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福田ひかりさんのCD作品 "J.S.バッハ ゴルトベルク変奏曲” のライナーノーツに書かせていただいたことをここで紹介したい。 決して気を衒ったわけではないが、現在のベヒシュタインのピッチを通常よりも低くし、不等分平均律の調律システムで行ったことで、ポリフォニーの旋律、特に内声の抑揚感、ヴァリエーションのコントラストがとても魅力的な録音作品に仕上がったと聴けば聴くほど味わい深さを感じている。 例えば、Variation 21 alla Settima と次の Variartion 22 alla breveは日陰から日向に出た時に感じるような空気感の変化を私は響の中に感じる。 CD ライナーノーツより 不等分平均律について バッハの作品で平均律クラヴィーア曲集と呼ばれる作品がある。が、ここでいう平均律は現代意味する平均律とは少し異なる。原題のDas Wohltemperierte Clavier を訳せば、“程よく分配された”、とか、“程よく調整された”となる。平均律とは原題には表現されていない。この時代まで一般的に用いられた調律法ミーントーンは、3度音程を純正に響かせる考えに基づいている。まず、5度と3度の純正音程のずれを簡単に計算したい。Cからスタートし5度をG→D →A →Eと4つ重ねるとCから2オクターブ高いe1ができる。この場合、5度を純正音程の周波数比で重ねていくと 1 x 3/2 x 3/2 x 3/2 x 3/2 = 81/16 となる。すなわち、Cの音の高さが1だとすると、純正5度を重ねてできた2オクターブ高いe1の音の高さは81/16になる。このe1をCと同じオクターブ内に持ってくる。オクターブの音程比は2/1なのでEの音の高さへ2オクターブ下げると81/16 x 1/2 x 1/2 = 81/64 になる。純正長3度の音程比は5/4だが、この音程を先の81/64の分母に通分すると80/64になる。純正5度を4回重ねてできる長3度は純正長3度より81/80広がった長3度になり、純正に調和しないことになる。純正でない長3度の唸りは音が持続して伸びるオルガンのような楽器の場合特に耳ざわりで、唸りが多いと不協和音程のような感覚すら覚える。従って、長3度を純正にすることを優先し、狭くした5度を重ねるミーントーンという調律法が生まれた。 純正3度を得るために狭くする5度の音程比を計算してみる。音程比Xを4回積み上げると2オクターブ高い長3度 5/4 x 2 x 2=5が生じる、故に X4=5 X=4√5 =1.495349となる(純正5度は3/2=1.5)。この音程比1.495349の5度でCを基準に♯側、♭側に重ねていくと最後の完結するべき5度が純正5度の1.5よりもかなり広い、音楽的には使い物にならない汚い5度ができる。これをウルフという。このウルフを挟む和音は、純正音程の3度にも、不協和な唸りが生じ、音楽的に使い物にならない。よって、使用できる調性は限定される。バッハは、12音の中の5つの5度に狭い5度を作ることで、ここにシントニックコンマを分配し、残りの7つの5度を純正にすることにより、ミーントーンを不等分な平均律に整えた。これを、バッハの言うDas Wohltemperierte(程よく分配された調律)、と考えて良いだろう。調律システムのベースが先に述べたミーントーンにあるので、白鍵のC-G, G-D, D-A, A-E, E-H, の5度を狭くすると、♯、♭の少ない調合の和音の3度の唸りが少なく、♯、♭が多い調の3度の唸りが多くなる。この3度の唸りの多さが一定でないことと、純正と狭い唸りを持つ5つの5度の存在も、調によって異なったハーモニーの雰囲気を作る要因になる。興味深い効果に、短調と長調の相互の転調の際の響きの変化がある。例えば、C Durが短調に転調した際、 平行調のa mollと同主調のc mollでは響きの性格が正反対になる。G Durの場合も同様の平行調のe mollと同主調のg mollでは同様の効果になる。主音と第3度音の短3度の唸りの多さが対照的で、3度音程の唸りの多さによって響きの持つ世界観が変化するのがわかる。これは、例えばa moll とc mollの場合、短3度の幅はa-cが平均律より広いに対し、c-esは平均律より狭くなる。短3度は平均律の場合、純正よりも狭くて唸りが発生しているので、我々の耳になれた平均律と比較した場合、a mollのa-cは純粋な響きに近く、c mollのc-esには痛みすら感じる短3度の唸りが生じ、独特な短調の響きが生まれている。このように、さまざまな調で異なる3度系和音の唸りの多さが異なることで和声的な性格が生まれ、旋律的な側面では、純正5度と狭い5度の違いから音階の幅が調によって異なることになり、旋律の流れから受ける印象にも若干の差異が感じられる。ピッチc1=256Hzについて 一般的に現在のコンサートピッチはa1=442Hzで、c1はおおよそ262.8Hzになる。 現代ピッチがバロック時代、またその後の古典派時代のピッチよりもずいぶん上がった理由に、音量(音の力)の追求がある。しかし、バロックや古典のピアノでの演奏にそれが必要なのか、は長い間疑問だった。チェンバロではa1=415Hzが、フォルテピアノもa1=430Hz程度のピッチが一般的だ。しかし、現代のピアノはそもそも440Hzを前提に設計されているので、鋼鉄弦の弾性限界からの張力比が音響的に適切でなくなるような大きなピッチダウンはネガティブな効果を強調してしまう。ある日偶然、現代のコンサートピッチよりもc1でおおよそ6.8Hz低いc1=256Hz で調律されたモダンピアノの映像データを視聴することがあった。この映像データでは特に、バリトン、バスの声部が朗々と聴こえ、ポリフォニーの響きの感じ方が魅力的だった。福田さんに私がこの映像から感じたことをお話し、録音の事前に福田さん所有のクラヴィコードと、録音で使用予定のピアノで試奏していただいた結果、ピッチをc1=256Hzに下げて行うことになった。 音響的な効果としては、同じ弦で周波数が下がることになるので、弦のインハーモニシティーの影響から倍音のずれ幅が大きくなり、揺らぎの成分がより目立つ。同時に、弦と楽器全体にかかるテンションが低下することで、倍音の持続バランスも変化し、その結果、中音・低音の響きの具合が高音域に対し和らいだ印象を受ける。 不等分平均律とピッチの低下との組み合わせにより、響きにもたらす効果はさらに興味深くなった。
2022.02.26
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演奏表現でいつも気になっていることを書いてみます。複数の異なった音程が重なることによって生じるものがハーモニーですね。それらの異なった音程で重なる音はそれぞれの旋律となっていて、複数の旋律が重なることによってハーモニーが緊張したり、リラックスしたりしているのもクラシック音楽を聴く人なら誰しもが自然に感じることだと思います。ピアニストは、それぞれの旋律に異なった抑揚をつけ表現しています。表現者により、この抑揚感のつけ方、もしくは聴こえ方が大きく違い、それぞれの旋律の横の線が独立した抑揚感で表現されていると、響き全体が3次元的(遠近感と明暗の違いが現れ)に聴こえてきます。私はショパンのピアノ曲の場合特に、あたかも女性と男性が語っているかのように、その抑揚の付け方から感じることがしばしばあります。また、ある楽曲では過去意識をしていなかった”言葉” を感じることもあります。まるで、オペラの重唱を聴いているような錯覚を受けるパフォーマンスに出会う時にです。F. Chopin 時代 Pleyel Action 前面現代のピアノよりも音量の小さい19世紀前半のピアノで演奏されてもそれは感じられますので、ピアノの場合、これらは音量とは全く別の次元の話です。ピアノの場合、多種多様な楽器が集まるオーケストラとは異なり、楽器は一台です。しかしやっていることはオーケストラと同じことをやっていますね。ピアニストは奏者でありながら自らの演奏に対して指揮者をしています。ここの絶妙な旋律と響きのコントラストを聴き手は味わいたいです。ロマン派の楽曲なら私には絶対条件です。ピアノは種類や製作者によって、遠近感と明暗の違いの現れ方が、音量や弾き方によって大きく異なります。パフォーマンスをするピアニストは頭の中に表現に対するヴィジョンを持つでしょう。そのヴィジョンを実現しやすいピアノを演奏会では提供されるべきでしょうし、また、レッスンでは表現のアイデアが生まれやすいピアノに触れると練習も楽しいと思います。J. Brahms 時代の C. Bechstein Action 前面 (ショパン時代のプレイエルと概ね同じ構造)ピアノは複数の音が重なりますので、このような事を何も考えずに演奏しても、弾けている感ができてしまいます。でも、そこをゴールにしてしまうは、とてももったいなく、いろんな音作りの可能性があるのに。。と、残念な気持ちになってしまいます。今コロナで基本外出を控えていますので、家で音楽を聴くことが普段以上に多くなりました。多くの作品を改ためて反復視聴しながらパソコンに向かうことも多く、奏者の思想に新たに気付かされ、人の叡智に改めて感動しています。
2021.03.07
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待ちに待ったCDが届きました。音楽に熱い情熱を持ったエネルギー溢れる稲岡千架さんのCDです。本当はドイツに録音に行った時にいろんな人にこの取り組みについて詳しくご紹介をしたかったんですが、録音エンジニアの小坂浩徳さんの「特別なことなので、詳細を語るのは発売同時で」というお考えがあり、まるで ”王様の耳はロバの耳” の理髪師のような気持ちで8ヶ月程、詳細な報告を辛抱していました。(ただ、イソップのような話の展開は今回もちろんありません)とにかく、私にとっても今回の録音の取り組みは、35年以上になる職業経験上、最も心に残る出来事の一つになりました。初めての経験になったのは、世界的に定評ある録音会場の一つのライツターデル (Reitztadel) という南ドイツのノイマルクトというこじんまりした町にある歴史的なホールでの録音に参加させていただいたことです。世界の名だたるアーティストも音響特性の良さを高く評価するホールです。因みに今回の録音の最終日に次の録音を準備に来たのは、バイエルン放送交響楽団のメンバーで編成される室内楽ユニットでした。ライツターデルはバイエルンラジオ放送の録音会場の一つになっているということでした。今回も翌日の収録の為に中継車が来ていました。稲岡さんはエンジニアの小坂さんと、今回のモーツァルトの録音をするのにふさわしいピアノを持ち込みたいということで事前にドイツに渡り、ベヒシュタインのフルコンサート D-282の試弾を目的に、ベルリンとノイマルクトに比較的近いアウグスブルクの両方のベヒシュタインセンターを訪問されました。今回の録音に、アウグスブルクに設置してあるC. Bechstein D-282を使用することになり、録音初日というか準備の日にそのピアノを会場に搬入しました。Reitstadelのステージに上げたピアノの蓋をいつものように開け、いつものように調律を開始しました。調律をスタートし ”割り振り” と言う1オクターブを4度や5度や3度という調和音程を聞きながら分割する工程がありますが、その時ハーモニーを聴いていると、すべての倍音が天井から降り注いでくるような不思議な感覚を覚え、多くの演奏家がこのホールを高く評価する理由が「ああ、この感覚。。。」と理解できました。会場全体に豊かな余韻があるにもかかわらず、響きが混沌と混ざってしまわず、いろんな倍音が明確に聞き取れるのです。ホールの外は石畳で、車両が通ったりするとタイヤが石畳で発生させる音や、ちょうど横の建物をリフォームしていたのですが、その工事の音が木材と漆喰の壁を通して聞こえてきていたので、遮音性は近代的なホールの方が圧倒的に優れているのだと思いますが、建物全体が素晴らしい楽器の共鳴体になっているようでした。あと今回も、以前八王子の工房コンサートで稲岡さんと末永匡さんや内藤晃さんと実験を繰り返した ”不等分律” いわゆる古典調律を採用することにしました。倍音の変化が本当によく聞こえるホールで、その調のもつ響きの変化の違いは驚くほどよく聞き取れました。録音の時ホールの中ですでに感じていましたが、転調をした時の響きの持つ色彩の変化、音域の響きの違い、聴き取りやすい倍音が作り出す抑揚の奥行きは、モーツアルトの楽曲に内包されるポリフォニーの旋律同士の対話が、魅力的に聴き手に届きます。私は特に、同主調での長調と短調の空気感の変化に魅力を感じ、モーツアルトの決して曖昧ではない調の選択の狙いを想像しています。今回の作品は、不当分律で表現したいという稲岡さんの意図が理解できる作品になったと感じました。私は、この作品を普段あまりピアノ音楽に触れない人にも、ピアノの勉強をしている子供達にも、アコースティックの表現の素晴らしさを経験してもらうのに聴いていていただきたいなと思いながら、仕上がった CDを視聴させてもらいました。モーツアルトのピアノ曲がオペラ的だと言われる意味、なぜ多くの人がモーツアルトに魅せられるのかを感じていただきたいです。雑誌”ぶらあぼ”5月号にも大きく掲載されていましたが、本当はこのCDの発売記念コンサートを5月のCDの発売に合わせ杉並公会堂で行う予定でした。「コロナ感染症の問題で、無観客で録画を行いインターネットで発信しようかと思っています」と稲岡さんからの力強い連絡を受けていた矢先、稲岡さんは急性骨髄性白血病で緊急入院になってしまいました。私自身も悲しい感銘に見舞われた中でCDが発売になりました。幸いなことに、生命の危機は乗り切ったと言うことですが、まだ当分お会いすることができないようです。コンサートなど劇場での感動を我慢しないとならない生活が続いていますが、この作品に家で触れていただければ大変嬉しく存じます。
2020.05.24
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ドイツバイエルン州のとある場所にピアニスト稲岡千架さんのMozart作品の録音の為、ベヒシュタイン D-282 を本社の協力で入れてもらい、全体スケジュールの折り返し点が昨日過ぎた。今回は私のドイツでの始めての録音になる。音響特性が素晴らしいと言われるこのホールは、日本のホールのように外の騒音が全て遮断されるわけでなく、工事の重機の騒音や、近くの教会から定期的に鳴り響く鐘の音に、録音を諦めなければならないタイミングも少なくなく、近所が静かになる夕方以降が採録に集中できる時間帯になった。そんな訳で、一昨日はホールを後にしたのは23 時、昨日は明朝の2時になった。外部との遮音が完全で無いという事は、内部の音も外に出る訳であり、すなわち建物そのものも振動媒体の要素になっていることも原因の一つなのからか、残響時間以上の音響効果がもたらせれているということを、調律中に又、演奏中に幾度となく感じた。恐らく日本だと、ハンマーヘッドにさらに弾力をもたせた状態にし、打弦の瞬間に起こる破裂音のような成分をもっと抑えるような要求が出るのでは?と思われる、ある意味ギリギリでは?と思われる整音状態だが、ここではそれが全てポジティブに作用した。ヨーロッパ言語は、発音の瞬間の頭の子音成分が必要不可欠だが、発音の頭の子音のような成分が響きの中に生かせれば、ヨーロッパ言語のようなニュアンスを旋律の中に感じる。打弦時の破裂音とそのあとに尻尾のように伸びる母音のような音のコンビネーションで抑揚の可能性が大きく広がるのだ。残響がただ長いだけだと響は混濁してしまうし、短いと打弦時の破裂音は耳障りになり、折角のハーモニー感は貧弱になってしまう。そのバランスは本当に難しい思うが、ここではいい塩梅で響が伸びながら打撃音をミックスしてくれる。そういえば、このホールでのベヒシュタインの響きを聞きながら、合間に外から聞こえてくる教会の鐘の響の、打撃の瞬間のKの子音とA Oの母音が後で膨らんでくる独特な響き方が、共通点として感じられた。エンジニアの小坂さんと共通の感想を持った部分になるが、このホールは音域感のレイアーが聞き取りやすく、また、倍音も多く聞こえる。それ故、不当分律の調整による響きのコントラストもいつもより明確に感じられ、稲岡さんはアーティキレーションを準備した感じとは大きく変更した箇所が多いと言った。子音と母音が混合した色彩に、数多くの倍音が重なると、伸びた音が重なりあった時に、一つづつの音と音の間にハーモニーの変化が現れ、響が立体的に大きく膨らむ。目標としていた曲までの収録が完了した時、響き、それらを更生する音の倍音と抑揚が恵んでくれる音楽の凄さが魂に刷り込まれたようだった。それを反芻しながらの帰り道、ふと皆で空を見上げると天の川がわかる満天の星空があった。それらに言葉にはならない畏敬の念を覚えた僕は、なかなか眠りにつくことができなかった。
2019.09.05
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私は古典からロマンの楽曲を特に好んで聴く。バロックや近現代が嫌いというわけでは全くなく、古典からロマンの音楽の中にある、異なった声部の対話に魅力を感じる場面が多いからだ。主役である主旋律にまずは注意が向くが、主旋律に呼応する旋律やモティーフが絡み合う場面が出てきたりする。感動する時は、この絡みが音楽に奥行きと広がりを与えてる場面だったりする。人に何かを訴えるとき、大きな声で話す場合が一般的かもしれないが、会話の中で対話している相手に本当に注意を向けるときは大声ではなく、かえって声を小さくしたり、抑揚であったりする経験は誰もが持っていると思う。音楽の動きの絡みの意外性や変化に気付いたり、その対話が生み出す色彩感、ハーモニーが生む緊張感と緩和による響の立体感を感じる時、私は音楽に吸い込まれる。そのような音楽の対話を演奏表現で求める場面は、室内楽の演奏にほぼ例外なくあるのではないだろうか。室内楽の場合、多種類の楽器を使用する。故にそれぞれの特有の音(声)があり、これらの異なった声の楽器の音楽的な対話が表現のベースにある。ピアノは和声的な伴奏になることもあれば旋律を担うこともある。そうするとピアニストは必然的に音色を作り、音楽の抑揚でもって他の楽器との音楽的な対話を行う。ベヒシュタインのピアノ製作のポリシーは、演奏者のそのような表現を支えられる楽器造りにある。今度杉並公会堂でベヒシュタイン室内楽コンクールを行う。ベヒシュタインのもつ表現の可能性をもっとも発揮でき、音色作り・響の立体感を、奏者も聴き手も感じていただき、音楽表現の可能性の再確認ができる場にしたい。という何人かの音楽家、会場、楽器提供側の願いが当コンクールの企画を現実のものにした。コンクール予選はVTR審査ということが一般的に多いが、杉並公会堂ベヒシュタイン室内楽コンクールは、エントリーいただく方々はホールで演奏し、副賞はとても魅力的で、杉並公会堂での演奏会になっている。音楽大学を卒業しピアノ教師をやっていらっしゃる方も年齢制限のないアマチュア部門でも応募できる。第一回杉並公会堂ベヒシュタイン室内楽コンクールが、音楽の対話の楽しさを再発見できる場になることを主催者一同願っている。https://www.youtube.com/watch?v=Wld4liuQtGY
