日本の造船企業といえばその大多数が国内のみで建造を行っております。その一方、少数ではあるものの、国内と海外のどちらにも造船所を有する企業も存在してます。その中の1社が今回紹介する 常石造船 です!
国内外建造を行っている造船企業としては、中国に合弁企業を持つ川崎重工や同じく三井E&Sなどがあげられます。特に三井は2020年に常石と提携を発表したことで一時話題に上がりましたね。
今回はこの常石造船を一緒に見て、造船産業の国内外建造の歴史などを見ていきましょう。
常石造船とは
常石造船自体はあまり有名ではないのかもしれません。しかし、造船業界では名だたる企業の1社なのですよ。
後ほど話すTESSシリーズや業界標準となったカムサマックスもそうですが、企業の竣工量でも国内トップ5に入るか否か程度に建造しております。
造船業の現状と課題 より。また、常石造船本社工場は51万総トンであり、本社とフィリピン、舟山を合わせると182万総トンとなり、中国合弁企業を加えた川崎重工業の228万総トンに次ぐ国内企業第4位に位置する。
基本建造船はハンディサイズからハンディマックスサイズまでのバルカー、パナマックスバルカー、フィーダーコンテナ、プロダクトタンカーになります。
それでは、略史から見ていきましょう。
常石造船の略史:第2次設備処理まで
さて、造船というと三菱や石播という時代はもう過去の話です。現代日本の造船業における主役は、彼ら大手重工業系企業群ではなく、今治造船や常石造船など オーナー系造船専業企業群 に移ってます。
まず初めに、常石の歴史を概観しましょう。
石炭輸送と塩浜造船所の誕生
常石造船の祖業は造船業ではなく、海運業からでした(現在の 神原汽船株式会社 )。
1903年に帆船3隻を購入し、大阪〜小倉間の石炭輸送の事業を開始しました。「 一度の航海で中古船の購入資金が回収できた 」とあるように、当時の海運業は未来ある事業だったそうです。そして、創業者神原氏が 船の製造や修理を自社でできればコストダウンにつながる と考え、造船業への進出を決意しました( 寺院経営における企業スポンサーの役割に関する一考察─神勝寺と常石グループの事例から より)。
かくして、1917年、常石造船の前身となる塩浜造船所が現在の広島県福山市沼隈町常石に設立されることとなりました。
なお、塩浜造船所開設よりも前から自社工場で船舶の修理を行っており、その流れで新造船も開始することとなりました。新造船第1号となる「第二天社丸」は造船所設立前の1913年に建造されてます( 経営者の輪ツネイシホールディングス株式会社神原勝成氏 より)。
※造船所開設前までに保有船は13隻に上っており( 備後地域機械工業集積の100年ー創業と技術蓄積、分業ネットワークに着目してーより )、造船業への進出は、この海運事業での成長の基盤を無視してはいけないでしょう。
※塩浜造船所としての新造第1船”第四天社丸”は、創業同年に竣工しました。
戦争と常石造船への改組
常石造船の祖業は上記の通り1917年ですが、常石造船の誕生は1942年となります。
1942年と聞いてハッとした方、よく勉強されてますね。そうです、この年は第2次大戦による船舶需要の急増に伴う、国家方針としての造船所集約の年でもあります。
「昭和のはじめごろには、外常石に三軒(西浜・中浜・塩浜)、常石の大越に一軒(藤井)、敷名に四軒(波多見屋・大浜屋・沖西屋・橘屋)の造船所があった。これらの造船所では西洋式帆船を被曳船や機帆船に改造する仕事が盛んであった」 (沼隈町教育委員会編(2004)『沼隈町誌 民俗編』沼隈町教育委員会、324ページ)とあるように、この地では造船業が盛んに行われてました。
1942年に国から指示があり、このうち外常石と大越の造船所4軒を常石造船に、敷名の4軒を敷名造船として統合し、戦時標準船の建造を開始したのです。
このような経緯があり、常石造船の創業は1942年となっております。なお、当時はまだ国内輸送用の木造船の建造・修理の段階であり、鋼船などは建造していません。
鋼船建造の始まり
戦後の混乱期を終え、常石造船が鋼船を建造するのは1958年のことです。鋼船第1船となる”美小丸”(貨物船、361総トン)を竣工させ、翌年には 総トン数700トンの船台を完工 します。木造船から鋼船へシフトして、直ぐに大型化に対応しなければならないなど、当時の船舶市場は目まぐるしい変化をしておりますね。トン数については トン数のいろいろ を参照ください。
※鋼船第1船”美小丸”。 常石グループHP より。
船舶大型化への対応を続け、常石造船にとって初となる大型鋼船”第三天社丸”(4,100DWT)は、1964年に竣工しました。鋼船建造の開始からわずか6年で大型船の建造を行ったことになりますね。
