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茫洋物見遊山記 第150回
名人竹本住大夫丈が引退すると聞いたので、終日糠雨そぼ降る半蔵門まで駆けつけ、風薫る皐月人形浄瑠璃の饗宴に列することができました。
住太夫丈の引退狂言は「恋女房染分手綱」の「沓掛村の段」の後半「切」の部のみでしたが、さすがは人間国宝の白鳥の歌、登壇するだけで大向こうから万雷の拍手が沸き起こります。
しかも舞台の上では吉田文雀、吉田 簑助のご老躰があいつとめ、人間国宝三名人併せての豪華揃い踏みですから、大坂の古典芸能鑑賞感覚零市長はともかく、平成の俄か江戸っ子ならこれを見逃すわけには参りませんて。
されど音吐朗々とは聞こえがよいけれど、蛮声や金切り声で怒鳴る未熟な太夫が多い中、さすがに御歳九〇に手が届きかけた老丈は誰の目にも顔面蒼白と映り、もはやそのような元気な声音は出そうと思っても出せませぬ。
よって全体に詞の意味を噛んで含めるような温厚にして滋味深い発声で終始し、これが満員の聴衆にかえって大きな感銘を与えましたが、隣に座った太棹の鶴澤錦糸の目に浮かんだ一掬の涙が、なによりもこの偉大な浄瑠璃語りへの送別と私の目には映りました。
この日の演目は、この引退狂言のほかに前半は「増補忠臣蔵」、「 卅三間堂棟由来」、後半は「女殺油地獄」「鳴響安宅新関」でしたが、文楽の完成度で比較すれば夜の部の二演目の圧勝で、できれば 住太夫丈もこちらに出て欲しかった、というのはないものねだりでしょうね。
近松門左衛門の傑作 「女殺油地獄」は、「 徳庵堤の段」「河内屋内の段」の後を受ける「豊島屋油店の段」における、川内屋与兵衛による豊島屋の女房お吉惨殺シーンが、やはり最大のみものです。
歌舞伎でも有名な、もはや芝居とは思えない地獄絵図をこれでもか、これでもかと繰り広げるのですが、緊張感漲るこのクライマックスをたった一人で語りきった豊竹咲大夫と太棹三味線を鳴らし切った 鶴澤燕三の絶演、そしてその凄絶な殺しを担う 与兵衛役の桐竹勘十郎の劇演が、「絶対的善者と絶対的悪者の修羅場」をば、われら観客の胸の中で吹きだす 血と油で彩るのです。
トリにおかれた 「鳴響安宅新関」も思がけない御馳走で、大夫七名、三味線八掉による巨大オーケストラの強奏に合わせて、踊りに踊り狂う武蔵坊弁慶の吉田玉女の操演は、観る者の心を、あはれ遠いみちのくの青空へと導くのでした。
なにゆえに鶴澤錦糸の太棹は泣いている七世名人竹本住太夫との別れの歌ゆえ 蝶人
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