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リンクや健康やカラオケなどリンクシンプルにしようと言う単純な意図で交流の少ないリンク(コメントをあまりいただいていない、など)をカットして「楽天ブログ」というファイルに収容time to time 覗くと言う事にしたのだがーーーー実際には残ったリンクしているブログでさえそう頻繁には読まないという現実がありましてやいったん別ファイルにしてしまうとそれが契機となってすっかり疎遠になってしまって(つまり、忘却圏に)ーーーー「これでは、読みたい時にも なかなか、読めないではないか?」と言う事に気が付いてーーーーややこしい事ではあるがまたもや読む可能性のある以前リンクしていたブログ達をふたたびリンクに入れることにしたーーーー毎度、何をしている事やらという事なのだがまあ、当然、みな自分の勝手なのだがーーーーそれにしても時はどんどん経って行くねAS TIME GOES BY歳を取ったな老化したなそう言う実感が諸現象がいや増すこの頃ーーーー「リンク」と言えば旧友(急に)(笑)(勝手に)(笑)リンクの皆さんどうか、できるだけ健康を保ってくださいね(祈念)出来ない事は出来ないんだけれどーーーー私も一念発起最近だがやっと、だがマッサージ院とミニジムに通い出した往復もはじめは自転車だったのだが思い立って徒歩で 歩いて通うことにした私は歩くと言う事が嫌いなのだがここは百歩譲って(笑)と言っても徒歩にしたのは今日からだが(笑)ただ歩くと言う事だけなのに脚が弱くなっていることを実感これではいけない!手遅れかも(笑)だがコロナで失われた三年間のせいで(私のひきこもりのせい でもあったのだが)遅まきながら体のケア開始BETTER THAN NOTHING 今日の実感として多少は元気になり、始めた(笑)ーーーー元気ついでに帰途カラオケ店に立ち寄りジャンカラと言う店ワイフと久しぶりに歌ったマイクとスピーカーの音が素晴らしい昔のカラオケ店とは様変わり歌っていて「私もなかなかだ」と錯覚(笑)するほど私の歌った曲・ BLUE HAWAII ELVIS PRESLEY・ BLUE CHRISTAMAS ELVIS PRESLEY・ 有楽町で逢いましょう フランク永井・ 哀愁の街に霧が降る 山田真二・ あいつ 旗輝夫・ 黄昏のビギン 水原弘 : 黒い花びら 水原弘下記の私の得意曲を歌い忘れた・ ARE YOU LONSOME TONIGHT ELVIS PRESLEY・ ALL OF ME FRANK SINATRAーーーー久しぶりに歌った感想としては私は ELVIS PRESLEY・FRANK SINATRA 等の洋楽の方がメロディーが優れていて楽に NATURAL に歌えて私の中では、少し自信がある一方日本の曲を歌うのは、難しいということ幼少時・青春時代にOLDEIES やロックンロールを聴いたり歌っていたからなのだが一方日本の歌はあまり歌ったことが無かったこれは、意外だと思われるかもしれないが意外にも(笑)私の GENERATION 年代の人間に共通している体験ではなかろうか?そう言う時代だったのだ進駐軍の影響が強かったのかもしれないまだ、演歌など、無かった時代だったしまあ、歌謡曲はあったな演歌の出現以前は歌謡曲だと音楽学校出身の歌手などがまだありえた時代だった
2024.05.22
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私が使った二台目のカメラは父が買った当時最新鋭の「アイレス」だったその前の蛇腹ブローニー版のミノルタと違ってライカ型アルミボディーの最新鋭カメラさらに「ライトバリュー」という目新しい撮影基準を提唱露出計を使っていなかった私にとってこれは便利で中学校での遠足や修学旅行には父から借りて携行した ーーー アイレス@ウィキ ーーーアイレス写真機製作所出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 アイレス写真機製作所は日本の東京都新宿区西大久保1-437[1]にかつて存在したカメラメーカーである。歴史[ソースを編集]前史、ヤルー光学[ソースを編集]前身は1949年に設立され東京都港区芝新桜田町(現西新橋)6番地[2]にあったヤルー光学(Yallu Optical Co. Ltd )である。 三橋剛は第二次世界大戦中陸軍造兵廠で兵技中尉として各種光学兵器の生産や修理の監督任務を担当し、戦後はその人脈から岡田光学製ワルタックスの販売等をしていた[3]。ある時新橋のカメラ店で中古のコンタフレックスが10万円で販売されているのを見てこれと同等の製品を作れば売れると直感しすぐさま設計に着手、1947年には二眼レフカメラの設計に没頭していたところ、岡田光学精機(後の第一光学)社長の岡田至弘から金谷相吉という韓国人企業家を紹介されて資金を得、カメラ製造に乗り出すことになった[3]。得た資金で中古旋盤を1台購入、部品の調達は造兵廠時代の人脈を生かしてレンズは小西六(後コニカを経て現コニカミノルタ)のヘキサー50mmF3.5、シャッターはセイコーシャを入手した[3]。事務所は新橋田村町に置き、会社名はヤルー光学、カメラはヤルーフレックスと命名された[3]。ヤルーは金谷相吉の故郷にある鴨緑江の中国名に由来する[3]。1947年7月にはレントゲン用フィルムの生産を優先するため連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)からロールフィルム生産禁止命令が出て120フィルムや127フィルムを使用するカメラの需要が減退していたことも、このカメラの開発を後押しすることになった[3]。 1949年に発表され[4]、アサヒカメラ復刊号となる1949年10月号から1950年4月号まで計7回の広告を出し、パンフレットまで用意したが、生産販売には移行しなかった[3]。当時販売されていたどのカメラより構造が複雑で、資材インフレが進んでいた当時もし本格生産に移行していれば作っただけ赤字が増えただろうと萩谷剛は推測している[3]。また1949年にはロールフィルムの生産禁止も解除されていた[3]。 会社は一旦整理された[4]。 6×6cm判二眼レフカメラで創業[ソースを編集]三橋剛は機構がシンプルで製作が容易な6×6cm判二眼レフカメラこそが進むべき道だと考え[3]、社員の小寺桂次が田村町の事務所でローライコードの部品を図面に写し[3]、何度かの試作を経て[3]アイレス写真機製作所を1950年8月に創立[3]、1950年9月[3]に最初のカメラとして6×6cm判二眼レフカメラのアイレスフレックスYIを発売した[3]。