三井造船との提携と海外展開の始まり
三井造船との提携
2020年に発表された三井E&Sと常石の提携ですが、両社の関係が始まったのはそれ以前の話です。すなわち、 1966年、三井と常石は業務提携を結ぶ こととなりました。
今でこそ中手造船業もVLCCなどの超大型船や中・大型船を建造しますが、当時はそれだけの技術力も資本力もありませんでした。大型船を建造する三井からの技術支援は、お金はかかりますが、ありがたいものだったでしょう。
※なぜ技術力も資本力もけた違いな大手が中手と提携を結んだのかについては、話すと長くなります。少し話すと、大手にとっては超大型船市場に集中したく、しかし中小型船市場を無視したくないという思惑がありました。一方の中手は、大型船建造設備の新設には大手と提携が必要とする運輸省への対応や、造船業が中小企業近代化促進法の指定業種に認定されたためなど、様々が要因があります。研究者ならともかく、一般の方は知る必要がないので、無視しましょう。
沼隈町常石の航空写真(1961年6月30日撮影)
出所: 国土地理院地図・空中写真閲覧サービス より MCG613C15-444
海外進出の始まり
2021年を迎えた今となっても、国内外で造船業を行っている企業はあまり多くありません。 常石造船の海外進出はなんと1967年のこと なのです!それも中国や韓国などではなく、重工業の土台さえないパプアニューギニアのラバウルでした。
「 昭和42年(1967)ニューギニアのラバウルに造船所の建設と現地の人の技術指導という事で半年間行っていました。当時は公的機関の海外青年協力隊などは無い時でしたが沼隈町の常石造船の合弁会社ニューギニア造船所の建設工事と溶接技術などの指導で行きました 」( 福山南ロータリークラブ週報ふれあい2010-2011年度12号・13 号より)とあるように、本格的な造船事業での進出でした。
ただ、「 当社はかつてパプアニューギニアで造船所を建設し失敗したり 」と話すように、わずか2年後の 1969年に撤退 してます。
少し時代が飛びますが、1982年には南米ウルグアイに進出し”神原ウルグアイ造船所”を設立します。同社では河川輸送用のバージなどを建造しましたが、2002年に撤退することとなりました。なお、2008年には同様の事業内容でパラグアイに進出します。
ラバウルとウルグアイの失敗の経験が、後に話すフィリピンや中国への進出に重要な経験をもたらした と、私がインタビューに伺った際に教えていただけました。
http://www.glocal-japan.com/southamerica/relation/
http://www.ccijr.org.br/chushokukai-kouwa/tsuneishi20161208.pdf
2度の設備処理
さて、1967年に当時の企業規模では常識外れといえる20万重量トンの修繕ドックの建造許可を取得し、ラバウルの造船所が開設した同じ年の1968年に完成します。
「 1960年代、造船業界大手で超大型石油タンカーの建造が相次ぐ中、瀬戸内エリアにはこのサイズを修繕可能なドックがありませんでした 」( 常石グループHPお蔭様で常石造船は創業100周年を迎えました より)とあり、建造と修繕のどちらも重視していたことがうかがえます。
そして、1973年、オイルショックが生じます。コンテナ船やタンカーなど建造船種を増やしつつ、また修繕船の受注を増やすなど不況を乗り越えようと努力しましたが、国策としての設備処理に対応せざるを得ませんでした。
※なお、1976年に国内では750隻が係船されていたそうです(著者インタビューより)。オイルショック不況の恐ろしさが良くわかりますね……。
拡大路線と第1次設備処理への対応
1976年、常石は県内の本社近くに約28万平方メートルの土地を有しておりました。そこに造船や海洋機器工場を建設する予定だったのですが、オイルショックによる造船不況から開設をあきらめました。その代わりと言ってはなんですが、 当時常石よりも格上だった波止浜造船の株式の30%を取得し、業務提携を結ぶ こととなります。
※なお、波止浜は1977年に420億の負債を抱え倒産します。この負債額は同時期に倒産した造船企業で最大のものでした。
1980年の第1次設備処理では、常石造船は7社でのグループ処理を行い、自社の設備を死守しました。特に、波止浜以外はこれまで全く関係が無い企業だったため、設備処理に対応するためだけのグループだったと言えますね。
第2次設備処理
1988年、2度目の設備処理が国策として行われます。こちらでも常石はグループ処理にて自社設備の処理を回避しました。特に、このグループは前代未聞の13社での処理となり、最終的に常石は自社設備の拡張と新設、波止浜は多度津工場の拡張を行いました。
