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楽天ブログにてこの日記を愛読してくださった皆様へ 以前から予告しておりましたように、この「愛のチューリップ 劇場」を本日をもって閉鎖することに致しました。その理由はこのブログに他のブログにはない、表現の制約がありすぎることです。 文字数は一万字までですし、一部の歴史的漢字は使えません。またセックスに関連する表現にもいちじるしい制限が課されており、それは表現の自由をみずから縛る行為に通じます。 おそらくこのブログの責任者の狭い料簡からこのような笑うべき愚劣な自主規制を課しているのでしょうが、 その旧態依然たる姿勢になんの変化もないので、抗議の意味もこめてこのたび退場することと致しました。 長年にわたって小生の駄文を読み続けて頂いた読者の皆様には大変申し訳ないのですが、事情ご賢察のうえご容赦くださいますようお願い申し上げます。なお小生はまったく同じ内容の日記を下記でも書いておりますので、ご興味のある方はこちらの方に登録していただければ幸甚です。いずれも毎日写真付きです。 それではみなさま、さようなら!またどこかでお会いしませう! 「愛のチューリップ 劇場」支配人 敬白 http://blogs.yahoo.co.jp/amadeusjapon http://kawaiimuku.hatenablog.com/
2014年06月03日
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bowyow cine-archives vol.647 原題は「ケーブル・ホーグのバラード」で砂漠の流れ者ケーブル・ホーグをジェイソン・ロバーズがしたたかに演じている。 ルンペンプロレタリアートのケーブル・ホーグは、悪者に水を奪われ砂漠に置き去りにされるが九死に一生を得て、どん底から這い上がろうとするのだが、水の出る土地の保証書1枚しかない彼に、無償で一〇〇ドルを貸し与えた銀行家は偉い。 だからこの映画は、腐敗堕落の極に達した現代のバンカーたちにペキンパーがその理想の姿を指し示した映画であるともいえるだろう。 それ以上に興味深いのは、復讐だけが支えとなるはずであったはずの彼の人世に、思いがけず舞いこんで来た娼婦との純愛の暮らしであって、これによって大いなる生命の泉を汲んだケーブル・ホーグは、1人の仇敵を許しただけではなく、不慮の事故によって世を去る間際に人間の生の真実を知り、諸行無常、則天去私の境地にまで到達するのである。 波乱に満ちた生涯を閉じたケーブル・ホーグの霊に寄せるペキンパーの視線は限りなくあたたかく、あたかも彼自身の生とそれとを二重写しにしているようですらあって、稀代の名監督がこの1作をもっとも愛したのはまことむべなるかな、と思わせる不思議に人懐かしき映画である。 なにゆえに自分の意見をいわないのか安藤優子慎太郎に「君はどう思う」と聞かれて 蝶人
2014年06月03日
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ふぁっちょん幻論 第88回 09春夏ミラノ・コレ=08/9/27シンプル主流、現実からの逃避。金融危機による世界経済の深刻さ反映。あえてファッションの享楽性見せたドルチエ&ガバーナのぞいてグッチ、プラダ、ボッテガ・ヴェネタ、ジルサンダーなど控え目。重い現実から浮遊しようとするデザイナーたちの浮遊感。09春夏パリコレ=自然派スタイル。環境問題などで終わりの始まりの時代を反映。アレクサンダー・マックイーンのノアの箱舟。ヨウジヤマモトのお葬式。アンダーカバーの高橋盾は今回で撤退。拡大路線に幕引き。09年秋冬NYコレ=不景気癒す美の競演、嵐が過ぎるのを待つ。全体的に美しくまとまった落ち着いた印象。ロダルテ、マークジェイコブズ、アレキサンダーワン、タクーン、ミシェル・オバマ御用達のジェイソン・ウー。メンズは冬生き延びる蛹のよう。カルバンクライン、トム・ブラウン、ブルックリンの老舗テーラーマーチン・グリーンフィールド。09年春夏パリ・オートクチュール=4つ減って23ブランド。正式メンバーは50年代初めの60から15へ。43年の顧客2万人がいまは200人。ネットにデザイン画。規模縮小の中高度な手わざ活かす。華美すぎないシンプルナデザインシャネル、ディオール、ヴァレンチノ、ゴルティエ、アルマーニ・プリヴェ。09年秋冬ミラノコレ=2月26日から1週間。ジャンフランコ・フェレは親会社が民事再生法。プラダ、グッチ、アルマーニなど伝統回帰、細部に新しさ。 D&Gはオートクチュールさながらの職人芸で新方向。同メンズコレ=黒やグレーのフォーマル調。09秋冬パリコレ¬=不況下の底力。伝統回帰したシンプルなスタイルの中にもオートクチュール的な凝った手仕事やメッセージ性の強い表現。ジバンシー、タオ・コムデギャルソン、ヨウジヤマモト、15年ぶり復帰のヒロココシノ。同メンズコレもダークトーンのフォーマル中心。売れる黒、汎用性あるジャージースーツ。09秋冬パリメンズ=スーツを上品にひとひねり。09秋冬東コレ=09/3/23から6日間で37ブランド、前後して4月中旬までに30ブランド。強さ、楽しさ、ストレート。闘士を思わせるダークなミリタリー調、少し過剰な色や量感で表現した着る妙味。アグリ・サギモリ、ミキオ・サカベなど。ショウをやめて永澤陽一が現代アートへ。アンダーカバーの高橋盾はパリコレ中止して写真展、青山の人気クラブでぬいぐるみ造りの即興ライブ。なにゆえに別々の部屋で眠るのかかつてねんごろに睦み合いしその二人 蝶人
2014年06月02日
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またしても長文につきこの楽天ブログでは読めません。下記をご覧ください。→ http://blogs.yahoo.co.jp/amadeusjapon
2014年06月01日
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ある晴れた日に第240回 なにゆえにいともたやすく卒業するのか宝塚AKB私の卒業は私が死ぬ時 なにゆえにいともたやすく人は死ぬたやすくは死なぬと思いこみしに なにゆえにこの障がいを治せぬか医学はなにをしているこの30年間 なにゆえにいってらっしゃいいってきますと言い合うのかそれが今生の別れになるかもしれないので なにゆえに本邦随一の美術館を取り壊す八幡宮に祟りがあるぞよ なにゆえに障がい児者は生まれたか健常者の愚かな知恵を暴き出すため なにゆえに全ての時計広告が10時10分を指している私なら9時半にするのだが なにゆえに三白眼と猫背になりしや長ずるに及んで自恃を無くした なにゆえにあのめくるめく快楽を体験できないのか自閉症の男の子にして なにゆえにかくも醜い日本語を話すのか君が弾くヴァイオリンは美しいのに なにゆえにみな違う演奏になるのかまったく同じスコアなのに なにゆえにピレシュは右腕に刺青しているのかショパンよりそっちが気になる なにゆえに除染除染と騒ぐのか放射能を移転するに過ぎないのに なにゆえに40wの電球を枕元に置くの夜中に目覚めても退屈しないから なにゆえに朝から気色が悪いのか着衣に僅かな乱れがあるゆえ なにゆえに1晩に2度も3度もトイレに行くのか夜食のお茶を飲み過ぎたから なにゆえに人はそこまで強くなれるのかおのが弱さを抱きしめるから なにゆえにいつも上機嫌に過ごしていたのか今は亡き愛犬ムクよ なにゆえに桜が散っても春が来ぬ STAP細胞はあるのだろうか? なにゆえに男のくせに香水つけるここへこい一発ぶちかましてやろう なにゆえに冥土に向けて旅立たぬ天下を揺るがす歌一首詠めぬゆえ なにゆえに本体価格で表示する消費税など無きがごとくに なにゆえに真昼間からタクシーは点灯してる勿体ないからライトを消すべし なにゆえに集団自衛権に異議を唱えぬ君が戦場へ行くんだよ なにゆえに「山彦乙女」を読まないか主人公の苗字が宰相とおんなじなので なにゆえに鶴澤錦糸の太棹が泣く七世名人竹本住太夫丈との別れの歌ゆえ なにゆえにレガートもポルタメントもやり放題スットコドッコイ、ストコフスキー爺 なにゆえに参戦理由を探してる中国北朝鮮の影に怯えて 蝶人
2014年05月31日
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ある晴れた日に第239回&照る日曇る日第710回 金原氏の新訳が出たので読んでみたが、旧訳よりもすらすら読める。 しかしすらすら読めるのはいいことなのか悪いことなのか、 本当はよく分からない。 聖書のことが頭にあるからだ。 「新約聖書」でも「旧約聖書」でも 私がすらすら読めない旧訳を好むのは、 それが文語体の名文であるからではなくて、 意味が明快な良い翻訳文であるからだ。 共同訳による口語体の新訳はすらすら読めるが、 いわゆる翻訳調の文章もけったくそが悪く、 ちゃんと意味が通らないヌエのような日本語なので 全然読む気がしない。 そういえば最近岩波文庫なども猛烈な勢いで新訳を出し始めているが、 かつての名訳はどうするんだろう。 2種出し続ける余力はないはずだから、 新版と同時に廃本にするのではあるまいか? いまのうちに旧訳を買っておかないとヤバイかもしれないな、 などと思いつつ、 この文豪モームの超有名なベストセラー小説を くいくい読んでしまいました。 どこかゴーギャンを思わせる主人公の画家チャールズ・ストリックランドは、 やはりタヒチの絶海の孤島で、傍目には悲惨な、 けれども本人にとっては満足すべき波乱の生涯を閉じるのですが、 息子が売れない絵描きをやっている私には、読むにつれ胸蓋がる一冊でありました。 生前は一枚も売れず、死んでから天才画家と持ち上げられるストリックランドより、 下らない絵でもばんばん売れるストルーヴェのような作家になって欲しい。 そういう切ない親心がひとかけらでも盛り込んであったなら、この文豪の本ももっと売れただろうに、とつい考えてしまう、極東の島国にへばりついている老人でした。 なにゆえに全ての時計広告が10時10分を指している私なら9時半にするのだが 蝶人
2014年05月30日
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本日もこのブログには掲載できませんでしたので以下をクリックしてね。 http://blogs.yahoo.co.jp/amadeusjapon
2014年05月29日
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本日もこのブログの文字数では収納できませんので下記をクリックしてみてくださいな。こちらは毎日写真付きです。 http://blogs.yahoo.co.jp/amadeusjapon
2014年05月28日