2019.04.21
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名は体を表すというが、今年から社名がベヒシュタイン・ジャパンとなった。取扱品目の中心にはベヒシュタインがあったが、南ドイツのザウター、フランスのラモー (後にプレイエル)、イタリアのフルシュタイン、ドイツ ノイペルトとザスマン チェンバロなど、ヨーロッパのピアノ、古楽器を扱っていた。消費者にわかりやすい社名がオペレーション上適切だろうという意味で、99年にユーロピアノという社名にタイヨー・ムジーク・ジャパンから変更した。今回は、2度目の社名変更になる。日本のみならずヨーロッパも、デジタルピアノと安価なアジア製のピアノの台頭の影響もあり、多くのピアノメーカーが生産中止、廃業、アジア勢による資本の乗り入れに追いこまれるのを特にリーマンショック後、遺憾千万にも体験させられた。楽器は言うまでもなく音楽を表現する為のものであり、演奏表現要求の中で変化し、又、楽器の変化が演奏表現や作曲に影響を与えていることから、人の持つクリエティビティーが常に並存している事がわかる。このことからも楽器は、機械のテクノロジーの進化と同レベルに単純に置くことができない製品だと私は考えたい。こんな事を以前ピアニストに言われた事がある「美しいと思える気持ちは、感受する側の心にある。野に咲く一輪の花に“美しい”と心を奪われる人もいれば、大きな花束にこそ反応する人もいる」侘び寂びは日本固有の美意識、と聞くことがあるが、西洋の音楽表現にも、現代我々が身を置く一般的な環境からすれば、清楚な中に力を感じたり、複数の意識の呼吸が大きなエネルギーを放射する静かな場面に出会う事がある。日本は、そのような表現こそをそもそも美意識としてきた筈である。が現在、一般的にどうだろう?ベヒシュタインが、ピアノという前世紀の音楽表現に必要だった楽器を、いかに現代に適合させながら先人の意識を継承できるか、日本での発信意義は高く、責任も決して小さくない。
2019.01.02
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本を読んだ物が映画化された場合、ガッカリすることもあれば、概ね同じような感動だったりするのが私の場合の通常だ。本は想像が自由なので、ストーリーの情景は、かなり自分の価値観に着色され、いい感じのシーンが心の中に広がる。大抵の場合、主役を演じてるのが自分自身か、仮に自分自身でなくとも、主役側に立った情景として着色されている。色んな意味で私の感動にとって都合よく情景の展開をしているのが私の読書だ。なので、映画化されたとき「あれ?あの辺りの事は結構端折ってしまったな」と感じる場面が数回出てくると「あ~ やっぱり本の方が良かったなぁ」となる。本を読み終わった時の感情と、映画を見終わった時に心に残った総合的な情景が一致していると。「本も良かったし、映画も良かった」となる。本屋大賞を受賞した 宮下奈都の ”羊と鋼の森” が映画化され、まもなく封切りになる。この映画の製作段階で、映画会社の方が会社のショールームと工房に取材にいらっしゃったので、映画化されるということは少々前に知ることができた。私のブログからのアクセスで、逆に会社を知っていただいたようだった。ブランドをお調べになったのでなく、ドイツとか工房とかのキーワードで検索をかけられたと確かおっしゃっていたと思う。ドイツで修行した先輩調律師を描く為の素材集めが、いらっしゃった動機だったと記憶している。映画を作る際、細かな事までお調べになるんだなと、感心しながら応対させていただいたのを覚えている。そんな経過もあった事から映画のテイストが気になっていた。映画の事も頭の隅の方に行った頃、日本ピアノ調律師協会から試写会の案内が送られてきた。調律師協会が撮影のアドバイスを依頼されていたと聞いていたが、私はこの法人の国際局の参与として運営のお手伝いもしている事から、試写会のメンバーに入れていただき、一昨日日比谷の試写会会場に行ってきた。映画は、自分の想像を遥かに上回る出来映えだった。本屋大賞を受賞したという事も手伝い、当時早々に本を手に入れ読んだ時は、私と同じ職業が取り上げている事が災いしたのからだと思うが、色んな部分が単純に大袈裟に感じてしまい、作者が描く抽象的なイメージが頭の中で広がらなかった。「調律と関係ないピアノ演奏者が読んだ方が楽しめるのかなぁ」というの私の感想だった。しかし、映画は、私をスクリーンの中に確実に誘ってくれた。4人の調律師が出てくるが、夫々のキャラ全てに、時間を超えた私の断片が存在していた。ピアノを演奏するお客様との会話全てに、話こそは違えど、私が体験した(ている)事として観ることができた。スクリーンに映し出される橋本光二郎監督の世界は、自然の恵みこそが創造するアコースティックピアノを通じた人間模様の描写だった。ピアノそのものが生命を包み込む森を描写しているのか。と思いながら、子犬のワルツのシーンでは涙が自然に流れた。因みに、ドイツで修行した設定の、板鳥宗一郎調律師役を三浦友和が演じているが、その演出に、楽器店の壁に貼ったポスターは、映画に会社から提供させていただいたBECHSTEINのポスターが貼られていた。店内のポスター前には、ベヒシュタインのダルマ脚のグランドが置かれている。板鳥調律師が語りながらこのダルマ脚ピアノに視線を移すシーンが、言葉少ない調律師の想いを伝えるのに充分な効果があった。チューニングハンマーという調律の道具を、板鳥調律師が新人調律師の外村に手渡すシーンでは、日本の物でなく敢えてドイツ製が使われ、そのシーンの意味を色濃く演出していた。お子さんがピアノを弾かれる保護者の方、ピアノを弾いていらっしゃる方々には是非鑑賞してもらいたい、と思う映画の一つだ。今度の6月8日に羊と鋼の森は公開されるそうだ。この日はレッスン休んで映画館に行ってみるのも良いのではないでしょうか。
2018.02.22
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多くの音色の点が空間に置かれ、それぞれに色彩の強弱がつくと絵画のような立体が空間に浮かび上がるような錯覚を受ける。立体的な響きの造形を空間に創造する工夫を、ドビュッシーは彼の作曲技法の中でしていたんだな、とスピーカーからプレイバックされる音を聞き、つくずく、楽曲に内包される、響きの造形意欲に感じ入った。低音域・中音域・高音域の3つのレジスターの響きが違和感なく完全に溶け合わないことで、同一系の色で繋げられる一本のラインを浮かび上がらせ、その位置が前後に変化するように聞こえる。今年は、ドビュッシーの没後100年というメモリアルイヤーになる。その記念ということで、ドビュッシーの研究家としても知られる、青柳いずみこさんがCDを録音された。その、特別なCDの演奏楽器として1925年に製造された、ベヒシュタインのフルコンサートピアノをお選びいただき、コジマ録音さんが録音会場に選んだ相模湖交流センターに八王子工房から運び入れた。ドビュッシーは1818年3月に亡くなっているが、1925年製造のBechstein の構造は、ドビュッシー存命中のピアノと同じと言っても過言ではないだろう。ドビュッシーはベヒシュタインを高く評価したということで、ベヒシュタインのカタログにも紹介されている: Composer Claude Debussy highly prized Bechstein pianos and made the statement, “Piano music should only be written for the Bechstein.” ドビュッシーがこのように述べる理由が腑に落ちるベヒシュタインの独特な響きの効果が、モニタースピーカから流れてくる青柳さんの演奏で再現され、いく層にも重なる旋律が生み出す多彩な色彩から、改めてドビュッシーが印象派と言われる所以を感じた。ドビュッシーが頭の中に描いたのではなかろうか、と思われるピアノの響きの色彩が、100年経った今年、青柳いずみこさんがCDにしてくださる。5月の発売が楽しみだ。
2018.01.27
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こだわりには色々あるが、楽譜の解釈に徹底的にこだわっていらっしゃっる国立市のH先生のこだわりは、ピアノ以外にも幾つかお持ちになっていらっしゃる。オーディオの趣味も、そのこだわりの一つに一つにしていらっしゃる。お互いの時間の許す時には、蓄音機を聴き前世代の人智に感動したり、自作の真空管アンプでレコードを聴かせてくださる。人はこだわって物に接していると、日常を確実に超える世界を見つけ、そこから享受する味わいに浸るという、常人には踏み込めない領域を見つけるものだ。と、H先生としゃべるたびに感じている。今回は、新年のお楽しみ会?で、更なる深みを体験させてもらった。H先生は、真空管のアンプを自作なさっていらっしゃる。話しを伺っていると、最初は既製品の物を購入なさっていらっしゃったようだが、自身の音を見い出すには自作だろう、ということから始まられたようだ。そもそも、電気技術が好きでなければそういう事にもならないだろうが。今回、一緒にお宅をお邪魔させてもらった、会社のS君の趣味の一つアンプの製作があったようだが、S君の知識もなかなかなもので、H先生と電気回路の話しのキャッチボールが充分できていた事が、今回、話が更に深くなっていくのを手伝った。こっちは、中学生の時アマチュア無線技士の免許を取得した時に勉強した、電気回路の知識を記憶の奥底から引きずり出し、コンデンサーの容量やら、バイアスやらの話について行くのが精一杯だった。数値的な会話で着地かと思いきや、最後にH先生曰く「行き着いた所は、自作アンプ。それも数値的な測定などに頼らず、色んな真空管を手に入れて試し耳で判断するのが、音楽を聴く意味で一番しっくりきた」確かに、何種類かの自作アンプをつなぎ変えて聴き比べさせてもらったが、オーケストラが良い感じなアンプ、室内楽ならこっちかな、と、時には真空管を差し替えて頂いたり、違うアンプの場合コンデンサーの種類を説明いただいたり、真空管やコンデンサーの双方が、響の特徴を作るのに随分影響を与えるのが良くわかった。部品の組合せで響が変わるのを体験していくうちに、何やらピアノ製作と共通するものを感じた。ベヒシュタインなどのドイツのピアノは、音楽家と対話しながら試行錯誤しながら製作し、数値的な裏付けは後でついてきていると感じる。今でこそ、コンピューターでの設計は当たり前になってはいるが、個性の根拠は数値で作られたのではなく、感覚から生まれたものだ。こんな事を考えながら、ラローチャのモーツァルトピアノコンチェルトでホールの中のような臨場感を堪能させていただいた。
2018.01.24
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年が変わるのを五感で感じるため、子供の頃、大晦日に行っていた、鐘撞をここのところすることにしている。実家のある多治見市には永保寺という臨済宗南禅寺派の寺院がある。実家は、この永保寺を守る寺の一つ徳林院の檀家になるので、法事やお盆や年始の挨拶の度にお伺いする、馴染みのある寺になる。永保寺にある開山堂は鎌倉時代に建立されたということで、ここの観音堂と共に国宝に指定されている、観光する場所が決して多いとは言えない多治見市の見所の一つ地なっている。この永保寺には鐘楼があり、ここで大晦日には除夜の鐘を撞かせてくれる。先程、”五感” と書いたが、五感とは視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚 になる。大晦日から、正月に感じる感覚で、今、一番多いのは視覚ではないだろうか。例えば、門松や玄関の正月の飾り、スーパーでのお正月用の品々、初詣に並ぶ人など、見て感じるものはやたら多い。そのつぎに多いのは、味覚だと思う。お雑煮と御屠蘇は、僕はこの時期にしか口に入れないし、おせち料理も、やはり、この時期にしか口に入れないものがある。残りは、聴覚、触覚、嗅覚になるが、僕の場合、この中でこの時期にしか体験しない触覚、嗅覚に関わるものは、と考えてみると少々難しい。おせちなどの料理の場合、嗅覚に関わるものがあるが、この時期にしか感じないか?というと少々難があるが、例えば御屠蘇の場合、鼻を抜ける時に感じる香りが、味覚とのコンビネーションで、この時期特有といえば特有かもしれない。触覚は、私の場合昔はそれなりにあったと思う。凧揚げは子供の頃、正月にやるものだったが、凧が空高く上がり、凧紐が手に少し食い込むような感覚は、この時しか感じないものだといえばそうだったかもしれない。あと、凧を作る時に竹を薄く削るわけだが、薄く削った竹を曲げたりする感覚も、この時期ならではだったように思う。硬くなる前のお餅を新聞紙に広げる時に柔らかいお餅に触る感覚、書き初めの筆が半紙を滑る感覚など、思い返すと正月ならでは触覚は確かに有った。しかし、今はそういったものは無くなってしまった。そこで、正月体験を充実させる為に。僕が普段から酷使している聴覚の出番が重要な要素になった。お寺の鐘は、除夜の鐘以外にも時を告げる為に打たれることはあると思うが、僕は普段から頻繁に寺院に行くわけでもないし、寺院の鐘が聞こえるような場所で生活している訳でない。ゆえに僕には、除夜の鐘で聞くお寺の鐘は、年間で唯一の機会と言って良いと思う。お寺の鐘を撞いたことがある人はお分かりかと思うが、強すぎず、しかし、手首のスナップを最後に効かせ、鐘を打ち付ける木が鐘に長く接触しないような気持ちで打つと、”グゥオ~ン~ア~ン~オァ~ン~”と、耳の真上から頭から腹にまで空気の振動を感じる音が鳴る。西洋の教会の場合、街全体が石でできていて、教会の中も響くので、鐘そのものの音は日本の鐘と比べると、立ち上がりが早く鋭い感じがする。しかし、日本のお寺の鐘楼は、お経を上げる複数の和尚さんの声も余韻として残る感じはしない、響の少ない空間になる。そこにぶら下げる鐘は、それなりに説得力あるサウンドを演出しなければならない。よって唸るように鳴る。煩悩を追い払う意味が除夜の鐘にあるというが、普段否定している野太い響きへの迷いを追い払う意味で、煩悩を消し去る効果も僕にはある。さて、除夜の鐘の力を借り、年々薄らいでいく年明けの感覚を引っ張り出し、元旦は、今年やるべき事と、今年生起して欲しい事を再イメージしてみた。本年もよろしくお願いします。
2018.01.02
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11月29日 Victor Entertainment よりリリースされた矢野顕子さんのCDにベヒシュタインを使用いただいた。録音エンジニアの吉野金次氏の「彼女の声にはベヒシュタインがあっている」という推薦があり、録音でベヒシュタインを使用することを検討している。という思いがけない連絡を、録音のコーディネートをなさった篠崎さんから受けたのが、今回の録音プロジェクトに参加させていただくきっかけだった。ご本人や、ホールの予定などを擦り合わせた結果、以前、エル・バシャのJ.S. Bachの平均律 第II巻の録音でも使用させていただいた、神奈川県立相模湖交流センターが、今回のCD Soft Landingの録音会場になった。楽譜を読む演奏者の解釈によるパフォーマンスがベースになるクラシックの録音とは少し違う、音符が書かれた楽譜のない音楽作りが私には新鮮な体験だった。吉野金次さんが「声に合っている」とおっしゃている意味が、リリックな矢野顕子さんの歌を聞いていて頷けた。ベヒシュタインの音は立ち上がりがよく、一つの子音や母音の中にも大きな抑揚をつける矢野顕子さんの独特な歌い回しに自然に溶け合う感じが、アンサンブル効果として魅力的だった。録音が終わり、鉄骨に矢野顕子さんのサインを頂戴し、ちょっとミーハーな気持ちで一緒に記念撮影。このアルバムの発売記念イベントが六本木ミッドタウンで行われた。声とピアノが掛け合うようなライブは、また違う魅力的な側面を見せてくれた。ライブと録音と両方聴いてみると、より、頭の中に湧き出ているであろうイメージに近づく事が許されたような感覚になった。かの糸井重里さんが矢野顕子さんのことを「ピアノが愛した女」とコピーライトしたというが、本当にその言葉がストンと心に落ちた。今回の録音で出会わせていただき、ツアーでもBechstei D-280を湘南台、NHKホール、サンケイブリーゼ(大阪)でご一緒させていただいた。アルバム”ごはんができたよ“ を、ピアノを自在に操りなら、抑揚感溢れる歌い回しで凄い人だ、と、知人のステレオで感動しながらLPを聞いたのは、調律の勉強を始めた学生の頃、確か80年の秋か冬だった。今度はご本人のパフォーマンスを目前で、という本当にエキサイティングな体験だった。そして。。。ツアーを終えた矢野顕子さんが汐留ベヒシュタインサロンにお越しになり、ピアノをご購入下さった。お弾き頂く度にピアノのポテンシャルを肌で感じ、毎回、ニュアンスが少し変化し、お感じになっていらっしゃることを口に出された。それが私の価値観と整合していることが嬉しくて仕方ない。
2017.12.23
