マイアー・アムシェル・ロートシルト
神聖ローマ帝国帝国自由都市フランクフルトのゲットー(ユダヤ人隔離居住区)に銀行家モーゼス・アムシェル・バウアーの息子として生まれた。生まれた時の姓名はマイヤー・アムシェル・バウアーだが、元の家名であるロートシルト(「赤い楯」の意)に改姓。赤い楯は一族の家紋であり、また父モーゼスが開いた銀行の紋章でもある。名前の「マイヤー」は典型的なドイツ人名であり、一方ミドルネームの「アムシェル」は典型的なユダヤ人名である。マイヤー・アムシェルが11歳の1755年10月6日に父を亡くし、さらに1756年7月29日には母を亡くす。その後はもっぱら兄モーゼスに育てられた。
両親との死別後、ハノーファーのオッペンハイム商会に見習い修業に出る。オッペンハイム商会には王侯貴族の宮廷に出入りする御用商人がおり、彼らは王侯たちに資金を調達を行っていた。マイヤー・アムシェルは父の教えにより古銭の知識が深く、古銭収集で知られていたエストルフ将軍と取引・親交を深めることによりその商才を磨くこととなった。
20歳で独立したマイヤーは、フランクフルト・ゲットー内で古銭やメダルの事業を始めた。当時古銭は一般生活には殆ど利用価値がなかったが、諸侯、貴族、金持ちにはこうした物のコレクターは多かった。彼らにカタログを送り、郵便局を通じて注文を受けて配送する通信販売を行ったのである。すぐに頭角を現したマイヤーは、1年後に熱心な収集マニアであったヘッセン=カッセル方伯ヴィルヘルム9世に古銭を売る機会を得て、これを機に、1769年「ヘッセン・ハーナウ候国宮廷御用商人」に任ぜられた。ヴィルヘルム9世はアメリカ独立戦争の中でイギリスに傭兵を貸し付ける兵士輸出業で大いに儲けていた人物で、この資金運用でマイヤーも莫大な財産を得た。1770年には同じフランクフルト・ゲットーに住むユダヤ人豪商ザロモン・シュナッパーの娘グトレと結婚した。彼女との間に十人の子供を儲けた。
30歳の時にゲットー内で一番大きな建物に引っ越した。この建物は緑の看板を掲げたため、「グリューネシルト(緑の盾)」と呼ばれた。フランクフルトがナポレオン・ボナパルト率いるフランス軍の占領を受けた時期にはヴィルヘルムの金庫番であったカール・フリートリヒ・ブデルスの支援を得て遺産の財産管理や事業権を独占することとなった。その後、イギリスに居た息子のネイサンの仲介によるイギリスにおける投資事業やフランクフルト大公に任ぜられたカール・ダールベルク公に対する貸付けなどその地位を不動のものとした。
フランクフルト・ユダヤ人の市民権獲得を求めて、ダールベルク公との交渉に奔走し、資金力をバックにユダヤ人の市民権獲得を実現した(ただしナポレオン敗退後にユダヤ人事は再び市民権を剥奪されている)。
1810年「ロスチャイルド父子商会」を設立し、5人の息子たちに実権を譲ったが、「単独で投資をすること」、「利益を持ち分に応じで分配すること」を誓約させた。
フランクフルト・アム・マインで没し、同地のバトンシュトラーセ墓地に葬られた。
遺言状には「企業内のポストを一族が独占すること」、「事業は男子相続人に限ること」。「長男が跡を引き継ぐこと」。「婚姻は一族で行うこと」。「事業の秘密厳守」のほか、時には家庭より商売を優先すべきであると記述されていた。Wikipedia
マルクス