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音楽千夜一夜第329回 ルドルフ・ゼルキンが弾いたベートーヴェンの5つの協奏曲と全曲に近いソナタを収めたお馴染みの激安セットですが、どのCDもすこぶる聴きごたえがあります。 ゼルキンという人は「謹厳実直」を絵にかいたようなピアニストで、ひとつひとつのスコアを舐めるように丁寧に丁寧に音に変えてゆく。 だからホロヴィッツの豪胆さやギレリスの鋭さ、アルゲリッチの輝かしい生命力などはないけれど、その誠実無比なピアノを聴くほどに偉大なる楽聖の音楽への献身にうたれ、思わず背筋を伸ばし、居ずまいをただしてしまうような、まあそんな演奏なのですね。 ですからこの11枚は、「もうベトちゃんなんかにゃあ飽きた」とか、「あれはもう古すぎる時代の終わった音楽じゃ」とか嘯いている人が聴くと、うってつけなのではないでしょうか。 誰ひとり観客のいない寂しい広場で、誰のためにでもなく、楽聖ベートーヴェンに捧げるために、ひとりのおじいさんがコツコツと演奏している。 そんな光景が浮かびあがってくるような、これぞクラシックの原点!というような極め付きの演奏です。 なにゆえにピレシュは右腕に刺青しているのかショパンよりそっちが気になる 蝶人
2014年05月27日
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bowyow cine-archives vol.646 田舎のしがない役人から一躍ルイディアナ州の知事になりあがって清濁併せのむ大活躍をしたのちに自滅してゆく主人公をショーン・ペンが熱演している。 彼の身振り手振りをまじえた熱弁が、冨者に不平と不満を持つルンペン・プロレタリアートの支持を集めてゆくところは、かのイトレルやこちらの自称右翼の国家主義者のそれを思い出させて、なかなかに印象深いものがあった。 はじめは純粋な正義感から立ち上がった青年がいったん権力を手中に収めるととんでもない遠くまで独走し、「全員がおいらの子分」という極点にまで達してしまうという悪しき前例は枚挙にいとまがないが、そういう悲喜劇が私たちの目の前でいままさに繰り広げられているのである。 なにゆえにみな違う演奏になるのかまったく同じスコアなのに 蝶人
2014年05月25日
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bowyow cine-archives vol.645 「オール・ザ・キングスメン」で狂気の独裁者を不気味に演じおおせたショーン・ペンが、ここではなんと小学5年生程度の知能しかない知的障がい者を演じている。 ペンには愛する娘がいて2人は一緒に暮らしたいのだが、世間やその法律は彼らの絆を引き裂こうとする。それをだんだん本気になって支援する売れっこ弁護士をミシェル・ファイファーがおいしい役どころで助演している。 ペンの障がいはうちの長男と同じ脳障がいの自閉症だと思われるが、彼は小学5年生程度といいつつかなり言葉も上手に使えるし、対人関係も良好で、これはいまの用語では高機能自閉症とかアスペルガー症候群という範疇に入る自閉症者であろう。 同じ脳障がいであるとはいえ、うちの長男のような普通の古典的な自閉症者は、これほど巧みに社会に溶け込み、言語・行動・労働・コミュニケーションなどの面で自立することなど夢のまた夢だから、ああうらやましいなあと思いつつ見ていた。 けれどもいちばん羨ましかったのは、ペン選手がホームレスの女性とセックスして娘を産んだことだった。こういう幸福に恵まれる自閉症者なんて、実際にはほとんどいないだろう。 高級ではなく低級自閉症男子の最大の悲しみは、人世で最大の快楽である女性とのセックスを体験できないことだろう。 なにゆえにあのめくるめく快楽を体験できないのか自閉症の男の子にして 蝶人
2014年05月25日
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ほんとうにこの楽天ブログは最低だ。文字数はたった一万字までだし、旧漢字や性的な表現は受付ない。いずれこのブログも止めるつもりですが、本日のブログをお読みになりたい方は下記をクリックしてください。ついでに引っ越ししていただくとうれぴいです。 http://blogs.yahoo.co.jp/amadeusjapon
2014年05月24日
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茫洋物見遊山記第150回 名人竹本住大夫丈が引退すると聞いたので、終日糠雨そぼ降る半蔵門まで駆けつけ、風薫る皐月人形浄瑠璃の饗宴に列することができました。 住太夫丈の引退狂言は「恋女房染分手綱」の「沓掛村の段」の後半「切」の部のみでしたが、さすがは人間国宝の白鳥の歌、登壇するだけで大向こうから万雷の拍手が沸き起こります。 しかも舞台の上では吉田文雀、吉田簑助のご老躰があいつとめ、人間国宝三名人併せての豪華揃い踏みですから、大坂の古典芸能鑑賞感覚零市長はともかく、平成の俄か江戸っ子ならこれを見逃すわけには参りませんて。 されど音吐朗々とは聞こえがよいけれど、蛮声や金切り声で怒鳴る未熟な太夫が多い中、さすがに御歳九〇に手が届きかけた老丈は誰の目にも顔面蒼白と映り、もはやそのような元気な声音は出そうと思っても出せませぬ。 よって全体に詞の意味を噛んで含めるような温厚にして滋味深い発声で終始し、これが満員の聴衆にかえって大きな感銘を与えましたが、隣に座った太棹の鶴澤錦糸の目に浮かんだ一掬の涙が、なによりもこの偉大な浄瑠璃語りへの送別と私の目には映りました。 この日の演目は、この引退狂言のほかに前半は「増補忠臣蔵」、「卅三間堂棟由来」、後半は「女殺油地獄」「鳴響安宅新関」でしたが、文楽の完成度で比較すれば夜の部の二演目の圧勝で、できれば住太夫丈もこちらに出て欲しかった、というのはないものねだりでしょうね。 近松門左衛門の傑作「女殺油地獄」は、「徳庵堤の段」「河内屋内の段」の後を受ける「豊島屋油店の段」における、川内屋与兵衛による豊島屋の女房お吉惨殺シーンが、やはり最大のみものです。 歌舞伎でも有名な、もはや芝居とは思えない地獄絵図をこれでもか、これでもかと繰り広げるのですが、緊張感漲るこのクライマックスをたった一人で語りきった豊竹咲大夫と太棹三味線を鳴らし切った鶴澤燕三の絶演、そしてその凄絶な殺しを担う与兵衛役の桐竹勘十郎の劇演が、「絶対的善者と絶対的悪者の修羅場」をば、われら観客の胸の中で吹きだす血と油で彩るのです。 トリにおかれた「鳴響安宅新関」も思がけない御馳走で、大夫七名、三味線八掉による巨大オーケストラの強奏に合わせて、踊りに踊り狂う武蔵坊弁慶の吉田玉女の操演は、観る者の心を、あはれ遠いみちのくの青空へと導くのでした。 なにゆえに鶴澤錦糸の太棹は泣いている七世名人竹本住太夫との別れの歌ゆえ 蝶人
2014年05月23日
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照る日曇る日第709回 黒澤監督によって映画化された「五辦の椿」と「山彦乙女」から構成されている。 「五辦の椿」は薬種屋「むさし屋」の一人娘しのが実の父母、母と性的交渉のあった男たちを次々に簪で刺殺していく復讐譚であるが、いかに薄情な父母であるとはいえ、またいかに育ての父親への恩愛に感謝しているとはいえ、自分にもその血が流れている淫蕩な母親とその交渉相手をあやめていくのか、いくら考えても理由が分からない。 黒澤映画で香川京子がどんどん男を殺していくときにも妙な話だと思ったのだが、原作を読んでその謎が一層深まった。 もう1冊の「山彦乙女」は読み始めてまもなく、安倍半之助という主人公の名前が戦後最悪最低の宰相の苗字をどうしても想起させるので、続きを読む意欲が萎えてしまった。 坊主憎けりゃ袈裟まで憎い。山本周五郎先生にはとんだとばっちりでお気の毒だが、もう二度と手に取ることはあるまい。 なにゆえに「山彦乙女」を読まないか坊主憎けりゃ袈裟まで憎くて 蝶人
2014年05月22日
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bowyow cine-archives vol.644 怪異や奇跡や天変地異を本や映像で見聞きすることと、実際に体験することとは全然違う。 この映画では無実の罪で収監された謎の黒人が病気を治したり、死んだはずの鼠を蘇らせるのであるが、私がもしそういう場面に遭遇したら、彷徨えるユダヤ人同様馬齢を重ねる主人公同様、この男が地上に遣わされた天使であると信じ込むだろうが、幸か不幸かこれは才人ステファン・キングの幻想譚のひとこまなのであった。 トム・ハンクスも好演しているが、マイケル・クラーク・ダンカンの圧倒的な怪演にうちのめされる。 なにゆえに障がい児者は生まれたか健常者の愚かな知恵を暴き出すため 蝶人
2014年05月21日
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照る日曇る日第708回 柳田国男と折口信夫によってとなえられた「御霊」を基軸にして、忠臣蔵という敵討事件と「仮名手本忠臣蔵」という歌舞伎を、政治的社会的背景のもとで解読しようと試みた「忠臣蔵とは何か」はじつに読み応えがある。 権力によって非業の死を遂げた菅原道真が、藤原一族を祟り殺したように、曽我兄弟の御霊は工藤祐経(じつは源頼朝&鎌倉幕府)じつは(鎌倉幕府に兄事していた江戸幕府)に祟り、同様に浅野内匠頭の御霊は吉良上野介(じつは苛斂誅求を極めた徳川綱吉)に対してまがまがしく、しかも王殺しの祝祭のように降臨する(内匠頭の祖父は江戸きっての火消し大名だった)。 主君の死霊が悔しい思いで彷徨していれば、荒人神となった彼の御霊はどんな禍をもたらすか分からないので、赤穂四十七士は彼の怨みを受け継いで上野介を打ち果たした。この御霊信仰という呪術的=宗教的祭祀こそ忠臣蔵の本質であるというのである。 忠臣蔵の核心は、朱子学や武士道ではなく、古代から百姓(これが武士になる)が連綿と培ってきた土俗信仰であった。 面白いのは「忠臣蔵とは何か」ばかりではない。 歌舞伎の起源は、当時切支丹文化全盛の京で大流行したイエズス会の「バレエをともなうバロック・オペラ」ではないか、(「出雲のお国」)、現在の天皇(北朝)も崇徳院と後鳥羽院、後醍醐天皇という御霊神を拝んでいる。(「楠正成と古代史」)、儒教でがんじがらめになった中国文学には恋愛小説が無い(「恋と日本文学と本居宣長」)、古代はどの国でも母権制社会であったから、日本神話のスサノヲもヤマトタケルも生家の財産を継承することはできないので諸国を放浪してどこかの王女と結婚するしか道がなかった。(「女の救はれ」)、光源氏が女三の宮と結婚したのはその財力を頭中将に取られたくなかったからである。平安時代には女性の財産相続権が保証されていた。(「むらさきの色こき時」) というような指摘にも瞠目させられますが、 もっと凄いのはこんなに凄い著者も脱帽した「後朝」における大野晋氏の読みである。 源氏物語の「夕顔」の巻で、十七歳の光源氏と二十四歳の六条御息所が一夜を過ごします。朝帰りする源氏は、元気はつらつで門に立つ侍女にも誘いの言葉を掛けている。 部屋の中の御息所は、当時の呪的な慣習で彼を見送ろうとするのだが、昨夜のセックスがあまりにも激しすぎたので起き上がれない。 「御髪もたげて見出し給へり」というひとことで、紫式部はその一晩を全部表現した、というのです。 ともかく頭から尻尾まで美味いところが濃厚に詰め込まれた鯛焼きのような、本全集の白眉の一冊をおためしあれ。 なにゆえにこの障がいを治せぬか医学はなにをしているこの30年間 蝶人