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工房コンサートは、その名の通り工房でのコンサート。通常のステージでは憚られるが、でもやってみたいな、と普段思っていることに切り込み、自由にピアノ演奏表現の可能性にチャレンジした。キャラクターの違うピアノを組み合わせたデュオだったり、フォルテピアノとモダンピアノでコンチェルトをしたり、極端な不当分律での調整感の検証など、「普通、コンサートで実験などする人いないよ。。」と思えるような事を楽しく行ってきた。その、“工房コンサート”も早いもので、スタートから約10年の歳月が流れた。今回の工房コンサートは、音楽学学者 野本由紀夫先生をお招きし、ベートーベン・シンフォニー第9 2台ピアノ版 F.リスト ピアノ トランスクリプション全楽章を行った。非常に密度の濃いもので、今迄の工房コンサートの集大成と言える内容だった。ピアノは、現代のベヒシュタイン フルコン C.Bechstein D-282 と約90年歳の離れたC.Bechstein Eの2台を組合わせた。同じフルコンサートでもピアノの長さが10cm近く違い、弦長と弦の太さが同じ音名でも微妙に異なる。それにより、特に中域から低域は、高い倍音が同じ周波数にならず、2台重なると響きの高い部分に揺らぎが生じる。よって、一台の場合、又、全く同じ機種2台の場合よりも、ステレオ効果に微妙な揺らぎの効果が加わり、よりシンフォニックな感じが生まれる。この面白さは、フォルテピアノをソロに、オケパートを現代のベヒシュタインで行った時に感じた効果を思い出させた。ソロピアノとオケパートの音質が微妙に一致していなことから、ソロとトゥッティのコントラストが明確になり、ソロの音量が現代のピアノのように期待できないフォルテピアノなのにも関わらず、ソロになった時のメリハリ感は強く感じられた。音色が異なると、分離感はより強くなるわけだ。臨場感がモダンピアノ2台よりある。同じピアノ機種2台がベストという事を、まるで正しいデフォルトの如くホールの担当者に言う業者がいるが、音楽に従事している関係者は、自らの耳で、ピアノが異なった2台ではどういう効果が生じるかも体験して欲しい。確かにEnyaとか達郎のように、同じ人物が声を重ねることによってのみ得られる、独特なサウンドエフェクトが魅力的な音楽もある。しかし、2台ピアノの為の楽曲の場合に期待する効果はそれとは違うのでは、と私は工房コンサートの検証で確信した。ご存知のよう第9はオーケストラ楽器に加わり、声楽ソリストや合唱が入る。ピアニストは声の部分もオケ楽器とは雰囲気を変え響かせたい。いろんな要素が絡むからこそ、リストのピアノ トランスクリプションの難解さがピアニストにあり、聴き手には、そこがスリリングになる。私自身工房コンサートで、耳、感じ方の修復という意味で、大きな収穫があった。溢れかえる情報を整理してピアノ音楽を検証する機会は、音楽愛好家の為にまだまだ終えてはいけないという気持ちが今回の集大成で更に強くなった。
2017.12.15
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今走っている工房コンサートは、ベートーベン交響曲第九をシリーズ全3回にして行っている。昨日は第2回目「ピアノソナタの森へ」がタイトルだった。二楽章と三楽章を、稲岡千架、末永匡、内藤晃の3人のピアニストがリスト編曲の2台ピアノ版を演奏し、多方面から楽曲を切開いた。同じく、ベートーベンソナタ第1番op.2を一楽章 内藤晃、二楽章 末永匡、三楽章 稲岡千架はそれぞれ演奏した。そのあと行われた、異なる声部の絡みを楽譜からどう読み解くか、実際彼らの間であったディスカッションの提示も興味深かった。今回、音楽の聴き手、そして、ピアノ技術者として興味深かったポイントとして、以前も似たような試みが行われたことではあるが、2台のピアノの配置がなす音響的な効果第一に上げたい。今回使用したピアノは、1920年代の製造と2017年製造の2台のベヒシュタインのフルコンサーピアノだった。透明感ある響き・敏感な抑揚感・多彩な色彩といったベヒシュタインのコンセプトの核は同じだが、反応しやすい音量、楽器全体から放たれる音圧は随分違う。工房は空間容積もコンサートホールのように大きくなく、豊かな残響があるわけでない。その中で、音量的なバランス、響の広がり(ステレオ感)の両方に彼らはこだわった。これは私も昨日のレクチャーで初めて知ったことだが、ベートーベンは、オーケストラの楽器の配置を意識し、ステレオ効果を期待した順序で楽器を重ねる、といった工夫を交響曲のある部分にしているということだ。即ち、空間が造る倍音の絡みを助けにし、楽曲の構築効果の提示を試みている。当然、天才リストはそうのようなベートーベンの意識も組入れピアノ曲に編曲しているであろう。彼らが、音量バランスのみではなく、空間の中での2台のピアノのステレオ効果を狙うのは、作曲と編曲の意図を汲めば当然の事とも言える。今回も平均律ではなく不等分律で調律した。ミーントーンの概念をベースに、程良く均等に分散する、即ち Der Wohltemperierte Fluegelである。これで行うと、3度系の揺らぎが多いところが味付けになり、響にテンションとリラックスのコントラストが生まれることが興味深いのだが、特に今回二台のピアノでは、調律を正確に行うビフォー、アフターで演奏者(パート)が入れ替わった(ピアノをチェンジする)方が良い効果が出たのが正直驚きだった。いかにも倍音の産むマジックだった。我々は、ピアノの表現の可能性の面白さを、ベヒシュタインの販売のあらゆる場面でPRしている訳だが、このような音楽の構造から生じる興味深い効果は、ベヒシュタインの持つアドバンテージだと確信している。我々は、ピアノの表現の可能性の面白さを、ベヒシュタインの販売でPRしている訳だが、このような音楽の構造から生じる効果の面白さはベヒシュタインの持つアドバンテージだと確信している。ベートーベンソナタでは、それぞれの個性的なパフォーマンスの個性に、僕は改めて音大受験生が練習曲としているこのソナタの持つ芸術性に感心した。迫力を期待する耳から、立体感や色彩を期待する耳には、そもそも日本の心と言われる価値観に内包されているものだと思うのだ。なぜ未だに、迫力があることが期待されてしまいがちなのか。。正直嘆かわしささえ感じる。このシリーズの最終回は12/9土曜日、13:00-16:00を予定している。音楽学 野本由紀夫教授をゲストに招き、全楽章演奏される。
2017.10.18
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響のテンションに対する音律の影響の効果を上手く利用している意味で、自分にとって最も興味深い音楽家はモーツァルトだ。現在、鍵盤楽器などの調律方法は1オクターブを12に等分割する”平均律”というシステムで調律する。この場合、唸りの生じない、完全に調和する5度と3度の音程比が整合しない現象を、12音均等に分散する。以前、ブログでも書いたが、なんのこと?とならぬよう改めて解説する調和する5度(例えばドーソ)の音程比は2:3になる。仮にドの周波数が200Hzとだとソは300Hz、この音程比で完全にハモった5度ができる。調和する3度(例えばドーミ)の音程比は4:5になる。仮にドの周波数が200Hzだとミは250Hz、この音程比で完全にハモった3度ができる。1オクターブにある12音は5度を12回積み上げるとできるわけだが、5度を4回重ねるとスタートした音から2オクターブ高い3度の音になる。ドから考えると、ド→ソ→レ→ラ→ミになり、2オクターブ高いミの音ができる、このミを1/4にすれば2オクターブ下がり、スタートのドから3音高いミができる。これを調和する5度の音程比で表すとド→ミは、3/2 x 3/2 x 3/2 x 3/2 x 1/4 = 81/64 になる。では、調和する3度の音程比は4:5だが、調和する5度を積み重ねてできる3度の音程比と整合しているか?5/4 の分母を64にし通分すると 80/64。同じでない。その音程差は81/64 ÷ 80/64 = 81/80 になる。すなわち、純正な5度を積み重ねてできる3度は完全に調和する3度の音程より81/80倍広がってしまう。調和する3度を得ようとすれば、調和する音程比3/2の5度より狭い、調和しない音程比 2.9907/2の5度を作らなければならず、オクターブの分割に大きなしわ寄せができてしまう。このような、5度の調和の矛盾をすべての12音に均等に分散したのが平均律。目立つ3度の調和の具合をプライオリティーにし、意図的に不等分割する調律方法を”不等分律”という。この調律システムは、シャープ、フラットのないC dur の3度を綺麗に響かせ、そこからシャープ ならG dur → D dur → A dur → ・・・フラットなら フラットならF dur → B dur → Es dur →・・・と調合が増えていくに従い、3度の調和が少しずつずれ倍音のずれで生じる唸りが増すという効果が出るようにする。この3度の唸りが響きに緊張感を与え、調合の少なさ・多さが響の緊張感とほぼ比例してくる。短調の場合、不等分の方法によるが、一般的にh moll 除き同主調でほぼ反比例の効果が出ていると考えても良い。C durは柔らかく純粋に響くが、反対にc mollは凄い緊張感ある響がする。A durは明るい響がするが、a mollは比較的落ち着いた響がする。長調と短調の明るさ暗さに加え、不等分律では、その転調の方向で、緊張を感じる短調、単純に暗い感じの短調、晴れ晴れとした春のように感じる長調、どこかに緊張があり決して全てが解決し晴れ晴れしくはないな、と感じる長調と、様々な響のテンションを体験できる。平均律の場合、物理的にはどの調も全く同じ響で、ピアノなら奏者がタッチにより意図的に和音を構成する音の強弱や音色や発音タイミングのバランスを操作しない限り、単純に音の高低が違うだけで、同じように3度も5度も純正から少しずれた唸りを出し、どの調でも同じように響く。なので調による響の性格の差異は全く無い。モーツァルトと不等分律モーツァルトを不等分律で聴くと、この、調の性格を巧みに利用したんだと感じざるを得ない。音楽を聴くと、その曲の雰囲気からいろんなイメージを想像できるが、モーツァルトの場合、転調による響そのものの変化の効果とイメージが適合し、シンプルだが全ての音のポジションが心にどう作用するか計算されているのか、深い想像の世界に誘われる。同じ短調でも a mollの響の効果とc mollと違う。長調も同様にF durとD durは響の様子が違う。今日は、稲岡千架さんのモーツァルトのCDの発売日で、その記念のレクチャーコンサートを汐留サロンで行った。決して自分は我田引水するわけでないが、モダンピアノで不等分律の効果がポジティブに出しやすいのはベヒシュタインと確信している。ベヒシュタインの場合、響きに透明感があるので、フォルテピアノのようなレジスター(音域)による響の色合いの違いを奏者が意図すれば作りやすい。なので、モーツァルトのようなピアノ曲の場合、レジスター間の音と音のぶつけ合いが、フォルテピアノの時同様に効果的に作用し、不等分律でも、唸りの作用がディゾナンツな不快感にまでに至らない。そのような意味で、稲岡さんは今回モーツァルトの録音に、不等分律でのベヒシュタインをチョイスしてくれたと思う。今回モーツァルトが母親との演奏旅行中母を亡くした際に1778年パリで作曲されたという、Kv.310 Sonateが収録されている。響の変化と言う意味ではゆったりとした2楽章の調の変化が興味深い。2楽章の基調は牧歌的で柔らかく響くF durだが、稲岡さんに調の変化を書いてもらった。F dur → C dur → c moll → d moll → F dur → g moll → F durF durからc mollへの全く対照的な響の位置でモーツァルトは何を訴えたか。考えてみると涙を誘う。同様に3楽章もa moll → C dur → c moll → C dur → e moll ....調だけ見ていても葛藤を感じる。インスタントな食材に慣れた子供は、昔のように育てた人参やトマトを初めて食べると吐き出す子もいるという。同様にインスタントな音楽表現や楽器に慣れてしまうと、いつもと違う雰囲気に触れた際違和感も覚えるかもしれない。しかし、折角鑑賞に時間を使うなら、芸術からは違和感を超え大きな感動を自分は得たい。
2017.04.01
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先日、現代曲の録音の調律依頼をピアニストの飯野明日香さんから頂き、2日間、立会い調律をさせていただいた。今まで、集中して現代曲を聴く習慣が殆どなかったことから、今回の録音での経験で新たな発見がいくつかあった。その中の一つに、倍音の聞こえ方が特に面白かったので、書き留めておきたい。同時に2つの音がなる場合、Difference tone (差音)という現象が生じる。これは、実際なっていない音が聞こえる事である。同時に二つの音がなった場合、その2音の周波数の差の回数の唸りが生じる。例えば440Hzと442Hzの音が鳴れば一秒に2回の唸り、すなわち振動が生じる。この二つの差を例えば440Hzと540Hzとした場合、540-440で100回の振動が生じる。しかし、一秒に100回の唸りは聞き取れず、その代わり100Hzの音が鳴っているように聞こえる。これがDifference toneである。今回の録音の曲の中で、ダンパーペダルで、ダンパーを解放し、弾いているすべての音をぶつけ合い、その音程を変化させていく楽曲があった。曲名はカリオンということだった。その時、まさにカリオンの鐘が生む、おそらくDifference toneであろう高い音が生じ、その高い音が5度とかの特定のインターバルで移行していくのが聞き取れた。リング・モジュレーションを彷彿させる倍音の変化で、鐘の響きをイメージしながら演奏を聴いていた。その楽曲のタイトルが「カリオン」と知ったのは、そう自分が体感したあとのことだった。通常、協和音だけでは味わえない響きの変化で、自分にはとても新鮮な体験だった。唸りを生む倍音をどのように聞き取るか、という工夫で、自分は調律をする際、耳の位置を、左右や上下に移動させることがある。調律や整音は、倍音を空間に組み立てる作業なので、倍音の聞き取り方で、ピアニストの造りたいであろう響きをイメージし、それにマッチングさせていく。倍音をたくみに利用したこの現代曲の面白さから、作曲者の感性の多様性に改めて敬意の念を抱いた。倍音という事で、丁度その体験の10日後面白い経験をした。いつも、良いサウンドを楽しませていただく、Nさんのレッスン+オーディオルームでの出来事だ。調律の仕事が終わったあと興味深い音源を聞かせていただいた。マイクの異なった設置位置で収録されたピアノの録音だった。マイクのセッティング方法に名前があるようで、ワンポイント方式、デッカ方式、フィリップス方式、と言われている3つの異なったマイクセッティングだった。マイクセッティング位置の差異がある場合、倍音の取り方のみでなく、距離の違いによる音源からの時差も生じる。なので、この時差や音源と反響音との混合具合が違うのだろうと考えがちだが、自分は調律の時の体験から音源からの位置による倍音の聞こえ方の違いを体験しているので、倍音の聞こえ方の違いを期待した。実際聴かせていただくと、倍音の聞こえ方が自分のイメージを遥かに超えていた。優れた演奏家は、倍音に声部を乗っけたり、消えゆく倍音を意識しながら次の音を出したりする。倍音は音楽の立体感を形成する上でとても重要なファクターになる。今回、Nさんのオーディオシステムで、同時に録音された、3つのマイクセッティングを比較試聴させていただいたことで、録音技師のこだわりと難しさを認識することができた。今月は、倍音が生み出す作用の面白さを何度も体験できた。アコースティックの無限とも言える芸術性に改めて感謝だ。
2017.03.22
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普段の練習で最悪なピアノを使い、本番でいつもと違う良いピアノに当たってテンションを高めたい。ということをおっしゃった方がいる。というレポートを読んだ。最悪の環境でといえば、蒔きを背負い仕事をしながらも読書をし大成した人物の話も、事故によるハンディが身体にあり、かつ貧困の中でも勉学に勤しみ、ノーベル生理学・医学賞の候補に数回上がるという素晴らしい人物の話も子供の頃本で読んだ。本人に確固たる動機があり信念があれば、与えられた環境を克服し、あるレベルの知識を得ることは可能である。というイメージは自分もできる。しかし一方、科学系の新しい理論の発見だったら机上ですべてのことを解決させるのは困難で、発見のためにはいろんな実験をするということも見聞している。音楽、ピアノの演奏の場合はどうだろう?頭の中にすでにピアノの響きのイメージが出来上がっていれば、紙鍵盤の上に指をおけば、自分のイメージする音が頭の中で鳴るはずである。そういう脳の状態になっていれば、たとえ、ピアノの鍵盤が動かずとも、弦が切れていても今のタッチはダメだった、自分の思っている音は出ていない!というイメージができるという話を、複数の優秀なピアニストから聞いたことがある。一方、例えばベートーベンは、ピアノの個性そのものにインスピレーションを受け、曲を書いたのだろう、と考えられる場面が多い。彼が、楽譜に書いたことを、何も考えずそのまま現代のピアノで演奏すると、退屈に感じてしまう部分もあれば、美しい響きを得られない場合もあるくらいだ。モーツアルトの調性のチョイス、転調は不等分律があってこそしっくり腑に落ちる。楽曲を創造した人たちは楽器の響きや個性から何らかの動機を得て、頭の中で音を組み立て曲の工夫に至っている、と感じる部分があることから、自らのアイデアで響きを作り、その中に旋律の筆を走らせるという創造は、やはり響きの絵画をイメージできる楽器を熟知していなければアイデアに行き着きようがないのではないか、と思う。そもそも、自らのアイデアで響きを造る、という発想があるのだろうか?さらに問えば、何のためにその方はピアノを弾くのだろう?普段の練習で最悪なピアノを使い、練習は楽しいのだろうか?楽しむために音楽があり、さらに知的な趣味として演奏があるのではないだろうか?練習が楽しければ新たなアイデアも湧くだろうし、練習をすることが許されないような境遇になったとしても、美しい絵画を鑑賞してみようと心が欲することがあるよう、なんとかピアノに向かいたい、という動機が生まれるのでないだろうか。ストイックである必要がないところで、トレーニングの精神のみで鍵盤と格闘し、人前の演奏(その方の言う本番)で、自分が納得でき、そして人が感動する響きの絵が描けるのだろうか?考えれば考えるほど、その価値観に非常に大きな違和感を覚えてしまう。
