱上部右寄りに上下の策が交わる事が分かりました。フットペダルから近いしリンク機構も容易く出来そうです。図を訂正して描き直してみました。ついでにルイス機銃を装備した状態を描いたのですが大きすぎるような…(笑)参考までに下に同スケールを置いてみました。仮に身長が170cmの人が銃のそばに立つと違和感がないのですがどうでしょう(笑)ちなみに銃身の長さは63.5cm、全長は125cmです。またロシアのHP等で紹介されている図面ではコクピット前方の随分奥に機銃が有るように描かれていますが、これだとパンマガジン(皿型弾倉)の交換が非常に困難です。しかも4層で97発、2層にいたっては47発。毎分約500発の発射速度ですから7秒以下で撃ちつくしてしまいます。これじゃ戦いにならないですよね。上層部へのプレゼンテーションにはちょっと弱いかな。派手にしなくちゃ予算はもらえませんよ(経験談)よく言われますが「話は大きく生活は地道に」です(笑)なかなか先の塗装図に進めません。
2014/09/26
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先の図では分かりにくいので、バラバラにして示します。最大迎角23度、零揚力角7.2度の範疇で作動するようです。ところでどうしても腑に落ちないのは方向舵(ラダー)の操縦索配置関係。旧来の図面やイラストでは胴体中心付近のエンジン冷却口前に位置しています。初期の頃の機体は操縦者のクイックな操舵感を伝える為に操縦席のラダーペダルに直結した所にホーンがあります。そうして策が繋がりつつ、ダイレクトに後方のラダーに伝播するこれがメジャーな機構です(勿論この方法をあえて無視した機体も存在する)。しかしこの位置だと何がしのリンケージが必要となります。複雑な構造となるのは必至です。そこでたった2〜3枚しかない現存写真を観察してみました。策の部分を観察すると…どうやらもっと操縦席に近い位置に有るらしい事が判ります。ところで今日の新聞に二言三事(言)。国語世論調査(「文化庁主催日本人の国語意識の現状」について。毎年実施)の記事が載っていました。たとえば「まんじりともせず」の答えは(眠らないで)が正解です。ペケは(じっと動かないで)です。正解率は29%。成る程そうか!と勉強になります…が、心配では済まされない慣用句がありました。(やぶさかでない)この解釈をどう考えますか。例としてあげると…ある後輩が先輩に頼みごとをします。先輩はおもむろに(やぶさかではない)と答えます。後輩は(仕方なくする)と解釈し、先輩に心配させるのは荷が重いと判断し、自ら頼み事を断念しその場をさります。さてこの後輩が理解した(やぶさかでない)。これは正しいと思いますか?なんと大きな間違いです。「(やぶさかでない)の答えは(喜んでする)」が正解です。後輩の言葉の理解がややもすると人生の一部分で損をする事もあると言う事です。おおこわ(笑)
2014/09/25
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本題に戻ってロシア帝国政府の航空機産業の現状はもっぱらフランスやイギリス機のライセンス生産やコピー機の製造でした。それじゃいかん!と奮起して設置したのが先のКПИ(キエフ科学技術研所)だったわけです。航空機部門ではシコルスキーを含め開発設計に携わる技師が働いていました。そこで紹介した「カシャネンコNo5」の生みの親(カシャネンコ兄弟)もメンバーの内の二人です。このオリジナリティ溢れる機体は-5が示す通り彼等が5番目に着手した機体の意です。その前の4番目までは平凡な飛行機の設計ばかりでした。(こんな物ばかり作りおって、もっとアイデアをひねり出せ!)上層部から活を入れられたのか?突然にしてこの機体です。別名「空飛ぶ魚雷型」とも言われ、テクスチャはきれいな空気力学的形状を有するベニア製のモノコック構造(応力外皮構造)です。ツルツルてんに仕上げてあります。特に目を奪われるのは、主翼の構造です。ピボットを軸にして取り付け角度が変わるのです。迎角を変化させる事で昇降舵の役割を担わせる魂胆です。そのかわり水平尾翼には昇降舵が付かず固定式です。フラップ(高揚力装置1930年代開発)がない時代にどうなんだろうと一抹の不安を覚えますが…ま、エンジン馬力自体も零戦に搭載された栄の十分の一位と非力なうえに空虚重量が463kで軽自動車の半分位と思えば…それでも飛んでくれるような気はします(笑)当時の飛行機は推力で飛行するのではなく揚力で浮く感じですかね。ああ〜また話がそれる…。
2014/09/24
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しか〜し、後進国とはいえ、そこはそれ。抜きんでた天才はいるもので、有名どころではイーゴリ・シコルスキーがいます。(1889年キエフ、現在のウクライナ生まれ)4年前の1913年、24才の若さで世界初の4発機(S-21 ルースキイ・ヴィーチャシ)を開発します。多分留学先のフランスでの知識が役立ったのでしょうね。そんな彼も直後に起きたロシア革命から2年後にフランスに亡命。後にアメリカ合衆国に移住してしまいます。ニューヨークはロングアイランドにシコルスキー飛行機会社を設立した彼は、これまた世界初となる実用的なヘリコプターを開発し、後年その功績でベル社と並び賞せられます。彼が開発した飛行機では水陸両用の飛行艇「S-38」が好きですね。いずれこのコーナーで塗装図や解説を行ないたいと思います。今回色々勉強させて頂いたHP「おっさんの模型部屋」http://ocoze.net/pulamo/pulamo-top.htmlをご紹介。すごくおもしろい記事満載です。特に第一次大戦中の飛行機に関する実機解説や模型製作に関わる様々なアドバイスは少なからずなにがしのヒントを与えて頂けます。よろしかったら行ってみてください。
