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=== 2022.10.11 === 17時すぎに、2階南側の部屋からふと空を見て、ベランダに出て南の空の雲を撮ってみた。晴れた日に雲を撮ってみよう・・・・。そんな思いつきから始めた。子供のころから、幾度空を見上げて雲をみてきたことだろう。だけど、それほど雲に興味を抱くこともなかった。雲を被写体として撮ってみようかと思ったのがはじまり・・・・。たまたま起点が2022.10.11だっただけ。さて、どれだけ飽きずに続けられるだろうか。まずはやってみよう。 ベランダから東方向の空を撮った。山並みの稜線が少し下辺に見える。これより下方には住宅などが写ってしまう。本当はもう少し山並みを入れたいのだけれど・・・仕方がない。 南西方向の空=== 2022.1029 === 南方向の空 15時半すぎに 東方向の空 === 2022.10.30 ==== 東の空 南の空 ともに、9時15分前頃の雲を撮った 南の空 多分、西方向の空だったと思う。南と西の空は15時半すぎに撮った雲。雲についての知識はほとんどありません。やはり、最初は「雲って何?」ですね。大昔に購入し眠っていた本を引っ張り出してみました。勿論、一方でインターネットも知識・情報を得るには便利です。手許の本には「空気中の水蒸気が凝結または昇華してできたたくさんの粒が集まって浮かんでいるのが雲である」と記されています。「雲ができるのに一番おもなことは、空気が気圧の低い上空へのぼっていって、急に体積を増し、そのために自分自身がひえることである」そうで、このとき空気中の水蒸気が凝結するということでしょう。雲が浮かんでいるのは上昇気流があるから。(資料1)ふと、雲を撮り始めたというだけですので、定点撮影はしていますが、定点観測までは踏み込んでいません。それを行うにはもっと基礎的知識が不可欠・・・・・。=== 2022.10.31 === 9時50分頃の空は曇っていました。 南の空11時15分すぎには晴れ間がみえてきます。 東の空 西の空 手許の本によると、雲を観測して記録するには、「雲形、雲の高さ、雲の量、雲の向き、雲の速さなど」を用いるそうです。(資料1)私が今一番関心を寄せているのは、「雲形」なのです。被写体としての雲の姿。刻々と移動しつつ変化していく姿を見せるところに魅せられています。まずは、これまでに撮った雲の姿と変化を時系列でご紹介していきたいと思います。 [追補・改訂] 10月11日の撮影分を見落としていました。こちらが起点でした。 そこで追補修正を加えました。つづく参照資料1)『科学の事典 第2版補訂版』 弥永・野口・緒方他 監修 岩波書店補遺雲 :ウィキペディア雲 :「コトバンク」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらの一覧表から関連記事をご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2022.12.22
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これは、11月2日に「観照 今朝の朝顔 遅咲きオーシャンブルー」と題してご紹介した時の画像です。この遅咲きのオーシャンブルー、健気に今朝も未だに花を開いてくれています。遅く咲き始めたので、遅くまで花の咲く期間がズレているのでしょうか。2021年は確か11月27日にはもう花が一つふたつになり、もう終わりだな・・・・という状態でした。11/2の後、晴れた日の午前中に、庭の花を定点観測的に撮ってきました。そのご紹介です。=== 2022.11.16 === 2週間後です。 そして、この頃には、 玄関へのささやかなアプローチ傍の花壇に小菊が花盛りになって来ました。11/2にはまだ咲いていなかったと記憶します。一方で、昨年とほぼ変わらずに咲き始めたように感じています。 撮った写真を選んでいて、ふと想起したのが「花の命は短くて」というフレーズ。ネット検索してみますと、ヒットしました。 「花の命は短くて苦しきことのみ多かりき」 林芙美子が色紙などに好んで書いた短詩だそうです。「女性を花にたとえ、楽しい若い時代は短く、苦しいときが多かったみずからの半生をうたったもの」と言います。(資料1) どこでこのフレーズを記憶にとどめたのか。林芙美子の短詩とは初めて知りました。 その一方で、デュランタが未だ健在で花を咲かせてくれています。こちらも調べてみますと、デュランタは熱帯植物でアメリカのフロリダ地方~ブラジルの植物だそうで、開花期があ6~10月と説明されています。(資料2)11月中旬でも小さな花を沢山咲かせているのです。=== 2022.12.4 === さらに、2週間ほど経ちましたが、たくましく花を咲かせてくれています。 === 2022.12.11 === さらに1週間が経ちます。咲く花の数は減少ぎみに・・・。だけど昨年よりはるかに元気! デュランタに少し変化が・・・・。枯れた花が目にとまるようになってきました。 === 2022.12.18 ===そして、今朝の花々の姿です。 さすがに、オーシャンブルーの花が咲くのは終末期になってきた感じ・・・・・。よくぞここまで咲いてきてくれたなと感じています。 枯れた花が目につくようになりました。 一方で、花を開いてくれています。いましばし花を愛でる日数がありそうです。 デュランタはさらに枯れた花が増えていますが、がんばりっこです。まだまだ咲いてくれるのでしょうか・・・・・。 小菊は思ったよりも短期間で終わるのかもしれません。道路に面した側の小菊は半分以上の花が枯れてしまい・・・・、家人がバッサリ花枝を切ってしまいました。 勿論、咲き誇ってくれる小菊は健在です。小菊の咲くのは、10月、11月のようですので、けっこう健闘して咲いてくれているということになるのでしょう。(資料3)我が家の小さな庭は私の管轄外。咲く花を楽しむだけですので、花まかせです。年年歳歳花相似 歳歳年年人不同という『唐詩選』に収録されている詩句が有名です。この詩句を記憶していても、その原詩に遡ってみることはあまりありません。かなり以前に確認してみたことがあったと思うのですが、忘却の彼方に・・・・。こちらもネットで改めて検索してみました。(資料4)その後で、手許の岩波文庫本で確かめますと『唐詩選』巻二の七言古詩に収録されています。唐代の詩人、劉廷芝(651?-678?)の「白頭を悲しむ翁に代わりて」と題する詩でした。別の名は希夷。一説に希夷が名、廷芝は字とも。(資料5) 「落陽城東桃李花」という七言から始まる26句の詩です。最初の8句がひとまとまりの感じで、その後に次の詩句が続きます。 古人復た洛城の東に無く 今人還た対す 落花の風 年年歳歳 花相似たり 歳歳年年 人同じからず 言を寄す 全盛の紅顔の子 応に憐れむべし 半死の白頭翁この詩句でふと思うのは、「年年歳歳花相似」と毎年花が例年通りに咲いているというけれど、本当に同じといえるほどなのか・・・・、花もまた似ているようで似ていないのではないか、「花不同」と言えないかという疑念です。勿論、この詩句が「花相似」と「人不同」を対句にし、「来る年ごとに花の姿は同じようだが、来る年ごとに、見る人の姿は変わるのだ」と対比しています。その次の一句は「うら若い少年たちよ。死の世界へ片足をかけたような白髪の老人を、あわれんであげたまえ」と語りかけます。人は年々年をとっていく。来る年には亡くなっているかもしれないと。対句の形で自然の花と人の変化を対比強調した表現であることは理解できるのですが・・・・・。「花相似」だけに着目すると、ふと思う素朴な疑念です。「年年歳歳花相似 歳歳年年人不同」は禅語にも取り入れられています。手許の一書には、漢詩からとられた「桃花依旧咲春風」という句を禅語として取り上げて、その中で、「年年歳歳花相似 歳歳年年人不同」とほぼ同じ意味という説明が加えられています。こちらは、唐の崔護が詠んだ詩の一句です。 去年の今日、此の門の中 人面桃花相映じて紅なり 人面は知らず、何処にか去る 桃花旧に依って春風に咲(え)む崔護が清明節に都城の南に遊び、桃の花が咲く人家を訪れ、飲物を求めたところ美女が気持ち良くもてなしてくれた。翌年の清明節に再訪し、「桃花は去年と同じように美しく咲いたが、去年相見た人はもはやいない」という事態に遭遇します。その歎きをこの詩に詠じたのです。桃の花と人の姿を対比しその嘆ずる主旨は同じというわけです。「大自然の悠久さに対する人生の無常さを詠嘆したものだということになる」(資料6)大きく横道にそれましたが、遅咲きのオーシャンブルーの花咲く経緯を記録を兼てまとめてみました。来年はどういう咲き方をすることでしょう。「年年歳歳花相似」と巡ってくるでしょうか。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1) 花の命は短くて苦しきことのみ多かりき :「goo辞書」2) デュランタ :「みんなの趣味の園芸」3) 小菊 :「EVERGREEN 植物図鑑」4) 年年歳歳花相似たり、歳歳年年人同じからず :「ことわざ辞典」5)『唐詩選(上)』 前野直彬注解 岩波文庫 p99-1046)『禅語の茶掛 一行物』 芳賀幸四郎著 淡交社 p213-214補遺劉希夷 :ウィキペディア資料29 劉廷芝の詩「代悲白頭翁」 :「小さな資料室」年年歳歳花相似 歳歳年年人不同 禅語 :「臨黄ネット」崔護「人面桃花」 :「中国旅游ノート」『人面桃花(博陵崔護、姿質甚美~)』現代語訳(口語訳)・書き下し文と解説 :「マナペディア」清明節 :「コトバンク」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2022.12.18
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11月10日(木)、暦では「立冬」(11/7)を過ぎた日の噴水のあるエリアの紅葉です。 噴水前の広場には落葉が沢山散っています。 南方向の眺め 円形の噴水の東側に据えられたロダン作「考える人」のブロンズ像へと歩みます。明治古都館を背景に、北側の木々が紅葉を深めています。 まずは、恒例にしている「考える人」像を撮ります。定点観測のように毎回撮っています。 噴水のある広場南側にある通路沿いの紅葉樹この南側(左側)が「西の庭」です。 この通路から噴水のある広場の方(北方向)を眺めた景色 「西の庭」を少し散策しましょう。 石造不動明王立像の南西方向に見える木々の紅葉はまだこれからのようです。 博物館の敷地内においても、紅葉の度合いはかなりバラツキがみられます。 石造地蔵菩薩坐像の傍の紅葉もまた始まったばかりという感じでした。 今頃は紅葉がかなり進んでいることでしょう。 「西の庭」の中央部の通路ぞいには、様々な花を植えたフラワー・ボックスが並べてあります。 秋の花々のオンパレードです。 昆虫が止まっているのも目にとまりました。 何種類の花が一緒に咲き誇っているのでしょう。花の名前も識別できないままです。 花の写真を撮った道を出口の方に引き返します。 「是より東、山城の国」国境の道標が保存されています。「山城国」は旧国名。現在の京都府南部の地域です。古く奈良時代には、「山代」「山背」と記されました。奈良時代の政治の中心地は大和であり、そこからは北の山の背後の地域になります。平城京から平安京に遷都され、794年(延暦13)に桓武(かんむ)天皇の詔(みことのり)として「此(こ)の国の山河襟帯(きんたい)にして自然に城を作(な)す。斯(か)の形勝に因(よ)りて新号を制すべし。宜(よろ)しく山背国を改め山城国となすべし」と宣されました。これ以後「山城」に改められたそうです。(資料1)現在でも、「城陽市・井手町・木津川市の3つの市町にまたがる南山城の山際をゆるやかにうねりながら続く一本の小径」を「山背古道」と称しています。今は全長約25kmの散策道です。(資料2)山城国の西側は、現在の地図に当てはめると、北から向日市・長岡京市・大山崎町・八幡市・京田辺市・精華町が隣り合っています。(資料3)この道標はどの辺りに設置されていたものでしょうか。京街道の視点で考えると、山陽道が大山崎町を通りますので、大山崎町西端の可能性が高い気がしますが・・・・。 博物館の南門の出口手前で、東山の阿弥陀ヶ峰方向を眺めた景色西の庭を散策した後、京都国立博物館を出ました。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1) 山城国 :「コトバンク」2)「なびMAP 木津川市」木津川市観光協会 3) 山城地域とは :「京都府」補遺山城国 :ウィキペディア山背古道 :「木津川市」山背古道ガイドブック・山背古道探検マップの発行について :「井手町」山背古道 ホームページ阿弥陀ヶ峰 :ウィキペディア阿弥陀ヶ峰 :「東山三十六峰」(TOSHIさんのホームページ) ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 京都国立博物館 -1 特別展「京に生きる文化 茶の湯」(1) へ観照 京都国立博物館 -2 特別展「京に生きる文化 茶の湯」(2) へ観照 京都国立博物館 -3 特別展「京に生きる文化 茶の湯」(3) へ観照 京都国立博物館 -4 特別展「京に生きる文化 茶の湯」(4) へ
2022.11.21
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<第5章 茶の湯の広まり 大名、公家、僧侶、町人>利休や秀吉が活躍した時代の後、茶の湯は大名、公家、僧侶、町人それぞれの立場に合わせて、茶の湯が広がっていきます。古田織部(1544~1615)、小堀遠州(1579~1647)、釜森宗和(1584~1656)、千宗旦(1578~1658)などがそれぞれの茶の湯を形成していきます。アフター利休の時代に焦点があてられたセクションです。古田織部は、利休の茶風を継承しながらも大名茶と称される茶風を確立して行きます。独自の感性で「ひょうげもの」と呼ばれる様な茶碗などを創作し織部好みと称される茶道具を生み出します。小堀遠州の茶風は「綺麗さび」と称され、金森宗和は繊細で優美な「姫宗和」と称される茶風を形成していきます。利休の孫の宗旦(1578~1658)は武家、大名との関わりには極力距離を置き、利休のわび茶をさらに継承する道を進めたそうです。公家、僧侶、町人との茶の湯の交わりが中心になったと言います。茶の湯のさまざまな茶風の確立は、それぞれの茶道具の好みにも反映され、茶道具の多様な表現の広がりとなっていくようです。冒頭の画像は、野々村仁清作「色絵若松図茶壺」(重文、文化庁蔵)です。仁清作の茶道具の多くは、武家茶人金森宗和の注文や指導によりつくったものが多いそうです。宗和は武家ですが、「公家との関わりも深く、公家好みの優雅で品格の高い茶風」(図録より)だったとか。仁清作の茶碗が2口展示されていますが、個人的には、仁清作「褐釉四方茶入」(京都国立博物館蔵)の方に惹かれました。これも宗和の指導を受けて制作した茶入だとか。(図録より)織部好みで興味深かったものが2つあります。1つは「大井戸茶碗 銘 須弥」(東京・三井記念美術舘蔵)です。朝鮮半島・朝鮮時代16世紀の作ですが、元の井戸茶碗を十文字に切断し、寸法を少し小さくして、また割れを漆と鎹で継ぎ直してあらためて茶碗としたという茶碗です。もう1つは、「伊賀塁座水指 銘 破袋」(重文)です。重量感のある下ぶくれの袋形の水指です。ざくっと大きな窯割れが入っているのです。普通なら不良品扱いになるところですが、この割れ具合が織部好みに通じたのでしょう。そこが型破りでおもしろい。「井戸香炉 銘 此世」(東京・根津美術館)は、その色合いに惹かれました。本阿弥光悦作「赤楽茶碗 銘 乙御前」(重文)、「黒楽茶碗 銘 時雨」(重文、名古屋市博物館)は、ふっくらとした胴部のまるみが絶妙です。利休の指導で長次郎が生み出した楽茶碗とは異なる美意識があるように感じます。多才な光悦の才能がここでも光っています。茶碗を自ら作陶するのですから、茶の湯も嗜んでいたのでしょう。光悦は誰を師としたのでしょうか。そんな疑問を抱きました。<第6章 多様化する喫茶文化 煎茶と製茶>中国では宋時代の抹茶式の喫茶法が明時代には廃れ、熱した湯に茶葉を浸す喫茶、「煎茶」式の喫茶が広まったそうです。江戸時代中期に、黄檗宗を開いた隠元禅師が「煎茶」式の喫茶を日本に伝えました。 これは隠元禅師が来日の際に携えてきた愛用の茶器。明時代、江蘇省の宜興窯製「紫泥茶罐」(京都・萬福寺蔵)。煎茶具の水注として用いられました。この茶器、2002年以来、20年ぶりに拝見しました。併せて「紫泥大茶罐」(京都・萬福寺蔵)も展示されています。これらは紫砂土を用い焼締めた茶罐だそうです。喜多元規筆「隠元隆琦像」(重文、京都・萬福寺蔵)もまた20年ぶりに拝見しました。月海元昭賛のある伊藤若冲筆「売茶翁像」が出品されています。黄檗僧月海は60歳を過ぎてから京都で茶を売って暮らすようになったと言います。これは月海83歳の寿像です。賛の末尾に年齢が記されています。若冲は売茶翁の肖像を数多く描いています。手許にある図録『文化財保護法50年記念事業 特別展覧会 没後200年 若冲』(京都国立博物館 2000年)を久々に開けますと、この図録には、売茶翁像が5点収録されています。確認して見ると、今回の「売茶翁像」はそれらともまた違った作品です。若冲は何枚、売茶翁を描いたのか・・・・。それだけ親交が深かったのでしょうね。江戸時代18世紀の鶴澤探索筆「宇治製茶図屏風」(六曲一双、京都・大徳寺蔵)は、当時の製茶作業の様子がわかって興味が湧くものです。<第7章 近代の茶の湯 数寄者の茶と教育>明治になって、西欧化の進む中で、裏千家11代玄々斎(1810~1877)が新しい時代の喫茶の方式「立礼」を考案しました。これは玄々斎についての一書を読んだ時に知りました。その立礼に使う「黒漆塗点茶盤・喫架・円椅 玄々斎好」の一式が最後の展示室に展示されていました。写真は見ていましたが、実物を見るのは初めてです。やはり実物を見るのは楽しいものです。 この最終章では、近代に数寄者として名を残した人々が愛蔵した茶碗が展示されています。四人四色です。これは北村謹治郞(以下敬称略)の愛蔵した野々村仁清作「色絵鱗波文茶碗」(重文)。京都に北村美術館があります。野村徳七(号得庵)、住友吉左衛門(号春翠)、高谷恒太郎(宗範)の愛蔵した茶碗も並べて展示されています。それぞれの愛蔵茶碗の名称を順に列挙しておきましょう。「練上志野茶碗 銘 猛虎」(京都・野村美術舘蔵)、「紅葉呉器茶碗」(泉屋博古館東京蔵)、「金海茶碗 銘 西王母」です。最後に玄々斎筆「茶道の源意」の掛幅が展示されていることを記しておきます。 博物館の西の庭と噴水の広場に面した1階の通路には、こんな記念撮影用のコーナーが設けてあります。前回触れました狩野秀頼筆の国宝「観楓図屏風」に描かれた茶売りの絵の部分が切り出されています。 通路を振りかえり、外側の景色を眺めてから、平成知新館を出ました。 来年3月~5月に開催の特別展「親鸞 生涯と名宝」の予告の大きなパネルが設置されています。親鸞聖人生誕850年特別展が企画されています。楽しみに待ちましょう。この後、西の庭と噴水の広場を散策しました。つづく参照資料*図録『特別展 京に生きる文化 茶の湯』 京都国立博物館 2022*「特別展 京に生きる文化 茶の湯」出品一覧・展示替予定表*京都国立博物館だより 2022年10・11・12月号*図録『特別展覧会 日本人と茶 その歴史・その美意識』 京都国立博物館 2002*図録『文化財保護法50年記念事業 特別展覧会 没後200年 若冲』 京都国立博物館 2000補遺京都国立博物館 ホームページ伊賀擢座水指 銘破袋 019 :「鶴田純久之章 お話」隠元隆琦 :ウィキペディア隠元 :「コトバンク」若冲と売茶翁 :「煎茶手帳 蝸盧Karo」煎茶道 :「煎茶手帳 蝸盧Karo」根津美術館 ホームページ野村美術館 ホームページ泉屋博古館 泉屋博古館東京 ホームページ公益法人 松殿山荘茶道会 ホームページ山荘流茶道教室 ホームページ 流祖 高橋宗範 北村美術館 ホームページ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 京都国立博物館 -1 特別展「京に生きる文化 茶の湯」(1) へ観照 京都国立博物館 -2 特別展「京に生きる文化 茶の湯」(2) へ観照 京都国立博物館 -3 特別展「京に生きる文化 茶の湯」(3) へ観照 京都国立博物館 -5 噴水のあるエリアと西の庭の散策 へ
2022.11.20
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今回の特別展ご紹介の第1回に、この「京都国立博物館だより 2022年10・11・12月号」の表紙を載せました。 表紙の下部にこの部分絵が使われています。七条通に面して設置された特別展案内パネルには、更にこの樹下に集う人々と茶売りを抽出して使い、それ以外のパネルでは、茶売りを抽出して使っています。 そのソースは、博物館だよりに載っていて、この狩野秀頼筆の国宝「観楓図屏風」(六曲一隻、国立博物館蔵)です。「室町時代になって登場した一服一銭と称される茶売りの姿」(図録より)がこの特別展との直接の接点です。この「観楓図屏風」は前期展示でしたので、実物を見ることができませんでした。図録には収録されています。インターネットでも「e國寶」他で屏風を見る事ができます。お試しください。<第3章 わび茶の誕生と町衆文化>「観楓図屏風」は、図録でこの章の表紙にも利用されています。室町時代の「会所」の喫茶では唐物道具が珍重されていました。一方で、宋時代以降日本に輸入された唐物雑器や日々の暮らしの中にある道具が茶売りにより喫茶の道具として使われるくらいに、喫茶が人々の間に浸透してきているという事例になります。作品入れ替えで展示されていたのが、「珍皇寺参詣曼荼羅図」(京都・六道珍皇寺蔵)です。桃山時代に描かれた縦207.0cm、横176.4cmという大きな掛幅。珍皇寺の門前はかつての五条通(現松原通)です。ここに小屋がけし一服一銭で茶を売る店が描き込まれています。この時代には庶民もまた茶に親しむ機会があったということでしょう。 20年ぶりに拝見したのが、鴻池道億が村田珠光の文を書写した「心の一紙」(京都・今日庵文庫蔵)です。2002年の特別展では「心の文」と題して展示されていました。併せて珠光筆「漁村夕照図」(東京・三井記念美術館蔵)が展示されています。今回初見です。絵師の絵ではないという印象が残ります。 このセクションで印象に残るのは、武野紹鴎作「竹茶杓」(東京・三井記念美術館蔵)、「備前筒花入 銘 北向」、「灰被天目 銘 夕陽」などでした。<第4章 わび茶の発展と天下人> この特別展でやはりウエイトが高いのはこの第4章と次の第5章だと思います。 天正11年(1583)の讃がある「千利休像」(正木美術館蔵)を20年ぶりに拝見しました。2002年の図録には長谷川等伯筆と記されています。今は伝長谷川等伯筆となっています。「近年では堺にあった土佐派絵師の作ではないかとの指摘がある」(図録より)そうです。営々と研究され続け、論議があるようです。そうなるとやはり「伝」を付すことになるのですね。浮田一蕙筆「北野大茶湯図」(京都・北野天満宮蔵)は初見です。秀吉が催した北野の大茶会は1587年。この絵は江戸時代天保14年(1843)に描かれたもの。大茶湯の風景が描かれその中に説明文が細かく書き込まれています。大凡の茶所の配置絵図が描けるということは、この大茶会の記録文書がかなり残されているということでしょうか。想像だけで描いている訳ではないでしょうから。六曲一隻の「阿国歌舞伎図屏風」(重文、京都国立博物館蔵)が展示されています。歌舞伎踊りの代表的演目「茶屋遊び」が描かれている良く知られた屏風です。この第一扇(右端)に、歌舞伎小屋入口前の出店が描かれています。団子を売っている店ですが、そこに風炉・釜や水桶が描き込まれています。お茶を売っていたことがここでも窺えます。以前にこの屏風を見たときは、演じる阿国に注目していてこの右端の出店は視野外でした。屏風絵を見る視点が広がりました。第4章では様々な茶道具が一堂に展示されています。茶道を嗜む人々には第4章・第5章は必見のセクションになることでしょう。茶道の所作・作法には門外漢の私でも、美術工芸品として拝見して惹きつけられる作品が多々あるのですから。「黒漆塗手桶水指」(京都・不審庵蔵)と「黒漆塗尻張棗」(京都・今日庵蔵)が並べて展示されています。道具は至ってシンプルな形で黒漆の光沢がその存在感を際立たせていて素敵でした。長次郎作の「黒楽茶碗 銘 利休」と「赤楽茶碗 銘 太郎坊」(京都・今日庵蔵)を一緒に拝見できるのはこういう機会でしかないと思います。 割れを修復した痕跡がまた一つの姿を重ねていておもしろいものです。豊臣秀吉が愛蔵した茶碗だったとか。購入した図録には興味深い話が紹介されています。「ある茶会でこの茶碗を用いた際、秀吉の近習が誤って割ってしまい秀吉の機嫌を損ね、その場に居合わせた細川幽斎が『伊勢物語』の一節に因み、『つつ井筒いつつにかけし井戸ちゃわんとがをば我におひにけらしな』と狂歌を即興し、秀吉の機嫌を取り繕ったとされ、この出来事から銘がつけられたとされる(『長闇堂記』『細川家記附録』)」(図録より転記)古田織部は意図的に茶碗を割ってそれを修復した後の茶碗を愛でたという話が伝わっています。そんな発想を実行したのはこの大井戸茶碗の逸話よりも後のことなのでしょうか。ふと思い出したことが気になります。緑釉がかかった織部焼は良く目にします。「織部大徳利」(文化庁蔵)、「織部扇形蓋物」(京都国立博物館蔵)が出品されています。併せて、「黒織部百合文沓茶碗」「織部黒茶碗 銘 悪太郎」の2口が展示されています。織部の黒い茶碗を見るのはやはり20年ぶりです。図録を確認すると、2002年の展示品は異なる作品2口でした。黄瀬戸、志野、唐津の茶碗も優品が出品されています。それぞれ趣が異なりいいものです。茶人はいろいろ手許に所蔵して使いたくなるでしょうね。 桃山茶陶の代表作として展示されているのがこの国宝「志野茶碗 銘 卯花墻」(東京・三井記念美術館蔵)です。鉄絵具による垣根の文様に志野釉が絶妙にかかっています。茶碗に釉薬をかけたのは制作者ですが、このような景色は焼成過程で自然が創り出す妙味がなせることなのでしょう。会場の中央に展示されていて、周囲を巡りながら鑑賞できるのがよかったです。花入が4口出品されていましたが、「伊賀耳付花入 小倉伊賀」(重文)、この桃山時代の作に個人的には惹かれます。作為の感じられる形状の花入の胴部にかかった灰と釉薬の生み出す絶妙さがおもしろい。造ろうとして造れる景色ではないと思います。今回、これが一つの見所(目玉)ではないかと思うものが2つ並べて展示されています。 右側には、京都府大山崎の妙喜庵にある国宝「待庵」の復元が、展示室の中に現出しています。それも展示室に持ち込める限られた素材を使ってという制約条件のもとで建築計画が立てられてできたそうです。茶室建築家飯島照仁氏が担当されました。「待庵」の外観や内部の写真は幾度も見ていますが、実物を拝見した事がありません。復元された待庵を間近に拝見すると、やはり写真で見るのとは雲泥の差があります。2次元の写真と3次元の立体構造物との差は大きい。疑似体験とはいえ待庵の大きさ、奥行などを感じることができます。 左側には、豊臣秀吉が千利休に命じて造らせた「黄金の茶室」の復原品が並べてあります。かつて営業していた伏見桃山城キャッスルランドにおける展示品として近畿日本鉄道株式会社が復元製作したもので、今は京都市蔵になっている「黄金の茶室」です。この特別展で京都市蔵になっている復原品があるのを初めて知りました。(資料1)余談ですが、調べてみますと「黄金の茶室」はけっこう各地で復元されているようです。ウィキペディアによれば、9ヶ所にあるそうです。(資料2)この辺りで、次の第5章に進みます。つづく参照資料*図録『特別展 京に生きる文化 茶の湯』 京都国立博物館 2022*「特別展 京に生きる文化 茶の湯」出品一覧・展示替予定表*京都国立博物館だより 2022年10・11・12月号*図録『特別展覧会 日本人と茶 その歴史・その美意識』 京都国立博物館 20021) 伏見桃山城内所蔵品「黄金の茶室」の貸出しについて :「京都市情報館」2) 黄金の茶室 :ウィキペディア補遺観楓図屏風 :「e國寶」第350回 六道珍皇寺『京都東山・六道さんでいただけるありがたい御朱印』 「珍皇寺参詣曼荼羅図」が掲載されています。 :「京都通」(京都宇治 伊藤久右衛門)重要文化財 阿国歌舞伎図屏風 :「e國寶」村田珠光 :ウィキペディア珠光と禅のこころ 法話と禅語 :「臨黄ネット」「心の文」その1 :「茶の湯 こころと美」利休の茶の湯とその流れ :「茶の湯 こころと美」妙喜庵(国宝「待庵」) :「京都府観光ガイド」妙喜庵 :ウィキペディア妙喜庵HP (大本山 東福寺派)~豊臣秀吉の「黄金の茶室」復元~オープニングセレモニーを開催します:「佐賀県」豊臣秀吉「黄金の茶室」復元 金箔1万6500枚使用 名護屋城博物館【佐賀県唐津市】 :「SAGATV」常設展 :「いしかわ生活工芸ミュージアム」黄金の茶室 :「インサイトホーム」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 京都国立博物館 -1 特別展「京に生きる文化 茶の湯」(1) へ観照 京都国立博物館 -2 特別展「京に生きる文化 茶の湯」(2) へ観照 京都国立博物館 -4 特別展「京に生きる文化 茶の湯」(4) へ観照 京都国立博物館 -5 噴水のあるエリアと西の庭の散策 へ
2022.11.19
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<第1章 喫茶文化との出会い> 日本の喫茶の文化は、奈良時代から始まります。遣唐使などを通じて茶を喫する文化がもちこまれました。最初に『茶経』の木版書物二冊(武田科学振興財団蔵)が展示されています。この展示品を2002年の特別展覧会「日本人と茶」以来、20年ぶりに眺めました。展示品は中国・明代の木版書物ですが、『茶経』は唐時代の陸羽(733~804)により書かれた世界最古の茶の専門書で、唐時代の茶の風習を伝える書物だと言います。冒頭の引用画像は『喫茶養生記』の断簡。京都・建仁寺の開山である臨済宗の栄西禅師が喫茶の風習を伝えた書の一部。これも20年ぶりの再見です。残念ながら私には判読できません。養生という言葉が使われています。栄西禅師はこの書で、喫茶の持つ医学的効能を書き記したそうです。中国・宋代には点茶法での喫茶が始まりました。石臼で粉末にした抹茶を予め碗に入れて、これに湯を注いで茶筅で攪拌して、茶を喫するという方法です。茶の湯につながる点茶法が日本に伝えられました。いつ誰が最初に日本に伝えたのかは明かではないとか。今回初見で印象に残るのは、「明庵栄西像」(京都・両足院蔵)。頭の形が特徴的です。 「蘆屋浜松図新形釜」(重文、文化庁蔵) 室町時代15世紀の作。この蘆屋は、筑前国芦屋津金屋の芦屋鋳物師のことだそうです。繰りの強い口にふっくらとして丸みのある姿が「真形(しんなり)」と称されています。胴部に薄い浮彫りの形で浜松図が描かれているのですが、歳月を経たからでしょうか、図柄は分かりづらかったです。釜全体の姿が魅力的。「末松山」の銘で知られているそうです。「青磁竹子花入」(重文、根津美術館蔵)は高さ29.6cmという大きさで、南宋時代に浙江省の龍泉窯で焼かれた作品。頸部と胴部に膨らみをもった太い線(突線)が8本巡らされているだけの造形ですが、それが筍の節にも見えます。竹子はそこに由来するそうです。下蕪形の姿と青磁の色合いに惹かれます。絵巻が幾つか展示されています。木本高嶺筆「慕帰絵 巻第五(模本)」(東京国立博物館蔵)、「福富草紙」(重文、京都・春浦院蔵)という絵巻が出ています。「慕帰絵」は西本願寺蔵で、親鸞の曽孫・覚如の伝記絵巻です。なぜこれが、と思って説明文と併せて見ると、歌会を開き歌集を編纂しているという場面が展示されています。その部屋の傍の廊下に風炉釜が据えられていて、ここから茶を運ぶという図です。「福富草紙」の展示場面には、長者となった高向秀武と妻が夜着姿で寝転んでいる部屋の場面です。その部屋の棚上に、青磁鉢と盆上の青磁茶碗・天目台・茶筅などが描き込まれているのです。前者の原本は南北朝時代、後者は室町時代の絵巻です。絵巻の中から、当時の喫茶の様子が窺えるということなのです。研究視点では絵巻がこのように情報源となるのかということが私には印象的でした。「福富草紙」のこの場面が2002年の図録にも掲載されていて通期展示品だったことを再認識しました。すっかりわすれていました。今回も「闘茶表」というのを見ました。展示史料は2002年のものとは異なったものです。いろんな記録文書があるものだな・・・・と。喫茶文化の歴史の一時期、婆娑羅(ばさら)大名が現れた時代に「闘茶」が流行しました。南北朝時代~室町時代初期に流行したと言われています。茶の飲み分けを競うという宴です。婆娑羅大名では佐々木道誉が有名ですね。道誉が闘茶の会を開いていたというのをどこかで読んだ記憶があります。<第2章 唐物賞玩と会所の茶>博物館南門正面のPRパネルには、このセクションに展示の作品が展示されています。 一つは、伝牧谿筆「遠帆帰帆図」(重文、京都国立博物館蔵)。中国・南宋時代の禅僧により描かれた水墨画。これを織田信長が手にしていたと伝わるとか。2002年には「第4章 東山御物と君台観左右帳記」というセクションで通期展示されていました。『君台観左右帳記』(東北大学附属図書館蔵)は勿論今回も展示されています。足利将軍は唐物の蒐集に熱心だったようです。彼等が集めたものは「東山御物」と称されます。『御物御画目録』が残されているとか。将軍邸での茶会は「会所」と称する座敷で行われたそうです。その折の室礼(しつらい)のための規式書がこの『君台観左右帳』です。今は、能阿弥と相阿弥の二系統の写本が残るだけ。展示品は相阿弥系統のものだと言います。茶の文化史上の史料としては必須展示品の一つなのでしょう。 パネルに利用されているもう一つはこの「青磁茶碗 銘 馬蝗絆(ばこうはん)」(重文、東京国立博物館蔵)です。2002年にも展示されていました。この茶碗は、浙江省杭州育王山の仏照徳光⇒平重盛⇒足利義政⇒吉田宗臨⇒角倉家⇒京都の室町三井家という所蔵者の遍歴が明らかになっていて、最後は東京国立博物館に寄贈されたといいます。 足利義政が入手した時には、茶碗の底にひびが入っていたので、中国に送り代わりの茶碗を求めたところ、当時の中国ではもはやこれほどの優品を作れないとして、底のひび割れを鎹(かすがい)で留めて送り返されてきたというエピソードが残るそうです。その鎹があたかも大きな蝗(いなご)に見えるということから、「馬蝗絆」という銘がつけられたと言います。 茶碗の下部に黒く見えるのがひび割れを繋ぐ鎹です。後期には2つの天目茶碗が展示されています。加賀前田家に代々伝わってきた「窯変天目」(重文、MIHO MUSEUM蔵)と国宝の「玳玻天目」(京都・相国寺蔵)です。この2品も別の特別展で鑑賞して以来久々に再見しました。何度見てもいいものです。茶入は、南宋~元時代13世紀の「唐物肩衝茶入 北野肩衝」(重文、三井記念美術館蔵)が展示されています。この唐物茶入の場合は、足利義政⇒三好宗三⇒天王寺屋津田宗達⇒三木権太夫⇒三井八郎右衛門⇒三井家⇒若狭酒井家⇒三津家という変遷を経ています。北野肩衝は、豊臣秀吉が催した天正15年の北野での大茶の湯の際に、秀吉の目にとまったことの因んで名付けられたと言います。茶碗、茶入、茶釜など、茶道具に付けられた銘の由来を探ると、いろいろ興味深いところがあります。 PRパネルの中で花の咲いた木の一枝としてさりげなく載っているのがこれです。足利家旧蔵の名品「茉莉花図」。茉莉花はジャスミンのこと。団扇形の画面に描かれています。後期にはもう一つ、同様に団扇形の画面に描かれた伝趙昌筆「林檎花図」(畠山記念館蔵)が展示されています。可愛らしい印象を受ける絵。二つはともに、南宋時代の作品です。この第2章から、あと1点ご紹介します。国宝「青磁下蕪花瓶」(東京・アルカンシェール美術財団蔵)です。高さ23.5cm、口径7.8cm、高台径9.5cmという大きさで、下蕪形の花瓶には一切装飾がありません。スッキリとかつ堂々としていて格調の高さを感じさせます。砧青磁と称される部類の一種だそうです。明るい粉青色の釉を掛けたというその色合いがまたなんともいえないいい色合いになっています。なかなか出ない色ではないかな・・・と感じます。他にもいい作品が展示されています。会場に出かけてみてください。こんなところで、次のセクションに移りましょう。つづく参照資料*図録『特別展 京に生きる文化 茶の湯』 京都国立博物館 2022*「特別展 京に生きる文化 茶の湯」出品一覧・展示替予定表*京都国立博物館だより 2022年10・11・12月号*図録『特別展覧会 日本人と茶 その歴史・その美意識』 京都国立博物館 2002補遺京都国立博物館 ホームページ茶経 :「コトバンク」茶経 :ウィキペディア団茶 :「コトバンク」京都の19時間(その2)~日吉茶園と団茶の時代 :「杯が乾くまで」闘茶 :「コトバンク」闘茶のはじまり :「ちきりや」佐々木道誉 :ウィキペディア「曜変天目」とは? 世界に3点しかない国宝の歴史と魅力に迫る:「This is Media」曜変天目 :「文化遺産オンライン」国宝「曜変天目」三碗同時期公開 :「MIHO MUSEUM」玳玻天目茶碗 :「文化遺産オンライン」唐物肩衝茶入(北野) :「文化遺産オンライン」終了企画展 かたちのチカラ :「根津美術館」 青磁竹子花入の画像が載っています。 国宝「青磁下蕪花瓶」公開!! :「ART iT」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 京都国立博物館 -1 特別展「京に生きる文化 茶の湯」(1) へ観照 京都国立博物館 -3 特別展「京に生きる文化 茶の湯」(3) へ観照 京都国立博物館 -4 特別展「京に生きる文化 茶の湯」(4) へ観照 京都国立博物館 -5 噴水のあるエリアと西の庭の散策 へ