折から日本では二眼レフカメラのブームが始まり、この波に乗ってアイレスフレックスシリーズの販売は好調なすべり出しをみせた。 24×36mm判レンジファインダーカメラに移行[ソースを編集]二眼レフカメラの売れ行きは好調だったが、三橋剛以下カメラ開発スタッフの決断で1954年6月にアイレス35を発売した[3]。1954年4月のライカM3発表にあたり三橋剛は昔造兵廠で「11S」と呼ばれていた戦闘機機関砲用照準具と同じ機構であることに着目し、その光学系を利用したブライトフレームを持つ二重像合致式距離計ファインダーを設計してアイレス35IIとして発売、このファインダーは「トリミングファインダー」と呼ばれて好評を博し、35mmカメラの分野でもアイレスの地位が確立した[3]。 火災[ソースを編集]1956年2月カメラ組立部門であった第一工場で若い工員が溶剤を持ったままダルマストーブのそばで転倒し、火災となって第一工場は全焼した[3]。すぐに代替地を検討し新宿区西大久保1丁目にあった4階建ての元倉庫兼工場に移転、1956年7月には落成式を行った[3]。ベルトコンベアを導入して生産能力も完全に復活、幸いアイレス35シリーズの販売は好調であった[3]。 倒産[ソースを編集]1957年2月に三橋剛と小寺桂次は次のステップとしてレンズ交換式カメラを考え、アイレス35Vの設計を始めた[3]。萩谷剛はレチナが念頭にあったのではないかと推測している[3]。当時のユーザーの要求をすべて具現化したが売れ行きは良くなく、その後次々新製品を出すが事業継続不能に陥り、1960年7月[3]に倒産[3]し会社更生法の適用を受けた[3]。 レンズブランド[ソースを編集]レンズブランドは当初はエクセルシオであった。またオリンパス光学工業(現オリンパス)のズイコーや日本光学工業(現ニコン)のニッコールも使用していた。昭和光機を傘下に入れてからは同社のコーラルを使用するようになった。コーラルレンズにはレンズ枚数記号がついているが、表記は日本光学のニッコールについているものとほぼ同じであり、Qが4枚、Pが5枚、Hが6枚、Sが7枚である。また無記号のものは3枚である。 製品一覧[ソースを編集]120フィルム使用カメラ[ソースを編集]二眼レフカメラ[ソースを編集]オリンパスのズイコーや日本光学(現ニコン)のニッコール等の優秀なレンズを装備し、1950年代の二眼レフカメラブームを表す言葉「AからZまでカメラメーカーの名前があった」の"A"を代表するカメラとなった[5]。ニッコールクラブの会員数で一時期一位だったこともある[要出典]。 ヤルーレフレックス60 - 。『アサヒカメラ』1950年1月号に掲載されたヤルー光学の1ページ広告に「"6×6"cm」のカメラに関する記述があり、レンズはズイコー7.5cmF3.5、シャッターはセイコーラピッドB、1-1/500秒とされている[2]。『アサヒカメラ』1950年2月号で「ヤルーフレックス60」の名称が出て4月号まで掲載されたが、それ以後ヤルー光学の広告は消え、未だ設計試作段階だったと思われるこのカメラは次のアイレスレフレックス開発に引き継がれた[2]。6×6cm判[5]。アイレスレフレックスYまたはアイレスレフレックスYI(1950年10月頃[4]発売) - 1950年9月に紹介されたがこの時点でシャッターは決定しておらず、1951年1月号の『アサヒカメラ』誌上の新製品紹介でもシャッターの記述はなく、同号広告や他誌でも「プロンター型」との記述があるのみであった[2]。エクセルシオ75mmF3.5付。ピント合わせは前板繰り出し[5]、フィルム巻き上げは自動巻止め等当時としては高級な仕様であった[5]。アイレスレフレックスYII(1951年3月頃[4]または1952年[5]発売) - 銘板は「Airesreflex」で、この機種までアルミニウム板[5]。大型ルーペを起こすのがレバーに変更された[5]。。エクセルシオ75mmF3.5付[5][4]。シャッターはセルフタイマーつきのNKK[5][4]製ウェスター[4]、シャッター速度はB、1-1/200秒[5][4]。アイレスレフレックスYIII(1951年9月発売) - セミオートマット。エクセルシオ75mmF3.5付。アイレスフレックスU - アイレスレフレックスYIIIまでのレンズ周囲のギザつきリングがなくなり、すっきりしたデザインとなった[5]。レンズとシャッターの組み合わせはズイコー/セイコーシャ、ズイコー/コパルS、コーラル/コパルSがある[5]。アイレスフレックスUS(1951年9月発売) - ズイコーFC75mmF3.5装着。以降銘板が「AIRESFLEX」に統一される。アイレスフレックスZ - 国内向けは「Airesflex」銘板、輸出向けは「AIRES reflex」銘板。シャッターユニットは当時国産最高級のセイコーシャ・ラピッドを採用。 アイレスフレックスZニッコール付き(1951年9月発売) - 二眼レフカメラブームが到来すると数多くの大小メーカーが乱立して乱売合戦を繰り広げるようになった。その中で抜きん出た特徴を出そうと考えていた[3]アイレスは、独自性を求めていた設計者三橋剛が[3]戦時中日本光学工業(現ニコン)戸塚工場の監督官をしていた[3]つながりから大井製作所長を退任した五代正友を入社させ[3]、ニッコールレンズ採用に成功[3]、最上位機種にニッコールQ75mmF3.5レンズを装着して登場した。日本光学工業はレンズを供給するに当たりボディ側の精度や品質などが日本光学工業の自社基準に合致することを求め[3]、後年社長となる小秋元隆輝を中心として光学的検査器具を導入したり技術指導をし[3]、これがアイレス写真機製作所の技術力を大幅に向上させることにつながった[3][4]。発売時の価格は42,000円と当時の二眼レフカメラの中ではかなり高価だったが、ニッコールレンズの知名度の効果もあり市場に好評に迎えられた[4]。米国ではシアーズローバックでタワーレフレックス(Tower Reflex )としてニッコール付のみが供給され、レンズまわりがバヨネットではないなどの違いがあるが中身は同じものである。アイレスフレックスZズイコー付き(1952年6月発売) - 当時は日本光学工業としても硝子材料の不足などから製造可能なレンズの本数に限界があり、そのため肝心のニッコールレンズの供給量が充分でなく[4]、オリンパス光学工業(現オリンパス)製のズイコー75mmF3.5を備えた下位モデル。アイレスフレックスZコーラル付き(1952年7月発売) - 当時は日本光学としても硝子材料の不足などから製造可能なレンズの本数に限界があり、そのため肝心のニッコールレンズの供給量が充分でなく[4]、傘下の昭和光機製コーラル75mmF3.5を備えた下位モデル。