後の話になりますが、この拡張により、1991年に18万DWT級のバルクキャリアを建造することが叶いました。
※なお、常石造船に第2船台は存在しておらず、あくまでも書類上の存在だったと見られます。船舶建造枠取得のためだったのでしょうが、涙ぐましい努力が伺えます。
海外重視の建造体制へ
国内での活動としては、1992年にNKK(日本鋼管)と建造・修繕で業務提携を結ぶなどありましたが、国内での大きな変化はあまりありません。というのも、常石は海外へ目を向けためです。
オイルショック不況により作られた不況カルテルが終結されたものの、設備規制は依然として残っており、国内造船業の規制を回避するためには今治造船のようにより一層グループ化を進めるか、海外に出るしかありませんでした。そして、常石は海外進出を選んだのです。
その際たる事例が、多度津工場の売却でしょう。2013年に多度津工場を完全子会社として独立させ、株式の全てを今治造船に譲渡したのです。これにより、国内工場は本社工場のみとなりました。
https://www.tsuneishi.co.jp/news/release/2013/07/1897/
最後に本社工場の設備を見てみましょう。海外2社は修繕能力が少ないですが、代わりに船台2基とドック1基を有してます。一方、本社工場は逆に船台1基とドック1基の計2基で新造船を行っており、その代わりに修繕ドック4基と多数の桟橋が設置されてます。かつてはマザー工場としての本社工場であったのですが、今となってはそうとも言いにくいですね。
常石造船の海外進出
さて、常石といえば海外進出が有名です。既に書いた通り、これまでにラバウルやウルグアイに進出しておりましたが、そこでの建造はあくまでも河川用のバージ船など、極めて小規模なものでした。一方、これから話すフィリピンや中国での建造船は列記とした外航船でした。
※ もともと常石は東南アジアに10,000DWT程度の新造船建造を行う造船所を2~3社持ちたいと考えており、時間の経過と共に1つか2つは当たり、それなりに発展するのではと考えておりました (「トップインタビュ—神原勝成・常石造船社長に聞く」『COMPASS』1998 年11 月号より)。その中でフィリピンが選ばれた理由としては、?@国民の教育レベルが比較的高い事や、?A英語が公用語であること、?Bカトリック教徒がほとんどで日本人と大きな違和感がないこと、?C地理的にアジアの中心に位置し不便さが無い事、?D長期にわたり労働力が確保できること、?E反政府勢力がセブ島であまり活動していないこと、があげられます(長谷川弘(2004)「常石造船の海外展開について」『季刊中国総研』8(4), 19-23.より)。
フィリピンへの進出
フィリピンへの進出ですが、 いきなり新造船からではありません でした。まず1992年、セブ島に船舶設計会社TTSP(TSUNEISHI TECHNICAL SERVICES (Phils.) Inc.)を設立し、翌年に船舶解体や資源リサイクルを目的とするK&A METAL INDUSTRIES, INCを現地のアボイティス・グループと合弁で設立しました。 新造船の前に船になれましょうと言う考え ですね。
そして 、新造船事業を目的とする THI(TSUNEISHI HEAVY INDUSTRIES (CEBU), Inc.) が1994年に設立されたのです。こちらもアボイティス・グループと合弁で、常石は80%を出資し、残り20%をアボイティスが出資しました。
1995年から工場建設が開始され、翌年に第1船の建造を開始、約1年かけて新造船が完工することとなります。また、浮きドックを利用した修繕船事業を1996年に開始しておりました。
2度の拡張
もともと THIは安定してバルクキャリアを建造する方針 であったため、最大45,000DWT程度の船舶が建造可能な船台1基のみの比較的小規模な工場でした。実際、当初の建造船種は23,000DWTのバルカーのみで、1997年に2隻、翌年は4隻の建造実績と建造数も少ないものでした。
しかし、徐々に建造隻数が増加し、1998年に早くも拡張が決定されました。これが第1の拡張、すなわち、工場の敷地面積を20万平方メートル増加し40万平方にし、船台を1基増やしたのです。この第2船台は2004年に完成し、最大船型90,000DWTという能力でした。
そして第2の拡張が大型ドックの建設です。2009年に完成したドックは最大船型180,000DWTと、波止浜造船多度津工場のドックと同規模のものでした。
何故2回目の拡張が必要だったかについてですが、実は、多度津では2007年よりアフラマックスタンカー(107,000DWT)の連続建造中であり、180級BCの建造が叶わなかったのです。その為、THIでは2007年以降180BCの連続建造に入りました。
