ソウル生活〜

ソウル生活〜

高校に就職する




 悪夢の学院生活にピリオドをうち、韓国語の勉強をするため、10月から始まる大学の語学堂に申請書を送った。


 学院は8月末で辞めるので、住むところを探さなければならない。住居は学院支給のアパートに住んでたので仕事を辞めると追い出される。


学校の近くに下宿を探しに行った、語学堂の事務室から下宿を紹介してもらい、見に行った。歩いて5分くらい。朝晩の食事付きで35万ウォン(3万5千円)。部屋は半地下だけど、窓は地上にあるので明るい。しかし、3畳よりも狭い。独房みたいな感じ。


その下宿やさんには日本人が一人いた。その日本人は2級レベルだったが、韓国人の話すことはほとんどわかるらしかった。感じのいい人だったし、下宿のアジュマもよさそうな人だったので、契約をすることにした。


8月末に学院を辞め、荷物は「ヨンダル(用達)」という引越しやさんよりも、規模の小さい何でも屋に頼んで荷物を運んだ。


ビザが切れるので、すぐに日本に帰国しなければならない。9月1ヶ月は日本にいるつもりなので、下宿には1ヶ月間住まないので、35万の下宿代を負けてほしいと頼んだ。だって、食事は1回もしないから。


     が



それまでニコニコしていたアジュマは「35万のうちから食事代を少し負けてくれ」といった途端、


鬼の形相になり、


「何言ってんだよ。そんなことできるわけねえだろ、1文もまけられないよ、早く残金をよこせ」 ← 当時は韓国語は全くできなかったけど、そういう風に聞こえました。


なんか、いやーーな感じのアジュマだわ。下宿の部屋も狭いので荷物は山積みにしたまま。ダンボールをあけたら置くところが無い。



暗い気分で日本に帰りました。



C3の短期研修ビザを持って再び韓国へ。

10月から10週間、韓国語1級レベルのCクラスで勉強しました。クラスメートは

韓国訪問 13回目のアコ氏。日本で2年間韓国語勉強済み。

韓国訪問 ?回目のK子氏。 日本で1年間韓国語勉強済み。

○○教会に婚約者あり、教会に住んでいたY子氏。教会がらみで韓国語の会話ができる

以上日本人はほしそらを含めて4人。



大学のロシア語の先生、ロシアで韓国語を1年勉強済み。


ベトナムの大学で韓国語専攻のB子氏。専攻の大学生なのに韓国語だめ。


トナム人、クラスで唯一の男性B氏。授業には数回しか出席しなかった。


アメリカからボーイフレンドと二人で来て学院で英語を教えているキョッポS子氏。


全部で8人の小クラス。


ほとんどの人は母国で韓国語を勉強している人たちだったので、ほしそら一人お馬鹿状態。


月~金まで1日4時間の授業を受けて、クラスメートとお昼ご飯を食べたら、宿題、予習、復習、にいそしんだ。単語帳を作り、毎日日記を韓国語で書き、10週間勉強したら、かなり上達した。


初級レベルは上達が目に見えて表れるし、簡単だから、少し勉強すればだれでもできるようになる。


下宿は朝から油ベトベトの「豚カツ」(日本の豚カツではない)がたまーーにでてきたり、おかずはキムチ、スープのみという食事が結構多くて、1ヶ月でいやになった。アジュマはお金だけが大好きだし。


11月にアパートを探し、下宿はでた。ここは学校から歩いて3分。

12月に入り、10週間の研修も終わるので、

12月と1月は学院で韓国語の勉強をすることにした。



2月からまた10週間の2級がはじまる。登録料を払い込んだら、銀行の残金がそこを尽きそうになった。2年間働いても、貯金はなかったのね。フーテン生活は半年がぎりぎり。やっぱり、仕事しなきゃいけないのか、、、、

と思っていたところに



同じ下宿にすんでいた日本人のJさんが、「ある高校が日本語の会話の先生を探している」という話をもってきてくれた。

Jさんも同じ語学堂の1級レベルで勉強していた。Jさんの担任の先生は実は日本語専攻の先生で、友だちが高校で働いている。その高校がネイティブ教師を探している、ということだった。


お金がなーーーい、どうしよう、


と思っていたので、履歴書を送り、面接を受け、採用してもらえることになった。


語学堂の2級クラスの登録料はすでに払い込んでいたので、払い戻しをしてもらった。授業が始まる直前の週だったので、80%しか返金されなかった。


高校は公募をしないで、日本語担当の先生が自分で探すか、高校の先生が知り合いを紹介するシステムだった。私は運良く、日本語担当の先生が気に入ってくれたので、採用された。修士を持ち、韓国語が堪能な人もいらっしゃたのだが、日本語教育能力試験に合格していること、日本語教育について少し勉強していること、日本語を教えた経験があること、などで採用されたようだった。


2月末に、またビザ取得のため日本に帰り、


3回目のE2ビザでまた日本語教師として


はじめて高校で働き始めた。


外国語高校という英才教育を目的とした高校らしかった。


そして6年間、かしこい生徒たちのおかげでなんとか働くことができました。


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