2022.11.17
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11月10日(木)に、掲題の特別展「京に生きる文化 茶の湯」を鑑賞してきました。まずは、その覚書を兼ねてのご紹介です。 PRチラシ先月から始まったこの特別展は12月4日まで開催されています。 博物館南門の傍の壁面にも大きなパネルが掲示されています。 入場券の半券 入口から正面アプローチを北にある平成知新館に向かいます。いつものように、明治古都館の全景を東に眺めつつ・・・・。 大きなパネルがここにも恒例のお出迎え。そして、平成知新館の館内へ、いざ。 1階エントランスの正面奥にはこの記念撮影用を兼ねた巨大パネルがいつものように。 この特別展で撮影できるのはここまでです。 「京都国立博物館だより 2022年10・11・12月号」の表紙 3つ折A4サイズ公開されているPRチラシとこの博物館だよりの写真を一部引用しつつご紹介します。ここまでの画像に、この特別展でのハイライト作品が幾つか出ています。七条通に面した歩道傍のパネルから1階正面奥のパネルまで、繰り返し出ている書(墨蹟)は、「序章 茶の湯へのいざない」に展示されている国宝の「虚堂智愚墨蹟 法語(破れ虚堂)」(東京国立博物館蔵)。これは前期展示のため拝見できませんでした。展示替えがあり、拝見できたのは同じ国宝の「古林清茂墨蹟 月林道号」(京都・長福寺蔵)。師が弟子に道号を授けるというもので、「月林」が大きく力強く墨書されていて、その左に偈頌が添えられています。「法語(破れ虚堂)とセットになっている茶碗は、これも国宝の「大井戸茶碗 銘 喜左衛門」(京都・孤篷庵蔵)です。こちらは通期展示です。博物館だよりの表紙中央にも載せてあります。松平不昧が「天下三井戸」と称した茶碗の一碗がこれだそうです。パネルや博物館だより(表紙下部)に人物郡が出て来ます。これは狩野秀頼筆の国宝「観楓図屏風」ですが、前期展示品で、残念ながら見られませんでした。後のいくつかは順次ご紹介します。 この特別展の図録『特別展 京に生きる文化 茶の湯』左が表紙で、右が裏表紙です。シックな印象を抱く表紙。この図録も適宜参照していきます。この特別展は「序章 茶の湯へのいざない」「第1章 喫茶文化との出会い」「第2章唐物賞玩と会所の茶」「第3章 わび茶の誕生と町衆文化」「第4章 わび茶の発展と天下人」「第5章 茶の湯の広まり 大名、公家、僧侶、町人」「第6章 多様化する喫茶文化 煎茶と製茶」「第7章 近代の茶の湯 数寄者の茶と教育」という構成です。茶の文化史を知り、京の茶の湯文化とその美意識に触れることがテーマになっています。章名からわかりますが、千利休の肖像(掛幅)が展示されているのは第4章で、利休ゆかりの作品展示が当然ながら増えます。余談ですが、京都国立博物館での「茶の湯」に関係した大々的な特別展は久しぶりだと思います。手許には、 この図録『特別展覧会 日本人と茶 その歴史・その美意識』があります。2002年秋に鑑賞しましたので、私の記憶では今回の特別展は20年ぶりの企画だと思います。 当時のPRチラシを保存していました。これがそれです。20年前のこの特別展覧会は、9つのテーマで構成されていました。「第1章 喫茶日本渡来」「第2章 入宋・渡来僧と茶」「第3章 喫茶のひろがりと遊興化」「第4章 東山御物と君台観左右帳記」「第5章 わび茶の系譜」「第6章 町衆の茶」「第7章 大名茶の流れ」「第8章 喫茶の大衆化」「第9章 煎茶の世界」です。この時も、茶の文化史という流れは同じですが、茶と日本人の関わりを広く総合的に捉えてみるという視点でした。今回は、茶の文化史が、京都での茶の湯文化にフォーカスをあてる形に絞りこまれた感じです。今、改めて20年前の図録を通覧し、今回の図録と対比しますと、類似の視点とはいえどもテーマ設定の違いで、共通する展示品と共通しない領域の展示品がかなり異なり、茶の湯文化史の広がりと奥行を感じています。共通する展示として、例えば、今回の「序章 茶の湯へのいざない」では、後期に「無凖師範墨蹟 二大字 茶入」(東京・五島美術館蔵)が展示されています。「茶入」という二字が大きく雄渾に墨書されています。20年ぶりにこの掛幅を拝見することになりました。2002年には、「第2章 入宋・渡来僧と茶」のセクションで、「禅院牌字『茶入』」(五島美術館蔵)と題して通期展示されていました。この二文字は禅院の堂舎に掲げる額字・牌字の原字だそうです。2002年の図録には、「茶入とは禅院の来賓・来客に対して茶の接待をする役目のことをいう」と説明しています。今回の図録では、原字という点の説明は同じですが、「茶入」の二文字についての説明に違いがあります。「『茶入』とは茶の湯で抹茶を入れる容器であるが、ここでの意味は不明。禅院の来賓・来客に対して茶の接待をする役目とする説もあるが、禅林の機構や日常生活について規定した『清規』には『茶入』は見られない。」と一歩踏み込んで解釈を変えています。拝見していて気づかなかったのですが、この二文字は一紙一字を貼り合わせてあるそうです。『東福寺文書』には46点の額字についての目録が保存されているそうです。そこから、「本墨蹟は、『煎茶』『入室』を裁断し一幅としたものか」という解釈が加えられています。興味深いものです。上記「大井戸茶碗 銘 喜左衛門」もまた2002年の図録の第7章に掲載されています。一方で、例えば、2002年には「第8章 喫茶の大衆化」で喫茶に関係した浮世絵が展示されていました。今回はその側面は対象になっていません。さて、「序章 茶の湯へのいざない」について、もう少しご紹介します。 上掲のパネルには、この作品が一つのハイライトになっています。通期展示されている作品。「唐物文琳茶入 酸漿(ほおずき)文琳」(ヤング開発株式会社蔵) 文琳とは林檎(りんご)の別名です。「徳川家康が所持し、姫路酒井家に伝えられてきた大名物の茶入」(博物館だよりより)で、元和2年(1616)に家康に謁見した酒井雅楽頭忠世が拝領した茶入だとか。今回の展示では第5章に関係する作品ですが、序章での「いざない」として展示されています。 同様に、この「ムキ栗」という銘を持つ長次郎作黒楽茶碗は、「第4章 わび茶の発展と天下人」に直結する作品ですが、「いざない」としてここに展示されています。四方形のおもしろい茶碗です。利休好みの一つの形だそうです。茶碗を持つ感触がかわるでしょうね。与次郎作「万代屋(もずや)釜」(京都・今日庵蔵)も同様です。「佐竹本三十六歌仙絵 坂上是則」(重文、文化庁蔵)という掛幅や、「青磁貼花牡丹唐草文瓢形瓶(ひさごかたへい)銘 顔回」(京都・曼殊院蔵)が展示されています。青磁の色が素敵です。青磁にも色々な色調のものがありますが、この瓢形瓶の色合いが一番好きです。それでは第1章のセクションへ進みます。つづく参照資料*図録『特別展 京に生きる文化 茶の湯』 京都国立博物館 2022*「特別展 京に生きる文化 茶の湯」出品一覧・展示替予定表*京都国立博物館だより 2022年10・11・12月号*図録『特別展覧会 日本人と茶 その歴史・その美意識』 京都国立博物館 2002補遺京都国立博物館 ホームページ無準師範 :ウィキペディア無準師範墨蹟 「茶入」二大字 :「五島美術館」無準師範墨跡 「帰雲」 二大字 :「MOA美術館」万代屋釜 :「茶道入門」青磁 :「コトバンク」青磁 :ウィキペディア青磁貼花牡丹唐草文瓢形瓶 :「岡田美術館」青磁牡丹唐草文瓶 :「MOA美術館」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 京都国立博物館 -2 特別展「京に生きる文化 茶の湯」(2) へ観照 京都国立博物館 -3 特別展「京に生きる文化 茶の湯」(3) へ観照 京都国立博物館 -4 特別展「京に生きる文化 茶の湯」(4) へ観照 京都国立博物館 -5 噴水のあるエリアと西の庭の散策 へ
2022.11.15
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暦の上では、今日は「立冬」、良い天気です。遅咲きのオーシャンブルーが今数多く花開いています。昨年の拙ブログ記事を遡ってみますと、11月27日にオーシャンブルーが数少なくなったけれど、まだ花開いているということを載せていました。27日にはまだ命脈を保っていたようです。 今年は遅咲きですので、どこまで咲き続けてくれるでしょう。それが楽しみになってきました。 花に葉が影を落として・・・ 花が葉に陰を落とす。 花も葉も、立冬の太陽の恵みを受けとめています。 緑のカーテンのてっぺんに咲きほこる花もまた、 地から伸び上がってきた蔓と葉のお陰で大きく花開いているということでしょう。 玄関へのアプローチ傍の花壇に咲くデュランタは例年通り咲き始めていました。今も沢山の小さな花を咲かせています。 活き活きとした若葉はいい!オーシャンブルーとデュランタ我が家の小さな庭で今一番咲いている花々です。ご覧いただきありがとうござます。付記: 昨年の拙ブログ記事(2021.11.27)観照 晩秋の庭 小菊とオーシャンブルーほか
2022.11.07
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毎年、南向きの窓ガラス戸外の緑のカーテンにしている朝顔、オーシャンブルー。今年の夏場は異変でした。緑のカーテンとして窓を覆ってくれました。だが、朝顔の葉が広範囲に虫食い状態になりました。時折、ポツン、ポツンとオーシャンブルーの花が開いただけ。例年の夏場、次々に咲く花を今季見ることができません。残念でした。 ふと気づくと、10月下旬頃から花を咲かせ始めました。今になって、例年の夏場のオーシャンブルーの咲き具合を見せてくれています。オーシャンブルーとは言うものの、花の色は、紺青、紫、紅紫、紅梅に近い色の花が混在しています。 朝顔の葉も、現在は全く虫食い状態がなく、瑞々しい緑の葉を拡げています。いつもの健常な葉の姿で。 昨夜の雨の名残でしょうか。 花弁に水滴が数多く留まっている花も見受けます。 デジカメのオート機能で撮りました。なかなか見た通りの色が再現できていません。だけど、オーシャンブルーが遅咲きで今活き活きと咲いている姿は伝わることでしょう。我が家の庭での今年の異変です。『今はじめる人のための 俳句歳時記 新版』(角川学芸出版編 角川ソフィア文庫)を引くと、朝顔は秋の季語にあがっています。「アジア原産の一年生蔓草。盛夏から咲きはじめるが、立秋以降も9月半ばまで絶え間なく咲きつづける。蔓をからませて垣に仕立てたり鉢植えにしたりして楽しむ」と説明しています。やはり、遅咲きといえるでしょうね。歳時記では、11月は冬の始まり。もうすぐ暦の上では「立冬」。調べてみますと、今年の立冬は11月7日。この遅咲きのオーシャンブルー、立冬を越してもしばらく咲き続けるかな?地球の温暖化が自然界の全てを狂わせ始めているのでしょうか。ご覧いただきありがとうございます。
2022.11.02
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四条烏丸南下ルに所在する西陣織あさぎ美術館から北上し、三条通を東に歩めば、赤レンガ造りのレトロな建物が見えます。三条通に面しての掲示板に、特別展開催中のポスターが掲示されています。東西の三条通と南北の高倉通の交差点で北に入ると、レトロな建物の北隣りが京都文化博物館です。(三条通に面したレンガ造り建物も京都文化博物館の一部) 入場券の半券1階の受付で特別展のチケットを購入して、エレベーターで4階まで。特別展「新選組 2020」は4階と3階を使って展示されています。 PRチラシこの特別展は、「史料から辿る足跡」という副題が付いています。つまり、文書・絵図などを重視した展示でした。文献史料の歴史的視点から新選組に関心をいだく人には垂涎の特別展といえるでしょう。一方、墨書された文書を判読できない私のような鑑賞者には、文書史料は敷居が高いという難点になります。その文書に関わる人間関係の側面に関心が広がりました。新選組の近藤勇を初め、主要な隊員が誰と人間関係があったかなどが少し見えて来くる面白味や、幕末期に撮られた写真など、本に掲載された画像として見ていたものの実物を見る面白味がありました。この特別展では会場内の撮影は禁止。そのため画像でのご紹介はPRチラシに掲載のものを引用するにとどまります。 特別展鑑賞後に購入した今回の図録です。この図録のカバーもご覧のように書簡などの文面を組み合わせた意匠になっています。「新選組は、文久3年2月4日に江戸で結成された浪士組を母体とする政治集団で、会津藩に属して京都市中の治安維持維持を担う一方、局長・近藤勇は有力な政治家として尊皇攘夷の実現を目指し奔走しました。」(PRチラシより部分転記)この文にて新選組の位置づけがわかりやすいと思います。特別展の展示構成に従いながら、覚書を兼ねてご紹介します。<プロローグ 尊王攘夷の幕末>まず、江戸幕府老中から会津藩の松平容衆宛の「江戸幕府老中奉書」(1818.8.6)が展示されています。会津藩、よくやった!という文面のよう・・・。この奉書文を読める人は楽しいかも・・・。私は誰が誰にその目的はくらいの関係を理解するにとどまります。興味深いのは、「ペルリ黒船浦賀来航図」の平面絵図と「亜米利加ペルリ上陸図」の絵巻でした。黒船来航時の浦賀での停泊配置図と上陸時の様子が分かります。時は嘉永6年(1853)6月3日です。<第1章 京都守護職と多摩の草莽>近藤勇は多摩の地からでてきた人物。当時の背景がわかります。日野市所在の八坂神社に奉納された「天然理心流奉納額」(複製)が展示されています。その額には、「嶋崎勇」(近藤勇)、「沖田惣次郞」(沖田総司)の名が連名中に含まれています。奉納額に付けてある二振りの木刀長の短かさがちょっとユーモラス。「近藤勇写真」「土方歳三写真」の現物を当日見ました。(10/15からは複製展示に) PRチラシの裏面に掲載のこの画像の原本です。余談ですが、近藤勇のブロンズ像が壬生寺境内に建立されています。その近くには壬生屯所として使用された八木家が所在します。展示されていた土方歳三の原本写真は、上掲PRチラシの右下に載る画像です。近藤勇を筆頭に新選組は京都守護職となった会津藩に所属することになります。 これは会津藩藩主「松平容保写真」(慶応元年/1865年)です。松平容保(かたもり)の名前は知っていましたが、原本写真は初めて見ました。「松平容保像」の肖像画も展示されています。肖像画の方が、目元と口元で少し威厳を表す雰囲気を醸し出す描き方になっていて、おもしろい。宮川勝五郎から近藤勇に宛てた「近藤勇養子縁組状」、青年時代の土方歳三が愛読したという「手習書『要語俗解』」(1806年)一冊、近藤勇が土方歳三に授けた「天然理心流中極位目録」一巻なども展示されていて、当時の様子がわかります。近藤勇が京に上るきっかけとなった「浪士組」を構想した「清河八郎像」(1862年)が展示されています。志士・藤本鉄石が肖像を描き、清河八郎が賛を書している一幅です。この肖像画から学者風の人物という印象を持ちました。もう一つ、おもしろいのは「為国家番付」(1863年写)です。各藩主名を挙げて幕末の政治状況を諷刺した番付です。英雄、寬仁・・・丈夫・・・売国・・・大罪、無智・・・小人・・・などと番付にしているのです。<第2章 新選組誕生 -幕末の京都政局->浪士組に参加して上洛した近藤らは、即時攘夷を主張する清河八郎とは袂を分かち、京都に残留し新選組を結成します。徳川将軍を中心とする攘夷の実現を目指して奔走する中で、京都守護職松平容保との出会いが訪れます。このセクションで目にとまったのは、「新選組屯所屋敷図」(1865年)です。これは上記の八木家のすぐ近くにある前川家です。こちらが最初に屯所に使われました。宮田糺泉筆「孝明天皇加茂行幸絵巻」(1934年)と、「七卿落図」(20世紀)も。ここには、書簡・宸翰等の文書が多く展示されています。2点ご紹介します。1つは、会津藩家老宛に軍事総裁就任の決意を記した「松平容保書簡」。もう1つは、芹沢鴨が暗殺されたことを記録する「番日記」(1863年)。これは古久保家文書の内の一冊です。芹沢鴨が殺されたのは、新選組の壬生屯所として現在公開されている八木家の方です。<第3章 池田屋事件と一会桑勢力>「一」は禁裏守衛総督一橋慶喜、「会」は会津藩主で京都守護職の松平容保、「桑」は桑名藩主で京都所司代松平定敬(さだあき)を意味します。孝明天皇を中心に、関白二条斉敬(なりゆき)、中川宮(尹宮)朝彦親王との結束で、一会桑勢力が形成されたそうです。一会桑勢力は、池田屋事件と禁門の変により、京都の政局の覇権を握ります。新選組はこの一会桑勢力に属し、松平容保のもとで遊軍的周旋方として、政治活動と治安維持に奔走します。その結果、様々な事件が歴史に名を留めます。勤王の志士で、姿を偽って桝屋を拠点にしていた古高俊太郎は新選組に捕縛され、壬生屯所で拷問を受けて死亡しました。古高が桝屋に残した所有品の「家財諸道具改帳控」。池田屋事件で活躍した新選組を褒めた「池田屋事件感状」(1864.8.4)。複製展示ですが、御所周辺の戦闘を描いた「禁門の変屏風」(原品:19世紀)一隻。「加茂川畔会津藩布陣図」(1864.6.27真写)・「洛外竹田街道銭取橋御固之略図」(1864.6.24)には、宿陣図の中に、新選組の名と誠の旗が描写されています。 「孝明天皇御尊影」が展示されています。名は知れど肖像図原本を見るのは初めて。併せて一会桑勢力を支えた公卿・関白「二条斉敬像」(明治時代、18~19世紀)も展示されています。 孝明天皇関連として、この厨子に安置された念持仏「大日如来坐像」や吉祥画題の「鶴亀図屏風」六曲左隻の亀図(江戸時代19世紀)、浮田一惠筆「子の日桜狩図屏風」(六曲一隻、1854年)、「孝明天皇凶事式」(三帖、1906年)も展示されています。隊士ゆかりの品々として、「鉄扇 近藤勇所用」(江戸時代19世紀)、「鎖帷子 近藤勇所用」(1863年2月)、「刀 銘和泉守兼定 土方歳三佩用」(1867年2月)、「鎖帷子・籠手 土方歳三所用 京都使用」(江戸時代19世紀)、「鉢金 土方歳三所用」(江戸時代19世紀)、「新選組袖章」2点(1863年)などが目を引きました。<第4章 戊辰戦争へ> 「伏見鳥羽戦争図草稿」一巻(明治時代19世紀)が新選組を描いた貴重な絵画作品。さらに、新選組と会津藩が苦戦した「伏見戦争」も戊辰戦争絵巻物上巻(1891年)のうちとして展示されています。こういう史料は見る機会がなかなかありません。また、月岡芳年作の錦絵「徳川治績年間記事 十五代徳川慶喜公」三枚綴(明治時代19世紀)として大坂城脱出の図が出ています。目を引いたのは、「近藤勇処刑瓦版」(1868年閏4月)です。三条大橋の下川原での処刑、曝台上の近藤勇首級図を併載したニュース速報が出されています。他にも2点、近藤勇首級図を描き込んだ文書が展示されています。当時の京都人にはさぞやビッグ・ニュースになったことでしょう。<第5章 土方歳三の新選組と会津戦争>このセクションで特に目を引いた展示品を列挙しますと、「戊辰戦争宇都宮城攻防図」(明治時代19世紀)と「白河口合戦絵巻」(明治時代19世紀) これらはともに絵巻の形式で描かれています。戦況の一端が感じ取れます。早川松山作の錦絵「会津軍記」三枚綴(1876年) 降伏を決意した松平容保が、傲然と反り返る官軍大将の前に裃姿ですっくと立ち、背後には堀を隔てて会津若松城があるという構図です。両者の対比的描写にはアイロニカルな視点も含まれていそう・・・・。「函館城図」(1856年) 旧幕府軍最後の砦、五稜郭の見取図です。五稜郭という名称で見慣れていて、函館城と称することを知りませんでした。図録の解説を読むと、現存する日本最大にして最初の西洋式稜堡式城跡で、ロシアの南下政策への対策として築造された城。1857年に着工し、1864年に竣工した城だったのですね。 <エピローグ それぞれの戦後>函館戦争の後、生き残った人々や関係者たちの史料を点綴することで、時代の推移を表象しているといえそうです。新たな時代への人々の適応の姿といえるのかもしれません。書簡、日記、回顧録などが展示され、生き残った隊員や家族のその後の一端に触れています。。新選組の生き残りの一人、中島登は、「戦友姿絵」(1870年)を描き、近藤芳助(川村三郎)は書簡として「新選組往事実戦譚書」1巻(1906年頃)を、新選組伍長だった島田魁は「島田魁日記」を残しています。永倉新八(杉村義衛)については、「書簡」(1891.3.26)、「胴衣」と「木刀」(江戸時代19世紀)、回想録「七ヶ所手負場所顕ス」(1911.12.11)が展示されています。明治・大正を生きた斎藤一(藤田五郎)の写真が展示されています。いままでに本に掲載の画像を見たことはありますが、原本写真をこの特別展で初めてみました。彼等の家族や関係者についての史料も数多く展示されています。最後に一枚の肖像画にふれておきましょう。それは晩年の「松平容保像」(近代)です。写真を基に、木宮晃陽が描いたそうです。松平容保は、明治26年に一生を終えます。日光東照宮や二荒山神社の宮司をはじめ、猪苗代の土津神社など複数の神社の祠官を務めるという生き方をしたと言います。展示されている書簡や日記などの文献史料の内容をそれ以前の情報と総合していけば、新選組の実態が一層リアルにわかってくるのではないか・・・・そんな気がします。図録は今後参照できる情報として役立ちそうです。購入した図録の長所に気づきました。図録の末尾に書簡など文書の「翻刻編」を収録してある点です。新選組に対して関心を抱いていますので、良い情報源になりそうです。お読みいただきありがとうございます。参照資料*当日購入した図録「新選組 2022 -史料から辿る足跡-」 京都文化博物館・福島県立博物館*「新選組 2022 -史料から辿る足跡-」出品リスト補遺新選組 2022 ホームページ新選組 :ウィキペディア新選組の史実。結成から隊名由来・応募資格・主要メンバーや組織編成・隊服まで解説 辻 明人 :「warakuweb」近藤勇 :ウィキペディア土方歳三 :ウィキペディア松平容保 :ウィキペディア回天の魁士 清河八郎 ホームページ幕末維新ミュージアム[霊山歴史館」 ホームページ小島資料館 ホームページ京都府立京都学・歴彩館 デジタルアーカイブ(公開) ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 京都 特別展のはしご<Ⅰ> 西陣織あさぎ美術館細見 -1 エントランス、スタディルーム へ観照 京都 特別展のはしご<Ⅰ> 西陣織あさぎ美術館細見 -2 「仏教美術と西陣織」(1) へ観照 京都 特別展のはしご<Ⅰ> 西陣織あさぎ美術館細見 -3 「仏教美術と西陣織」(2) へ観照 京都 特別展のはしご<Ⅰ> 西陣織あさぎ美術館細見 -4 平常展(琳派と印象派他) へこちらもご覧いただけるとうれしいです。探訪 京の幕末動乱ゆかりの地 -8 壬生塚(近藤勇胸像・隊士の墓ほか)・壬生屯所旧跡(八木家)・六角獄舎跡ほか
2022.10.22
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特別展から平常展に移る最初の展示室が少し変わっています。展示案内リストには、「蓄光部屋」と記されいて、ブルー色がかった薄明の状態から、部分的に明るく変化していく形で、展示室の照明が変わるのです。その中で、進行方向の左側壁面には絵画額装が掲げてあります。それは蛍光糸で絵が織上げられているそうです。この全景からその蛍光する感じがお解りいただけるでしょう。手前から、「セーヌの船遊び」、「夜のカフェテラス」(ゴッホ)、「星降る夜」(ゴッホ)、「アルルの跳ね橋」(ゴッホ)が並んでいます。 右側には、「睡蓮の池」(モネ)を織上げて屏風仕立てにした作品が展示されています。 その屏風が明るさの変化により変化します。幻想的な雰囲気を味わえるおもしろい空間が演出されています。 次の展示室は琳派の作品を取り上げています。ミニチュア人形で、平安時代の十二単衣の女性がかるた取りに興ずる場面が具現化され、「光琳かるた」も展示してあります。 この展示室の入口側から撮った景色です。 江戸時代に琳派に傾倒した絵師酒井抱一筆「桜図楓図屏風」(六曲一双、アメリカ・デンバー美術館蔵)の図柄を使い丸帯に仕立てた作品です。さらにその桜図楓図の中に、「花鳥十二ヶ月短冊」が図の上に重なる形で配されて織り込まれています。 桜図の中に織り込まれた短冊は宮内庁三の丸尚蔵館蔵 楓図の中に織り込まれた短冊は香雪美術肝臓また、腹の部分に心遠館所蔵の短冊が使われ、合計36枚の短冊が丸帯に折り込まれているそうです。 「琳派流水文」 袋帯 尾形光琳筆「紅白梅図」 額装 酒井抱一筆「流水四季図」 額装次は「視聴覚室」になっていて、西陣織の製造工程についての動画が放映されています。ここにも作品が展示されています。 丸帯が並べて展示されていて 右側は「琳派の美」と称されています。 左側は「琳派二人集/ 尾形光琳・酒井抱一」 二人の絵師の作品から部分図を抽出し、再構成して統合した図柄だと思います。丸帯の全体を実物で鑑賞することをお薦めします。 もう一つの展示がこれ。「琳派の響き」です。 琳派の様々な絵を取り込み重合した作品 琳派に対する一種のオマージュと言えるかもしれません。次の展示室に進むと美の世界が一転します。和の琳派から一挙に洋の印象派他に転換です。展示室入口のすぐ近くに、2枚のミレーの絵がかかげてあります。 ミレー作「羊飼いの少女」 額装 ミレー作「晩鐘」 額装 ゴッホ作「星月夜」 額装 ゴッホの絵に特徴的な絵具が厚く盛り上がりうねる様な起伏のあるタッチ。その凹凸の感じが、西陣織という経糸と緯糸で織上げた平面からリアルに立ち上がっています。 壁面には、袋帯に印象派の絵を織上げた作品がずらりと懸けてあります。手前からメインとなる箇所を眺めて行きましょう。 「セーヌ川の舟遊び」ルノワール 「睡蓮の池」モネ 「アイリス」ゴッホ 「夜のカフェテラス」ゴッホ 「ひまわり」ゴッホ 「星降る夜」ゴッホ 「花咲くアーモンドの木の枝」ゴッホ レオナルド・ダ・ビンチ作「最後の晩餐」 額装イタリアのミラノを訪れた時、サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院の食堂の壁面に描かれたこの絵を眺めました。大塚国際美術館では原寸大に陶板の組み合わせて複製した絵、それも修復前と修復後の両方を見ました。こちらはごく間近でながめ、その大きさを再認識した次第。その「最後の晩餐」が実にコンパクトなサイズで額に納まっています。修復前の状態での縮小複製のようです。 別の仕切りとなっているパーティションの壁面には、ルノアールの作品3点が複製され、額装にして展示してあります。 「ブージバルのダンス」 「都会のダンス」 「田舎のダンス」手許にある特別展の図録他で確かめますと、「ブージバルのダンス」はアメリカ・ボストン美術館蔵、「都会のダンス」と「田舎のダンス」はフランス・オルセー美術館蔵です。 パーティションで区切られたこの空間は、「コラボコーナー」と称され、右側の壁面には「京朋振袖クリエータープログラム 特別展示」として、デザインのコンペティション受賞作が展示してあります。手前から 「ヒョウ柄」安達はなな 「レトロ×北欧×おとぎ話」横田恵里奈 「浮世絵」玉城朱梨京都で和装を学び華やかな振袖をデザインするというコンテストだったそうです。 正面は「大観紅葉」(横山大観)で丸帯です。 その左には日本画の作品、川上憲一作「秋冷」 左側の壁面には、同様に日本画の作品で渡邉香織作「解き放つ」の部分図です。公式の展示品一覧による特別展と平常展の展示はここまでです。 しかし、会場の出口手前にこの展示空間があります。 様々な西陣織の図柄を貼り混ぜた照明具と屏風が展示されています。これもまた見応えがある作品。 反対側の空間はこんな感じ。ちょっとおもしろい設定の展示空間でした。これでご紹介を終わります。実物を見てみようというきっかけになれば幸いです。ご覧いただきありがとうございます。もう1つの特別展は、京都文化博物館です。この後向かいました。つづく参照資料*当日入手の展示品一覧「仏教美術と西陣織」*過去に購入した各種図録ほか補遺西陣織あさぎ美術館 ホームーページ尾形光琳 光琳かるた YouTube 西陣織あさぎ美術館丸帯 酒井抱一「桜図楓図屏風」 YouTube 西陣織あさぎ美術館桜楓図屏風 酒井抱一 :「Canon Creative Park」酒井抱一《十二ヶ月花鳥図》 江戸東京博物館 ファインバーグ・コレクション展 ― 江戸絵画の奇跡 ― YouTube 帯を学ぶ :「尚美流」フォーマル帯で最も格の高い帯。丸帯について。 :「お祝いの着物」セーヌ川の舟遊び ピエール・オーギュスト・ルノワール :「Image Archives DNPアートコミュニケーションズ」最後の晩餐 (レオナルド) :ウィキペディアルノワール ダンス3部作 :「旅と美術館」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 京都 特別展のはしご<Ⅰ> 西陣織あさぎ美術館細見 -1 エントランス、スタディルーム へ観照 京都 特別展のはしご<Ⅰ> 西陣織あさぎ美術館細見 -2 「仏教美術と西陣織」(1) へ観照 京都 特別展のはしご<Ⅰ> 西陣織あさぎ美術館細見 -3 「仏教美術と西陣織」(2) へ観照 京都 特別展のはしご<Ⅱ> 京都文化博物館 特別展「新選組展 2022」へ
2022.10.20
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「風神雷神図」の掛軸が展示されています。俵屋宗達が仏教美術を意識して描いたのかどうかは分かりませんが、宗達の作品は京都・建仁寺に所蔵されています。また蓮華王院三十三間堂のお堂には、風神と雷神の木彫像が安置されています。 風神 雷神 余談です。一書によれば、風神は「長寿・子孫繁栄の守護神」、雷神は「落雷・稲作の守護神」です。今では風神・雷神をセットのように受けとめています。ところが文献的にみますと、どうもそうではなさそう。風を司る神、風神は、『古事記』には「次に風の神、名はシナツヒコガミを生み・・・・」、『日本書記』には「シナトベノミコト亦シナツヒコノミコトという。是風神なり」として、風を神格化した神として登場します。一方、仏教では、地水火風の四つを神格化して四執金剛神四大天女とされているそうです。ここに雷神は出て来ません。雷神は雷を神格化したもの。鳴神、雷電様などとも言われ、その語源は「神鳴り」だと言われます。古代人は落雷を神の怒りと考えていたそうです。スサノオノミコトを宗祖とする出雲系の神々では、八雷神として荒ぶる神の性格を持つ神々を表現しているとか。 どうも当初は、風神と雷神は無関係に神格化されたようです。(資料1)密教には、修法道場に魔性の侵入を防ぎ聖性を保つ護法神として十二天という神々が定められています。空海がみずから請来した『金剛頂瑜伽護摩儀軌』ほかを踏まえて、十二天として定めたそうです。西北の護法神が風天とされます。風神です。ここにも雷神は含まれていません。(資料2)「また風神は日天・火天とともに三神の一つに数えられ、人に名誉・福徳・子孫繁栄・長寿を与える仏神として崇拝されてきた」(資料1)側面もあるようです。風神・雷神をセットとして受けとめることに、俵屋宗達の絵が大きな影響を及ぼしていたとしたらおもしろいですね。元に戻ります。 前回ご紹介した七条袈裟を中央に展示する空間の右側のパーティションには、狩野探幽の絵の複製掛軸が三幅並んでいます。 雲龍図 竹虎図 白衣観音図白衣観音は三十三観音の一つで、水墨画で数多く描かれています。「胎蔵界曼荼羅観音院にあって、白は清淨菩提心を表し、同院の部母。左手に白蓮華を持ち、天災を祈る」(資料3)とされています。正面の壁面には、丸帯が4点展示されています。右端が「大華文更紗」を題材にしています。正倉院御物の一つを部分的に大きな図柄に織り込んだようです。 日本画格天井文その左の丸帯の部分図です。いずこの寺院の格天井文様でしょうか不詳。格天井に見立てた日本画花文様の織かもしれません。 桜梅柳紅葉橋文 長谷川等伯筆の「柳橋水車図屏風」から着想を得て制作された作品です。(資料3)そういう意味では、本歌取りといえる創作作品になるのでしょうか。 さらに左側には、 「群青波濤文様」の丸帯が展示されています。 部分図です。この丸帯はたぶん創作品なのでしょうね。ふと思い、後で調べてみると東山魁夷筆「潮満つ」(1977年)、「潮声」(1977年)などが着想の一つにあるのかな、という印象をうけました。(資料4) 敷物で「仏座敷」と名称が記されています。 実に細密な図柄です。 このセクションの左側を眺めますと、壁面に掛軸が展示されています。右から「般若心経」の全文を紺地に金字という形に織上げたものです。その左に「無」という文字を揮毫した形の織物、そして空海筆「風信帖」断簡が複製されています。国宝に指定されていて、その指定名称は「弘法大師筆尺牘(せきとく)三通」だそうです。尺牘は手紙(書状)のこと。最澄の消息(手紙)に対して空海が答えた書状だそうです。(資料5) 弘法大師像(談義本尊) 京都・東寺蔵で重要文化財に指定されています。この掛幅には、大師像の上部に書されているのは後宇多院宸翰、法皇が東寺に施入されたものだそうです。(資料6) この弘法大師御影は何歳頃の肖像なのでしょう・・・・。 掛軸の右傍には、文面並びに読み下し文と現代語訳が掲示してあります。 次の展示空間に移る手前に、姫屏風の形の「十二天」が置かれています。 この十二天の中には、上記の風天(風神)が入っています。十二天とは、帝釈天(東)、火天(東南)、閻魔天(南)、羅刹天(南西)、水天(西)、風天(西北)、毘沙門天(北)、伊舍那天(北東)、梵天(天)、地天、日天、月天の十二神です。8方位と天地・日月で、全空間を網羅しているということなのでしょう。(資料2) 五節句 重陽(九月)次の展示空間の入口の側面にこの掛軸があります。 それに続く左側壁面には、「如意」と「無我」の揮毫を複製した掛軸があり、「達磨大師」が続きます。ソースは未詳です。 伊藤若冲筆「梅花皓月図」 掛軸 今回は掛軸の形式の作品が展示されていますが、丸帯として制作されていることをこの絵の所蔵先をネット検索していて知りました。オリジナルは宮内庁三の丸尚蔵館の所蔵と解りました。序でに知ったことは、これと全く同じ構図で描かれた「月下白梅図」がアメリカのメトロポリタン美術館に所蔵されているそうです。 (資料7) 次のセクションに進む方向の壁面に宮本武蔵の描いた2輻の掛軸が懸かっています。 枯木鳴鵙図 鵙は「モズ」宮本二天筆のこの水墨画は和泉市久保惣美術館蔵です。武蔵は晩年に絵を描き、二天と号したといいます。(資料8,9) 枯木翡翠図 翡翠は「カワセミ」こちらは、「布袋竹雀枯木翡翠図」として、三幅の掛軸が一組になった作品の一幅だそうです。岡山県立美術館所蔵。(資料10)これで特別展「仏教美術と西陣織」のセクションが終わりです。ご紹介中、細見という意味では省略した部分があります。ご関心を抱かれたら、百聞は一見に如かずと同様で、画像よりも実物の作品・西陣織を美術館でご鑑賞ください。それでは、平常展の展示空間に入っていきましょう。つづく参照資料*当日入手の展示品一覧「仏教美術と西陣織」1)『日本の神様読み解き事典』 川口謙二[編著] 柏書房 2)『仏尊の事典 壮大なる仏教宇宙の仏たち』 関根俊一編 学研 3) 【YouTube更新!】長谷川等伯「柳橋水車図」から着想を得て制作した丸帯「桜梅柳紅葉橋文」のご紹介! :「ブログ」(西陣織あさぎ美術館)4) 東山魁夷 :「シバヤマ」5) 風信帖 :「コトバンク」6) 東寺国宝談義本尊御影について(水原堯栄「弘法大師御影」及び「宸翰英華」より) :「福寿講」7) 丸帯 伊藤若冲「梅花皓月図」 :「西陣織あさぎ美術館」8) 宮本武蔵 :ウィキペディア9) 和泉市久保惣記念美術館 :ウィキペディア10) 「布袋竹雀枯木翡翠図」 所蔵作品検索システム :「岡山県立美術館」補遺西陣織あさぎ美術館 ホームーページ柳橋水車図屏風 :「香雪美術館」風信帖 :ウィキペディアモズ :ウィキペディアカワセミ :ウィキペディア☆ネット検索中に偶然知り、動画を収集しました。西陣織あさぎ美術館の制作です。(集めてみた後で同美術館ホームページのブログに掲載の事実に気づきました。)丸帯 桜梅柳紅葉橋文 YouTube 掛軸 宮本武蔵「枯木鳴鵙図」 YouTube 西陣織額装「鳥獣花木図屏風(右隻)」 YouTube 尾形光琳 光琳かるた YouTube 掛軸 涅槃図(西陣織あさぎ美術館 スタッフ解説) YouTube 掛軸 吉祥天立像 YouTube 西陣織 丸帯「洛中屏風絵大観」 YouTube 丸帯 琳派の響 YouTube 丸帯 琳派四季草花図 YouTube 額装 東洲斎写楽「大谷鬼次」YouTube丸帯 酒井抱一「桜図楓図屏風」YouTube額装 グスタフ・クリムト「接吻」 YouTube ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 京都 特別展のはしご<Ⅰ> 西陣織あさぎ美術館細見 -1 エントランス、スタディルーム へ観照 京都 特別展のはしご<Ⅰ> 西陣織あさぎ美術館細見 -2 「仏教美術と西陣織」(1) へ観照 京都 特別展のはしご<Ⅰ> 西陣織あさぎ美術館細見 -4 平常展(琳派と印象派他) へ観照 京都 特別展のはしご<Ⅱ> 京都文化博物館 特別展「新選組展 2022」へ
