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書生さんは間もなく土屋忠治さんが加わってつごう二人になりました。二人とも五高の学生で、おおかた三年生だったでしょう。土屋さんは謹厳な人でしたが、股野さんと来たら腹も立った代わりに、ずいぶんと笑いの種を蒔いたものです。 この三平君飯を食うの食わないのって非常な大食いてしたが、ただ御飯だけではなく、お汁を御飯と同じ数だけ平らげるのですから驚くほかありません。そうして食べながら、まるで子供のように、ぼろぼろ御飯粒をこぼすのですから参ってしまいます。 学校へお弁当箱を持たせてやると、持って帰って来たことなしで、いくら女中が小言を言っても、次の日はやはり手ぶらで帰って来ます。そこでしかたなしに大きな子供の頭ほどもあるおむすびの中に梅干しを入れて持たせてやるようにして、これでようやく弁当箱の難をまぬかれました。それからよく酒を呑んでは十二時ごろにかえって来ます。冬の寒いころには、それまで私か女中か誰か一人起きて門を閉めなければならないのがつらいのですが、いつこうそんなことはお構いなしで、帰って来るなりいつの間にやら、鉄瓶の湯を一ばい呑み尽くして、からのまま火鉢にかけておくという先生です。(夏目鏡子 漱石の思い出)
2022.12.19
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私が東京からこの新居へ帰って参りますと、いままでいなかった書生さんが一人おります。これが「吾輩は猫である」中の愛嬌者多々羅三平だと噂されている股野義郎さんです。書生さんは間もなく土屋忠治さんが加わってつごう二人になりました。二人とも五高の学生で、おおかた三年生だったでしょう。土屋さんは謹厳な人でしたが、股野さんと来たら腹も立った代わりに、ずいぶんと笑いの種を蒔いたものです。(夏目鏡子 漱石の思い出)
2022.12.16
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私がまだ熊本にかえらない前に、九月そうそう大江村(今では市内になって大江町)の落合東郭さん(漢詩人、現侍従)のお宅へ移りました。落合さんが東京に勤めていられて、自然家があいているのでおかりしたのでした。十月、健康も回復したので、帰りたいと思っておりますと、折りよく落合さんの御母堂と、落合さんの奥さんの御里の元田永孚先生(明治天皇の侍従)の令息ご夫婦のお三人が熊本へおかえりになり、しかも元田さんのお宅というのが、今度お借りした落合さんのすぐお隣りというわけで、いっしょに連れて行っていただいて、十月二十五日ごろ熊本につきました。 来てみますとここはたいそう景色のいいところで、家の前は一面に畑、その先が見渡す限り桑畑が続いて、森の都と言われる熊本郊外の秋の景色はまた格別でした。そのかわり冬になるとずいぶんと寒く、みたこともないような大きな氷柱が、水車のあたりにのべったらに下がっておりました。(夏目鏡子 漱石の思い出)
2022.12.15
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上京中はたびたび病気の子規さんをお訪ねしていたようでしたが、いよいよ九月にもなり、学校も始まりますので帰らなければならない、できることなら二人いっしょにかえりたいというので私は医者に診てもらいますと、いましばらく静養した上でということでということで、夏目が一人先にかえることになりました。帰りぎわに、その頃紅葉山人の「金色夜叉」が「読売新聞」に連載されていた最中で、上京してそれをずっと読んでいたのですが、熊本のような田舎には「読売新聞」が行かないので、それを毎日東京から送れと申しつけて参りました。ところが毎日となると些細なことなので帰って怠りがちになって、三回分も四回分もまとめて送ったりして、ひどく手紙で怒られたことがあります。当時の紅葉山人の人気はたいしたものでしたが、「金色夜叉」にはいっこう感心していなかったようでした。(夏目鏡子 漱石の思い出)
2022.12.14
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さて一年ぶりで二人で上京いたしましたが、私の里では毎年夏になると、一家そろって鎌倉材木座の大木伯の別荘をお借りして行くのがそのころの例でして、この夏も妹たちは皆でかけていて、いい按排に家はがらあきなので、これ幸いと二人でそこで留守番をしていました、ところが二人きりですから淋しいのに、べつに遊ぶこともないので、そこで唱歌を教えてくれろということになり、私が先生で当時兵隊さんがよく唱っていました「敵は幾万ありとても、すべて烏合の勢なるぞ」という蛮的な唱歌を教えるのです。しかしいくら教えても教えても調子はずれでどうしても物にならず、唱うたびにおかしくなって笑いこけてしまったことがずいぶんございました。 そうこうしているうちに、ちょうどその時私は身重だったのですが、長途の旅行がいけなかったのか流産してしまいました。そこで、ずっと留守番をして夏じゅう東京で暮らすつもりなのが、私の健康がこんなぐあいになりましたので、妹たちの間にまじって私も鎌倉へ行って保養することになりました。夏目も東京と鎌倉との聞を幾度も往復しておりました。(夏目鏡子 漱石の思い出)
2022.12.13
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この夏休みには耶馬渓の探勝がやりたいなどと申しておりましたが、六月二十九日に夏目の父が八十四歳で亡くなりましたので、試験もそこそこに切り上げて、七月早々二人で上京いたしました。そうして虎ノ門の官舎に落ちつきました。 いったい夏目は生家のものに対しては、まず情愛がないと申してもよかったでしょう。あるものは軽蔑と反感ぐらいのもので、もちろん義理堅い人ですから、義理を欠くようなことはなかったようですが、とにかく金ちゃん金ちゃんと御機嫌をとられたりちやほやされたりすればするほど反感を募らせるほうで、中へ入ってずいぶん私は困りもしました気まずい思いをいたしました。そうして兄さんなどに気のどくでなりませんでした。それでも黒白のけじめがはなはだはっきりして、きらいならきらい、好きなら好きで、人が何といったって得心が行けば格別、でない以上がんとして動かないのですからどうにもしかたがありません。…… 丁度その時私は身重だったのですが、長途の旅行がいけなかったのか流産してしまいました。そこで、ずっと留守番をして夏中東京で暮らすつもりなのが、私の健康がこんな工合になりましたので、妹たちの間にまじって私も鎌倉へ行って保養することになりました。(夏目鏡子 漱石の思い出)
2022.12.12
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大学時代の夏目君の交友では、何といっても死んだ米山保忠郎君、例の天然居士が一ばん変っていたでしようね。論語を読み出すと、寝室へも、便所の中へも持って行くといったような風変りの男でした。自習室では、筆立てのペンやインキは他人の物でも一切構わず無断で使用する。歯みがきは勿論、楊子まで他人の物を使って、洗いもしないでそのまま放り出して置くんだから、まことに始末が悪い。街頭の乞食に五十銭くれて置いて、後から自分に入用が出来たというので、平気でその中のいくらかを取返しに行ったというような話もございます。焼薯屋へ飛び込んで、薯が焼けるのを待っている間に、同じように焼薯を買いに来た子供に赤んべえをして見せて、一人で喜んでいる位は朝飯前でしたね。大体が議論家で、菊池謙二郎君と自習室の電燈が消えるまで議論をつづけて、「もう一語だけいうことがある」というので、二階の寝室まで押掛けて行くのを見たこともありました。学問の方は素晴らしいもので、行くとして可ならざるはなしの概がありましたが、俗世間の事は丸で分らないといったような、所謂奇行家であったのですね。(熊本時代の漱石と米山天然居士 長谷川貞一郎)
2022.12.10