アイレスフレックス銘ではコーラル付が輸出向けだった模様。アイレスフレックスUC(1952年末発売) - ズイコーFC75mmF3.5装着。アイレスフレックスUT(1953年3月発売、コーラル付き) - コーラル75mmF3.5装着。アイレスフレックスUA(1953年7月発売) - コーラル75mmF3.5装着。アイレスオートマット(1954年発売) - ニッコールQ75mmF3.5またはズイコーFC75mmF3.5またはコーラル75mmF3.5装着。コーラル装着モデルのみ輸出専用である。名称はオートマットであるがセミオートマットである[5]。クランク巻き上げ。銘板は「AIRES Automat」。アイレスフレックスIV - コーラル75mmF3.5装着。アイレスフレックスIVSA - トリノックス75mmF3.5付、輸出専用。スプリングカメラ[ソースを編集]ヴァイスロイ(Viceroy 、1957年発表[3]、輸出専用機[3][4])- 距離計連動式。6×6cm判と6×4.5cm判兼用[4]。シャッターは00番セイコーシャMX[4]、レンズは3群4枚のニッコールQ75mmF3.5[4]または3群3枚のコーラル75mmF3.5[4]。アタッチメントはφ30.5mmねじ込みまたはφ32mmカブセ[4]。フィルム送りはノブによる赤窓式[4]。日本国内ではすでに35mm判カメラに押されて120フィルムを使用するスプリングカメラは需要が減退していた時期に当たるが、未だ輸出用には根強い人気があり、服部豊は海外バイヤーからの要求に応じたものと推測している[4]。群馬県高崎市にあった高嶺光学のミネシックスのボディーを流用し、アイレス35IIと同等の連動距離計とブライトフレーム入りファインダーを載せたもの[4]。135フィルム使用カメラ[ソースを編集]二眼レフカメラ[ソースを編集]ヤルー35[注釈 1](YALLU-35 、1949年[4]発表、1950年[5][2]試作[2]) - ヤルー光学時代の製品。「ヤルーフレックス[5]」と表記される場合もある。コンタフレックスを模範としているが技術的にはかなり違うアプローチを取っている[4]。世界的に見ても数少ない24×36mm(ライカ)判二眼レフカメラの一つ[4]。三橋剛によると[3]ヤルーフレックスは50台ほど組み立てられた[3][4][5]というが、各種バリエーションがありほとんど手作りの域を出ておらず実際に販売もされなかったようだという[3][4]。独特のデザインの35mm判二眼レフカメラとして世界的に有名[5]で、クラシックカメラコレクター垂涎のカメラ[5]。巻き上げレバーは底にある[5][4]。ボディーはダイカスト[5]。レンズはコーティングされた3群4枚ヘキサー50mmF3.5[4]。数年前[いつ?]にウィーンのヴェストリスト・フォトグラフィカ・オークションに登場した時、約500万円の落札価格がついた[要出典]。レンズはヘキサー[2][5]5cmF3.5[2]、シャッターはセイコーシャラピッドB、1-1/500秒[4][2]。ピント調整は背面のノブによる[5][2][4]。コンパクトカメラ[ソースを編集]アイレス35I(1954年5月[6]または6月[4]発売) - アイレスが作った最初の本格的24×36mm(ライカ)判カメラで、アイレス唯一の目測式[6]カメラである 。レンズは3群3枚[4]コーラル45mmF3.5[6][4]、シャッターはセイコーシャラピッド[6][4]。当時この種の35mmレンズシャッター付きカメラで先行していたトプコン、ロード、オリンパス等が小型路線を採っていたのに対し、コニカと同様の大型カメラであった[4]。アイレス35II(1954年10月[6][4]発売) - エルンスト・ライツ(現ライカ)製ライカM3に触発されて開発され、国産初のブライトフレームをファインダーに装備したカメラ[6][4]で、これが受けてベストセラーとなった[6]。距離計はファインダーに組み込まれたが、パララックスは自動補正されない[6]。レンズはコーラル45mmF3.2[6]、シャッターはセイコーシャラピッド[6]。アイレス35III(1955年10月[6][4]発売) - アイレス35IIのシャッターをセルフコッキング[6][4]に改良、レバー巻き上げ[6][4]/カウンター自動復帰化[4]。レンズはHコーラル45mmF2に大口径化[6][4]され、描写の評判も良かった[4]。アイレス35IIA(1955年10月[4]または12月[6]発売) - アイレス35IIにボディレリーズ機構を付け、シャッターをセイコーシャMXに改めたもの。ノブ巻上げ・手動復帰フィルムカウンター最終機種。レンズはQコーラル45mmF2.8[6]または50mmF2.8[4]。アイレス35IIIA(1956年10月[6][4]発売) - アイレス35IIIのレンズを3群4枚[4]Qコーラル45mmF2.8[4]に変更、巻き戻しクランクを装備した[4]。アイレス35IIIL(1957年3月[6][4]発売) - アイレス35IIIAのレンズを4群6枚[4]Hコーラル45mmF1.9[4]に変更し、ライトバリュー式のセイコーシャMXLシャッターを装備した[4]もの。アイレス35IIIB(1957年3月[6]発売) - アイレス35IIILのレンズ違いモデル。Qコーラル45mmF3.2付。アイレス35IIIC(1957年9月[6]発売) - これまでのシリーズのイメージを一新[4]し、エルンスト・ライツ(現ライカ)製ライカM3にそっくりの外観となった[2][4]。パララックス自動補正[7]。レンズはPコーラル45mmF2.4付とHコーラル45mmF1.9[7][2]付がある。アイレス35V(1958年9月[6][1][注釈 2]または10月[8][4]発売) - 専用バヨネットマウントによるレンズ交換式[8]。当時レンズ交換可能なレンズシャッター式レンジファインダーカメラではフォクトレンダー製プロミネント35用ノクトン50mmF1.5と並ぶ最高速[1]であった7枚構成Sコーラル45mmF1.5[8][4][1]と、6枚構成Hコーラル45mmF1.8[4]がある。交換レンズには最短撮影距離0.8m[8]の3群4枚[4]Wコーラル35mmF3.2[8][4][1]と最短撮影距離2m[8]の3群5枚[4]Tコーラル100mmF3.5[8][4][1]がある。シャッターはビハインド式で、セイコーシャMX[1][4]ながら大口径レンズを装着するため#0番シャッター[1][4]であり、最高速度が1/400秒[8][1]になっている。非連動式ながらアイレス初の露出計を搭載していた[1]。ファインダーは採光式ブライトフレームファインダーで35mm、45mm、100mmの枠が表示されている[8][注釈 3]。