2014年05月20日
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音楽千夜一夜第328回 むかしLP時代に大層お世話になったウエストミンスター・レーヴェルの室内楽がどっさり収録された選集である。 私がこの世の中でいっとう好きなバリリ四重奏団のモザールを聴きたくて購入した膨大な組物だったが、いかんせんバリリのみならず全ての演奏の録音がよくない。 聴く耳を持つ者にとって、CDよりはレコードのほうが自然で情報質も高いものであるが、家にある昔のレコードと聴き比べてもそうとう酷いのは、おそらくクラシックを愛好しない音響技術者が復刻を担当したのだろう。 ああ残念なり無念なり。演奏自体は素晴らしいのだが。 なにゆえに男のくせに香水つけるここへこい一発ぶちかましてやろう 蝶人
2014年05月19日
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ある晴れた日に第221回 新宿の学校で例によって白墨とマイクと髪振り乱しての授業を終え、 ヘロヘロになって、JRの南口に向かって歩いていたら、 前田さんとおぼしき女性が、2人の男性となにやら話しあっている姿をみかけた。 2人が真剣な面持ちで、ああだこうだ、と議論しているのを、 年輩の彼女は、ちょっと引いた地点にある、ちょっとした高みに立って、 ふんふん、ああなるほどね、というような顔をして聞いている。 それで私は、こいつはてっきりかの前田女史ではないかと思ったのだが、 およそ30年前の彼女の顔は、あんなにふっくらしていなかったので、 もし別人だったときの恥ずかしさを思って、そのまま電車に乗って鎌倉に帰った。 彼女は、私が勤めていた会社で、広報の仕事をやっていた。 おせっかいで、おしゃべりだったが、 とても親切で、優秀な人だった。 会社でリストラにあって右往左往していた私を、 新宿のこの学校に招き入れてくれた女性は、私の生涯の恩人のひとりだが、 やはりリストラにあったその女性とこの学校を結びつけたのは、他ならぬ前田さんだった。 電車に乗って戸塚辺りの葉桜を見ながら、 私は昔この季節に、部課の全員で出かけた社員旅行のことを思い出した。 あれはたしかバスに乗って、西伊豆で一泊したのではなかったか。 あのとき前田さんは、のちにご主人になった男性と熱烈な恋をしていた。 そんな2人をみんながしっかり観察していたのに、 2人は2人だけの夢の世界に住んでいた。 あのとき、前田さんは、ラブラブだった。 あのとき、前田さんは、若かった。 あのとき、私も若かった。 なにゆえにいつも上機嫌に過ごしていたのか今は亡き愛犬ムクよ 蝶人
2014年05月18日
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bowyow cine-archives vol.643 ヘンリーフォンダが主演する南太平洋の日本軍との激戦の話かと思っていたのだが、出てきたのはタイロン・パワーがアメリカNY州のウエストポイントにある陸軍士官学校の名物教官になって長く活躍するという物語であった。 題名の「長い灰色の線」というのは陸軍士官学校の制服がグレイなので、彼らが行進すると長い灰色の列になり、またこの言葉はアイゼンハワーやニミッツなどを生んだウエストポイントの長い歴史を意味しているのだろう。 「西点」であろうが横須賀であろうが宇和島であろうが私は国が集団で人殺しをするための組織である軍隊やその予行演習をする兵学校は大嫌いである。 わが国でもこういう軍隊制度がそのまま教育の現場に持ち込まれ、それが工場や企業の生産現場に適用されて上意下達の規律人間の大量生産に役立っている。 彼らはこの映画でもそうだが、指揮官の号令一下右に左に見事な行進振りを見せる。しかし私は昔からこういう運動神経が鈍くて非常に苦労してきた人間なのである。 物ごころがついて幼稚園に入れられ、その最初の日のお遊戯でスキップしろと命じられたがいくら頑張ってもできなかったことが、わが生涯最初のつまずきとなり、これがトラウマとなって中学校や高校時代の体育ではフォークダンスができず、私はいつもひとりいじけて運動場の隅で砂地に○を描いていた。 だからもしこれらの学校に入れられたら最低の劣等生として将官や上級生にしごかれ、、同級生からも爪はじきになるだろうし、これがもし日本や米国でなく北朝鮮なら私はマスゲームができない非国民として真っ先に処刑されていただろう。クワバラ、クワバラ。 そんな次第であるから、私がいくら名匠ジョン・フォードと主人公の愛妻を演じるモーリン・オハラが大好きでもこの映画を喜びとともに見物することはできなかったのである。 なにゆえに除染除染と騒ぐのか放射能を移転するに過ぎないのに 蝶人
2014年05月17日
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音楽千夜一夜第327回 レガートを効果的に滑らせるとカラヤンの演奏になり、そいつに輪をかけてさらにポルタメントを惜しみなくばらまくとスットコドッコイ、ストコフスキーの演奏になる。のだろうか。 一時代前のバッハ、ベートーヴェン、チャイコフスキーといわれるかもしれないが、聴いて愉しく、かつまた興奮させてくれる。 強いてベストワンをあげれば、オッサンがアメリカ交響楽団と録れたチャールズ・アイヴスの交響曲第四番で、こんなに面白い曲だったのかと唸らせてくれます。 なにゆえにレガートもポルタメントもやり放題スットコドッコイ、ストコフスキー爺 蝶人
2014年05月16日
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bowyow cine-archives vol.642 なんという安易な邦題だろう。原題は誘拐された息子を探す母親(ジュディ・デンチ)の名である「フィロミナ」で、どうしてこんな訳の分からぬタイトルがつけられているのかさっぱり分からない。そのままでいいじゃあないか。 10代の行きずりの恋で妊娠したアイルランド人のヒロインが修道院に入れられ、そこで生まれた男児を取り上げられてしまう。 この修道院がそういう子供たちを養子にしたい米国人に売り渡していたことを知った元官僚の不遇のジャーナリスト(スティーヴ・クーガン)がヒロインとともに男児の行方を捜すうちに50年前の真実が次第に明るみに出てくるというロードムービーでもある謎とき映画なのだが、その売却事件も登場人物もすべて最近の実話であるというから驚くほかはない。 いやしくもカトリックの修道院ともあろう神聖なる組織が、家なき子を強制労働に従事させたり、肉体女優のジェーン・ラッセルに養子として売却したり、そういう不正商行為の証拠を隠滅するために放火までしたりしているとは、じつにけしからん話である。 けれども怒りと正義感から行動するジャーナリストの荒ぶる魂が、老境に達して人世の辛酸をなめ尽くした母親の博愛と悟達の精神におもむろに感化されてゆく辺りが、見どころと言えば見どころだろうか。 なにゆえに三白眼と猫背になりしや長ずるに及んで自恃を無くした 蝶人
2014年05月15日
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ふぁっちょん幻論第87回& 茫洋物見遊山記第149回 来たる24日まで開催されている同展では1770年代から1990年代の欧州のレディスモードが時代別に陳列されていて勉強になる。 18世紀のモザールが生きていたロココ時代のドレスから、20世紀のワーキング・ウーマンたちの機能美のパンツスーツまで、およそ250年の間にふぁっちょんといふもの、トレンドといふものが、いかに時代と共に社会の変容と共に脱兎のごとく劇的に変化してきたのかが、これほど明瞭に一瞥できる機会はないだろう。 特に興味深いのは、あの短かったアールヌーボーの時代からアールデコの時代へと脱皮を遂げた時期の歴史的証拠品が並んでいることで、美術や工芸にエポックを刻んだ芸術様式の服飾における痕跡をつぶさに見届ける僥倖に、われらは浴するのである。 なおついでに、同学園の中のファッション・リソースセンターで開催されている過去数十年間のさまざまなデザイナーによる1000点の!素敵なブラウス展もお見逃しなきよう。 なにゆえに真昼間からタクシーは点灯してる勿体ないからライトを消すべし 蝶人
2014年05月14日
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鎌倉ちょっと不思議な物語第316回& バガテル-そんな私のここだけの話op.178風薫る皐月となったが、鎌倉の鶴岡八幡宮が所有する土地に立つ世界の名建築、神奈川県立美術館鎌倉館が危急存亡の淵にあることは、テレビ、新聞、ネットで報道されているとおりである。八幡宮と県との借地契約が2年後に切れる同館を、財政難の神奈川県は閉館、解体し、地主に更地で返還しようとしているのだからこれに反対せずになんとしようぞ。私はこの建物が、ル・コルビュジエに支持した坂倉準三が1951年に建てた「現代建築の源流」でなくとも、その後背地の平家池と見事に調和したこころなごむ静謐でかけがえのない空間であるという理由だけで、この場が地上から永久に失われることに反対しているのだが。鎌倉市はユネスコの世界遺産登録をめざして狂奔しているが、そんな愚にもつかない運動よりも、とんでもないあほばか方針を打ち出している県当局を説得して、半世紀以上も市民のみならず観光客に大いなる感動を与え続けてきた、この貴重な歴史的、文化的、精神的遺産を解体させないために、体を張って?抵抗してもらいたいものだねえ。さいわいにも本年2月、内外の有識者からの抗議の声に押されて、神奈川県と鶴岡八幡宮は、その保存に向けた調査を(費用を折半しながら)4月から開始しているが、なんとか同館の地下に眠る中世鎌倉の遺構を破壊せずに、耐震工事が可能な道を見いだして、この名建築の生き残りを図ってもらいたいものである。なにゆえに本邦屈指の美術館を取り壊す八幡宮に祟りがあるぞよ 蝶人
2014年05月13日
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bowyow cine-archives vol.641 元は漫画が原作だったらしい。昔からタイムトラベル物は数多いが、ローマ帝国のハドリアヌス帝時代と現代の平成ニッポンを結びつけた着想の妙に驚く。 しかも主人公ルシウスがローマの大浴場の設計技師で、これがタイムトラベルしてわが国の風呂やトイレ回りと結び付くたびに、笑いの渦が巻き起こるという仕掛けは心憎い。 今を去る何十年前にメンズノンノの専属モデルとして登場した主役の阿部寛が、こんな映画の主人公を立派に演じている姿には感慨を覚える。ハドリアヌス帝の市村正親、敵役の北村一輝、恋人役の上戸彩も敵役で笑いながら愉しく見物できる。 まだ見ていないが、タイムトラベルのきかっけがだんだんマンネリ化してきているので、続編はつらいのではないだろうか。 なにゆえに1晩に2度も3度もトイレに行くのか夜食のお茶を飲み過ぎたから 蝶人