2022.10.18
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2022年西陣織美術工芸展<後期>特別展「仏教美術と西陣織」のセクションに入ると、会場中央の手前正面にこの掛軸が見えます。 「阿修羅像」掛軸 奈良興福寺蔵の「阿修羅像」は脱活乾漆造の仏像です。 立体像を二次元の織物に縮尺複製した掛軸になっています。 会場の照明の下で、見る角度や距離により、その色彩が微妙に変化します。 さらに間近で斜めから眺めると、また違った立体感が浮かび上がります。 左側面は「釈迦如来立像」の掛軸です。 織の精緻さがよくわかります。 右側面は「吉祥天立像」です。会場の掲示に明示はありませんが、ソースは多分、京都・浄瑠璃寺の吉祥天立像でしょう。 阿修羅像の背面は「弥勒菩薩像」の掛軸です。 こちらは京都・広隆寺の「弥勒菩薩半跏像」でしょう。 間近に斜めから眺め、デジカメのレンズを通すとこんな立体感が生まれます。 PRチラシに使われている「涅槃図」の掛軸です。 雲に乗り、釈迦の母・摩耶夫人と阿那律尊者、天女が天上から駆けつけてくる姿 「頭北面西」で横たわり、涅槃に入られた直後のお釈迦様 仏陀(釈迦)の周りを囲む人々と鳥獣は、悲嘆のどん底に。涅槃図は数多く現存します。これは複製でしょうか、あるいはオリジナルの構図による制作か、その点は不詳。「両界曼荼羅」掛軸が並べて展示されています。涅槃図と曼荼羅図はともに大きな図像の掛軸として制作されますが、この西陣織の仏教美術としては、コンパクトで緻密な図として織上げられています。まさに細密画です。 胎蔵界正しくは「胎蔵界生曼荼羅」と称するそうです。宇宙の「理」を表現するとか。「大日如来が諸仏や一切万象を生み出した構図を示している」(資料1)そうです。胎蔵界では、仏像が実際に12大院にグループ化され描かれています。 中台八葉院の中央には大日如来が鎮座し、その周りを八仏が囲んでいます。大日如来の真上から時計回りに見ますと、宝幢・普賢・開敷華王・文珠・無量寿・観自在・天鼓雷音・弥勒の諸仏です。中台八葉院の下は持明院で、右から不動・降三世・般若菩薩・大威徳・勝三世が描かれています。 (資料1) 金剛界 金剛界曼荼羅は「智」の曼荼羅で、「衆生が成仏していく過程を示すもの」(資料1)と言います。時間軸での表現だとか。 大日如来は、上部の中央部分「一印会」に鎮座しています。 細密に図像が織り込まれています。 「日月四季山水図」屏風 四曲一双この屏風は六曲一双の国宝「日月四季山水図屏風」(大阪・金剛寺蔵)をモチーフにして新たに構図化して制作された作品のようです。8月下旬に京都国立博物館に特別展「河内長野の霊地 観心寺と金剛寺-真言密教と南朝の遺産-」を鑑賞に行った時、展示されていました。拙ブログ記事で先般一作品としてご紹介しています。 この「日月四季山水図」の前に、国宝「日月四季山水図屏風」の写真が展示されていました。 「九体阿弥陀如来像」が金糸を主体に精妙な図柄で織り込まれています。この掛軸もまた、傍近くの斜めから眺めるとまた違った立体感が見えます。 経文の中央に「南無阿弥陀仏」の名号を大きく、その左右に二十五菩薩像を織り込んだ掛軸です。 経典の文字が緻密に整然と織り込まれているのが間近で見るとよく分かります。経糸と緯糸の組み合わせだけで、ここまで絵図や文字が精緻に織上げられる西陣織の技術はすごいなと感じます。二十五菩薩とは、「二十五菩薩来迎図」に描かれる諸菩薩。「往生要集に引用の十往生経(ただし偽経という)に説く。弥陀来迎のときに従って来る諸菩薩」(資料2)をさします。 次の部屋の中央に拡げて展示された「七条袈裟」にまず目がとまります。この袈裟、洛中洛外図、南蛮屏風図、熊野参詣曼荼羅を素材に組み合わせて構成されています。袈裟という形式で表現した仏教美術という観点で捉え、芸術作品と受けとめる分には抵抗がありません。しかし、袈裟を実用品の観点で考えると、ここまで豪華なものになれば、仏陀の生きていた時代の仏僧の衣服理念とはかけ離れた次元に転換している気がします。ここには宗教観の断絶すら生まれているのかも・・・・・。そんな気すら湧きます。独り言です。つづく参照資料*当日入手の展示品一覧「仏教美術と西陣織」1)『仏尊の事典 壮大なる仏教宇宙の仏たち』 関根俊一編 学研 p50-552)『新・佛教辞典 増補』 中村元 監修 誠信書房補遺西陣織とは :「西陣織工業組合」西陣織あさぎ美術館 ホームーページ弥勒菩薩半跏思惟像 :ウィキペディア京都・浄瑠璃寺の吉祥天立像を公開 :「日本経済新聞 映像」涅槃図解説 :「青岸寺公式サイト」Vol.7 意味を知ればより深まる 清水寺「大涅槃図」拝観のツボ :「清水寺よだん堂」両界曼荼羅図 :「MIHO MUSEUM」紙本著色日月四季山水図 :「文化遺産オンライン」阿弥陀二十五菩薩来迎図 :「京都国立博物館」二尊院《二十五菩薩来迎図》の修復① :「Art Salon」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 京都 特別展のはしご<Ⅰ> 西陣織あさぎ美術館細見 -1 エントランス、スタディルーム へ観照 京都 特別展のはしご<Ⅰ> 西陣織あさぎ美術館細見 -3 「仏教美術と西陣織」(2) へ観照 京都 特別展のはしご<Ⅰ> 西陣織あさぎ美術館細見 -4 平常展(琳派と印象派他) へ観照 京都 特別展のはしご<Ⅱ> 京都文化博物館 特別展「新選組展 2022」へこちらもご覧いただけるとうれしいです。スポット探訪 [再録] 東福寺とその周辺 -7 東福寺涅槃会-大涅槃図御開帳-の折に
2022.10.17
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10/13に四条に用事があり久しぶりに出かけた続きに、特別展を2ヶ所巡ってきました。一つは冒頭のこのチラシを京都国立博物館にて入手していましたので、これを機会に初探訪を兼ねて鑑賞に立ち寄りました。四条烏丸の近くにこんな美術館が出来ていることを、チラシを入手するまで知りませんでした。 四条烏丸の交差点から烏丸通を南に一筋下がると、綾小路通の南西角が「からすま京都ホテル」です。その南隣のビル(ツカキスクエア)にめざす「西陣織あさぎ美術館」が入っています。ビルの正面、北東隅に地蔵堂が鎮座するのが、京都らしいなとまず思いました。 ビルのエントランス正面に美術館名が見え、その上部に琳派・尾形光琳筆部分図の西陣織がシンボリックに展示されています。このビルの7Fが美術館のフロアーになっています。正面ドアを入ると、左側にエレベータがあります。右側に美術館入場の受付がありました。 左は入場券の半券。右は7階の会場入口で入手したリーフレットです。図柄が同じなので、うっかりと中国語版を入手してしまいました。折り畳まれたこんなリーフレットがいただけるという例示として載せておきましょう。入口で解説用のオーディオ機器を無料で借用できました。(開館三周年記念展で特別なのか、普段からもそうなのかは未確認です。)展示会場内は撮影OKということでしたので、会場の様子と展示作品を細見ご紹介いたします。 美術館エントランスの展示はこの西陣織タペストリー。「黄金大タペストリー」です。 尾形光琳筆「紅白梅図」「光琳作品の集大成といえる、国宝『紅白梅図屏風』を大胆な構図で甦らせ純金箔を潤沢に使用して織上げました。 花弁を線書きしない梅花の描き方や蕾の配列、樹幹にみられるたらしこみ、更に他に類を見ない卓越した筆さばきをみせる水紋など、優れた要素が結集して、重厚なリズム感と洒落た装飾性を与えています。」(掲示の説明文転記)この美術館は、「西陣織の最高水準を駆使し、精緻を極めた織の芸術」(入場券より)として、琳派、仏教伝来品、印象派、浮世絵などの複製にチャレンジした作品が展示されています。私は、ふと、陶板名画により世界の美術品を複製して一堂に展示した「大塚国際美術館」を連想しました。冒頭のチラシですが、2020年西陣織美術工芸展<後期>特別展として「仏教美術と西陣織 織が紡ぐ、祈りの美」が、企画展として開催されています。会場を通覧して気づいたのは、この企画展をメインとしながら、平常展示も行われており、会場での最初にスタディルームを設定するという試みもなされています。平常展は琳派、印象派、浮世絵などを西陣織で複製した作品が展示されています。コンパクトな展示規模ですが、西陣織でこんなことができるのかと、楽しみつつ鑑賞できます。エントランスを入ると、 スタディルームと称する空間です。 「西陣織の歴史」説明パネルが掲げてあります。 そこには「高機の図」と題してかつて使用されていた「空引き機」が例示されています。その続きに、特別展と平常展に関連する説明パネルと西陣織の小品展示が続きます。 仏教美術 琳派 燕子花図 尾形光琳 額装 源氏物語 源氏物語・若紫 光琳かるた 光琳かるた 尾形光琳 額装 元良親王 侘びぬれば 今はた同じ 難波なる 身を尽くしても逢はむとぞ思ふ 伊勢 難波潟 短き葦の 節のまも あはでこの世を すぐしてよとや 参議等 浅茅生の 小野の篠原しのぶれど あまりてなどか 人の恋しき 右近 忘らるる 身をば思はず 誓ひてし 人の命の 惜しくもあるかな 浮世絵 東海道五十三次・京師 歌川広重 パネル額装 印象派 睡蓮 クロード・モネ 西陣織額装詳細は会場で実物をご覧下さい。 正面の壁面には、西陣織・丸帯「至宝 若冲の四季」が掲げてあります。 左側のコーナーの展示です。 丸帯 至宝 若冲の四季 紋意匠図 五光(ごこう)・杼(ひ)・管(くだ) 「西陣織美術工芸あさぎの技術『1800口織』とは」織物は経糸(たていと)と緯糸(よこいと)が重なり織絵柄を構成します。この交差点が袋帯幅(約30cm)に対して1800あるのが1800口と称されます。交差する点を1mm四方の方眼紙で現したものが紋図(織物の設計図)となるそうです。1800口ジャガード織機は、緻密でかつ繊細な織表現を可能にするものだとか。(パネル説明より) パネルに例示の3図は、左から400口、900口、1800口の織の表現差を示しています。 メイン・エリアへの入口の手前に、このまゆ玉を詰めた円筒が置かれています。丸帯一本分のまゆ玉の量を示すそうです。スタディルームは、展示への導入、概略理解に役立つセクションです。それでは特別展「仏教美術と西陣織」に移りましょう。 入口を入ったすぐ近く、まゆ玉円筒容器を展示した箇所の反対側の展示品 天橋立図 雪舟 掛軸つづく補遺西陣織あさぎ美術館 ホームページ国宝 紅白梅図屏風 :「MOA美術舘」紅白梅図屏風 :ウィキペディア大塚国際美術館 ホームページ燕子花図 尾形光琳筆 :「根津美術館」 小倉百人一首 〈光琳かるた〉 尾形光琳筆 :「京都便利堂」クロード・モネが描いた「睡蓮」作品一覧 :「美術ファン@世界の名画」東海道五十三次 京師 三条大橋 歌川広重 :「アダチ版画」天橋立図 名品紹介 :「京都国立博物館」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 京都 特別展のはしご<Ⅰ> 西陣織あさぎ美術館細見 -2 「仏教美術と西陣織」(1) へ観照 京都 特別展のはしご<Ⅰ> 西陣織あさぎ美術館細見 -3 「仏教美術と西陣織」(2) へ観照 京都 特別展のはしご<Ⅰ> 西陣織あさぎ美術館細見 -4 平常展(琳派と印象派他) へ観照 京都 特別展のはしご<Ⅱ> 京都文化博物館 特別展「新選組展 2022」へ
2022.10.16
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8月26日(金)に、掲題の特別展を鑑賞に行ってきました。会期は9月11日(日)までですので、残すところ僅かです。覚書を兼ねて、ご紹介します。 入場券の半券 明治古都館平成知新館 この日は天気が良かったので、明治古都館と平成知新館を写真に撮っても気持ちが良いものです。 いつも通り、平成知新館の手前では特別展PRの大パネルがお出迎えです。 こちらは二つ折でA4サイズの特別展PRチラシ。(写真をチラシから切り出してご紹介に借用します。)ここまでの写真でおわかりの通り、河内長野の霊地は観心寺と金剛寺をさします。この特別展を見るまで、私にとってはほとんど知らない地域でありお寺でした。大阪の南部、南北に東高野街道が走り、西高野街道が合流する地点となる長野村が河内長野として栄えました。現在は、南海高野線と近鉄長野線が合流する「河内長野駅」があります。現在の河内長野市です。西方向には西高野街道から分岐し天野山金剛寺への参詣道である天野街道が所在します。(資料1) 右は檜尾山観心寺の金堂。役小角開創と伝える高野山真言宗遺跡本山のお寺です。空海の高弟実恵(786~847)とその弟子真紹(797~873)によって整備され、歴朝の庇護を受けてきたお寺だそうです。観心寺は河内長野駅の南東方向に位置します。左は天野山金剛寺の金堂。行基開創と伝える真言宗御室派大本山のお寺で、阿観(1136~1207)が再興したお寺だそうです。金剛寺は河内長野駅の南西方向に位置します。14世紀、南北朝時代には、京都の奪回に失敗した南朝の後村上天皇が、金剛寺ついで観心寺を行宮(仮御所)とした時期があったそうです。今回は平成知新館の2階と1階の展示室を使う特別展でした。3階では陶磁展示室で「日本と東洋のやきもの」が展示され、考古展示室では特別公開として「熊本・宮崎の古墳文化-石人と貝輪-」の展示が併催されていました。今回の特別展は<第1章 真言密教の道場>、<第2章 南北朝の拠点>、<第3章 河内長野の霊地>という3章構成です。第1章と第3章は1階と2階に分散展示され、第2章は1階の展示室に展示されていました。ここでは、印象に残った展示品を中心にご紹介します。 一番印象に残ったのがこの「日月四季山水図屏風」(国宝、六曲一双、金剛寺蔵)です。これは七条通に面して掲示されたPRパネルから切り出した部分図です。室町時代の作品とのことなのですが、その伸び伸びと大らかで大胆な構図と描法に、モダンさを感じました。現代の作品と言われてもさして違和感を感じない気がします。室町時代の文化には現代に直接通じる雰囲気があるのかもしれません。これは第3章での展示。 当日購入した図録の表紙です。ここに使われている仏像は、やはり上掲の屏風同様に今回のハイライト作品の一つです。「伝宝生如来坐像(弥勒菩薩)」(重文、平安時代、観心寺蔵)。寺伝では宝生如来坐像なのですが、そのすがたは胎蔵界曼荼羅の中大八葉院に描かれる弥勒菩薩に一致するそうです。そのため、『観心寺勘録縁起資財帳』の記載を考慮し最初は「弥勒菩薩」として制作された可能性が考えられているとか。 こちらは第1章の展示品なのですが、他の仏像と同様に、1階に展示されていました。『観心寺勘録縁起資財帳』(国宝 平安時代・883年)が2階展示室の第1章の最初に展示されていました。こういう古文書はやはりさらりと拝見するだけになります。いつでも大体、古文書や経典類の展示箇所はすいていますね。観心寺からは「伝弥勒菩薩坐像(仏眼仏母)」が併せて展示されています。見た感じでは上掲の伝宝生如来坐像とよく似た作風です。違いの一つは禅定印を結んだ姿であることです。上記資財帳の記載の参照により、仏眼仏母如来像の可能性が考えられているそうです。金剛寺からは智拳印を結ぶ大日如来坐像を含め「五智如来坐像」(重文、12~13世紀)五躯が出展されていました。他の四躯は印相がほぼ同じです。今まで他寺の五智如来坐像で見てきた印相をつくり分けているのとはちょっと異なるところを、おもしろいと感じました。こういうバリエーションも作られていたのだと。 白鳳時代の「観音菩薩立像」(重文、観心寺蔵)です。像高32.5cmの金銅仏です。両手で宝珠を捧げ持つ姿です。観心寺創建以前の造像と思えるこの白鳳時代の観音菩薩像を目にしたのが少し不思議なくらいでした。その隣りに同じく白鳳仏の「如来踏下像」(重文、観心寺)が展示されていました。こちらは更に小さくて、像高19.8cmという大きさです。踏下というスタイルに興味を抱きました。もう一つ、観心寺の本尊如意輪観音坐像は国宝で秘仏なので、展示の対象外でしたが、昭和時代に、その時点で仏像の傷みをも含めた状態で模刻するという方針のもとに、美術院により製作された模刻像が展示されていました。模刻像ですが、やはり見応えがあります。 これも、第1章での展示品ですが、柄が三鈷杵形で両刃直刀の「剣」です。平安時代に作られたもので国宝です。密教修法の法具ということが一見して感じ取れます。二尺を超える長寸の作例を見るのは初めて。彩色が色鮮やかに残っている3点の図像が目を惹きつけました。いずれも鎌倉時代の作で重文です。2つは金剛寺蔵のもので、「五秘密曼荼羅図」と「虚空藏菩薩像」です。前者は、金銅五鈷杵と金剛五鈷鈴を両手に持つ金剛薩埵に欲・触・愛・慢の四金剛がまとわりついている画像です。後者は右手は掌を見せて下げる与願印、左手には如意宝珠を持つ姿で、記憶力増進を図る虚空藏求聞持法の本尊として描かれた画像です。 もう一つがこれ。「大隨求菩薩像」(観心寺蔵)。八臂像です。右側の手には、五鈷杵や上掲と同種の剣を持っています。福徳を求めるための陀羅尼(大隨求陀羅尼)は平安時代以降広く誦されたと云います。一方、この大隨求菩薩像が単独で造形化されることは珍しいそうです。 第1章には、この「厨子入愛染明王座像」(金剛寺蔵)が展示されていました。厨子高7.6cm、像高3.5cmという小さなものです。 厨子の扉の内側には、鮮やかな彩色の二天像が描かれています。これは向かって左側の像の頭部です。 こちらは第2章で展示されていた「厨子入愛染明王座像」(重文、観心寺蔵)。上掲と同様に、鎌倉~南北朝時代の作。こちらは六角形の厨子です。厨子高24.1cm、像高6.1cmという大きさです。 後醍醐天皇の息子である後村上天皇(1328~1368)の念持仏と伝えられるものです。これら二躯の愛染明王像はその大きさから「五指量愛染」と呼ばれるそうです。第2章の展示品からあと2件ご紹介します。 一つは観心寺と金剛寺に奉納されたと伝わる中世(室町時代)の甲冑です。これはその一例で、「藍韋威腹巻(あいかわおどしはらまき)」(重文、金剛寺蔵)です。観心寺蔵の腹巻1領、金剛寺蔵の腹巻20領と膝鎧1双の合計22件がずらりと並んで居るのはちょっと壮観です。それも飾りの甲冑ではなく、いずれも実用的なものです。使用していたと感じさせるものもあります。武具としてリアルさを感じました。 もう一つが、「琵琶」(金剛寺蔵、南北朝~室町時代)。金剛寺には琵琶が3面伝わっているそうです。「儒教では天子は優れた音楽で民心を感化するべきとされたため、日本の天皇も幼少期から楽器を学び、公の遊宴で臣下と合奏した。」(図録より)これは『源氏物語』を読むと、宴の場で楽器が奏でられ、合奏される描写が繰り返しでてきます。正倉院御物にも螺鈿細工の美しい琵琶が残されていて、正倉院展で展示されてきています。今回、図録を参照していて知ったことですが、次の説明が関心を引きました。「琵琶が天皇と強く結びついたのは、三種の神器を欠いて即位した後鳥羽天皇(1180~1239)が、醍醐天皇(885~930)から累代が相伝した神聖な琵琶を公演するにあたり『秘曲の伝授』(奥義の皆伝)という仕組みを整え、権威強化に利用したためと目されている。」(図録より転記)南北朝時代には、琵琶は王権を象徴する楽器だったそうです。ところが、「後光厳天皇(1338~1374)があえて笙(しょう)を専修するにおよび、その伝統は途絶えた。」(図録より転記)とか。日本史の年表を参照しますと、後光厳天皇は、南朝の後村上天皇の後半期と長慶天皇の前半期の時期に対応する北朝の天皇です。(資料2)江戸時代の作「鈴蒔絵笙 銘『鈴丸』」(金剛寺蔵)、「笙 銘『鳳凰』竹管」(金剛寺蔵、南北朝~室町時代)というのも展示されていました。琵琶や笙の展示をみると、どのような音が出るのか、聴いてみたくなります。こんなところで、この特別展のまとめを終わります。2階への移動前に、久しぶりに、3階展示室の北側にある展望兼休憩の空間に足を向けました。 ガラスウォール越しに東をながめると、東山に清水寺の三重塔が見えます。デジカメをズームアップして撮った写真です。 目を西に転じますと、下京の町の向こうに、西の山並みが見えます。左側で山頂部が頭抜けているのが愛宕山(924m)でしょう。少し離れた右の方は、地図を見ると桟敷ケ岳(896m)なのかもしれません。すぐ目の前、北方向は大きく繁った樹木がシールドとなり、豊国神社の境内は全く見えません。 平成知新館を出ると、秋に開催される特別展「茶の湯」の予告パネルが目を惹きつけます。「京に生きる文化」という視点からの企画のようです。秋に訪れる楽しみができました。 平成知新館の南側にある円形広場の噴水を眺め、いつも通り・・・・ 「考える人」をちょっと眺めて、京博を後にしました。ご覧いただきありがとうございます。参照資料*当特別展のPRチラシ*図録『特別展 河内長野の霊地 観心寺と金剛寺 -真言密教と南朝の遺産ー』京都国立博物館 2022*会場で入手した当特別展の「出品一覧・展示替予定表」*「京都国立博物館だより 2022年7・8・9月号」1) 歴史街道ウォーキングマップ :「大阪府」2)『新選 日本史図表」 坂本賞三・福田豊彦 監修 第一学習社補遺観心寺 :「国宝を巡る旅」天野山金剛寺 :「国宝を巡る旅」重要文化財 絹本著色 五秘密曼荼羅図 :「河内長野市」重要文化財 絹本著色 虚空蔵菩薩像 :「河内長野市」国宝 虚空藏菩薩像 東京国立博物館蔵 :「e國寶」虚空藏菩薩 :ウィキペディア如意輪観音 :ウィキペディア観心寺 ご本尊国宝・如意輪観音坐像 :「京都つれづれなるままに」愛染明王 :ウィキペディアふしぎな密教法具 :「ようこそ、こんごういんへ!」(真言宗豊山派金剛院公式サイト)金銅密教法具 :「文化遺産オンライン」中世に出逢えるまち :「日本遺産 ポータルサイト」(文化庁) 「大阪府河内長野市 日本遺産ガイドブック 中世に出逢えるまち」(文化庁) 平成知新館の高野街道PRコーナーで小冊子を入手しました。このガイドブックは 河内長野市の観光施設で入手できるそうです。 このポータルサイトのお知らせに公式アプリのリリース情報が載っています。 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2022.09.06
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京都国立近代美術館 慶流橋南詰より 先月末にポンペイ展を見た後に、「没後50年 鏑木清方展」を鑑賞してきました。その覚書を兼ねて、ご紹介します。3階が展示会場でした。 神宮道歩道から 美術館側から京都国立近代美術館前のこれら展覧会PR看板がぱっと目を引きつけます。ここではこの形式のPRが多い気がします。京都国立近代美術館のコレクション展などで、時折鏑木清方の作品を眺めたことがありました。しかし、その全容を見たことがありません。そこでポンペイ展と併せて訪れた次第です。2022年は鏑木清方の没後50年目にあたるそうです。 PRチラシ 当日の入場券これらでイメージができるかもしれません。鏑木清方は上村松園と共に定評のある美人画家でした。日本画作品で構成する清方の大規模な回顧展をこの京都国立近代美術館で開催するのは、今回が初めてとのことです。かつ京都でこの規模の回顧展が開催されるのは、チラシのキャッチフレーズにあるとおり、「45年ぶりの、京都です」ということなので、私が見た記憶がないことを納得できました。 図録の表紙この表紙、上掲のPRにも使われています。美人! 「築地明石町」1927(昭和2)年 絹本着色 軸 173.5×74.0 cm 私は知らなかったのですが、「《築地明石町》44年ぶり発見」というニュースが数年前に美術界を賑わせていたと言います。京都での公開は95年ぶりだとか。 図録の裏表紙蛇の目傘が繊細かつ緻密に描かれています。ほっそりとしなやかな右手が添えられていますので、蛇の目傘をさして雨の中に歩み出すところでしょうか。あるいは、風に伴われ斜めに降りかかる雨を避けようとするところでしょうか。指先は艶めかしさすら表象しています。 「新富町」1930(昭和5)年 絹本着色 軸 173.5×74.0 cm 新富芸者を描き、背景には新富座が描かれているそうです。利休色の小紋縮緬の羽織が良い感じ。「浜町河岸」1930(昭和5)年 絹本着色 軸 173.5×74.0 cm これで近代美術館前のPRに見る3美人が出揃いました。「幻の三部作 初めての、関西です」がPRチラシ裏面のキャッチフレーズです。勿論、これは清方自身が「築地明石町」「新富町」「浜町河岸」を三部作としたと言います。築地明石町は当時は外国人居留地でハイカラな町だったそうで、清方は明治30年代によく明石町で遊んでいたと言います。新富座は清方が生まれた明治11年に新築された櫓のない近代的な建物で、新富町は清方の思い出深き町だそうです。浜町は明治末に足かけ6年暮らした町。上掲の絵には、踊りの稽古帰りの町娘が選ばれています。「この町には歌舞伎踊の振り付けで一時代を築いた二代目藤閒勘右衛門が家を構えていたからだ」(図録より)と言います。この三部作は東京国立近代美術館蔵です。全体の感想は、やはり日本画の美人画を満喫できたこと。美人画のオンパレードもたまにはいいものです。全体を眺めると、清方好みの美人顔が見られる気がします。作品展示は4章構成でした。<第1章 木挽町紫陽花舎・東京下町にて(明治)> PRチラシに使われているこの「雛市」(1901年)は、和服姿の親子と背を向けて雛を眺める裸足の女の子のコントラストが印象的でした。作品は絹本着色、額絵で 136.0×72.0 cm。「幽霊」(1906年)「朧駕籠」(1907年)という幽霊画2点がおもしろかったですね。前者は顔が見えませんが、後者はやはり美人顔です。前者は絹本着色で軸もの 95.0×34.0 cm。 後者も同様で、110.7×42.1 cm。「秋宵(しゅうしょう)」(1903年)は、ギリシャ風円柱の傍で、振袖・袴姿の娘がバイオリンを弾いている絵です。明治のハイカラというイメージが彷彿とします。勿論美人の乙女です。絹本着色の軸もの。154.4×70.8 cm。<第2章 本郷龍岡町・金沢遊心庵にて(大正)> 美術館前疎水端のPRパネルに使われているのが、「墨田河舟遊」(1914年)六曲一双の屏風です。江戸時代の大名の姫君一行が豪華な屋形船に乗り遊ぶ風景。かつては墨田川の一風景だったのでしょうね。屏風は、絹本着色で、各 168.0×362.0 cm。 「遊女」(1918年)清方の自己評価で「会心の作」とされるものです。泉鏡花著『通夜物語』の主人公・丁山を妖艶に描いています。この物語を読んだ人は、この絵からストーリーの場面を思い浮かべたのでしょう。この衣裳(打掛)の図柄に惹かれます。火鉢が時代を反映していますね。二曲一隻の屏風、絹本着色で、161.0×169.6 cm。「ためさるる日」(1918年)は絹本着色の軸もの(184.7×78cm)です。江戸時代に長崎丸山で毎年行われていた遊女の宗門改め(絵踏み)を題材にした作品。豪華な衣裳を纏った遊女が、素足で踏み絵に足をかけんとする直前の瞬間を凝縮しています。遊女の心の内は・・・・絵を見る人が、様々に想像しうる含みを残しています。これもまた清方の自己評価で会心のできだそうです。「夏の生活」(1919年)は紙本墨画淡彩の絵日記です。場面替えという形で一部を見ただけですが、別荘や村での場面を気軽に描いてあるのは、別の絵筆の側面が見えて親しめました。「暮雲低迷」(1920年)は着色絹本、六曲一双の屏風です。 各 139.0×290.0 cm山間の小村に暮れ方に雲が低く垂れ込めているひとときの雰囲気が描かれています。美人画が多い中でちょっと異色の作品展示でした。あ、こんなものも描いているのか、というインパクトがありました。清方自身は、まあまあの出来と自己評価しているようです。<第3章 牛込矢来町矢蕾亭にて(昭和戦前)>上掲の3部作は、このセクションに展示されていました。「一葉」(1940年)は絹本着色の軸物(143.5×79.5cm)です。図録の解説を参照すると、清方は樋口一葉の随筆「雨の夜」の一節に拠り、一葉がが「たけくらべ」を執筆していた頃の樋口一葉像を描いているそうです。一方で、「たけくらべの美登利」も描いています。こちらは額で58.0×72.8cmの大きさです。こちらの方は美人画です。数多い美人画の中で、紅一点ではなく黒一点風に「三遊亭円朝像」が展示されているのも異色な感じで目立ちました。清方の自宅にて、三遊亭円朝が書き取りの席で茶を飲んでいる場面を描いた肖像画だそうです。ちょっと上を見つめているという顔が、何かを思いついたような様子で印象的です。明治の大噺家三遊亭円朝(1839~1900)の創作人情噺を、清方の父の『やまと新聞』に連載するために幾度となく書き取りの席が設けられたそうです。録音機器がない時代の一コマになります。今ではちょっと考えられない作業ですね。絹本着色の軸物(138.5×76.0cm)です。黒一点でないのは、他に『藤懸静也博士寿像』(1941年)が展示されていたからです。絹本着色、軸物(129.0×68.0cm)。雰囲気が全く異なりますので対比するとおもしろい。<第4章 鎌倉、終の棲家(昭和戦後)>大佛次郎が復刊した大衆文芸雑誌『苦楽』の表紙原画を主体にした展示でした。勿論、大半が美人画です。そして、「朝夕安居」(1948年)という題で、朝・昼・夕の生活が3図構成となっていて、紙本着色、画巻として描かれています。明治20年代の木挽町、築地界隈の夏の一日だそうです。 朝 昼 この2枚は一連の絵として、夕を描く場面です。清方はこの画巻の場面について、自作自解の文を残しているそうです。明治11年生まれの清方にとって、「明治期、市井の人々の安らかな暮らし。清方の心のふるさと」(図録より)が描き出されたのです。少年時代の思い出が盛り込まれているのでしょう。そこに人生の原点がある。朝(42.2×124.0cm)、昼(42.2×60.5cm)、夕(42.2×158.6cm)。「先師の面影」と題する肖像画。先師が誰なのか、図録の解説にも記載がありませんので不詳ですが、数少ない肖像画の展示の中では、これも異色の部類です。こちらは端正な雰囲気を醸し出した作品でした。絹本着色の軸物(114.4×69.3)。もう一点「小説家と挿絵画家」(1951年)がおもしろい。肖像画と自画像を兼ねたような作品です。図録の解説を参照すると、「明治34年の夏に、泉鏡花が『三枚綴』の原稿を携えて、木挽町の清方の居宅を訪ねた光景を描いている」そうです。面白いのは、この頃、泉鏡花は新進作家として名が知られ、清方は芽が出たばかりの挿絵画家だったとか。小説家が直接に挿絵画家を訪れるという点がまずおもしろい。清方の自宅の一室の雰囲気がわかっておもしろい。対座する2人の雰囲気がごくまじめで、鏡花は少し神経質な感じすら受ける容貌で描かれているように見えます。この作品が描かれたのは1951年です。つまり、50年後にこの絵を描いているというところがさらにおもしろい。そこには泉鏡花と鏑木清方の親交の深さが感じられるから。これだけの作品が揃う展覧会は多分当分はないでしょうね。この時、4階では「令和4年度 第2階コレクション展」が併催されていました。京都国立近代美術館のコレクション・ギャラリーです。今回、セクションBでは、「『没後50年 鏑木清方展』によせて」というテーマで、日本画家のコレクション作品が展示されていました。昭和10年代に清方が描いた「砧」と尾崎紅葉原著鏑木清方絵「金色夜叉絵巻」の2点がこちらに展示されていました。展示目録を入手しただけですので、後は省略します。序でに、4階の休憩フロアー東側の全面ガラスウォールから東山連峰と岡崎の景色を眺めましょう。 左:北東方向をズームで。多分、金戒光明寺のある黒谷町あたりかと・・・・・。右:眼前の平安神宮大鳥居 神宮道の向こう側(東)は京都市京セラ美術館です。背景には東山連峰のなだらかな山並みが京の東を囲っています。東山三十峰と称されます。 左:美術館敷地の南側を西流する琵琶湖疏水と神宮道の慶流橋右:ガラスウォールからギリギリ南寄りの峰上をズームアップ。青蓮院将軍塚青龍殿か。天気が良いとこの4階からの展望は気持ちがいいです。 帰路は白川沿いに歩き、三条通に抜けました。ご覧いただきありがとうございます。参照資料*図録『没後50年 鏑木清方展』 2022 毎日新聞社・NHK・NHKプロモーション 東京国立近代美術館・京都国立近代美術館*出品リスト 没後50年 鏑木清方展 京都国立近代美術館補遺鏑木清方 :ウィキペディア鏑木清方 :「コトバンク」鎌倉市鏑木清方記念美術館 ホームページ清方の名作44年ぶり公開 東京国立近代美術館が収蔵 YouTube東京国立近代美術館「没後50年 鏑木清方展」 YouTube鏑木清方 絵画作品と所蔵美術館 :「気になるアート.com」青蓮院将軍塚青龍殿 :「京都観光Navi」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2022.07.30
