情報
住所:中間市上底井野1696-1
創始:1638年(寛永15年)
社格:村社
御祭神:品陀和氣命(ほむだわけのみこと)=応神天皇(おうじんてんのう)
息長足媛命(おきながたらしひめのみこと)=神功皇后(じんぐうこうごう)
比?淘蜷_(ひめおほかみ)=宗像三女神(むなかたさんじょしん)
御神徳:開運招福、武運長久、子孫繁栄、勝運、縁結び、厄除け、家内安全、長寿、海上安全、交通安全
御朱印:有
由緒
寛永15年(1638年)8月、筑前国2代藩主黒田忠之公が、底井野に別館(現在、底井野小学校のある所)を建てるに当たり、廃城となっておりました。
猫城跡に先ず日頃崇敬するところの 宇佐八幡宮 の御分霊を祀ったのが 月瀬八幡宮の始まりであります。
御社号は初め 猫城八幡宮と称していましたが、後に 宇佐八幡宮 境内を流れる月瀬川にちなみ月瀬神社、その後 月瀬八幡宮と呼ばれるようになりました。
(参考資料: 月瀬八幡宮HPより )
猫城について
現在、 月瀬八幡宮の社殿が建つ所は、室町時代、「 猫城」と呼ばれる小さな出城がありました。
遠賀平野の田畑の中に丘陵(高さ20mの円錐状)の上に築かれた端城は、猫の姿にみえることから「 猫城」と呼ばれていました。
また一説には、かつて、この地で麻生氏と宗像氏の両軍がにらみ合い、合戦を繰り広げました。
「敵が攻めてくるときは山が高くなり、城から攻め下りるときは山が低く感じるため、まるで猫が背を高くしたり低くしたりしている」と言われていたことから名付けられたともいわれています。
高さ20メートルほどの丘陵上に所在し、そこからは宗像・鞍手・遠賀が一望できる要衝の地であるため、15世紀中頃から遠賀郡周辺に勢力を強めていた麻生氏によって端城として築かれたとされています。
端城とは、本拠地の城を守るため、見張り的な補助的役割を持った砦などのことです。
実際に「 猫城」は、天守閣や城壁となる石垣などは確認されていませんので、まさに陣屋のようなものが存在していたものと考えられます。
天正6年(1578年)、山鹿城主麻生元重と宗像大宮司氏貞は、遠賀と宗像を巡り幾度となく合戦を行いました。
その戦の後、遠賀川の東を麻生領、西を宗像領となり、「 猫城」は、麻生氏から宗像氏の所領となりました。
宗像大宮司氏貞は家臣の吉田倫行と共に兵150余人を配属させております。
その2年後の天正8年5月上旬、今度は豊後国の大友宗麟から命を受けた鷹取城主毛利鎮実が、兵数千人を引き連れ「 猫城」を取り囲みます。
吉田倫行以下少数の兵士は、これを守り、援軍を呼ぶため宗像に向けて狼煙(のろし)をあげます。
この狼煙により援軍が宗像から駆けつけ城は守られたと言われております。
(参考資料: 月瀬八幡宮HPより )
散策
一の鳥居は取り忘れてました。
この写真は、二の鳥居です。
手水舎で身を清めます。
手水舎の横に階段があるんですが、祭壇がありお供え物が多数ありました。
夏越(なごし)茅の輪(ちのわ)くぐりと祇園祭が終わった後みたいです。
見れなくて残念です。
境内へ登る斜面に、 カノコユリがたくさん咲いてました。
綺麗ですよね。
階段の参道を上ると正面一段上に社殿、左に猫城址の石碑が見えます。
拝殿にて、感謝をお参りしました。
拝殿の中には、 猫城にちなんで、キラキラな猫の置物が可愛く置いてありました。
“猫城址”と書いてあるこの石は、俳優の 高倉健 さんが奉納したものだそうです。
高倉健 さんは、一時期こちらの八幡宮のすぐ近くに住んでおられて、この場所で友達と野球をしたり相撲を取ったりしたそうです。
ファンの方にとっては聖地のような場所かもしれませんね。
猫城跡の由緒書です。
最後に
元お城だったせいなのか、かなり急な参道の階段でした。
御朱印も頂けるそうですが、私が参拝した時はお祭りの後のせいか、誰もおらず、頂くことが出来ませんでした。
残念ですが、これも縁ですね。
用事の帰りに鳥居が見えて急遽上がった神社でしたが、 高倉健 さんの所縁のある神社ということを知り、嬉しくなりました。
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