2014年05月12日
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ある晴れた日に第220回 リビングを歩くたんびに あっちもペコペコ こっちもペコペコ ああ 家が沈む 家が沈む 築三十五年のわが家が 毎日毎晩どんどん沈む いったいどうしてこんなことになったのか おそらくはミサワホームの広告のせいだ 「天井の高い家だと子供はのびのび育つ」というので、 「天井を高くしてくれえ」と頼んだ私が莫迦だった 確かに業者は天井を高くしてくれたのだが、 そのぶん床を低くしていたのであった ああ しらなんだ しらなんだ ついさきごろまでは しらなんだ ここ鎌倉は東京より空気が冷たい 海と山に囲まれて春夏秋冬湿気がひどい そいつが我が家の低い床に忍び込み 朝昼晩と材木を侵した 床の上に張りめぐらしたフローリングの薄板を 朝な夕なにシュウシュウシュウと吹きつけた ああ しらなんだ しらなんだ ついさきごろまではしらなんだ フローリングの上にあるのは何百何千の本とかCD DVDやビデオに加えてレコード、カセット、レーザーディスク 全部で何トンあるかしらないが、物凄い重量に懸命に耐える薄板の上を ときおり耕君の巨体がフロア狭しと駆け回る リビングを歩くたんびに あっちもペコペコ こっちもペコペコ ああ 家が沈む 家が沈む 築三十五年のわが家が 毎日毎晩どんどん沈む なにゆえに本体価格で表示する消費税など無きがごとくに 蝶人
2014年05月11日
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照る日曇る日第707回 どうもこの人の小説が出るとほおっておけなくて困ってしまいます。他の仕事が手につかないので仕方なく読みはじめたら、これが想定内だか想定外だか知らないが非常に面白いので、竹の子ご飯を食べるようにお代わりしながらずんずん読んでしまいました。 今回は「女のいない男」というヘミングウエイ譲りのコンセプトでゆるーくまとめた連作短編集が6つも並んでいて、徹頭徹尾読書の楽しみを味あわせてくれます。 内容はともかく(といっても内容もしっかりとあるのですが)、冒頭の1行からクイクイと読ませてしまう技術において、この作家はポール・オースター、アリス・マンローとならんで世界的な水準に達していると思います。 例えば「シェラザード」のはじまりは「羽原と一度性交するたびに、彼女はひとつ興味深い、不思議な話を聞かせてくれた。「千夜一夜物語」の王妃シェラザードと同じように」というものですが、これを読んで次を読みたくない人がいるでしょうか? しかも羽原君が住んでいるアパートにやってくるこのシェラザードは、実際は普通の主婦で「ハウス」キーパーだという。もしかすると羽原君は、平成の「党生活者」なのかもしれません。 このようにどんな作品においてもプロットとストーリーテリング、ことに人物の造型が巧みで、お話、すなわち説話や綺譚や現代的な神話の立ち上げと序破急の展開が鮮やかである。 どんなぼんやりした読者の興味と関心をも終始ひきつけて放さないのが「平成最大の寓話作家」たる著者の、得意中の得意なのであります。 短編の最後に置かれた「女のいない男」は、即興で書かれたそうですが、出来栄えは今いちでした。しかし太宰治晩年の「フォスフォレッセンス」には及ばないとしても、彼の寓話創作の才能の素晴らしさには、ますます磨きがかかっているようです。 またこの作家の文体はまことに口当たりがよく、ポップでカジュアルで軽佻浮薄な現代の空気と平仄がぴたりと合っている。どこを開いても軽快で読みやすく、しかも意をじゅうぶん尽くしたその音楽的な文体を、著者はアメリカ小説の翻訳をとうして学んだのでしょう。 文章の生命は細部にあるそうですが、著者の人物や事物や風景のディテールの描写は、斎藤茂吉の短歌のように具体的であり、とりわけ直喩の適切さには舌を巻かざるを得ません。「いろんな出来事が順番通りに思い出せない。ばらばらになってしまった索引カードのように」のように。 私は、彼の小説は言葉の最上の意味における高級大衆風俗小説だと思うのですが、だからこそおおかたの登場人物が生き生きしており、彼らが喜怒哀楽を共にしながら生きているこの世の中の佇まいが、切々と地方的に、かつまた世界中で通用するように普遍的に描かれている。 それから忘れてはいけないのは、わが国の高級純文学小説には必ずといっていいほど欠落しているユウモアとウイットに満ちあふれていることで、 前世がやつめうなぎだったと告白したシェラザードに、さきほどの羽原君が 「やつめうなぎはどんなことを考えるんだろう?」と尋ねると、シェラザードが、「やつめうなぎは、とてもやつめうなぎ的なことを考えるのよ。やつめうなぎ的な主題を、やつめうなぎ的な文脈で」 と答える辺りでは、思わず微苦笑してしまいました。 「イエスタディ」という短編では、完璧な大阪弁を喋る東京の田園調布に生まれ育った男が大活躍するのも楽しいのですが、著者がせっかく苦心してポール・マッカートニーの「イエスタディ」につけた大阪弁の創作歌詞に、いちゃもんをつけた著作権代理人の顔が見たいものであります。 なにゆえに40Wの電球を枕元に置くの夜中に目覚めても退屈しないから 蝶人
2014年05月10日
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照る日曇る日第706回 この巻では、林達夫、井伏鱒二、横光利一、舟橋聖一、伊藤整、高見順、大岡昇平、松本清張、武田泰淳、吉田健一、吉田秀和、福永武彦、中村真一郎、司馬遼太郎、吉行淳之介、辻邦夫、色川武大、開高健、井上ひさし、大江健三郎、村上春樹、野上弥生子、宇野千代、佐田稲子、河野多恵子、飯田龍太、岡野弘彦、多田智満子、谷川俊太郎、俵万智など数多くの作家や詩人、歌人、批評家の人と作品についてのエッセイが並べられていて、勉強になると同時に、自分がいかに不勉強であり、読んだこともない人々の作品の数が多いことに対して前途茫洋の想いにとらわれてしまう。 前途茫洋といえば確かに茫洋だが、少なくともその名前だけは知っているのだから、せめてここで取り上げられている作品くらいはぜんぶ目を通してから死にたいと思ったりするのだが、たぶんその計画と夢は叶えられずに泉下に没するのであろう。 泉下といえば、大岡昇平の箇所で彼の代表作を往時大流行していたバシュラールの「水と夢」などを振りかざして「水のある風景」として切ってみせたりしているが、これはちと強引すぎる手法で、そういう観念的な操作よりも永井荷風の「四畳半襖の下張」の裁判所における機知とユウモアみなぎる弁論趣旨書のほうがさらに面白かった。 面白かったといえば、松本清張の情熱的な顕彰で、これは私小説を唾棄し、壮大な社会小説を好む著者の面目が躍如していたし、小林秀雄の情緒的で腸ねん転的な酔眼講談批評よりも情理兼ね備えた吉田秀和の名批評を高く評価したり、幼少期の昭和天皇にまともな日本語を教えなかったことが、戦中戦後の重大な局面でいかに国運をあやまらせたかと説く「ゴシップ的日本語論」の方が、圧倒的に刺激的だ。 刺激的といえば、わが敬愛する「言葉は浅く、意は深く」とうたった詩人、堀口大學が歌会始の召人になったとき、「深海魚光に遠く住むものはつひにまなこも失うふとあり」と詠んだところ、当今は「よい歌をありがたう」と挨拶されたという逸話が紹介されていた。 逸話といえば、そのてのあれやこれやには事かかないわが私淑する宮廷の大歌人も、気骨稜々たる在りし日の大學に倣って、せめて生涯にただ一度なりとも、こういう天下を震撼させる一首を詠んでもらいたいものである。 なにゆえに冥土に向けて旅立たぬ天下を揺るがす歌詠めぬゆえ 蝶人
2014年05月09日
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bowyow cine-archives vol.640 そりゃあ1981年当時のキャスリーン・ターナーが超絶色っぽいスエクスイー美女には違いないが、どうしてあんな賢いプレイボーイ、ウィリアム・ハートが一途にのめり込んで殺人まで犯してしまったのかきちんと描かれていないのは、ハートがまだ名優になる前の時代であったことにもよろうが、彼女が美貌のみならず性的で器質的な武器を持っていたからだろう。 こういう悪女につかまったら男はひとたまりもないだろうなと思いつつ、終始嘘っつぽい絵空事の動画を眺めていたが、その最低のリアリテイを裏付けているのは他ならぬジョン・バリーの渋い劇伴でした。 ちなみにこの007などの映画音楽で知られる英国の名作曲家は、女優ジェーン・バーキンの最初の夫でしたが、2人の間に生まれたフォトグラファーのケイト・バリーが昨年12月に謎の死を遂げたことをはしなくも思い出しました。 なにゆえにいともたやすく人は死ぬたやすくは死なぬと思いこみしに 蝶人
2014年05月08日
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ある晴れた日に第219回 あ、ギッチョンチョン や、ギッチョンチョン ママがレモンなら パパはザボン 2人一緒でレモン・で・ザボン ママレモンとパパザボンは いつもなかよし 2人一緒でレモン・で・ザボン ところがところがギッチョンチョン 2人はわけのわからない理由で喧嘩する いったん喧嘩すれば仲良くなるのに2、3日 ひどいときには1週間 もっとひどけりゃ1ヶ月 ママがレモンなら パパはザボン 2人一緒でレモン・で・ザボン あ、ギッチョンチョン や、ギッチョンチョン なにゆえにいともたやすく卒業するのか宝塚AKBわが卒業は私が死ぬ時 蝶人
2014年05月07日