2014/09/23
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かれこれ更新が滞りましたが、チョビ再開したいと思います。1917年、この時代にしては前衛的な形態。なんかこう、私的には興味津々なのです。プッシャー式の特異な飛行機の名は「カシャネンコNo5」。別名КПИ-5「キエフ科学技術研究所(1905年設立)No5」ともいいます。当時の航空工業界はイギリスやフランス、ドイツ等が一歩先をリードしており、帝政ロシアはまだまだこの方面では後進国でした。ところでこの年(大正6年)はおりしも第一次世界大戦まっただ中。米が独に宣戦布告はするは、日本といえば両国国技館全焼(11月)新聞ネタには事欠かないなぁ。
2014/09/23
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j-aircraft.com主宰のJimさんから久しぶりメールがありました。どこにも公表されていない写真を添付して戴き感謝しています。そこで...新たに桜花のコーッションを描く事が出来ました。このイラストは私が描いていますが、多数の方々の協力をえています。許可無くデカールや塗装図にする場合はご一報下さいね。趣味の範疇でやっていますが...色々クレームが私にくるのですよ(汗)
2014/01/23
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天草の下島には最高峰の天竺という山があります。俗に天草アルプスと言われてますよ。ええ本当。私の旧知の友人が言った一言「天草は100歩あるいたら海」なんて事はありません(笑)天竺、そうインドになぞらえてこの命名が付けられたのは400年以上前の話。この付近には天の川の地名も残っています。西遊記に詳しい方なら、コウフク寺、カショウ寺をご存知だろうか...しっかりあります、お寺が。面白いでしょう、歴史は川の流れように脈々と続くのです。否応無しに。
2014/01/20
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心よりご冥福をお祈りします。
2014/01/17
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大切な本をオークションに出してしまいました。残念(汗)
2014/01/16
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日本機の塗装は泥臭くないですよ!自然にとけ込む迷彩が信条です。
2014/01/15
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どうぞ、ご自愛ください。ところで、年末年始にかけてお友達の福ちゃんから貴重な桜花の写真を戴きました。jim さんも気になっているようで...すこし確認をしてみませう。って話題は後回し。試験ブログの書き込みをここ数日続けます(笑)
2014/01/14
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天草エアラインのオリジナルシールを作成しました。直接搭乗した方や、指定の販売店、または関係者のみに配布される貴重な昔懐かしいペッタンのり付きシールです。人気のくまモンのほか私のオリジナルイラストが3点しっかり張り付いてます(笑)え!入手の方法?ダッシュ8に乗ってくだされば...。
2014/01/13
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以前描いたものを、採録。色は?大きさは?画面上は以前と同様ですね。早く作業が出来るようになったのか...なるほど。
2014/01/12
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ウチの会社も全ての機材が一新して、今年から操作運営に悪戦苦闘。ただ...慣れるとその便利の良さに感心するばかり。 日進月歩を肌で感じる今日この頃です。イラレもですが、フォトショップが素晴らしい。仕事の合間に更新をやってみようかと思います。快適になった環境で、先ずは昨年行った、我が「フォーテスト一座」公演の朝日新聞記事をご紹介。 これは天草中央ロータリークラブの劇団として20年の歴史があります。ちょい見でしたらyoutube「天草特攻隊」でご覧ください。
2014/01/11
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以前も紹介しましたが、今回は艦載艇についてちょっとお話しを。2011年3月11日午後2時46分頃に起こった大震災で津波に巻き込まれ、自宅と共に流されたSさんが、福島県双葉町の沖約15Kの大平洋上で救出されたニュースはご存知ですか。3日目の13日に無事救出され保護されました。 そのとき活躍したのが写真のちょうかい艦載艇(改7.9m内火艇)です。貼付は「ちょうかい02」です。普段は左舷側に格納されていて、「01」は右舷にあります。スペックは全長7.9m、全幅2.23m、総4.23トン、深さ1.0m、出力25馬力ディーゼル機関1基、速力は7ノット、定員25名(乗員3名)で石田造船のFRP製です。 なぜ、改なのかというと前身の7.9m内火艇のティラー(舵柄)を無くして舵輪式に改造したためです。報道では海自の救難ボートとして紹介されていましたが…。 普段航空機撮影の癖がここでも出てきちゃいます。やっぱり細部写真が多くなります。好きなんですよね、細部が(笑)