2017.03.04
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僭越ながら、録音に当たってプレイエルの調律で参加させていただいたことから、今ソニーミュージックから販売されている仲道郁代さんの永遠のショパン、(Sony music label SICC 9002-03, Love Chipin Ikuyo Nakamichi) のライナーノーツを書かせていただいた。 以下、仲道郁代・永遠のショパン/ソニーミュージック SICC 9002-03 ライナーノーツより ========================== プレイエル・ピアノについてショパンとプレイエル・ピアノ19世紀当時、音楽家がピアノの製造をすることは決して珍しいことではなかった。例えば、1807年に創立されたフランスのピアノ工房、プレイエル社 (PLEYEL) の創業者は、ショパンがパリに渡ってから親交を深めたイグナツ・プレイエル (Ignaz Joseph Pleyel 1757-1831) で、彼はハイドンに師事した作曲家だった。ショパンはその息子カミーユ (Camille Pleyel 1788-1855) と特に親交が深かったようであり、さらにショパンがピアノ協奏曲第1番を献呈したドイツのピアニスト・作曲家カルクブレンナー (Friedrich Kalkbrenner 1785-1849) も、1829年からプレイエル社の経営に携わっている。カミーユとカルクブレンナーがプレイエル社でピアノ製作に携わっていたことを考えると、ショパンとプレイエルとの親交がどれだけ深いものだったか想像に難くない。こうして音楽家が経営指揮をとるプレイエル社には、さらにアンリ・パペ (Henri Pape 1789-1875) が1811年より数年間工場長として参画した。パペは、フェルトのハンマーヘッドを最初に考案するなど、ピアノ製造史の中で重要な技術革新を成し遂げた人物で、1815年にプレイエル社から独立して工房を立ち上げ、それ以降自らのピアノにも、プレイエル社と同じアクション・メカニズムを採用した。これは、プレイエルより少し前の時代からイギリスでピアノ製作をしていたジョン・ブロードウッド(John Broadwood 1732-1812)が採用していた、「突き上げ式シングルアクション」を応用した機構であった。このアクション・メカニズムの類似性からも、パペのアイデアが、プレイエル社のピアノの技術的な特徴に大きく寄与していたと考えられよう。また、プレイエル社はグランドピアノのみならず、優れたアップライト式ピアノも製造していた。ショパンは、ノアンのジョルジュ・サンドの館に住んでいた頃、そのプレイエル社のアップライト式ピアノで音楽をつけながら人形劇に興じたという。プレイエル社のアップライト式ピアノは、甘い響きの中でカンタービレな旋律を心地よく奏でることができるという、グランドピアノに匹敵する響きの特性を備えていた。パペは低音弦が交差する「小型アップライト式ピアノ」を初めて製作しているので、プレイエル社が優れたアップライト式ピアノを生み出したのは、パペの技術的な影響を少なからず受けていたためではないだろうか。 二つの楽器製造流派さて、フォルテピアノの個性を考えるに、二つの製造流派があることを意識したい。一つは南ドイツ・ウィーン派、もう一方は、イギリス•フランス派である。ショパンはワルシャワ時代にはフリデリク・ブーフホルツ(Fryderyk Buchholtz 1792-1837)製作のピアノを使用していた。そして、ショパンがパリへ向かう前に滞在したウィーンやシュトゥットガルトは、南ドイツ・ウィーン派のピアノ製作者のメッカだった。南ドイツ・ウィーン派のピアノはアクション・メカニズムも華奢で、タッチによって繊細な表現をするのに適した構造である。つまりショパンはパリに入る前、繊細で可憐な表現を得意とする南ドイツ・ウィーン派のピアノに接する環境にいたことがわかる。そしてショパンは、パリでプレイエル・ピアノに出会った。プレイエル社の楽器は、上述の通り、突き上げ式アクションを採用していたため、イギリス・フランス派に属していた。パリには当時、もう一人の有能なピアノ製作者、セバスティアン・エラール (Sébastien Érard 1752-1831) がいた。エラール社製のピアノは連打性に非常に優れていて、力強い響きが特徴的だった。そのため技巧派ピアニストのリストは、フランスではエラール社製の楽器を好んだ。一方ショパンは、プレイエル社製の楽器を好んだが、それはおそらくワルシャワ時代から繊細な表現に適した南ドイツ・ウィーン派の楽器に親しんでいたからであろう。プレイエル社製のピアノは、アクション・メカニズムがシンプルであるがゆえに、エラール社製ピアノに比べると、演奏は困難ではあるものの、ハンマーが打弦した瞬間を指先で感じられ、音楽的な繊細さを追求することができた。人の声のように柔らかい音色、透明感、そして色彩感のある響きこそ、ショパンが好んだプレイエル ピアノの特徴である。プレイエルの楽器は、演奏者の意識で、内声が外声と「自然に分離」し、人が対話しているように「旋律のダイアローグ」を聴き手に届けてくれる。当時のピアノは、現代のピアノと比較すると、全てにおいて繊細だ。その中でもとりわけプレイエル・ピアノは繊細で、その演奏には高い集中力が要求される。繊細だったと言われているショパンの演奏は、色彩感ある響きの中で、旋律を絡めて表現していたのであろう。仲道郁代さんのような名手がプレイエルの楽器を弾くのを実際に耳にすると、そのことをはっきりとイメージできる。 仲道さんのプレイエルと今回の録音今回の録音で使われている仲道さん所蔵のプレイエル社製ピアノは、1842年に製作された。オーバーホール自体はフランスで行われ、日本に届けられた。輸入梱包を解き、実際に楽器を組み立てた時に私がすぐ感じたのは、修復の際には楽器のオリジナルの機構を尊重し、なるべく当時の状態に復元するという方針のもとで、オリジナル楽器の構造を十分理解していた職人によって丁寧に修復作業が行われた、ということであった。それ以来、私は同じ方針に基づき、その仕事を引き継ぐ形で整調と調律・整音をさせていただいている。この楽器は、響きが鮮明であるため、調律をしていても打弦するタイミングのズレまでもが明確に聞こえ、まるで指で弦を直接かき鳴らしているような感覚すら覚えるほどである。今回の録音の調律に当たっては、ショパンがバッハをリスペクトしていたという点を意識し、完全な平均律ではなく5度圏の12の5度の7つをほぼ純正に、5つを均等に狭くした不等分律を用いることにした。不等分律の場合、3度系の響きが調性によって異なるため、調性が変わると響きのコントラストも大きく変化するという点に特徴がある。それゆえ、現代の平均律で調律されたピアノよりも、それぞれの調の持つ個性がより鮮明に表出され、ひいてはショパンが個々の作品に託した響の個性が、より一層際立つのである。 ========================== 他の機会に何度か述べた事はあるが、社で取り扱うベヒシュタインは、フランスでピアノ製造の研鑽を積んでいることもあり、初期のベヒシュタインとショパン存命中のプレイエルの構造は似ている部分が多い。当時のピアノ音楽のパフォーマンスに対するピアノ製作者としてのアプローチの共通点がこの二人にはある。この製造コンセプトを現在に継承するメーカーは少なくなってしまったが、ベヒシュタインと一般的にホールなどで体験することが多いピアノの響の感じの違いの意味が、当時のプレイエルの響を体験するとより鮮明になる。 ピアノ曲を聴くとき、発音時の子音、その後にくる膨らみがなす消えゆく音とのコントラスト、レジスターによる響の感じの違い、会話に聞こえてくる旋律同士の対話、色彩の変化など、細かい部分に意識を集中すると、作曲者に対する畏敬の念がさらに大きくなる。
2016.11.03
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録音現場の緊張感は、コンサートの時とは違う。演奏会の場合、会場と観客もその場の空気感を作る要素になり、演奏家がその空気感から何かを感じパフォーマンスが変化する様子をステージの袖から感じる事がある。コンサートは一発勝負だが、そういう意味で自由で一種の遊びのような感覚にも触れる事ができ、ここに感動する事も多い。録音の場合、演奏者の頭に鳴り響く音楽を、何かの外的要素の影響を受けることなく我々が居る現実空間に引っ張り出しているように感じる。なので創作アプローチが、細部に渡り非常に緻密になる。録音について自分の立場で言えば、録音で使用するマイクは恐ろしく感度が高いので、普段なら全く気にも止めないレベルの共鳴音や、音色のばらつき感まで気になるので調律と整音の兎に角手直しを頻繁に行うことになる。今回の録音では、ピアニストの稲岡さんと相談した結果、平均律でなく不当分律 (Bach's seal Y.Okamoto ver.1)で行なった。今回収録する楽曲がモーツァルトだったので、稲岡さんはフォルテピアノ的なパフォーマンスのアプローチができるモダンピアノ、ベヒシュタインで録音することになった。そこで、調によって響きの色合いが変化するということで、ピアニストのパフォーマンスをさらに支えることができると思い、今回は平均律でなく不当分律を推した。今回は、C Dur , D Dur, a moll で、響きの色合いが変わるのが調整室でも手に取るようにわかり、曲想と響きのコントラストの整合が大変興味深かった。先人たちによって生み出された音源の作品は決して少なくないからこそ、新たな感動を覚えられる作品を生み出す為に尽力すべき職業の責任を更に感じるセッションだった。
2016.09.08
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前回ドレスデンを訪問した時は残念ながら時間の関係で中に入ることができなかったが、今回は幸いなことに聖母教会 (Dresdner Frauenkirche) に入場することができた。フランクフルトメッセの後、ザクセン州の最もチェコよりのザイフェナースドルフにあるベヒシュタイン工場を訪問したが、その旅程中の週末の4月10日、ドレスデンの見学をする事ができた。ドレスデンはピアノ製造の歴史の中でも重要な都市の一つになる。フォルテピアノは1700頃にイタリア・フィレンツェのクリストーフォリが発明したというのは有名な話であるが、ドイツでその新型アクションの模倣という形でフォルテピアノを完成させたゴットフリート・ジルバーマン (1683-1753) が工房を構え、亡くなった都市がドレスデンになる。彼の徒弟たちが、その後ヨーロッパの他の地でマイスターとしてフォルテピアノの製造をし、その製造流派がヨーロッパの現代のピアノ製造に継承されていることを考えれば、ゴットフリート・ジルバーマンこそその後二つに分類されるフォルテピアノ製造流派の礎になる大マイスターと言って良いと思う。ゴットフリート・ジルバーマンは、かの大バッハ (Johan Sebastian Bach) のオルガンやチェンバロを製作していた事でも知られている。ジルバーマンは1736年、ドレスデン聖母教会にパイプオルガンを製作し、バッハが同年12月に演奏会を行ったと記録されている。そして、バッハの丁度1世紀前に生を受けたハインリッヒ・シュッツはドレスデン宮廷楽長を務め、ここ聖母教会に眠っている。1945年に爆撃で瓦礫となってしまった聖母教会が再建された事で、我々はバロック期の音楽に想いを馳せ、当時のエネルギーを肌で感じることがることが許される。外壁の新旧の石の組み合わせを見た時、この教会の再建を実現させたドイツ人の情熱に畏敬の念さえ覚えてしまう。完全に破壊されていない石は同じ場所に設置されているという。ゴットフリート・ジルバーマンの製作したオルガンはドレスデンのカトリック旧宮廷教会で聴く事ができ、今回の訪問ではドレスデン聖十字架合唱団のハーモニーと共にこのオルガンの調べも堪能する事ができた。ベヒシュタインが言う、ピアノの響きの理想の核のようなものをドレスデンの街から感じた。
2016.06.18
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約20年前、小出郷文化会館でのピアノレッスン合宿がスタートした。当時の自分が30代半ばだった事を考えると、再月の流れの速さに改めて驚かされる。自分がここで得た経験が、知識の点と点を繋げる線になっていた確実な手応えを今感じている。今回が20回目のレッスン合宿だった。ホールに納品したベヒシュタインを有効利用する為の意義ある企画を、というコンセプトの下、このピアノレッスン合宿がスタートした。ドイツ音楽大学の教授によるレッスンを、ベヒシュタインとスタインウエイを使用し、大ホールのステージのという理想的な響の中で提供するという、文化会館が発信する事業として意義の高いものになった。そして何よりも、ホールのスタッフや地域の有力者の方々のご尽力があり、この企画は20年継続できた。多くの人を対象に動きにくい、という意味で、大手メーカーの行う音楽教育展開の中では実現することが困難な内容だと思うが、だからこそ、その真価を評価してくださる方々に恵まれたのではないだろうか。芸術家の生みの苦労にはすざまじいものがあると思うが、ステージで演奏する場合という意味だけではなく、ピアノの演奏は本当に難しく奥が深いと思う。複数の音が同時に進行していく中で、響の立体感と旋律の美しさを同時に把握しながら、これら全ての音色を同時に操るのがピアノだ。ある意味ピアニストは指揮者でないとならない。R.マイスター先生のピアノのレッスンは音楽そのものの解釈のレッスンで、その様子を見聞きしていると曲の持っているそんな凄さ・深みが見えてくる。聴き手は表現への関心が高くなればなるほど、名だたる作曲家がいかに天才的だったことを改めて認識できる。そして、その楽曲の表現の奥行きを感じる時は心打たれ涙さえ流れてくる。更に、いい形でできる限り長く続けていけることを願ってやまない。
2016.04.03
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前日で本当に申し訳ないですが、「明日のラフマニノフの公演のピアノを変更できないですか」とピアニストから言われたのですが…と、マネージメントのご担当から電話を受け、小心な自分は一瞬頭が白くなった。「風邪で体調が優れず、気分をどうしても変えたい」という事だった。普段はシフトペダルも巧みに使い、あらゆる音量での色彩をコントロールする氏の場合、風邪で耳の通りが悪い時にはベヒシュタインは辛いのかもしれない… もし自分が逆の立場ならどうだろうか… と考え、自分を納得させた。ラフマニノフ公演の翌日、ご本人から携帯に電話があった。ショパンのコンサートの後、響の感じを上手く聴き取ることができず心がパニックになってしまい、果たしてこの状況でラフマニノフを?と考えてしまった。バッハやベートーベン、シューベルトだったら迷わずベヒシュタインでのパフォーマンを選んだが…という内容だった。音量で言えば、ショパンが生きた1800年代初頭のピアノより、現代のベヒシュタインは圧倒的に力強いが、当時のプレイエルからも感じる響の透明度から生まれる重なった音の色彩の分離は、モダンピアノの中でベヒシュタインは秀でている、と自分は常に感じている。複数の音の重なりが生む響が混合した音の塊でなくなると、奏者にはネガティブにもポジティブにも作用すると思う。なので氏の言わんとしている事は充分理解できた。ショパンも、When I am not in the mood, I play on the Erard piano, where I find the ready tone easily. But when I am full of vigour and strong enough to find my very own tone – I need a Pleyel piano”大意: 気分の優れない時は出来合いの音を容易に見つけられるエラールを弾く。しかし、自分らしい音を見つけるのに充分な気力と体力がある時、プレイエルが必要だ。と言っていたというエピソードを思い出した。次の仕事の機会を楽しみにしている。
2016.02.27
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カール・フィリップ・エマニュエルは生徒にクラビコードでの練習を推奨していたというが、モダンピアノを弾く為の練習にも非常にポジティブな作用があることを今日、稲岡さんのレッスン室の調律に伺い再確認できた。稲岡さんは、ベヒシュタインをレッスン室に使用していただいているが、この度レッスン室にクラビコードも追加された。早速レッスンでもクラビコードを利用なさった話を伺った。クラビコードを生徒に弾かせることで、多くの問題を解決できたそう。古典派以前の楽曲のみならず、クラビコードがもう使われなくなった時代のラフマニノフにも、というか、ラフマニノフが一番その効果が覿面だったという。音と音を紡ぎながら旋律を歌い上げることを理解できる。聞こえなかった声部が認識できた。そして、モダンピアノは色々できすぎてしまうことで、実はちゃん自覚していなかったという事が見えてくる。等、ピアノでの演奏表現の可能性が大きく広がる。と、語ってくださった。ピアニストの指の向こうには弦があり、弦を鳴らしている。という当たり前でも、どこかに行ってしまったんでは?と言ってしまっても仕方のない感覚が、クラビコードに触れることでピアノの鍵盤に向かう時にも生まれる事が、皆の大きな収穫になるそうだ。ベヒシュタインは、このクラビコードのDNAを持っている事が確実にわかる。と、稲岡さんはいう。僕も同感だ。人の感覚は常に不可逆的ではないことは歴史が証明しているが、ある意味では戻り、しかし、枠を超えた響きに感動を覚えてみたい。今日は、二台のグランドピアノの一台は不等分律、一台は平均律で調律した。楽器は音楽の中身を色々教えてくれる。