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照る日曇る日第705回 漱石、漱石と関連した英米文学、鷗外、紅葉、荷風、白鳥、潤一郎、菊池寛、里見、かの子、春夫、寒村、基次郎を縦横無尽に論じ来たり、論じ去った著者会心の文学評論集で、どこを開いても著者の博覧強記と才気渙発に驚かされ、啓発されないページが皆無という素晴らしい書物ですが、やはり冒頭におかれた夏目漱石論がいちばん面白いでしょう。 私はご多分にもれずこの国民的作家が大好きですが、それは「夢十夜」「吾輩は猫である」「坊つちゃん」「三四郎」「彼岸過迄」が大好きだからで、そのほかにも有名な作品があるようですが、別に面白くもなんともない。 なくっても一向に構わないと思っているので、著者が「猫」と「坊つちゃん」と「三四郎」を漱石が英国留学当時に際会したヴィクトリア朝写実主義からモダニズム文学への大転回から学んだ高級な喜劇小説、社会風俗小説と位置付けて高く評価しているのには瞠目させられました。 プルーストより4歳上、ジョイスより15歳上の男は、東京に帰って数年後、プルーストやジョイスに先んじてモダニズム小説を書いたとわたしには見えます。(「忘れられない小説のために」より引用)、 というのが丸谷才一選手の基本的な漱石観ざんす。 まあ別に博識無双の英文学者から当時の世界モダニズム文学の最先端などとレッテルを貼って貰わなくとも、あれくらい読んで痛快無比、胸がワクワクさせられる小説は今に至ってもざらにないのですけれど、著者がわが偏愛の「彼岸過迄」のモーツアルト的な軽やかさと悲しみと無常感を無視して通り過ぎているのはまことに残念でした。 ところで最近朝日新聞は、現代作家の連載小説のあまりの不毛に嫌気がさしたのか(宮部みゆきの「荒神」の下らなさを見よ!)突如漱石の「こゝろ」の原作通りのリピートを始めたのには驚きました。(どうせやるなら「彼岸過迄」にして欲しかった。) この「こゝろ」では乃木将軍が明治天皇に殉死したことを知った「先生」が「明治の精神」に殉死するわけですが、この不自然で唐突な結末に違和感を覚えた著者は、「徴兵忌避者としての漱石」に新しい光を当てる。 学生時代に北海道に「送籍」して日清・日露戦争の徴兵を逃れた漱石は、その後もつねに良心の呵責を覚え、それが松山落ちや熊本やロンドン時代の神経衰弱に繋がり、やがて漱石は、徴兵忌避という国民的裏切りを告白する代わりに、親友の妻と過ちを犯すという別の種類の裏切りを犯した男が、それを告白するという虚構のカタルシスを求めるようになり、その世間の目からは隠された舞台が「こゝろ」であったというのです。 漱石にとって、乃木将軍の自刃は明治天皇への殉死ではなく、二〇三高地に斃れた若き兵士たちへの殉死そのものであった。 「Kのような」同世代の若者への裏切りと、馴染みの友である明治国家への裏切りを自己処罰するために書かれたかもしれない漱石の痛苦と不気味な緊迫感に満ちた「こゝろ」を、著者の創見を鏡としながら改めて通読してみるのも一興ではないでしょうか。 なにゆえにbababadalgharaghtakamminarronnkonnbronntonnerronntuonntuonntyunntrovawnskawntoohoohoordenthurnuk!が雷の音なの19字目に「雷ゴロゴロ」と書いてあるでしょ 蝶人
2014年05月06日
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照る日曇る日第704回 著者とおなじく医師であり詩歌の人であった杢太郎の足跡を、あるときは鷗外、龍之介、あるときはホフマンスタール、またあるときは宮廷のご進講なぞに寄り道しながらとぼとぼと辿ってゆく。 のではあるけれど、そのおぼつかなげにみえて、率直で、真摯で、言葉の最良の意味においてアマチュア的な歩みっぷりに、限りなく魅了されるという不可思議な味わいを持つ独特の書物である。 鷗外によって本邦に紹介され、シュトラウスのオペラ「薔薇の騎士」「影のない女」の台本も書いたこの早熟の詩人兼脚本家を、なぜだか若き日の杢太郎は愛していたらしい。 しかし彼は、みずからの詩集「食後の唄」を発表することによって、おもむろにその影響を脱し、別乾坤を立ち上げてゆくのであるが、その長い長い迂路を、(おそらくホフマンスタールなぞ好きでもないにもかかわらず)、なぜだか杢太郎の虜になってしまっている老詩人は、執拗に、しかし時折舌舐めずりしながら、つまりはこのうえない老後の愉しみとして、杢太郎その人にひしと寄り添うのである。 本書の表題を「評伝」とせず「を読む日」としたのは、おのれを励ますためであり、命の続く限り続編を書き続けたい、と後記する86歳の著者の健康と健筆を、こころから願ってやまない。 なにゆえに桜が散っても春が来ぬ STAP細胞はあるのだろうか? 蝶人
2014年05月05日
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照る日曇る日第703回 世に所謂グローバリゼーションと新自由主義の進行によって、貧富の差はますます拡大し、持てる者と持たざる者との階級的軋轢は、日本の社会の安定的基盤をゆるやかに崩壊させようとしている。 寄る辺のない老人たち、幼くして死ぬゆく者、疾病や器質など生まれながらに心身に障がいを蒙った者たちに加えて、労働、教育の現場における激烈なさまざまな生存競争の敗者たちや落後者たちの大群が、自分を能天気にも社会的な勝ち組だと思っている「普通の人々による普通の社会」の安寧を脅かそうとしているのである。 むかしむかし、私は社会の最下層に沈む弱者たちが大連合して、権力の最上部に君臨する富裕階級の者どもと角逐する話を小説にしようと踏ん張っていたのだが、前者が戦いに勝利し、にっくき後者を血祭りに上げようとしたところで、強烈な吐き気に襲われて擱筆し、それきりになってしまったことがあるが、弱者がその特性を生かしながら強者に勝利するのは至難の技であると思った。 弱者は、強者が持たない孤立無援性、他者の痛みを感じ取ることができる想像力や優しさを持っているのだが、彼らがその孤立無援性を捨てて団結し、例えば武装蜂起の挙に出て強者の1人を殺戮した瞬間に、彼らは他者への優しさも想像力も幣履の如く投げ捨てて、殺意と憎悪が渦巻く「ただの強者」の位置に転落してしまうのである。 しかしよく考えてみれば政治的経済的社会的な強者もひとたび大病などを患って生物的動物的な事あればたちまち不幸のどん底に突き落とされて弱者中の弱者となり、その弱者が事あって一気に成りあがって最強の者となることすらあるのだから、ここでいう強弱の違いは相対的な次元の話かもしれぬ。 最終的には精神の王国でつねに魂の平穏を愉しむことが出来る人間を、絶対的な強者と称するのかも知れない。 いずれにせよこの2人の長い対談は、そういう地点で大停滞し、洞ヶ峠で昼寝を決め込んでいた私を叩き起こし、もういちど社会の多数派となりつつある弱者たちの、弱者たち自身による、「弱くて、脆くて、けれども楽しくて、けっして勝たない社会づくり」へのほの明るいヴィジョンを投げかけてくれたのであった。 なにゆえに人はそこまで強くなれるのかおのが弱さを抱きしめるから 蝶人
2014年05月04日
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ある晴れた日に第233回&鎌倉ちょっと不思議な物語第315回 まいとし春が近づくと心配になるのが、カエルどもの産卵である。 1月の終わりから2月の頭にかけて、朝夷奈峠の3か所の産卵スポットにスコップ持参で駆けつけて、小枝や枯れ葉などで埋まったり、乾ききったりしている水たまりを深く掘り下げ、すぐ傍を流れている太刀洗川の源流から水を補給したりして、アカガエルやイボガエルの交尾と産卵の準備をしているのであるんであるんであるん。 あるんであるんであるん らりらりらんらりらりらん ことしは早春になっても雪が降ったりしてかなりの異常気象だったので、せっかく大量の植物群を引き揚げてあつらえた横長の小運河型の第3現場の産卵は、結果的には失敗に終わった。 いや、2月の下旬に他の現場にさきがけてアカガエルが小さな卵を産んだのだが、あまりの寒さのために孵化しなかったのである。 しかし湧水のある第1現場とかなり大きな水たまりの第2現場では、イボガエルの透明で大きな卵が多数産みつけられ、日に日に元気なオタマジャクシになりつつある。 オタマジャクシはカエルの子 お前の孫ではないわいな 私の人世における大切な日課は、この2つの現場に顔を出し、心なきハイカーたちの悪戯から彼らの身を守ってやることだが、5月の連休に入ってもさしたる異常がないのは喜ばしい。 ひとつだけ気になるのは、緑の野草につつまれた第1現場(その世にも美しい光景は、わたくしのfacebookの扉をご覧いただきたい)に2匹のヤマカガシが棲息していて、いかにも楽しげにランランランと泳ぎ回りながら、おいらのいとしいオタマちゃんの捕食を、ほしいままにしていることだ。 むしゃむしゃむしゃ、落武者めちゃめちゃ。 ひとつ池で育ちゆくなり蝌蚪子蛇 じつは3年前にも第3現場で同様の事件が発生し、そのおり俄かに逆上した私は、ハローウッズの崎野隆一郎さんがマムシを見つけた時のように、そのにっくきヤマカガシの子蛇をたちまち血祭りにあげたのだった。 ワーイ、ワーイ、血祭りだあ。 ワーイ、ワーイ、お祭りだあ。 が、ことしの私はあれから2つも歳をとって、やはり殺生は良くないなあと思うようになり、「人間辛抱だ、喰うも喰われるも天命だ」と、諦めと悟りの境地にようよう到達できたので、そのまま放置しているのであるんであるんであるん。 またしてもあるんであるんであるん。 お前は大隈重信か。 ところがさらに驚くべきことは、これまでまったくノーマークであった第4地点に数匹の大きなオタマがひなたぼっこをしていたことである。 ゆるやかな渓流の小さな水たまりに、いつどうしてイボガエルが産卵していたのだろうか? 私の次男は、親の私が人為的にいきものの環境整備を行うことにかねてから批判的で、「人工の手を加えなくても生物の生命力は偉大であるから、外野から妙なグラブを出さずにボールは放置しておけばいい」 打ちました! 打ちました! ホームランか? ファールか? といつも忠告するのであるが、そういう説も一理はあるなあ、と思えた金曜日の昼下がりでした。 なにゆえにヤマカガシはおたまをむしゃむしゃ食べるそれが自然界の掟だから 蝶人
2014年05月03日
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ある晴れた日に第232回 四月は お花見の季節 ニッポン、ラリラン ニッポン、ラララン ニッポン、チャチャチャ ニッポン、チャチャチャ 四月は 感傷的な季節 ニッポン、ウルウル ニッポン、ジュルジュル ニッポン、チャチャチャ ニッポン、チャチャチャ 四月は ライオンの季節 ニッポン、グワアグワア ニッポン、グラアグラア ニッポン、チャチャチャ ニッポン、チャチャチャ 四月は 憂鬱な季節 ニッポン、ドクソン ニッポン、ドクゼン ニッポン、チャチャチャ ニッポン、チャチャチャ 四月は 変態の季節 ニッポン、ワオワオ ニッポン、ワイワイ ニッポン、チャチャチャ ニッポン、チャチャチャ 四月は 鳥滸なる季節 ニッポン、ラリラン ニッポン、ラララン ニッポン、チャチャチャ ニッポン、チャチャチャ 四月は残酷な季節 ニッポン、ゼッタイ ニッポン、ゼツボウ ニッポン、チャチャチャ ニッポン、チャチャチャ なにゆえにおかしくもないのにゲラゲラ笑うそれも処世の知恵かも知れぬ 蝶人
2014年05月02日
