「魅力的なオーナー Attractive owner」
見惚れるほど美しい景色の中、汗まみれになってようやく私はヴィラマヨールの村に辿り着いた。
山の中腹というよりは、ほぼ頂上にあるその小さな村に平らな場所はなく、アルベルゲの前のだだっ広い広場のような場所さえも斜めに造られていた。
ブドウ谷を一望できる高台のアルベルゲの前の幾つもの階段をしがみつくように這い登るとすでに到着していた巡礼者たちが日向に椅子を出してビールをあおっていた。
先ほどの髭面オヤジが私に気付いて「やぁ、やっと来たな!」とでもいうように手を叩いていた。玄関の直前の最後の石段に片足をかけて息を整えていると、座っていた人達の中の白人が立ち上がって近付いて来た。
「ウェルカム」と穏やかな声で言うと、私がバックパックを下ろすのを手伝い「You look very tired. Are you OK?(君、とても疲れているようだけど、大丈夫かい?)」とサングラスを外して微笑みかけた。
背が高くとても整った顔に長めの流れるようなサラサラ金髪、透き通るような白い肌は中性的で、しばらく男性なのか女性なのかわからなかったが、軽々と片手でバックパックを持ち上げ受付へ運んでくれたところを見ると、どうやら男性のようだ。映画俳優のようにカッコよくて思わず見とれてしまった。
とにかく無事18.4キロを歩き終え、古い民家を改装した部屋へ通された。外はあんなに日が照って夜9時過ぎまで明るくて暖かいのに、スペインの民家は窓が小さく石造りのためか、屋内が相当寒い。このアルベルゲも狭い階段や傾いた床が古さを物語る典型的な古民家で、まだ2時半だというのに部屋は電気をつけたくなるほど暗くひんやりとしていた。
「ウィンドブレーカーがない! My jacket is missing!」
そして極力荷物を少なくしなければならない巡礼者は、衣類も2〜3セットが基本だ。必然的に毎日洗濯することになる。そして午後も強い西陽が遅くまで沈まないスペインでは、夕方洗濯物を干したとしても、寝る前にはあらかた乾いてしまうのだ。日当りの良い場所に干せば、2時間もたたないうちにバリバリに乾く。
だから暑くても太陽が照っていてくれるのは、巡礼者にとってはありがたいことなのである。水に近いぬるいシャワーを浴びてさっぱりしたところでさて洗濯、と荷物を広げながら、ハタと気付く。
ウィンドブレーカーがない!
何でだろう、どこでなくなった?確かバックパックに引っかけておいたのに!
…フエンテだ。あそこでチョコレートを取り出した時に、バックパックの蓋を開けるため、留め金を一度外したのだ。そこに留めてあったウィンブレのフックも外れてバックパックを背負った時に滑り落ちたのだ。
フエンテのベンチに腰を下ろした時には確かにあったから、それしか考えられない。何てことだ…。あれから一時間が経っている。取りに戻ったらまだあるだろうか。取りに戻る、この足で? 2.4キロ歩いて戻って、更に2.4キロこの丘を登ってまた戻って来る…?
でもあのウィンブレは必需品だ。朝夕はまだまだ冷えるし、ちょっとした雨でも凌げる。あれがなければ、薄いフリースだけになってしまう。それは無理だ。
新たにウィンブレを買う?でもウィンブレを売っているようなお店がある都市はまだまだ先だ。そこで売っているかも定かではないし、本格的なウィンブレとなると手痛い出費…。
いろいろと考えた挙句、私はウィンブレを取りに戻ることに決めた。出がけに外で座って他の巡礼者たちと談笑していた先ほどの素敵なオーナーにどこへ行くのかと呼び止められた。
事情を説明すると、まだそこにジャケットがあると思うかと訝し気に問う。確かに戻ったところで誰かに持ち去られてすでに無いかもしれない。もしくは私の記憶が曖昧でもっと前に落としていたかもしれない。が、なぜか私にはまだあのウィンブレがあのフエンテにあると思えた。確信ではなくただの勘だ。
そして私は明確に「イエス」と答えると足早に坂を下り始めた。ブドウ畑の脇道を小走りになりながら「お願い、まだそこにあって!」と心の中で神仏に願っている自分がいた。右足を引きずりながら辿り着いたヴィラマヨールの村だったのに、この時はウィンブレがありますように、という思いだけで、足の痛みなど忘れていた。
「感謝感激! So much obliged!」
安心のあまりサンキュー!とだけ言い残して走り始める。彼らが通った時にはまだあった。フエンテまで多分あと10分くらい。その間に誰も拾ったりしませんように。スペインではまずありえないけど、親切な人がみつけて警察へ届けたりしませんように。
あ、でもあの小さな村に警察なんてないだろうから、やっぱり持ち去られちゃうのかな、自業自得だけど、もしなかったら一体何の罰が当たってこんなことになっちゃったんだろう、など様々なことをぐるぐると考えながらやっとのことでフエンテについてみると…。
ベンチの下にフワリと落ちた時の形のままでベージュ色のウィンブレがあるではないか。この旅で「お父さん、お母さん、ありがとう」と心の中で頭を下げたことは何度もあったが、この時ほど大きく感謝した日はないかもしれない。
天を仰ぎ「お父さん、お母さん、おじいちゃん、おばあちゃん、ああ神様、私を見守ってくれている全ての方たち、ありがとう!」と叫んでいる自分がいた。
坂を駆け下りてきたのでうっすらと汗をかきながらウィンブレを抱きしめると、私は再びヴィラマヨールへ向けて歩き出した。思い返すと、両親が私にサインを送っていた気がする。ホタテ貝がやけに鳴るなあ、と訝しく思ったことが思い出された。
しばらくすると収まったので気に留めなかったのだが、あれは「忘れ物があるよ」と母が鳴らしてくれたのではないかという気がしてならない。それでも気付かず歩き続ける鈍感な私に呆れて、取りに戻らせれば次から休憩の後は注意力を増すようになるのでは、と思いウィンブレをそのまま守ってくれていたのだと。
ヴィラマヨールのアルベルゲから。
といってもまぁ、もともと人っ子一人見かけなかった小さな村なので、通りかかった人自体がほとんどいなかったのだろう。余計な荷物を増やしたくない巡礼者は落とし物など拾わないだろうし、ただ運が良かっただけかもしれない。が、このことがあってから忘れ物に気をつけるようになったのは言うまでもない。
かくして片道2.4キロ、合計4.8キロを余計に歩くはめになった私は疲れ切り、シャワーを浴びた後でまたしても汗だくになりたくはなかったので、ゆっくりゆっくり坂を登ってアルベルゲに戻って行った。
荷物を背負わずに歩くということはこんなに身軽なものなのか、と実感しながら。そして「おお、みつかったのか、良かったなぁ」と迎えてくれたオヤジたちやオーナーとテーブルを囲み、この時ばかりはぐびぐびとアクエリアス一缶を飲み干したのだった。
★スペイン巡礼記?Fへ続く…
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