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山川さんが赴任して来られて、家にとまっておられてその就任の挨拶があるという朝、まだ背広というものを着たことがないというのですが、ともかく東京から一式一揃い何から何まで持っておいでになったはいいが、ネクタイが独りで結べない。そのうえワイシャツのボタンもつけてなけりゃ何の準備もしてありません。あまり早起きでない御連中のことですから、大急ぎで支度をしてそれ出かけようという時になっても、たいせつなお客さんの方がいつこうできていません。ちょうど長谷川貞一郎さんがいっしょにおられたころで、夏目と私と三人でボタンをつけてやるから、ズボンをはかせてやルカら、それカラーだ、それネクタイだと、えらい騒ぎをやりました。 「こんなことは宵のうちにしておくもんだ」夏目はブリブリ怒って御機嫌斜めでした。 「やれやれ、今日は厄介におやじに叱られずくめだ」 山川さんはこんなことを言ってその日は何事もなく帰って来られました。翌日出がけは三人でいっしょに参りましたが、帰りには別れ別れだったとみえて、夏目も長谷川さんも帰って来てますのに、早引けの山川さんがいつまでたってもお帰りになりません。その日はたいていだいじようぶだろうと一人呑み込んで帰って来るうちに、道に迷ってしまって、町の大半を歩き回られたのだそうです。(夏目鏡子 漱石の思い出)
2022.12.09
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御書拝見仕候。心経弘治版一葉御寄贈被下ありがたく拝受仕候。また書籍の件、拝承仕り候。小生借用書籍はすべて十巻前後と存候。右は全部とも中村氏に托し候。山口氏が四冊は中村より受取り、残巻三巻は受取らずと申すこと、もっとも不審に存候。右は中村氏より返納せざりしか、または山口氏が手控を消すことを忘却せるかにては無之候や。小生第一回の談判を山口氏に始めたる時、蔵庫中を捜索し、もし見当らずば中村へ今一度照会致しくれとの主意に御座候処、その後二月ばかり何の返事も無之、貴書に先つこと一日始めて同氏より一書を受取候処、書籍の有無及び書名も判然不致。かつ中村より受取りたりとあるのみにて何巻だけ受取何々の残巻が不明なるや分らず、雑誌とか何とか有之候えども、如何なる種類の雑誌なるや。小生勝間田寄附の書籍は正借用致候。これは「スコット」の小説三四部と記臆致候えども、右はたしかに他の教科書用の書籍とともに中村に托し候に相違なく候。雑誌の如き勝間田にせよ何にせよ、借用したる覚無之候。何卒今一応書籍の名を分明に致し書庫中を捜索し、もしなければ中村へ今一応御照会被下候様、山口氏へ御命じ被下度候。もしそれでも相分り不申候わば、小生甘んじて弁償の責に任ずべくと存候。 とにかく山口氏が所轄の書籍に対し、小生転任後数月の後までそのままに致し置き、始めて突然書生などに対し小生が未だ書籍を返納致しおらぬ由、口外致し候のみならず、小生より照会致し候も二三月間、何等の返事も致さざること、第一学校へ対しては不親切なるのみならず、小生へ対しても至当の処置と存じ不申候。右御参考まで申上候。(明治30年1月12日 横地石太郎宛手紙)
2022.12.08
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長谷川さんは私たちと違ってなかなかの交際家でして、お客がずいぶんとおいでになります。翌年新家庭初めての正月を迎えました時に私もさっぱり、勝手はわからぬなら、大いに奮発していろいろ御馳走を調えたつもりでしたところ、なにしろ思いがけなくお客が四、五人、生徒が五、六人もつめかけて来る始末で、さっそく金団(きんとん)がなくなったのを始めとして、後から来た方々にはお膳も出せない始末、そこへ女中は一人と来いるし、出入りの商人がまたどうしたものか、自分のほうも正月だとあって少しも仕出しをしてくれないので、とうとう不体裁だとあって、夏目が怒りだします。長谷川さんが気の毒がって仲を取りなしてくださいますけれども、私も口惜しいので、晴れ着の上に前掛けをかけたままで、元日の夜から十二時ごろまでかかって、金団を作りました。なにしろお客の口数の多いところへもって行って、生徒さんたちがむやみとたべるのだからやりきれたものではありません。私も泣きたくなったのですが、夏目もこれにこりたと見えて、正月には家にいないに限るとあって、次の年から正月へかけて、たいてい大晦日あたりに旅行に出ることにいたしました。(夏目鏡子 漱石の思い出)
2022.12.07
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漱石の旅行の中には、学生の修学旅行にくっついて行く旅行だの、英語授業視察のため出張を命じられてする旅行だのもあった。第五高等学校の記録によると、漱石は明治二九年(一八九六)十一月九日「修学旅行二付天草島原地方へ出張ヲ命」じられている。これは外に文献の徴すべきものがない。しかし既にこういう辞令が出ているのだから、漱石が天草•島原地方をあるいて来たことには、疑いがない。(小宮豊隆 夏目漱石)
2022.12.06
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その頃日清戦争にて分捕したる大形のボート二艘を、紀念として海軍省から五高へ下げ渡さるることとなった。後日これらの短艇を大連・旅順と名づけて、永く保管に持て余した、この二艘の舟を引取るために、龍南会より短艇部員数名を佐世保に派遣して、自ら廻航せしむることとして、久太郎を宰領とした。しかして舟は無事に着したが、数日の後久太郎が余を訪れてすこぶる面目なさそうな様子で、先生にお願いがあると切り出して、こういった。 廻航の任務中、往途は無事であったが、帰路にこの紀念船の修繕を加うるためにそこに滞在中、徒然に乗じて一同盛んに飲食をなし、正当の仕払の外に、百円足らず使い込んでしまい、如何に後悔するも仕方なし、また弁償の道も立たないから、どうか救ってくれらるる方法はないかと。余は厳しくその不都合を諭した末、夏目君は昨今赴任した人で、累を同君に及ぼすには忍びないから、余らの仲問で弁償もできようから、職員中これこれの人々を歴訪して哀願して見るがいいと話して、余は先ず三円ばかり彼に渡した。その後これら部員は、部長には秘して、指示したる職員を歴訪したが、久太郎が平素職員間に人望なかりしため、皆はね付けて取り合わなかった。余もまた学校でこれらの人々に代って説いてみたが、なかなか承知しない。しかるに夏目君が程なくこのことを漏れ聞きて、直ちに全額を償い、同時に部長を辞してしまった。赴任早々である上に、当時薄給に衣食しながら、寝耳に水の災難を、一言の愚痴もいわず、綺麗にさばいてしまった。責任を重んずる点と思い切りのよい例は、同君としてこの外にも多々あったが、ちょっと常人と異っていた。(篠本二郎 五高時代の夏目君)
2022.12.05
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私はそんなことすっかり忘れてしまっておりますが、これも長谷川さんにうかがったところによりますと、なんでも晩御飯の時に、お猪口にいっぱいずつ酒がでたそうです。それがどういうつもりかたった一ぱいで、呑める口の長谷川さんのほうでは、手もなく呑んでしまわれて、飲ませてくれるならいっそ堪能するくらい飲ましてくれればいいに、胸糞の悪いくらいに思って、けろりとしてらっしゃるのに、夏目はそれ一ぱいをのむのに小鳥が水をのむようにチピチピやってるのでなかなかなくならず、そうしてそれだけで赤い顔をしたりしていたそうです。それから私が主人だと思ってわざと肴の尻尾をつけようものなら「尻尾は長谷川につけろ」てんで、いつも頭のほうを主張したそうです。そういえばこの肴のことはうろ覚えに覚えております。(夏目鏡子 漱石の思い出)
2022.12.04