2013/06/09
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この機体はブリキ造りのみすぼらしい飛行機というイメージが付きまとっていますが、海外でもNakajima Army Special Attack Tsurugiとして紹介されていて結構出回っています。で、ネットで「剣 飛行機」で調べるとh.p「古典航空機 電脳 博物館」の中に(中島飛行機技師青木邦弘氏キー115「剣」誕生秘話)があります。 青木氏は(中島戦闘機設計者の回想)という著作(潮書房光人社刊)もあります。主に構造設計が専門らしいのですが、剣では主任設計者の立場での手記が載せられています。氏は、「米軍が日本本土上陸作戦での輸送船団・上陸用舟艇に対して瞬発信管付の大型爆弾装備して攻撃し、トンボ返りに引き返してくるならば、操縦者の生還率も高いだろうし、機体の回収もできて反復して使用可能となる。剣は空戦能力をのぞき航続距離を短くし、なおかつ身を守る手段はスピードだけ。あとはグライダーのように胴体着陸。多少の危険は伴うが、これは操縦者の腕に頼るしかないだろうが、これによって操縦者の生命は守られ、エンジンも回収できると考えた。」 言われるように特攻専用機としては作ってはいないと述べられています。しかし当時は第一線機でも特攻機に転用されていますので、運用面では事実上特攻機として扱われたことでしょう。但しこの剣自体は実戦には投入されなかったので少しは慰みになるのかもしれません。(作戦に投入された可能性が一部で指摘されてはいますが…確証は持ち得ません) コクピットを描いていて感じたのは、木製部品の多用化です。スロットル機構も合板であり、頭当て基部、はては座席までこれに準じています。また氏はこうも述べています。「それは決して技術の低下を狙ったものではなく、省略の限界を狙ったもの」と。設計者として自負の念があったのでしょか。 塗装図ですが、部隊マーク等が見つかる可能性は無いと思いますが、米本土で撮影した剣の中に明らかに胴体後部に3本の帯を消したと思われる機体があり、一応の思慮として試作3号機でしかも黄緑七号色で上面を迷彩していたと設定して色付けをしてみました。 以前「インターネット航空雑誌ヒコーキ雲」に投稿されていた方が、当時見たという剣の手書き塗装図を発表れていました。その方の絵には垂直尾翼に文字?が描かれていたり、濃緑(青?)のモットリングが施されていて私もグット来るものがあったのですが、皆さんも訪れて確認してみられたら如何でしょう。 この剣を描いていて感じたのは…大戦末期の日本の実状がこの飛行機に投影されていて、寂しい気持ちになりました。二度とこの様な航空機が設計されない事を願うばかりです。
2013/06/02
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この零戦は吹上浜と錦江湾から引き揚げられ復元されたニコイチ零です。資料館2階に展示してあります。しかも唯一お持ち帰り撮影が可能となっています。型式も52型となっていますが、吹上浜のは52型丙?もう片方は21型ともいわれていますが無難にまとまっています。 ところで、現在の日本の物づくり、とりわけ製造業においては高精度・高品質であり、製品管理も行き届いています。しかしこの感覚で1940年代当時の日本の製造業を観察すると…私みたいな勘違いが生じるというお話をします。 一万機以上生産された零戦ですが、その製造方法はハンドメイドに近いという事です。機械化されたラインはあったとしても、随所に切り張り、リベット打ちと工員の腕がものをいう生産行程でした。1機一機の細部を見れば微妙な違いが出てきます。実はこれに惑わされて、随分以前に勘違いした事があるのです。 零戦や雷電等での垂直尾翼左右非対称問題です。細部を細かく見ると確かに左右で違いが出ているのです。私は直にリブがクラークYに似た形状ではないかと思いました。さすればエンジントルクをうち消せるからです。つまりドイツのBf109の垂直尾翼処理の方法と一緒だと感じたのです。 早速この疑問をMARUさんにお尋ねしたところ、ものの見事に論破されてしまいました。つまり上から見てもリブは対象で取り付け角度も0°が正解なのです。だとしたら…どう打ち消しているのか更に疑問が膨らむわけです。答は当時の飛行中の写真にありました。巡行時は後ろから見るとわずかですが右にふれているのです。つまり操縦者は右足にテンションをかけているのです。 そこで更に疑問が湧きました(笑)そんな何時間も巡行時に力を入れていれば疲れるだろうと。しかしこれも考えてみれば自分の行動で理解しました。自動車を運転している時に右足はアクセルを踏んでいる訳で…しかも何時間も前に進む為に踏んでいるのです。 で、なにを言いたいかというと、ざっくりと零戦の細部はオンリーワンが存在しえる事、なにも鹿屋零でなくても、21型と52型のニコイチが当時は存在している。といのが結論ですね(笑)添付写真は渡邊さん提供です。
2013/06/01
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