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もう一つの説明パネルに掲載の邸宅図から始めます。この家は「悲劇詩人の家」と呼ばれています。この家からの出土品は「噴火前の輝き」として展示されています。前回同様に、邸宅図に色の丸を追記しました。この家は伝統的なアトリウム式住宅で、ポンペイ全体の中では中の上レベルの規模だそうです。それ故邸宅とまでは言えないかもしれません。前回ご紹介した「ファウヌスの家」や「竪琴奏者の家」と比べると遙かに小さいのですが、「例外的なまでに多くの神話画で彩られている」(図録より)という特徴があるそうです。所有者名は不詳。平面図に緑色の丸を付けた空間はタブリヌムと称する家父長の部屋で、客間としても利用されたそうです。そのタブリヌムの中央、丁度緑色の丸を追記した鋪床から「劇の準備」と称するモザイクが出土しています。今回の展示には入っていません。説明パネルの左下の左端のモザイク画です。この「劇の準備」に邸宅名が由来するそうです。1824年に発見された保存状態の良い家で、G・ブルワー=リットン著『ポンペイ最後の日』により、とりわけ有名になったと言います。 「家の模型」この写真だけは図録から引用しました。「悲劇詩人の家」の平面図がこの模型の家に使われているそうです。ただし「復元はポンペイの家の理想モデルを示すためのもので通常の他の模型と異なり、住宅の現実の状態を示してはいない。上部は想像で作られているし、実際の家は独立した構造ではなく、隣接した家と壁を共有して街区(インスラ)の一部となっている」(図録より)という前提があります。この模型は、入口の中央で模型を開いて、家の内部を見られるように作られています。会場には、次のように2分割して内部を見せる形で展示されていました。 A B小さいライトで照らしてありますので、正面からの写真は少し見づらいですが・・・・。Bを180度回転させてAに合わせると、引用した写真の家になるようです。 少し異なる角度からそれぞれ撮ってみました。 「猛犬注意」「悲劇詩人の家」のモザイクを複製シートにして会場の床面に敷かれていたものです。平面図に赤い丸を追記した箇所。この家のファウケスつまり玄関の戸口そばのモザイクです。「猛犬注意」については前回ご説明しています。玄関の通路を進むと、トスカナ式アトリウム(第4様式)の空間に入ります。この空間の壁面に様々な神話場面が描かれていたのです。 「ユピテルとユノの聖婚」 フレスコ 縦160cm、横139cm (黄緑色の丸を付けた箇所の壁面)ユピテル(ゼウス)とユノ(ヘラ)の聖なる婚姻の場面が描かれています。ユピテルは左手に笏杖(しゃくじょう)を持ち、右手でヴェールをかぶるユノの手を取っています。ユノの背後には伝令の女神イリスが従っています。右下隅に居るのは3人のクレテス(クレタ島の聖霊)だそうです。 「ブリセイスの引き渡し」 フレスコ 縦160cm、横139cm (紫色の丸を付けた箇所の壁面)アキレウスのもとから連れ去られるブリセイスを描いている場面だそうです。 アキレスのもとを去らねばならないプリセイスは涙を流し、 ブリセイスに顔を向けるパトロクロスの背中が描かれています。 大きな玉座に座り、左手に槍を持つアキレウスは憤然としてブリセイスを見つめています。そのプリセイスの背後から、フォイニクスが心配そうにアキレウスを見守っています。この絵は、「サモスのテオンの絵画(前4世紀)に基づいているのだろう」(図録より)と推定されています。 「ヘレネの略奪(あるいはクリュセイスの帰還)」 フレスコ 縦125cm、横66cm(マゼンタ色の丸を付けた箇所の壁面)パリスを従えて、ヘレネが船に乗り込もうとする場面だとか。一方で、この女性が既婚女性であることを示すヴェールをかむっていないことから、アガメムノンと別れて父のもとへ戻ろうとするクリュセイスと解釈する説もあるそうです。タブリヌムの空間の左側、茶色の丸を付けた空間はペリステュリウムです。ここの東の列柱廊に描かれているのが次のフレスコ画です。、 「イフィゲネイアの犠牲」 フレスコ 縦140cm、横138cmトロイア戦争にまつわるエピソード「アウリスのイフィゲネイア」が題材になっているそうです。 イフィゲネイアがアルテミスへの生贄として運ばれていくところです。右側に立っているのは祭司カルカスです。 右上に現れたのは弓を持ったディアナ。雌ジカを身代わりとしてイフィゲネイアを救おうとしています。雌ジカと共にニンフがこの場面に立ち合っています。左端の全身をマントで包み、悲嘆しているのはアガメムノンです。背後の円柱上の彫像は、2頭の雌ジカを伴う狩りの女神ディアナ(アルテミス)だとか。前5~前4世紀のキトノス島の画家ティマンテスの絵画に基づくフレスコ画だそうです。最後のセクション「第5章 発掘のいま、むかし」に進みましょう。このセクションでは、現在まで発掘が行われてきた地域を概観し、ピンポイントの展示をしていました。 会場に掲示されていたパネルです。黒丸を追記した地点がポンペイ。北西方向にナポリ(茶色の丸のところ)があります。ナポリ寄りの赤い丸がエルコラーノです。北東方向に▲で示されたヴェスビオ山が位置します。その先の青い丸がソンマ・ヴェスヴィアーナです。エルコラーノからの出土品はここまでのセクションでも展示されてきました。エルコラーノは古代都市ヘルクラネウムがあったところだそうです。1709年に、エルクラーノで井戸を掘っていた農夫が、大理石の円柱を発見したことから、このエリアでの発掘が始まる端緒となったそうです。 「ヘプロスを着た女性(通称「踊り子」)」 ブロンズ 高さ155cm(台座を含む)エルコラーノの街のすぐ外に位置し、「パピルス荘」と称される別荘遺跡からの出土 銀、銅を使い象嵌が施されています。目には骨と石が使われいるそうです。図録を見ますと、5体のブロンズ像が出土していてその写真が掲載されていますので、その内の1体になります。エルクラーノは、高熱の火砕流で一気に埋もれ、ポンペイよりもずっと硬い溶岩ではるかに厚く覆われているエリアだそうです。全体の4分の1しか発掘がされていないとか。 「燭台」 フレスコ 縦217cm、横28cm 「綱渡りのサテュロス」 フレスコ 縦44cm、横117cm これらは、18世紀にポンペイのエルコラーノ門外にある「キケロ荘」で発見されたものだそうです。会場では壁面をイメージしやすくするために、模倣した壁面環境にはめ込むようにして展示されていました。綱渡りするサテュロスだけでも12点発見されていて、それぞれは色、動きとも互いに異なるように描かれているとか。ポンペイの古代遺跡は、16世紀末には既に認識されていたそうですが、本格的な発掘が始まったのは1748年だそうです。発掘は着実に継続されているそうです。 「ペプロスを着た女性(ペプロフォロス)」 パロス大理石 高さ116cm(台座を含む) 「ヒョウを抱くバックス(ディオニュソス)」パロス大理石 高さ160cm(修復部分を含む)この2体は、ソンマ・ヴェスヴィアーナで発見された彫像です。このエリアでは、1930年代に最初の発掘調査が始まったそうです。準備段階を経た後、2003年から東京大学による本格的な発掘調査が開始され、今も継続されているそうです。また、開始当初から学際的な総合調査研究を目指す取り組みがおこなわれているとのこと。これからも、ポンペイを含むこの3地域での発掘調査がさらに進展すれば、ますます興味深い成果が生まれてくることでしょう。いつか、このポンペイ展のパート2を鑑賞したいものです。ローマ、フィレンツェ、ミラノ、ヴェニスは訪れたことがあるのですが、南部は未訪です。ポンペイに行ってみたいな・・・・・。ご覧いただきありがとうございます。参照資料*図録『特別展 ポンペイ』 *ポンペイ展 出品目録 会場で入手した資料補遺ブリセイス :「コトバンク」アガメムノン :「コトバンク」アウリスのイフィゲネイア :「コトバンク」アウリスのイピゲネイア :ウィキペディアパロス大理石 ⇒ パロス島 :ウィキペディアエルコラーノ :ウィキペディアThe Herculaneum Society ホームページ「ポンペイとソンマ・ヴェスヴィアーナ」青柳 正規(国立西洋美術館長)1:平成18年度 軽井沢土曜懇話会 第2回 YouTubeStarzaReginasnc【イタリア:ソンマ・ヴェスヴィアーナでローマ時代の遺跡を発掘するヒト】 Twitterソンマ・ヴェスヴィアーナ :「Amphitheatrumめぐり」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 京都市京セラ美術館 ポンペイ展 -1 噴火と埋没、ポンペイの街と宗教 へ観照 京都市京セラ美術館 ポンペイ展 -2 ポンペイの社会構造と人々(富裕層)へ観照 京都市京セラ美術館 ポンペイ展 -3 人々の暮らし、モザイク画2点 へ観照 京都市京セラ美術館 ポンペイ展 -4 ポンペイ繁栄の歴史(1) へ
2022.07.29
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「ファウヌスの家」説明パネル「第4章 ポンペイ繁栄の歴史」に進みますと、壁面にこの説明パネルが掲示してありました。ポンペイがローマ化される以前の栄華を示すポンペイ最大の邸宅だそうです。前180~前170年に建設され、前2世紀末から前1世紀初頭に改築されたと言います。この邸宅から出土したもののいくつかは、この特別展のハイライト的展示品でもあります。図中の番号が読みづらいので、色つきの丸を重ねました。邸宅図の一番上は、ドリス式の回廊のある第2ペリステュリウムで、その下に黄緑色を追記したところはエクセドラ(ペリステュリウムから外側への張り出し空間)です。前回ご紹介した「アレクサンドロス大王のモザイク」がここの鋪床を、「ナイル川の風景」が敷居を装飾していたのです。 ペリステュリウムから外側へ張り出した空間で、円柱と円柱の間の敷居を飾っていたもう一つの「ナイル川風景」のモザイクです。 部分図を撮ってみました。邸宅図の底辺部に赤丸を追記しています。その辺りが邸宅の玄関部分で、赤丸の位置はファウケス(玄関廊下)です。 敷居にこの「葉綱と悲劇の仮面」のモザイクが描かれていました。縦48cm、横280cm。 あらためて図録を参照しますと、葉綱には様々な果実や葉が編み込まれています。ザクロ、リンゴ、ナシ、マツ、ブドウ、ケシ、オーク、キヅタ、プラタナス、ゲッケイジュ、オリーブです。3つの輪はヘレニズム時代の君主の円環状の冠に似ているとか。2つの悲劇用仮面が大きく描かれています。怒りの形相。「窪んだ眼窩に大きく見開いた目、大きく開かれた口、多量の前髪(オンコス)が特徴的」(図録より)だそうです。 「猛犬注意」モザイク 縦77.5cm 横78.5cm邸宅の玄関口の床には、このような白地に鎖に繋がれたイヌが表されていたそうです。これ自体は「ファウヌスの家」のものではありませんが、ポンペイの出土です。訪問者に対して邸宅内に番犬がいることを示すサインです。文字で注意喚起するだけでは、文字を読めない人には役立たない。悪者の侵入を脅かすためです。このあたり、2000年経った今も同じですね。今では、監視カメラが併せてその役割を担っていますね。 邸宅図に紫色の丸を追記したところです。トスカナ式アトリウム(応接用の広間)のアラ(翼室)の床、その中央部にはめ込まれていた「ネコとカモ」のモザイクです。これはこのシリーズの最初にご紹介しました。図録の裏表紙全体にこのモザイク画が使われています。この場面は何か? 「饗宴のための豪華な食材が棚に置かれた食料庫に、ネコがまんまと忍び込んだ」(図録より)という場面と考えられるとか。 「イセエビとタコの戦い」 モザイク 縦143cm、横143cm邸宅図に青色の丸を追記した箇所、トリクリニウム(食事室)の床モザイクのエンブレマ(象徴的な模様)です。「この主題は有名だったらしく、地中海全域で多くのレプリカが確認されている。おそらくアレクサンドリアの大きな絵画に由来するものであろう。」(図録より)とか。もう一つの食事室(マゼンタ色の丸のところ)には「トラに乗る有翼の童子」のモザイクが出土していているそうです。こちらは出展されていません。 「踊るファウヌス」 ブロンズ 高さ71cm この小像は、邸宅図の2つの翼室をもつトスカナ式アトリウムで発見されたもの。トスカナ式アトリウムとは「屋根を支える円柱がない形式のアトリウム」です。アトリウムは「古代ローマにおける一戸建て住宅の広間。内側に向かって傾斜した屋根の中心に天窓(コンプルウィウム)があり、床には天窓から落ちてくる雨水を受ける水盤(インプルウィウム)が設けられる。床下には雨水をためる貯水槽があった。」(図録より)両手を上げ踊るような足取りのポーズから「踊るファウヌス」と名付けられたそうです。髭をはやし、乱れた豊かな髪の間に、雄ヤギの角が生えています。「実際にはローマ神話におけるヤギ脚のファウヌスではなく、ギリシャ神話のサテュロスで」(図録より)あるとのことです。ファウヌスは古代ローマの森の神。ギリシャの牧神パンにあたり、農産物や家畜を守護する神です。一方、サテュロスはギリシャの野山の神。酒神バッカスの眷属です。サテュロスは上半身は人間ですが、ウマまたはヤギの耳、脚、尾を持ち、野性的・好酒・好色な性格の神だとか。(図録より) 尾があります!「ファウヌスの家」から出土した様々な器物が展示されています。順に見ていきましょう。 「湯沸かし器」 高さ100cm、最大直径36cm鉄製3本脚の本体。その内側にブロンズ製の鍋が差し込まれています。本体下部には燃料を入れるための扉が設けてあります。中間に、持ち運び用の把手が付いています。 「シトゥラ」高さ30cm、口縁直径25cm井戸水を汲み上げるバケツ。祭壇に液体をそそき神に捧げる儀式では、水以外にワインや牛乳を入れるためにも用いられたそうです。「三葉形注口水差」ブロンズ 高さ19.5cm、直径9cmワインを混ぜるために使われた水差しです。把手と胴部の接合部に、クピドが浮彫してあります。 「貝殻形カップ」ブロンズ 高さ5cm、長さ14cm宴会中に手を清めるため、あるいは私的な化粧をするために用いられたそうです。「料理保温器」ブロンズ 高さ55cm、直径31cm胴部の穴は最も膨らんだ部分に燃料を入れるためのものだそうです。出土品にはこんなものも・・・・。 「笛」 ブロンズ 長さ55cm、直径1.4cm 「ヘビ形ブレスレット」 金(鋳造、打ち出し、陰刻) 最大直径7.5cm 「指輪」 金(鋳造)、ザクロ石(陰刻) 左:直径2.6cm 右:直径2.6cmそれでは、次の邸宅に移りましょう。「竪琴奏者の家」です。 ここは、ローマのもとでの繁栄を表しています。同様に色丸を追記しました。この家は、前2世紀の家を核にして、前80~前30年頃に浴室群を拡張し、さらに「ラピナシウス・オピナトゥスの家」をつなげて、1軒にした大邸宅だそうです。邸宅図の外側に茶色の丸を追記しました。その結果、この大邸宅には3つの入口があります。この大邸宅には3つのペリステュリウムがあります。赤い丸の箇所が第1、下のマゼンタ色の箇所が第2、上のオレンジ色の丸の箇所が第3です。 「竪琴を弾くアポロ」 ブロンズ 高さ160cm 台座:最大直径46.5cmこのブロンズ像は第1ペリステュリウムからの出土とか。「前5世紀の様々なモデルから着想を得て前1世紀に制作された折衷的な作品」(図録より)だとか。 「竪琴奏者の家」と呼ばれる由来がこのブロンズ像にあります。この大邸宅は、正式にはポンペイで最も影響力のあった氏族の1つ、「ポピディウス家」の所有だったそうです。 この展示空間は、上掲邸宅図の第1ペリステュリウム(赤色の丸のところ)の一部をイメージして作られているようです。 「イヌとイノシシ」 ブロンズイノシシ 高さ58cm、長さ89cm イヌ 最大高さ43cm、長さ59cmイノシシの口から水が噴き出すように体内に水道管が通っているそうです。 「ヘビ形噴水」 ブロンズ 高さ47cm 「シカ」 ブロンズ 高さ63cn、長さ63.3cm 純粋の装飾用ブロンズ像 「ライオン」 ブロンズ 高さ45cm、長さ69cmこれらの像は、半円形水盤の縁を装飾していたと言います。 「ペルタ(小楯)型オスキルム(吊り飾り)」大理石 高さ13cm、長さ26cm、厚さ2.6cm 「サテュロスのオスキルム(吊り飾り)」 大理石 直径42.7cm、厚さ4cm「住宅のペリステュリウムにオスキルムを飾るのは、ギリシャで戦利品の金属楯を神殿の間に吊した習慣に由来している」(図録より)とか。列柱廊の柱の間に装飾品として吊されたそうです。 「詩人」 フレスコ 縦44cm、横44cmこれは、邸宅図に黒丸を追記した空間、つまり第1ペリステュリウムから外側に張り出した空間であるエクセドラの赤地の壁面に挿入されていたフレスコ画です。頭にはキヅタの冠をかぶり、黄色いヒマティオンをまとっている老齢の男性の肖像画です。詩人または哲学者と考えられているそうです。さらに大邸宅の他の空間から出土した展示品に移りましょう。 「女性胸像」 ブロンズ 高さ38cm アラ(翼室:黄緑色の丸の箇所、上側) 「男性胸像」 ブロンズ 高さ39cm アラ(翼室:黄緑色の丸の箇所、下側)エクセドラの左側には、入口に続くトスカナ式アトリウムの端に位置するアラ(翼室)から出土したブロンズ胸像です。胸像の下辺に数カ所穴が開いていますので、第2章でご紹介した作品と同様に、ヘルマ柱に固定されていたものと推定されています。これらの胸像はポピディウス家の一員を表しているものと考えられています。「ポンペイでは、家族の一員を表した胸像形式の肖像は7点しか見つかっておらず、限られた富裕者のみに許された贅沢だったことを示している。」(図録より) 「祭壇」 大理石 高さ25.5cm、幅20cm、深さ20.5cm 家庭での礼拝用第2ペリステュリウム(マゼンタ色の丸のところ)からの出土。「縁がレスポス式キュマで装飾されており、側面には、灌奠(かんてん)儀式用の水差しとパテラ杯、ゲッケイジュの枝(おそらくアポロを暗示している)、2人のクピドと葉飾りと花、そして2羽の鳥が描かれている。」(図録より) 「恋人たち(ウェヌスとマルスか)」 フレスコ 高さ291cm、幅167cmこの絵の主題については解釈に諸説があるそうです。説により絵の題名が異なります。邸宅図の第1ペリステュリウムの右側で、空色の丸を追記したオエクス(客間や居間として利用された空間)の壁面を飾っていました。 部分撮りしました。岩の上にマントを敷き座る裸体の男性の右には、ペタソス(旅人の帽子)とマントをまとい、座って居眠る少年と、立ち姿で恋人たちを見つめる白いトゥニカを着た人物が描かれています。この図は何を意味しているのでしょう・・・・・。次回はもう一つの邸宅から出土の展示に移ります。つづく参照資料*図録『特別展 ポンペイ』 *ポンペイ展 出品目録 会場で入手した資料観照 京都市京セラ美術館 ポンペイ展 -1 噴火と埋没、ポンペイの街と宗教 へ観照 京都市京セラ美術館 ポンペイ展 -2 ポンペイの社会構造と人々(富裕層)へ観照 京都市京セラ美術館 ポンペイ展 -3 人々の暮らし、モザイク画2点 へ観照 京都市京セラ美術館 ポンペイ展 -5 ポンペイ繁栄の歴史(2)、発掘今昔 へ
2022.07.28
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「ワイン用のアンフォラ」 土器「第3章 人々の暮らしー食と仕事」で最初に目に止まったのはこの土器です。高さ107cm、口径28cmでヴェスヴィオ山周辺で出土したもの。周辺地域はブドウの大規模栽培が前3世紀から知られているとの事ですから、運送用と貯蔵用の容器であるアンフォラが出土するのは当然かも知れません。この形状の容器をどのようにして運ぶのでしょうか。支持枠に嵌め込んでいくのでしょうか。横に寝かせて積み上げるのでしょうか。それについての説明は見かけませんでした。アンフォラの続きには、人々の暮らしに直結する調理具と食器類の出土品が展示されています。 「仮面のあるパテラ」 ブロンズ 高さ5.5cm、長さ38.5、直径25.5cm。フライパンのように見えますが、宴会の前に手を清めるために使われた容器。柄の端には、ライオンの皮をかぶった子どものヘラクレスが装飾されています。 「仔ブタ形の錘(おもり)」 ブロンズと鉛 高さ23cn、 長さ29cm 「アヒルのケーキ型」 ブロンズ 長さ35cm 「目玉焼き器、あるいは丸パン焼き器」 ブロンズ 長さ41.5cm 「南ガリア製の陶器(テッラ・シジッラータ)の杯」 土器 右の杯は、高さ12cm,直径24cm 左の杯は、高さ8cm、直径17cm。南ガリアはフランス南西部のことです。この地方で質の高い食卓陶器が大量に生産され、ヨーロッパ中西部で広く普及していたと言います。シジッラータという用語は、「共和政末期から帝政末期にかけてローマ世界全域で生産された、光沢ある赤色精製陶器の種類を指す」(図録より)そうです。 「瓶とケース」 ガラス、土器 ケース:高さ15cm、長さ22.5cm 一方、人々の暮らしに身近なものが家の壁面にフレスコ画で描き出されていたようです。その事例がいくつか展示されていました。 「雄鶏とカボチャ」「ユリア・フェリクスの家」のタブリヌム(家父長の部屋)出土 縦45.5cm、横56cm 「果物のある静物」 「シカの家」の回廊南翼で出土。 縦43cm、横128cm3点の静物画がブルボン王朝時代に1つの枠に嵌め込まれたそうです。 「パンのある静物」 エルコラーノ出土 縦22cm、横36cmここに描かれた食物は、ポンペイやエルコラーノで発見されています。 「炭化した食物の諸例」左上:「炭化したパン」 右上:「炭化した穀類」 左下と右下:「炭化した干しブドウ」ここに展示されているのは、ポンペイの住宅の台所内で見つかった食品のうちの数例で、古代ローマ時代の食品として最も完全な形で残ったものの事例の一つだそうです。次に、人々の仕事と道具類へ視点が転じられます。 「職人仕事をするクピドたち」「シカの家」クリュプトポルティクス出土 縦33cm、横169cmクピドとは、ローマの恋愛の神。愛の神ウェヌスの息子で、有翼の裸の子どもとして描かれます。キューピッドと同じでしょう。クリュプトポルティクスは、建物内あるいは地下に作られた有蓋歩廊を意味します。 鋳造工 土地測量官 靴職人 家具職人 「膣鏡」 ブロンズ 高さ31cm、幅13.5cm(開いた時) 医療検査用の器具だそうです。 左は「薬箱」 ブロンズ 高さ3cm、縦横幅7.6×5.6cm右は「外科器具入れ(箱入薬石、スプーン、探り針など)」 ブロンズ 長さ17.5cm、幅8cm数多くの外科器具入れが発見されていて、頻繁に使用する医療器具が収められていたそうです。また、作業の種類に応じて機能分化した器具・工具類が展示されていました。 「コンパス」 ブロンズ 長さ20cm、幅6cm 「下げ振り」 ブロンズ 高さ5.4cm、幅2.2cm 左の2ケは鑿(のみ)、中央は金槌付き手斧、右は金槌 鉄 (サイズ 省略) 「熊手」 鉄 長さ25cm、幅20cm 「ユピテル=アンモン形の錘付き竿秤」 高さ65cm、アームの長さ49.5cm、小皿の直径21cm この錘がユピテル=アンモンの頭部の形をしています。プレスリリース資料によると、「ギリシャのユピテル(ゼウス)とエジプトのアンモン(メン)が習合した」のがこのユピテル=アンモンのブロンズ頭部だそうです。(資料1) 「顔料の入ったテラコッタ容器」 土器、顔料左:青色顔料カエルレウム(エジプトフリット/エジプト青と呼ばれる) 人工顔料右:赤色顔料ルブリカ 赤色は様々の方法(天然/人工)から作られるそうです。壁面装飾のフレスコ画のための顔料がそのまま遺物となっていたということですね。2000年前の暮らしの一端が実感できました。機能を追求した道具の形は、2000年前も今もほぼ同じということを強く感じました。次のセクションに進む間に、休憩できるホールがあります。そこの床面には、ポンペイの建物内の鋪床に描かれたモザイク画を実感できるように、複製シートがフロアーの一画に敷かれています。 その一つが「アレクサンドロス大王のモザイク」です。このモザイク画については、次のセクションに移る前に、プロジェクション映像で反復プレゼンテーションされているブースが設けてありました。 これは、1831年に「ファウヌスの家」の談話室から発見された鋪床モザイクだそうです。アレクサンドロス大王率いるマケドニア軍とアケメネス朝ペルシャの王ダレイオス3世率いるペルシャ軍の戦闘場面です。「オプス・ウェルミクラトゥム」と呼ばれる緻密で繊細な技法で作られているモザイクだそうです。345×585cmという大画面を感じることができます。左の上半身が残るだけの人物がアレクサンドロス大王です。アレクサンドロス大王とダレイオス3世が戦場で直接対峙した機会が2度あるそうです。「イッソスの戦い」(前333年)と「ガウガメラの戦い」(前331年)。このモザイクの場面はこれらの戦いとどのように関わるのか。諸説あるそうです。(資料2,3,図録) もう一つがこの「ナイル川風景」です。 部分撮りしてみました。ナイル川風景を主題に、様々な動植物が鮮やかに表現されています。舗床のモザイクとい空間を体感したあと、次のセクションに移ります。つづく参照資料*図録『特別展 ポンペイ』 *ポンペイ展 出品目録 会場で入手した資料1) 「特別展 ポンペイ プレスリリース」pdf資料 特別展「ポンペイ」広報事務局 2) イッソスの戦い :「コトバンク」3) ガウガメラの戦い :「コトバンク」補遺イッソスの戦い :ウィキペディアガウガメラの戦い :ウィキペディア世界を制した若き英雄アレクサンドロス(アレキサンダー)大王|トルコを通って東方遠征! :「TURKISH Air & Travel」アレクサンドロス大王 :「世界の歴史マップ」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 京都市京セラ美術館 ポンペイ展 -1 噴火と埋没、ポンペイの街と宗教 へ観照 京都市京セラ美術館 ポンペイ展 -2 ポンペイの社会構造と人々(富裕層)へ観照 京都市京セラ美術館 ポンペイ展 -4 ポンペイ繁栄の歴史(1) へ観照 京都市京セラ美術館 ポンペイ展 -5 ポンペイ繁栄の歴史(2)、発掘今昔 へ
2022.07.25
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「青い水指し」「千華文ガラス杯」 「黒曜石の杯」 「浮彫付きグラス」第2章は「ポンペイの社会と人々の活躍」というテーマです。とはいえ、出土品の展示では、やはり当時の富裕な市民たちの生活ぶりにまず焦点があたります。会場に掲示の解説と図録の解説などを参照し、理解した範囲で少しご紹介していきたいと思います。最初に展示されていたこれらの品々は、富裕な人々の暮らしを想像できる糸口です。当時のポンペイは、貧富の激しい階級社会であり、住民には多くの奴隷がいたそうです。だが、古代社会としては階層が固定化したものではなく、流動性が高かったそうです。他都市から流入する人々もいたし、解放奴隷でも金融業で財をなす人が生まれるという側面が一方である社会だったと言います。その事例の展示もあります。 「萼(がく)形クラテル」 ブロンズ製クラテルは饗宴においてワインと水を混ぜるために使われた混酒器。 テーブル エルコラーノ出土 天板は様式化された植物装飾が施され、 ライオン形の3本の脚が付いています。ライオンの頭部の上は葉状装飾が施されています。ただし、このテーブルはブルボン王朝時代(18~19世紀)に再構成されたものだとか。モザイクは元は鋪床の一部であり、脚部は別の出土品だったのです。パーツが当時のものということです。私は会場ではこれ自体が発掘されて復元されたのかなと思い込んでいました。図録を確認して知った次第です。ポンペイは前80年より前はサムニウム人が上流層を占め、前80年以降はローマ人植民者が上位に立ったそうです。使用言語はラテン語に。なお、権勢を誇るサムニウム人の家系は存在したと言います。 「ヘタイラ(遊女)のいる饗宴」 フレスコ エルコラーノ出土木製の3本脚の小卓が描かれています。 「エピクロスの胸像」 ブロンズエルコラーノの「パピルス荘」のタブリヌム(家父長の部屋)出土。エピクロスとは、哲学者でありエピクロス派を創始した人です。ヘレニズム時代の非常に有名な肖像のコピー作品だとか。「筆記具」 フレスコ 一番右の一部開かれたパピルスの巻物には、読み取れるエピグラム(警句)が書かれているそうです。「愛する者は健やかであれ。愛を逃れる者は破滅せよ」と。 「蓋と鎖付きのインク壺」 ブロンズ インク壺を吊り下げるための鎖が容器の側面3箇所に固定されています。円形のインク壺は典型的な筆記具で、カラムスと呼ばれるペンと一揃いになっていたそうです。展示品は高さ8cm、直径6.4cmという大きさです。 「哲学者たち」 モザイクポンペイの「ティトゥス・ミニウス・ステファヌスの別荘」出土。七賢人を主題としたモザイク画だそうですが、それが誰であるかについて、背景の建物との絡みで諸説あるようです。 当時のポンペイの富裕な人々は、ギリシャ文化に精通した教養人として振る舞うことが重要であったと言います。ならば、この種の胸像や絵が身近にあってあたりまえだったのでしょうね。それが特に上流階級の男性の知的生活の証であったそうです。不可欠の素養だったのですね。 「マトローナ」 モザイクマトローナは既婚女性という意味のようです。図録では、Married woman dressed in jewels と併記されています。「無名のマトローナの家」から出土したもの。応接用の部屋の鋪床にこの女主人の肖像をモザイクで複製したものと考えられています。この展示品の近くには、出土品で、地方貴族の既婚女性が身に着けたと想われる装飾品がまとめて展示されてます。 「エメラルドと真珠母貝のネックレス」 長さ34.5cm 金(鋳造、圧延、細線加工)、真珠母貝、エメラルド。貴重な作品の1つ。 「半球を繋いだグレスレット」 長さ20cm 金(鋳造) 「エメラルトの眼のヘビ形ブレスレット」 直径9.2cm 金(鋳造)、エメラルド 左「双頭のヘビ形指輪」 直系2.7cm 右「石付き指輪」 直径3.2cm 「三美神のカメオ」 アゲート・オニキス(彫玉) 縦3.6cm、横3.6cmローマの美と豊かさを司る3人の女神たち。ユピテルとエウリュノメの娘たちです。アゲート(agate)はメノウ、オニキス(onyx)はシマメノウを、カーネリアン(carnelian)は赤メノウ、紅玉髓を意味します。(資料1,『ジーニアス英和辞典』大修館書店) 「海獣と女神のカメオ」 カーネリアン・オニキス(彫玉) 縦3.19cm 横4cmこれらはヘレニズム・ローマ世界の神話主題を一般的な図像で表現しているそうです。 「淡水真珠のイヤリング」 金(鋳造、ローレット)、真珠 「クロタリア」と呼ばれるドロップ形のイヤリング。T字型の支持具にかけてあります。 ヘルマ柱型肖像 大理石、ブロンズ 通称「ルキウス・カエキリウス・ユクンドゥスのヘルマン柱」一転して、解放奴隷となった家系で、銀行業を営み、富裕層と呼べるまでの社会的な上昇を果たした人物を示す展示品です。「奴隷は主人の遺言により、あるいは金を支払い、奴隷身分から解放された。解放奴隷は自由民ではあるが、基本的に元主人の保護下にあり、高位公職には就けず、最高の栄達は皇帝祭司(アウグスタレス)になることだった。しかし解放されてから生まれた子には、十全の市民権が与えられた。」(図録より)ヘルマン柱とは「古代ギリシャのヘルメスなどの神像で、人物の頭部または上半身をもち、下部は角柱となっている。ローマでは肖像の一形態として用いられた。」(図録より) 「書字板(レプリカ)」 「ルキウス・カエキリウス・ユクンドゥス家」出土住宅内の文書庫跡から出土した書字板のレプリカです。銀行業の実務記録が135点出土したそうです。 「奴隷の拘束具」 大劇場の回廊出土 鉄 奴隷の刑罰用拘束具とのこと。 展示品の傍に、ビラネージ作「砦の牢獄」という想像図が参考掲示されています。彼は1770年にポンペイを訪れていて、1766年に出土したこの拘束具を見ていたのだろうと推測されています。上掲の「ルキウス・カエキリウス・ユクンドゥス家」の家を装飾していたフレスコ画が2点、展示されています。 「テセウスとアリアドネ」 縦135cm、横120cm フレスコ トリクリニウム(食堂として利用された部屋)の東壁中央に配されていた絵画作品。右下は花のベッドで眠りについたアリアドネ。彼女をナクソス島に残して、テセウスが船に乗り込もうとしている場面です。テセウスは、ギリシャ神話にテーセウスがクレタ島のミーノータウロス退治する話として出てきます。アテーナイの人々は毎年、ミーノース王の命令で、若者・乙女を7人ずつミーノタウロスの生贄に捧げ物として提供しなければならなかったのです。テーセウスが立ち上がり、生贄の一人に紛れ込みます。このテーセウスの姿を見たミーノース王の娘アリアドネーはテーセウスを恋します。「彼女は一ふりの剣を彼に与えて、これでミーノタウロスと戦うように告げ、また、糸玉を与えてこれを頼れば迷宮から出てくることができますからと言いました。お蔭で彼は首尾よくミーノタウロスを殺して迷宮から逃れ出ると、アリアドネーを連れて、自分が助けた仲間の者たちといっしょにアーテナイ指して出帆しました。途中、一行はナクソスの島に立ち寄りましたが、ここでテーセウスはアリアドネーが眠っているすきに彼女を置き去りにshてしまいました。恩人に対する彼のこうした不実な仕打ちの理由は、アテーナーが夢の中に現れて彼にそうせよと命じたからなのです。」(資料2)この最後の場面が描かれています。 「ヘルマフロディトスとシレノス」 縦53cm、横48cm フレスコこちらはある部屋の北壁の中央部分に描かれていた絵画作品。向かって左がヘルマフロディトスで、右手に松明をかざしています。右はタンバリンをたたいているシレノスだそうです。この二人の関係がどこに由来するのか、手許の本等で調べた範囲ではわかりませんでした。 「テーブル天板(通称「メメント・モリ」)」 縦55.5cm、横49.3cm モザイクこちらは「革なめし工房」の列柱廊、夏用トリクリニウム出土です。「メメント・モリ」は死を忘れるなという意味だとか。「ローマ社会は、どの社会階層の者にも死が平等に訪れることを強く意識していた」(図録より)と言います。髑髏の周りに描かれたものにはそれぞれ意味が込められているそうです。髑髏に向かって左側は富と権力を表象し、右側は貧困の表象です。髑髏は勿論死を意味します。運命の車輪が回り、そのすぐ上に蝶が描かれています。蝶ははかない命を隠喩しています。髑髏の上に描かれているのは測量用の水準器です。その道具の機能から死は平等であることを隠喩しているのでしょう。 「ブッラ(お守り入れ)」 エルコラーノ出土 長さ6.5cm 金(鋳造) 自由民として生まれた子を示す印。男児は生後9日目から青年期の終わりまで身につけたと言います。ブッラ内にはお守りの役割を持つ小さな魔除けが入っていて、それは男根の表象であることが多いそうです。 「金庫」 箱:木 上張り:鉄、ブロンズ(銅・ブロンズ・錫の象嵌加工) 「トリプトレモスの家」の広間出土。ユピテルへの奉納場面が表されている金庫。金庫は裕福な家の重要な調度品の一つ。 「アウレウス金貨」 金(打刻) 直径2.15cm、重さ7.84g 「デナリウス銀貨」 銀(打刻) 直径1.8cm、重さ3.89g留め具が重なり写っていて、少し見づらいですが、当時の通貨の一端がわかります。他に二種展示されていましたが、ボケた写真でしたので割愛します。これらは、アウグストゥス帝の権限に基づき皇帝直轄の造幣所で発行された貨幣。造幣所は、ルグドゥヌム(現フランスのリヨン)やヒスパニアなど属州に設けられたそうです。ローマの造幣所では、元老院による公式の許可の下に銅貨や真鍮製の流通通貨を発行させた。アウグストゥス帝は、クアドリメタリカと呼ばれる徹底的な貨幣改革を実行したと言います。次のセクションは、身近なテーマ、人々の暮らしへと移ります。つづく参照資料**図録『特別展 ポンペイ』 *ポンペイ展 出品目録 会場で入手した資料1) パワーストーン辞典 :「Pascle」2)『完訳 ギリシア・ローマ神話 上』 トマス・ブルフィンチ 角川文庫 p328-329補遺『ギリシア・ローマ神話』神名対照表 :「雑文堂 Sensory Sentence」ギリシャ神話の固有名詞一覧 :ウィキペディアギリシャ神話の神一覧 :「世界雑学ノート」ローマ神話の神々 :「名前辞典」テーセウス :ウィキペディアローレット :ウィキペディア書字板を作る :「妄想科學倶楽部」アウグストゥス :「コトバンク」ローマ帝国 :「NHK高校講座」ヘルマプロディートス :ウィキペディアシーレーノス :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 京都市京セラ美術館 ポンペイ展 -1 噴火と埋没、ポンペイの街と宗教 へ観照 京都市京セラ美術館 ポンペイ展 -3 人々の暮らし、モザイク画2点 へ観照 京都市京セラ美術館 ポンペイ展 -4 ポンペイ繁栄の歴史(1) へ観照 京都市京セラ美術館 ポンペイ展 -5 ポンペイ繁栄の歴史(2)、発掘今昔 へ
2022.07.24