アイレス35IIIS(1958年11月[6]または12月[4]発売) - アイレス35Vを元に固定レンズ化[4]。Hコーラル45mmF1.8[4]付、セイコーSLVシャッター[4]搭載。アイレス35IIISA(1959年3月[6][4]発売) - アイレス35IIISの露出計を省略したモデル[6][4]。レンズはHコーラル45mmF1.8[6]。アイレスバイカウント(Aires Viscount 、1959年4月[4]発売) - レンズは当初Qコーラル45mmF2.8[4]のみで、6月にHコーラル45mmF1.9月モデルが追加された[4]。シャッターはセイコーシャSLV。倒産後の1960年末から1年ほど大沢商会が販売した[4]。アイレスM28(Aires M28 、1960年発売) - レンズはQコーラル45mmF2.8。シャッターはセイコーシャSLV。アイレスで初めて連動露出計を搭載したカメラ。アイレスレーダーアイ(Aires Radar-Eye 、1960年発売) - レンズはHコーラル45mmF1.9。シャッターは最高シャッター速度1/1000秒のセイコーシャSLS。定点合致式連動露出計付。一眼レフカメラ[ソースを編集]アイレスペンタ35(1959年10月発売) - レンズシャッター式一眼レフカメラでシャッターはセイコーシャSLV。レンズはQコーラル45mmF2.8付とHコーラル45mmF2付がある。レンズの交換はできず、交換レンズの代わりに広角36mmF4で最短撮影距離0.49m、望遠90mmF4で最短撮影距離2mになるフロントコンバージョンレンズと、接写用アタッチメントレンズが発売された。アイレスペンタ35E - アイレスペンタ35に非連動露出計を搭載したもの。レンズはQコーラル45mmF2.8付とHコーラル45mmF2付がある。アイレスエバー - アイレスペンタ35を改名したもので、アイレス倒産後に服部時計店から発売された。レンズはQコーラル45mmF2.8付、Qコーラル50mmF2付、Hコーラル50mmF2付などがある。注釈[ソースを編集]^ 現物銘板には"YALLU"のみ。『アサヒカメラ』1950年1月広告には"YALLU-35(MODEL I)"とある。 ^ 『アサヒカメラ1958年9月号』p.195は発売予定とする。 ^ 『アサヒカメラ1958年9月号』p.195は「視野全体で見ると35ミリ、外側のブライトフレームで45ミリ、内側のもので100ミリの撮影を行う」とするが、発売前の未確認情報なので併記しなかった。 出典[ソースを編集][ヘルプ]^ a b c d e f g h i j 『アサヒカメラ1958年9月号』p.195。 ^ a b c d e f g h i j k l 『クラシックカメラ専科No.23、名レンズを探せ!トプコン35mmレンズシャッター一眼レフの系譜』pp.126-127。 ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al 『クラシックカメラ専科No.22、アイレスのすべて/アトム判カメラの世界』pp.4-7「アイレスのすべて」。 ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am an ao ap aq ar as at au av aw ax ay az ba bb bc bd be bf bg bh bi bj bk bl bm bn bo bp bq br bs bt bu bv 『クラシックカメラ専科No.22、アイレスのすべて/アトム判カメラの世界』pp.8-19「アイレスカメラのすべて」。 ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v 『クラシックカメラ専科No.3、戦後国産カメラの歩み』p.108。 ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y 『クラシックカメラ専科No.3、戦後国産カメラの歩み』p.24。 ^ a b 『アサヒカメラ1958年9月号』p.124。 ^ a b c d e f g h i 『クラシックカメラ専科No.3、戦後国産カメラの歩み』p.40。 参考文献[ソースを編集]『アサヒカメラ1958年9月号』朝日新聞社『クラシックカメラ専科No.3、戦後国産カメラの歩み』朝日ソノラマ『クラシックカメラ専科No.22、アイレスのすべて/アトム判カメラの世界』朝日ソノラマ『クラシックカメラ専科No.23、名レンズを探せ!トプコン35mmレンズシャッター一眼レフの系譜』朝日ソノラマカテゴリ: 日本のカメラメーカー・ブランドかつて存在した日本のカメラメーカーカメラ製品の一覧1949年設立の企業経営破綻した企業(東京都)かつて存在した東京都の企業
2019.08.16
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2020.04.06
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ウクライナに大量のレオパルト1戦車、その数200両に8/13(日) 10:00配信コメント66件Forbes JAPANalex99この記事は、私の趣味記事(笑)ウクライナ軍は大量のレオパルト1A5戦車を手に入れようとしている。その数なんと200両にのぼる。1980年代にドイツが設計したレオパルト1A5の重量は40トン、乗員は4人だ。これらの戦車がウクライナの戦力としてどれだけ役立つかは、同国軍の活用方、そしてどれだけ大幅にアップグレードするかにかかっている。ドイツ政府は2月にレオパルト1A5をウクライナに輸出することを承認した。かつてレオパルト1を運用していたドイツとデンマーク、そしてオランダはウクライナに代わって少なくとも135両のレオパルト1A5の購入・改修費用を負担する計画だ。ウクライナ軍乗員のレオパルト1A5操作訓練はドイツで今春開始。そして7月下旬に最初の10両のレオパルト1A5がウクライナに到着した。第一陣の10両は新設された第44機械化旅団に配備される可能性がある。残りの戦車は4つの機械化旅団それぞれの計4つの大隊に配備できるかもしれない。今後到着が見込まれる戦車は30両で1つの大隊を編成できそうだ。ドイツ、デンマーク、オランダのコンソーシアムがレオパルト1A5の最初の大量供与に取り組んでいる間、ベルギー政府は独自に委託によるレオパルト1の供与に取り組んでいた。この取引には時間を要した。レオパルト1を製造したドイツ企業ラインメタルは今週、ベルギーの防衛企業OIPランドシステムズが所有していた50両のレオパルト1のうち、新たに30両をウクライナ向けに改修すると発表した。