プロローグ Prologue 【2011年1月】
2011年1月、私は日本脱出計画を練るのに忙しかった。
前年の11月、母に続き父を癌で失った私は、父が亡くなるまでの約4か月を、仕事をやめて東京から長野の実家へ戻り、父と共に過ごした。
父の葬儀や四十九日を終え、実家でひとり年を越した私は、東京に戻ることではなく、何かに追い立てられるように、なんとしても1月中に日本を出なければ、と考えていた。
何がそうさせたのかはわからない。
ただ、今行かなきゃ、今やらなきゃ、と必死に半年に渡る放浪の準備に追われていた。
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ワンワールドの世界一周航空券 を使い、 半年をかけて北半球を一周する旅。
ネパール、香港、ヨルダン、イギリス、イタリア、スペイン、フランス、ブルガリア、ルーマニア、アメリカ(アラスカを含む)、カナダの 11か国 。
アジア、中東、ヨーロッパ、北米と回って日本へ戻った。途中イタリアで東日本大震災の報を聞き、予定を変更してスペインで40日に及ぶ巡礼を敢行した。
結果的に、無意識とはいえいろんなことから逃げ続けた半年だったが、最初から私は逃げ出したかったのだ。それは間違いないと思う。
日本の、長野県という田舎の、父と4か月暮らした家から。父の癌が再発してからの約1年は、自分が住む東京と長野の実家との往復で過ぎていった。そんな予想もしなかった激動の1年から。血のつながりから。罪の記憶から。様々なしがらみから逃げ出して、私は何をしたかったのだろう。
人が旅に出る理由は二つしかない。何かを探すためか、そうでなければ、何かから逃げるためだ。
ただ日本を離れることしか考えられなかった1月最後の日、ついに私は日本からの脱出に成功した。
逃げながら何かを見つけることができるのかはわからなかったが、まず私が向かったのは仏教の聖地、ネパールだった。
詳しい旅の スケジュール とイギリス編は、もう一つのイギリス専用ブログ『 フィンドホーン・ライフ 』に掲載しています。
最初の夜
香港ドラゴン航空192便が30分遅れで到着したのは、 ネパールの首都カトマンドゥのすっかり暗闇に包まれた小さな空港だった。
「これが国際空港?」と疑いたくなるほど古く粗末な建物で、底冷えのするコンクリートの上に立ったまま長い列に並び、やっと入国ゲートを通過したのは到着から約1時間が経過した夜の11時半。
旅の始まりという緊張感と、日本から香港での飛行機乗り継ぎを経て15時間ほどが経った疲れで吐き気を感じるほどの不安を背負ったままの私に、ホテルからのお迎えの人の姿はまるで天使のように映った。
深夜到着は承知していたので、日本から送迎サービスのあるホテルを予約しておいて良かったと、心底ホッとした瞬間だった。
そしてネパールでは夜の10時を過ぎると電気が使えなくなる、という噂は本当だった。
スイッチを押しても無反応の暗闇の中でごそごそと寝袋を取り出すのが精一杯、薄い毛布とカバーだけのベッドではあまりに寒くてセーターを着こんだうえ寝袋に包まり、震えながら眠った世界一周旅最初の夜。
喧騒の街カトマンドゥ
ホテルは少し奥まった住宅街にあるのだが、通りを走る車やバイクが発するクラクションの音が絶えず耳に飛び込んでくる。小さな商店が建ち並ぶ大きな通りに出ると、それは両手で耳を塞ぎたくなるほどの喧騒となって私を襲った。
歩道(などと呼べる道はないのだが、店の軒先とかを歩いた)すれすれに走り過ぎる車のスピードにも恐れをなした。物珍しい店先の景色にぼーっとしながら歩いていると、車やその車の間を器用に縫って進むバイクのタイヤにいつ足を轢かれてもおかしくないとさえ思える。
万が一そんな悲劇が起こったとしても、あちこちから絶えず聞こえてくるクラクションの凄まじさを考えると、間違っても止まってくれる人たちではないだろう。
誇張ではなく日本で鳴らされるクラクションの百倍の量が聞こえてくる。
ちなみに私は今まで一度も車のクラクションを鳴らしたことはない。
身の危険を半端なく感じながらも大通りに辿り着いた私は、更にショックで体が硬直することになる。
塞ぎたいのは耳だけでなく、鼻もだったのだ。大通りに濛々と立ち上る排気ガスで私は一瞬呼吸困難に陥り、道を引き返そうかと思った。
耳、目、鼻、口と全ての顔の器官を塞ぎたくなるほどの混沌!
そんな私をあざ笑うかのように、サングラスとマスクで完全武装した現地の人々が颯爽と追い越していく中やっとのことで辿り着いた ダルバール広場は、更なる人で埋め尽くされていた。
街の中心に位置するこの広場は多くの寺が集まる観光名所で、生きた世界遺産で有名なクマリの館もここにある。
が、せっかくここまで来て寺の一つも見学しないなんて、と眉を顰められそうだが、ヒンドゥー教の建築物にバカ高い入場料を払ってまで観光する気にはとてもなれず、早々に立ち去った。
大通りとは別に、ダルバール広場からホテルのあるタメル地区にかけては インドラ・チョークと呼ばれるバザールが続いていた。
カラフルな布地や民族衣装のようなドレスがこれでもかと並べられた店先をのぞくのはやはり楽しい。
店内だけでは足りず、2階の窓からも商品のドレスを飾る店も多く、あちこちで目を奪われる。
観光客だけでなく、地元の人々にとってもここは生活必需品を買う場所らしく、人で溢れた細い路地にもバイクの後ろに荷を括りつけた男性や、買い物かごを手にした民族衣装の女性たちが闊歩していた。
鮮やかな色の洪水のなか、キョロキョロとあの店もこの店も、と立ち寄る私はスリのプロにとっては格好のカモだろうな、と思いリュックを胸の前で抱えて歩きながらも道草を止められないのだった。
そして、私は人々の付けているマスクがとてもカラフルで様々な柄があるということを発見した。
ピンクや黄色、花柄、動物柄だけでなく、なんとキティちゃん柄まであった!
ネパール人、かなりお茶目だ。