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6/28、「ポンペイ展」最後の週に何とか行くことができました。上掲写真は会場へ向かう中央ホールの北壁面に掲示されていたパネルです。予約の入場時刻より早い目に受付に行けば、予約時間帯まで待つ必要がありました。 そこで、中央ホールを突き抜け東側の日本庭園を眺めに行きました。庭を眺めるのには、やはり青空がいいですね。今回はガラスウォール越しにしばらく眺めるだけでしたが。京都市京セラ美術館の館内は以前にご紹介しています。そちらもご覧いただけるとうれしいです。この展覧会でうれしかったのは展示作品を撮影することが許可されていたことです。大半の展示品はガラス越しに撮ることになり制約もありますが、記録に残せるのは便利ですし、うれしい限りです。記録としてまとめようと見直していて気づいたことは、京都市が主催者の一員に参画していますが、美術館側自体の企画展ではなかったことです。この展覧会を鑑賞に出かけた時は全く意識していませんでした。「ポンペイ展」の会場は、美術館の北回廊です。 中央ホールから、北側の中庭「光の広間」に入り、会場入口に向かいます。中庭には、こんな記念撮影用パネルが設置されていました。 鑑賞後に購入した図録。裏表紙には「ネコとカモ」と題されたモザイク画が使われています。 「ポンペイの市街地」を大きなパネルで示した地図が掲示してあります。イタリア・ローマの南西方向にナポリが位置します。そのナポリのやや南寄りですが西方向にヴェスヴィオ山があり、この山の南、ナポリからは南西の方向にポンペイが位置します。79年のある朝に、ヴェスヴィオ山の噴火が始まりました。ポンペイは火口から約10kmの距離だとか。2018年にポンペイ第Ⅴ区で発見された落書きに噴火が10月24日と記されていると言います。展覧会場は、5つのセクションで構成されていました。 序 章 ヴェスヴィオ山噴火とポンペイ埋没 第1章 ポンペイの街-公共建築と宗教 第2章 ポンペイの社会と人々の活躍 第3章 人々の暮らし-食と仕事 第4章 ポンペイ 繁栄の歴史 第5章 発掘のいま、むかし 序章の始まりです。 「女性犠牲者の石膏像」噴火物の堆積層に空洞を見つけると、考古学者は石膏を水に溶いたものを一杯になるまで注ぎ込み、石膏が完全に乾いてから掘り起こすそうです。その空洞が名にだったかを知るために。1863年以降、噴火の犠牲者にその手法が応用されるようになります。これは若い女性の遺体が石膏取りされた姿です。この姿勢で噴火物の中に埋没して死に至ったのです。冒頭からショッキングな事実事例展示です。「遺物が塊になったもの」もその横に展示されています。 「バックス(ディオニュソス)とヴェスヴィオ山」 フレスコ画これがヴェスヴィオ山を描いた唯一の作例だそうです。噴火前は単一峰で、頂上付近まで葡萄畑が広がっていたそうです。バックスはワインの神、ブドウの実をまとう姿で描かれています。 「 アウグストゥスの胸像」第1章に入ります。残念ながら鮮明には撮れませんでしたので、小サイズで・・・・。ポンペイとナポリの中間、少しナポリ寄りのエルコラーノ出土のブロンズ像です。多分、当時はアウグストゥス帝の様々な像が鋳造され、各地に建立されていたのでしょうね。 「フォルムの日常風景」 フレスコ画ポンペイの街を身近に感じさせる各種出土品が展示されています。 この日常風景は、「ユリア・フェリクスの家」のアトリウム(広間)の壁面装飾の一部だそうです。壁面一面に日常の風景が描かれていたのでしょう。 「香油壺とストリギリス(肌かき器)」 ブロンズ体育施設や公共浴場の常備品。右のストリギリスは運動後に体の汗や砂を落としたり、余分な油やクリームを払ったりするのに使ったとか。左は香油壺。 「ライオン頭部形の吐水口」 ブロンズ エルコラーノ出土。泉の吐水口です。 紀元1世紀には、水量を調整する「水道のバルブ」にブロンズを使うレベルに達していたのですね。ローマ人が水力学分野で高度な技術水準に達していた証拠です。説明無しに見せられたら、1世紀の製造品とは想像もしない・・・・。 「擬アルカイック様式のアポロ」 大理石「メナンドロスの家」の奥の中庭を囲む列柱廊からの出土とか。ポンペイには多くの神々が祀られていて、アポロ神殿その他の神殿もあったそうです。右脚のところにいるのは聖獣グリュプス。ギリシャのアルカイック様式を真似た作品。 水平型の「日時計」。大理石の長方形石板に時刻盤の目盛が刻み込まれています。様々な型や大きさの日時計が公私にわたる様々な場所から発掘されていると言います。 「食卓のヘラクレス」 ブロンズ 高さ90cm、台座はサルノ産石灰岩ヘラクレスも有名な神。アレクサンドロス大王のためにリュシッポスが制作した「食卓のヘラクレス」のコピー作品だとか。 「ミネルウァ小像」 ブロンズ 「竪琴奏者の家」のエクセドラ出土列柱廊から外側に張り出した空間(エクセドラ)からの出土で、このエクセドラは談話室として利用されたそうです。ミネルウァは住宅内のララリウム(神棚)に最もよく認められる神々の一人だとか。ミネルウァはギリシャ神話のアテーナーにあたります。(資料1) 「三美神」 フレスコ画「ティトゥス・デンタティウス・パンテラスの家」の家父長の部屋の南壁から出土。後のルネサンス期の絵画を連想しました。ボッティチェッリやラファエロへ引き継がれていく構図ですね。 「ウェヌス」 フレスコ画 エルコラーノ出土。いわゆるビーナスです。「モザイクのアトリウムの家」のエクセドラの壁面に描かれていた図の一部。前5世紀末のアテネの有名な彫刻、アルカメネスの「庭園のアフロディテ」を描いたものだそうです。 「イシス神官とハルポクラテス」 フレスコ画、以下の2つも同じ。ハルポクラテスは左に描かれた彫像で、豊穣の角を持つ神です。 「イシス神官」 「パピルスの巻物を持つイシス神官」これらはポンペイのイシス神殿の列柱廊から出土したものだそうです。ハルポクラテスはホーロスのギリシア名。ホーロスは太陽の神オシーリスの息子です。ホーロスは蓮の花の上にのり、指を口にあてた姿で、沈黙の神として描かれるとか。オシーリスの妻がイーシス(大地)です。オシーリスとイーシスがナイル河域の地上に下って来た時、イーシスが住民に小麦と大麦の使い方を教え、オシーリスが農具の使い方と牛に鍬を引かせて地を耕す方法を教えたとされています。このイーシスは彫像では頭をヴェールで覆った姿で描かれ、神秘の象徴となっているようです。イシス神殿はこの神を祀る神殿でしょう。(資料1) 「シストルム」イシス信仰に関連する儀式で使用される振って鳴らす楽器だそうです。ブロンズ製。どんな音がするのでしょう・・・・・。 この二人は「俳優」です。左は悲劇の若者役、右は女性役で、おそらく遊女の役だとか。ナポリやポンペイはカンパニア地方にあり、ここは仮面笑劇であるアテラナ劇発祥の地だそうです。一説では円形闘技場で行われる剣闘士試合もカンパニア地方が起源とされているとか。 「劇の準備」 モザイク 「悲劇詩人の家」の家父長の部屋(タブリヌム)から出土これはタブリヌムの広くて白い床の中央部分のモザイク画だそうです。 クラシック時代におけるギリシャ劇は、悲劇・喜劇・サチュロス劇と三区分されていたそうです。この図は、サチュロス劇の公演準備をする俳優たちの一団を描いているとか。 円形闘技場の景色を背景に、「パレード用の兜」が展示されています。大劇場の回廊から出土したもの。ブロンズ製。これは、ムルミッロと呼ばれた重装備の剣闘士により使用されたものだそうです。この兜の装飾は「トロイアの木馬」を題材にしているそうです。 「 ヘラクレスを表した肩当て」と「ユピテルとネプトゥヌスを表した脛当て」同様に大劇場の回廊から出土したもの。ユピテルはジュピターで、ギリシャ神話のゼウスです。一方、ネプトゥヌスはネプチューンで、ギリシャ神話のポセイドン、海洋の神にあたります。(資料1)モザイク画について少し補足をしておきましょう。「ポンペイ展」の新聞報道には、こんな記述があります。「ローマ化以前の豪華な家の壁は立体的なストゥッコ(しっくい)装飾を施され、モザイク画の多くは壁ではなく床に飾られていた。」(資料2)図録裏表紙のモザイク画を載せていますので、これとの関連について。この「ネコとカモ」のモザイク画は前1世紀のもので、「ファウヌス家」のアラ出土だそうです。アラは、古代ローマにおける一戸建て住宅の広間(アトリウム)の左右にあり、向かい合う2つの凹所をさす言葉で翼室という意味のようです。小談話室や先祖の肖像を保管する空間としてて利用されたとか。この「ファウヌスの家」の出土品は一級品として知られているそうです。つまり、この特別展でのハイライトとなる作品の部類です。「『ファウヌスの家』の細密なモザイク画は、天然石などをもとにした一辺数ミリのテッセラ(切り石)を用い、工房で時間をかけて作ったと考えられる。」(資料2)序でに、思い出した事例も補足としてご紹介します。滋賀県の信樂に MIHO MUSEUM という美術館があり、その南舘の床面に「ディオニソス・モザイク」が展示されています。3~4世紀、ローマ、伝シリア出土という作品です。縦352cm×横357cmという大きなものです。吹抜になっていますので、近くで眺めたあと、建物の2階から全体を鑑賞するのがよい作品です。(資料3)何度か訪れて、この床のモザイク画をその都度見てきているのですが、今回の報道記事で多くは床に飾られたという文を読み、なるほどと思った次第です。それでは、次のセクションに進みましょう。参照資料*図録『特別展 ポンペイ』 *ポンペイ展 出品目録 会場で入手した資料1)『完訳 ギリシャ・ローマ神話 下』 トマス・ブルフィンチ著 角川文庫 p160-1642) 「ポンペイ展 細密モザイク 富と知の輝き} 朝日新聞 朝刊 2022年5月29日 3) 図録『MIHO MUSEUM 南舘図録』 MIHO MUSEUM 1997 p146-150補遺ポンペイ :ウィキペディアポンペイ :「コトバンク」産卵前のカメの死骸発掘 伊ポンペイ遺跡 2022.6.25 :「AFP BB News」伊ポンペイ遺跡で2人の遺体発掘 ベズビオ火山噴火の犠牲者 2020.11.22 :「AFP BB News」National Archaeological Museum of Naples :「NaplesPompeii.com」ナポリを代表する国立考古学博物館の見どころ :「アーモイタリア」ナポリ国立考古学博物館 :「遺跡ときどき猫」サテュロス劇 :「Wikiwand」MIHO MUSEUM ホームページ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 京都市京セラ美術館 ポンペイ展 -2 ポンペイの社会構造と人々(富裕層)へ観照 京都市京セラ美術館 ポンペイ展 -3 人々の暮らし、モザイク画2点 へ観照 京都市京セラ美術館 ポンペイ展 -4 ポンペイ繁栄の歴史(1) へ観照 京都市京セラ美術館 ポンペイ展 -5 ポンペイ繁栄の歴史(2)、発掘今昔 へこちらもご覧いただけるとうれしいです。観照 京都・岡崎 京都市京セラ美術館外観を巡って観照 京都市京セラ美術館 館内巡り 観照 京都市京セラ美術館外観と日本庭園 細見
2022.07.22
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先週の水曜日(7/6)、市の図書館に行く時、初蝉が鳴くのを耳にしました。その翌日、自宅で初蝉が鳴いているのを窓越しに聞きました。金曜日(7/8)、自宅の小さな敷地、南東隅の金木犀で、初蝉の鳴くのを聞くことに。どこに留まっているのか、目を凝らして探してみました。いた! デジカメを持ち出してきて早速初蝉撮りをしました。今年の記録。見つけたのは Only One !リビングルームの窓際にアサガオが緑のカーテンになり始め花が幾つか咲いてきています。今年のオーシャンブルーをいくつか撮ってみました。 先週から今週にかけ、曇り・雨の日がつづいているせいか、 蝉の鳴く音が弱々しく、元気さを感じません。ちょっと、さみしい・・・・・。蝉時雨と言えるほどに、蝉の鳴く日は何時になるのでしょう。
2022.07.16
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北小路通を西に歩み、唐門を通り過ぎて、南西側から撮ってみました。東側の築地塀は修復工事のため覆われています。前面に埒(らち)があるので、唐門全体を撮っても、下部は見えません。唐門の外側はセンサーで常時監視されている表示とさらに立入禁止用のコーンも確か置かれていたので、傍まで近づくことができません。境内内よりアクセスは一層厳しい状態です。これはまあ、修復工事前からですが。少し離れた位置からの観察ですが、できる範囲で細見しつつご紹介します。 外側の木鼻も勿論、獅子像は阿吽形の一対になっています。 唐門の外側上部を正面から眺めますと極彩色が甦った美しさがよく味わえます。 唐破風の中央部の錺金具は、菊花を中心に同じ図柄の唐草文です。兎毛通の形は、猪の目懸魚を左右に引き延ばした様な感じのデザインです。 唐破風が中央の凸曲線から凹曲線に移っていく転換点辺りに、錺金具が取り付けてあります。こちらは中央に五三の桐、その両側に菊花の側面を文様にした形の意匠です。脇懸魚の形は兎毛通と同じです。 唐破風の屋根裏を見上げると、化粧垂木のそれぞれに錺金具が取り付けてあります。黒漆で修復されたばかりですので、表面に鏡面反射が生じて極彩色の装飾彫刻を映しています。 頭貫と虹梁の二段の間は透かし彫りでびっしりと装飾され、正に極彩色に塗り分けられています。 虹梁の上、向かって左(西)側に丸彫りされた獅子像 向かって右(東)側の獅子像は、頭部は丸彫り様ですが、胴部は亀甲文様の上皮部だけの透かし彫りを地の彫刻に重ねているようです。巧みな造形となっています。 中央部の組物(斗栱)は前回のご紹介通りです。組物の色の塗り分けも同一です。虹梁の上の透かし彫りは図柄が境内側とは異なります。対比してみてください。 また、虹梁に付けられた錺金具の文様に菊花がデザインされているのは同じなのですが、その図柄は微妙に異なります。これもまた、対比してみるとおもしろいところです。細見の楽しみなところといえます。 本柱と控柱との間の側面は、丸彫りと透かし彫りを併せた板彫刻で装飾されています。これは向かって右(東)側ですが、外側も中国の故事が題材になっています。「騎乗の黄石公(こうせきこう)が橋の上から沓を川に落とした場面」です。 向かって左(西)側には、「張良(ちょうりょう)が拾い上げた沓を馬上の黄石公に差し出す場面」です。こちらの二場面は、「張良と黄石公」の故事を表したものだそうです。黄石公はわざと沓を川に落とします。一方、張良は夢告によりその橋の下にくるように指示されて居合わせるのです。張良は落ちて来た沓を龍に乗って拾い上げ、黄石公に差し出します。黄石公はその態度を認め、張良に「太公望」の兵書を授けたと言います。(資料1)黄石公は中国、秦末の隠士です。張良は中国、前漢初期の政治家。韓の人。韓が秦に滅ぼされた時、始皇帝の暗殺を図り失敗したという前歴を持つ人。張良は「太公望」の兵書を読み、漢の高祖(劉邦)を助けて秦を滅ぼし、漢の建国・天下平定に尽くしたと言います。統一後、留候に封ぜられます。(資料1,2)唐門の外側と内側(寺の境内)では、中国の故事の取り上げ方の視点が異なります。この外側の故事は、俗世における苦難に耐えて目的を遂げる出世譚、願望成就という俗世の価値観を踏まえています。一方、唐門の内側、寺の境内に使われた中国の故事は、寺という出家後の世界、俗世の欲望からの解脱をめざす清浄な世界に照応した故事が採りあげられています。 これは、張良が沓を差し出す場面の反対側、つまり側面の外側(西面)とその上の豹の丸彫りです。この豹像は前回関連でご紹介しています。 角度を変えて撮ってみました。 頭貫の左右の錺金具の内、向かって右(東)側です。右側は上掲の写真に収まっています。これを前回の同じ位置の錺金具と対比してみてください。微妙に図柄が異なります。本柱と門扉は、埒のすぐ傍までは近づけないので、残念ながら角度的に部分紹介に留まります。 本柱の虹梁と頭貫の中央部です。錺金具の基本的図柄は前回と同様です。外側の頭貫の中央部には、頭貫の上面に孔雀像が丸彫りしてあります。今回は撮れませんでした。頭貫の下の箇所に目を転じてみました。 頭貫と幣軸との間の細長いスペースに龍の透かし彫りが施されています。 門扉が閉じた状態です。左扉の右上角と右扉の左上角は、錺金具が煌びやかな装飾となり、且角部分の補強にもなっています。幣軸の中央部に五三の桐を中央にした錺金具が取り付けてあるのは、前回ご紹介したのと同じですが、その左右の文様が異なります。 こちらが境内側に取り付けられている錺金具です。 向かって左側の扉を例にすると、埒のすぐ近くにもいけませんので、なんとか撮れたのが、埒の上に見える門扉の上端部分の透かし彫りです。通常では桟唐戸の上部は菱狭間や花狭間として、あるいは連子で造形されます。この唐門は、上部が透かし彫りの装飾彫刻に替えられています。それだけ豪華な仕様になっています。 左右の扉の透かし彫り装飾部分これを内側から眺めた透かし彫りとの対応関係を眺めるのも興味深いことと思います。 境内側でご紹介した写真から切り出してみました。透かし彫りの表裏の彫刻の妙を併せてご覧ください。匠の技がその意匠に反映しています。どちらからも自然に見える工夫がすごい。様々な視点からこの唐門を眺めて行くなら、時刻の移ろいとともに日射しの角度も変化していきますので、正に一日眺めていても見飽きないと言える唐門です。日暮門、「ひぐらしもん」とはうまく名付けたものですね。様々な分野の匠、職人の技がコラボしてはじめて完成できた唐門といえます。因数分解するように、この唐門の製作工程を分解し、溯っていけば、どれだけの種類の領域に分かれ、どれだけの匠の技、職人の技が関わっているのでしょう・・・・。逆からみれば、これらの文化財を維持伝承していくには、伝統工芸の知識・技術と伝統工芸の技の体現者の層の厚みを如何に維持発展させていけるか、という側面につながるのでしょう。久々に眺めた唐門です。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1)『西本願寺への誘い』 岡村喜史著 本願寺出版社 p1492)『大辞林』 三省堂補遺お西さん(西本願寺) ホーム-ページ浄土真宗本願寺派 西本願寺 :「真宗教団連合」錺職 :「コトバンク」金物を芳しい表情へと昇華させる錺師の巧手 日本遺産 職人 :「飛騨高山」江戸木彫刻 塩田彫刻店 :「葛飾区伝統産業職人会」大阪欄間工芸協同組合 ホームページ井波彫刻とは 日本全国工芸百科事典 :「中川政七商店の読み物」塗師(ぬし) :「コトバンク」塗師(ぬし) :「若林佛具製作所」東京の匠 #4 「漆塗り」 YouTube建造物漆塗 :「文化遺産オンライン」建造物彩色 :「文化遺産オンライン」建造物装飾 :「文化遺産オンライン」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 諸物細見 -23 京都・西本願寺 唐門 (1) へこちらもご覧いただけるとうれしいです。スポット探訪 [再録] 京都・下京 西本願寺細見 -4 唐門~北小路通からの眺め~
2022.06.30
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ごく最近唐門の修復工事が終わっているということを知りました。調べてみると、文化財指定建造物修復工事として、2018年6月から始まり、2021年9月まで、3年4ヵ月の工期で修復が完了していました。(資料1)そこで、先日来ご紹介してきた2ヵ所のミュージアムでの鑑賞の後に、堀川通を西に渡って、西本願寺の境内に入り、まずは「唐門」を境内側から眺めました。唐門の修復工事の続きに、現在は築地塀の修復工事に入っていて、今は築地塀が囲われていて未だスッキリした状態ではありません。しかし唐門自体は殆ど眺めることができます。勿論、唐門の前には埒(らち)が設けてあります。つまり柵で囲われています。そこで、夾雑物をできるだけ撮りたくないので埒より上の部分の全体をまず撮りました。右下隅に一部が写っていますが、駒札が立っています。表面が透明シートで保護されていて、鏡面反射して建物を写しています。転記します。「唐門は、唐破風という中央が膨らんだ形の屋根をしており、檜の皮で屋根を葺く檜皮葺は唐破風の繊細で見事な曲線を表しています。本願寺の唐門は、二本の親柱の前後に支える控柱を持つ四脚門です。正面に唐破風がくる向唐門の様式となっており、さらにその上に門に平行して棟を作って側面に千鳥破風をつけるのが特徴です。黒漆の上に施された孔雀や唐獅子、麒麟、中国故事といった極彩色の豪華な彫刻や随所に施された錺金具に見入っていると、日が暮れたことも忘れてしまうということから日暮門ともよばれています。」序でに、英文ではどう紹介されているか。こちらもcopyしておきます。唐門は、 Karamon Gate と訳されています。「The Karamon Gate has a roof decorated with undulated karahafu gables. With its elegant curve, the gable thatched with cypress bark is set in the center of the front edge. This prestigious gate is supported by two columns as well as subsidiary pillars that stand in front and back of the main columns. In addition to the karahafu gables, slightly concaved gables are installed on the sides just below the roof ridge. The black lacquered base is decorated with elaborte metalwork and colorful carvings of animals, such as peacocks, and mythical creatures, such as, kirin (fiery house) and shishi (chinese lion). In the side panels, carvings based on Chinese folktales are an added feature. This gate is also called higurashimon or the "all day gate", as people enchanted with its beauty easily lose the sense of time and spend the entire day gazing at it.」 境内側の控柱は角柱です。木鼻は獅子像が彫刻されています。柱頭には大斗、肘木、巻斗が順番に組み込まれ、その上の肘木が屋根の軒桁と虹梁を支持しています。 正面から向かって左(東)側は吽形の獅子像です。 向かって右(西)側は阿形の獅子像です。 東西方向の頭貫の木鼻は牡丹でしょうか。 見上げると頭貫から唐破風の屋根までの全体は極彩色の彫刻で溢れています。 虹梁の中央部上の組物(斗栱)。虹梁の錺金具には菊花がデザインされています。 頭貫の中央部上の組物(斗栱)。頭貫には鳳凰を象った錺金具が取り付けてあります。 中央部の組物の左右は、透かし彫りや丸彫りの彫刻で一面に装飾され、豪華絢爛さを見せています。 頭貫上に空想上の動物がいます。ユニコーンと麒麟です。 頭貫の左右の錺金具は五七桐の文様がデザインされています。控柱と親柱でできる側面の左(東)を眺めると 上部に虎が丸彫りされ、下部には中国の故事の一場面が透かし彫りしてあります。透かし彫りが分かりづらいのは、引き続き築地塀の修復工事で幕が背後に設けてあるからです。これは、「巣父が牛を引いて帰る図」です。 こちらは右(西)側の中国の故事の別場面です。 右側は外側の面も眺めることができます。透かし彫りは丸彫りであることがわかります。こちらは「許由が穎水(えいすい)で耳を洗う図」です。両側の図は相互に関連する中国の故事に由来するようです。許由と巣父はいずれも古代の伝説上の高士です。まず、事の発端は、聖天子と仰がれた堯帝(ぎょうてい)が、許由が高士であることを聞き、天下を譲ろうと許由に言ったのです。いわゆる禅譲するという意思表示です。すると、許由は耳が汚れることを聞いたと、穎水にて耳を洗い、箕山(きざん)に隠遁してしまいます。一方、巣父もまた堯帝から天下を譲られようとして拒絶していました。その巣父が耳を洗っている許由を見て、その汚れた水を牛に飲ませることはできないと言って、牛を引いて帰ったと言います。この故事は栄貴を忌み嫌うたとえです。(資料2,3) 右側面の上部の虎 四脚門ですので、境内の外側にも同様に側面があり、これはその上の豹です。体の文様が異なります。 控柱の下側の貫-側面の下辺になる部分-に対する錺金具です。木材の端面を保護する機能もあるのでしょう。それでは、門扉とその本柱、つまり四脚門の中央部分に目を転じます。 唐破風屋根を支える親柱の頭貫上の蟇股とその左右の彫刻から細部を眺めて行きます。 褪色していた色彩、その極彩色が甦りました。錺金具は、唐草文様の中央に菊花がデザインされています。菊花が尊重されています。 頭貫の下、門扉の上の幣軸の箇所には、五三の桐紋を中央に置いた草花文様の錺金具が見えます。西本願寺がこの地に創建された経緯と豊臣秀吉の関わりがうかがえる気がします。 門扉は桟唐戸です。上部の狭間には咲き誇る花が透かし彫りにされ、表側の透かし彫りの背面になります。丸彫りの動物の裏面がさりげなく見える形です。 右側の門扉の狭間部分の透かし彫りを部分的にクローズアップしてみました。門扉の下部は格子状の区画で、そこには躍動する獅子の様々な姿がレリーフされています。 本柱は円柱です。下端部には錺金具が取り付けてあります。方形の礎石の上に柱が載っています。 境内側は、埒のすぐ傍まで行けますので、その上越しにあるいは埒の空隙から、唐門の細部を撮ることができました。この唐門は、かつては勅使門の役割を持っていたようです。(資料4)唐門の西側には「大玄関門」があります。通常はそちらが使用されたのでしょう。それでは、境内を一旦堀川通の西側歩道に出て、南に下り、境内の南端、北小路通に右折して、唐門を表から眺めます。北小路通は西本願寺とその南の興正寺との間の通りです。堀川通から一筋西の大宮通に抜けることのできるこの北小路通の途中までは両側に両寺の築地塀が続く静かな通りです。つづく参照資料1) 境内と建造物 :「お西さん(西本願寺)」2) 許由巣父 :「コトバンク」3) 『大辞林』(三省堂) 許由、許由巣父、巣父 4)『昭和京都名所圖會 5 洛中』 竹村俊則著 駸々堂 p378補遺お西さん(西本願寺) ホーム-ページ唐門 :「コトバンク」許由巣父図 重文 :「e國寶」許由巣父図 曾我蕭白 三重県立美術館蔵 :「文化遺産オンライン」唐門 中国故事の彫刻 :「いこまいけ髙岡」鎌倉の古建築(寺院編) 唐門 :「唐門の古建築」唐門(日光東照宮) :「THE GATE」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 諸物細見 -23 京都・西本願寺 唐門 (2) へこちらも御覧いただけるとうれしいです。修復工事前の唐門を撮っています。スポット探訪 京都・下京 西本願寺細見 -5 唐門 ~境内からの眺め~、中雀門
2022.06.29
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フロアーの北西隅に、『竹取物語』の「かぐや姫の昇天」場面が具現化され、常設展示されています。以前のブログ記事でご紹介していますので、併せてご覧いただけるとうれしいです。 「大空より、人、雲に乗りて降り来て、土より五尺ばかり上がりたるほどに、立ち列ねたり」と、かぐや姫を迎えに降りてきた場面です。 「飛ぶ車一つ具したり。羅蓋差したり」(飛ぶ車を一つ持ってきている。薄絹で張った天涯を差しかけている。)その車の前には、「王とおぼしき人」が立っています。 王と思われる人の冠を御覧ください。「冕冠(べんかん)」を参考にして具現化されているようです。右の冠は、孝明天皇の即位の儀まで使われてきた冕冠だそうです。(資料2) 一緒に雲に乗って降りてきた天人たちはそれぞれ肩に天の羽衣をかけています。 天人たちの額には、しるしが描かれています。余談ですが、これを見て連想したのが、インドの女性が額につけているしるしです。調べてみますと、「ビンディ」と称するそうです。もとは宗教的意味合いがあったそうですが、今では単なるファッションという色合いが濃くなりおしゃれとして楽しまれているとか。 (資料3) かぐや姫かぐや姫は、8月15日頃の月の出た夜に、自分が月の都の人であることを泣きつつ告白します。 悲嘆にくれる嫗(おうな) 竹取の翁(讃岐の造) 月へ帰って行くかぐや姫の場面がこのように描かれている例があります。(土佐広通、土佐広澄・画)(資料4)物語には、帝が高野大国を勅使に指名し、各役所に命じ六衛の役所を合わせて2000人を竹取の翁邸に派遣したと記していますので、このように描かれているのでしょう。 絵巻にした『竹取物語』の別の例からの抽出引用です。(資料6) 明治21年に出版された「つき百姿」に載る月岡芳年画の「月宮迎 竹とり」です。これもかぐや姫が月の世界に戻っていく様子を描いたものです。(資料4,7)『竹取物語』はかぐや姫の生い立ちから始まります。讃岐の造という竹取の翁が根元が光る竹を発見します。筒の中には三寸ぐらいの人が坐っていました。自分の子となる人だと、自宅に持って行き、小さいので籠に入れて育てます。不思議なことには3ヵ月ほどで適齢期の成人女性に成長します。竹取の翁は竹を取るたびに、黄金の入っている竹を見つけ、しだいに金持ちになり、有力者となっていきます。その子をなよ竹のかぐや姫と命名します。かぐや姫への求婚話に展開していきます。かぐや姫の前に、色ごのみの5人の貴公子が通ってきます。竹取の翁は、5人のいずれかとの結婚話を持ち出します。だが、かぐや姫は、貴公子それぞれに対し、かぐや姫が見たいものをもたらして欲しいという難題を投げかけます。勿論それは貴公子との結婚話を回避したいかぐや姫に作戦です。この課題に貴公子たちがどう立ち向かうかの顛末譚がこの物語のひとつのおもしろさです。5人の貴公子にかぐや姫が与えた難題を列挙しておきましょう。(資料8,9) 石作皇子 天竺の仏の御石の鉢 車持皇子 蓬莱山の玉の枝 阿部御主人 唐土の火鼠の皮衣 大伴御行 竜の首の五色の珠 石上麻呂足 燕の子安貝さらに、かぐや姫の容貌の美しさを聞いた帝は、内侍、中臣房子にかぐや姫を見て参れと命じます。そして、宮仕えをするように話をさせますが、かぐや姫は受けつけません。帝はかぐや姫への歌を詠み、手紙を書いてやりとりをされます。(資料9)5人の貴公子と帝からの求婚及びそれらへの対処プロセスが読ませどころです。最後に、かぐや姫の昇天までの経緯が語られて行きます。帝とのやりとりの間に3年ほどが経ちます。かぐや姫には思いにふける日々がやってきます。月の世界に戻る日が近づいてくるからです。かぐや姫は遂に、竹取の翁と嫗に事実を打ち明けます。帝は竹取の翁の邸を警護する2000人の人々を差し向けるという次第。遂に8月15日の夜が到来し、迎えの人々が車を備えて雲に乗り、天より降りてきます。天人がかぐや姫に天の羽衣を着せると、かぐや姫はそれまでのことを全て忘れ去ってしまいます。そして、月の世界に昇天して行く結果になります。この出迎から昇天までの経緯がストーリー最後の山場になります。(資料8)竹取物語は現存するわが国最古の作り物語で、作者は未詳。成立時期は9世紀から10世紀の初めと考えられています。学識豊かで和歌にも長けた男性が作者だろうと推測される程度のようです。竹取物語で、天人は「もの思ふ心」を持たないとしています。「心」こそが人間の象徴であり、「心」こそが人間と天人との大きな違いと作者は設定しているようです。(資料9)余談ですが、奈良県の広陵町が『竹取物語』のかぐや姫のふるさととして知られています。それは、かぐや姫の育ての親である竹取の翁・讃岐の造が広陵町に拠点を置く豪族であったと、『竹取物語』の出版書で註釈されるようになったことによるそうです。広陵町のホームページには、漫画家里中満智子さんの絵と文による『竹取物語』が掲載されています。勿論、ここにもかぐや姫の昇天シーンのイラストがストーリーのワン・シーンとして載っています。(資料10)最後に、フロアーの南西側にある展示空間に戻りましょう。 等身大の装束展示が行われているスペースです。今回は展示がガラリと変更されていました。3点の装束が展示されています。 「鶴岡八幡宮御神宝」の再現です。これは古神宝に知る十二単の姿だそうです。詳細な説明パネルが置かれています(ここでは省略します)。 唐様を変化させて、日本独自の十二単(じゅうにひとえ)の形式が、平安時代中期に完成したそうです。宮中における成人婦人の正装で、「女房装束」や「唐衣裳」姿といわれています。「十二単」というのは俗称だそうです。平安中期には20枚以上着用することもあったようです。平安末期から鎌倉時代には重ね袿(うちき)を5領までとする「五衣の制」が定められるに至ります。この五衣では季節に応じたかさね色目を装うことが美しさの条件にされたと言います。(説明パネルより) これは20枚の重袿(かさねうちき)を再現したもの。藤原道長の娘の一人、妍子(けんし)は三条天皇(在位:1011~1016)の中宮になりました。皇大后になっていた妍子が万寿2年(1025)正月23日に大饗を主催した時の様子が『栄華物語』巻24「わかばえ」に記されているそうです。万寿2年は、姉の藤原彰子と一条天皇の間の子敦成親王が即位し、後一条天皇(在位1016~1036)であった時代です。妍子は女房たちに柳・桜・山吹・紅梅・萌黄の5色から一人につき3色選ばせ、1色につき5枚ずつ、または6枚ずつ、多い者は7枚ずつも袿を重ねたので、重ね袿は15~20枚に及んだと言います。この重袿の再現は、 柳の重ね色目 (表:白・裏:青) 山吹の重ね色目(表:山吹・裏:黄) 紅梅の重ね色目(表:紅梅・裏:蘇芳)の3色を重ねたものです。 (説明パネルより) これで今回の展示を一巡したことになります。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1) 竹取物語 [かぐや姫]「かかるほどに、宵うち過ぎて」 :「学ぶ・考える.com」2) 冕冠 :ウィキペディア3)おでこの真ん中についているアレはなんですか? :「インド家庭料理ラニ」4) 竹取物語 :ウィキペディア5) 竹取物語 [かぐや姫]「このことを帝、聞こしめして」 :「学ぶ・考える.com」6) 竹取物語.下 :「国立国会図書館デジタルコレクション」7) つきの百姿 月宮迎 竹とり :「国立国会図書館デジタルコレクション」8)『クリアカラー 国語便覧』 監修:青木・武久・坪内・浜本 数妍出版 p100-1019) 竹取物語 [かぐや姫](原文・現代語訳) :「学ぶ・考える.com」10) 「『竹取物語』のかぐや姫」と 広陵町 :「広陵町」補遺竹取物語絵巻デジタルライブラリ ホームページ(立教大学)貴重資料(九大コレクション):竹取物語絵巻 :「九州大学附属図書館」月岡芳年 :ウィキペディアなぜ広陵町が「かぐや姫のふるさと」とされるのか? :「広陵町」奈良のむかしばなし かぐや姫 :「県民だより」十二単の変遷 :「日本服飾史」(風俗博物館)十二単 :「コトバンク」【十二単着付け】千年以上続く着付け技術を特別公開 前編 YouTube【十二単着付け】千年以上続く着付け技術を特別公開 後半 YouTube平安装束体験所 - Heian Costume Experience Studio YouTube曲水の宴 十二単の行列 平安時代を再現 太宰府天満宮 平成31年3月 YouTube藤原妍子 :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 京都・下京 風俗博物館 2022年4月からの展示:五節句のルーツをたどる -1 へ観照 京都・下京 風俗博物館 2022年4月からの展示:五節句のルーツをたどる -2 へ観照 京都・下京 風俗博物館 2022年4月からの展示:五節句のルーツをたどる -3 へ観照 京都・下京 風俗博物館 2022年4月からの展示:五節句のルーツをたどる -4 へ観照 京都・下京 風俗博物館 2022年4月からの展示:五節句のルーツをたどる -5 へこちらも御覧いただけるとうれしいです。探訪&観照 風俗博物館(京都) -4 竹取物語・等身大の時代装束展示観照 京都・下京 風俗博物館 2019年2月からの展示 -5 六条院の日常と竹取物語
2022.06.27