これにより、ウクライナに送られるレオパルト1は少なくとも165両となる。欧州各国の政府がレオパルト1をさらに探し出して確保しようとており、この数は今後も増える可能性がある。ドイツ国防委員会のマルクス・ファーバー議員は、ウクライナは今年100両、来年も100両のレオパルト1を手に入れるだろうと主張した。レオパルト1A5がウクライナで最も多い西側製の戦車になる日はそう遠くなさそうだ。ウクライナ軍は54両のレオパルト2A4、10両のスウェーデン仕様のレオパルト2A5、さらに21両のレオパルト2A6をすでに受け取ったか、まもなく受け取る予定だ。また、14両の英国製のチャレンジャー2戦車はすでに到着し、31両の米国製M-1A1エイブラムス戦車もウクライナに向かっている。レオパルト2は、6月4日に始まったウクライナ軍の反攻作戦の前線で繰り広げられている激しい戦闘に投入されている。ロシア軍はレオパルト2A4と2A6を各2両破壊し、さらに各モデルを数両ずつ損傷させた。戦闘でダメージを受けたレオパルト2A4の一部は現在ポーランドで修理中だ。このような損失にもかかわらず、ウクライナを支援する欧州の国々はレオパルト2の追加供与を約束していない。これはおそらく各国の軍がレオパルト2をまだ使用しているためだろう。加えて、スペインに保管されているもののように、使用されていないレオパルト2の状態は極めて悪い。「戦車がないよりましだ」同様に、英国もチャレンジャー2のさらなる供与を申し出ていない。おそらく、英陸軍がすでに保有しているチャレンジャー2が少なく、自国で使用するためにアップグレードしたいからだろう。何年もかかる可能性のある戦車生産ラインの新設がなければ、比較的数が多いレオパルト1や米国のM-1がウクライナ軍の主力の西側製戦車になりそうだ。M-1の数がレオパルト1を上回るかどうかは、米国がM-1を追加供与するかどうか、そしていかにすばやく供与するかにかかっている。M-1は強力な120ミリ砲と450ミリの鋼鉄とタングステンで装甲が施された本格的な戦車だが、装甲が薄いレオパルト1A5は戦車というより機動砲だ。105ミリ砲は正確で威力もほどほどあるものの、車両に張られた装甲は最も厚いところでも70ミリしかなく、ウクライナで日々展開されている戦闘には嘆かわしいほどに不十分だ。重装甲のレオパルト2が打ち負かされているなら、レオパルト1に勝ち目はない。だがそれはウクライナ軍がレオパルト1を戦車として、ロシア軍の要塞を攻撃するために機甲部隊の前に配置した場合の話だ。ウクライナ軍が遅ればせながらフランスが供与した軽量の偵察車AMX-10RCで学んだことをレオパルト1に生かせば、つまり機甲部隊の後方に配置して、安全を確保しつつ長距離砲を発射すれば、古いレオパルトでも実際にいくらか役に立つかもしれない。レオパルト1A5が徐々にウクライナ軍が運用するなかで最も一般的な戦闘車両の1つになるにつれて、ウクライナ軍はレオパルト1A5の設計の弱点を軽減するためにあらゆる手段を講じることが予想される。手始めに、レオパルト2A4で行ったように、爆発反応装甲を加えることを検討するだろう。また、火力管制に何らかのアップグレードが施される可能性がある。レオパルト1A5はすでに高精度のEMES18火力管制装置と精密な赤外線暗視装置を搭載している。だが、カメラ技術の進歩は速い。そしてEMES18は40年前のものだ。ドイツ国防委員会のファーバー議員によると、ラインメタルはウクライナ向けのレオパルト1に「新しいセンサーを搭載しており、これが戦闘において明確な優位性をもたらしている」という。爆発反応装甲や高度なセンサーを追加しても、レオパルト1A5をレオパルト2A6やM-1A1にすることはできない。ウクライナ軍は真に戦車ではない戦車を大量に受け取ることになっている。だが、レオパルト1A5は機動砲として歩兵部隊が率先する攻撃にかなり強力な長距離攻撃能力を提供できる。「戦車がないよりましだ」とファーバー議員は指摘した。 ―――― ヤフコメ 72件 ――――mak********mak********2時間前非表示・報告ウクライナもレオパルト1は欲しがっていた。何しろ取り回しが楽だ。M1のように燃料の無駄遣いも無いし、チャレンジャーのように橋を落とす心配もない。弱装甲だが、それ以外は第一級だから、レオパルト2と混ぜて使っても良いだろう。対戦車戦闘以外なら本当に使い勝手の良い車両だ。いや、対戦車戦闘でも最近ロシアが投入している旧式戦車相手ならレオパルト1が強力だ。数もあるしウクライナの救世主になるかもしれない。武器は(旧式でも)間に合う事が何より大切だ。返信5件24439人生ラッキーマン人生ラッキーマン2時間前非表示・報告日本も90式あたりを供与して、実戦でどの程度使い物になるか、データどりも含めて、日本にとってもウクライナにとっても「win-win」だと思う。日本の装備品は高性能「だと言われている」けど、なにしろ実戦経験がない。ウクライナ軍に使ってもらって、使い勝手や生存性、整備性を試すにはいい機会だ。返信13件23764tha********tha********1時間前非表示・報告ウクライナはいまでも中国の友好国であるのもお忘れなきように。ウクライナ軍が使用した詳細なデータは中国にも渡りますし自衛隊が非公開にしている部分まで中国に筒抜け。それより廃棄74式から主砲だけ渡してやればイギリスのライセンス版とはいえレオパルドⅠと同じNATO規格の105mm戦車砲弾撃を撃てるから固定の待ち伏せ射撃用になら使えるんじゃね。157RAIZINRAIZIN12分前非表示・報告ちなみに地形が違うので想定運用法も違うなおM1もレオ2も本国仕様と同一ではない模様チャレ2は本国仕様そのまま送ってるがイギリス政府からもしロシアに回収されるようなことがあったら絶許の通達とセットなので現状前線にはだしてない21awz********awz********1時間前非表示・報告採用国が複数のレオパルトシリーズと異なり、弾薬と燃料に互換性がある以外は "ガラパゴス兵器" なので部品の供与と整備支援を人・物含めて手厚く施さないとならないが? 物を送って終わりではない。日本政府が法律を飛び越えて (伝家の宝刀=超法規的措置の発動) までそれをやるの?160wie********wie********1時間前非表示・報告万一それをしたとして、北海道はじめ日本国内使用を前提で開発された90式が、ウクライナの平原でどれだけ力を発揮できるかな?123g01********g01********50分前非表示・報告それをするなら、整備に部品にマニュアルと解決するべき問題が山積み。