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ある晴れた日に第231回 おそらくは誰にも知られず身籠らむかのガラパゴスの大亀のごと ウォーホル描きし<サンフランシスコ・シルバースポット>なる絶滅危惧蝶サンフランシスコのいずこに舞うならむか いにしえの鎌倉人は現在の水道局あたりでイルカを食うたと 「津波」てふバー&レストラン横須賀のどぶ板通りにありました 税金を払わなくならばたちどころに国家など潰れてしまうと考えている 山一つ潰して全部墓地にするその企てをひそかに憎む 一本の電信柱の陰にして母永遠に待つ西本町二十五番地 カエルたちを無事に産卵させるためスコップ振るいて水たまり広げる 裏庭に今朝もコジュケイが現れてモチョット平和モチョット平和と鳴くのです スマホの後はウエアラブルらしいがガラケーの孤塁を守りわれは死にゆく まだなのかもう咲いたかなと尋ねゆく亀田家のソメイヨシノが春の始まり 鎌倉の小町通りの発掘現場身の丈掘ればもののふの屋形 目の塵を舌でぞろりと舐め取りしわが祖父の名は佐々木小太郎 初蝶と呼ばれし蝶は大雪の厳しさに寒さに耐えて生き延びし蝶 ほんとうは祈っても仕方ないと知りつつ祈るしかなくて沖つ白波 「昔のわたしってこんなに美人だったんだ」と驚いてるが今の君だって相当奇麗だ 短歌が芸術? ばかな。あれはサプリ。毎朝飲んでいるビタミン剤のようなもの。 宇宙には暗黒物質があると聞きわが魂の暗闇をおもう 三月や生きてしあればそれでよし 春雨や歌壇の雄との別れかな 「桃げん郷」の真ん中の字が出でこない 小綬鶏に一寸来いと呼び出されて春の朝 発条を出し終えて死ぬ蟷螂 桜咲く安西水丸逝きし日に 亀田家の桜一輪に浮かれだす 鶯の初音の上手訝しや ウォホールとは俺のことかとウォーホル言い テレビよりタモリに投げし我のくす玉 春風やSTAP細胞あらまほし ジャンヌ・ダルクの手柄を盗むお茶ノ水博士 生者より死者懐かしき梨の花 春風や「スタップ細胞はあります」と言ってみる 丹波弁も東京弁もちゃんと喋れなくなってしまった だんだんと死者懐かしき春の夜 てのひらに小石を乗せれば人の命かなしも 百年の孤独が去りてボルヘス逝く オフェーリアのように花盛りの椿の木が流れてゆく これからなにかいいことありそうかね、中村うさぎチャン。蝶人
2014年05月01日
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ある晴れた日に第230回なにゆえに今年の春はまだ来ない我が家の桜がまだ咲かぬからなにゆえに右の毛だけが禿げたのか耕君がそこを激しく叩くからなにゆえに急に耕君はドモルようになったのか悪いやつらが圧迫したからなにゆえに阪神は万年駄目トラなのか虚人を巨人と勘違いしているからなにゆえにわが長男は自閉症になりしやわがニコチンを胎児に喫ませしゆえなにゆえに消費税をまた上げる民草の生きる力をまた奪うためなにゆえにS席のみ売れ残りたるコンサートなにゆえC席をもっと増やさぬなにゆえに2時半に夕刊を配るオートバイいくらなんでも早すぎないかなにゆえに短歌入選で葉書10枚プレゼントこれが朝日と日経の違いかなにゆえに真夜中に短歌は生まれるさあ飛び起きて手帖に記せなにゆえにまずモザールを愛さぬかバッハを好みアルバンベルク聴くとふ岡井隆なにゆえにハンミョウを有毒という毒々しけれど無毒の昆虫なるになにゆえに過去の記憶がまたよみがえるあらゆる記憶を蓄積し続ける君なにゆえに神戸の街はハナミズキだらけ安藤忠雄がそう決めたからなにゆえにおかしくもないのにゲラゲラ笑うそれも処世の知恵かも知れぬなにゆえにときおりは立ち上がってワオワオグワアアと吼えぬか三越のライオンなにゆえに大阪では街中にプールが多いのか「モータープール」とは駐車場なりきなにゆえに煙草の煙を憎むのかそれが障がい児を生んだと信じるゆえになにゆえに子猫を殺したと新聞に書く作家以前の人間がおかしいなにゆえに子猫を殺したと新聞に書く百けんのノラ読み給えなにゆえにピリオド楽器の演奏は嘘臭いのか古楽器自体が胡散臭いからなにゆえに豚の丸焼きを無理喰いしたのか膵炎になって死んでしまった藤巻百貨店なにゆえに密室で歌だけを詠んでいる原発にも秘密保護法にも口を噤んでなにゆえに外の世界ばかり追いかける心の奥に沈み行くべし何ゆえに蓮の葉っぱをちょん切って川に捨ててしまうのか依然謎多き我が家の自閉症者なにゆえに心かくは羞じらう心は七彩のアジサイの花ゆえになにゆえにしょうぐあいしゃのむすこをもつきみがしょうぐあいしゃになってしょうぐあいしゃのははをかいぐぉしているそれもしょうぐぁないことなのか なにゆえに私は歌をうたうのか愛する天使を讃えるためになにゆえにコンピューターにプロ棋士が負けるのか機械に負ける人間あわれなにゆえにそんなガラケーを大事にしてるガラパゴス島が大好きだから 蝶人
2014年04月30日
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ある晴れた日に第229回 渋谷には、行ってはならない。 とりわけ渋谷の地下に降りてはならない。 行ってはならぬといいながら、私は渋谷に近づいてゆく。 どんどんじゃんじゃん近づいていく。 JRのすぐ傍にかつて東横線があり、東横線の下には東急のれん街があった。 ある日私がのれん街を足早に歩いていると、どういう風の吹きまわしだか 誰かの髪の毛を覆っていたネットの細かい糸が、私の上着の右のボタンに絡んでしまった。 いったいどうしてそんなことになったのか、どうしてそんなことがあり得たのか、いま考えても不思議で仕方がないのだが、実際にそれは起こってしまったのだ。 「アイタタタ、イタタタ」という悲鳴に、私がその声の主の傾いた顔を見ると、知り合いの広告会社のおばさんだった。 ちょっと狆のような顔をした私の苦手な粘液質タイプの営業ウーマンだった。 私が懸命にネットとボタンのもつれを解消しようと悪戦苦闘している間も、 おばさんは「アイタタタアイタタ」と悲鳴を上げていたから、 よっぽど痛かったのだろう。 やっとこさっとこもつれにもつれた黒い糸を取り外すことに成功した私が、改めて彼女に「申し訳なかった」と詫びていると、狆顔のおばさんはわが社に営業に来る時とはうって変わった怒りに満ち満ちた凄い顔付きになって、挨拶もせずにJRの通路の方へ立ち去った。 おそらく、私がどこの誰だか、気が付きもしなかったろう。 一人暮らしの彼女が強盗に押し入られ、殺されたと聞いたのは、それからまもなくのことだった。 渋谷には、行ってはならない。 とりわけ渋谷の地下に降りてはならない。 行ってはならぬといいながら、私は渋谷に近づいてゆく。 どんどんじゃんじゃん近づいていく。 渋谷の地下へ降りてゆけば、すぐさま西も東も分からなくなる。 たちまち自分が自分でなくなってしまうのだ。 地下には真昼間でも誰もいない。そのかわりにいつでも見えない亡霊のようなものがいて、君のすぐ傍を歩いている。 亡霊のようなものの数は、夕方になるとどんどん増加して、夜ともなれば暗闇の中で、うじゃうじゃしている。三々五々相当不気味な会話を交わしている。 われ亡霊に語れば かれまたわれに答う われ亡霊に微笑めば かれもまたわれに微笑む われ亡霊に近づけば かれまたわれに近し かくて日一日刻一刻とわれらが再会の時近づきぬ 渋谷には、行ってはならない。 とりわけ渋谷の地下に降りてはならない。 行ってはならぬといいながら、私は渋谷に近づいてゆく。 どんどんじゃんじゃん近づいていく。 なにゆえに心かくは羞じらう心は七彩のアジサイの花ゆえに 蝶人
2014年04月29日
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bowyow cine-archives vol.638 先進国の都会のショーウインドウを華麗にきらめいているダイアモンドは、じつはアフリカの貧困国の貧しい労働者を血祭りにあげ、徹底的に搾取するグローバルな経済構造の中から誕生していることをあばく社会派ドラマである。 テーマは立派なものであるしレオナルド・ディカプリオ選手が熱演しているが、映画としてはつまらない。こういう場合には「お疲れ様互でした」と言って別れることにしようではないか。 なにゆえに豚の丸焼きを無理喰いしたのか膵炎になって死んでしまった藤巻百貨店 蝶人
2014年04月28日
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照る日曇る日第670回&671回 著者が、生涯の最後に遺した大長編小説である。 小さな藩の平侍として生を享けた主人公三浦主水正が、さまざまな艱難辛苦に耐えながら、みずからの望みではなかったが、ついに城代家老の要職に就くまでの、ある意味で立身出世の、またある意味では江戸時代を懸命に生きた青年のビルダングスロマンである。 主人公が長い坂を登るようにしてゆるゆると登りつめてゆく道中には、太刀廻りあり恋の鞘当てがあり、謀反や大陰謀が待ち伏せしているという波瀾万丈の物語であるが、主人公の妻であるつるの、男勝りの外観に秘められた女の生と性の激情が、はじめは処女の如く終わりは脱兎の如く描かれていて、いわゆるひとつの周五郎節のあざやかな展開と演奏には脱帽せざるをえない。 しかしここでもっと注目すべきは、「ながい坂」という題名である。いや題名で使用されている「ながい」という形容詞の表記だろう。 小説でもエッセイでも文章で重要なのはその内容であるが、その内容をきわだたせる為の文章表現も劣らず大事である。この点に関しては(かの悪名高き塩野七生をのぞく)大多数の作家がひとしく留意しているが、とりわけ意識的で敏感だったのは、昔なら夏目漱石、最近では吉本隆明と司馬遼太郎ではないだろうか。 漱石ははじめ「心」というタイトルで連載していた新聞小説を岩波書店から出版するときには「こころ」ならぬ「こゝろ」という表題に変更した。 司馬遼太郎は、みずからの文章をおおむねひらかなを主軸としたやわらかな喋り言葉で書きながら、論旨のエッセンスに該当するような箇所にはあえて難解な名詞を漢字で書き込み、それが中心点となるグラフィックの世界をページ毎にレイアウトしていった。 またわが国を代表する詩人でもある吉本隆明が、彼の評論を記述する際に、その論旨の要点を文章の周縁部から劇場的に際立たせるために、「ちいさい」という形容詞や「ひとつふたつ」という数詞、あるいは動詞にもあえてひらかなを多用したことは良く知られている。 こういうやりくちをもちろん熟知していた山本周五郎は、この小説の題名を「長い坂」とせずにあえて「ながい坂」とヒラクことによって、主人公ともはや完全に一体化した長期に亘る激烈な心身の争闘のながさと重さに、私たち読者が想いを馳せ、それを体感してもらうおうと願ったのである。 なにゆえにピリオド楽器の演奏は嘘臭いのか古楽器自体が胡散臭いから 蝶人
2014年04月27日