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なにしろ二人きりに女中という世帯なのに、間数がたくさんあるのです。そこで同じ五高の歴史の先生の長谷川貞一郎さんが同居されることになりました。後で山川信次郎さんもしばらくここへ同居されたことがありました。この家賃が十三円でした。 この春長谷川さんに久々でお目にかかっておうかがいした話に、この時長谷川さんが月々五円、山川さんが月々七円のいわば下宿料をお出しになったそうです。たいへん安いのにたいへん御馳走があってなどと、三十年もたってからおほめにあずかりましたが、いったい何をして差し上げていたものですか知れたものでありません。でも自分では精いっぱいのことをやっていたのでございましょう。がこの下宿料も、皆さんのほうは、ただ厄介になって食うといういわれはないとおっしゃるし、夏目のほうでは友人から下宿料をとるやつがあるものかというわけで、両方でがんばって言いあいをしているのを、それでは果てしがつかないので、たしか私が中に入って、では五円もいただいておきましょうということにけりをつけたのでした。山川さんの七円は気の毒だというのでニ円だけ後でお上げになったのだそうですが、そんなことは私もとっくに忘れておりました。(夏目鏡子 漱石の思い出)
2022.12.03
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九月のなかばごろ、旅行からかえって間もなく光琳寺町から合羽町に移りました。というのはこの光琳寺町の家というのが、もと妾宅だというくらいですから小粋にできてるのはいいですが、すぐ前が墓場である上に、ここで妾が不義をしてお手打ちになったとやらどうだとやらで、なんとなく住んでると不気味な家でしたので、家が見つかりしだい越そうというわけだったのです。ところが今度引っ越した合羽町の家というのは、まだ建って間もない家でしたが、がさつ普請でした。がそれでもこのほうがまだいいというので移りましたものの、なにしろ二人きりに女中という世帯なのに、間数がたくさんあるのです。(夏目鏡子 漱石の思い出)
2022.12.02
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いまではそんなこともありますまいが、そのころの九州の宿屋温泉宿の汚さ、夜具の襟なども垢だらけで、浴槽はぬるぬるすべって、気持ちの悪いったらありません。ひどく不愉快なので、私は懲り懲りしまして、それ以来九州旅行は誘われても行く気になれませんでした。 帰って来てから旅行中の俳句をたくさん作って子規さんのところへ送りました。そのころはよく俳句を作っておりまして、それをまた丹念に巻紙や半紙に書いて、子規さんのところへ送るのでした。今でもそのころの句稿がたくさん残っておりまして、それには子規さんが朱筆で点を打ったり、丸をつけたり、評を書いたり、添削したりしております。(夏目鏡子 漱石の思い出)
2022.12.01
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新婚の真夏も過ぎて、九月に入ると早々一週間ばかりの予定で、いっしょに九州旅行をいたしました。福岡にいる叔父を訪ねて、筥崎八幡や香椎宮や太宰府の天神やにお参りして、それから日奈久温泉などに行きました。(夏目鏡子 漱石の思い出)
2022.11.30
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ところがここにもう一つ困ったことがありました。というのは私は昔から朝寝坊で、夜はいくらおそくてもいいのですが、朝早く起こされると、どうも頭が痛くて一日じゅうぼおっとしているという困った質でした。新婚早々ではあるし、夫は早く起きてきまった時刻に学校へ行くのですから、なんとか努力して早起きをしようとつとめるのですが、なにしろ小さい時からの習慣か体質かで、それが並みはずれてつらいのです。それでも老よりの女中がいたうちは、目ざとく起きてくれるのでまちがいもありませんでしたが、さてそれを帰してからというものは、時々朝の御飯もたべさせないで学校へ出したような例も少なくありませんでした。 そこでこれではならないというので、枕もとの住に八角時計をもって来てねていますと、チンと半時間打つたびに驚いて起き上がったりする滑稽を演じなどして、結局眠り不足と気疲れとで、ほんとにしばらくの間ぼんやりしていました。自然やることなすことにへまが多いのでしょう。 「おまえはオタンチンノパレオラガスだよ」 そんなふうにからかうように申します。オタンチンノパレオラガス。どうもむずい英語だ。どうせおまえはとんまだよといった意味なんだろうとは察しましたが、はっきりしたわけがわからない。向こうではおもしろがって、なにかというとしきりにオタンチンノパレオラガスを浴びせかけます。いずれむずかしい横文字に違いないと思って、訪ねておいでになるお友達でいくらか心安くなった方をとらまえてはたずねます。しかし誰あって笑ってばかりいてわけを教えてくださる方がありませんでした。オタンチンノパレオラガスという言葉は、そんなことを言われなくたって後々までも、妙に思い出の深い言葉となって頭に残っておりました。(夏目鏡子 漱石の思い出)
2022.11.29
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松山での月給は八十円だったそうですが、熊本では百円でした。それでもその当時は製艦費か何かそういう軍事費を官吏がださなければならない時で、月給の十分の一はそのために政府で差し引いて渡したものです。それから大学にいたころ貸費生だったので、それを正直に毎月七円五十銭ずつ返しておりました。後で小山温さんにうかがえば、当時の大学はそれほど規則ずくめでなく、家計困難につきと願書を一本差しだしておけば、貸費はおろか授業料まで免除されたものだそうで、誰も彼も皆その手をやって卒業してから返すどころじゃなかったそうです。夏目さんは莫迦正直でしたなといつぞや笑っておられたことがありましたが、これはずいぶん長いこと克明に続きました。 この二口が毎月差し引かれる上に、月々父へ十円、姉へ三円ずつおくつておりました。父へ送る金もたしか貸費生の返金と同じような意味をもっていたらしく覚えております。 これだけの金が毎月いるのですから、いわば七十円の月給取りです。その中から大概の月に二十円ぐらいずつ本を買っておりましたから、一家の暮らしはざっと五十円ですが、それでも子供はなし、どうにかやっては行けました。とはいうもののもともとお嬢さん育ちで新婚早々と来ているのですから、どう家計を切り盛りしていいかてんでわからず、どうかこうかやっているとだけで、月々いくらかでも残るどころではありません。が二月三月と過ぎるうち、これではならぬと心細くもなって、せいぜい切りつめて少しずつでも貯金をしようという気になって、毎月五円ずつそっと手文庫の中にし伸ばせておきました。手文庫というのは私の手習いのお手本やら紙やらを入れておいたものです。 ある日、外出して夕食近くなって帰って来ましたので、大急ぎでぱっと着物を脱ぐなり不断着に着かえて、そのまま台所へ入って煮物ごしらえなどしてから居間へ戻ってみますと、どうしたものか脱ぎ捨てて行った着物の位置から、第一障子の開け方からが違っています。直覚的に変な気持ちがいたしましたので、夏目を呼んでみてまわると、縁側の上に泥足がついていて、たしか先刻まで机のわきにあったはずの手文庫がみえません。うまうまこそ泥にかっぱらわれたのです。(夏目鏡子 漱石の思い出)
2022.11.28
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結婚のお祝いの手紙が狩野亨吉、松本文三郎、米山天然居士、山川信次郎、たしかこの四人さんの連名で参りました。みるとたいへん堂々たるお手紙で、祝辞が滔々と述べてあって、お祝いの品別紙目録どおりとあって、その目録が鯛昆布から始まって、めでたい品の限りを尽くしております。こんなにたくさんの品を送ってくだすったのか、お友達というものはえらくありがたいものだと読んで行きますと、一番終いに小さい文字で、お祝いの品々は遠路のところ後より送り申さず候と、とうとう新婚早々一本かつがれてしまいました。 子規さんが短冊を書いて送ってくださいました。熊本から東京へ引き移る時、おおかたそんなものはみんな破いて捨てたものでしょう、いま思うと惜しいと思いますが、どうも見当たりません。たしかこんな句であったと覚えております。 蓁々たる桃の若葉や君娶る 赤と白との団扇参らせんとぞ思ふ 後の方の句は少しまちがっているかもしれません。(夏目鏡子 漱石の思い出)