戦車渡せるんなら、NATO規格の各種砲弾渡したほうがまだマシ。70afn********afn********26分前非表示・報告>ウクライナはいまでも中国の友好国であるのもお忘れなきようにロシア最大の同盟国で、影でロシアに武器供与してるのは明白な中国なんて今更友好国なんて思われてないだろ。34mor********mor********45分前非表示・報告ウクライナ軍に供与するのではなく性能検査作業を委託するってのは、どうだろう?15プチーンプチーン1時間前非表示・報告90式は重すぎてウクライナの土地では役に立たない想定環境が違うので戦訓にもならない1315w******w******1時間前非表示・報告武器輸出三原則があるからね、日本の敗戦はまだ続いているんだよ。157ato********ato********1時間前非表示・報告それはそれで改良すべき点が判るから良いのでありませんか?日本に攻められた時にボコボコにされたら敵いません911もっと見る(3件)未ログインユーザログインして返信コメントを書くdfacrrwea*****dfacrrwea*****30分前非表示・報告ウクライナは日本では想像できないような大平原が続いている。ロシアはそこに大量の地雷を埋め、丘を要塞化しているが、地雷をクラスター弾で無効化しながら、このレオパルド200両の集団運用が可能になれば、戦車や弾薬に乏しい露軍は敗退を余儀なくされるだろう。要は点の攻撃ではなく、面の攻撃で前線突破を可能にするという意味で、この200両は非常に大きい。運用次第では一気に形成が逆転する可能性もあると思う。返信1件89jw****jw****5分前非表示・報告ない断言できる00未ログインユーザログインして返信コメントを書くaka********aka********57分前非表示・報告これまでもそうだったが、ロシア軍相手にウクライナ軍に求められるTKは、質ではなく量だ。別に主砲は120mmである必要は全くなく105mmで十分だし、敢えて複合装甲である必要性もなかったのだ。だが追加の200両では明らかに足りない。少なくとも600両は必要(恐らくそれでTK勢力はトントン)なのだが、問題はそのクルーを如何に短期間に効果的に育てられるかだ。返信0件202awz********awz********1時間前非表示・報告戦車の絶対数が足りていないなら「戦車として運用せず、軽装甲の機動砲として用いる」という余裕はウ軍にはないと思う。事前偵察と情報の精査でリスクを減じつつ反撃部隊の正面 (より新しい戦車が使えるなら、その補完として) に差し向けるはず。戦車が足りないのはロ軍 (ウ軍より深刻) も同じなので、脅威は地雷と対戦車ミサイルにはなるが。返信1件192hqx********hqx********2時間前非表示・報告記事にあるように歩兵部隊を支援し守る「機動砲」としての活用、米軍の「ブッカー戦闘車」的運用と、ベラルーシ国境方面と首都キーウ防衛の半固定砲台、予備兵力としての活用がベストでしょう。米国はM1後継「エイブラムスX」を加速し現行車両と置き換え、現有車両を供給し続ければ良い。無論NATO諸国への供給・販売も。しかし問題は「いかに優秀な戦車兵を育成できるか」ということ。戦果は人間で決まります。返信1件3312とうふとうふ1時間前非表示・報告戦車兵も同時に貸し出して、ウクライナ軍の指揮下に入れれば人員もたりる。18未ログインユーザログインして返信コメントを書くito********ito********1時間前非表示・報告ウクライナは、長い期間ソビエト製の戦車などを扱い、西側の兵器を使用したことがなかった。その為扱いに時間がかかった。西側も、長年使用していないために動かない物や故障も見られた。部品もない。さらに無線機やGPSなど電子部品も、新しくする必要がある。移送にも時間がかかる。返信0件41jxm********jxm********2時間前非表示・報告種類が増えないなら兵站の負担も増えないしいいのでは?足回りもこなれているし、湾岸戦争時の米軍相当くらいの夜戦能力もあるから、火点潰しとBMP/BTRキラーとして使い勝手は良さそう。105mm砲弾の供給問題はどうなったんだろうか。返信0件363md3********md3********2時間前非表示・報告60年前の設計で105ミリライフル砲装備のレオパルト1では、125ミリ滑空砲装備のT-72より不利でしょう。使い方としては半分埋めて固定砲台として使うぐらいで、対戦車戦では使えません。かといって固定砲台として使うなら、仰角がとれないので、かなり使い勝手が悪そうですし、そもそも戦車砲は榴弾砲のように多くの砲弾を撃つことを前提としていないので、すぐに砲身が故障を起こしそうです。レオパルト1は西側企業が備蓄を利用して、ウクライナに押しつけようとしているだけではないですか。約2400両が予備として保管されているM-1エイブラムスを供与すべきだと思います。「戦車」として使用できます。返信6件2075md3********md3********1時間前非表示・報告更に追記すると、ウクライナ軍は反転攻勢をしているわけですから、前進しないといけないわけです。守る側なら待ち伏せをするので戦車の「固定砲台」は役に立つかもしれませんが、前進しなければならないウクライナ軍にとって「固定砲台」は不要です。他の車輛が前進したら、置き去りになるだけです。もし、必要な場合があるとしたら、ロシア軍の攻勢にあったときぐらいです。ドイツその他はそれを前提としているのでしょうか。スペイン軍は使う予定のないレオパルト2A4がまだ90両ありますから、1台1億円の整備費用をかけて、これをウクライナに送るのならまだ分かります。84md3********md3********1時間前非表示・報告ウクライナ軍が遅ればせながらフランスが供与した軽量の偵察車AMX-10RCで学んだことをレオパルト1に生かせば、つまり機甲部隊の後方に配置して、安全を確保しつつ長距離砲を発射すれば、古いレオパルトでも実際にいくらか役に立つかもしれない。AMX-10RCはロシア軍の122ミリ砲弾が命中せずに至近弾となっただけで、乗員4人全員が戦死しました。105ミリ砲という短距離砲しかもたないAMX-10RCやレオパルト1が後方に配置されたら、その砲弾はロシア軍に届かず、下手すればウクライナ軍の頭上に落ちてきます。よって、ないほうがましの兵器だと思います。AMX-10RCは前線から下げられましたよ。817uyn********uyn********2時間前非表示・報告もうロシアもT62を投入してますから十分対戦車戦闘は大丈夫でしょう。T72以上にはジャベリンやTOW2で対応すれば高価なミサイルの節約になります。