1081年に前王家の ドゥーカス王朝(1059-81)がクーデタで倒れ、ドゥーカス朝と同じく軍事貴族の コムネノス朝が始まりました。初代皇帝 アレクシオス1世(位1081-1118)の治世では、これまでの 軍管区制(全国をいくつかの テマという軍管区に分けて再編成し、それぞれに地方行政を兼任する軍司令官を置く制度)を中心としていた中央集権国家体制から、貴族の軍事奉仕を条件に土地およびその管理権を分与させる(ただし譲渡や相続は不可能)制度を採り入れたのです。東ローマ帝国における封建制度の導入で、これを プロノイア(プロニャ)といいます。プロノイア制の導入で軍事貴族の連合体制が整い、帝国は幾分安定しました。しかしドゥーカス王朝時代からの セルジューク朝(1038-1194)の圧迫は依然として続きました。ちなみにセルジューク朝では地方分権化しており、占領した小アジアでは ニカイア(ニケーア。現イズニク)を首都に ルーム・セルジューク朝(1077-1308)がおこされました。
コムネノス朝では帝国再興にむけて、前のドゥーカス家と手を結び連合体制をとりました。軍隊を再建するため、かつての東ローマ帝国の自治領であり、その後独立した海洋国家 ヴェネツィア共和国(697-1797。別称" アドリア海の女王")と提携して海軍拡張に努め、海の防衛を徹底的に行いました。これにより、まず南イタリアを占領したノルマン人撃退に成功しました。
そして今度は各地の地方政権を従えたセルジューク朝対策にむけて、アレクシオス1世は大きな決断を行いました。西欧のキリスト教世界を支配しているローマ教皇 ウルバヌス2世(位1088-99)に向けて西欧の援軍要請を中心とした内容の書簡を送ったのです。結果的にこれがイェルサレム奪還に向けた 第1回十字軍(1096-99)としてあらわれ、ニカイアは第1回十字軍により取り戻されました(1097)。これによりルーム・セルジューク朝はイコニオン(現コンヤ)に遷都することになります。アレクシオス1世の兵力拡張策は功を奏し、領土も幾分は回復しました。
しかし12世紀になると、ブルガリア(第二次ブルガリア帝国。1185/6-1396)やセルビア(ネマニッチ朝。1171-1371)が独立するなどして、コムネノス朝の失政が続き、同王朝はやがて滅亡(1185)、コムネノス家の遠縁にあたるアンゲロス家が引き継ぐことになりました(アンゲロス朝。1185-1204)。
引用文献『 世界史の目 第199話 』より
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