2022.11.27
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盃事が終わっても、不粋な父には謡一つうなることもできず、はなはだあっけない結びの式の幕は閉じられたわけですが、それを待ちかねて、父は起ち上がって、 「おお暑い、おお暑くてたまらない」 と、自分でありたけの障子をはずしました。それから上着をぬいでもまだ暑いといって、今度は夏目の飛白(かすり)の浴衣を借りて着て、とうとうどっかりくつろいでしまいました。新郎も冬のフロック・コートを着てすわっているのですから、これまた一倍暑いに違いありません。父が丸裸になって着かえをするので、こちらも晴れての無礼講とあって、私服に着かえて、それでも新調とみえる羽織を引っかけてでてまいりました。ともかくその時の熊本の暑さにまったく父も私も驚いてしまいました。(夏目鏡子 漱石の思い出)
2022.11.26
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東京からこの遠路を運んでくるのはたいへんなので、初めから手回りのものや何かはいっさい熊本にきて買い調えることにしてきたのです。そのうえ結婚は寒い時のつもりで、晴れ着などもいっさい冬物で整えてあったのが、急に夏場にきまったので、持って来たものは夏の振り袖一枚ぐらいで、これといった夏じたくもない始末、いくら簡単で質素にといっても、それでも女一人を片づけるのですから、相当買い物にも手がかかります。それでもどうやら間に合わせものを整えて、翌る十日となりました。この結婚がまことに裏長屋式の珍な結婚なのです。…… 新郎はフロック・コート、私は東京からもって行った一張羅の夏の振り袖、これだけはまあどうやらいいですが、父はとみればふだんの背広服、雄蝶も雌蝶もあったものではなく、一切合財仲人やらお酌やらを一人でするのが東京から連れて行った年とった女中、このほかに婆やと俥夫とが台所もとで働いたり客になったりというわけですから、どうも嫁に行くというふうなごたいそうな気持ちになれなければ、晴れの結婚式だという情も移りません。 そうこうしているうちに女中が新郎新婦の聞に盃を回します。三三九度の盃なのですが、どうしたものか三ツ組の盃の上か下かが一つ足りません。しかし新郎はいっこう平気なものでまじめくさって盃を受けています。(夏目鏡子 漱石の思い出)
2022.11.25
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この光琳寺町の家というのは、なんでも藩の家老か誰かのお妾さんのいた家とかで、ちょっと風変わりな家でした。この間熊本へ参りましてさがしてみますと、入り口が反対の下通りに面していて、熊本簡易保険健康相談所というものになって、新しい部屋のつけたしなどがありましたが、大体は元どおりでしだ。元は玄関のとつづきが十畳、次が六畳、茶の間が長四畳、湯殿、板蔵があってそれから離れが六畳と二畳と、こういう間取りです。(夏目鏡子 漱石の思い出)
2022.11.24
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先生は頭が明晰であると同時にその風采も堂々たるものであった。始めて赴任して来られた日には「フロックコート」に身を堅め八字鬚の両端をピント跳ね上げて(後年先生が英国より帰朝後は英国風に制を刈り込んでおられたように思うが熊本時代はむしろカイゼル式に巻き上げておられた)キビキビした調子で新任の挨拶をせられた時は、僕等は先生の容姿の端麗と威厳とに打たれたものだ。そうして挨拶が済むとさっさっと出て行かれた、僕等は先生の後姿を見送ってこの堂々たる品性のある先生を得たのを誇った、その翌日からは先生は早速教壇の人となられた、ところがこの日からは教授の制服たる詰め襟の黒服黒ぼたんの簡素なる職工然たるもの(生徒の方は金ぼたん)鬚は相変らず跳ね上がってはいるが前日の堂々たるフロック姿に比べては如何にも貧弱に感ぜられた。 しかのみならず、僕が最前列の席につきて先生と咫尺するに及んでああら不思議や僕は一大発見をした、それは先生の顔に痘痕のあることであった(しかしこの痘痕こそ後日先生に親炙するに及んで景慕の徴象となったものである)。僕は先生は遠くで見る程近くで見れば好男子ではない、など考えている中に講義が始まった。僕は先生の始めの一句の説明においてそのキビキビした灰汁ぬけのした、しかも真摯犀利な講義振りに参ってしまった、どうかこの先生が永くこの学校にいてくれればよいと思った。これが僕が先生に対する第一のイムプレッションであった。話は脇道に入るが先生の風采の堂々たることは当時五高教授中第一人者であった。この頃僕等は各教授にそれぞれ渾名を奉っていた、夏目先生に対しては誰れいうとなく華族様というようになっていた(もっともある口の悪い男は遠見華族の近痘痕などいっていた)。いつか親睦会の席で誰れか歌ったのに「夏目先生ニ上ゲタイモーノハ朱塗ノ馬車ノ二頭立」というのがあった。(吉田美里 夏目先生を憶う)
2022.11.23
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初めて熊本に行った時の所感 それならお談いたしましょう。私は七、八年前松山の中学から熊本の五高に転任する際に、汽車で上熊本の停車場に着て下りて見ると、先ず第一に驚いたのは停車場前の道巾の広いことでした。しかして彼の広い坂を腕車で登り尽して京町を突抜けて坪井に下りようという新坂にさしかかると、豁然として眼下に展開する一面の市街を見下してまた驚いた。しかしていい所に来たと思った。彼処から眺めると、家ばかりな市街の尽くるあたりから、眼を射る白川の一筋が、限りなき春の色を漲らした田圃を不規則に貰いて、遥か向うの蒼暗き中に封じ込まれている、それに薄紫色の山が遠く見えて、その山々を阿蘇の煙が遠慮なく這い廻っているという絶景、実に美観だと思った。それから阿蘇街道の黒髪村の友人の宅に着いて、そこでしばらく厄介になって熊本を見物した。(漱石談 名家の見たる熊本 明治41年2月9日 九州日日新聞)
2022.11.22
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私と漱石氏とは一緒に松山を出発したのであった。私は広島から東に向い、漱石氏はそこから西に向って熊本に行くのであったが、広島まで一緒に行こうというので同時に松山を出で高浜から乗船したのであった。――確かその頃もう高浜の港は出来て居ったように思うのであるが、あるいは三津ヶ浜から乗ったのであったかもしれぬ。三津ヶ浜というのは松山藩時代の唯一の乗船場で、私たちが初めて笈(きゅう)を負うて京都に遊学した頃はまだこの三津ヶ浜から乗船したものであった。そこは港が浅くってその上西風が吹く時分は波が高いのでその後高浜という漁村に新しく港を築いて、桟橋に直ぐ船を横づけにすることが出来るようにしたのである。確か明治二十九年頃には、もうその港が出来ておったように思う。高浜といったところでその地名と私の姓とは何の関係もある訳ではない。――さてその広島に渡る時に漱石氏はまだ宮島を見たことがないから、そこに立寄って見たいと思う、私にも一緒に行って見ぬか、とのことであったので私も同行して宮島に一泊することになったのであった。その時船中で二人がベッドに寐る時の光景(ありさま)をはっきりと記憶している。宮島までは四、五時間の航路であると思うが、二人はその間を一等の切符を買って乗ったものである。それは昼間であったか夜であったか忘れたが多分夜であったのであろう。一等客は漱石氏と私との二人きりであった。漱石氏は棚になっている上の寐台に寐ね、私は下の方の寐台に寐た。私はその寐台に這入る前にどちらの寐台に寐る方がえらいのかしらんと考えているうちに、漱石氏は、「僕は失敬だがこちらに寐ますよ」と言って棚の方の寐台に上った。そうすると上の方にあるのだからその棚の方の寐台がえらいのかなと思いながら私は下の方の寐台に這い込んだ。上であろうが下であろうがこんな寐台のようなものの中で寐たのは初めてであったので、私はその雪白の布(きれ)が私の身体を包むのを見るにつけ大に愉快だと思った。そこで下から声をかけて、「愉快ですねえ」と言った。漱石氏も上から、「フフフフ愉快ですねえ」と答えた。私はまた下から、「洋行でもしているようですねえ」と言った。漱石氏はまた上から、「そうですねえ」と答えた。二人はよほど得意であったのである。その短い間のことが頭に牢記されているだけで、その他のことは一向記憶に残って居らん。宮島には私はその前にも一、二度行ったことがあるために、かえってその漱石氏と一緒に行った時のことは一向特別に記憶に残って居らん。それからいよいよ宮島か広島かで氏と袂を分ったはずであるがその時のことも記憶にない。(高浜虚子 漱石氏と私)