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東の対の北西隅の局には、「平安の遊び」の一つとして、女房たちが碁を楽しんでいる場面が具現化されています。この後は、「五節句のルーツをたどる」というテーマから、平安時代の貴族社会での日常生活に視点を移します。その一つが、「遊び」です。 碁は上代に中国から伝来した盤上遊戯です。囲碁という言葉を使いますが、これは碁の漢語的表現です。辞典を引くと、「碁」とは「盤上に縦横それぞれ19本の線を引いて出来る361個の交点の上に、双方の競技者が黒と白の石を交互に置いて行き、最終的に自分の石で囲んだ領域が広い方を勝とする遊戯」(『新明解国語辞典』三省堂)と説明しています。平安時代には、男女を問わず盛んに行われたようです。『源氏物語』にも、各所で碁の場面が描かれています。「空蝉」の巻では、「なぞ、かう暑きにこの格子は下ろされたる」と問へば、「昼より西の御方の渡らせたまひて、碁打たせたまふ」という小君と年配の女房たちのやり取りを聞き、光源氏が碁を打つ様子を垣間見たくなります。光源氏は簾の隙間に入りこみ、空蝉と軒端萩が碁を打つ場面を垣間見ます。碁を打つ二人の様子が手許の本では2ページに及ぶ具体的な描写になっていきます。その後、光源氏は空蝉の寝所に忍び、空蝉には逃げられて軒端萩と契るという顛末になるのはご存知の通りです。(資料1)空蝉と軒端萩が碁を打つ場面を光源氏が垣間見る場面は、『源氏物語画帖』や『絵入源氏物語』などに描かれています。補遺を御覧ください。「竹河」の巻には、蔵人少将薫が、内侍の君・玉蔓邸で姫君たちの囲碁を隙見する場面が描かれています。姫君たちの容姿を描写した後に、「碁打ちたまふとて、さし向かひたまへる髪ざし、御髪のかかりたるさまども、いと見どころあり」(お二方が碁をお打ちになるというのでさし向いになっていらっしゃる。その御髪の、生えぎわや、垂れ下がっている様子などは、まったくおみごとなものである。)と記され、姫君の兄君たちが登場する場面になっていきます。(資料2)『源氏物語絵巻』「竹河」の巻には、次の場面が描かれています。(資料3) 左端に、姫君たちの碁を打つ姿が。それを蔵人少将薫が右端から隙見をしています。 部分拡大してみました。勿論、男だちも囲碁を楽しみます。『源氏物語絵巻』「宿木」の巻では次の場面が描かれています。(資料3) この場面では、右の方に碁を打つ場面が描かれています。「宿木」の巻の冒頭に近いところで出て来ます。帝が女二の宮の部屋にお出かけになり、女宮の行く末をどうしたものかと思い、女二の宮と薫の縁組についてお考えになります。また「碁など打たせたまふ」(帝は女宮と御碁などをお打ちになる)のです。男と女の間でも碁が打たれることが書き込まれています。日が暮れて行きます。帝は、ふと殿上に誰かいるかと尋ねられます。その時、3人が伺候しており、その中に中納言源朝臣(薫)がいたのです。帝は中納言源薫を呼び出します。藤壺女御が死去した喪中でもあり、時雨の日に管弦の遊びも気乗りしない故に、「『これなんよかるべき』とて、碁盤召し出でて、御碁の敵に召し寄す。・・・・さて打たせたまふに、三番に数一つ負けさせたまひぬ。」(「これがいちばんよかろう」とおっしゃて、帝は碁盤をお取り寄せになり、御碁のお相手に中納言をお召しになる。・・・・・三番のうち帝が一番お負け越しあそばした。)(資料2)つまり、帝と薫が碁を打っている場面です。この場合、垣間見をしているのは女二の宮ということになりますね。このとき、帝は薫と女二の宮の縁組を画策しはじめたようです。「『よき賭物(のりもの)はありぬべけれど、軽々しくはえ渡すまじきを、何をかは』などのたまはする御気色」(「よい賭物(かけもの)があるはずだが、そう軽々しくは渡すわけにもいかないのだから、さて何がよかろう」などと仰せになる御面持ち)と思わせぶりな帝の思いがここに挿入されています。(資料2)碁は宮中や貴族たちの日常の遊びに浸透していたようです。 局の一隅には、さりげなく「伏籠」(ふせご)が置かれています。これは女房たちの日常生活の一コマです。伏籠は衣服に香りをうつすための竹または金属でできた籠です。火取の上に籠を伏せ、その上に衣服を掛けます。火取は香を焚くための道具で、火取母(ひとりも)・薫炉(くんろ)・火取籠(ひとりご)から構成されています。種々の香料を調合したものが薫物(たきもの)です。(資料4)日常生活で香りが重視されていた証でしょう。たぶん西欧における香水の役割と同じような役割を担っていたのでしょう。 寝殿の北の孫廂に設けられた局の一つでは、女房が「偏つぎ」遊びに興じています。これは、主として女性や幼い子が漢字の知識を競い合った遊びです。偏(へん)と旁(つくり)が二分されていて、この分かれた札を使って遊ぶという教育的遊戯です。この遊びの実態については諸説があるようです。(資料4) *漢字の偏に旁を付けて、文字を完成させる。 *ある旁に偏をつけて訓みを答えさせる。 *偏や旁の一方を隠して漢字を当てさせる。 *詩文の中のある漢字を偏だけにしておいて解釈させる。 *ある偏のつく漢字を文中より早く拾い出す。 *ある偏の付く漢字を文中より早く拾い出す。 *ある偏の付く字をいくつ知っているか書き継がせて競う。などです。どれも実際に遊ばれていたように思えますね。 碁や偏つぎが、『源氏物語』「葵」の巻には、思わぬ文脈の中で書き込まれています。「つれづれなるままに、ただこなたにて碁打ち、偏つぎなどしつつ日を暮らしたまふに、心ばへのらうらうしく愛嬌づき、はかなき戯れごとの中にもうつくしき筋をし出でたまへば、思し放ちたる年月こそ、たださる方のらうたさのみはありつれ」(手持ち無沙汰に、ただこちらで碁を打ち、偏つぎなどをしては日を暮らしていらっしゃると、姫君は、ご気性が利発であふれるような魅力をたたえ、たわいない遊戯をしていてもみごとな筋をお見せになるので、そうした相手とは思ってもみなかったこれまでの年月は、ただ子供子供したかわいらしさだけを感じていたのだったが)(資料5)碁や偏つぎをする中で、光源氏の意識転換が起こるという文脈に位置づけられています。それが光源氏を紫の上と新枕をかわす形に導いていくという次第。 女童が両手に札を持っています。女房と一緒に偏つぎ遊びをしていたのでしょう。そこへ女房がお菓子を持ってきたようです。柏餅のように見えますが・・・・。 女房たちの日常で不可欠なのが、身嗜みです。この場面は展示の定番になっています。寝殿と東の対を結ぶ渡殿には女房たちの部屋・局(つぼね)が設けられています。女房たちが局で黒髪の手入れをしている場面です。平安時代の女性の美しさを評価する条件の一つとして、頭髪が大きな比重を占めていました。豊かで長く美しい黒髪がもてはやされたそうです。王朝女性の美の基準とされました。『源氏物語』「帚木」の巻には、頭中将が女の三階級論を語るところから雨夜の品定めが始まります。その論議の中に女の頭髪についても論じられています。(資料1)「また、まめまめしき筋を立てて、耳はさみがちに、美相なき家刀自の、ひとへにうちとけたる後見(うしろみ)ばかりをして」(そうかといって、家事一点張りで、額髪を耳挟みがちにして、美しげのかけらもない世話女房が、ただひたすら見ばえ抜きの世話ばかりして)額髪を耳挟みがちにする姿を美しくない、興ざめする例と、左馬頭が述べています。また、「初音」の巻で、光源氏が玉蔓を訪れた後、花散里のところに立ち寄り、二人の間に置かれた御几帳を光源氏が少し押しのけても花散里は隠れようともせず、そのままにいらっしゃるので、光源氏は花散里のお召し物と髪を眺めて、「御髪などもいたく盛りすぎにけり、やさしき方にあらねど、葡萄鬘してぞつくろひたあまふべき、我ならざらん人は見ざめしぬべき御ありさまを、かくて見るこそうれしく本意あれ」(御髪などもひどく盛りを過ぎているのだった。『みっともないというほどではないとしても、かもじを添えて手入れなさったらよかろうに。これが他の男だったら、連れ添う気持もさめてしまいそうな御様子であるけれど、こうして世話をしていることがうれしいのだし、それが自分としても満足なのだ』)と頭髪について感じているところが記されています。 (資料2) 「東屋」の巻にも黒髪を梳く場面が描かれています。 中の君が背を向けて黒髪を梳らせていて、浮舟を慰めるために、右近に詞書を読ませています。浮舟は思わず見入っていくという場面です。浮舟は偶然匂宮に見つけられて言い寄られ困惑するという事態の後の展開場面です。「絵など取り出させて、右近に詞読ませて見たまふに、向ひてもの恥ぢもえしあへたまはず、心に入れて見たまへる灯影、さらにここと見ゆるところなく、こまかにをかしげなり。」(姉君が絵などを取り出させて、右近に詞を読ませ、それをごらんになると、この妹君も向い合って、もう恥ずかしがってはいらっしゃれず、熱心に見入っておいでになる。) (資料5)今回の資料には、鎌倉時代の絵巻物『男衾三郎絵詞』が紹介されています。吉見二朗と男衾三郎の二人の物語です。三郎は兄が盗賊に殺されると、兄の領地を奪い、妻の言うままに兄の娘を下女として使います。赴任してきたばかりの国司が、その下女に目を止めます。国司がその下女を妻にと望むと、三郎の妻は自分の娘を着飾らせて引き合わすのです。それに対し、国司は年が明けても返事をしないというあらすじのようです。三郎の妻とその娘は、縮れ毛だったとして描かれています。当時の価値観では縮れ毛は醜女とみなされたというお話です。(資料6) これはウィキペディアからの引用です。縮れ毛の容姿がユーモラスに描かれています。それでは、七夕の節句、乞巧奠とも関連する、平安女性の務めだった装束の誂えである裁縫という側面です。これは以前にも採りあげられているサブ・テーマでもあります。その折ご紹介をしていますので、補完できる形で触れていきたいと思います。「帚木」の巻の雨夜の品定めで、左馬頭はすべてをまかせられる本妻ならということで、「はかなきあだ事をも、まことの大事をも言ひあはせたるにかひなからず。竜田姫と言はむにもつきならず、織女(たなばた)の手にも劣るまじく、その方も具して、うるさくなむはべりし」(たわいのない趣味上のことでも、あらたまっての要件でも、相談しがいがあり、染物の腕前は竜田姫といっても不似合いではなく、仕立物のほうもたなばた姫にも劣らぬくらい、そういう面でも堪能の、たいした女でございました。)と語っています。染物や仕立て、裁縫に秀でていることが平安女性に求められていたということでしょう。(資料1) 染槽(そめぶね)を使い糸を染める作業。(説明パネル、資料7。以下同じ) 左の女房は布を裁つ作業をしています。刀子を手に、栽板(たちいた)の上に体重をかけて布を裁つ様子です。右の女房は、砧を打つ打ち物の作業をしています。織り上げた絹の織物は、織機から下ろしたままだと堅くてなじまないので、円棒に巻き、軸を回転させながら木槌で何回も打って柔らかくし、光沢を出します。 この女房は「ひねり」という工程を担当。当時は、単(ひとえ)仕立ての裁ち生地の端を、もち米を練って作った糊(続飯)をつけ、絎けずに「ひねる」という仕立てをしました。『源氏物語』の中では、浮舟がこの「ひねり」を得意としたと記されています。 裁縫 女房2人が組みになって反物の整理(地直し)作業をしています。 こちらの2人は、防寒のために装束に綿入れするための作業をしています。細櫃に綿をひきかけて綿入れの準備をしているところです。 色とりどりに染められた反物が櫃に収められています。 『源氏物語』「早蕨」の巻での場面です。宇治の中の君が都の匂の宮の二條院に移ることになります。本文に具体的な描写はなさそうですが、地直しや新しい装束の縫い物など、移る準備の様子が描かれています。(資料3)六条院春の御殿を様々な場所、様々な季節に見立てた展示を一巡したことになります。つづく参照資料1)『源氏物語 1』 日本古典文学全集 小学館 p118-122, p63-64, p762)『源氏物語 3』 日本古典文学全集 小学館 p75-76, p376-3783) 源氏物語繪巻 :ウィキペディア4)『源氏物語図典』 秋山虔・小町谷照彦 編 須貝稔 作図 小学館5)『源氏物語 5』 日本古典文学全集 小学館 p69-726) 男衾三郎絵詞 :ウィキペディア7)「五節句のルーツをたどる・平安時代の年中行事」風俗博物館 当日入手の小冊子補遺風俗博物館 ホームページ源氏物語 巻三・空蝉 :「古典籍総合データベース」(早稲田大学図書館)男衾三郎絵巻 :「e國寶」砧 :ウィキペディア綿入れとは :「きもの用語大全」打衣とは :「きもの用語大全」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 京都・下京 風俗博物館 2022年4月からの展示:五節句のルーツをたどる -1 へ観照 京都・下京 風俗博物館 2022年4月からの展示:五節句のルーツをたどる -2 へ観照 京都・下京 風俗博物館 2022年4月からの展示:五節句のルーツをたどる -3 へ観照 京都・下京 風俗博物館 2022年4月からの展示:五節句のルーツをたどる -4 へ観照 京都・下京 風俗博物館 2022年4月からの展示:五節句のルーツをたどる -6 へこちらも御覧いただけるとうれしいです。観照 風俗博物館 2018年前期展示 -3 七夕・文月の年中行事、局・女房の日常観照 京都・下京 風俗博物館 2019年2月からの展示 -5 六条院の日常と竹取物語観照 京都・下京 風俗博物館 2020年の展示 -3 歳暮の衣配り・平安王朝の美意識ほか観照 京都・下京 風俗博物館 2021年の展示 -4 遊び~絵合・碁・偏つぎ~、黒髪
2022.06.25
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9月9日の「重陽の節句」は現在、民間行事として行われることはほとんどないようですが、その一端は菊まつりという形で受け継がれています。中国の陰陽思想では、奇数は陽、偶数は陰とされます。9は最大の陽でめでたいのですが、9月9日はその9が重なり、重なると逆に邪気を生じるとして、それを祓う行事を行うようになったそうです。この重なりを重陽と呼びました。漢代にはすでに節会として確立していたと言います。宴会を行い、菊酒を飲んで茱萸(ぐみ)袋を身につけたそうです。(資料1)旧暦9月9日、宮中では「重陽節会(ちょうようのせちえ)」「九日節会」が行われてきました。日本では、「長久の意もあるとして珍重された」(資料2)という側面もあるようです。旧暦9月は菊の花が盛りの時季でもあり、菊と重陽が深く結びついていきます。この日の宴(うたげ)を「重陽の宴(えん)」といいます。菊の花を観賞したり、不老長寿の効果があると言われる菊酒を飲んだりします。「菊花の宴」とも言ったそうです。宴の間に、庭の舞台では国栖(くず)の奏、内教坊の舞技の奏等が披露されたと言います。また夜には、宮中に文人らが参集し詩歌を作りました。(資料1,2)「菊は中国の伝説によると、菊の露が落ちて流れる水が霊薬となり、その水を飲んだところ不老長寿を得たという。このことから、重陽に菊酒を飲み長寿を願うという習慣が始まったとされる」(資料1)そうです。観世流の能には「菊慈童(きくじどう)」という演目があります。「菊慈童」について「周の穆王(ぼくおう)に仕えた侍童。罪あって南陽郡の酈県(れきけん)に流され、その地で菊の露を飲み不老不死の仙童となったという。慈童」(『大辞林』三省堂)と説明されています。この伝説を脚色したのが能の「菊慈童」です。菊は不老不死と繋がっていました。 この場面では、寝殿の東の対が紀伊国(現在の和歌山県)にある吹上の宮で行われた菊花の宴に見立てられて、具現化されています。『源氏物語』より以前、作り物語の先駆けとなる一つ『宇津保物語』「吹上・下」の場面だそうです。嵯峨院と紀伊国牟婁郡の土豪である神南備種松(かんなびたねまつ)の娘であった女蔵人(にょくろうど)との間に、男児が生まれました。その子が源氏の君(源涼 みなもとのすずし)ですが、母が早逝し、祖父の神南備種松により養育されます。吹上の宮は、源氏の君のために建てられた絢爛豪華な邸宅でした。女蔵人が早逝したことで、嵯峨院は源氏の君の存在を知らなかったのです。吹上の宮の素晴らしさを聞いた嵯峨院は、その年の重陽をこの吹上の宮で過ごすことに決めました。それが父子の邂逅の場になるという次第。 背を向けているのは源涼です。 嵯峨院9月9日の早朝に、菊の花を献上した源氏の君(源涼)が嵯峨院の長寿を寿ぐ歌を歌っている場面が具現化されています。(資料1)その後、ここで「酒宴が始まり、文人たちが漢詩を作り、文書博士が講師の役を勤め詩を読み上げるという、重陽節会と同様の儀式」(資料1)が行われます。 菊酒が運ばれてきます。菊酒は、菊を浸したり花びらを浮かべたりしたお酒です。長寿を祝う習慣として飲まれました。菊は別名を「翁草」「齢草(よわいくさ)」などといい、古くから不老長寿の薬効があるとされてきました。(資料1) 高欄の傍に、引き出物が準備されています。 廂の間には、宴の準備や様々な下賜品となる品々が用意されています。 女官(女房)が控えています。藤原道長の『御堂関白記』の9月9日の条を抽出して行きますと、いくつかのことが分かってきて、興味深いものです。(資料3)以下、日付を省略して関連箇所を抽出してみます。寛弘元年(1004) 一条天皇は「出御は行なわない。重陽節会は、例年どおり行いなさい」 とおっしゃった。・・・・同四剋に宜陽殿の座に着した。 清涼殿において作文会があった。・・・・式部大輔が、詩題を献上した。「菊は、九日の 花とする」であった。寛弘2年(1005) 内裏で重陽節会の平座の宴を行なった。夜に入って、作文を行なった 題は、「菊は花の聖賢である」であった。寛弘4年(1007) 重陽節会は、常と同じであった。一条天皇の御製を初めとして、皆、 律詩を作った。師(藤原伊周)一人が、絶句を作った。寛弘7年(1010) 霖雨によって、重陽節会を停止した。・・・・然るべき者十余人が会合して 作文を行なった。題は「菊はこれ、花中の主である」であった。<心を韻とした.> 寅剋の頃、披講が終わった。(大江)為清朝臣が、序を作った。長和元年(1012) 「宜陽殿に重陽節会の平座が有った」ということだ。見参簿を奏さ なかった。これは諒闇によるものである。長和4年(1015) 「重陽節会の平座について、源中納言(源俊賢)が奏上して行なった ということだ。長和5年(1016) 源中納言(源俊賢)が参入して、重陽節会の平座を行なうことを申さ せてきた。いつものように行なうよう命じた。「蔵人頭たちに伝えるように」と云っ た。見産簿を奏上してきたことは、いつものとおりであった。見参簿を返給した。寬仁元年(1017)重陽節会の平座を、源大納言(源俊賢)を上卿として行なった。寬仁3年(1019) 重陽節会の平座に際して、後一条天皇の出御は無かった。このシリーズで『御堂関白記』を調べていて、気づいたことがいくつかあります。*宮中の節会においては詩歌を詠むのが行事になっているようです。それを道長は作文会と記しているようであること。*重陽節会でも道長が常に列席している訳ではなさそうであること。*「重陽の平座の宴」という表現が繰り返し出てきます。参照資料ではその日の条に重陽平座という見出しがつけてあります。「重陽平座」って何? 手許の『有職故実』を参照し疑問が解けました。 「当日、天皇、古くは神泉苑乾臨閣(けんりんかく)に出られたが、後には、紫宸殿に出御になり、群臣に宴を賜った。・・・・・この宴が停められた時は、上卿が宜陽殿の平敷の座に着いて、酒の中に菊花を浮かべた菊酒を、群臣に賜はった。これを平座といった。」(資料2)と説明されています。上記、1012年の条に伝聞記録としている箇所と一致して、なるほど・・・です。宜陽殿は紫宸殿のすぐ東側にある建物です。 「平安時代初期に節会として恒例化し、嵯峨天皇(在位:809~823)の時代に神泉苑で行われていた重陽節会は、次の淳和天皇(在位:823~833)の時代より紫宸殿で行われるようになった」(資料1)という説明もあります。 菊の着せ綿「平安時代、宇多天皇(在位:887~897)の時代から菊の着せ綿という習慣が始まった。これは前日の8日の夕方に綿を菊の花にかぶせ、その菊の露に濡れた綿で9日の朝に肌を撫でると、老を棄てるというものである。この風習は平安貴族の女房の間で多く行われてきた。」(資料1)つまり、菊の花そのものではなく、宿った露や菊を浸した酒が重要視されたことになります。菊の花に綿をかぶせることは、近世まで宮中で行われてきたそうです。(資料1) 几帳に掛けられているのは「茱萸(ぐみ)袋」です。端午の節句には、几帳に「薬玉」が掛けられました。重陽の節句の当日、「薬玉」は「茱萸袋」に掛け替えられるそうです。「この日、薬司から茱萸の実を献じ、これを盛った嚢を御帳の左右に懸け、5月5日の節会の時に懸けた薬玉と取りかえる。この日に、こんなに茱萸の実を珍重するのは、中国の故事に拠ったもの」(資料2)であるという説明もあります。茱萸袋は、呉茱萸(ごしゅゆ)というミカン科の植物の果実を赤い袋に入れたものです。呉茱萸の強い香りで邪気を祓うという意味があるとか。呉茱萸は山椒に似た実をつけ、現在も漢方薬として用いられているそうです。(資料1) 「菊の着せ綿」についてですが、江戸時代の頃になると綿をかぶせることに明確な規定が出来ていたそうです。『後水尾院当時年中行事』などに、「白い菊には黄色の綿を、黄色の菊には赤色の綿を、赤い菊には白い綿を覆う」という記述がみられるようになったとか。(資料1)なぜ、煩雑にするのでしょう・・・・・。菊の花の色を識別する必要があるのでしょうか・・・・。このフロアには、「東の対」の建物が部分的に縮尺再現されています。上掲「重陽節会」を具現化した場面は、孫廂と廂の一部が見立てに使われました。 こちらは縮尺再現された東の対の北側の部分です。今回、ここでは、「四季のかさね色目に見る平安王朝の美意識」というテーマで、平安王朝の女性の装束のミニチュアが展示されています。かさね色目の装束展示は、この風俗博物館の定番展示の一つです。今回は、以前に拝見し既にご紹介した装束以外にも、3点新規のかさね色目の装束が展示されていました。私にとって新規拝見の装束には、入手資料等を参照し説明を付記したいと思います。(他は以前にブログ記事でご紹介していますので重複記載を避けたいと思います。過去ブログ記事を御覧いただけるとうれしいです。)東の対の襖障子が開けられ西廂の側に展示されているかさね色目の装束を、四季の移ろいに合わせた展示に沿って、眺めて行きましょう。 打出かさね色目に関係しますが、最初に展示されているのがこれです。 女房が装束を着ている状態とまず対比して眺めてください。そこで「打出(うちいで)」についてです。(2019年2月撮影)このように、母屋や対屋の御簾の下から、女房装束の袖口などを少しはみ出させて、かさねの色目を見せて、華やかさを演出するのを「打出」というそうです。上掲の写真は打出に使う、いわば小道具です。几帳の柱を支えにして、重ねた装束を人が着ているかのように形づくっています。「帳(とばり)ごと几帳を抱え込むようにして絞り、左右の袖口から出した裳の紐(小腰)で結んでとめます。」(パネル説明を一部転記)その袖口などをはみ出させ、実際に着飾った女房たちと組み合わせれば、大勢の女房が居並ぶ華やかさが演出できますね。几帳がいくつもあるのは普通ですから、不自然にみえないセッティングはいくらでも可能でしょう。おもしろい工夫です。 着用時期 四季通用・祝い 松かさね 着用時期 旧暦11月~2月 梅かさね 着用時期 旧暦11月~2月 桜かさね表地が白、裏地が赤花のかさね色目。裏表の「布」のかさねで極めて多く用いられ、好まれたかさね色目。夕暮れに仄白く浮かんで見える桜の美しさを象徴的に表しています。裏地については、濃(こき)色・葡萄(えび)色・二藍(ふたあい)など諸説があるそうです。(パネル説明より) 着用時期 旧暦4月~5月 若菖蒲かさね端午の節句に使用するサトイモ科の菖蒲の「根」と「葉」の色の対比を表したかさね色目。緑に色づいた葉先より根に近づくに従い白くなり、根本は鮮やかな紅梅色となり、白い根に繋がるという色のかさね方です。菖蒲(しょうぶ)の音が「尚武」「勝負」に通じ、菖蒲の葉の形が剣を連想させることから、後世には男の子の成長を祝う行事になって行きます。(パネル説明より) 着用時期 旧暦7月~8月頃 女郎花(おみなえし)かさね秋の七草の一つになっている女郎花の花のような緑味を帯びた黄色を表しています。表が黄色で裏が青の袿(うちき)を5領重ねるというものです。(パネル説明より) 着用時期 旧暦10月~11月頃 黄菊かさね菊は二度愛でられます。最初は重陽の節句で、花盛りに厄除けの花として。二度目は、「移ろひ盛り」を愛でるのだそうです。花の盛りが過ぎて色が赤紫に変色していく、黄菊の移ろう様子を愛でるというもの。四季の花の霊験を願ったかさね色目だそうです。(パネル説明より) 着用時期 旧暦11月中旬~春頃 雪の下かさねさて、こんなところで、次は風俗博物館の定番といえる範疇の展示を眺めましょう。つづく参照資料1)「五節句のルーツをたどる・平安時代の年中行事」風俗博物館 当日入手の小冊子2)『有職故実 上』 石村貞吉 嵐羲人校 訂 講談社学術文庫 p329-3323)『藤原道長「御堂関白記」』 上・中・下 全現代語訳 倉本一宏 講談社学術文庫補遺重陽 :「ジャパンナレッジ」重陽の節会【虚空蔵法輪寺】 :「京都観光Navi」菊慈童/枕慈童 :「能サポ」(檜書店)演目事典 枕慈童 :「the 能.com」呉茱萸 (ごしゅゆ) :「季節の花300」茱萸 (ぐみ) :「季節の花300」呉茱萸湯(ゴシュユトウ) :「ツムラ」第60回 漢方処方解説(26)呉茱萸湯 :「名城大学」色彩と文様 代表的な重色目 :「日本服飾史」(風俗博物館)有職の「かさね色目」 :「綺陽装束研究所」【平安の色彩 かさね色目】 日本の伝統色 草木染 Threads dyed with plants - Japanese traditional color - YouTube【平安の色彩 かさね色目】 花橘かさね Layering of citrus colors YouTubeかさねの色目 小さなお話 :「虎屋」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 京都・下京 風俗博物館 2022年4月からの展示:五節句のルーツをたどる -1 へ観照 京都・下京 風俗博物館 2022年4月からの展示:五節句のルーツをたどる -2 へ観照 京都・下京 風俗博物館 2022年4月からの展示:五節句のルーツをたどる -3 へ観照 京都・下京 風俗博物館 2022年4月からの展示:五節句のルーツをたどる -5 へ観照 京都・下京 風俗博物館 2022年4月からの展示:五節句のルーツをたどる -6 へこちらも御覧いただけるとうれしいです。観照 京都・下京 風俗博物館 2019年2月からの展示 -6 四季のかさね色目・「晴れの日の正装」観照 京都・下京 風俗博物館 2021年の展示 -5 香爐峰の雪、平安王朝の美意識
2022.06.23
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5月5日は「こどもの日」。そのルーツは「端午の節句」です。この端午の節句には、年中行事として、騎射(うまゆみ)が行われました。「左右に分かれて馬に乗り順次馬を走らせて弓で的を射る競技」(資料1)です。冒頭のこの写真は、説明パネルに載っている『年中行事絵巻』巻八騎射(田中家所蔵)を切り出したものです。 国立国会図書館のデジタルアーカイブスを調べますと、この騎射の場面を見つけました。(資料2)旧暦5月5日には宮中で「端午節会(たんごのせちえ)」が行われていました。葉が鋭い剣の形で香りが強い菖蒲が邪気を払うとされ、様々に用いられたそうです。「宮中では、節会において菖蒲で作ったかぶり物を頭につけたり、菖蒲や蓬(よもぎ)を材料に薬玉を作って柱に吊したりした。屋根に菖蒲を並べて葺くという風習は宮中から庶民に至るまで広く行われていた」(資料1)とのこと。『枕草子』第36段の冒頭に、清少納言は「節は、五月にしく月はなし。菖蒲、蓬などおかをりあひたる、いみじうをかし。九重の御殿の上をはじめて、言ひ知らぬ民のすみかまで、いかで、わがもとにしげく葺かむと、葺きわたしたる、いほめづらし。いつかは、異をりに、さはしたりし。」と述べています。(節供は、五月五日のそれに及ぶものはない。菖蒲や蓬などがともども高い香りを放っている風情がすばらしい。禁中の大きな御殿の軒をはじめとして、ごく下々の賤しい者の小屋にいたるまで、なんとかして自分の所にほかよりたくさん葺こうと、まるで競争のように、世間どこでも一面に葺きわたしている光景は、やはりなんと言っても、目馴れぬおもしろさだ。いつ、ほかの節供に、そんなことをしたろう。)(資料3)「節会」とは、「季節の変わり目の節目や重要な公事(くじ)のある日に諸臣を朝廷に集めて、天皇が出御して賜る宴会のこと」です。(資料1)「端午の『端』は初めの意味で、中国では月の初めの午の日とされ、後に『午』と『五』との音通などにより旧暦5月5日に定着した」と言います。中国では5月を悪月と考えていたそうです。「5日には百草を摘む野あそびや蓬で作った人形を門戸にかけて邪気を払い、菖蒲酒を飲み、競渡と称して競漕を行うなどして、様々な邪気払い行事が行われ、これが変化して日本に取り入れられた」(資料1)のです。 源氏36歳の夏源氏の邸、六條院夏の御殿(花散里が住む)には馬場殿と馬場が設けてあります。源氏は「端午の節句」にこの馬場で騎射の行事を催します。その準備に馬場殿(ばんばのおとど)に出向いてきます。源氏は、それにかこつけて西の対に住む玉蔓のところに立ち寄ります。 右近(玉蔓の乳母) 西の対を訪れた殿(源氏)に応対する乳母の右近源氏は直衣出衣(のうしいだしぎぬ)姿です。指貫(=袴の一種)は二藍又木文、直衣は二藍唐草文で、立烏帽子を被っています。『源氏物語』蛍の巻には、源氏の姿を見た玉蔓の感想を次のように記しています。「艶も色もこぼるばかりなる御衣に直衣はかなく重なれるあはひを、いづこに加はれるきよらにかあらむ、この世の人の染め出だしたると見えず、常の色もかへぬあやめも、今日はめづらかに、をかしくおぼほゆる薫りなども、思ふことなくは、をかしかりぬべき御ありさまな」(艶も色合いもこぼれるばかりのおみごとなお召物に直衣を無造作に重ねられた取り合わせも、いったいどこにどう付け加えられた美しさなのだろうか。とてもこの世の人間わざの染めあげたものとは思われないし、ふだんの直衣の色変りのない文目も、菖蒲の節句の今日は格別に目新しく感じられ、風情深い薫衣香の薫りなども、もしこうした心配事がないのだったら、どんなにかすばらしく感じられたにちがいない御有様であることか。)(資料4) 女童が贈られてきた薬玉(くすだま)を玉蔓の許に届けようとしています・ 女童は、正装の汗衫(かざみ)姿。濃(こき)小袖、濃長袴、表袴(うえのはかま)、単(ひとえ、濃色)、袿(うちぎ)、表着(うわぎ)、汗衫という衣裳です。 蛍兵部卿宮(=光源氏の異母弟)からは立派な菖蒲の根に結ばれた懸想文と薬玉が届きます。懸想文は「白き薄様に」(白い薄様の料紙に)奥ゆかしく記されていて、「例にも引き出でつべき根に結びつけたまへれば」(後々の語りぐさにもなりそうな、立派な菖蒲の根に結びつけてお送りになったので)と記しています。これはその薬玉。 玉蔓は袿(うちぎ)姿。濃(こき)小袖、濃長袴、五衣(いつつぎぬ)は白撫子(なでしこ)重ね、袿は赤地唐草文という衣裳です。 几帳に薬玉が掛けてあります。清少納言は上記第36段の続きに記します。(資料3)「空のけしき、曇りわたりたるに、中宮などには、縫殿より、御薬玉とて色々の糸を組み上げてまゐらせたれば、御帳立てたる母屋の柱に左右に付けたり。・・・・また薬玉は菊のをりまであるべきにやあらむ。されどそれは、皆、糸を引き取りて、もの結ひなどして、しばしもなし。」(空の一面に曇った、そんな天候がうってつけなのだが、中宮の御所などでは、縫殿から、中宮の御用の薬玉ということで、いろいろの糸を組んで垂らして献上するので、御帳台を立てた母屋の柱に、左右に掛けておく。・・・・・一方、この薬玉は、今度は九月九日の菊の時まで保存しておくべきものなのだろうか。けれどもこの薬玉の方は、その垂れた糸をみんな引っ張って取って何か結ぶのに使ったりするので、すぐなくなってしまう。) 武官束帯姿の若者が、恋文(結び文)を菖蒲に結んで持参しています。正式ではない形式で思いを伝える手段です。「恋文においては一般的に薄様と呼ばれる薄い紙を用いるのが良いとされ、・・・・・美しい色に染められた薄様に恋文を書き記し、季節の花に結びます。文を受けとった相手は文のないようだけではなく、その文そのものからも送り主の感性の美しさを感じ取るのです。」(説明パネルに文を部分転記) 少し巻き上げられた御簾の内側に座る女房の右側の角高杯には、粽(ちまき)が置かれています。これもまた端午の節句を感じさせる品です。粽は「糯米(もちごめ)を真菰(まこも)の葉で包み、煮たもの」(説明パネルより転記)です。端午の節句に食するものは、中国の故事から伝わったもので、宮廷では五色粽(かざり粽)を用いたと言います。『伊勢物語』第52段に、粽が登場します。(資料5)「むかし、男ありけり。人のもとよりかざり粽おこせたりける返事(かえりごと)に」(昔、ある男がいた。人のところからきれいに五色の糸でくくったりして飾った粽を送って来た返事に)として、和歌がつづきます。手許の本には、語釈として「かざりちまき」を説明しています。「洗ったもち米を、茅(ちがや)や菰(こも)、笹、あやめ等の葉でつつんでしばって蒸したもの。これを五色の糸などできれいにくくり飾って端午の節供に飾ったり贈り物にした」と。粽が現在の菓子のようになったのは江戸時代に入ってからだと言います。(資料1)寝殿の西廂側から北廂側に回り込みます ここでは、7月7日「七夕」のルーツになる「七夕の節句」が具現化されています。旧暦7月7日には、日本固有の公式行事として「織女祭(たなばたつめのまつり)」と「相撲節会」が行われていたそうです。「『織女祭』の『織女』は『棚機津女(たなばたつめ)』であり、神への衣服を織り、供えることで穢れを祓う神事が行われていたようである。この日は、牽牛星と織女星の二星会合について詩を作る宴が行われ、『万葉集』にはいくつも歌が残されている。この『織女祭』と中国から渡来した裁縫の上達を祈る『乞巧奠(きっこうでん)』という私的行事が結び付き、その主旨が詩を作ることから乞巧奠の行事へと変じていった」(資料1)これがルーツとなっているそうです。『万葉集』の時代、7月7日の夜は「ナヌカノヨ」と呼ばれ、二星会合の和歌を詠む日とされたのですが、二星会合と乞巧奠が集合し、七夕(ひちせき:7月7日の夕べ)=[織女星:裁縫の神]=棚機津女(たなばたつめ)=たなばたというつながりで、平安時代に入ってから七夕を「タナバタ」と呼ぶようになったようです。(資料1)『源氏物語』幻の巻には、七夕の深夜に、52歳になった源氏は独り逢瀬の後の別れの涙を歌うという場面が描かれています。その書き出しは次の通りです。「7月7日も、例に変わりたること多く、御遊びなどもしたまはで、つれづれに眺め暮らしたまひて、星逢ひ見る人もなし。」(7月7日も、例年と変わったことが多く、管弦のお遊びなどもなさらずに所在なく思い沈んで一日をお過ごしになって、七夕の星の逢瀬を眺める女人もない。) 廂の間には、二星会合と乞巧奠が集合した形の七夕行事の祭壇が具現化されています。北に向かって、右には牽牛、左には織女のための一式の飾り付けです。牽牛や織女に「貸す」ための楽器として琴が置かれています。箏(そう)または和琴(わごん)、琵琶などを並べたそうです。琴の傍には、願いを書き記すための「梶の葉」、供物として一晩中香を焚くための「火取」、清らかさの象徴である「蓮」が置かれています。手前は牽牛への供え物一式です。織女用のも左に同じ一式が供えられます。上列には左から茄子(なす)・桃・大豆・干鯛(ほしだい)が並んでいます。中央に酒盃が置かれ、下列には左から熟瓜(ほぞち)・梨・大角豆(ささげ)・薄鮑(うすあわび)が並べてあります。一品一品が神事や人々の生活との関わりにおいて意味を持つています。具体的に解説したパネルが掲示されています。たとえば、桃は「古代より邪気を払い不老長寿を与える植物として親しまれてきました」(説明パネルより)。お寺の山門の屋根の隅に、桃を象った瓦が広く留蓋として使われています。熟瓜は、「瓜の上に張られた蜘蛛の糸が密になればなるほど、裁縫が上手くなると信じられました。熟瓜とはマクワウリのことで、メロンの一種です。」(同上) 母屋には、生前、それも幼き頃の紫の上が若き頃の源氏とともに、具現化されています。幻の巻に出てくる源氏は、かつての思い出を想起しつつ、七夕の夜に涙したのでしょう。 源氏は何を眺めているのでしょう・・・・。 源氏の右手の前の机上には「梶の葉」が置かれています。説明パネルには、梶の葉について、説明しています。「梶の葉に和歌を書きます。 梶は古来より神に捧げる神聖な木とされていました。梶の葉は天の川を渡る船の舵になぞらえて乞巧奠には欠かせない植物とされました。七夕では梶の葉に和歌をしたためて祭壇に供え、詩歌や手芸の上達を祈ったといいます。その名残は現在、短冊に願い事を書くという形で受け継がれています。」(説明文転記) 幼き頃、紫の上は源氏をどのように受けとめていたのでしょう・・・・・己の未来の姿なぞ、思いもよらなかったことでしょうね。「相撲節会」は今回具現化されてはいません。以前に具現化された場面を掲載した解説パネルに詳しい説明がなされて、七夕関連の解説パネルと並べて掲示されています。ここでは省略いたします。補遺に参考情報をいくつか抽出しています。ご興味があればアクセスしてみてください。藤原道長の『御堂関白記』の全現代語訳を参照してみますと、道長は7月7日の七夕の節句と相撲節会には触れていません。これらの行事は道長自身が公務としては関わらなかった行事だということなのでしょうか。ただ、1回だけですが、長和4年7月7日の条に、「小南第の庭中で行なった乞巧奠祭は、常と同じであった。子剋の頃、雨が降った。そこで供物を中門の内に入れた。」(資料6)と記録しています。この小南第について調べてみますと、「土御門殿が、入内した道長長女の御所・里第となるに伴い、道長は小南第を儀式会場として、あるいは自身の御所そして儀式会場として用いたのである」(資料7)ということがわかりました。少なくともこの記録から乞巧奠祭自体は例年行われていたことが推測できます。一方で、「作文会(さくもんかい)」があったときのことが記録に残されています。道長にとっては、これが7月7日の七夕の節句における公務としての行事ということでしょうか。寛弘2年7月7日の条では、「物忌ではあったが、一条天皇の召しによって内裏に参った。七夕の作文会を行なった。題は『佳会は風を使いとする』であった。<知を韻とした。>」(資料6)と記録しています。曲水の宴では題を決めると、韻も決めるということに触れました。この記録から多少そのやり方が分かってきます。寛弘3年7月7日の条では、自身の体の不調を記した続きに、「『作文会を停止した』ということだ。」と伝聞記録を残しています。同4年、5年の両年は7月7日自体の記録が残されていません。寛弘6年7月7日の条には、「作文を行なった。題は、『織女が容色を理(ととの)える』であった。(藤原)為時が序を作った。」と記録されています。が、これ以降、日記の残る範囲では作文会には触れていません。(資料6)いずれにしても、7月7日の宮中での活動の一端がわかります。余談ですが、現在と「乞巧奠」をリンクさせるのは、京都に所在する和歌の家・冷泉家です。冷泉家では今もこの伝統的な行事が毎年行われています。マスコミでも報道されることがあります。補遺の情報を御覧ください。「乞巧奠」が裁縫の上達を願うという側面を持つ行事であることに因んで、この北廂の東半分の場所には、「裁縫の様々な工程」が具現化されています。ここでは、後ほどご紹介することとして、五節句の最後になる「重陽の節句」を先に眺めましょう。つづく参照資料1)「五節句のルーツをたどる・平安時代の年中行事」風俗博物館 当日入手の小冊子2) 年中行事絵巻考. 巻7 田中文庫 :「国立国会図書館デジタルコレクション」3)『新版 枕草子 上巻 付現代語訳』 石田穣二訳注 角川文庫 4)『源氏物語 3』 日本古典文学全集 小学館 p204-2055)『伊勢物語(上)全訳注』 阿部俊子著 講談社学術文庫 p195-196 6)『藤原道長 「御堂関白記」』 上・中・下 全現代語訳 倉本一宏 講談社学術文庫7)「藤原道長の住宅と儀式会場」 飯淵康一、永井康雄共著 日本建築学会計画系論文集 第599号 2006年1月補遺第21回 『年中行事絵巻』巻八「騎射」を読み解く ;「WORD-WISE WEB」年中行事絵巻(左近騎射) :「京都大学貴重資料デジタルアーカイブ」扇面古写経絵(模本) :「東京国立博物館 画像検索」 相撲の節 :「コトバンク」相撲節会図 :「宮内庁 書陵部所属資料目録・画像公開システム」七夕と相撲 :「日本相撲協会」1年に1度恋を詠む 和歌の家・冷泉家 乞巧奠 :「THE KYOTO」冷泉家 乞巧奠(きっこうてん) :「本寿院」800年にわたる和歌の家 冷泉家 YouTube ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 京都・下京 風俗博物館 2022年4月からの展示:五節句のルーツをたどる -1 へ観照 京都・下京 風俗博物館 2022年4月からの展示:五節句のルーツをたどる -2 へ観照 京都・下京 風俗博物館 2022年4月からの展示:五節句のルーツをたどる -4 へ観照 京都・下京 風俗博物館 2022年4月からの展示:五節句のルーツをたどる -5 へ観照 京都・下京 風俗博物館 2022年4月からの展示:五節句のルーツをたどる -6 へ
2022.06.21
