まず代表的なのが、昭和のはじめごろ都市部に登場した「モダンガール」と呼ばれる女性たちです。当時の一般的な女性たちは、ウェーブをつけた長い髪を切らずにまとめた髪型に和服姿が多く、ワンピースなどの洋服を着た女性はまだまだ少数派でした。しかし、モダンガールと呼ばれた女性たちは、髪は短く切ったショートボブが特徴的で、ファッションは大胆な柄物を着こなしたり、ロングスカート、ハンドバッグといった最新のスタイルで街を歩きました。彼女たちは、常に自由な発想で新しいスタイルを追求する先進的な女性として一躍注目の的となりました。
現代のビジネスウーマン、“職業婦人”のおしゃれ感
大正時代後期から昭和にかけて、経済の発展とともに働く女性たちが増えていったことは、第10回で詳しく紹介しています。そして、特にこの時代になると都市部では、企業や官公庁の事務員、現代でいうところのファッションモデルであるマネキン、ダンサーなどといったさまざまな新しい職業に就く女性たちが登場し「職業婦人」と呼ばれました。彼女たちは、その職業にふさわしい礼儀や身だしなみも大切にしていましたが、そこに自分なりの個性を活かすおしゃれを楽しんでいました。
こうした「モダンガール」や「職業婦人」のおしゃれに代表されるように、同じおしゃれをするにしても、大正時代以前の礼儀を重視したよそおいから、単純にきれいになりたいという思いでおしゃれをし、自分を表現する女性たちが増えていきました。では、そんな女性たちに支持された最新の化粧とはどのようなものだったのでしょうか。まずは当時の女性たちのメークからみてみましょう。
現代に繋がるメークのきざし
化粧下地の上に白粉を塗り、眉墨で眉を書き、口紅、チークといった基本的なメーク法は大正時代から変わりませんが、この時代、それぞれの化粧品にさまざまな色、タイプが登場してきます。つまり、ライフスタイルや個人の好みに合わせ、だんだんと化粧法や化粧品が多様化しはじめた時代だったのです。ではどのような化粧法、化粧品が登場したのでしょうか。
ベースメークは仕上がりの好みに合わせて
昭和初期、ベースメークに使う白粉はそれぞれの好みに合わせ、水白粉、練り白粉、粉白粉の3種類のタイプが使われていました。中でも粉白粉を使ったベースメークは手軽さから多くの女性たちに支持され、大流行しました。その方法はまず、下地には、大正時代末期から普及し始めたバニシングクリームを使って顔や首筋に塗り、そしてその上にパフで粉白粉をはたくという手順。仕上げに余分な白粉を刷毛でささっとはらって完成です。
また、白粉の色も自分の肌に合った自然な肌色や小麦色に仕上がるよう、定番の白、肌色はもとより、桃色、黄色、緑色、紫色といったさまざまな色が使われるようになりました。日本でも1890年代には、既に色付きの白粉が出始めていましたが、多くの女性たちに普及していったのは、個人の好みに合わせたメークをするようになっていったこの時代に入ってからのことです。
リップスティックと新しい口紅の塗り方
日本では、1910年代、大正時代に「棒口紅」と呼ばれるリップスティックが作られるようになりましたが、現代のように多くの女性が気軽に使うといった状況にはなっていませんでした。しかし、昭和に入ると棒口紅は、一般の女性たちに浸透していきます。昭和3年には平尾賛平商店、昭和6年にはウテナ、また昭和10年には、オペラから当時としては画期的な繰り出し式の棒口紅が登場しました。
棒口紅は、筆などを使わず直接塗れる簡単さも手伝って、少しずつ広がっていきました。また、口紅の塗り方も大正時代以前の女性たちに見られる白粉で唇を隠し、おちょぼ口に書くのではなく、本来の唇に沿って書き、ひとりひとりの唇の特徴に合わせて書くことが美しいとされるようになっていきます。
目ヂカラメークのはじまり?!
日本でアイシャドーが登場した大正時代、当時はまだアイシャドーを使うことへの抵抗感や一般女性はあまり使わないといった偏見もありました。しかし、昭和7年以降の洋服の普及とともに、和服ではなく洋服に似合う化粧法として少しずつ認知されるようになっていきました。色も緑、茶、ダークブルーなどが日本人に合うとされました。また、アイシャドーだけではなく、つけまつげやアイペンシルでラインを書くなど、目を強調するメークが登場しはじめました。
こうしてみてみると、ベースメークが多様化したり、リップスティック、アイシャドーの登場など、現代の女性たちの化粧方法、化粧品に近いものが登場してきたと思いませんか?昭和初期は現代に通じる、おしゃれのきざしが見え始めた時代だったのです。
参考文献
『モダン化粧史 -粧いの80年-』/ポーラ文化研究所編
『近代の女性美 -ハイカラモダン・化粧・髪型-』/村田孝子編著
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