2022.11.21
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私のところに残って居る漱石氏のただ一枚の短冊にこういう句が書いてある。それは「送別」としてあってその下に、 永き日や欠伸(あくび)うつして別れ行く 愚陀と書いてある。愚陀というのはその頃漱石氏は別号を愚陀仏といっていたのであった。この俳句から推して考えると、私は春に一度東京へ帰ってそれからまた何かの用事で再び松山に帰ったものと思われる。この短冊から更に聯想するのであるが、その頃漱石氏は頻りに短冊に句を書くことを試みていた。こう考えているうちに、だんだん記憶がはっきりして来るように覚えるのであるが、確か漱石氏は高浜という松山から二里ばかりある海岸の船着場まで私を送って来てくれて、そこで船の来るのを待つ間、「君も書いて見給え」などと私にも短冊を突きつけ、自分でもいろいろ短冊を書いたりなどしたように思う。それがこの春の分袂(ふんべい)の時であったかと思う。(高浜虚子 漱石氏と私)
2022.11.20
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漱石先生が松山中学から熊本高等学校に転任されるに際して、全校生を集めて述べられた告別の弁の大要は次の如きものであった。『いま私はこの松山を去って、熊本高等学校へ赴任することになった。これを栄転であるといって祝輻される人もあるようだが、私は決して栄転だとは考えていない。高等学校の数授であろうとも、中学校の数師であらうとも、私にとっては何ら選ぶところはない。で、しからば何故私はこの中学を棄てて熊本へ去るか、あるいは何故松山を去るかと反問せられる人があるだろう。この反問に封して私は答える、それは生徒諸君の勉学上の態度が真摯ならざる一事である。私はこの一言を告別の辞とする事を甚だ遺憾に思っている。生徒諸君は必ずこのことについて思い当たる時が来るであらうと信ずる……』 この告別の辞の大要は、松山在住の郷土史研究家影(景)浦直孝氏が伝聞筆記されたところのものである。(鶴本丑之介 漱石先生と松山)
2022.11.19
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それから父のほうでも東京に適当な口をと心がけていたけれども、なかなかありません。そうこうしているうちに菅虎雄さんあたりの口入れで、熊本の高等学校へゆくことにきまりました。ゆけば少なくも一年はいなければならない。そういった知らない遠い土地にくるのが、気が進まないようだったら、やむをえないから破談にしてくれないかという手紙がきましたが、そんなこともできることでなし、ここ一年二年帰京の見込みがないとすれば、なにも東京でなければならぬというのではなし、また一生熊本で暮らすわけでもあるまいから、口はゆっくり結婚してからでもさがすとして、ともかく熊本へやろうということになりました。(夏目鏡子 漱石の思い出)
2022.11.18
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この三十年(注:本当は29年)の帰省の時、私はしばしば漱石氏を訪問して一緒に道後の温泉に行ったり、俳句を作ったりした。その頃道後の鮒屋(ふなや)で初めて西洋料理を食わすようになったというので、漱石氏はその頃学校の同僚で漱石氏の下にあって英語を教えている何とかいう一人の人と私とを伴って鮒屋へ行った。白い皿の上に載せられて出て来た西洋料理は黒い堅い肉であった。私はまずいと思って漸く一きれか二きれかを食ったが、漱石氏は忠実にそれを噛みこなして大概嚥下(えんか)してしまった。今一人の英語(注:本当は歴史)の先生は関羽のような長い髯(ひげ)を蓄えていたが、それもその髯を動かしながら大方食ってしまった。この先生は金沢の高等学校を卒業したきりの人であるという話であったが、妙に気取ったように物を言う滑稽味のある人であった。この人はよく漱石氏の家へ出入しているようであった。この鮒屋の西洋料理を食った時に、三人はやはり道後の温泉にも這入った。着物を脱ぐ時に「赤シャツ」という言葉が漱石氏の口から漏れて両君は笑った。それはこの先生が赤いシャツを着て居ったからであったかどうであったか、はっきり記憶に残って居らん。ただ私が裸になった時に私の猿股にも赤い筋が這入っていたので漱石氏は驚いたような興味のあるような眼をして、「君のも赤いのか」と言ったことだけは、はっきりと覚えている。後年『坊っちゃん』の中に赤シャツという言葉の出て来た時にこの時のことを思い合わせた。(高浜虚子 漱石氏と私)
2022.11.17
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山嵐のモデルが渡部政和であることは、初めから定説となっていて、他の人物のモデルのように、まぎらわしさはなく、異論をさしはさむ余地がないように見えるにもかかわらず、山嵐は政和にあらずという説は古くからあった。第一、当の政和本人が頭から否定していたし、漱石も政和をよく知らないと逃げている。もっとも作者としては、仮にそうであっても「ウンそうだ」と認めるはずはないが。 俳誌ホトトギスに『坊っちゃん』を載せた編集責任者の高浜虚子も「あれは漱石の空中楼閣的人物に御座候」と書いて否定論の元締めみたいになっている。 高橋龍太郎、桜井忠温も「山嵐を渡部政和先生だと決めてかかるのは、先生にお気の毒である。似ている所はあるが違う。」と同じ意見だが、この否定論には、政和を心から尊敬している弟子としての心情も多分にからんでいるようだ。(近藤英雄 坊っちゃん秘話)
2022.11.16
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漱石は一月十七日子規に宛てて、「その後御病勢如何。なるべく害状を見合せられたし。小生例によって例のごとく日々東京へ帰りたくなるのみ……」と書いている。 東京への憧がれが強くなるということは、ある意味では、松山をそれだけ好まなくなるということである。もう少し収入の途がついてから世帯を持つという約束も、漱石に、たとえ東京へは帰れないまでも、ともかく松山を去って何所かへ行きたい意志があったことを暗示する。…… 前便の十月八日とこの十一月七日との間に、漱石を特に不愉快にする何事かが起ったというよりも、これまで漱石がいろいろ不愉快に感じていたことが、十一月七日のころに至って、漱石に如に堪えがたくなったのだと解釈すべきであろうと思う。漱石は既に五月二十八日の手紙で、「当地の人間随分小理窟をいう処のよし。宿屋下宿皆ノロマのくせに不親切なるが如し」と言っている。そうして十一月七日の手紙では、「今までは随分義理と思ひ辛防」したのだと言っている。(小宮豊隆 夏目漱石)
2022.11.15
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理事来って何か論説を書けという、余この頃脳中払底、諸子に示すべき事なし、しかし是非に書けとならば仕方なし、何か書くべし、ただし御世辞は嫌いなり時々は気に入らぬ事あるべし、また思い出す事をそのたまま書き連ぬるゆえ、箇条書の如くにて少しも面白かるまじ、ただし文章は飴細工の如きものなり、延ばせばいくらでも延びる、その代りに正味は減るものと知るべし。(愚見数則 序)