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3月3日は「ひなまつり」です。そのルーツが旧暦3月3日の「上巳(じょうし)の節句」。「元々は中国から渡来したもので、3月上の巳(み)の日という干支の行事だったが、魏の時代以降に『巳』と字音の通じる3日に行われるようになったため、3月3日付の行事となった」(資料1)と言います。 この場面は、邸の主人を関白藤原師実に設定してあります。藤原師実は賴道の六男で末っ子。養女賢子を白河天皇に入内させることで後宮政策を成功させたと言います。1075(承保2)年10月に関白になっています。(資料2)邸の主人の右側、寝殿の写真では手前の南廂に、この行事の後で主人から渡される引き出物が積み上げてあります。ここには2つの場面が見られます。 舞楽「春鶯囀(しゅんのうでん)」が奉じられています。「囀」は「さえずり」と読める漢字です。春に鶯が囀るという季節感を舞楽に仕立て春を言祝ぐ演目なのでしょう。「鶯のさえずりを模す精緻に整えられた名曲」と評されています。(資料3) 楽人 「春鶯囀」については、『源氏物語』花宴の巻に次の場面が描かれています。(資料4)「やうやう入日になるほど、春の鶯囀るといふ舞いとおもしろく見ゆるに、源氏の御紅葉の賀のをり思し出でられて、東宮、かざし賜せて、切に責めのたまはするにのがれがたくて、立ちて、のどかに、袖かへすところを一をれ気色ばかり舞ひたまへるに、似るべきものなく見ゆ。」(しだいに日の傾く時分に、春鶯囀という舞が、まことにおもしろく見えるので、東宮は源氏の紅葉の賀の折の舞をお思い出しになって、挿頭の花を御下賜になり、ぜひぜひと舞をご所望あそばすものだから、君も辞退しかねて、立ち上がって。静かに袖をひるがえすところを一くさり申しわけほどにお舞になるのが、それがたとえようもなくみごとな見物である。)また、『枕草子』の第206段に、清少納言は「弾くものは、琵琶。調べは、風香調。黄鐘調。蘇合の急。鶯の囀りといふ調べ。」と記し、春鶯囀を採りあげています。(資料5)上巳の節句では、水辺で穢れや災いを払う行事として「人形(ひとがた)流し」が行われました。紙で人形を作り、息を吹きかけて流すのです。武家社会においても3月3日の上巳の節句は祓えの行事として機能していたと言います。「人形流しと貴族の女児の遊びであった『雛(ひいな)あそび』とが結びつき、この日に雛人形を飾るようになった。雛人形は時代を経るにつれて豪華になり、やがて現代のひなまつりは雛人形を飾り、1年の穢れを人形に移すことで女の子の無事成長を祈る行事として受け継がれている。」(資料1)ひなまつりは、上巳の節句に行われた「人形流し」という祓の行事がルーツだそうです。『源氏物語』須磨の巻は、3月上巳の祓の日の光景を描写しています。源氏はこの日、勧められて祓えの行事を行います。だがその最中に暴風雨に襲われて、それが契機となり、明石に移るという展開になります。その冒頭が、「弥生の朔日に出で来たる巳の日、『今日なむ、かく思すことある人は、禊したまふべき』と、なまさかしき人の聞こゆれば、海づらもゆかしうて出でたまふ。いとおろそかに、軟障(ぜじょう)ばかりを引きめぐらして、この国に通ひける陰陽師召して、祓せさせたまふ。舟にことごとしき人形のせて流すを見たまふにも、・・・・」(3月の初めにまわってきた巳の日に、「今日という日は、このようにご心労がおありの方は禊をなさるのがよろしい」と、なまはんかの物知りが申しあげるので、海辺の景色もごらんになりたくておでましになる。ほんとにかりそめに軟障ぐらいを張りめぐらして、この国に通ってくる陰陽師をお呼びになって、祓をおさせになる。船に大げさな人形を積んで流すのをごらんになるにつけても、・・・)です。「人形流し」祓の行事の大型版がでてきます。 (資料6) この日、奈良時代の宮中では、中国から伝来した「曲水の宴」という行事が行われます。奈良時代には盛んに行われ、平安時代には一時廃されたそうです。嵯峨天皇(在位:809~823)に復活されますが、「やがて宴遊的要素が強まり、宮中の公式行事としての性格が薄れ、貴族の私邸で盛んに行われる私的行事へと変遷していった」(資料1)のです。村上天皇(在位:946~967)の時代にさかんに行われたようです。書聖として知られた王義之は『蘭亭序』に、中国東普永和9年(353)浙江省会稽山の北、蘭亭において曲水の宴が催されたことを記しています。 これはウィキペディアからの引用ですが、「蘭亭曲水図」が描かれてもいます。広く知られていたからでしょう。(資料8)現在は、京都の場合、伏見の城南宮と洛北の上賀茂神社(賀茂別雷神社)で「曲水の宴」の行事が行われています。藤原道長は『御堂関白記』寛弘4年(1007)3月3日の条に「土御門第で曲水の宴を催した」と記しています。途中で風雨が激しくなって宴は中断。対の内部に座を設けたことや、天気が晴れてから水辺に座を立て、土居に降りたことを記録しています。この時、詩題は式部大輔(菅原輔正)が出した「流れに因って酒を泛(うか)ぶ」を用いたと記しています。(資料9)そういう事情から、ここでは、寬治5年(1091)に藤原師通が行った曲水の宴を主に参考に、具現化が試みられたそうです。それでは、曲水の宴を眺めて行きましょう。 酒部所 酒部所は寒い時期に酒のお燗(かん)をしたところとか。右側の台に「火爐(かろ、金属製火鉢)が設置されています。平安時代初期の貴族・藤原冬嗣が、酒のお燗は旧暦9月9日から3月2日までと定めたそうです。それに準ずるとこの上巳の節句の日は寒酒ということになります。(説明パネルより) 酒部所から羽觴(うしょう)が水辺に運ばれて、遣水に流されます。 鳥をかたどった台に盃(さかずき)がのせてあります。これが羽觴です。別名は羽爵。觴には「さかずき」という意味があるそうです。 曲水の宴では、庭に曲線を描くように遣水が流れています。公家・殿上人、文人たちは曲水に沿って、それぞれの場所に座ります。水辺に座る参加者は、羽觴が流れてきたら盃を取り、酒を飲むという形です。 この時、公卿には盃を取って奉る侍者が付いていますが、文人等は自分で盃を取らねばならないそうです。 左大弁が漢詩のお題を作り白唐紙に書いて、尊客(左大臣)に御覧に入れているところです。尊客は漢詩のお題を見ています。ここでは、白唐紙に上記の藤原道長の選んだお題が記されています。 遣水を挟み、対岸の右端に座っているのは、開催者である邸の主人、ここでは藤原師通(もろみち)です。開催者である邸の主人がお題を読み、この曲水の宴のお題を決定します。漢詩に用いる韻も選ばれるそうです。 曲水の宴で漢詩を賦す殿上人 流れてくる羽觴を取ろうとする文人 曲水の宴で漢詩を賦す文人 文人等が座る「円座」が見えます。 曲水の傍で漢詩を賦す人々の背後に、楽器を奏でる公卿や殿上人がいます。円座の向こう側には、横笛を吹く公卿、和琴は弾く殿上人、右側には前に笏拍子でリズムをとる公卿、後に笙(しょう)を吹く殿上人が居並び、音楽を奏でます。一方で、前回ご紹介した池に浮かべた龍頭の舟に乗る楽人たちが合奏に加わります。冠には桃李の挿頭(かざし)をつけています。 寝殿の南廂には、前に講師がいます。人々が作った詩を読みあげる役を担います。後に座るのは序者です。漢文学に優れた儒者が代表して詩序を作ります。詩序とは、「詩稿の序文。漢詩、漢詩集につけるはしがきの文。」(『精選版日本語大辞典』)のことです。 邸の主人の奥方や女房たちは、寝殿から曲水の宴の様子を見物することになります。「雛あそび」と「雛人形」のその後の経緯はここでは省略いたします。会場には詳しい説明パネルが設置されています。また今回の展示について、まとめた小冊子(資料1)にも記載されています。それでは、端午の節句、七夕の節句の具現化場面へと進みましょう。つづく参照資料1)「五節句のルーツをたどる・平安時代の年中行事」風俗博物館 当日入手の小冊子2) 藤原師実 :ウィキペディア3) 壱越調:春鶯囀 :「文化デジタルライブラリー」4)『源氏物語 1』 日本古典文学全集 小学館 p3545)『新版 枕草子 下巻 付現代語訳』 石田穣二訳注 角川文庫 p876)『源氏物語 2』 日本古典文学全集 小学館 p2177) 蘭亭序 :「コトバンク」8) 曲水の宴 :ウィキペディア9)『藤原道長 「御堂関白記」 上』 全現代語訳 倉本一宏 講談社学術文庫補遺春鶯囀颯踏 Shumn dem Sattoh YouTube春鶯囀入破 Shumn dem Juha YouTube王義之 :ウィキペディア城南宮 ホームページ賀茂別雷神社(上賀茂神社) ホームページ雛まつりと人形 検索一覧 :「京都国立博物館」平安貴族の歌遊び再現 京都・城南宮で「曲水の宴」 YouTube2018 城南宮 曲水の宴 YouTube平安貴族の遊び「曲水の宴」再現 福岡・太宰府天満宮 YouTube ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 京都・下京 風俗博物館 2022年4月からの展示:五節句のルーツをたどる -1 へ観照 京都・下京 風俗博物館 2022年4月からの展示:五節句のルーツをたどる -3 へ観照 京都・下京 風俗博物館 2022年4月からの展示:五節句のルーツをたどる -4 へ観照 京都・下京 風俗博物館 2022年4月からの展示:五節句のルーツをたどる -5 へ観照 京都・下京 風俗博物館 2022年4月からの展示:五節句のルーツをたどる -6 へ
2022.06.19
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龍谷ミュージアムで春季特別展を鑑賞後、すぐ近くにある風俗博物館に行きました。4月から始まった展示は「五節句のルーツをたどる・平安時代の年中行事」です。堀川通の東側に建つ「井筒左女牛ビル」5階に風俗博物館があります。龍谷ミュージアムから数十m北にあるビルです。 5階でエレベーターを降りると、まず最初に目にするのが、このシーンです。「五節句」の最初、1月7日の節句は「人日の節句」と称されたそうです。(資料1)1月7日に「七草粥(ななくさがゆ)」を食する習慣と言えばわかりやすくなり、身近なものとして結びついてくるでしょう。そこで、「五節句」です。私たちが知るこの五節句は、江戸幕府により年中行事が整備されて、公的な行事・祝日としてその内容が定められたそうです。正月7日、3月3日、5月5日、7月7日、9月9日が「五節句」です。そのルーツになるのが、奈良時代の『養老令』。ここに季節の変わり目を祝う日「節日」が定められています。正月元日・正月7日・正月16日・3月3日・5月5日・7月7日・11月の大嘗祭(新嘗祭)の日が「節日」に該当します。「節日」には膳が供されることから、室町時代には「節供」という言葉が使われるようになり、行事そのものが「節供」と呼ばれるようになったそうです。江戸時代に、「節供」が「節句」と書かれるようになったとか。季節の区切りという意識から節句になったそうです。(資料1) 時康親王(のちの光孝天皇) 『百人一首』に光孝天天皇の歌が採録されています。第15首です。 君がため春の野に出でて若菜摘むわが衣手に雪は降りつつこの歌に詠まれている「若菜」は、現在でいう「春の七草」に相当します。春は新春をさし、旧暦1月は新春です。季節的に雪が降っていてもおかしくはありません。光孝天皇は55歳の時、884年に即位し、887年に退位された天皇です。(資料2)時康親王が天皇になれたのは、政界の有力者藤原基経が強く推薦したからだとか。なぜか。「政治の実権を握りたい基経には、彼のおとなしい性格がコントロールしやすく好ましいと判断されたらしい。」(資料3)光孝天皇は在位4年で崩御されます。その在位中に基経は実質上の関白になります。皇位を継承するのは宇多天皇です。1月7日に「七草粥」を食して無病息災を祈る習慣が庶民にまで広まったのは江戸時代以降だそうです。その原形は平安時代に溯るということに・・・・・。(資料3) 「采女(うねめ)」が若菜を摘んでいます。各種の若菜が地に散在しています。この時代の若菜摘みは、正月7日の「人日の節句」に「供若菜(わかなをくうず)」という年中行事として行われました。(資料1) 「春の七草」がパネルで示されています。『源氏物語』の注釈書である『河海抄』で せり なずな ごぎょう はこべら ほとけのざ すずな すずしろ これぞ七種と指定したそうです。なお、二、三種について違う草の名を指定して七草にしている事例もあるようです。(資料4,5)ルーツをたどると、七種が確定していたわけではなさそうです。 東宮・道康親王(のちの文德天皇) ともに臣下ですが、左側は位階が五位、背中を見せているのは四位です。 東宮の斜め左前に坐っている臣下は二位時康親王の右斜め背後に、文德天皇の東宮時代という設定で、幕を巡らした一画に膳部が整えられた儀式の場面が具現化されています。 この場面全体は、絵画で使われる「異時同図法」を利用しています。文德天皇は第55代で在位期間は850年~858年です。一方の光孝天皇は第58代で在位は上記のとおりですから、「若菜摘み」⇒「七種粥(ななくさかゆ)」⇒「人日の節句」という風に、時間の流れを溯らせているようです。そこで、入手した資料をきっかけに少し学習したことも加えて、ご紹介します。まずは、「人日の節句」から。中国の『荊楚(けいそ)歳時記』に「人日」が載っているそうです。そこには、正月1日を鶏の日とし、狗(いぬ)・猪(いのしし)・羊・牛・馬がそれぞれ続きの日にあてられ、7日が人、8日に穀があてられました。1~6日は、それぞれの日にその動物を殺さない。人をあてた7日には刑罰を行わないことになっていたそうです。人は万物の霊長なので、この日を霊辰とも言うそうです。これが「人日」の由来とか。中国の人日の習俗は漢代からあったと言います。(資料1,6)手許の別の歳時記を参照しますと、「人日」を季語に掲載し、「東方朔の古書に『正月一日は鶏を占ひ、二日には狗を占ひ・・・・・七日には人を占ひ、八日には穀を占ふ』とあるのによる」と説明されています。(資料7)この「人日の日には7種類の若菜の羹(あつもの、熱い汁物)を食べ、春に芽吹いた七草の良い気をいただき邪気を払う」(資料1)という儀式を行ったと言います。この中国の風習が公家社会に取り入れられました。七草を粥に入れて食するようになるのは室町時代以降だそうです。一方、「七草粥」とは全く関係なく、正月15日には疫病除けに7種類の雑穀粥を食べる習慣がありました。「米の他、粟(あわ)、黍(きび)、胡麻(ごま)、小豆(あずき)などの穀物をいれた粥を食すると1年の邪気を払う」(資料1)とされていたそうです。『宇多天皇記』には、他のいくつかの歳時とともに、この民間の行事を宮中の歳時として取り入れるように指示されたとされています。(資料1)「この『七種』が「七草」と読めることから若草の七草と結びつき、現代に伝わる『七草粥』となっている」(資料1)これが「七草粥」のルーツという次第。手許の複数の歳時記を参照すると、季語としては「七種粥」で掲載されています。(資料6,7)展示に対し説明パネルが置かれています。そこには東宮と一緒に七種粥を食する儀式に列席する臣下の位階が記してあります。まず、臣下の位階により場所の設定が違います。椅子を御覧ください。東宮の傍にいる臣下(二位)は東宮と同じで、一人用の椅子に腰掛けています。一方四位・五位の臣下は長椅子に腰掛けています。もう一つ、なぜ臣下の位階が明記できるのか。説明はありません。多分、当然のことだからでしょう。調べてみますと、元正天皇の時代、718(養老2)年に『養老令』が刊修され、その中に服装について『衣服令』が規定されました。この場面は公式の儀式の席でしょうから、人々は衣服として袍を着ていることになります。臣下の着る袍の色目は位階に従って規定されていました。だからこの場面で臣下の位階を明記できるのだろうと思います。『令』の規定によれば、「一位は深紫(こきむらさき)、二位、三位は浅紫(うすきむらさき)、四位は深緋(こきあけ)、五位は浅緋(うすきあけ)、六位は深緑(こきみどり)・・・・・」という具合でした。殿上人は従五位以上の位階の人々です。(資料4)なお、一条天皇の寛弘(11世紀初)のころから、「位色の制が混乱し、四位以上は黒一色となり、これを橡(つるばみ)の袍といい、五位は緋に蘇芳(すおう)の気が加わった、赤黒い色となり、六位は緑となり、七位以下は事実上叙位の事もなく、事前位色も廃れ、結局、黒、緋、緑の三色となり」(資料4)という形に変化して行ったそうです。つまり、紫式部の生きた現実の世界では、袍は三色への転換点だったようです。『源氏物語』の世界は逆にカラフルに描き出されているということになりますね。さらに、別の観点があります。「子(ね)の日の遊び」です。正月の初子の日に野に出て若菜を摘み、小松を引くという行事が行われていたことです。そのままそこで宴を開き、若菜の羹を食し、和歌を詠じて楽しんだとか。(資料4,8)たとえば、『源氏物語』初音の巻には、次の描写があります。「今日は子の日なりけり。げに千年の春をかけて祝はんに、ことわりなる日なり。姫君の御方に渡りたまへれば、童、下仕など御前の山の小松ひき遊ぶ。若き人々の心地ども、おき所なく見ゆ。北の殿よりわざとがましく集めたる鬚籠(ひげこ)ども、破子(わりご)など奉れたまへり。」という場面描写です。源氏の君が紫の上の御殿から、明石の姫君の所を訪れた時に、初子の遊びが行われているのを見る場面です。小松の引き若菜が献上されるのです。(資料9)「若菜の羹は春の精気に満ちており、小松引きは長寿を願う信仰を有している」(資料8)のです。この初子の日の遊びの行事が、七種の草を正月7日に食べるという人日の節句の行事に変更されるようになったのです。それがいつかは今では判然とはしません。『公事根源』には、醍醐天皇の延喜11年(911)を初めとしているそうです。(資料4)清少納言は『枕草子』の第127段に「七日の日の若菜を、六日、人の持て来騒ぎ、取り散らかしなどするに、見も知らぬ草を子どもの取り持ちて来たるを、・・・・・・」と記しています。また、第2段では、「七日、雪間の若菜摘み、青やかにて、例はさしもさるもの目近からぬ所にもて騒ぎたるこそ、おかしけれ」と書きとめています。(資料10)清少納言の頃には、既に人日の節句としての若菜摘みや若菜の羹を食べる行事は定着していたのでしょう。『枕草子』は平安時代の中頃、1001年頃に成立したと考えられています。清少納言は上記の続きに、「白馬(あおうま)見にとて、里人は、車きよげにしたてて見に行く。」と記し、「白馬節会」の様子の描写に転じます。1月7日には「白馬の節会」という行事も行われていたのです。「白馬節会(あおうまのせちえ)は、旧暦正月7日、天皇が豊楽殿(のちに紫宸殿)に出御し、庭に引き出される白馬(あおうま)をご覧になり、群臣と宴を催す行事である。中国の陰陽五行説に基づいたもので、春に陽のものを見るとその年の邪気を避けることができるとされていた。春は青色(夏は赤、秋は白、冬は黒)、馬は陽の動物とされ、両者が結びついて春に青馬を見るようになったと考えられる。」(資料1)村上天皇(946~967)の時代に「青馬」が文献上「白馬」と書かれ始め、国風文化の発展の過程で、青よりも白を高貴な色として上位に置くようになったことに関係するようです。漢字では「白馬」と記しながら、それを「あおうま」と読むようになったと言います。(資料1)藤原道長が記した『御堂関白記』の最初の頃を部分的に調べますと、以下のような記録が残されています。 (資料11)長保二年正月七日 白馬御覧 内裏に参った。・・・・天皇に奏上して言ったことには、「左右の白馬を御覧になるべきであることは、先日、諸卿が定め申しましたが、天皇の仰せによりましょうか」と。天皇がおっしゃって云われるには、「早く召せ」と。大外記(滋野)善言を召して、御馬を召すよう命じた。・・・・御馬の数は、常と同じであった。寛弘元年正月七日 白馬節会 午二刻に参入した。三刻に天皇の出御があった。出御の後、標を立てた。寛弘二年正月七日 白馬節会 物忌によって、白馬節会に参らなかった。寛弘三年正月七日 白馬節会 内裏に参った。白馬節会は、常と同じであった。大将(藤原公季・藤原実資)、および内教坊別当がいなかった。そこで私が白馬奏と坊家奏を奏上した。右馬寮は頭が参ってこなかった。という具合である。白馬節会は例年行われていることがわかる。『源氏物語』ではどうか。少女の巻に次の一文が出てきます。「朔日にも、大殿は御歩きしなければ、のどやかにおはします。良房の大臣と聞こえける、いにしへの例になずらへて、白馬ひき、節会の日々、内裏の儀式をうつして昔の例(ためし)よりもこと添えていつかしき御ありさまなり。」(年の明けた正月にも、源氏の大臣は参賀のお出ましもないので、ゆっくりとうちくつろいでいらっしゃる。良房の大臣と申したお方の昔の例にならって、二条院に白馬を引き、節会の日には宮中の儀式を模して、その古例よりもさらに新たな行事を加えて、おごそかな御有様である。) (資料9)フィクションの中にも、白馬節会に関連した記述が出てきます。藤原良房という史実の人物を引き合いにだしていますが、史実としての所見はないようです。紫式部が読者がイメージしやすく、リアル感を増すために、初めて太政大臣・摂政に任じられた良房の名を使ったのでしょう。 人日の節句の具現化場面の左側、池の中に龍頭鷁首の舟の内、龍頭の舟を具現化してあります。少女の巻の上記の続きに、「楽の船ども漕ぎまひて、調子ども奏するほどの」(一対の楽の船があたりを漕ぎめぐって調子合わせの曲などを奏すると)という描写が出てきます。その関連なのかもしれません。 興味深いのは、龍頭の舟に補助の舟を横に連結させて楽人の舞台に仕立てていることです。双胴船の形式であることを連想しました。五節句を順番に眺めていきましょう。つづく参照資料1)「五節句のルーツをたどる・平安時代の年中行事」風俗博物館 当日入手の小冊子2)『日本史小事典』 日正社3)『こんなに面白かった「百人一首」』 吉海直人 PHP文庫 p66-674)『有職故実』上・下 石村貞吉著 嵐羲人校訂 講談社学術文庫 上・267-271,下・p355) 春の七草の短歌 万葉集、正岡子規他[日めくり短歌]:「短歌のこと」6)『合本 現代俳句歳時記』 角川春樹編 角川春樹事務所 7)『ホトトギス 新歳時記』 稲畑汀子編 三省堂8)『源氏物語図典』 秋山・小町谷編 須貝作図 小学館9)『源氏物語 3』 日本古典文学全集 小学館 p145, p70, p7210)『新版 枕草子 上巻 付現代語訳』 石田穣二訳注 角川文庫 p16-17,p166-16711)『藤原道長「御堂関白記」 上』 全現代語訳 倉本一宏 講談社学術文庫補遺平安貴族の正装の色の違いについて知りたい。:「レファレンス協同データベース」異時同図法と捨身飼虎図について :「つれづれ美術手帖」藤原良房 :ウィキペディア藤原良房 :「ジャパンナレッジ」船楽(ふながく) :「風俗博物館」双胴船 :ウィキペディア第20回 『紫式部日記絵巻』「龍頭鷁首(りゅうとうげきしゅ)の舟」を読み解く :「SICTIONARIES & BEYOND WORD-WISE WEB」龍頭鷁首舟 :「いけばな嵯峨御流」賀茂別雷神社(上賀茂神社) ホームページ 1月7日に「白馬節会」を神事化したものとして「白馬奏覧神事」が行われます。住吉大社 ホームページ 1月7日に「白馬神事(あおうましんじ)」が行われます。 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 京都・下京 風俗博物館 2022年4月からの展示:五節句のルーツをたどる -2 へ観照 京都・下京 風俗博物館 2022年4月からの展示:五節句のルーツをたどる -3 へ観照 京都・下京 風俗博物館 2022年4月からの展示:五節句のルーツをたどる -4 へ観照 京都・下京 風俗博物館 2022年4月からの展示:五節句のルーツをたどる -5 へ観照 京都・下京 風俗博物館 2022年4月からの展示:五節句のルーツをたどる -6 へこちらも御覧いただけるとうれしいです。観照 京都・下京 風俗博物館 2021年の展示 -1 豊明節会・五節の舞 5回のシリーズでご紹介観照 京都・下京 風俗博物館 2020年の展示 -1 女楽~『源氏物語』「若菜下」より~ 4回のシリーズでご紹介観照 京都・下京 風俗博物館 2019年2月からの展示 -1 猫と蹴鞠(1) 6回のシリーズでご紹介観照 風俗博物館 2018年前期展示 -1 『年中行事絵巻』「祇園御霊会」 4回のシリーズでご紹介探訪&観照 風俗博物館(京都) -1 移転先探訪・紫の上による法華経千部供養 4回のシリーズでご紹介観照 [再録] 京都・下京 風俗博物館にて 源氏物語 六條院の生活 -1 3回のシリーズでご紹介
2022.06.17
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西本願寺前の堀川通を挟み、東側に位置する龍谷ミュージアムに今月(6月)上旬に行ってきました。 ミュージアムの正面には、横長の大きな春季特別展案内パネルが掲げてあります。「ブッダのお弟子さん」というタイトルに、「教えをつなぐ物語」というフレーズが続きます。右は入場券の半券です。 こちらはこの特別展のPRチラシ。会期はこの19日(日)までとなっています。あとわずかになってきましたが、覚書を兼ねて遅ればせながら少しご紹介します。案内パネルに載っている展示品例はPRチラシの裏面に紹介されているものと同じでした。チラシから切り出してご紹介に利用します。悟りを得てブッダとなったガウタマ・シッダールタ(釈尊)は、西暦前5世紀頃に、ガンジス川中流域でその思想を広めて行きます。それが仏教教団となり、数多くの弟子が集まり、釈尊のもとで修行し、釈尊の活動を支え、釈尊の涅槃の後にはその教えを様々に語り伝えて行ったわけです。この特別展では、その弟子たちに焦点をあてて、弟子像や経典類が展示されていました。この特別展、本当は2020年春に開催予定だったのですが、コロナ禍の影響を受けて開催が中止になり、今年改めて一部組み替えて開催されることになったのです。そこで、この特別展後に購入した図録はおもしろいことに、 本篇 別冊本篇と別冊の2冊になっています。展示品の入れ替わり等により、別冊が作成されたという次第。逆に、今回の展示から外れた作品を+αとして図録で楽しむことができます。展示は3階から2階へと巡っていく形で、5章構成になっています。<第1章 初めての仏弟子、そして釈尊に帰依した神々や人々>3階の会場に入ると、ガンダーラの仏立像が最初に目にとまります。最初に、ネパールの19~20世紀の作ですが、「五趣生死輪図」「六道輪廻図」が展示されています。日本でイメージする輪廻図とはかなり異なる図にまず違和感が生まれました。一種のカルチャーショックに通じるものです。観念的には同じなのでしょうが、「輪廻」の背景となるイメージについての文化差です。その違いが仏教の広がりと変容につながっているのでしょう。 釈迦の教えが流布される過程で、仏陀(釈迦)のストゥーパが建立され、そこに釈迦の生涯を描いた仏伝浮彫が装飾されます。その仏伝が人々にとっては仏陀の教えを知り信仰する対象にもなって行くようです。輪廻から脱する悟りを得た釈迦は、その内容は人に説明し伝えることはできないと考えたそうですが、「梵天勧請」を受けて、仏陀は活動を始めます。それがこの「初転法輪」の場面です。かつての5人の修行仲間に教えを説くという場面。この5人が最初の仏弟子になります。仏教僧団の誕生です。仏伝浮彫「梵天勧請」の場面も展示されています。このセクションで印象深かったのは、好花堂野亭著『釈迦御一代記図会』(1845年)です。一場面だけ見られたのですが、葛飾北斎画だったのです。ダイナミックな構図の場面でした。 ガンダーラのハーリーティ像です。日本では「鬼子母神」として知られています。かつては人の子をさらい喰らうという悪行三昧を重ねていました。釈尊は末子を鉢に隠すという形で、ハーリーティに我が子を探させるという体験をさせます。ハーリーティは釈尊の誡めと説法を受け、改心して安産と子育ての神となります。仏教の中に組み込まれていきます。こちらもかなり日本で祀られている鬼子母神像とはイメージが異なります。もう一つは、やはり「維摩居士像」が目にとまります。「維摩経」の主人公です。<第2章 釈尊の涅槃を見まもった仏弟子たちー釈迦からのメッセージ>岐阜・汾陽寺の「仏涅槃図」と併せて、和歌山・金剛峯寺藏の国宝「仏涅槃図」模写図を見ました。様々な涅槃図を今までに見てきていますが、金剛峯寺の仏像涅槃図原本は日本に現存する最古の涅槃図だそうです。大陸に存在する涅槃図と比較すると、この最古の涅槃図においても、登場人物が格段に増えていると言います。汾陽寺の「仏涅槃図」は一層描かれている人数が増えています。「国宝仏涅槃図模写」は図が明瞭にわかるというメリットがあります。<第3章 仏弟子から十大弟子> このセクションでのハイライトの一つは、この「木造十大弟子像」です。上掲の図録・別冊の裏表紙に使われています。京都・仁和寺の子院常楽院旧蔵で、今は京都国立博物館蔵です。10軀のうち、目連・羅睺羅は江戸時代の補作、それ以外は鎌倉時代の作とのことです。清凉寺式釈迦如来立像を中尊としてこの十大弟子が随侍している形だそうです。像高は50cm弱で、本尊の約半分に造像されています。経典には釈迦が常人の2倍の身長であるという記述があり、これによるのだろうと図録では説明されています。併せて、神奈川・称名寺蔵の木造十大弟子中、「伝舎利弗・伝目連立像」が展示されていました。当初は称名寺の十大弟子像が展示予定だったようです。 もう一つのハイライトがこちらです。和歌山・海雲寺蔵の「木造釈迦如来坐像および阿難・迦葉立像」です。南北朝時代・貞和3年(1347)康俊作です。展示品一覧表を見ますと、前期には掛幅の釈迦並びに十大弟子像がいくつか展示されていたようです。 絹本着色の「仏陀及び比丘像」(京都国立博物館蔵)、19世紀の作品が展示されています。東南アジアでは、一般的に舎利弗と目連が二大弟子と見做されているとか。これはタイの作品ですが、日本の三尊像とは図像と雰囲気がかなり異なります。一方で、仏教の広がりとともに、ガンダーラを起点とした図像の表現様式には共通点と相違点が生まれていきました。図像が変容している様を対比できることはおもしろく、興味深いところです。地域性や風土が自ずと表現方法、具現化プロセスで反映しているということなのでしょう。図像は補遺をご覧いただきたいのですが、絹本着色の「焔口餓鬼図」(京都・六道珍皇寺藏)が展示されていす。中国・明時代、1643年の作。焔口餓鬼は何とも奇妙でかつインパクトのある図像です。阿難が供養を始めると、方々から餓鬼が集まってきたという図柄です。描かれている阿難が中国風。盂蘭盆会などの死者供養の儀礼に使われる図と言います。<第4章 羅漢と呼ばれた弟子たち>上掲のPRチラシや図録(本篇)の表紙に使われているのが、描かれた「十六羅漢」の中の一人です。中国、北宋時代(11~12世紀)の作で、京都・清凉寺藏の作品。「第九 戌博迦(じゅばか)尊者」図です。後期に出かけましたので、会場で鑑賞したのは、第一、第十四尊者の2幅でした。 一方、こちらは東京国立博物館蔵の国宝「十六羅漢像」のうちの一幅です。「第九 戌博迦尊者」、平安時代後期(11世紀)の作品。日本で製作された現存最古の羅漢像だそうです。このセクションは、十六羅漢図がそれぞれ一組の中から数点ずつ抽出した形での展示になっています。京都・清凉寺藏、東京国立博物館蔵、愛知・妙興寺藏、岡山・長法寺藏の4種が展示されています。興味深かったのは十六羅漢の描写法がそれぞれ異なるところでした。 これは、PRチラシの中に掲載されています。岡山・長法寺藏の十六羅漢像中、「第一 賓度羅跋羅堕闍(ひんどらばっらだじゃ)尊者」の相貌です。たとえば図録の表紙の図像の描法とはかなり異なります。描法が違うと図全体の醸し出す雰囲気も異なり、おもしろいものです。会場では対比的に見比べるというおもしろさがありました。さらに、十六羅漢に対し、十八羅漢も展示されています。十六羅漢にさらに二尊が加えられたものだそうです。こちらは群像として描かれた図です。二種の作品が出ていましたが、いずれも「釈迦三尊十八羅漢図」です。岡崎市美術博物館藏のものは、中国・元時代(13世紀)のもので、一幅に描かれた作品。もう一つは、兵庫・東光寺蔵で、三幅でセットになった図です。中央の一幅に釈迦三尊が描かれ、左右の幅に9尊ずつ羅漢像が描かれた構図です。描法も構図もともに全く異なり、おもしろい。木造十八羅坐像のなかから、二躯が出ていました。京都・延暦寺蔵で、南北朝~室町時代(11世紀)の作です。表面は近年に修復され彩色が施されていました。造像当初はこんな感じだったのかと、その華やかさに対し、歳月を経て表面が褪色風化し木肌像の状態に親しんでいる目には異質さすら感じます。彩色された一尊は、見る角度によってなまめかしさすら漂わすものでした。<第5章 羅漢図より読み解く出家者の生活>ここでは、十六羅漢図から、さらには五百羅漢図まで登場します。上掲別冊の表紙は、京都・大徳寺藏の五百羅漢図中、「第44幅施食」の部分図です。6/7~6/19に展示予定の図でしたので、図録で見るだけです。これは池の魚に餌を施している図です。私が見たのは「第45幅裁縫」で、羅漢たちが縫い物作業をしている図でした。中国、南宋時代の作品です。出家者の生活が具体的に描き出されています。「四分律」という出家生活を律する文献や、香炉・水甁・木製曲彔・如意などの道具類の実物などが展示されています。私が興味を抱いたのは、岡山・清眼寺藏の「五百大阿羅漢図彙」でした。羅漢一人一人を白描した羅漢像の集成です。五百羅漢図を描く種本となるいわばアンチョコです。各羅漢に名前が記され、それぞれが様々な物を手に持ち、所作も異なり、様々な場面が切り取られて描かれています。やはり、こういう雛形絵図が作られていたのですね。お寺の探訪拝観に行き、羅漢像と出逢うことがあっても、チラリと見るだけに留まる程度でした。ブッダのお弟子さんそのものに焦点をあてて眺めてみるという視点もまた、ブッダ(釈迦)の教えがどのようにつながれ、流布されて行ったのかを考える上で、必要な側面と感じた次第です。こんなところで、この春季特別展のご紹介を終わります。ご覧いただき、ありがとうございます。参照資料*図録『ブッダのお弟子さん 教えをつなぐ物語』(2020)龍谷大学龍谷ミュージアム編*図録『ブッダのお弟子さん 教えをつなぐ物語 別冊』龍谷大学龍谷ミュージアム編*「ブッダのお弟子さん 教えをつなぐ物語」展示品一覧表補遺絹本著色 焔口餓鬼図 :「公益財団法人 住友財団」特別展 道教の美術 TAOISM ART :「大阪市立美術館」 焔口餓鬼図[面然大士]が案内事例として掲載されています。十六羅漢 :「コトバンク」十六羅漢像 :「e國寶」十六羅漢像 :「奈良国立博物館」十八羅漢 :「コトバンク」阿羅漢 :ウィキペディア30.十六羅漢と五百羅漢(1) :「一般社団法人 全日本少林寺気功協会」鬼子母神 :ウィキペディア鬼子母神 由来と歴史 :「鬼子母神~ようこそ」(法明寺)鬼子母神像 :「仏像彫刻原田」鬼子母神像 :「梅松山 円泉寺」我が宗における鬼子母神信仰について :「日蓮宗尾張伝道センター」妙経寺の鬼子母神信仰 :「妙経寺」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2022.06.14