2020年の設備一覧
THIは現在も新造船を中心に活動しており、年間最大建造数は30隻とされてます。国内工場では建造できない18万トン級を含むバルカーを建造すると同時に、内航船向け修繕船事業も行っております。
中国への進出
次に中国への進出を見ていきましょう。
実は、中国は外国企業の独資による新造船事業の進出を認めておらず、川崎重工などは合弁の形で進出しておりました。
2段階を経て進出
常石の中国進出の第一段階は、2001年に独資で「常石(鎮江)綱装有限公司」を鎮江設立した事が始まりです。同社では小型内装品や鋼材加工品、艤装品の製造を手掛けました。
※当時、新造船は独資での進出は不可でしたが、艤装品などの製造については可能でした。
この橋頭堡を築き、2003年3月に舟山にTMD(常石集団(舟山)船業発展有限公司)が設立され、同年12月にTHB(常石集団(舟山)大型船体有限公司)が設立されました。両社では居住区ブロックや船体ブロックを製造しており、その立地も隣接してました。
特にTHBには2004年に船台1基が設置され、ここで製造された船体ブロックが約5日かけて常石工場へタグボートで曳航されました。
第二段階はこのTMDとTHBの統合です。舟山の両社では居住ブロックや船体・船尾ブロックを製造するなどほとんど新造船に近い状態であり、2007年中国当局より新造船の建造許可が下りることとなりました。つまり、独資で中国で新造船を開始したのです。
その為、同年に建設中だった第2船台が完成し次第、すぐさま新造船建造に取り掛かったのです。建造第1船となる58,000DWT級バルカーはなんと同年10月に竣工しました。そして、竣工の少し前である9月に両社は統合し、 TZS(常石集団(舟山)造船有限公司) となったのです。
その後、フィリピンの新ドック完成と同じ年に、中国にも新ドックが完成し稼働を始めました。
2020年の設備一覧
本社工場やTHIと異なり、TZSは新造船を中心に活動しております。また、建造船種もバルカーのほかコンテナ船や石油精製品タンカーの建造も行うなどTHIより高付加な船を建造しているイメージがあります。
その他海外工場
常石は2008年にパラグアイに進出しており、2011年に造船所を建設しました。 ASTILLERO TSUNEISHI PARAGUAY S.A. という社名です。
常石グループ南米事業の紹介と展望 より。
南米ではこのような河川用バージ船やプッシャーボートを建造しております。事業内容については上記南米事業の紹介と展望か、 常石グループのパラグアイ事業 をご覧ください。
製品紹介
長々と略史を欠いてきましたが、次は建造数船を見ましょう。常石造船の経営方針として、最も重要なものに大型船を重視しないと言うものがあります。
『 常石造船では中型船領域の「ばら積み貨物船(ハンディ〜ポストパナマックスタイプ)」、「コンテナ運搬船(1,000TEU〜4,000TEU型)」、「プロダクトタンカー(LR1型)」の3つの船種への経営資源の集中によるトップブランド化を目標に掲げています 』( 常石造船 フィリピン拠点で初建造の新船型 1,900TEU型コンテナ運搬船を引渡し より)。
TESSシリーズ
常石といえば TESS(Tsuneishi Economical StandardShip) シリーズが有名です。これは、常石造船に多くの発注を行っていたノルウェーの海運会社ウグランドが1981年に40,000DWTバルカーを建造する考えを示したことに始まります。
当時、国内船主の需要は36,000DWTであり、4万級は過剰でした。その為、当初から海外船主を対象顧客とした製品となりましたが、これが大成功を収めることと成しました。
※そうは言いつつも、当初は40,000DWTと36,000DWTの2種が開発されました。
TESSシリーズ累計竣工500隻目となるTESS64 AEROLINEの本船 。
TESS開発にあたり、当初から決められていたことがありました。それが、世界の85%以上の港に入れる寸法(全長610ft(186m)、幅100ft(3.4m))と、パナマ運河通過時の経済性(幅3,5m以上は水先案内人の数が一気に増えて費用がかかる)の両立でした。
その後市況の悪化に伴い一時開発が停止されますが、市況が回復し再開されます。ただ、当初計画ではなかった機能が付け加えられることとなりました。低コスト低燃費のほか、バルクキャリアにもかかわらずコンテナやスチールパイプなど様々な貨物を積めるよう設計されたのです。