2022.11.14
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二十八年の十一月三日には松山郊外河の内の白猪唐岬の瀧を見に行き 瀑五段一段毎の紅葉かな 秋の山いでや動けと瀑の音 瀑暗し上を日の照るむら紅葉 むら紅葉日脚もさしぬ瀑の色 雲来り雲去る瀑の紅葉かな 瀑半分半分をかくす紅葉かな 秋風や真北へ瀑を吹き落す 絶頂や余り尖りて秋の瀧 旅の旗宿に帰れば天長節 など数句をものされている、この時は前日即ち十一月二日河の内に至り近藤林門氏宅に一泊されたのである。 宿かりて宮司が庭の紅葉かな むら紅葉是より瀧へ十五丁 などの句によってもそれが知られる。近藤林門氏も既に故人で、いまはまき未亡人がおられるだけである。『何しろ古いことで、よく覚えてもいませんが、夏目さんというお方は非常におとなしい、礼儀正しいお方でした、主人とは俳句のお話や瀑の話などをされて、一晩お泊りになったように思います。手製の羊羹を賞味して下さったのを記憶しています。ハイカラな洋服姿で来られて、客問でお寝みになりました、極く物静かなお方でして……』 と未亡人は古い想い出話を語られた。(鶴本丑之介 漱石先生と松山)
2022.11.13
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漱石は、下戸でありながら日本酒の酒蔵に賛を贈ったことがあります。 今出(現松山市西垣生町)で伊予絣の製造会社を営んでいた村上霽月の頼みに応じて書かれたものです。霽月の実家は酒造業や金融業を営む素封家でした。霽月が漱石と知り合ったのは、子規が漱石の下宿・愚陀仏庵にいた頃で、互いの気風があったのか、漱石と霽月は、漱石が松山を離れてからも、漱石の晩年まで交流が続きました。 霽月の親戚の岡酒造が、明治28(1895)年の日清戦争勝利にちなんでつくられた酒があり、その酒に対して、下戸の漱石へ賛句を頼んだのです。詞書きに「霽月に酒の賛を乞はれたるとき、一句抜き玉へとて遣はす五句」と記しました。この酒は「かちとき」といい、現在も醸されています。 飲むこと一斗白菊折つて舞はん哉 憂ひあらば此酒に酔へ菊の主 黄菊白菊酒中の天地貧ならず 菊の香や晋の高士は酒が好き 兵ものに酒ふるまはん菊の花
2022.11.12
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三日に家っこばかりの新年会をやるというので、夏目も遊びにきました。私たちの顔をみたって一昨日神楽坂で逢いましたともなんとも言わず、それでも機嫌よくみんなといっしょに歌骨牌をとったり、福引きを引いたりして興じておりました。加留多もへたなのでみんなに喜ばれていましたが、父はことのほか満足で、今頃の若い者は遊ぶことばかりじょうずでなんにも役に立たないが、ああいうふうに不器用なほうが学者としては望ましいと、しきりと帰った後でほめていました。 その時みんなで福引きを引くと、夏目には絹のみすぼらしい帯〆が当たりました。私は男持ちのハンケチを一ダースひき当てました。もっともそのハンケチというのが、何かの広告ででもあるのか、藍で大きく「国の光」と染め出してあるのです。母がそれを見て、 「夏目さんに絹の細紐を上げても悪いから、そのハンケチと取りかえてあげたら」 と申しますので、別室で一人でくつろいでいるところへ参りまして、 「母がそんな紐ではお気の毒だと申しますから、これとお取りかえいたししましょう」 とハンケチを差し出しますと、 「そうですか」 とすまして交換してゆきました。後で申すのには、あの時は紐のほうがよっぽどよかった。あのハンケチじゃしかたがない。おおかた兄貴の子供のおしめにでもしただろうって悪口をいっていましたが、あの人の文運がひらけて、今では一つの国の光になったことの運命を、僭越ながらなんだかその時に私の手で暗示したように感じられもするのであります。(夏目鏡子 漱石の思い出)
2022.11.11
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依例新年の御慶目出度申納候。小生事去月二十七日出京、四五日まで滞京の積。その内参堂致す覚悟に御座候処、種々多忙にまぎれ居候、処御書面頂戴恐縮の至に存候。しかるに来る三日午後一時過よりは久々にて友人宅にて俳句会相催す約束有之。残念ながらこれまた出席仕りがたく候。四日なれば閑暇に御座候。五日にても都合出来可申と存候。しかし立花兄も御出京中のことと承わりおり、かつ諸君子の御都合も可有之。小生一人の為め延会相願候も甚だ恐縮の至につき、御かまいなく御開会の程、希望致候。(明治29年1月1日 狩野亨吉宛手紙)
2022.11.10
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明治二十八年十二月二十八日のことでございます。 そのころ私たちは虎ノ門の官舎に移っておりまして、矢来のほうには祖父さんが住んでおりました。家族は父母、私、時子、倫、梅子、豊子、壮任の六人兄弟姉妹、雇人は書生三人、女中三人、抱え俥夫一人の相当の大人数で、官舎は西洋館日本館両方あって、それでも電灯がついたり、当時にはめずらしい電話があったりしていました。電話などでも両耳に受話器をあてて、まん中にベルのボタンがあるという、今からおもえば骨董品でした。見合いの部屋は父が書斎につかっている洋館二階の二十畳の畳の敷いてある部屋で、ともかくもそこにはストーブもとりつけてありました。…… それからもう一つ、引き物に大きな鯛の塩焼きがでると、夏目はいきなり鯛の横腹にぽくりと一箸たてて穴をあけました。一箸喰べただけでどうおもったか、それきり箸をつけません。それがどういうものか鮮やかに目に残っていましたので、結婚後そのことを申しますと、 「あれを折詰めにしてもらってかえったところが、蓋をあけて見た兄貴が、これはどうしたんだというから、一口たべたんだがあんまり大きいんでやめにしたんだというと、引き物に箸をつけるやつがあるもんか、お嫁さんに嫌われるぞと叱られたっけ」 と、自分でもよく覚えていて、よほどおかしかったと見えて笑っていました。がそれはいいとしてなによりも好奇心も手伝って兄さんたちの気になってるのは見合いの一件です。そこでどうだった、気に入ったかとか何とか兄さんたちがよってたかつて訊ねますと、歯並みが悪くてそうしてきたないのに、それをしいて隠そうともせず平気でいるところがたいへん気に入ったと申しましたので、みんなで妙なところが気に入る人だ。だから金ちゃんは変人だよと笑われたそうです。(夏目鏡子 漱石の思い出)
2022.11.09
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祖父の碁敵に小宮山という方があって、その方が時々石を囲みに祖父のところに見えるのでした。小宮山さんは郵便局に勤めていられ、その同僚に夏目の兄さんがおられた。ところが小宮山さんの奥さんというのが、御近所で築田の伯母さんとお友達だというぐあいで、妙なところからつながりができているところへ、小宮山さんが祖父の部屋へいらっしゃると、ちょうどそれと小庭を隔てて向かい合ってる私たちの子供部屋に、年ごろの娘が見える。夏目の弟さんの話も聞いているので、どんなものだろうといったぐあいで、まず小宮山の奥さんから築田の伯母に話がある、伯母さんから父や母に橋渡しをするといった筋道で、先方のこともこちらのことも案外お互いに手っ取り早くわかりました。そこで父が各方面へ夏目のことを問い合わせると、たいそう評判がよろしい。 ある日父に連れられて鎌倉かへ行こうというので汽車にのりますと、以前その人にやろうかなどと縁談さえあって、好酒家だからというので沙汰やみになった高田源二郎という方にひょっこりお逢いしました。まだお若い法学士で、そのころ鉄道の方へ出ていられて、前々から父と識った仲です。私はだまってきいていますと、父が高田さんに訊ねております。 「きみ、文科出の夏目金之助という男を識ってるかね。どんな男だろう」 「よくは知りませんが、なんでも学校でもたいへん評判のいい男でした」 「実は縁談が持ち上がっているんだがね」 「ええ、それじゃよくしらべてあげましょう。お安いご用ですから」 いろいろ調べてもらったところが、たいそう評判がいい。父も乗り気になって、まず写真の交換をしようということになりました。そこでこちらは新し橋のところの丸木利陽で写真を撮って送り、先方からも日ならずして写真が届きました。(夏目鏡子 漱石の思い出)