2016.01.06
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調律の音出しを始められるまで、レコード聴きますか?と、Nさんから嬉しいオファーをいただいた。Nさんは町田にお住まいのC.Bechstein Bのユーザーさんだ。ベヒシュタインのユーザーさんで、思わず感嘆の声を上げてしまうオーティオをお持ちになる方は何人かいらっしゃる。Nさんもその中のお一人になる。この方面に精通しない僕に、圧倒されるようなオーラがシステムから放たれていて、ベヒシュタインと共に強い存在感がある。自分は大したオーディオを持たないし、その上レコードプレーヤーは壊れたままで、アナログの良いステレオサウンドがいつも聴けるわけではないので「喜んで」 と即答。Nさんのオーディオは、真空管のメインアンプで、その道の人たちに評価の高いシステムという。折角なのでオケとピアノ両方聴きたく、ケンプとベルリンフィルのベートーベンピアノコンチェルトをリクエストした。自分はオーディオの事は詳しくなく、特性がどうか、などの評価はできない。しかし大袈裟な話でなくその響の感じは、まるでホールの客席に座っているような気分だった。短いフォルテの場面でも、音の面が取れている感じで、音源から少し距離を感じる。しかし、滑舌は良く、左右のみでなく前後にも響の層を感じることができた。ティンパニーは左の奥に、コンバスは右奥に、ピアノは中央手前に聴こえ、楽器の位置も、残響感も、ホールの中にいるように感じた。ホールでの生の音の再現いうことであれば、文句なしのサウンドだった。そして、何よりも音楽が良かった。さすがに良い響は神経を音に向けてくれ、そのあとの調律にとてもポジティブに作用してくれた。今聞いたばかりのケンプの弾くピアノの響きと、目の前のベヒシュタインの響きが頭の中でシンクロしていた。調律のあとにエルバシャの平均律のCDも聴かせていただいた。フルコンを弾くエルバシャがそこにいるようだった。自分に必要な良い刺激だった。
2015.12.27
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今朝の朝日新聞の折々のことばで取り上げられた哲学者の言葉に、日々我々が経済社会において価値観のベースにさせられている事と、本来尊重されるべき部分との乖離の現実が、改めて提起されている気がした。———————朝日新聞 2015.10.30 朝刊から引用多様性は……多様な存在の外からその数を数えるような一個の存在に対して生起するのではない。 (エマニュエル・レヴィナス) 多様性の尊重には、一人ひとりが異なる存在であることが前提となる。人びとが数で一括りにされるところに多様性はありえない。人はその個別性においてこそ輝く。20世紀フランスの哲学者は、だれかを別のだれかで置き換え可能と見るのは、人間に対する「根源的不敬」であると言う。「全体性と無限」(合田正人訳)から。———————せめて芸術表現においては常に、この、根になる部分が尊重されて欲しい。今度、ノアンフェスティバル・ショパン・インジャパンと称したイベントを行う。イベントの趣旨の中に創作者の意識の解釈を意識した多様性の尊重がある。以下、イベントの紹介文の一部ショパン存命中に製造されたプレイエルを初めて調律したとき、その“響きの鮮明さ”に驚かされ た。これはエラールや、ウィーン式のフォルテピアノで体感した感覚とは全く異なるものだった。 響きが鮮明ゆえ、同時に鳴るそれぞれの音の認識、打弦タイミングのズレが明確に聞こえる。ハン マーの打弦を指先に感じるアクション構造と、響きの鮮明さの両方が、まるで指で弦を直接かき 鳴らしているような錯覚さえ覚えさせていることに気がついた。この時「ショパンは体調の良い時にはプレイエルを好み、体調がすぐれ ない時はエラールを弾いた。」という言葉の意味が理解できた。 プレイエルのヒストリカルなオリジナル楽器でピアノの名手による演奏を聴くと、音楽のダイアログ(対話)が見事に表現されているの が聴き取れる。我々が通常耳にする同じ楽曲の演奏からは認識できなかったダイアログの囁きが、その曲の奥深さを再認識させてくれ る。 ショパン自身がプレイエルでの演奏を好んだ理由はここにあるのだろう。“繊細な表現を”という言葉でひとくくりにしてしまうと、そもそもフォルテピアノ全体の響きが繊細な時代の中にあった彼の美意識のポイントに気づきにくくなってしまう。伴奏部分の音の重なりが背景の色彩を作り、その響きの色彩の中に浮かぶ旋律によるダイアログを表現しやすいピアノが間違いなくプレイエルだった。現代のピアノと比較する意味で、特筆すべきプレイエルの技術的な工夫の中で響板の構造を挙げたい。プレイ エルは鮮明な響きを実現するため、響板裏面にブリッジ(表面の)に並行して貼り付けられるメインリブ構造を 採用している。当時、この構造も画一的なものではなく、様々な試作がされているが、どのパターンもベースに 同じ狙いがあることが観察でき大変興味深い。 この“透明感のある響き”というコンセプトを現代に踏襲するピアノは、ベヒシュタインである。ベヒシュタインの創業者カール・ベヒシュタインは徒弟時代にプレイエルのドレスデン工場で学び、さらにパリでプレイエルの流れを汲む”クリーゲルシュタイン”のもとで修業を重ねた。19世紀半ばのベヒシュタイン設立当時に製造されたピアノを見ると、プレイエルの構造に非常に似ていることが判る。この事からも、ベヒシュタインのコンセプトの源流がどこにあったのかを想像することができ、そして、現代のベヒシュタインの響板も、音圧ではなく、響きの鮮明さを優先させる構造となっている。今回のノアン フェスティバル ショパン イン ジャパンのコンクール本選でベヒシュタインを使用する理由は、“ショパン自身が意図した であろう、鮮明な響きの中で描かれる色彩のコントラストや旋律のダイアログの表現に審査員は耳を傾けたい。”という意味がある。
2015.10.30
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会社が企画して行うドイツ人ピアニストの日本でのレッスンは、93年からシリーズ化された。それが年に2、3回にも膨らんだのが3年後の96年頃だった。僕は、93年にドイツでのマイスター試験を終え帰国し日本でのベヒシュタインの仕事をスタートさせたので、ドイツ人ピアニストのレッスンのシリーズ化と丁度時期が重なった。首都圏は、ドイツ語圏にピアノ演奏の勉強のため留学して帰国したピアノの先生を、通訳として見つけるのはそれほど難しいことではなかったが、地方に行くとピアノのレッスンやレクチャーのために、ドイツ語の通訳を探すことは当時は困難だった。そんな背景も手伝い、恐れ多くも自分が公開レッスンや、講座の通訳を行うことが年間で延べ3週間近くあったと思う。自分はピアノ製造こそ勉強したものの、ピアノ演奏をドイツで勉強したわけでないので、ドイツ語の専門用語を理解する事が移動の電車内での課題になっていた。しかし彼らのレッスンやレクチャーは、専門用語が必要とされる弾き方のレッスンに留まらず、常に、音楽についての様々な解釈の提示があった。これらの通訳は単なるドイツ語から日本語への言葉の正確な転換を超え、否応なく概念の理解を迫られた。この概念の読み解きが、何よりも自分の心を毎回感動させてくれた。良いものは、感動に理屈はない。しかし、解釈によって創造主の心の中にあったであろうものに触れることにより、聴き手側にも様々な要求がでてくる。絵画も文学も、解釈の基礎知識があるのとないのでは、作品の真価の理解が異なってくると思う。今度また自分にピアノの演奏表現の楽しさを提示してくれたドイツ人の先生の一人マティアス・フックス教授のレッスンとレクチャーがベヒシュタイン汐留サロンでなどで行われる。今度はどんな刺激を与えてくれるのか楽しみだ。
2015.10.24
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籍を置く八王子技術センター(通称802)は郊外にあり、増設した汐留と赤坂の拠点に行くには随分時間がかかってしまう。又、輸入したピアノをできる限り多く802で保管するほうが物流効率も改善できる。などの理由で今まで事務所スペースにしていた所を倉庫スペースにした。営業と販促と総務が千歳烏山の東京ショールームに引越し、技術と商品(出荷)と自分は802に残った。今までの802のスタッフは概ね半々に分割された。この引越しを機に倉庫全体は大幅なレイアウト変更をする事になった。その為の大掃除の中で、埋もれていたディスプレイなどの販促品や交換用のパーツなど、今となっては不要な物がわんさか出た。ベヒシュタインを始めヨーロッパのピアノは原則、100年前に製作された物にも現在の部品は大きな問題なくマウントできる。そもそもが現物あわせで多くの部分が手作りなのと、ピアノは1880年以後、殆ど大きな構造上の変化がないのがその理由だ。家電の世界とは随分異なる。しかし、今は製造していないイタリア製のFursteinとフランスのPleyelのキャビネットの部品は、たまたまその部品が何処かで大きく破損しない限り、必要になる場面が登場しない。又、これらピアノの展示会用のディスプレイは今や必要ない。そんな訳で、産廃コンテナ1台では到底きかない量の断捨離をした。残すべき物と、その時に必要だった物の仕訳はそのまま頭の整理になり、この大掛かりな整理は脳内刺激と直結した。いろんな意味での大イベントになっ(た)(ている)。今回の整理の中で多くの椅子の処分の必要性が出てきた。展示会やコンサートなどに出し若干傷のついた新品、少し苦労して直せば使用可能な中古(ジャンク品)だ。これらをAランク〜ジャンク品のDランク迄カテゴリ分類し、整理のため販売する事になった。近くホームページにもこれら二級品などの処分についてご案内する予定だ。ドイツで自分の住んでいた場所から車で半時間程度走った所に双子印で知られる刃物メーカー、ヘンケルの工場があった。そういえば、この工場の玄関近くに二級品売り場があり、自分も工具用の道具を調達したし、日本から旅行にいらしたお客さんをしばしばお連れしていた。ドイツ人の徹底した整頓術を今は見習わないと。
2015.09.01
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今、渋谷のBunkamuraでエリック・サティ展が開催されている。当時の様式に適合するピアノとしてベヒシュタインをチョイス頂き、1920年代に造られていた設計のE型が展示されている。当時のピアノ、特にベヒシュタインではその傾向を強く感じるが、19世紀初頭に製造されていた、弦の張力が弱く鉄骨が無いピアノ、現在では一般的にフォルテピアノと呼称されるピアノの響きを強く残している。ベートーベン、シューベルト、ショパンはそのような張力の弱いフォルテピアノを使い作曲や演奏会を行っていたわけで、作曲者達自身は現代のマッチョな響きの世界も新素材の家具も家電も知らなかった。なので、古典やロマンの音楽の考察を行う場合、その時代に彼らと一緒に存在したもの全体を感じてみる必要がある。今回のサティ展で1920年代のベヒシュタインを取り上げているのは、20世紀初頭全体の様式・音楽を捉えるのに外装デザインの意味においても、響きの印象においても、サティの前時代との橋渡しも会期中の高橋アキさんの演奏から自分は感じ取れた。サティとドビュッシーの交友関係を考えれば、当時のピアノ、また音楽の響きのイメージを伝えるメッセンジャーとしてベヒシュタインE型の展示は意味が大きいと思う。さて、今年はアレクサンドル・スクリャービンの没後100年にあたる。記念年ということで、会社の汐留ベヒシュタインサロンでもスクリャービンのプログラムが組まれた演奏会がいくつか企画されているようだ。スクリャービンの音楽は、ポリフォニーな表現で構築される立体感のある響きの構造美を感じる。汐留サロンのTさんがロシアのスクリャービン博物館より資料を取り寄せてくれた。彼自身が使っていた1900年代初頭に製造されたベヒシュタインが同博物館に展示されている。Tさんが調べてくれた博物館の案内資料によると、スクリャービンはこのベヒシュタインで以下の曲の初演を行ったそうだ。 ・ピアノ・ソナタ 第8番 Op.66 [作曲年:1913年] ・ピアノ・ソナタ 第9番「黒ミサ」 Op.68 [1913年] ・ピアノ・ソナタ 第10番 Op.70 [1913年] ・2つの詩曲 Op.69 [1912-13年] ・2つの舞曲 Op.73 [1914年] ・5つの前奏曲 Op.74 [1914年]・ 詩曲「焔に向かって」 Op.72 [1914年]ホロヴィッツが1986年モスクワ公演の際この記念館を訪れた姿A.N. Scriabin was well known for his addiction for Bechstein pianos, choosing them for concert performances. The one which belonged to him (serial No. 101682) was a present, generously made by A.Diederichs in 1912. The latter served for the Bechstein company as a sales and concert agent in Russia. Actually Scriabin preferred to write music without any help of the keyboard, but of course he could spend hours at his piano improvising or performing the finished pieces.After the composer’s death the honour of playing this precious instrument was given only to the foremost musicians – “the Scriabinists” – of that time. This tradition is kept nowadays. The ivory keys remember the touch of A.Goldenweiser, V.Horowitz, V.Sofronitskiy, H. and S. Nuehaus, S.Richter, A.Nasedkin, M.Pletnev, N.Lugansky, D.Trifonov. This piano never came through any serious repairs but tuning. All the Bechstein mechanism remains genuine. (Copyright of A.N.Scriabin Memorial Musuem)彼らが良とした響きの世界。その時代を感じることはとても興味深い。
2015.07.31
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「もしかしたら、自分と同じ郷里の方かもしれない」と、今回ベヒシュタインのClassic118をご購入購入いただいたミュージシャンのお客さんが自分のプロフィールの書いてある冊子をご覧になりおっしゃっていた。という連絡を赤坂サロンのスタッフの荒岡さんから受けた。年も大体僕と同じくらいだと思う、と言う。EXILEや、安室奈美恵のキーボードをつとめているというから、バックバンドのキーボーディストとして、かなりご活躍されていらっしゃるようだ。プロでミュージシャンをやっている同級生に心当たりはなかったが、何処かでの接点を期待しながらコンタクトを取った。なんと、多治見の実家は徒歩圏内で、自分と同じ高校出身で、僕の弟の同級生だった。昨日はご挨拶がてら、横浜のお宅に伺った。郷里のローカルな話題や、コンサートなどの仕事の話に花が咲いた。どうやら過去ニアミスもあったようだった。普段はサンプリングシンセなどの電子楽器に触れることの方が多いが、お嬢さんもピアノを弾くので、良いアコースティックピアノを手に入れたくなった。それで、他の名の通ったメーカーも試弾に行ったが、ベヒシュタインがダントツだった。とおっしゃた。ミュージシャンといえば、清志郎さんもプライベートスタジオにベヒシュタインのアップライトを選んで下さったが、自身が電子楽器で音造りをするポピュラー系のミュージシャンの感性に、ベヒシュタインが響いたこと。又、幼少時から青年期に自分と同じような空気を吸って育ったであろう方が、感性を共感する事ができるのが何より嬉しかった。NOBU-Kという名前で現在ご活躍になっている。NOBU-Kさんのブログ ピアノ選びの経緯をお読みください。
2015.04.25