1210うさぎのすり身うさぎのすり身20分前非表示・報告>まだたくさん残っているのなら、更に旧式の戦車を引っ張り出さないのでは?さらに古い戦車は主力戦車として運用してないT-72はベラルーシだけでも900両はあるし、ロシアなら7000両あるという話もある20qqa********qqa********1時間前非表示・報告>125ミリ滑空砲装備のT-72より不利でしょうまだたくさん残っているのなら、更に旧式の戦車を引っ張り出さないのでは?126とうふとうふ1時間前非表示・報告真のゲームチェンジャーが、やっと届いた。05未ログインユーザログインして返信コメントを書く大衆の言論大衆の言論57分前非表示・報告酷いやり方だ。このままではウクライナは消えてしまう。NATOは生かす殺さずでウクライナを利用できる限りし続けるんだろうな。こんな旧型戦車では何も出来ない。無駄に戦争を引き延ばし、ウクライナ人の死者を増やすだけ。レオパルト2やエイブラハムズ、ストームシャドーなど最新装備で万端に準備した大規模反攻ですらロシアの第一防衛線すら突破出来なかった。こんな旧式なんてただのいい的としか言いようがない。本気でロシアを追い出したいなら、もはやNATOの総力でやるしかない。それが出来ないなら、無駄に引き延ばして死者を増やす理由はなんなのだ?返信1件618ary********ary********33分前非表示・報告他のヨーロッパ人にしてみたらコサックの末裔のウクライナ人も敵なので22未ログインユーザログインして返信コメントを書くinkjd********kjd********1時間前非表示・報告現在、ウクライナ戦争は北部でロシア軍攻勢、南部でウクライナ軍第2次反転攻勢の状況で一進一退。レオパルト1は第1次反転攻勢時に大損害を受けたレオパルト2装備の機械化歩兵旅団への損害補填の処置。評価としては旧式戦車ですが同じく旧ソ連時代の戦車を繰り出すロシア軍には優位でしょうね。ロシア軍側は安価な自爆型ドローンのランセット3型の大量生産を開始、周到な築城に連携した大量の砲迫射撃、近接航空支援を強化、徐々にウクライナ軍を圧迫する傾向を見せています。更なる大規模な軍事援助がないとウクライナ軍は劣勢に転じる恐れがあります。切り札のハイマースは対策をとられ、以前のように有効に活用出来ず、ウクライナ有利の停戦を模索していた西側首脳にとって、今後の西側最新兵器の供与は今後の戦況の推移と、国内世論との舵取りになり現在はターニングポイントではないかと推測します。返信2件511kjd********kjd********14分前非表示・報告在庫処分と揶揄される軍事援助品の質の低下。F-16供与に対する消極的な態度から、欧米首脳がこれ以上戦闘が長期化しない方向に傾きつつあるのでは?この冬にまた、エネルギー不足やインフレが再来したら厭戦気分が高まり、援助も先細り、朝鮮戦争末期みたいに猫の額ほどの土地の奪い合いになり、有耶無耶なのうちに休戦ってパターン。20awz********awz********1時間前非表示・報告「東部ドンバスとクリミア半島はもうあきらめてロシアにくれてやれ、勝てないんだから仕方がない」と誰がゼレンスキーに進言するの? (プーチン体制のロシアは大喜びだろう)33未ログインユーザログインして返信コメントを書くohs********ohs********8分前非表示・報告戦車も大事だけれども、この戦争のキモはクリミヤ大橋ですよね。自分だったらバイラクタルドローンにハイマースを組み合わせて、高空からレーダー基地を叩いて無効化後、英国の巡航ミサイルでアーチ橋部分を破壊して露軍の兵站をとにかく攻めるのが最良かと思う。バイラクタルとハイマースのセットはそんなに難しいかな?軍事素人で勝手な妄想ですが。返信0件00qid********qid********1時間前非表示・報告ウクライナが必要とし、供与する余裕がある兵器をどんどんあげたほうがいい。レオパルト1は装甲が弱めとされるが、ウクロボロンプロムやウクライナ軍が、改善・改良を加えてロシアへの対抗策を考えるでしょう。S200を改造して、ロシア本領への攻撃を考え、実行する国ですから返信0件115pea*****pea*****13分前非表示・報告操縦や射撃、整備まで教育しないとつかえません。古くても電子装置とセンサーのかたまり。砲はドイツで車体は日本。難しそう。戦い方のコンセプトの違いのある車体ですし。返信0件00maz********maz********2時間前非表示・報告なんだかんだで、砲の威力はともかく精度とか他の性能は良いし、何より戦車は戦車なわけだから、まとまった数もあるし戦力としては大きいと思う。返信0件343fla*****fla*****1時間前非表示・報告120mm砲に換装して増加装甲を付けて、Leopard1A6仕様にすれば、Leopard2A4に近い能力を持つ。NATO諸国自身の防衛にもLeopard2は必要なので、そんなに余裕があるわけでもない。残っているLeopard1をかき集めるのも、悪い話ではない。返信0件211xrq*****xrq*****2時間前非表示・報告【戦車は消耗品】如何に効率良く活用するかである。■自軍のなあ兵士を相手陣営の前線まで無事に守るかそして戦車で相手の陣営や兵士を殺傷する人数を拡大するか。 そして負傷したレオパルドを治療するシステムを確立しているかである。※戦争とは創意工夫と決断と行動である。返信0件810har********har********2時間前非表示・報告1980年代に設計といえど戦車は戦車、使い方次第で戦力になるでしょう一部メディアはロシアのT-72を馬鹿にしていましたが使えるものは使えの精神が結局正しいということでしょう返信0件471プチーンプチーン1時間前非表示・報告むりやりレオパルト1を持ち上げてるけれど、今まで通り地雷原で擱座・ランセットの徘徊モードで見つかって撃破されるのがオチ戦車vs戦車まで行きつかない返信0件1217ary********ary********44分前非表示・報告日本の74式と同じ世代の戦車がなあ。74は退役が迫るのに老兵が戦場に。乗る兵士も大変だから近代化キットとかはないか?カナダ軍のように返信0件02in.ghqfs-archives.jp「焚書」知ってますか? 戦後GHQによって秘密裏に消された本、7,769冊。最も多いテーマは何?Yahoo! Ocean5Ocean51時間前非表示・報告レオパルド1 VS T-62など、 冷戦下ドイツで起こると予想された80年代の戦いが始まる。 誰がこの展開を予想できただろうか返信0件53forthennextforthennext1時間前非表示・報告最後にオチがある通り、「戦車がないよりましだ」、まさにこの通りなんでしょう。