2022.11.08
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○御所柿を食いしこと 明治廿八年神戸の病院を出て須磨や故郷とぶらついた末に、東京へ帰ろうとして大坂まで来たのは十月の末であったと思う。その時は腰の病のおこり始めた時で少し歩くのに困難を感じたが、奈良へ遊ぼうと思うて、病を推して出掛けて行た。三日ほど奈良に滞留の間は幸に病気も強くならんので余は面白く見る事が出来た。この時は柿が盛になっておる時で、奈良にも奈良近辺の村にも柿の林が見えて何ともいえない趣であった。柿などというものは従来詩人にも歌よみにも見離されておるもので、ことに奈良に柿を配合するというようなことは思いもよらなかったことである。余はこの新たらしい配合を見つけ出して非常に嬉しかった。ある夜夕飯も過ぎて後、宿屋の下女にまだ御所柿は食えまいかというと、もうありますという。余は国を出てから十年ほどの間御所柿を食った事がないので非常に恋しかったから、早速沢山持て来いと命じた。やがて下女は直径一尺五寸もありそうな錦手の大丼鉢に山の如く柿を盛てきた。さすが柿好きの余も驚いた。それから下女は余のために庖丁を取て柿をむいでくれる様子である。余は柿も食いたいのであるがしかし暫しの間は柿をむいでいる女のややうつむいている顔にほれぼれと見とれていた。この女は年は十六、七位で、色は雪の如く白くて、目鼻立まで申分のないように出来ておる。生れは何処かと聞くと、月か瀬の者だというので余は梅の精霊でもあるまいかと思うた。やがて柿はむけた。余はそれを食うていると彼は更に他の柿をむいでいる。柿も旨い、場所もいい。余はうっとりとしているとボーンという釣鐘の音が一つ聞こえた。彼女は、オヤ初夜が鳴るというてなお柿をむきつづけている。余にはこの初夜というのが非常に珍らしく面白かったのである。あれはどこの鐘かと聞くと、東大寺の大釣鐘が初夜を打つのであるという。東大寺がこの頭の上にあるかと尋ねると、すぐそこですという。余が不思議そうにしていたので、女は室の外の板間に出て、そこの中障子を明けて見せた。なるほど東大寺は自分の頭の上に当ってある位である。何日の月であったかそこらの荒れたる木立の上を淋しそうに照してある。下女は更に向うを指して、大仏のお堂の後ろのおそこの処へ来て夜は鹿が鳴きますからよく聞こえます、という事であった。(くだもの 「ホトトギス」明治34年4月25日)
2022.11.07
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翌十八日午後予は三津浜に子規をたずねた。他の松風会員もすでに見えていた。その人員が幾名であったか、これまた子規の遺吟によって知るを得るが、その人名は判明しない。けだし前夜花廼舎に出席した人々のうちであったろう。「諸友に三津まで送られて……酒あり飯あり十有一人秋の暮」「留別……十一人一人となつて秋の昨」らに見れば我々の数は十名であったのである。久保田回漕店の客室は一間十畳位のものが四五室並んでいて、その緑先に砂浜を隔てて瀬戸内海が見えているのであるが、子規はその中ほどの室に陣取っていた。作句もし揮毫などもして、夕刻に至り晩餐の饗応をうけた。「酒あり飯あり」はその光景である。かくするほどに、終列車の時間が迫ったと店からの注意をうけて、つきぬ名残を惜みつつ我々一同は子規と袂を分った。時間は十時位であったろうか。 句集寒山落木の明治二十八年の部の表紙裏に「十月十九日松山発広島、須磨を経て大阪に至り奈良に遊ぶ、十月三十日帰京」と彼は記している。その松山発は三津浜発のことである、当時三津浜は松山藩の玄関口、出入口であったので三津を発つことを松山を発つといったのである。これぞ子規が郷里松山の見納めであった。(柳原極堂 友人子規)
2022.11.06
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それから大将は昼になると蒲焼きを取り寄せて御承知の通りぴちゃぴちゃと音をさせて食う。それも相談もなく、自分で勝手に命じて勝手に食う。まだ他の御馳走も取り寄せて食ったようであったが、僕は蒲焼のことを一番よく覚えている。それから東京へ帰る時分に、君払ってくれたまえといって澄して帰って行った。僕もこれには驚いた。その上まだ金を貸せという。何でも十円かそこら持って行ったと覚えている。それから帰りに奈良へ寄ってそこから手紙をよこして、恩借の金子は当地においてまさに遣い果たし候とか何とか書いていた。恐らく一晩で遣ってしまったものであろう。(談話・正岡子規)
2022.11.05
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漱石は、子規が自分の下宿にいる間は、俳句という新しい世界も開けたのだから、楽しかった。しかし、その子規は十月十九日には、立って東京へ行ってしまった。俳句は自分の前に残されていても、漱石は、恐らく以前よりも一府、松山にいることを寂しく、東京への憧がれを切実に、身に泌みて惑じたに違いない。(小宮豊隆 夏目漱石)
2022.11.04
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十月十四五日になって子規はモウ帰京したいといい出した。秋もはや晩れで初冬に入りかけた十月の半であるから、帰心に駆らるるその心中は大に察すべきであるが、我々としてはいつまでも松山にいてくれるような気でうかうか過ごしてきたのだから、大に狼狽したが致し方がない。 そこで松風会員は申合して十七日(本当は12日)の午後に二番町の花廼舎という料亭で送別会を催すことにした。花廼舎は梅の家の東隣で大きな黒門のある家であった。今もなお残っている(現存せず)。十七日は神嘗祭で職務を持つ会員のために祭日を選びしわけである。白石南竹氏の当日の送別句が「十月十七日君が離別の宴を張る」というのであって、これが当時の地方新間に他の会員の送別句とともに遣っているから、その送別会が十七日であったことは少しも疑を容るる余地がない。南竹の日く「私は送別句をいろいろ考えてみたが終に出来なかったので、やむを得ず事実そのままを句にしていささかか責をふさいだのであったが、それが今日有用な資料となったとは実に意外の仕合である」と。 十月十七日の午後花廼舎の松山城山に面した広間で子規のために送別会を開いた。この春の明治楼の場合に見た芸妓小万がこの日も杯盤の問に周旋していた。当日の会員が幾名でその顔ぶれが誰々というようなことは我々には記録の残っているものがないが、子規がその席上で戯に害き捨てた左の夜寒の三句が遺っているため、人員は十八名であったことを知りうる。その夜寒の句というは「十八人女とりまく夜寒哉……男十八人女一人の夜寒哉…男十八人女とりまく夜寒かな」である。半紙一枚にこの三句が大きく記された。女一人とは無論小万のことである。子規はその会員の雅号を一々詠みこみし十七句を書き遺している。(柳原極堂 友人子規)
2022.11.03
