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2018年03月23日
不老不死のサンジェルマン伯爵の謎。数千年生きた男!
サン・ジェルマン伯爵という、10ヵ国以上の言語を自由に話せたという人物がいるそうだ。
彼は18世紀のフランスに突然現れた。
1760年代、パリの食事会にも彼は現れている。
この時彼と話した人物は「彼は特別な薬のおかげで何も食べる必要がないとか、三千年以上も前のエジプトのクレオパトラやルイ15世にあってきた、などと話していた。
また、自分は300歳だとも言っていた。」
と、語っているのだが彼はこの時40歳ぐらいに見えたという。
他にもいろいろな年代や場所に姿を現している。
また、当時では知られていないはずのエジプト王朝の遺跡をいくつも話しており、その記録は現代の発掘された遺跡と一致している。
彼は今でも発見報告が続いていて、一説には彼は不老不死の薬エリキシー(伯爵の呼び名)を発見したのではないかと言われているそうだ。
2018年03月21日
京都人が嵐山に近づかない本当の理由! 歴史に隠された怨念とは
京都人が嵐山に近づかない本当の理由。
結界の外にある嵐山は魔界への入口である。
さて、この結界の位置を見ると、保津川地区方面にある嵐山は結界の外になっている。
そのために嵐山には様々な怪異の伝説があるのである。
平安時代は鬼とは霊と同じ黄泉の国に行った人の変わった姿であると考えられていた。
そして、これらの鬼は髪や仏法の保護を受けることが出来ない土地でしか生きてゆくことが無いとされていた。
そのため鬼の国に繋がる保津川地区は、そのまま黄泉の国に通じる道があると信じられており、故に死体を埋め墓を作ることは理にかなっていたため、同時にその分多くの幽霊や多くの怪異の現象が起きているという記録がある。
また、それを収めるために多数の寺を建てているのである。
因みに、京都の鬼門の方向、要するに東北方向は元々比叡山延暦寺があり知恩院があることで守られており、また京都平安京の近くになれば大原三千院などがあって、守護が固められているのである。
しかし、同じ結界の外でありながら嵐山の方面は何故か守護が薄いのである。
それは元々鬼の出入り口、そして墓場として想定されていたからであると考えられていたからでおり、実際にこの地区には嵯峨天皇の墓等、旧貴族の墓・旧天皇の墓などが多数存在する。
嵐山にまつわる怖い話
「今昔物語」には、嵐山の辺りに「のっぺらぼう」の原型が出てきている話や、嵐山で狐に騙される話などが沢山存在する。
また、鬼の頭領として有名な「酒呑童子」なども、保津川辺りがその話の根拠であり、その上流の村や町が鬼の棲家という事になっている。
これは、京都の結界の強さで鬼が中に入れないため結界の外に鬼が溜まっているということを意味している。
更に、平安京を流れる2つの川のうち鴨川は琵琶湖が水源になっているのに対して保津川は山の中にあり流れも急であることから京都の人々から恐れられていたという事を現している。
嵐山「滝口寺」にまつわる2つの悲恋物語とは?
また、嵐山には「滝口寺」という悲恋で有名な寺がある。
平家の武将であった斉藤時頼に、この寺にいた元平家の女官横笛が恋をした。
しかし、斎藤は家柄が合わない事、そして元平家であったことから源氏の世の中でそのような恋を行う事を強く戒められ高野山に上って出家してしまった。
そして、恋に破れた横笛は長谷寺で出家するのであるが、その後やはり忘れられずに保津川へ身を投げて亡くなってしまう。
また、同じ滝口寺には建武の新政の際に後醍醐天皇を助けた武将新田義貞の首塚もある。
実際に鎌倉幕府を滅ぼしたのも新田義貞であるが、足利尊氏の裏切りで敗戦し、今の越前の国福井県で戦争中に流れ矢に当たって亡くなってしまう。
その遺体が回収され、京都の山城川原で晒し首になっていた新田義貞の首を妻の勾当侍が盗み出して、滝口寺に葬ったと伝えられているのだ。
この2つの悲恋物語から、嵐山にかかる渡月橋をカップルで渡ると別れてしまうというような都市伝説がある。
これは、まさにこの2つの悲恋の怨念が現代のカップルを羨ましく思ってそのようにしてしまうということではないかと予測される。
このように、今までは有名な観光地である嵐山も実は京都の守護下にある都ではなく嵐山を京都の都と思っていること自体が大きな間違いであることがわかる。
しかし、こうも考えることができる。
日本人は死に近いところを美しいと感じる部分がある。
桜の花の下には死体が埋まっている等という伝説は桜の花の美しさから来ている逆説的なものであるところがある。
同じように嵐山には平安の都千年の死が埋まっているとある。
故に美しいのかもしれない。
けれども、京都の古くからいる住人たちは沢山の死や呪いの歴史を知っていることから、あまり嵐山方面には近づかないのである。
2018年03月18日
豊臣秀吉の家紋の意味と現在も日本政府が使用している理由!