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先日新商品として日本デビューとなったW.Hoffmann Professionalの設計は、ベヒシュタインの今までのアプローチを異にする部分が見受けられた。設計を考えるに、ネーミングからのこのピアノのコンセプトを考えた。W.Hoffmann Traditionは、そもそも、Professionalなユースも視野に入れてある。ここで言う所のProfessionalの意味は、比較的リーズナブルな価格でありながらも、職業音楽家がコンサートやリハーサル室など容積のある空間で、ある程度の人数を前にしたパフォーマンスをする場合に使用できる。という意味で捉えるとこの設計は腑に落ちる。こじんまりした空間で音楽を造るというより、人に向かって音を飛ばす。というのに適した響きだ。響きが太く空間の中に広がっていくのを感じる。ベヒシュタインでは複数の音が同時に鳴るような場合、夫々の音が混沌としないような工夫として、響板内に伝達する弦振動が乱反射することによって生じる波の干渉を避ける工夫がなされている。なので響きの線は普段接するモダンピアノより少し細めになる。又、ピアノの音源になる弦から生じる倍音のズレ幅が、若干多めになるように弦長と太さのバランスを設定した弦設計がなされている。その、少し大きめな倍音の非調和性によって生じる、差音と呼ばれる別の音が、響きの中に独特のうねり感を与える。この倍音作用も、音の分離感を高める要素の一つになる。一方W.Hoffmann Professionalの場合、後者はベイシュタイン流の従来の発想に基づかれたデザインだと感じたが、前者を異にするものだった。今までは響板内での震動波の乱反射を避けるため、ベヒシュタインのグランドピアノの場合、メインリブ、アップライトピアノの場合除響板が、弦振動を響板に伝搬する役割を担う駒に平行する位置に取り付けられていた。グランドピアノのそれは、1800年代前半に製造されたプレイエルにも見られる構造で、当時良しとしていた響きを実現する意味で、適した構造だったことが伺える。内声の動きを音楽的に語るには、響きの混沌は表現の妨害になるからであろう。W.Hoffmann Professionalは、メインリブや除響板構造に代わりresonance barと呼称される棒をメインリブや除響板の位置の響棒(rib)上に取り付けた。このコンセプトは、震動波の反射と、響板全体の大きな振幅を実現し易くすることにあると考えられる。しかし、乱反射する震動波も従来の構造と比較した場合、多く生じる事になる。どんな響きが生まれるか想像できるだろう。クラシック音楽の同じ曲でも多様なパフォーマンスがあり、又、演奏される会場によってもパフォーマンスが変化するからこそライブ演奏表現に芸術性を見出し、録音とは違う感動を覚える。如何なる場所においても、同じような表現が単純に繰り返されているところに、心に響く感動は覚えないだろう。ピアノは音こそは用意に鳴らせるが、指揮者のように同時に色んなことを考えないとならない分、表現する上でとても大変な楽器だと思う。しかし、弾き手が同時に聴き手にもなり、客観的に自分が描く響きの絵画を見るという意味において、弾き手の多様な美しい響きの経験は表現をする上で意味が大きいと自分は思いたい。そんな事を、ベヒシュタインのこの新しいシリーズに触って感じた。
2015.04.12
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音程感の良い弦楽器同士がぶつかり合う時のうねりと、ピアノとの絡みはエキサイティングで聞き応えがある。。ピニストの近藤嘉宏さんとの何気ない会話ででた、室内楽をベヒシュタインD282でやってみたい。というアイデアが今日虎ノ門のJTホールで実現した。プログラムは:モーツァルト 魔笛から パパゲーノ・パパゲーナの二重唱編成:ヴァイオリン x 2 、ピアノショパン ピアノコンチェルト2番 室内楽バージョンブラームス ピアノ5重奏 へ短調 作品34編成:ピアノ、ヴァイオリン x 2、ビオラ、チェロ演奏はヴァイオリン: 千葉純子・高橋俊之、ビオラ:河相美帆、チェロ;黒川実咲ピアノ:近藤嘉宏で結成される、東京プレミアムアンサンブル だった。ショパンのピアノコンチェルトは、通常オケでするわけだが、以前、ショパン存命時代のオリジナル楽器のプレイエル・ピアノ(1841年製)と、その当時の菅弦楽器も使用した録音と演奏会を、ピアノ 仲道郁代、指揮 有田正広で行なわれた。当時その仕事をさせてもらった際、数々の強烈なインパクトを受けたが、中でもピアノソロ部分が室内楽のように感じ、その響きの色彩感には甚く感動した。そもそも当時のプレイエルは音量が現代ピアノよりも小さい。フルオーケストラをバックにピアノソロを弾いても聞こえてこない。しかしその録音では、ピアノソロ部分では各楽器一台ずつがピアノと絡みあい、見事な音量バランスになった。その響きの中で見えてきたものは、ピアノの内声部に描かれている旋律と弦楽器との絡みだった。今日の室内楽バージョンでは、このような楽器同士が繰り広げるダイアログと、コンチェルト特有の他の楽器を伴奏にし、華々しくソリストになる部分が交錯していた。現代のオケのコンチェルトだけからは、音楽の内面的なものに触れる事が難しいが、目の前で繰り広げられる響きの絡みはとてもエキサイティングだった。ブラームスではただただ心が惹きつけられた。3・4楽章の迫力はたった5人と思えないほどの色彩感で、兎に角かっこいい!ここでもピアノと弦のダイアログがいろんな部分で繰り広げられる。5人で繰り広げられる演奏だったが、目をつむればその倍くらいの楽器数でアンサンブルしているような錯覚すら覚えた。暫くアンサンブルがマイブームになりそうだ。
2015.01.25
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先日伺ったお宅の窓は広い公園に面していて、真冬でありながら天気が良かった事も手伝い、暖房も入れず窓を少し開けて調律をさせていただいた。開いた窓からは、通行人の話し声や公園内の放送に混ざり野鳥の囀りが聞こえてきた。私はどちらかと言うと自然派なので、身の回りに緑がないと心が落ち着かない。ゆえに八王子の中でも緑の多い場所を選び生活している。子供が小さかった頃、作った巣箱をバルコニーに設置していた事がある。その巣箱では雛は孵らなかったが野鳥が頻繁に出入りしていた。そんな生活環境のせいか、鳥の囀りは自然に私の中に溶け込んでいる。調律をしながらの野鳥の囀りは、新たな不思議な経験となった。野鳥の囀りは比較的高音なので、囀りに意識が傾く事により、自然に倍音を意識することになる。普通我々が東京の生活環境の中で体感する高音は、蛍光灯など電飾から聞こえる音、家電のモーター音など、電気器具が発する無機的な音が殆どではないだろうか。私は無機的な高音は特に苦手なので、無機的な高音が聞こえる現場では、どうしても高音をネガティブに意識してしまう。しかし今回体験した事は、囀りは私にとって決して嫌な高音ではなく調律中にもかかわらずとても心地よく耳に届いていた。その、野鳥の囀りが誘う高音域の倍音をポジティブに感じる事ができた結果、調律の結果に独特の効果をもたらしてくれた。演奏者の立場ならどうだろう。オーケストラでは動物の声などを意識したような場面にしばしば出会う事があるが、自然の音を意識しながらのパフォーマンスそして音作りは、音楽の原理原則を思い出させてくれるのではないだろうか。そこにはデジタル楽器の介入余地があるだろうか?
2015.01.12
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約一月ほど前のことだ。オーバーホール、もしくは買取の査定をして欲しいという依頼があった。古いピアノを所有しているが、どうも具合が良くない。場合によっては修理したいし、もうダメなら手放そうかとも考えている。という事だった。所有者の方がご高齢で他にピアノを演奏なさる方がご家族にいらっしゃらない場合、オーバーホールがあまりに大げさになってしまうと躊躇されてしまう。依頼された方の様子を事前にお伺いした際、今回もそのようにお悩みなのかな。と想像し査定にお伺いした。所有なさっていらっしゃる方は某国立大学の経営学の元教授で、セミプロ級に作曲もなさっていらっしゃった方だった。オペラがお好きなようで、様々な楽曲の総譜が本棚にぎっしり置かれている前に問題のピアノが置かれていた。知人のピアニストから譲ってもらったという戦前のニューヨーク製のMod. Bだった。とりあえず全体の音を鳴らしてみた。半音以上下がってしまっている弦が5~6音あり、その部分を、赤いフェルトでミュートしてあった。去年調律をした。という事だったので、その調律師がピンを回しても固定ができず、十分な時間もなかったので止む無くミュートした。とまず解釈した。しかし、ユニゾンの弦の一本が半音低下していれば、たとえ狂った弦をミュートをしたところで、振動を完全に止めることはできない。よって、その部分の音は確実に違和感を感じ和音を鳴らすととても気持ちが悪い。これではさすがに演奏できないな。。と感じた。特定の弦のみの張力が、調律をしてもすぐに大幅に低下してしまう一般的な理由としては次のように考えることができる。チューニングピンが植わっているピン板に亀裂が入ってしまうことがある。木材の吸湿排湿の繰り返しや、弦の張力に木材が耐えかねて生じてしまう割れだ。その場合、チーニングピンを保持するためのトルクが弦の張力より弱くなり、チューニングピンを適正な位置で固定できなくなってしまう。もし、そうなっていれば弦と鉄骨を取り外し、ピン板を交換しなければならなくなる。そうではなく、ピン板に問題がなければ、緩いピンのみを抜いてピンの周りに何かを巻いてピンを打ち直したり、太いピンに換える修理によりピントルク低下を改善することができる。そんな説明をご依頼主にしながら、ミュートを取り、下がった弦のピンを一本回してみた。硬くて全く普通のピントルクだった。他の下がった音のミュートも外し、ピンを回してみた。同様に全く問題のないピントルクだった。大幅に下がっていた弦のピントルクは”全て”正常だった。振込詐欺事件が相変わらず後を絶たないが、専門でない方には判断できないことを故意に行ったのだと理解し愕然とした。同業者としてとても悲しくなった。依頼者の方は「自分は高齢なので普通に弾けるようにさえなっていればそれで充分で、ピアノを工場に入れて完全な修復をする必要はなく、簡易でも修理ができるならそれがとてもありがたい。」とおっしゃった。アクションだけ工房に引き上げ、破損している箇所を再接着し、象牙の剥離を修理し、各部の動きを円滑に調整した。アクションを納品し、アクションの調整と、普通に調律を行った。とても良い響きのピアノになった。古い楽器が好きなピアニストならサロンコンサートの本番に使用してみたいと思うんじゃないかな、という感じのピアノだった。ピアノの販売についても、嘘や思い込みで、消費者にちゃんとした内容が伝えられていないことに直面し驚くこともあるが、自分の業界にも振込詐欺まがいの酷い話が本当にあるものだ。。。
2014.11.13
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先日工房コンサートの打合せを、ユーロピアノの八王子工房で行なった。本当は自分も同席させてもらう予定だったが急な打合せが入ってしまい、ベヒシュタイン C型の調律をキルンベルガーで朝行、準備だけして急ぎ打合せ場所に向かった。電車の中で電話が鳴り、見るとピアニストの末永さんから何かしら不都合でもあったのかな?と思いながら電話に出るS「どんな調律ですか?」K「前回と全く同じキルンベルガーですよ」S「一度ミーントーンを経験するとあまりに均一な感じで確認したく」前回の打合せでも、メンバー皆んなで「だから平均律なんだ」と、思わず顔を見合わせる事にもなったのを思い出した。そう、ミーントーンでは広すぎる五度ウルフがあり、五度も三度も両方汚くて凄い部分がある。また、音階の階段も妙にぎくしゃくしていて、音痴な感じをどうしても受けてしまう部分がある。しかし、汚さがあるからこそ生きてくる響きの意味があり、表現の深淵がそこにあるように音風景が広がった。特にモーツアルトでそう感じた。そこからは、曲想の意図を感じさせられ、音の配列の天才的な計算の秘密が垣間見えた。現代のいわゆる平均律で馴らされた耳で、キルンベルガーで調律されたモダンピアノのベヒシュタインを弾いたら、いつもとは違う違和感を感じる筈だ。しかし、ミーントーンを体験した耳で、不等分律のキルンベルガーでバッハの平均律曲集を演奏すると、まさにその“調性は平均的”なのだ。10月の今度の工房コンサートでは、この辺りの検証が行なわれる予定だ。基準を何処に置くかで感覚は大きく違う。多様性、この言葉の意味を考える事で最近楽しみが増えている。
2014.09.04
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ドイツのピアノメーカーの日本総代理店に籍を置く立場という事もあり、柄にもなく研修会の講師をすることがしばしばある。今週は倉敷まで出向き、山陽地区のピアノ調律師協会主催によるベヒシュタインの技術セミナーの講師をさせていただいた。今回は主催側の希望で、整調という鍵盤やアクション部分の寸法などを整え、主にタッチ感を調整する作業についての内容を中心に行った。しかし、ピアノのメーカーによる寸法等の違いのみを解説しても、本質的な意味を成さないことを過去何度も経験している。夫々の作業の構築が意味する事がベヒシュタインの場合は何処にあるのかを、参加してくださった方夫々が咀嚼することを研修の目的にしたく、ピアニストとの音楽的な対話もプログラムに入れた研修会を希望し、今回はそれを実現していただいた。音楽的な表現の可能性をピアニストがどう感じているのか、をピアニストと共に感じると、与えられた楽器の調理のベクトルが定まってくる。そこには、絶対数値は無く、様々な相対性から導かれる出口なりを見付る事ができる。と自分は考えている。しかし、ピアノという楽器が手工業と量産の狭間に位置するので、規格化•標準化の中で夫々の技術者が刷り込まれた感覚からの違和感に阻害され、芸術的表現への整合性に考えを至らせられない状況としばしば対峙してしまう。ファジーな部分があるから、感じて、考えないとならないからこそ面白い。意味なくマニュアルに整合させる発想こそ、楽器を退屈な物に変えてしまう悪因の一つだと思う。ピアニストは、楽譜に書いてある事を様々な角度から読み取り、表現の可能性を探っている。表現に多様性があるからこそ退屈しない。
2014.08.02
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ドイツに住むポーランド出身のピアニストでピアノのコレクターがいる。今迄何度かそのお宅を訪問したことがあるが、いつもアンティークピアノの話しを聞きながらコーヒーを飲んだり、ケーキをご馳走になりながら、絵画やアンティーク家具の様式の話し等を聞かせていただいたりが彼との面会時間の殆どに使われてた。映画に出てくるようなお屋敷にグチャグチャとピアノが置いてあり、そこにいるだけで何となく楽しくなるような空間での会話は、雑踏の中での日常を忘れる事ができ楽しい一時になっている。彼の家にはゼッフィレーリのオペラ映画の椿姫にでてくるような庭の小屋がある。前に、その小屋の中のろうそくの明かりの中でお茶をさせてもらった事があったが、今回は天気がよかったのでその小屋の前の芝の庭にテーブルを用意して下さり、結構のんびりとした時間を満喫させてくださった。こういう事をさせてもらうと、此方の感受性にも変化が現れ、外国語での会話が特に苦にならなくなるから不思議だ。相手が言っている事はこういう事なのかな、と聞く事へのゆとりが生まれる。そうすると、自分もそれなりに意識を表現したくなる。ある意味、心が音楽的になる。彼はピアニストだが、病気で現在ステージではピアニストとしての活動をしていない。なので、ピアノの響きが解る程度の短い曲を彼が所有するアンティークピアノの前で弾いてもらったりたことは過去何度かあったが、曲をちゃんと聞かせてもらった事はなかった。今回、 1984年にAlten Oper Frankfurt の Mozart-Saal で彼が行なったリサイタルの録音を頂いた。日本に帰り、パソコンにCDを入れ聞かせていただいた。ショパンのプレリュードから始まり、シューマンに、そしてショパンのエチュードが始まった。思わず、涙ぐまずにいられない演奏だった。良く聞くエネルギッシュな感じの表現では無く、流れる音楽の中にいろんな登場人物が現れ、人の対話のように聞こえてきた。まるで、オペラの重唱を聞いている時のような感じと言って良いのだろうか。彼が、フォルテピアノから20世紀初頭の色んなピアノを蒐集している理由がわかるような表現だった。響きは空間で、その空間の中で人が会話しているような、今日は、天気の良い庭で、今度は、雨の夕方に庭の小屋の中で、等等等、、、CDを聴いた感想とお礼のメールを彼に送った。彼から、今度は家で一泊して、その時ソロリサイタルをやろうか?という返事を書いてくれた。実現できれば本当に嬉しい。因みに、彼から譲ってもらったピアノが何台か此方にやってくる予定だ。
2014.06.21
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先週ドイツに出張した。今年の春は高松国際ピアノコンクールの仕事があった為、丁度同時期に開催された普段訪れる筈のフランクフルト・メッセに行くことができなかった。なので、一年二ヶ月ぶりのドイツだった。今回の主な目的は中古ピアノの選定だった。予め目ぼしい物を、ドイツの子会社でリスト化してもらえていたので、“探す”のではなく、文字通り選定作業と輸入の優先順位決めだった。今回の最も驚いたのは、ドイツでの外装の好みの変化だった。自分が住んでいた20数年前、よく聞いた外装はオークの田舎風だった。ピアノ専門店には必ずオークの外装が何台かあった。そこに、クルミやマホガニーが混ざっていた感覚だった。それから数年程経ったら、サクラ、ナシ、イチイ等の明るめの木材や、スノーホワイトの外装が混ざるようになり、同時にオークは新品で見ることが無くなってきた。今は、木目のピアノは売れないそうだ。日本で好まれるクルミのチッペンデール等は特に関心外だそうだ。折角のクルミなのに「この外装を黒にぬらないと売れないよ」と言う話を聞いたときは更に驚きが増した。特に新品のアップライトピアノは購入層が比較的若いゆえ、モダンなイメージを好む人達が顧客対象になっているのだろう。今回主に滞在したホテルは昔風の内装のままだったので、家具は自分の中でイメージするドイツの田舎風のオーク材で調度品は統一されていた。こちらはそこで生活をしているわけで無いので、この方がせっかく時間をかけて来た甲斐がある。しかし、現代的なホテルなどから想像するに、モダンな調度品が特に若い世代では主流になってきているのだろう。このような背景も手伝い、今のピアノの主流は黒艶だそうだ。反面、今回訪れたアンティーク好きのピアニストの家では、映画などで見る戦前のヨーロッパのイメージを満喫できた。流行は変化するが、又オークやクルミが好まれるようになるのはいつになるだろう?自分は、木地仕上げの調度品に囲まれていた方が落ち着くかな。。。
2014.05.31