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突然変異が起こったのか、従来の日本人が備えていた構成要素以外の遺伝子を持つ子供たちがどんどん生まれるようになってしまったので、全国民がパニック状態に陥った。11/15 街の外れの公園で野球が始まった。バッターの私が強い打球を放つと1塁手のノノヘイが球を後逸したので、私は溝蓋のベースを蹴って全速力で2塁に向かったが、いくら走ってもベースがないし2塁手もいない。仕方なく後戻りしたらノノヘイにタッチされて、アウトになってしまった。11/14 みたこともない美しく巨大な蝶が止まっていた。鮮やかな紅色の羽根を静かに動かしている彼女の胸を、右手の親指と人差し指でそっと挟んで、三角形の硫酸紙に収めようとしていると、翼の中からやはりみたこともない美しい中小2匹の蝶が飛びだした。11/14 東京駅の近くでまたしても私は迷子になってしまった。行けども行けども横須賀線のホームに辿り付けず、おまけに私は自転車に乗ったままなのである。ようやくたどり着いた改札口の若い女性の前で法外な運賃を要求された私は、ブチ切れた。11/13 私たち南軍と東軍は激戦を繰り広げていたが、武器ではなく野球の試合で決着をつけようということになり両軍18名の選手が白熱のシーソーゲームを展開したが、9回裏の最後の攻撃で私の一打が劇的な本塁打となりついに結着がついたのだった。11/12 こうして私たちが東軍を従えていた間に、強大な北軍は西軍を屈服させ、一路南下していたが、単身丸腰で敵地に乗りいれた私の無益な戦いはやめようという提言が受け入れられ、しばしの平和が訪れたのだった。11/12 授業をしようといったん教室に入った私が、忘れ物をしたので引き返して戻ってくると、そこは文化祭の準備をする学生たちで超満員だった。机の上に立ったカトリーヌ・スパーク似の長身の学生から「センセ、ちょっとこのスカートの長さを見て下さい」と頼まれたので私は赤面した。11/11 なんのこれしきの軍勢あっという間にねじ伏せてやる、といきまいて敵陣に襲いかかった我が軍であったが、圧倒的な数を頼みにしゃにむに攻めに攻めても強固な砦を落とせず、どんどん死傷者が増えていくのだった。11/11 私は甘い顔をしたドライバー、通称「甘顔ドライバー」なのだが、レースの途中でいつもガードレールに突っ込むので、協会ではわざわざ私のために「甘顔ドライバー・スイート・スポット」という特別コーナーを作ってくれた。11/9 若い女性ばかり100人くらいが住んでいる女語ケ島にでは毎月リーダーが替わってうまく運営されていた。138/11/8 私は何週間もかけて、南北ベトナムやアフリカの僻地を行き来している。はじめそれは仕事だったはずだが、いまではそれは自分の趣味というか、それなしではおのれを制御できない生き方の基軸規範のようなものになってしまい、いったいいつになったら故郷に帰れるのか見当もつかない。13/11/7 懐かしい故郷を離れ、遊撃隊の隊長として戦場に出てから永い歳月が経ったが、久しぶりに国境の南のわが牧場に戻ると、真っ先に私を見つけた愛犬ポスが猛烈な勢いで私の胸に飛び付いたので私はその場でひっくりかえってしまった。11/6 急に戦争になってしまったので、交通網も大混乱している。ようやく新横浜までやって来たのだが、ホームに止まったまま新幹線は定時になってもさっぱり動かない。もてる限りの疎開用の荷物を車内に担ぎこんだ乗客たちは、疲れ切った表情でねむりこけていた。13/11/5 1台の砲車と1個小隊を率いた私は、敵軍が占拠する皇居目指して突撃を敢行したが成功せず、敵の砲撃で壊滅的打撃を蒙りながらもなおも旺盛な闘志を燃やしていた。13/10/5 高台にある住宅街の広場の一角に住民たちが購読しているいろんな新聞が並んでいて、住民たちはそれらを手に取りながら、ゆっくり読んだり、感想を述べ合ったりしながら、日曜の朝のひとときを楽しんでいました。13/11/3 私と近所のおばさんたちが立っている道路の目の前でタクシーが停まり、お向かいの寺尾さんの奥さんが降りるときに、座席に落ちていた千円札を「忘れ物ですよ」といって運転手に渡したので、それを見ていたおばさん連中は「偉いわねえ」と感嘆していたが、私ならそうはしないなと思った。13/11/3 大阪での打ち合わせの帰り、電車の中でまたしても例の女が「あたしもうすぐロスに行くからあんたにあげてもいいよ」と囁くのだが、私はその手は桑名の焼き蛤と思いつつ急速に暮れなずむ十三の夕景を眺めていた。13/11/2 草原に火を放たれたために、黒い煙と紅蓮の炎が私に向かって押し寄せた。もうどこにも逃げ場はない。完全に退路を断たれた私は、いよいよその時が来たと覚悟を固めた。13/11/1 なにゆえにしょうぐあいしゃのむすこをもつきみがしょうぐあいしゃになってしょうぐあいしゃのははをかいぐおしているそれもしょうぐあないことなのか 蝶人
2014年04月26日
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西暦2013年霜月蝶人酔生夢死幾百夜 久しぶりに音響の不気味なサントリーホールへ行ったら、背中どころかケツ丸出しの超妖艶女流ピアニスト、カティア・ブニアティシヴィリ嬢が髪振り乱して演奏していたので、超興奮した私が舞台に上がってバックからクイクイ犯したのに、平然とリストを弾いているのだった。11/30 みなし子ハッチになってしまった私の遺産を狙って、親戚の者たちがいろんな悪さや嫌がらせをしていたが、私はじっと我慢を続け、いずれは彼らを見返してやろうと虎視眈々とその機会を窺っていた。11/28 お尋ねものとして放火、窃盗、恐喝、婦女暴行などをやりたい放題の乱行を繰り広げていた私。とうとう十手のお縄を頂戴して市中引き回しの上磔となったが、なんの後悔もなかった。11/28 私を「どうしようもないデクノボウで世界一卑怯な奴!」と罵ったその最高権力者めがけて突進した私は、その憎らしい顔を靴で踏みにじり、足蹴にして川に突き落とすと、まわりの連中は、あっけに取られてお互いに顔を見合わせるのだった。11/27 ダイアナ妃ともども我々は山中で孤軍奮闘したのだが、多勢に無勢武器弾薬も尽きたので、次第に前線から後退を余儀なくされていたが、そのときどこからともなく飛来した敵弾が、しんがりの中尉の頭を貫通したので、彼の頭は柘榴のようにはじけた。11/26 いろんなメディアで短歌や俳句を募集しているというので、どんどんネットで応募していたが自宅の電話番号を間違えたまま投稿してしまったことに気が付いた。自分としてはかなり自信作だっただけに、悔しいというか、耄碌したというか眠っていながら目の前が暗くなる想いだった。11/25 マムシは危険だし好きではないが、こいつに出会うと捕まえてすぐに叩き殺すか、体調が良く元気な時は、彼奴の頭を口の中で噛み切ることにしている私だった。11/24 海に向かって開かれた細長い洞窟が、私の住居だった。「ここは狭いから、余計なものは全部捨てるんだ」と隊長がいうとおりにしていたのだが、次々に宅急便がいろんな物を送り届けたので、すぐに手狭になってしまった。11/23 私たちはその海岸で多くの魚を捕まえたが、隣の北朝鮮の倉庫には魚どころかなにも置いてなかったので、彼らを魚料理の宴に招いたのだが、誰もやってこなかった。11/22 戦争の捕獲品をラクダに乗せて帰国した私たちだったが、その配分を巡って仲間がいちゃもんをつけてきたので、私は頭にきて「それなら全部お前たちにくれてやる」と怒鳴って席をたった。11/20 展示会が終わったら好きなCDを貰っていいといわれた」とイケダノブオがいうので、私は「誰から?」とにらみをきかせ、それらのCDを全部ゼンタロウに渡して「お前が入用な奴を抜いて残りを俺に返せ」と冷たく言い放った。13/11/19 出版社の入社式の夜に出来て仕舞った知花クラクラ嬢は美術雑誌課に、私は文藝誌課に配属された。広大な編集部の真ん中にビオトープの池があり、昼休みに私が茶色い亀を放り込むと、大口を開けた鰐がたちまちそいつをかっ喰らったので、クラクラ嬢は失神してしまった。11/18 地方から出てきたばかりの私が、どの列車に乗ればいいのか東京駅で迷っていると、いかにも洗練された親切な青年が、「これに乗ってここで降りなさい。僕も一緒に途中まで行きますから」と言ってくれたが、発車しても姿が見えないと思いきや、ホームの先端で飛び乗って来た。11/17 その若い男の本当の職業は実は投資家で、「2千万の原資でたちまち2億2千万円を手にしたことがあります。もしあなたがお金に困っていたら私がなんとかしてあげますからそう言ってください」と朗らかに語るのであった。 「どんな難しい命題でも即座に読み解いてみせましょう」と自信満々で請け合うので、私が気になっていた禅の公案の意味を問うと、その男は私からかなり離れた場所にどかりと腰をおろし、無言のまま部厚い唇をゆっくりと動かすのだった。11/17 信じなければならないのにどうしても信じきれない仲間に対する乾坤一擲の犠牲的精神を発揮して、私は腹腹爆弾のスイッチをその仲間に託し、権力の中枢部へと単身突入していった。13/11/16
2014年04月26日
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ある晴れた日に第228回 天ざかる鄙の里にて侘びし人 八十路を過ぎてひとり逝きたり 日曜は聖なる神をほめ誉えん 母は高音我等は低音 教会の日曜の朝の奏楽の 前奏無みして歌い給えり 陽炎のひかりあまねき洗面台 声を殺さず泣かれし朝あり 千両万両億両すべて植木に咲かせしが 金持ちになれんと笑い給いき 白魚のごと美しき指なりき その白魚をついに握らず そのかみのいまわの夜の苦しさに引きちぎられし髪の黒さよ うつ伏せに倒れ伏したる母君の右手にありし黄楊(つげ)の櫛かな 我は眞弟は善二妹は美和 良き名与えて母逝き給う 母の名を佐々木愛子と墨で書く 夕陽ケ丘に立つその墓碑銘よ 太刀洗の桜並木の散歩道犬の糞に咲くイヌフグリの花 犬どもの糞に隠れて咲いていたよ青く小さなイヌフグリの花 千両、万両、億両 子等のため母上は金のなる木を植え給えり 滑川の桜並木をわれ往けば躑躅の下にイヌフグリ咲く 犬どもの糞に隠れて咲いていたよ青く小さなイヌフグリの花 頑なに独り居すると言い張りて独りで逝きしたらちねの母 わたしはもうおとうちゃんのとこへいきたいわというてははみまかりき わが妻が母の遺影に手向けたるグレープフルーツ仄かに香る 瑠璃タテハ黄タテハ紋白大和シジミ母命日に我が見し蝶 犬フグリ黄藤ミモザに桜花母命日に我が見し花 雪柳椿辛夷桜花母命日に我が見し花 真夜中の携帯が待ち受けている冥界からの便り母上の声 われのことを豚児と書かれし日もありきもういちど豚児と呼んでくれぬか 一本の電信柱の陰にして母永遠に待つ西本町二十五番地 蝶人
2014年04月25日
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1993年9月弟と 思いしきみの 訃を知りぬ おとないくれし 日もまだあさきに 拡がれる しだの葉かげに ひそと咲く 花を見つけぬ 紫つゆくさ 拡がれる しだの葉かげに 見出しぬ ひそやかに咲く むらさきつゆくさ 水ひきの花枯れ 虫の音もさみし ふじばかま咲き 秋深まりぬ ニトロ持ち ポカリスエット コーヒーあめ 袋につめて 彼岸まゐりに 久々に 野辺を歩めば 生き生きと野菊の花が 吾あを迎うるよ うめもどき たねまきてより いくとしか 枝もたわわに 赤き実つけぬ 露地裏に 幼子の声 ひびきいて 心はずむよ おとろうる身も 戸をくれば きんもくせいの ふと匂ふ 目には見えねど 梢に咲けるか 秋たけて ほととぎす花 ひらきそめ もみじ散りしく 庭のかたえに なき人を 惜しむように 秋時雨 村雨は 淋しきものよ 身にしみて 秋の草花 色もすがれぬ 実らねど なんてんの葉も あかろみて 病みし身も 次第にいえて 友とゆく 秋の丹波路 楽しかりけり 山かひに まだ刈りとらぬ 田もありて きびしき秋の みのりを思ふ いのちみち 着物の山に つつまれしまさ子の君は 生き生きとして 雅子さんご成婚か、不詳 カレンダー 最後のページに なりしとき いよよますます かなしかりける 虫の音も たえだえとなり もみじばも 色あせはてて 庭にちりしく 深き朝霧の中、11月27日 長男立ち寄るふりかえり 手をふる車 遠ざかり やがては深く 霧がつつみぬ 1994年4月散りばめる 星のごとくに 若草の 野辺に咲きたる いぬふぐりの花 この春の 最後の桜に 会いたくて 上野の坂を のぼり行くなり 春あらし 過ぎてかた木の 一せいに きほい立つごと 芽ふきいでたり 1994年5月浄瑠璃寺に このましと見し 十二ひとえ 今坪庭に 花さかりなり うす暗き 浄瑠璃寺の かたすみに ひそと咲きたる じゅうにひとえ あらし去り 葉桜となる 藤山を 惜しみつつ眺む 街の広場に 級会クラスかい 不参加ときめて こぞをちとしの アルバムくりぬ 友の顔かほ 「をちとし」は一昨年の意 萌えいづる 小さきいのち いとほしく 同じ野草の 小鉢ふえゆく 藤山を めぐりて登る 桜道 ふかきみどりに つつまれて消ゆ 登校を こばみしふたとせ ながかりき 時も忘れぬ 今となりては 学校は とてもたのしと 生き生きと 孫は語りぬ はずむ声にて 円高の百円を切ると ニュース流る 白秋の詩をよむ 深夜便にて 「深夜便」はNHKラジオ番組 水無月祭老ゆるとは かくなるものか みなつきの はじける花火 床に聞くのみ 「水無月祭」は郷里の夏祭り もゆる夏 つづけどゆうべ 吹く風に 小さき秋の 気配感じぬ 打ちつづく 炎暑に耐えて 秋海棠 背低きままに つぼみつけたり 衛星も はた関空も かかわりなし 狂える夏を 如何に過すや 草花の たね取り終えて 我が庭は 冬の気配 色濃くなりぬ 1995年4月いぬふぐり むれさく土手を たづね来ぬ 小さく青き 星にあいたく なにゆえに私は歌をうたうのか愛する天使を讃えるために 蝶人