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散策集に「明治廿八年十月六日……今日は日曜なり、また天気は快晴なり、病気は軽快なり。遊志勃然、漱石とともに道後に遊ぶ、三層楼中天に聳えて来浴の旅人ひきもきらず……温泉楼上眺望……柿の木にとりまかれがる温泉哉……」と記されている。一足飛びに温泉の句を示してその途中吟を欠くは想うに道後鉄道によって往復し、ために沿道の風光に接するの遑なかりしものか。この歳八月道後松山間の短距離を往復する軽便鉄道開通し、すでに公衆の利便に供せられつつあったのである。次に「鷺谷に向う」と記されている。浴後、道を北に取り鷺谷共同墓地に入ったのである。「しる人の墓を尋ねけるに、四五年の月日は北郊の山墳築を増して、ついに見あたらず……花芒墓いずれとも見定めず……」とあるは、例の曽祖母小島久の墓を尋ねたものである。「引き返して鴉渓の花月亭といえるに遊ぴぬ」とあるがその花月亭は逍後八幡宮下、今の鮒屋旅館のあたりに、渓流に沿うて三四の小亭を有したるささやかな料亭であったが、今はなくなった。「亭ところどころ渓に橋ある紅葉哉」はそのところの句であろう。また花月亭を出で八幡宮下を北に曲り、遊廓松ヶ枝町を東に上って、一遍上人の誕生地なる宝厳寺に詣で、「山門に腰うちかけて……色里や十歩はなれて秋の風……」と詠嘆している。当時の道後名物といえば湯ざらしもぐさ、煎餅(ぬか製の粗末なもの、今も一二これを販売する店あり)甘酒、あんころ餅、団子等々、その団子は漱石の好物、小説「坊ちゃん」のうちにも出ている位のものだから、彼らは定めて団子店にも入ったろうと想像せらる。「帰路大街道の芝居小屋に立ちまりて、漱石てには狂言見んという、立ちよれば今箙の半ば頃なり」と記されている。その芝居小屋は今の新栄座の前身にて後改築されたのである。京都の泉祐三郎一座が能狂言へ舞踊を加味したるものを「てには狂言」と称して、当時この小屋に興行中であった。その、一座中に小さくという二十歳ばかりの女役者ありしが、これが子規の意にかないしか「小さくといえる役者の女ながらも天晴腕前なりけるに……男郎花は男にばけし女哉……」と嘆賞している。その後も一両度そのてには狂言を見しものの如く、久保より江夫人が鶏頭誌に寄せられし「二番町の家」のうちに、「照葉狂言がすきだというのでいつも連れて行って下すった」と記されている。照葉狂言はてにはのことである。(柳原極堂 友人子規)
2022.11.02
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霽月とは何等関係も無くしてしかも隠然霽月と対臆する者を漱石とす。漱石は明治二十八年始めて俳句をつくる。始めてつくる時より既に意匠において句法において特色を見わせり。その意匠極めて斬新なるもの、奇想天外より来たりしもの多し。 永き日や韋陀を講ずる博士あり 漱石 此土手で迫ひ剥がれしか初桜 同 蘭の香や聖教帖を習はんか 同 累々と徳孤ならずの蜜柑かな 同化して黄色にならう蜜柑畑…… 漱石また滑稽思想を有す。 出代の花と答へて涙なり 漱石 南瓜と名にうたはれてゆがみけり 同…… の如し。また漱石の句法に特色あり。あるいは漢語を用い、あるいは俗語を用い、あるいは奇なる言いまわしをなす。 冴え返る頃をお厭ひなさるべし 漱石 明月や丸きは僧の影法師 同…… しかれども漱石また一方に偏する者にあらず。滑稽をもって唯一の趣向となし、奇警人を驚かすをもって高しとするが如き者と日を同じゅうして語るべきにあらず。その句雄健なるものはどこまでも雄健に、真面目なるものはどこまでもも真面目なり。 短夜の芭蕉は伸びてしまひげり 漱石 王章や袖裏返す土用干 同(正岡子規 明治二十九年の俳句界)
2022.11.01
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松山地方において、新派俳句に共鳴してこれが研究を始めたるは明治二十七年春である。…… 明治二十八年三月三日、子規は従軍記者として東京を出発し広島を経由して十三日、松山に帰り叔父大原恒の邸に投せられた。余ら(松風会会員)同人数名とともに、その邸を叩きて日本派俳旬につきて教えを請いしに、居士は快くこれを容れられ、日夜懇篤に教示を与えられた。従軍の途次のため、僅かに数日を出でずして十八日名残惜しくも袂を分かって広島に送ることとなった。…… その熱誠と懇切は到底凡人の企及する能わざる所であった。かくて松風会は日に月に盛況を呈し(御手洗)不迷、三鼠(岡村恒元)、其山(天野義一郎)、森盲天外らまた参加して松風会の名漸次世間に喧伝せらるるようになった。(野間叟柳 松山地方における日本派俳旬研究の起源と子規居士)
2022.10.31
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なんでも僕が松山にいた時分、子規は支那から帰ってきて僕のところへ遣ってきた。自分のうちへ行くのかと思ったら、自分のうちへも行かず親族のうちへも行かず、ここにいるのだという。僕が承知もしないうちに、当人一人できめている。御承知の通り僕は上野の裏座敷を借りていたので、二階と下、合せて四間あった。上野の人がしきりに止める。正岡さんは肺病だそうだから伝染するといけないおよしなさいとしきりにいう。僕も多少気味が悪かった。けれども断わらんでもいいと、かまわずに置く。僕は二階にいる、大将は下にいる。そのうち松山中の俳句を遣る門下生が集まってくる。僕が学校から帰って見ると、毎日のように多勢来ている。僕は本を読むこともどうすることもできん。もっとも当時はあまり本を読む方でもなかったが、とにかく自分の時間というものがないのだから、やむを得ず俳句をつくった。(談話・正岡子規)
2022.10.30
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初めて漱石さんに会ったのは、明治二十八年夏であった。漱石さんは伊予松山市の中学校の先生として松山二番町のある家に下宿していた。暑休で帰省した私は、ある日その下宿へ訪ねてみた。喜んで二階の狭い書斎へ請じ、いろいろお話も承っているうちに夕方になったので帰ろうとすると、まあいいじゃないか、洋食を御馳走するよと言って、下へおりて行って何やら命ぜられるようであった。実は私はそれまで洋食を食うたことが無いのであったから、有難いと思って言われるままに留まっていた。やがて洋食の皿が二階へ運ばれた。シチューとハヤシライスの二品であった。その頃は松山にただ一軒のアザヰという牛肉兼西洋料理屋からわざわざ取寄せられたのであった。私は如何にも後輩に親切な人だと、しみじみ感じた。そのうちこの下宿へは、須磨に療養していた子規居士が帰省して、もぐり込んだ。私は南予の旅に出て松山を離れていた。(寒川鼠骨 正岡子規の世界)
2022.10.29
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日本にラファエルとかヴェラスケスのような人間が出て、西洋に歌麿や北斎のごとき豪傑があらわれるでしょうか。ちと無理なようであります。それよりも適当な解釈は、西洋にラファエルやヴェラスケスが出たればこそ今日のような歴史が成立し、また歌麿や北斎が日本に生れたから、浮世絵の歴史がああいう風になったと逆に論じて行く方がよくはないかと存じます。したがってラファエルが一人出なかったら、西洋の絵画史はそれだけ変化を受けるし、歌麿がいなかったら、風俗画の様子もよほど趣が異なっているでしょう。すると同じ絵の歴史でもラファエルが出ると出ないとで二通り出来上ります。(事実が一通り、想像が一通り)風俗画の方もその通り、歌麿のあるなしで事実の歴史以外にもう一つ想像史が成立する訳であります。ところでこのラファエルや歌麿は必ず出て来なければならない人間であろうか。神の思召おぼしめしだといえばそれまでだが、もしそういう御幣を担がずに考えて見ると、三分の二は僥倖で生れたと云っても差支えない。もしラファエルの母が、ラファエルの父の所へ嫁に行く代りにほかの男へ嫁とついだら、もうラファエルは生れっこない。ラファエルが小さい時腕でも挫いたら、もう画工にはなれない。父母が坊主にでもしてしまったら、やはりあれだけの事業はできない。よしあれだけの事業をしても生涯人に知らせなかったらけっして後世には残らない。して見ると西洋の絵画史が今日の有様になっているのは、まことに危うい、綱渡りと同じような芸当をして来た結果といわなければならないのでしょう。少しでも金合が狂えばすぐほかの歴史になってしまう。議論としてはまだ不充分かも知れませんが実際的には、前にいったような意味から帰納して絵画の歴史は無数無限にある、西洋の絵画史はその一筋である、日本の風俗画の歴史も単にその一筋に過ぎないということがいわれるように思います。(創作家の態度)
2022.10.28
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