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先日も響きの記憶の扉を開いてくれた出来事があった。 以前もブログに書いた事があるが、匂いの記憶や味の記憶から関連した出来事が思い起こされるように、響きが記憶の扉を開く引き金を引いてくれることが僕には稀にある。 先日、巡り巡って調律のご依頼を受け伺う事になったピアノは、1889年製のベヒシュタインだった。1889年と言えば、ブラームスがエジソンが発明したシリンダー型蓄音機で初の実験録音をした歴史的にも重要な年のようだ。その年に製造されたベヒシュタインと言う事だけでも時代を結ぶ架け橋に対面しているようで、心が震える感じではないか。 参考迄にYouTubeのブラームスの録音音源 さて、今回調律のご依頼をうけるに至った1889年製のピアノは、十年程前に所有者の日本への引越をきっかけに海を渡ってやってきた。そして、ドイツで所有なさっていた方の知人にピアノは譲られ、自分もよく知っているピアノ技術者によって修復されたという事だった。 なのにその修復内容をポジティブに評価しない数人のピアノ技術者がいたと言う事で、それらの発言内容と今のピアノから奏でられる響きに、どうにも不安になってしまった所有者が悩んだ末、一度状態を見て調律・調整をしてもらえないかという連絡を下さった。 訪問しその状態を見ると、その修理は当時の趣を壊す事無く、オリジナルを尊重し慎重に響板の修復が施されていた。そして、弦等の消耗品だけが上手に丁寧に交換されていた。 しかし、環境の変化でピアノの木材が動き、単純に理想的な調整になっていない事と、その当時の響きのイメージを完全に無視したオーバーホール後に行なわれた整音が、ピアノの響きを叫びに変えてしまっているようだった。。。 この楽器の状態なら大丈夫だ、という信念をもって、自分がいつも行なっているように調整し整音し直した。 実は、僕はこのピアノには今から丁度25年前ドイツHilden市で何度も出会っていた。 そのピアノではその後、幼稚園に通うようになった上の娘が初めてのピアノのレッスンを受けていた。そんな事もあり当時何度かこのピアノの調律もさせていただいていた。 整音が終わりピアノの音を鳴らしてみた。すると、当時のピアノが置いてあった空間そのものの記憶が呼び起こされた。 外装は今回のオーバーホールで綺麗にされたので、ぱっとした見た目は同じピアノだと確信できない程に異なっていたが、響きの仕上がりと記憶のフォーカスの整合を体感できたのがすこし不思議な経験だった。 そのリビングでは音楽を聴いてみたり食事を一緒にしたり、月に何日も遊びにいかせてもらった事もあった。 そんな懐かしい記憶をそのピアノの響きは呼び起こしてくれた。 昔の記憶をたぐり寄せると、その前の時代への路を示してくれるような体験。いつも、そんな気持ちで楽器に向き合っていたい。
2014.04.29
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録音はホールで行なう事がクラシックの場合多い。ポピュラーの録音では、以前スタジオでの録音の仕事をさせていただく事はあったが、スタジオでのクラシックの録音は自分にとって今回数回目の経験になる。3月〜4月の間の数日に分け、ジャズピアニストの船本泰人さんのお父様が経営する世田谷の船本スタジオでソプラノの太田みのりさんの収録を行なっている。ピアノの伴奏を内藤晃さんがする事になり、彼からの依頼で当スタジオに設置されるザウターのピアノの調律をさせていただく事になった。ホールとスタジオの大きな違いは残響だ。クラシックの場合、回りの響きの環境に演奏者はモティベートされ、イメージ造りがし易いという理由でホールや教会のような響きの多い所で収録する事が多いようだ。あと、ホールの場合会場全体が楽器の一部になるので、響きを意識した音造りを演奏者はする。なので、調律・整音はその残響環境がベースになる。スタジオの場合、残響が極めて少なくなるので楽器の音源そのものに意識が集中する事になる。なので、演奏時には後で創られるであろう響きをイメージする事になる。楽器同士の音のかぶりや、音源そのものを録音しているので、録音した音のエンジニアリングはホール録音よりやり易くなるだろう。演奏者の難しさ、録音技師の難しさの部分が夫々の場合で違うと感じる。どうあれ音源になる楽器そのものの能力は、響きの仕上がりに大きく影響する。スタジオ録音と言えば、グールドの録音が有名だが、このような仕事をさせていただくと、彼がどんな録音をしていたのかさらに想像が膨らむ。内藤さんとは何度も仕事をさせていただいているので、彼の指と耳が何を感じているのかを自分も理解しやすい故、調律に与えられた時間を有効に使う事ができたと思う。
2014.03.23
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国際ピアノコンクールに初めてベヒシュタインを参加させた。ヨーロッパで行なわれているコンクールは、ベヒシュタインを使用している会場は勿論ある。日本でも国内のコンクールにはベヒシュタインを使用している事はあるが、日本での国際コンクールと言う意味で初めてのエントリーだった。運び入れた楽器が温度差でなかなか安定してくれない状況の中、調律の順番をくじ引きで決めたり、調律の待ち時間ができてしまったり、馴れない事の連続だった。そう言う意味で自分にとって初めての体験が多く、ピアノの選定や演奏からも感じる事も多くあり色んな意味で勉強になった。先ず選定で:特定ブランドのみ試し、最初から興味を持たないブランドを素通りする参加者がいるベヒシュタインを弾こうともしない参加者がいた。その上、選定の時間一杯を自分の練習のみに利用しているように感じる人さえいたのは辛かった。そう言う意味では他のメーカーさんも同じ思いをなさったのではないだろうか。これは、コンクールで求めるところの基準が何処にあるか。を目の前で示されているかのようにも感じさせられ、非常に心が痛んだ。全員が試したメーカーは言わずと知れている。と言う事は、そこを基準にした判断を殆ど全員がしていると言う事になる。では、ベヒシュタインをもっと更にそれに近づけるべきだろうか?僕はこれを見ていて「違う」という気持ちが更に深くなった。なぜなら音楽はスポーツではないと思うから。個性的なものが尊重されるべきだと思うから。例えば、ショパンの生きていた時代のプレイエルの演奏では旋律の絡みや内声の美しさなど、ショパンが恐らく描いたであろう音楽の美しさ、心の内面の動きのようにも感じる響きの変化を聴く事ができる。これはモダンピアノでも表現できる筈だと自分は思う。では、スピーディーなパッセージだけを弾き比べで、音楽的な様々な可能性の違いを理解できるのだろうか?短い試弾時間でその楽器のもつ音楽的なadvantageを見出す事ができるのだろうか?多分それは難しいのではないだろうか。と言う事は、基準以外の楽器を演奏する参加者は、事前にその楽器のもつpotentiality を理解していなければならないのでは無いだろうか。なぜなら、うやむやな気持ちでいつもと違う個性の上で表現する事はとてつもない冒険になるから。これが、選定での感想だ。予選での感想他社のピアノを演奏した人を敢えて取り上げたいが、僕が心から感動した演奏をした2名の参加者が両名とも一次予選で落とされていた。一人は中国の男性だった。彼はBachとChopinの他にDebussyを二曲弾いたが、特に彼のDebussyには心を打たれた。彼が演奏した中の同じ曲“喜びの島”を、非常にespressivoな表現で演奏したロシア人の女性がいた。それはパワフルで凄かった。が、自分は心が揺れるような感動はどういう訳か無かった。しかし、中国の男性が奏でた音楽は僕の心にある情景と一致し、曲に心が吸い寄せられ、演奏を聴いて涙が出てきた。もう一人は日本人の女性。彼女の演奏は、Bachの平均律ではポリフォニックな感じが人の声のように感じられた。Chopinのエチュード1番も技巧的な印象より音楽的な印象として心に届いた。何よりもRavelのスカルボは凄かった。隣に座っていた人と目を思わず合わせてしまう程だった。(隣の人はたまたまピアノの先生だったが、その方も心から感動していらっしゃったようだ)これは自分の感覚がおかしい。と言う事になるのだろうか?それとも何処かにしてはならない大きな音楽的なミスがあったのだろうか?そもそも音楽的なミスとは何だろう?今回ベヒシュタインを選んで下さった男性の参加者とは会場で始めて出会った人だった。スクリヤビンは立体的で、どうしてベヒシュタインを選んでくれたのかを理解できる演奏だった。彼の演奏に心から感謝したい。
2014.03.15
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昨日はエル=バシャと戸田弥生さんのバイオリンデュオの録音の最終日だった。録音は相模湖のホールにベヒシュタインD-282を持込んで行なわれた。今日から金曜迄休憩を挟み、同じ会場で水曜から今度はJ.S.Bachの平均律クラヴィア曲集第二巻のレコーディングがされる予定だ。ホールの関係もあり、一度ピアノを搬出しないとならなかったが、大雪の影響で中央道も甲州街道も遮断されてしまい運送屋さんの引取が物理的に無理になってしまったという連絡を17時受けた。致し方ない状況故、相模湖のホールのご理解も有り、次の録音の水曜日まで現地でピアノを保管してもらう事になり、皆胸を撫で下ろしたのもつかの間、根本的な問題に気付く。さて、ところで皆東京に移動できるの?翌日(今日)は、ベヒシュタイン汐留サロンで公開レッスンがあるよ。。午前中は本人の練習にあてている時間だったので、それはもしホールでそのまま練習ができるのなら良いけど、昼迄に戻って来られるの?レコード会社の車両は、しっかりスノータイヤを装備していると言う事だが、機材が重くて坂道が上れないと連絡が19時過ぎ頃入いる。祈るような気持ちで、自分の家の雪かきに没頭し放心している時電話がなった。結局運良く臨時の上り電車が22時過ぎに出る事になったという、乗車直前の阿部君からの連絡だった。自分が住む八王子も、お昼過ぎに雪かきをしたにもかかわらず、夜には玄関ドアが雪で空かなくなる程凄い雪だった。きっと相模湖界隈は更に凄かった事だろう。今朝も、自分がいつも使うバス路線は運休状態で、バス10分の道のりを徒歩で駅迄行った。なので、今朝10時に汐留サロンにリハーサルの為やってきたでエル=バシャさんの顔を見られるまで本当に気が気ではなかった。氏の練習するバッハのポリフォニーを、今予定どおり汐留で聴く事ができ、本当に良かった。さて、そろそろ公開レッスン前の調律直しの時間だ。
2014.02.09
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冬の東北出張が入った後の寒波のニュースに少しばかりメランコリーな気分にさせられたが、今日早朝目にした盛岡駅前の“かまくら”のオブジェは、まだ半分眠っている意識をポジティブな方向に高揚してくれた。以前宮古に行った時も朝から仕事を入れたいと言う理由で夜行バスで移動した。今回も同じ理由でそのようにした。僕はホテルのベットというか、シーツと毛布の合わせたものがどうにも苦手で熟睡できたためしがない。しかし、スーツを着て訪問しなければならない場合だと夜行バスは服装にしわが寄るので躊躇してしまう。なので、当日時間に間にあわない場合は前乗りでホテル泊にする。調律作業の場合、僕は許される限り普通の服で訪問させていただく事にしているので、夜行バスの移動は何の問題も無い。と言うか、その方が結局睡眠が取れる。長時間の移動と言う意味での比較だが、国際線の飛行機の重低音の響きの中に居るよりも、バスの、それよりも少し高いエンジン音に高速道路走行の揺れが加わると、いつも簡単に心地良い眠りの世界に誘われる。今回もよく眠れた。話しが変わるが、昨日丁度バスに乗る前、今録音に来日しているエル=バシャ(El=Bacha) の調律を担当している阿部君から携帯に電話が入った。昨日朝、録音の為ホールに搬入したピアノの状態が快適だと言う事と、環境の変化(著しい温度変化)によって生じる鍵盤寸法の変化の対応方法の報告だった。今回は、バイオンリンとのデュオと、ソロでは平均律第二巻の二つの録音がある。その録音と録音の合間になる今週末、リハーサルとレッスンの関係で汐留のサロンにピアノを一度運び入れる。汐留での調律は自分がやる事になっているので、その時の温度変化を想定した対応方法について相談した。無垢の木材や、動物の毛を沢山使用するピアノは環境の変化に会わせ変化する。今回の出張は、ベヒシュタインのグランドピアノをご購入頂いたピアノの先生のお宅の納調だ(業界用語で納入後の最初の調律の事を納調と言う)。納品日や納品後間もなく納調を行なう事が一般的なようだが、ピアノの変化を考慮し問題が無い限り納入してしばらくしてから納入調律を行なうよう、自分たちはしている。今日のピアノも昨年末に納品された。充分盛岡の空気にも馴染んでくれた頃の納調になる。案の定ピアノは適度に変化していたので、作業の内容も決して少なくはなかった。となりに置いてあるピアノにピッチを合わせ、アクションの変化を烏山に置いてあった時の感じに戻した。これでしばらくは良い状態で安定してくれる筈だ。今回は、週末のエルバシャの対応もあることから他の予定を入れず、調律作業のみのとんぼ返りの出張となった。
2014.02.07
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オーディオ機器の一つとして使用していたテープデッキが壊れたライブ録音等の音源をCDに焼き直そうとしていた時、テープがよれてしまった。テープその物がおかしいのかと思い、試しに他のテープでやってみたが結果は同じだった。「修理に出さないと」と思いつつも、配線を外す煩わしさが先行し半年近くオーディオラックに放置状態だった。音楽に携わる仕事をしているのにも関わらず、それほどテープという録音メディアは自分の生活から遠く離れてしまったかもしれない。年始の休み中、重い腰も漸く上がりラックからテープデッキを引っ張り出した。以前ツートラックのオープンリールを修理に出したときの記憶が頭に過った。「まだカセットテープは使われてはいるが、使用者も減っているから高い修理になってしまうかな」と、頭の中で修理依頼をするか否かを決める金額の線を考えながら近所の電気屋さんに持ち込んだ。オーディオ好きなら誰もが知っていたT・・・の文字を、受け付けてくれた自分の娘と同じくらいの年齢の女性店員は不安げに確認しながら伝票に書きこんでいるようにも見えた。「メーカーに出し修理見積り依頼しますね」預けて数日経ち、電気屋さんからかみさんに連絡が来た。「メーカーに部品が無いから修理不可能と返送された」がその内容だった。このデッキは2000年以後購入したので、自分の感覚ではオープンリールのように決して古い物ではなかった。10年以上前からCDを聴く事が多く、テープを聴くときはラジカセで聴く方が圧倒的に多かったので、決して昔のようにハードには使用していなかった。機器も、3ヘッドでバイアス調整もちゃんとできる、それなりのものだ。自分の扱っているベヒシュタインは、2000年代はまだ新品のような物で、1920年前後のピアノでも普通に修復する1800年代のピアノもその価値を認められれば修復し、音楽的に普通に使える。2000年代に市場にあったそれなりのものも、メーカーの関心がなくなってしまう変化の現実は、暴力的だな、とも感じてしまった。もしくは所詮カセットテープは未来に残す価値も無い場繋ぎの存在だった、ということなのか?それならそれなりに理解しなければならないだろう。少し前にトラベルソの先生宅で聴かせていただいた蓄音機。これは心暖まる良いサウンドだった。そういう価値は恐らくカセットテープにはなく、確かに中途半端な存在だったかもしれない。まだ頭の整理ができない。悔しい。。
2014.01.11
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どうも釈然としない出来事で、忘れたくないので差し障りの無い範囲でやはり書き留めておこうと思う。もう数年前になるが、東京都H市が駅前開発のプランに併せ市民会館を移築した。その際、ピアノ設置のみならず旧市民会館に有るピアノの修復についても入札なりに参加させてもらえるように動いた。旧市民会館にも足を運び、オーバーホールを想定した技術作業の内容について自分の考えや、その場合の経費についてのお見積も出した。結論から言うと、国産ピアノも、スタインウエイも“入札の参加からも排除”された。スタインウエイは、会社は特約契約が無い事、代替えのピアノとして同機種を修復期間提示できない、2つの理由が担当者の口から排除理由としてあげられていた。こちらの方はそれはそれでその時は理解できた。が、国産に関しての排除理由は“実績”だった。修理をした事がある、という実績ではなく、他のその国産メーカーの公共施設が所有するフルコンサートピアノのオーバーホールの実績の有無。という事だった。公共施設のスタインウエイやベヒシュタインのオーバーホール実績はある。しかし、その最大手国産メーカーは個人所有のオーバーホールのみだったった。先日、同市も関わるコンクールの際、ホールに設置してあるピアノのベース弦が切れたと言う事でその調律担当をしている会社の方(←因にこちらはスタインウエイの特約契約の無い販売店の技術者)から、工房が近くにあると言う事でSOSの電話を受けた。コンサートの現場の大変さは容易に想像できたのと、そのコンクールを応援する市民の方にお世話になっているので、期日に追われる修理で忙しくしている工房に電話を入れ、弦の製作を優先して対応するよう伝えた。しかし、オーバーホールの入札からも我々を除外する同市の所有する楽器の弦の製作か。。。。と、複雑な気持ちにならざる得なかった。確かにピアノの修復技術レベルがどうなのか計る事は難しい。日本でもようやく国家認定技能検定が始まったが、確かに、修復技術はそれだけでは計り知れないだろう。しかし、ドイツではマイスター制度があり、何人もの技術社員はドイツのピアノメーカーに研修にも行った。我らの工房機能はそれなりの物があると思うし、市に定める所の実績とは違うようだが、実績も充分ある。それも大量生産の工業製品のピアノの修復だ。問題点が何なのか論理的に教えて欲しい。こんな事も別の市であった。I県の在る市のホールが、老朽化で取り壊しになった際、設置してあったベヒシュタインをオーバーホールをし、同じI県のT市のホールに設置された。先日そのピアノのコンサートの調律を、そのホールよりご依頼いただいた。普段小ホールに設置しているベヒシュタインフルコンサートを大ホールに運び、他の2大ブランドと比較演奏するコンサートをするので、夫々のブランドの技術者に依頼した。という理由でこちらにも声がかかったわけだ。こちらの評判を評価して下さり、依頼していただいた事は本当に嬉しかった。しかし、そのピアノのオーバーホールの程度を把握していなかったので、修復の状態に不安があった。なので、事前に下見させていただく事をお願いした。本当に酷い仕上げだった。。外装は綺麗に修復してある。弦も見栄えは美しく調弦されている。だが、整音はバラバラ、ペダルの雑音、技術者でなければ見る事ができない鍵盤の下側にはオーバーホールされているピアノなのになんと鉛が貼付けてあった。当時の楽器にちゃんと復元してやりたい!という技術者のやる気を全く感じない。。本番の調律前に、調整をさせて欲しいとお願いした。せめて丸一日は欲しかった。館長のご尽力で、事前の調整をする事ができた。この、修理を何処の会社が落札して行なったか、意味の無い追求はしなかった。こういう修復がH市で言う所の「公共施設のフルコンサートピアノのオーバーホール実績」なんだ。この制度の歪み、どうにかならんのか?理不尽きわまりない制度の整備不良に怒りを覚える。
