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照る日曇る日第 670 回& 671 回
著者が、生涯の最後に遺した大長編小説である。
小さな藩の平侍として生を享けた主人公三浦主水正が、さまざまな艱難辛苦に耐えながら、みずからの望みではなかったが、ついに城代家老の要職に就くまでの、ある意味で立身出世の、またある意味では江戸時代を懸命に生きた青年のビルダングスロマンである。
主人公が長い坂を登るようにしてゆるゆると登りつめてゆく道中には、太刀廻りあり恋の鞘当てがあり、謀反や大陰謀が待ち伏せしているという波瀾万丈の物語であるが、主人公の妻であるつるの、男勝りの外観に秘められた女の生と性の激情が、はじめは処女の如く終わりは脱兎の如く描かれていて、いわゆるひとつの周五郎節のあざやかな展開と演奏には脱帽せざるをえない。
しかしここでもっと注目すべきは、「ながい坂」という題名である。いや題名で使用されている「ながい」という形容詞の表記だろう。
小説でもエッセイでも文章で重要なのはその内容であるが、その内容をきわだたせる為の文章表現も劣らず大事である。この点に関しては(かの悪名高き塩野七生をのぞく)大多数の作家がひとしく留意しているが、とりわけ意識的で敏感だったのは、昔なら夏目漱石、最近では吉本隆明と司馬遼太郎ではないだろうか。
漱石ははじめ「心」というタイトルで連載していた新聞小説を岩波書店から出版するときには「こころ」ならぬ「こ ゝろ」という表題に変更した。
司馬遼太郎は、みずからの文章をおおむねひらかなを主軸としたやわらかな喋り言葉で書きながら、論旨のエッセンスに該当するような箇所にはあえて難解な名詞を漢字で書き込み、それが中心点となるグラフィックの世界をページ毎にレイアウトしていった。
またわが国を代表する詩人でもある吉本隆明が、彼の評論を記述する際に、その論旨の要点を文章の周縁部から劇場的に際立たせるために、「ちいさい」という形容詞や「ひとつふたつ」という数詞、あるいは動詞にもあえてひらかなを多用したことは良く知られている。
こういうやりくちをもちろん熟知していた山本周五郎は、この小説の題名を「長い坂」とせずにあえて「ながい坂」とヒラクことによって、主人公ともはや完全に一体化した長期に亘る激烈な心身の争闘のながさと重さに、私たち読者が想いを馳せ、それを体感してもらうおうと願ったのである。
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