レオ1転売ヤーが、流石に売れなくて困っていたみたいで、渡りに船でしたね。返信0件101rx8********rx8********2時間前非表示・報告レオパルド1vsT-72、一昔前の仮想戦記の題材が巡りめぐって現実のモノとなるとは返信0件263大天使大天使1分前非表示・報告戦車は支援できても他国のために自国民の兵隊を流すことは為政者として失格です。いずれは戦える兵隊が減ったほうが負けです。返信0件00dxm********dxm********2時間前非表示・報告戦車というよりは、自走砲的使い方しかないかな〜まともに、戦車と撃ち合っては勝ち目が無いです。返信0件1012qua********qua********1時間前非表示・報告レオパルト2さえあれば大勝利などと抜かしていたなあ。『ウクライナ支持者たち』は。この人たちの知識と認知って、大丈夫?返信1件1114leo********leo********2時間前非表示・報告西側は本腰入れないとこのまま敗戦するぞ減った領土の方が多いじゃないか!返信0件184can********can********2時間前非表示・報告制空権が確保出来てないのにいくら戦車投入してもすり潰されるだけだといい加減理解しろよ?返信0件255自罠盗自罠盗1時間前非表示・報告実質ウクライナ人に代理戦争させてる欧米vsロシア戦車は安い対戦車兵器にやられるただの的返信0件67おじさんおじさん2時間前非表示・報告ロシアがウクライナに運んでいたT54/55よりは使えるんじゃね、よく知らんけど。jw****jw****5分前非表示・報告レオパルト1にしろ2にせよ制空権がないなら単なる的でしかない返信0件00ka*****ka*****26分前非表示・報告ウクライナの好きな魔改造すればいいじゃないか返信0件00kiw*****kiw*****32分前非表示・報告21世紀の戦場に戦車は通用しないのでは?返信0件12rbv********rbv********2時間前非表示・報告戦車は消耗品返信0件103pap********pap********42分前非表示・報告ロシア製の戦車よりマシです。返信0件32tkk********tkk********7分前非表示・報告ガンバレーー!返信0件00zar********zar********2時間前非表示・報告軍国主義は、更に被害を出すだろう?返信1件118iah********iah********53分前非表示・報告ロシアのことを言っているなら、その通り。だけど、違う趣旨のようなので、と言うか、反対の趣旨のようなので、青ポチです。21未ログインユーザログインして返信コメントを書く独孤求敗独孤求敗2時間前非表示・報告露軍の奮闘を期待します返信1件725iah********iah********51分前非表示・報告何故?単に逆張りしたいだけなら「暇なのですね」としか・・・。22未ログインユーザログインして返信コメントを書く俺の話を5分だけでいいから聞いて俺の話を5分だけでいいから聞いて26分前非表示・報告もうウクライナは、死に体なんです。停戦交渉を勧めましょう。国が滅びますよ!時代遅れの戦車が、何になるんです?ただの、動く棺桶ですよ。最近思うのですが、NATO加盟をほのめかされ、ゼレンスキーも戦争計画に乗っかったのですが、今は戦争を止めさせてもらえないのではないでしょうか。最終的には、消耗仕切った所でゼレンスキー暗殺、停戦、欧米の暫定政権樹立となるかと。これが本当なら、乗っ取りですね。ゼレンスキーには、生き証人になってもらわねばならない。返信0件33pow********pow********1時間前非表示・報告戦車対戦車の戦いはほとんどないて言うか、有人兵器は漏れなく鉄の棺桶戦車200両なら800人用の棺桶
2023.08.14
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【独自】竹島に上陸“タマネギ男”を直撃 FNN記者に“逆ギレ”もインバウンドの韓国訪日客が増加中だが「IKITERU]と言う在日韓国人の You Tube 韓国から友人などを来日させては日本の食事・日本人の親切さ・日本社会の秩序などに感心して「日本に対して持っていた偏見がまちがいだった」などと言わせているが果たしてどこまで本気なのか?日本の刺身を食するときには「福島の汚染水は大丈夫だろうか? でも、おいしいから食べてしまえ」この男、日本に10年も住んでいながら福島の処理水について何の調査もしていないこんな調子だから韓国側の偏見の中身について何も深堀をしない当然ながら竹島問題などには絶対に触れない商売!商売!であるまた、日本人のこの You Tube へのアクセス数がすごい何万、時によっては十万単位の時もある「日本に好意的でありがとう」などとみな、だまされている(笑)日本滞在中は日本に感心した友人達も韓国に帰国したらすぐにまた反日にもどるのだろう何しろ国民の7割が半日なのだから左翼でも反日(笑)保守でも反日(笑)今度の総選挙で親日的なユン政権が否定され反日左翼野党が大勝利!!韓国の本音はここにある日本の領土である竹島を不法占拠されている事でもあり韓国との友好関係など百年河清を待つそんな感じだないや、韓国の反日は百年たっても収まらないだろう何しろ、それが朝鮮民族の唯一のアイデンティティーなのだから同じく戦前は朝鮮と同じような対日関係でありながら今は最も親日な国である台湾と比較して考えてみればいかに南北朝鮮が異常な国であるか異常な民族であるか分かると思うしかも日本は収奪などせず膨大な額の投資をしたのだ朝鮮は併合の期間中に人工は倍増し1000しかなかった小学校を5000に増やし道路鉄道などのインフラを構築韓国側からこれらへの感謝の言葉を聞いたことが無い
2024.05.15
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SAIGON NOSTALGIE - SÀI GÒN NIỀM NHỚ KHÔNG TÊN私は昔、あのベトナム戦争最中のベトナムに駐在していた当時ベトナムは南北に分かれて戦争をしていたのだが私はそのうちの南ベトナムその首府サイゴン(今のホーチミン)に駐在していた何しろ戦争中だったので毎日、死の危険と隣り合わせの生活だったが半面、フランス植民地の面影がまだ色濃いサイゴンは非常に魅力的な年だった今でも懐かしいサイゴンそのサイゴンの様子を撮影した動画が数多くあるそれらを見ているとまるで昨日の様に鮮明に様々な思い出がよみがえるそれらをこれからポストしてゆきたい完全に自己満足の世界である
2024.05.16
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