2013.12.25
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大田区山王の閑静な住宅街にあるサロン山王オーディアムは、都内だが樹木の覆いに守られる中にサロンがある。窓ガラスから入る木漏れ日がなんとも気持ちいい。ここには、常設のスタインウエイB型に加え、オーナーの武藤さんが父親からプレゼントされたベヒシュタインL型が置かれている。今回、「かおり's カフェ」という萩原かおりさんの声楽コンサート(ミュージカル)広森アケミさんの伴奏でベヒシュタインが使用されると言う事で調律のご依頼があり訪問した。このベヒシュタインは、ユーロピアノ(旧社名タイヨー・ムジーク・ジャパン)がベヒシュタイン総代理店を始めた1987年以前に輸入されたピアノで、銀座のヤマハでご購入なさったという。音大を卒業し何年もご使用され、その内サロンを経営なさる事になり、ベヒシュタインをサロンをご利用される方々にも使っていただこうと、オーバーホールをしてご自宅から運び入れたそうだ。もう二年程前になるが、ショパンの命日に、ここで遠藤郁子さんのリサイタルがあり、スタインウエイとベヒシュタインの2つのピアノが使用された事があった。異なった響きから得られる違いを効果的に利用された素敵な演奏だった。サロンの場合、音量を追及するか、主旋律では無い部分に隠れる色彩に静かに耳を傾けたいか、で楽器のチョイスを変えることができる。自分も以前は大型のJBLからパワフルに流れる迫力に圧倒されることを“常に”良しとしていたが、デジタルが発展する程に響きの中に浮かぶ小さな対話への価値を感じる事が多くなってきた。二者択一ができるサロンは東京と言えどまだ決して多くない。
2013.12.14
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地下鉄の駅を下車した時、ベビーカーを押す外国人のお母さんが階段を登れず困っていらっしゃった。「お手伝いしますよ」「エレベーターがないから…」「どちらから?」「ドイツ政府のの関係でケルンから来たのよ。」「えっ直ぐ近くのヒルデンに居住してましたよ」「日本は何処も困りますよね」そう言えばドイツ大使館は直ぐ側だな。外車のショールームを横目に外苑西通りを北にしばらく歩き、洋風の雰囲気がする坂を東に登り、病院のある四つ角を北に曲がり少し歩くと目的地に。地下鉄広尾駅から10分以内で、道のりも分かりやすい。今日の午後は有栖川公園近くのル・クラビエル(Le Clavier Arisugawa)に調律に伺った。今度の土曜にジャズミュージシャンの:市川秀男氏、沢田靖司氏、中牟礼貞則氏、稲葉國光氏のJAZZライブイベントがあるとの事。ここには、ベヒシュタインにスピーカーが組み込まれた、ちょっと珍しいピアノが設置してある。スピーカーが何処かに組み込まれているのでなく、響板そのものをスピーカーとして振動させるシステム。ピアノや声楽、弦楽器系の響きが普通のスピーカーの雰囲気と違い、ホールでの演奏会と錯覚する柔らかな響きが魅力的。目下の所スピーカーとして基本的に利用され、たまに演奏があると言うことだ。今度の土曜はピアノとして本格的に使われるらしい。マスターの吉田さんが選んだいいワインを飲むために、それぞれのワインに合うオードブルと共に然り気無く次々にワインが出るコースがここにはある。昔のヨーロッパ貴族はこの聴覚と味覚の味わいを会話と共に楽しんだのか?以前試食をさせていただいたときの感想だ。家族や友人とゆったりと、ワインといい響きの音楽・ピアノと共に満喫したい。又、大切な接待。自分へのご褒美。等という目的にもここはぴったりのだろう。お小遣いためて、いつかお客様としてこなきゃね
2013.12.12
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ブログにするのに少し時間が経ってしまった。。。ピアノのもつ音量のリミットと、音色が変化する音量のポイントを再考する機会。が、11月23日王子ホールでのミシェル・ダルベルトの演奏会だった。前にブログに書いたがシューベルトだから是非ベヒシュタインで。が、氏のベヒシュタインを使用する理由だった。今回はその演奏会に C.Bechstein D-282の貸出をし、調律の仕事をさせていただいた。シューベルトといえば、フォルテピアノでもしばしば演奏されるので、力強さと言うよりも、少し哀愁感のような物を感じる演奏を想像していた。しかし、氏の演奏は内にある様々な感情を外に向けて発散しているような力強い演奏だった。演奏を聴いていて改めて感じたのだが。現代のベヒシュタインの場合、ある程度の音量を与えると色彩感は更に明確になり、隠(さ)れたモチーフや声部のようなものがより明確に浮かび上がってきていた。フォルテピアノでは音が解放されていくような響きのニュアンスの変換点が、音量レベルが早い時点(小さなレベル)でおきる。又、レジスター間の音色の違いも明確に聞き取れる。なので、響きの色彩感、メリハリを小さな音量で体感できる。同じような効果をモダンピアノで得る場合、楽器を鳴らす(様々な部位を振動させる)為にはそれなりの音量が必要になる。楽器を充分に鳴らしてないと響きの立体が貧弱になってしまい、響きの陰にある異なった声を魅力的に表せない。など考えると、フォルテピアノ的な演奏=静寂さ とくくるのはおかしく、フォルテピアノ的な演奏をモダンピアノで実現するには、モダンピアノに色彩感の可能性があり、その可能性を充分引出すために楽器を鳴らせていないと同じような効果を得られない。と考えた方が自然ではなかろうか。と改めて感じた。逆に、立体的で色彩感有る演奏であり音量を求めたくないのであれば、フォルテピアノをチョイスしなければ難しいだろう。ドイツ物の場合特に、自分は旋律の美しさと同時に有るレジスター間での立体美が好きだ。どの音色をどの時間にどのような存在感で空間に放つかで、響きに生命が与えられたように感じる。ミシェル・ダルベルトは、まさに、その響きの生命を感じさせてくれる強烈な演奏をした。あれから2週間経過したが、彼の音楽が頭から離れない。
2013.12.08
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1991年のフランクフルトムジークメッセでだったと思うが、フランスのピアノとして紹介されていたRameauのグランドピアノ188の響きは印象的だった。ラモーのピアノはたまに南ドイツのピアノ店に仕事で伺うと見る事があったのでブランドは知っていたが、グランドピアノはメッセで初めて体感した。鉄骨の色もワインレッドで、シャルマンで響きもデザインもとてもフランス的だった。この頃どっぷりドイツに漬かっていたので余計に異質な感じを受けた。が、魅力的だった。女性の音域辺りが楽に旋律を歌うような感じで鳴り、さりげなく、しかし、ヴォリュームのある響き、柔らかなタッチが個性の主張のように感じた。日本に帰国後、Rameau(ラモー)を日本で総代理店として扱う事になった。自分は、アップライトよりグランド188の雰囲気が独特で好きだった。日本市場への導入は、個性的なグランドピアノを全面に出しながら、丸みを帯びた外装デザインの小型アップライト機種2機種が扱い品目の主流だった。Rameauは1972年にPleyel&Gaveauの技術者が中心になってプロヴァンスのアレスに作られた会社だった。70年にPleyel&Gaveaは倒産してしまったが、フランス政府の資金援助が、廃坑で失業者が多かったアレスででの工場を再建を条件に受けられる理由で同地が選ばれたと聞いた。社名は、倒産後の処理の関係でPleyelやGaveauのブランドを使用する事が許されず、フランスの音楽家のRameauを取ったと言う事だった。しかし、輸入していた小型のアップライトピアノ、お城の名前を取ったCenonseauやBeaugency は、倒産前のPleyel&Gaveauの図面から製作され、往時の設計を踏襲したモデルだった。20数年後の94年に、Rameau社はPleyelのブランドを買取り、南仏アレスの工場でPleyelブランドのピアノの製造が開始された。96年には工場の名前をもRameuからPleyelに変更した。自分は技術者なので、ラテンヨーロッパ的なファジーな仕上げに立腹する事もあったが、ドイツ人の感覚とは違う響きの雰囲気が、日本市場でファン層を年々厚くしていった確実な手応えはあった。しかし、世界的な目で見れば、ヨーロッパやアメリカでのマーケティング方法は、低額モデルではアジアメーカー、グランドピアノではドイツメーカーの力に叶わなかった。ヨーロッパ市場ではショパン時代のPleyelやコルトーの時代の楽器を好む層の期待、現代の楽器を好む層の期待夫々への呼応が、何処かミスマッチングしてしまったのかもしれない。今、新しいオーナーが、どのような新ビジョンで再建できるかを模索しているというニュースが、アレス時代の工場長からEメールで届いた。自分としては、コルトーの時代へ遡る事ができるグランドピアノを造るエネルギーを蓄えるために、CenonseauやBeaugency 等一般のピアノファンが購入できるフランスのピアノを又造る事ができないか願ってやまない。確かに、アジアのピアノのヨーロッパでの攻勢は、フランクフルトメッセに展示されるブースの変化からも容易に理解できる。スーパーカーのようなピアノを製作する事のみがヨーロッパのピアノの主張ではない筈で、Identityの分析と効率性の追求で、時代に意味を持つピアノがフランスでも製造できる筈だと思いたい。2007年、アレスの工場を閉鎖しサン=ドニに工場を移した。プレイエルは外装が特殊なデザインピアノとフルコンサートの製作に特化したが、これは先に述べたIdentityの分析と効率性を追求した結果とは考え難く、その結果が市場の反応に現れたのではないか。音楽・表現力をプライオリティーにした、伝統を継承する魅力的な現代のフランスのピアノ。僕は魅力あると思う。悪貨に駆逐させてはいけない。
2013.12.08
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ベルリンのベヒシュタイン本社の紹介で、ミッシェル・ダルベルト氏に数ヶ月前にメールを書いた。氏はヨーロッパでのコンサートや録音に、ここの所ベヒシュタインを好んで使用しているが、日本公演でも。。という趣旨の話しが当地であったと言う事で連絡した。何日経っても返事が来なかったので色々難しかったのかな?と諦め、自分の予定表にも別の予定を書き込み始めていた一週間程前、招聘元にピアノの使用について連絡をして欲しいと本人からメールがきた。パフォーマンスの好みに由来するのだろうか、最近、フランス系とロシア系のピアニストにベヒシュタインを好んで使って下さるケースが多い感じがする。今回の来日公演では、王子ホールのプログラムがシューベルトの事もあり、ご本人は一番ベヒシュタインの持込みを期待され、結局同公演への持込みが決まった。先日、イブ・アンリ氏のレクチャーコンサートに同席したが、フォルテピアノで演奏されていた楽曲をモダンピアノで行なう場合のパフォーマンスへのこだわりが最も自分には興味深かった。フォルテピアノはレジスターにより音色が全く違い鉄骨も使用されていない(あっても補強程度)。なので張力が現代のピアノの40%程度しか無い事から、響きが開く(音色が変わるポイント)音量が小さくなる。モダンピアノは響きが開くポイントの音量はフォルテピアノと比べると大きくなる。しかし、そのポイントがメーカーによって明らかに違い、レジスターが異なると違いを如実に捉える事が殆どの聴き手にできると思う。ダルベルトのベヒシュタインによるシューベルト。どんな刺激を自分に与えてくれるか楽しみだ。
2013.11.01
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イブ・アンリ教授のレクチャーコンサートが昨日名古屋であり、その対応の為立ち寄った。台風の事や、コンクールの日程と重なった事からレクチャーコンサートへの参加者が殆どいなかった事は残念だったが、今日高松で行なわれる同じコンサートのゲネプロを兼ねて、同じ内容でレクチャーを行った。バイエルン王のルードゥヴィヒ二世は、ワーグナーのオペラを一人で鑑賞したと言う話しを思い出しながらの贅沢な公開ゲネプロだった。フォルテピアノには大きく分類すると南ドイツ・ウイーン派とイギリス・フランス派と二つの製造流派がある。フォルテピアノの全盛期と言っていい時代、古典派後期からロマン派の音楽家が異なった製造流派のピアノからインスピレーションを受けたであろう楽曲を、典型的な例を取り上げながら解説・演奏してくださった。自分が興味深かったのは、ショパンとリストのピアノ表現の差異と、鉄骨や鋼鉄弦を取入れたモダンピアノが生まれた時代の、交響的なピアノ表現の可能性への様々な音楽家のアプローチをモダンピアノでの表現で示して下さった事だ。スクリヤビン、リストのトランスクリプション数曲、ラフマニノフ、ドビュッシー、ラベルの楽曲を題材に、作曲家が描いた交響的なピアノ演奏に置ける表現の可能性を体験する事ができ、とても素敵な時間だった。コンクールに向けてのテクニックの練習もとても大切だと思う。しかし、音楽故、パフォーマンスの可能性を聴覚的に体験し、自らのアイデアを構築していく事こそが芸術表現をする人に取ってプライオリティーになってしかるべきでないだろうか。僕は、大きな音量で抑揚感を感じないスピーディーな演奏を聴いていて、寝る事すらあると言う事実を、コンクールのオーガナイザーの方々に理解してもらいたい。今回の来日期間中、汐留ベヒシュタインサロンと東京工業大学 社会理工学研究科(Art at Tokyo Tech)でも同じ内容の講座が行なわれる。
2013.10.27
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フォルテピアノの調律にトラベルソの有田正広さんのお宅に先日伺った。1800年代前半のフランスの楽器を午前中から夕刻迄複数台数調整したが、ピアノ技術者の立場としても楽器から教えられる事がいつも何かある。マニュアル化されている現代の多くの機器と同様、量産のピアノの調整はマニュアル化されていて、ある意味変に変更するよりマニュアルの指示通り行なった方がある程度の結果がでる。料理を例としてととりあげてみたい。インスタントの食材の調理も、マニュアルがある時はそれに従った方が美味しくできるという経験をされた方は多いと思う。しかし、例えば白菜やネギを加熱処理したいとき、素材の鮮度や季節で、セルロースの硬化?が理由なのか、素材の固さの変化を触感でも容易に感じられる。加えて部位によっての堅さの違いもある。自分は料理をするのは稀だし、上手くできるとは正直とても言えないが、鮮度や部位の繊維の固さで加熱する時間を直感的に変えている。というか変えないと失敗作になる。きっと、料理好きな方やプロの料理人はもっと的確な工夫をで様々に施していらっしゃるだろう。炒めたり、焼いたりしているときの音の変化も感じていらっしゃるという事も聞いた事がある。しかし、これがインスタントになると、書いてある通りにやった方が結果が良くなる。僕は、これと同じ事をピアノの調整をしていて感じる量産のピアノは、マニュアル通りやった方が結果が良くなる。調律もしかりで、電子チューナーのラインに従って合わせた方が、無難で心地よい響きが得られる。得られる結果は、インスタント食材の料理と同じように、よくも悪くもなく「無難」な結果になる。完全に量産化されていないピアノの場合はどうか? 料理と同じような事が、ピアノの調整に当てはめる事ができるな、などと考えながら、3台のフォルテピアノの調整をやっつけた。集中力の糸が切れかかって放心状態になりかかった僕に、ローゼンタールのショパンのノクターンをSPで聴いてませんか?と有田先生に声をかけていただいた。夜想曲という言葉通りの柔らかな旋律が、優しい伴奏の上に乗り心に響いた。このSPの録音はモダンピアノだったが、それで奏でられる音楽は、今迄自分が調整していたフォルテピアノの響きの延長線上に確実にあった。4日後、ジャズピアニストの石井彰さんの家で20世紀初頭のベヒシュタインのアップライトの調整をした。有田先生に聴かせていただいたローゼンタールの奏でる響きが脳裏に蘇った。調律と整音を行なったが、ベクトルはSPで体験した響き、フォルテピアノの響きに合わせる事が良いと判断できた。マニュアルが無い所での四苦八苦しながらの工夫が生む感動が、能動的にも受動的にもある。21世紀に製造されるベヒシュタインも、多かれ少なかれ量産ピアノのようなマニュアル化は難しい。喜ばしい事だと思う。
2013.10.26
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