豊臣秀吉の家紋の意味は?
豊臣秀吉の家紋は「桐紋」と呼ばれるものです。
他にもひょうたんの馬標や妻の実家の木下家の家紋を使っていた時期もありましたが、秀吉の家紋と言えばやはり桐紋の事を思い浮かべることが多いと思います。
この桐紋ですが、一体どのような意味があるのでしょうか?
また、桐紋は日本政府や首相官邸にも使われている紋章としても有名ですが、何故こうしたところで秀吉の家紋が利用されているのかについても調べてみました。
豊臣秀吉の家紋「桐紋」の意味について豊臣秀吉が用いていた家紋は「桐紋」と呼ばれるものですが、この紋章は元々菊紋とともに天皇家のみが使っていたものでした。
何だか凄く格式がありそうな家紋ですね。
一体どのような意味があるのでしょうか?
桐紋の桐とは古代中国の神話に出てくる鳥・鳳凰がとまる木とされていて、昔から神聖なものとして扱われていたそうです。
こうした風習が日本にも伝わり、日本でも800年頃から天皇の衣類などに使われるなど、皇室のみが利用できる格式のある紋章として使われてきたそうです。
やがて、桐紋は天皇家のみならず有力な武家も使い始めるようになります。
例えば室町幕府の初代将軍である足利尊氏は、当時の後醍醐天皇からこの桐紋を恩賞としていただいたと言われています。
また、13代将軍である足利義輝は信長にこの桐紋を与えており、天皇家から有力な武家へ、有力な武家からその家臣へ・・・といった風に桐紋を使う家は少しずつ増えていったそうです。
秀吉が桐紋を使い始めた切っ掛けも信長からこの紋章を頂戴したためだと言われています。
その一方で徳川家康は自分の家紋に権威を持たせるために、葵紋の使用を徳川将軍家及び徳川御三家に限るといった施策を行っています。
家紋をどのように利用するかはその時々の権力者によって様々だったのでしょうね。
豊臣秀吉の家紋の話に戻ります。
秀吉が使用していた家紋には数多くのバリエーションがあるのですが、その中で夢いなのは「五三桐」及び「五七桐」というものです。
秀吉は、信長の家臣時代は「五三桐」を活用していたのですが、姓を豊臣と改めたときに「五七桐」を当時の後陽成天皇から与えられたのを機に用いる家紋を後者に切り替えます。
やがて、秀吉は家臣にこれらの五三桐や五七桐を分け与えるのですが、すると桐紋の希少価値がなくなるので、五七桐をアレンジした「太閤桐」といったものを使い始めるようになりました。
なお、桐紋にはこれら以外にも様々なバリエーションがあります。
それぞれの桐紋の微妙な違いを見て見ていくのも面白いですね。
秀吉の家紋「桐紋」を政府が政府が使っている理由とは?
豊臣秀吉と桐紋の関係を語る際、現在の日本政府が秀吉が使っているものと同じ桐紋を使っていることが話題になることがあります。
500円硬貨にもこの桐紋が利用されていますね。
一体、何故政府が秀吉と同じ家紋を?と思われる方もいるかもしれませんね。
その答えですが、明治時代以降桐紋が日本政府の紋章として使われるようになったためです。
元々桐紋は天皇家が使っていた紋章。
その朝廷の政府という繋がりで当時の明治時代が桐紋を使い出し、その慣習が今に至るまで続いているだけなのです。
以下は余談ですが、明治政府が桐紋を活用していることについて豊臣秀吉の怨念が込められていると都市伝説で言われることがあります。
関ケ原の戦いで西軍が敗れた際、豊臣家の家臣の多くが薩摩と長州へ左遷された。
そして260年の時を経て薩長桐紋を掲げて倒幕運動を行い今の明治政府が誕生したというものです。
個人的には論理飛躍しすぎだと思うのですが、都市伝説の範囲内で楽しむのも悪くはないかなと思います。