TESS40はこのような経緯を経て開発されました。第1船は1983年にウグランドにより発注され、開発者が「 これほど売れるとは思わなかった 」(常石造船「TESS」シリーズ100 隻完工和魂洋才のハンディバルカー」『COMPASS』1999 年11 月号より)とコメントを残すほど大成功を収めました。最終的にTESS40は10年間で40隻、1994年位第1船が竣工したTESS45が8年間で69隻建造されました。
その後もシリーズは増加して行き、現在も数種類展開しております。
レディーメイド型設計と原価標準船
でした。しかし、TESSは当初より寸法を決めているなど、オーダーメイドではなく レディーメイド型 でした。このことは製造観点から見ると非常にメリットがあり、同じ船型の物を連続建造することで経験効果を得られ、それは技術力が低い海外工場での建造に際しても利益をもたらしました。
※ただし、開発完了後に受注したバルカーの全てがTESSというわけではありませんでした。
また、2006年に竣工することとなったTESS58からは 原価企画 という手法が盛り込まれました。 原価企画とは開発・設計段階からマーケティングに基づく船型を開発し、製造現場の工数を明確にし、船にかかるトータルコストが最小になるよう設計しコストを作りこんでいく手法 のことです。考え自体は他産業で既に実施されていた考えですが、それを船に適応したのは珍しい事例と言えます。
http://merc.e.u-tokyo.ac.jp/mmrc/dp/pdf/MMRC286_2010.pdf
カムサマックスバルカー
TESS以外にも業界標準となった カムサマックスバルカー があります。2002年に開発がスタートし、2005年に第1船が竣工、その10年後に200隻を超える大成功を収めます。
https://www.tsuneishi.co.jp/products/kamsarmax_sp/history/#main
TESSシリーズがハンディ〜ハンディマックスバルカーだとしたら、カムサマックスはパナマックスバルカーだと言えます。元々ギニアにあるボーキサイト主要積み出し港であるカムサ湾に入港できる最大船型として開発され、この”カムサマックス”は常石が商標登録をしております。
※なお、当初はTESS76の発展系であるTESS82でしたが、TESSとは別シリーズとなってます。
カムサマックスは 2000年から2014年までに竣工した80,000DWT〜84,000DWT未満のバルクキャリアの建造実績では世界の28%を超えるトップシェアを誇っており 、その優秀さが理解できますね。
その他船種
TESSやカムサマックスサイズ以外に、バルカーにはT-CORE180というケープサイズバルカーがあります。
このほかアフラマックスタンカーやプロダクトタンカー、フィーダーコンテナ船など多岐にわたります。常石としてもバルク一本ではなく、コンテナやタンカーで安定度を増したいのでしょう。
終わりに
今回は国内中手の常石造船を紹介しました。造船業では珍しい国内外建造を行っており、独資での中国進出など決して侮れない企業に他なりません。
私がまだ大学院生時代にインドネシアへの進出の話もあったのですが、うやむやになっております。日経新聞では「 早ければ2016年に船の修繕から始め、19年にも建造に乗り出す 」との報道があり、南米のバージ船など小規模なものではなく大規模なものを予定していたものと思います。
もともと東南アジアに2~3カ所を展開したいとして増したのは既述の通りで、今もなおその考えは残っているのでしょう。
フィリピン進出の経緯に合った長期的に労働力が確保できると言うのは現状の日本を見ると先見の目があったと言えます。人手不足が叫ばれる中、造船業は3K産業と見られあまり就職先として魅力的ではありません(もちろん、本社技術採用や事務採用などは依然として高い倍率のままです)。
また、賃金に関しても、日本の経済成長の無さと途上国の成長を考慮しても、フィリピンの人件費は日本よりも低く、為替変動にも日中比で対応可能な体制を整えてます。
インタビューの際に各工場での品質のばらつきは無いのかと伺ったのですが、力強く”ない”と答えていただきました。もちろん、生産性などは同じとはいきませんが、完成品は同等レベルだそうです。今では両国の現地人が日本人を指導するなんてこともあるそうです。
今治とJMUの国内建造を中心にした連合と、国内外建造を行う常石。両社は建造船などでは大きく異なりますが、建造戦略ではまさしく対比できる存在となりますね。
常石は造船のみならず様々な事業に進出しております。これからのますますの発展に期待して、長々と続いた本記事も終わりです。
ここまでありがとうございました。
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