2014年04月24日
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1992年11月 もみじ葉の 命のかぎり 赤々と 秋の陽をうけ かがやきて散る おさなき日 祖父と訪ひし 古き門 想い出と共に こわされてゆく 老祖父と 共にくぐりし 古き門 想い出と共に こわされてゆく 1992年12月 暮れやすき 師走の夕べ 家中(いえじゅう)の あかりともして 心たらわん 築山の 千両の実の 色づきぬ 種子より育てし ななとせを経て 手折らんと してはまよいぬ 千両の はじめてつけし あかき実なれば 師走月 ましろき綿に つつまれて ようやく棉の 実はじけそむ 「棉」は綿の木、「綿」は棉に咲く花 母の里 綿くり機をば 商いぬと 聞けばなつかし 白き棉の実 1993年1月 病院にて 陽ささねど 四尾の峰は 姿見せ 今日のひとひは 晴れとなるらし 由良川の 散歩帰りに 摘みてこし 孫の手にせる いぬふぐりの花 みんなみの 窓辺の床に 横たわり ひねもす雲の かぎろいを見つ 七十年 過ごせし街の 拡がりを 初めて北より ひた眺めをり 今ひとたび あたえられし 我が命 無駄にはすまじと 思う比頃 1993年2月 大雪の 降りたる朝なり 軒下に 雀のさえずり 聞きてうれしも 次々と おとないくれし 子等の顔 やがては涙の 中に浮かびぬ くちなしの うつむき匂う そのさがを ゆかしと思ふ ともしと思ふ 「ともし」は面白いの意。 十両、千両、万両 花つける 我庭にまた 億両植うるよ 命得て ふたたび迎ふる あらたまの 年の始めを ことほぎまつる おさな去り こころうつろに 夜も過ぎて くちなし匂う 朝を迎うる 炎天の 暑さ待たるる 長き梅雨
2014年04月24日
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ある晴れた日に第228回 昨日は私の母愛子の命日でしたので、その冥福を祈るために生涯アマチュアの歌詠みであった彼女の全歌集をここに採録しておきたいと存じます。母の霊よ安かれ! つたなくて うたにならねば みそひともじ ただつづるのみ おもいのままに 七十年 生きて気づけば 形なき 蓄えとして 言葉ありけり 1995年4月 いぬふぐり むれさく土手を たづね来ぬ 小さく青き 星にあいたく 1992年5月 五月晴れ さみどり匂う 竹林を ぬうように行く JR奈良線 なだらかに 丘に梅林 拡がりて 五月晴れの 奈良線をゆく 直哉邸すぎ 娘と共に ささやきのこみちとう 春日野を行く 突然に バンビの親子に 出会いたり こみちをぬけし 春日参道 1992年7月 くちなしの 一輪ひらき かぐわしき かをりただよう 梅雨の晴れ間に 梅雨空に くちなし一輪 ひらきそめ 家いっぱいに かおりみちをり 15,6年前の古いノートより いずれも京都への山陰線の車中にて 色づける 田のあぜみちの まんじゅしゃげ つらなりて咲く 炎のいろに あかあかと 師走の陽あび 山里の 小さき柿の 枝に残れる 山あひの 木々にかかれる 藤つるの 短き花房 たわわに咲ける 谷あひに ひそと咲きたる 桐の花 そのうすむらさきを このましと見る うちつづく 雑草おごれる 休耕田 背高き尾花 むらがりて咲く 刈り取りし 穂束つみし 縁先の 日かげに白き 霜の残れる PKO法案 あまたの血 流されて得し 平和なれば 次の世代に つがれゆきたし もじずりの 花がすんだら 刈るといふ 娘のやさしさに ふれたるおもひ うっすらと 空白む頃 小雀たち 樫の木にむれ さえずりはじむ 1992年8月 娘達帰る 子らを乗せ 坂のぼり行く 車の灯 やがて消え行き ただ我一人 兼さん(昔の「てらこ」の番頭さん)の遺骨還りたる日近づく かづかづの 想い出ひめし 秋海棠 蕾色づく 頃となりたり 万葉植物園にて棉の実を求む 棉の花 葉につつまれて 今日咲きぬ 待ち待ちいしが ゆかしく咲きぬ いねがたき 夜はつづけど 夜の白み 日毎におそく 秋も間近し なかざりし くまぜみの声 しきりなり 夏の終はりを つぐる如くに わが庭の ほたるぶくろ 今さかり 鎌倉に見し そのほたるぶくろ 花折ると 手かけし枝より 雨がえる 我が手にうつり 驚かされぬる なすすべも なければ胸の ふさがりて 只祈るのみ 孫の不登校
2014年04月24日
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ある晴れた日に第216回檸檬檸檬、檸檬は苦いか酸っぱいか京都三条麩屋町、丸善書店の本の上に置かれた檸檬爆弾10月8日、快晴の羽田で配られた黄色い檸檬ゼームス坂の高村邸、智恵子さんがむしゃむしゃ食べてしまった檸檬昨日、我が家の奥さんが潰してジャムにした檸檬檸檬檸檬、檸檬は苦いか酸っぱいか何ゆえに蓮の葉っぱをちょん切って川に捨ててしまうのか依然謎多き我が家の自閉症児 蝶人
2014年04月23日
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照る日曇る日第669回 こういうすんごい短編だったとは知らなんだ。まるでドストエフスキーの大審問官の巻のような強い衝撃を感じた。 素材としてはキリストとか宗教問答とかを取り扱っているのだけれど、それは表面だけのこと。 兄のズーイが落ち込んだ妹のフラニーをあの手この手で立ち直らせようと懸命に言葉を尽くしているうちに、突然「イエス・キリストその人」が、うすっぺらい文庫本の吹けば飛ぶような頁から、まるで不動明王のように如意輪観音のように立ち上がってくるのは、まさしく文学の奇跡、芸術家の魔術としか思えない。 まっことJ.D.サリンジャー恐るべし! これは「ライ麦」どころの騒ぎではない。 私はここで、彼の作品を新たに翻訳し、私の衰えた生命力を蘇らせてくれた村上春樹選手に心からお礼を申し述べたい。 ありがとうサリンジャー! ありがとう村上春樹! ありがとう文学! ありがとう私の残り少なくなった人世! なにゆえに外の世界ばかり追いかける心の奥に沈み行くべし 蝶人
2014年04月22日
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bowyow cine-archives vol.637 大きな状況としてはメキシコの貧農と大ブルジョワの階級闘争があり、権力者に歯向かう主人公たちの政治的立場が暗示されているが、小さな状況としては、金欲や性欲や権勢欲、それに不可解な男同士の友情などが月に群雲花に風であり、映画としてはもっぱら後者の軋轢や盛りだくさんないさかいをゴキブリホイホイのように喜んで追いかけているのだが、やっぱり最後は悠久の大義、偉大なる正義の大思想の突如本家帰りしてしまうというまことに格調高いというかけったいな映画であった。 小状況の世界ではやたら根拠もなく人を殺すのに、大状況の世界に入ると、もったぶった人殺しの理屈をでっちあげるところが不可解であり躓きを覚える。 なにゆえに右の毛だけが禿げたのか耕君がそこを激しく叩くから 蝶人
2014年04月21日
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照る日曇る日第669回 いまは平成の御代であって平安時代ではないのに、引っ越しの前夜に引っ越し先とは方角が異なる場所で夜を明かす「方違え」、頭のうちそとで幻の寺の梵鐘が微かに鳴り響く表題作も面白かったが、本書に収められた最上の短編は疑いもなく最後におかれた「机の四隅」であろう。 芭蕉最晩年の「入月の跡は机の四隅哉」という一句を枕に語り起こされるこの魂の遊離、静かな離魂の物語は、十年一日のごとく机に向かって端坐している主人公が、梅雨時の夕べにふと思い立って、家の向うの林の中の紫陽花の花盛りのほの暗い路を辿るうちに、時と所の感覚を失い、やがて元の住処に戻ろうとゆるゆら歩みながら無人の座敷の机の四隅を幻視するところで、われひと共に虚無の天地に暗溶してゆく一種の怪奇噺でもある幻想譚で、末尾には「紫陽花にわれも机の四隅かな」という一句が終止符のようにさりげなく置かれている。 著者得意の神仙自在境の魔術といえばその通りだが、人世の機微についてこれほど深々と余韻を残す短編を描ける作家はいまどきどこにもいないだろう。 なにゆえに偶には立ち上がってグワアグワアと吼えぬか三越のライオン 蝶人
2014年04月20日
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照る日曇る日第668回 はじめは都会暮らしの働く女性の苦労話かと思わせておいて、ヒロインが田舎の夫の実家の傍に住むようになった段階から突如雲行きが怪しくなる。 彼女の回りでは蝉が狂ったように泣き喚き、至るところにあいている穴だの正体不明の奇妙な人物や黒い獣!までが登場するところはさながら泉鏡花お得意の怪異小説の世界を思わせる。 しかし著者の視線はあくまでも冷静であり、ホラー小説や怪奇小説を書こうとしているのではなく、とある田舎の、とある住民たちに混じって生活している若い「嫁」の日常をあるがままに叙述しているに過ぎないのだが、そうでありつつも常に漠然とした不安と狂気、何らかの異常を孕んだ不穏な空気が漂っているのが恐ろしいのである。 表面は恐ろしくないけれど、ひと皮めくればたちまち戦慄に貫かれるようなこの恐ろしさは、どこかスタンリー・キューブリックの映画「シャイニング」の世界にも似ているようだが、この物語はその映画のような阿鼻叫喚をちらりともほのめかさず、じつにあっさりと終わってしまうのであって、じつはそこが「シャイニング」より一層怖いところなのである。 なにゆえに大阪では街中にプールが多いのか「モータープール」とは駐車場なりき 蝶人
2014年04月19日
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