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神戸市立博物館で開催される特別展をみる目的で幾度も出かけています。JR三ノ宮駅で下車して、三ノ宮商店街、旧居留地、南京町あたりを歩くことになります。ふと思いついた時が2014年でした。メトロポリタン美術館所蔵品による古代エジプト展を見たくて出かけた時に、マンホールのふたや消火栓のふたなどが目に止まりました。神戸ではそれが撮り始めです。2014年12月、2017年2月、2022年4月にロード・ウォッチングで撮った写真をまとめて、ご紹介したいと思います。まずは冒頭の「おすい(汚水)」のふたからです。同心円で蜘蛛の巣を連想させるようなシンプルで機能的なマンホールのふたです。 このふたの中央に象られているのは、神戸市の市章です。この市章は1907年(明治40年)5月に制定されました。神戸の港は、もともとは「扇港」と呼ばれていたといいます。「兵庫」と「神戸」の二つの港が扇を並べたような形をしているというところに由来するそうです。神戸は旧仮名遣いでは「カウベ」と表記されました。扇を並べたような形をイメージして、「カ」の字を図案化したものがこの市章だそうです。(資料1)調べていて、わかりやすい図解説明に出会いました。”「神戸港」「兵庫港」で『二つ扇』”というページです。補遺をご覧ください。余談ですが、平清盛は誰もが知る歴史上の人物。その平氏は忠盛以来、日宋貿易に力を入れ、勢力を蓄えました。平清盛は12世紀後半に「大和田泊(おおわだのとまり)」に経ケ島を築き、港湾を大修築します。さらに瀬戸内海の要所の良好と航路の安全を確保し、九州の博多、宋を結ぶ貿易航路を築きました。この大和田泊が中世には「兵庫湊(ひょうごのみなと)」と呼ばれます。(資料2,3,4)『平家物語』巻五の「一 遷都の事」は、「治承4年6月3日、福原へ御幸なるべしと聞ゆ。『この日頃、都遷りみるべしと聞えしかども、たちまちに今明の程とは思はざりしものを』とて、京中の上下騒ぎ合へり」という書きだしで始まります。清盛は突然の号令で都を慌ただしく福原に移すという挙に出ました。(資料5)福原は、大和田泊を見下ろす山麓に置かれた都です。現在の神戸市中央区から兵庫区北部にあたるそうです。地名では平野あたりといいます。(資料6)戻ります。 同じ汚水のふたですが、こういう意匠のふたは地元色が出て楽しいです。神戸の特徴を示すものとランドマークとなるものがいくつも配置されています。例えば、神戸に遊びに出かけた時に撮っていた写真にこんなのがあります。 六甲山をズームアップで撮ったもの(2004.3.21撮影) 神戸ポートタワーと神戸市役所(ともにウィキペディアより引用) (2022.4.28撮影) メリケンパーク・ハーバーランドの景色このふたには、私自身では対象を識別できないものもみられます。 汚水のふたですが、こちらは地区限定のふたのようです。特注品でしょうか。「SANNNOMIYA TOWN 1st BLOCK」(三ノ宮街第1地区)という地名が表示されています。1年間の月名とローマ数字での時計の文字盤、更にその内側には、七曜(月~金)の略称が刻まれています。この意匠がおもしろい。「今日は何月何日、今何時?何曜日? ちゃんと分かってる?」なんて、問いかけるようなふたです。 冒頭の汚水ふたと同類型のデザインですが「圧雨水」と表記されたふたです。 「KOBE USUI」と記されていますので、雨水用のふたです。神戸で企画開催された「ルミナリエ」を記念する一環で造られた雨水ふたなのでしょう。1995年から実施を示す文字も刻まれています。(2014.12.4に撮った写真です。)この日、小雨が降ったのでしょう。しっとりと濡れています。 これも冒頭の汚水蓋と同類型の意匠です。HOKUSEI KOGYO という製造メーカー名称(北勢工業)と型番記号(HMA-S450) により調べるてみまと、防臭蓋です。(資料7) 同じメーカーのものですが、型番が異なります。MPS 600という型番は防水蓋をさすようです。MPSについて、中荷重回転ロック式防水防臭蓋と参照カタログには説明されています。(資料7) この2枚もマンホールのふたです。どちらにも「CCB」という文字が表示されています。しかし、上の方には「道路・通信」と記され、下の方は「電気」と判読しました。上のふたは路面の石板タイルに合わせて統一性を持たせるように装飾施工されています。下のふたは普通の標準仕様です。路上にはいろいろなふたが目にとまります。旧居留地の地区では情緒豊かな意匠のふたがあり、楽しめます。 消火栓のふた 消火栓のふたには、こんなバージョンも見つけました。 同じふたなのですが、地の色合いの違いで少し一見した雰囲気が変わります。こんな経年変化の差もおもしろいところです。このふたには、上掲以外に 旧居留地の外灯(2022.4.28撮影)や六甲山有馬ロープウェー(2019.8..30撮影) 神戸市風見鶏の館の風見鶏や神戸大橋(ウィキペディアより引用)、停泊する客船(2022.4.28撮影)などが取り上げられています。コックさんが描かれているのは、神戸には様々な国のエスニック料理を楽しめるお店があるからでしょうね。 さらに、小雨の日に撮ったバージョンがあります。 2014.12.4に撮ったときは、水に濡れていました。枯葉が一葉・・・・。 心理学テストじゃありませんが、すぐ上の2葉の写真と同一意匠です。しかし、こちらの方が、デザインの意図がよりわかりやすいと感じませんか。左側の曲線が、女性の横顔の輪郭線であることが、より鮮明に目に飛び込んでくるのです。目元にあたる箇所がピンポイントでそこがこちらのふたでは目につきやすいからだと感じます。如何でしょう・・・・。対比してみてちょっとしたことがおもしろい。情趣が変化します。 空気弁のふた「KOBE」という文字を装飾文様に変容させたデザインになっています。 「神戸市水道仕切弁」と陽刻されたものも目にとまりました。こちらは上水道の仕切弁です。 最後に、これをご紹介。ふたではありません。道路に敷かれた道標です。海側に500m行けば市立博物館、六甲山側に1050m行けば北野町・異人館と表示してあります。2022.4.28に「大英博物館ミイラ展」を見に出かけたとき、京橋筋の商店街付近で目に止まり撮ったものです。 2017.2.21撮影今までの神戸探訪の折に目に止まったのはこんなところです。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1) 神戸のシンボル :「KOBE」2)『詳説日本史研究』 五味・高埜・鳥海[編] 山川出版社 p1243) 大輪田泊 :ウィキペディア4) 昔の神戸 :「神戸市文書館」5)『平家物語 上巻』 佐藤謙三校注 角川文庫ソフィア p2306) 福原京 :ウィキペディア7) 製品カテゴリ別カタログ 02,03 :「HOKUSEI」補遺「神戸港」「兵庫港」で『二つの扇』 :「三井住友トラスト不動産」神戸港 :「KOBE」神戸ポートタワー :ウィキペディア神戸市風見鶏の館 :ウィキペディア風見鶏の館 オフィシャルサイト神戸市役所 :ウィキペディア神戸大橋 :ウィキペディア有馬四十八滝 :ウィキペディアFeel KOBE 神戸公式観光サイト ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。 マンホールのふた見聞考 ウォッチング掲載記事一覧
2022.05.27
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東山の円山公園のしだれ桜は有名です。5月6日に緑葉の桜を左に眺めながら南から北へと横切りました。 しだれ桜の前に、この鳩のブロンズ像があります。 この近くで、ふと目にとまったのがこのマンホールのふたです。京都市内で、ここで初めて目にしました。ほかにも同じふたが設置されているのかどうかは不詳です。逆にこれからロード・ウォッチングする楽しみができました。ポケモンという言葉は知っていても、あまり関心がなかったのですが、マンホールのふたに登場しているということで、ちょっと関心をもってみました。変な動機・・・・。おかげで、ポケモンのホームページがあるのを遅ればせながら知った次第です。観光都市京都の有名箇所の一つですから、このキャラクターをふたに採用したのでしょうか。これも観光客サービス?かな。 お子さんが喜ぶのはまちがいないでしょうね。まず気づいたこと。ちゃんとコピーライト(著作権)のマークが記されています。キャラクターに無知なので、ちょっと調べてみて気づいたこと。<ピイ> (資料1)*ピイはほしがたポケモンに分類されるんだ。*ピィは進化するようだ。 ピッピ、ピクシイーがお仲間。*だけど、額部分のくりっと巻いた毛(?)は、「ポケモンずかん」のピィとは巻き方がちがう。ピッピ、ピクシーとは同じ方向の巻き方になってる!*目の描き方がちょっとちがうね。まあ、いずれもありなんだろう。<ププリン> (資料2)*ププリンはふうせんポケモンに分類されるそう。*ププリンも進化するね。プリンとプクリンがお仲間。 耳が形成され、その形も変化している。額の部分も併せて変化しちゃうんだね。*ププリンは、<プリン、プクリン>とは瞳の色が違うんだ。 ふたのププリンの笑顔では、瞳の色はわからないけど。<ピチュー> (資料3)*ピチューはこねずみポケモンに分類されるのか。 こねずみだからチュー、チュウ?*ピチューもおなじく進化する。ピカチュウ、ライチュウがお仲間。 ピカチュウという名前をまず知ってた。ピチュー、ライチュウはこのずかんで知った!*ピチューのほっぺはでんきぶくろなんだ。たくわえたでんきはどうするのかな。 ずかんによれば、せいでんきをからだにまとうためのよう・・・。 さわったあいてをまひさせるためだって。なるほど、ぶきになるんだ。戸惑っていること。*参照した「ポケモンずかん」では進化の方向性が決まっているのだろうか。 左⇒右、右⇒左のように。 このずかんで遊んでみて、左⇒右がどうも進化の方向ではないかと推測しました。 左から右に行くほど、キャラクターの髙さと重さが増大していますので。*キャラクターに振られた番号と進化の方向とは無関係なのか? つまり、キャラクターは番号の割り振りとは無関係に創造された・・・・・。 門外漢の勝手な想像です。後半は、このふたから、ネット情報を利用してちょっと遊んでみたメモです。同じことなら、このふたのキャラクターを様々に変えたバリエーションができると、探す楽しみができるかも。だけど、それをしようとすれば制作コストが急上昇するから無理でしょうね。この1枚のふたからポケモン・ワールドはかなり広いことがちょっとだけわかりました。それが私にとっての副産物でした。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1) Mo.173 ピイ :「ポケモンずかん」2) No.174 ププリン :「ポケモンずかん」3) No.172 ピチュー :「ポケモンずかん」補遺ポケモン オフィシャル・サイトポケモンずかん ホームページポケットモンスター テレビ東京公式アニメ【公式】アニメ「Pokemon Evolutions」第1話「ザ・チャンピオン」 YouTube【公式】アニメ「ポケットモンスター」第111話「モーンとリーリエ、雪原の再会」(見逃し配信) YouTubeポケットモンスター :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。 マンホールのふた見聞考 ウォッチング掲載記事一覧
2022.05.22
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七条通の北側歩道脇に掲示された特別展案内パネルの景色です。伝教大師1200年大遠忌記念特別展「最澄と天台宗のすべて」が4月12日(火)から5月22日(日)の会期で始まりました。20日(水)は天気が良かったので、5月の連休に入る前にと思い、出かけてきました。コロナ禍での企画展の中では相対的に多いめの鑑賞者数でしたが、特別展が始まったところであり平日の正午を挟む時間帯でもあったので、せいぜい各展示室で十数名くらいの鑑賞者が途切れない程度でした。各展示室でゆったりと鑑賞できました。 特別展入場チケット 南門を入ると歩道脇のツツジが咲きかけています。 平成知新館手前の案内パネル 平成知新館1階ホール正面の壁面。記念撮影用のパネルでもあります。 PRチラシ 京都国立博物館だより 2022年4・5・6月号 表紙これらから今回の展示品中のハイライトが何であるかがうかがえます。館内は原則撮影禁止です。上掲公開資料を引用しつつ、記録を兼ねて、今回の特別展の感想とご紹介を致します。今回は、5月2日(月)の休館日を境に前期・後期と区分され、一部展示替えが予定されています。特別展の展示は3階から始まり、順路案内に従って2階・1階へと降りながら鑑賞することになります。1階の常設展示フロアーの仏像群が撤去されていて、特別展の諸仏像が展示されています。今回は、平成知新館全フロアーが特別展仕様で展示されているようです。全体の展示構成をまずご紹介しておきましょう。 第1章 最澄と天台宗の始まり - 祖師ゆかりの名宝 第2章 教えのつらなり-最澄の弟子たち 第3章 全国への広まり-各地に伝わる天台の至宝 第4章 信仰の高まりー天台美術の精華 第5章 教学の深まり-天台思想が生んだ多様な文化 第6章 現代へのつながり-江戸時代の天台宗<第1章 最澄と天台宗の始まり>では、冒頭に「聖徳太子像」(国宝)と「最澄像」、「円仁像」、「天台大師(智顗)像」の掛幅が展示されています。 「最澄像」(国宝、兵庫・一乗寺蔵) 最澄像はこの特別展の図録表紙(左)にも使われています。右は裏表紙。購入した図録の表紙をよく見ますと、一部が折り込みになっていました。 表紙を広げると折り込まれた部分に、聖徳太子像が載せてあります。 裏表紙の折り込まれた部分。右端から二人目が前期に展示されている「円仁像」(一部)です。その他は天台高僧像。 やはり、興味深かったのは、「伝教大師入唐牒」(国宝、延暦寺蔵)です。最澄が渡唐した時に中国で発行された通行許可証の実物。今風に言えば、現地発行されたビザですね。767年近江国に生まれた最澄は13歳で出家、785年、20歳で僧となり、788年に比叡山に最初のお堂を創建。自刻の薬師如来像を置き、「不滅の法灯」を灯したと言います。804年に桓武天皇に支援され留学僧として渡唐します。そして、翌(805)年に帰国。最澄自筆の「伝教大師請来目録」(国宝、延暦寺蔵)も展示されています。806年に天台宗が日本の正式な仏教として認められ、全国に教えが広がることに。(資料1) 京都・法界寺(真言宗醍醐派)から寺外初公開の秘仏、薬師如来立像が展示されています。この仏像は「鎌倉時代に、天台座主慈円が実見した延暦寺根本中堂の本尊、最澄自刻で五尺五寸の薬師如来立像の姿に近い」(図録より)そうです。今回の展示にあたり、X線CT撮影が行われ、仏像胎内には薬師如来立像が納められているのが確認されました。その胎内仏像が3Dプリンターで再現されて併せて展示されています。代々の相伝で最澄自刻の三寸薬師如来像を納めたと言われてきたそうですが、現在の胎内仏像は最澄の自刻像とは異なるとか。いずれにしても最澄ゆかりの薬師如来立像です。今回他の仏像についても胎内の納入品を3Dプリンターで再現し展示するという新しい試みが行われていました。最先端科学技術を活用した展示品の併用は興味深いものです。もう1点、「天台薬師」と称される系統の薬師如来立像(京都・長源寺蔵)が展示されています。こちらも木造ですが全身漆箔像です。「天台薬師」には、「頭の上の盛り上がりがなだらかな形になっていることや額がせまいこと、衣文をY字に刻むなど」(資料1)の特徴があるそうです。 この「蒔絵唐櫃」は明治24年に新調されたものです。近世には延暦寺法華会が3~4年に一度行われ、勅使が勅封唐櫃内の寺宝を改める儀式があったそうです。維新の混乱で途絶えていたのを明治12年(1879)に復活させ、5年に1度行われるようになったとか。会場では今回の展示にあたり、その儀式の様子が録画され放映されています。併せて、納入品である「銅三鈷鈴」「金銅独鈷杵」や「細字法華経」などが展示されています。「細字法華経」は前期展示ですが、極小文字をどのようにして書いたのだろうかと驚嘆する経巻です。拡大図のパネルが併せて展示されています。<第2章 教えのつらなり-最澄の弟子たち>では、「高僧図像(乙巻)」(東京・大東急記念文庫蔵)がまず興味深かったです。各僧の個性溢れた図像が並んでいます。歴代の高僧たちについて、何を見て描いたのだろうとふと思いました。兼胤筆『入唐求法巡礼行記』(国宝)が展示されています。円仁が入唐したのは838年でそれから帰国するまでの9年8ヵ月間の記録です。写本としては現存最古の写本(鎌倉時代、1291年)だそうです。「五部心観(完本)」(国宝、滋賀・園城寺蔵)も印象深い図像です。曼荼羅・金剛界の五部の諸像が墨画され梵字で説明の記載が為されています。巻末には善無畏の像が描かれていると判明したそうです。 良成作「智証大師(円珍)坐像」(重文、京都・聖護院蔵)は頭の形が特徴的。私は「おむすび」を連想してしまい・・・・。会場には、「最澄・円仁・円珍の入唐求法の旅」ルート図のパネルが展示されています。図録にも関連地図として収録されています。こういう図の収録はありがたい。印象に残るのは、「浄土曼荼羅刻出龕」(重文、広島・耕三寺蔵)。高さ15cmの龕に、阿弥陀如来と両脇侍、10人の僧や数多くの菩薩などが細密に彫刻されています。「不動明王及び二童子坐像」(重文、延暦寺蔵)の制吒迦童子像は見る角度によりかなり印象が変わり、おもしろい。「護法童子立像」(延暦寺蔵)も同じ。こちらは、像内納入品が発見され、銅造鍍金で像高9.5cmの不動明王立像などが併せて展示されています。 延暦寺横川中堂の本尊「聖観音菩薩立像」(重文、延暦寺蔵)12世紀を代表する優品です。やわらかな容貌が素敵です。<第3章 全国への広まり-各地に伝わる天台の至宝>では、「金光明最勝王経金字宝塔曼荼羅図 第四幀」(国宝、岩手・中尊寺大長寿院蔵)にまず惹きつけられました。『金光明最勝王経』の経文を金字で宝塔の形に書写して、その宝塔の左右に如来・菩薩・天女や山景、州浜などが細密に描かれています。説明無しで何となく見ていたら、宝塔が金字書写によるとは気づかないと思います。「聖僧文珠菩薩坐像」(重文、滋賀・善水寺蔵)や慶快作「性空上人坐像」(重文、兵庫・圓教寺蔵)は異相の雰囲気を漂わす彫刻像です。異相故に惹きつけられるところがあります。 ここでのハイライトはやはり、この「菩薩遊戯坐像(伝如意輪観音)」(愛媛・等妙寺蔵)です。等妙寺では如意輪観音として信仰されているそうです。右脚を踏み下げて右手をついて岩上にくつろぐ姿です。このような坐り方を遊戯坐というそうですが、左膝を立て膝とするのは珍しいそうです。「運慶・快慶次世代の定慶の作風に近い」(図録より)とか。「中国宋代の影響下にあり、鎌倉時代の仏師肥後別当定慶に連なる慶派仏師の作で、造像年代は13世紀の第2四半期とみられています」と鬼北町のホームページで紹介されています。「60年に1回ご開帳の秘仏とされ、現在の等妙寺観音堂(如意輪堂・江戸中期・町指定)の厨子(江戸前期)内に安置されていますが、普段は尊顔を拝むことは叶いません」との説明も。(資料2)遊戯坐像について、少し事例をネット検索してみました。補遺をご覧ください。<第4章 信仰の高まり-天台美術の精華>で、特に印象に残るのは、「真如堂縁起 下巻」(重文、京都・真如堂蔵)と「法華経(浅草寺経)巻第七」(国宝、東京・浅草寺蔵)です。そして、「空也上人立像」(重文、愛媛・浄土寺蔵)口から阿弥陀仏が飛び出している姿の空也上人立像を見るのは、私にとってはこれが三例目になります。現在、東京国立博物館で特別展「空也上人と六波羅蜜寺」が開催されていて、六波羅密寺の空也上人像は2022年5月8日まで、東京にお出まし中です。(資料3)<第5章 教学の深まり-天台思想が生んだ多様な文化>で印象に残ったのは、「宮中御懴法講絵巻」(重文、京都・三千院蔵)です。典型的な「吹抜屋台」形式の描法をおもしろいと感じました。 それと、1階の普段なら仏像群が展示されている展示室の東端に、この「日吉山王金銅装神輿(樹下宮)」(重文、滋賀・日吉大社蔵)が展示されていたこと。見るからに大きくて重そうな神輿です。各部の大ぶりの錺金具には日吉社の神獣、猿(神猿)が様々な姿態で表現されているのが見どころです。<第7章 現代へのつながり-江戸時代の天台宗>では、「天海版一切経木活字」(重文、東京・寛永寺蔵)が興味深いものでした。経典の印刷のために版木を作るということの実例とイメージはあるのですが、一切経の印刷のために、一字単位の木製活字を作っていたというのを初めて知りました。木活字を用いた天海版一切経の出版事業は徳川将軍家光のもとで行われたと言います。(図録より)木活字を組み合わせて、経典を印刷する作業プロセス・・・・・漢字を識別すること自体がまず大変・・・・、校正作業は大変なことでしょうね。この特別展でもう一つのハイライトとなる箇所があります。1階の1展示室を使い、国宝延暦寺根本中堂の内陣中央を部分的に再現してあるのです。根本中堂の内陣の雰囲気を体感できるように・・・・・と。展示室に入ると、右側にこの案内パネルが掲示されています。 このエリアだけ撮影OKです。 パネルの上部には、根本中堂の内陣の写真が掲示されています。その部分を切り出しました。根本中堂の本尊は薬師如来像で秘仏。勿論、御前立像は薬師如来立像です。さて、撮影OKの再現された内陣風景に移りましょう。 再現された内陣の中央部分手前には最澄が灯して以来消えたことのない「不滅の法灯」が安置されています。根本中堂の3基の吊灯籠内の器には絶えず菜種油が注がれているそうです。(図録より) 向かって右端が「丑神立像」です。 その左は中央の御前立、薬師如来立像の左脇侍「梵天立像」 こちらは右脇侍「帝釈天立像」 向かって左端は「子神立像」です。元亀2年(1571)に織田信長が比叡山焼き討ちを行ったとき、根本中堂もろともに法灯も灰燼に帰しました。それなのに、なぜ「不滅の法灯」なのか。山形県立石寺(山寺)に灯明が分灯されていたそうです。中堂が再建された後に、分灯されていた灯明を再び移し戻すことで復興されたといいます。(図録より)これで特別展の鑑賞を終えて、平成知新館から退出しました。 7月30日から9月11日は特別展「河内長野の霊地 観心寺と金剛寺」が、さらに10月8日から12月4日は特別展「京に生きる文化 茶の湯」が企画されているそうです。 いつもの如く、ロダンの考える人を眺め、 西の庭を少し眺めてから博物館を後にしました。ご覧いただきありがとうございます。参照資料*当日入手した「最澄と天台宗のすべて[出品一覧・展示替予定表]」*図録『伝教大師1200年大遠忌記念特別展 最澄と天台宗のすべて』 2021-2022 編集 東京国立博物館・九州国立博物館・京都国立博物館・読売新聞社*「京都国立博物館だより 2022年4・5・6月号」 京都国立博物館1) 展示を楽しむための鑑賞ガイド「最澄さんと天台宗」 編集:京都国立博物館教育室2) 文化財~木造菩薩坐像(伝如意輪観音像)~ :「鬼北町」3) 東京国立博物館 ホームページ補遺京都国立博物館 ホームページ今年1200回忌 最澄の思い、延暦寺・根本中堂で見た 2021.3.26:「朝日新聞DIGITAL」宝珠山 立石寺 ホームページ立石寺 :ウィキペディア空中に浮いてるみたい!山形県「山寺」の絶景ポイントや見どころをレポ:「LIVE JAPAN」薬師如来と不滅の法灯 :「延暦寺会館」yuugeza 遊戯坐 :「JAANUS」地蔵菩薩遊戯坐像 :「文化遺産オンライン」文化財のヒ・ミ・ツ「地蔵菩薩遊戯坐像」 YouTube木造彩色 水月観音坐像 :「東慶寺」立て膝 中国の白衣観音 「鎌倉の仏像展」 :「大和古仏探訪」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2022.04.23
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平成知新館は、平成25年(2013)8月に竣工し、平成26年(2014)9月に開館しました。「設計は、ニューヨーク近代美術館 新館、東京国立博物館 法隆寺宝物館、豊田市美術館などを手がけた世界的建築家、谷口吉生氏です。」(京博 ホームページより)平成知新館は南面する形で、東西方向に長い建物です。序でに、京博の南門も谷口吉生氏の設計によります。こちらが先で2007年です。 平成知新館の外観を様々な視点からご紹介するとともに、館内からの眺めを可能な範囲でご紹介します。(今まで部分的には幾度も建物の景色を記事に載せてはいます。) 平成知新館の正面入口前で右折して、右側の池の南東隅から撮った景色 北側に目を転じますと、平成知新館の中央のフロアーから東側に博物館の管理並びに研究エリアの建物が広がっています。 池を回り込み、入口付近の東側面を眺めた景色です。 南西方向に目を転じるとこんな広がりとなっています。 池の北側に、テラスがあり、休憩スペースになっています。 東エリアの1階部分は庭に向かって全面ガラス・ウォールになっており、通路と来訪者の休憩スペースを兼ねています。 平成知新館内からテラス側を眺めた景色 この四角形の池ですが、 池中に金属製の円柱形の環がいくつか埋め込まれています。このエリアが発掘調査されたその成果を記録に残す円柱跡の位置を示しています。入口の近くに案内板が設置されていますので、来館されたらご確認ください。豊臣秀吉がかつて建立した方広寺の歴史にリンクしていきます。 入口前で西方向を眺めます。 建物の前面、西側には長方形の池が建物のほぼ西端まで広がっています。 レンガ造りの正門が柱越しに見え、京都タワーも遠望できます。 西側の1階通路には、綴プロジェクトの高精細度複製屏風が展示されていて、撮影可能です。ちょっと拡大解釈してこの通路の景色も撮りました。たぶん、許容範囲かと・・・。西側の通路も外に向かってはガラス・ウォールです。 建物内部から、庭の東西方向を眺めた景色です。入口前から、西方向に通路を歩みます。 平成知新館の南西側、建物の傍から眺めた景色 長方形の池の前面には、少し低めにした石垣が延びています。この石垣を積まれた位置が確か方広寺跡の発掘調査とリンクしていたはずです。 建物の西側エリアの前面の西端には石段が設けてあります。 平成知新館の西側面です。この西側1階の館内にレストランがあります。 平成知新館の北面は、現在の豊国神社の築地塀が敷地境界になっています。 レストランのガラス・ウォールから眺められるこの庭エリアの北西隅に「馬町十三重塔」が移設されて保存されています。この石塔は以前にご紹介しています。 この庭の外周通路を石段のところまで引き返します。 西の庭側から、噴水の広場を挟み、平成知新館の西側を眺めた景色 前回ご紹介した、紅白の梅が咲き石造地蔵菩薩坐像の安置された場所から戻る時に眺めた平成知新館 ツツジの咲く生垣越しにみる平成知新館。生垣は噴水の広場エリアと西の庭との境界にもなっています。 ロダン作「考える人」の左側(南)から眺めた平成知新館の景色 石造物のことで再確認したいことがあり、最後に少時、東の庭にも立ち寄りました。その後、出口に向かう折に明治古都館の建物の南西隅から眺めた平成知新館の景色です。平成知新館の詳しいフロアマップは京博のホームページからPDF版をダウンロードすることができます。 これはホームページに掲載の平成知新館フロアマップの引用です。この図は平成知新館の西側エリアを示しています。建物内部を少しはイメージしやすくなるでしょう。これで平成知新館のご紹介を終わります。ご覧いただきありがとうございます。参照資料京都国立博物館 ホームページ補遺谷口吉生 :ウィキペディア谷口吉郎・吉生記念 金沢建築館 ホームページ谷口吉生 :「建築系検索エンジン KenKen!」谷口建築めぐり~金沢が育んだ世界的建築家谷口吉郎・吉生親子の建築~(金沢アーキテクチャーツーリズムモデルコースNo.2) :「金沢旅物語」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 京都国立博物館 -1 特集展示、名品ギャラリー & 噴水広場・西の庭 へこちらもご覧いただけるとうれしいです。探訪 京都国立博物館 建物と庭 -1 平成知新館・明治古都館・噴水のあるエリア探訪 京都国立博物館 建物と庭 -2 馬町十三重石塔・正門・西の庭探訪 方広寺と豊国神社、そして京博の庭から
2022.03.21
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3/9、京都国立博物館に出かけて来ました。 恒例の特集展示「雛まつりと人形」を今年も見たいと思ったからです。特別展ではなく平常展の範疇です。平日の昼前に入館したこともあり博物館への来訪者は少なかった時間帯です。お陰で平成知新館前の庭全体を無人の状態で撮ることができました。館内展示品は撮影禁止ですので、その点は残念ですが仕方ありません。 南門の入口を入ると、右手前方に「明治古都館」が見えます。来館者を入れずに建物全体を撮るという機会がなかなかありません。今回はチャンスでした。 西の庭 南西方向の景色 噴水のある広場を西に眺めた景色 噴水の手前に設置されたロダン作「考える人」の背面、噴水、赤レンガの正門です。 平成知新館に向かいます。いつもの通り3階まで上り、名品ギャラリーを順番に見ながら下って行きました。ここでは、最初に特集展示「雛まつりと人形」をご紹介します。1F-2での展示です。展示は明日、3/21まで。まとめるのが遅くなってしまいました。 展示室入口で入手した「京人形を楽しむための鑑賞ガイド」リーフレット。2つ折のA4サイズです。この表紙の雛人形は「古式享保雛(元禄雛)」(当館蔵)です。 これは鑑賞ガイドからの引用ですが、冒頭の七条通に面して掲示されたPRパネルに使われています。江戸時代、1844年頃の「御殿飾り雛」(寄贈・当館蔵)です。 今回、「御殿飾り雛」はもう一式展示されていました。こちらも1843年(天保14)頃の作品です。出品一覧には所蔵先が空白ですので、個人蔵の展示なのでしょう。おくどさん(台所)や調理道具が飾りに加えられています。上方、つまり関西地方では、この「御殿飾り」が主流で、雛段は二段程度だったそうです。(鑑賞ガイドより)雛人形としては、上掲以外に、立雛(銀杏頭、次郎左右衛門頭)、室町雛、寛永雛、享保雛、次郎左衛門雛、享保雛風古今雛、古今雛、有職立雛(狩衣姿)が展示されていました。(出品一覧より) これは、「見立石橋」(当館蔵)と名付けられた「御所人形」です。御所人形は16躯展示されていました。御所人形は1躯ごとに名前がついています。御所人形は表情としぐさがかわいい。豆御所人形が合計25躯展示されています。 こちらは「賀茂人形」で「雀踊り」(当館蔵)と称されます。他に賀茂人形5躯が展示されています。さらに衣装人形が2躯展示されていました。雛人形の付属品や屏風なども出ていました。さて、平常展示の名品ギャラリーの展示から、覚書を兼ねて印象深かったものをご紹介します。3F-2 考古:「特別公開 四国の弥生土器と弥生・古墳時代の生産-辰砂と鉄ー」の展示を見ることができました。2F-1 絵巻:「地蔵信仰」の絵巻として、矢田寺と壬生寺の本尊として篤く信仰されるそれぞれの地蔵の縁起絵巻が展示されていました。一度見て見たいと思っていた縁起絵巻なのでラッキーでした。2F-3 中世絵画:「天神のすがた」として、束帯天神像と渡唐天神像が展示されていました。渡唐天神像を以前に数回見たことがありますが、ズラリと並ぶと対比して眺められるおもしろさがありました。2F-4 近世絵画:長沢芦雪筆「月下桜図屏風」(2曲1隻)を見ることができました。芦雪は興味を持っている絵師の一人です。これもラッキー。1F-1 彫刻:「四天王と毘沙門天」のテーマで大小様々の毘沙門天像を楽しめました。図像学的な形式は同じでも、甲冑の細部の意匠や腕や手の動きの違い、足下の台座、邪鬼の彫刻の相違などがおもしろい。各展示室を出た後、西の庭と噴水広場を少し散策することに。 紅白の梅が咲いていました。私の印象では、3/9時点で4,5分咲きと感じました。今頃は満開かもしれません。 最後は、私的恒例の定点撮影的に「考える人」へ・・・・。 来館者はあっても、この庭周辺に人が居ないという絶好の機会になりました。平成知新館自体をこのときとばかりに撮ってみました。次はそのご紹介に移ります。つづく参照資料*「京人形を楽しむためのガイド 雛まつりと人形」 京都国立博物館*「特集展示 雛まつりと人形 出品一覧」* 京都国立博物館だより 2022年1・2・3月号補遺京都国立博物館 ホームページ享保雛 吉徳これくしょん :「吉徳大光」次郎左衛門雛 :「文化遺産オンライン」御所人形 :「文化遺産オンライン」御所人形について :「伊東庄五郎 御所人形の世界」賀茂人形 :「文化遺産オンライン」木目込人形の歴史 :「真多呂人形」賀茂人形 :「さがの人形の家」賀茂人形 :「コトバンク」人形辞典 ホームページ ひな祭の歴史 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2022.03.20
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昨日(3/3)標題の展覧会を見てきました。これは美術館で購入した今まででは最も薄っぺらい図録に属する類いの図録の表紙です。「みうらじゅんマイ遺品展」、びっくりさせるようなネーミング。みうらじゅんは現時点では勿論健在で大活躍中です。これがそのままPRチラシの表にも使われています。3月6日で開催期間は終了です。実は、この展覧会の情報は前日まで知らなかったのです。大山崎山荘美術館自体を見たくてホームページにアクセスして知った次第。この展覧会は、当美術舘の開館25周年記念の企画展になったそうです。みうらじゅん氏の出身地が京都ということにも関係しているとか。『見仏記』で、みうらじゅんを知り、関心を抱いていたので、行くなら一挙両得でおもしろそうと思って急遽出かけました。 美術館の表門 当日入手のリーフレットこの山荘が美術館になっています。天王山の山麓にあり、宝積寺の近くに位置します。本人がピンピンしているのに、「マイ遺品展」とはこれ如何に? 館内で入手した展覧会PRチラシの裏に この「はじめに」の原稿用紙文が載っています。これがそのままで図録の「はじめに」にもなっています。みうらじゅんのコレクション、すべてオープンという趣向です。「お遊び精神」が爆発したおもしろい展覧会でした。まずは、この企画展に的を絞って、覚書を兼ね、ご紹介します。 門を入り坂道を上って行くと、みうらじゅんをもじった飛び出し坊やがお出迎え。 レストハウス傍にも飛び出し坊や 大山崎山荘美術館の入口この傍にも勿論、飛び出し坊やがいます。この山荘がいまは美術館となっています。 受付を済ませたとき、入手したのがこの館内順路図です。山荘の本館は2階建てで、山荘内の各部屋が展示室として使われています。本館から2つのウイングが出ています。右斜め上に延びるウィングは「夢の箱」(山手館)につながり、左斜め下に延びるウィングは「地中の宝石箱」(地中館)に至ります。美術館内は撮影禁止だったのですが、山手館の展示室内だけは撮影OKで、一定条件付きですが写真の公開・利用もOKですので、この山手館での展示品を中心になります。今回の企画展、一言でいえば、みうらじゅんのグッズ・コレクションの大公開というものです。それはそれは「お遊び精神」一杯のコレクションが満載されていました。みうらじゅん氏が買い集めたグッズに自分で作った品々も加え、テーマ毎に山荘内の部屋に展示されていました。観光地でのおみやげグッズや、あるブームで様々な意匠で作られたグッズなど、その多様さがおもしろい。例えば、番号1の山本記念展示室には、次のテーマ(観点)でのグッズ・コレクションが整理して展示されています。曰く、金プラ ブーム(プラ=プラスチック)、ユノミン ブーム(ユノミン=湯のみ茶碗)、プリ貝ブーム(貝殻姫と磯の動物たち)、ヤシやんブーム(椰子の実人形)、ひょうたん君ブーム、ヘンザラ ブーム(ヘンな灰皿)、ヘンヌキ ブーム(いちびった形の栓抜き)、メダリオン ブーム、ヌートラ ブーム(ヌードトランプ)、ヌードペン ブーム、ロッキン ブーム(小さなロッキングチェアに乗る多様なもの)、まだまだありますが、以下省略。こんな具合です。山荘の各部屋に、多少ヘンな、奇妙で、あっとおもしろいグッズ・コレクションが澄ました顔して並んでいます。個人の家でコレクションを見せてもらっているというアット・ホームな感じがしておもしろかったです。これがもし、美術館の大規模な展示室内に整然と列をなした陳列ケースを設置し、鑑賞者が順路に沿って整然と見ながら進んで行くとしたら、異様さと滑稽さが増すかもしれません。それでは、撮影OKだった「夢の箱」に飛びましょう。展示室の入口を入ると、正面に展覧会名が記されたパネルが仕切りとなっていて、右から反時計回りに巡る順路になっています。 「フィギュ和ブーム」全国各地の昭和の香りが漂う人形が雛壇にズラリ勢揃い。よく集めたな・・・・が第一印象。 「ゆるキャラ ブーム」が根付いて蔓延していますね。「かなりゆるゆるのキャラクターを『ゆるキャラ』と呼ぶことにした」その名づけ親がなんと、みうらじゅん氏だったんですね。この展示室で初めて知りました。遅れてる~~。振り向くと、「バッグ・オブ・英字ブーム」、帽子を集めた「ギャップ ブーム」 「自ら、ゆるキャラ制作ブーム」として、郷士ラブちゃん、スーパーマンと、この部分撮りしたたいりょうほうさくクンが並んでいます。 大きな「ツッコミ如来立像」が立ち、その両側に「菊人形ブーム」。如来立像の右側にはカエル菊人形が置かれ、 左側には、自分自身の菊人形が置かれています。まあ、順当な発想か。その傍には、この如来さんのオリジナルについて、「縁起」をみうらじゅん氏が記しています。仏師トットリ作。このツッコミ如来立像のオリジナルが展示室2に展示されていました。本物は小ぶりな如来立像です。「この仏像がもしかして千年後も残っていたとして、その時代の人間が発見した時、何を思うのだろう?かつて仏像美術界に類を見ないポーズ。もちろんその由来すら文献にも載ってない。 平安時代あたりに、いったい誰が何を目的で作ったものなのか?未来の学術調査団の頭を痛めはしないだろうか? ある者は、かつて隆盛を極めた新興宗教のシンボルであったと唱え、またある者は海外から伝来した仏像であったと仮説をたてる。何はともあれ、この仏像のとっているポーズの意味に終始、興味が注がれることだろう。『そうなると、やはり重要文化財か?国宝!未来の博物館の陳列ケースに入るってわけだ』 ボクはなんだかワクワクして、鼻息を荒くした。『ツッコミ如来立像』、これがこの仏像の正式名称。人間の生み続けるボンノウに対し、漫才師のように『もう、エーかげんにしなさい!』と、ツッコミを入れて下さる如来様だ。」(転記) 右側壁に「アウトドア般若心経ブーム」街の看板から般若心経の字句を見つけて、「観自在菩薩行深般若波羅蜜多時正見五蘊皆空・・・・・」の写真経をまとめたそうだ。何とおもしろい発想・・・・・。その下には「般若心経ブーム」「ゴムヘビブーム」のコレクションが展示されている。 振り返ると、パネルには、神社で見かけたムカつく絵馬のコレクション。「それはさすがに神様に失礼だろう!」がコレクションのきっかけだそうだ。写真一枚、パチリでパス。 私が一番興味を持ったのがコレ!「コロナ画55(ゴーゴー)」。入口から一番奥の壁に、 こんな感じで・・・図録に記された言葉「コロナ禍で描きあげたキャンバスF-10号の連作で、多分、みうらが死ぬ前に見るだろう走馬灯の作品。展覧会までにその数55枚。ゴーゴーと呼びたいがために頑張った。」ゴーゴーの部分を切り出してみます。 まあ、大体の位置関係は推測がつくでしょう。そういう切り出し方をしたつもり・・・・・・。 「甘えた坊主ブーム」四国に仏像を見に行った時に目にしたものからコレクションが始まったそうだ。 下のコレクションはゆっくりと回転していた。 全国各地で撮られたと思われる写真が山積みになっていた。 「テングー ブーム」周囲の天狗面が山の土産物店での購入品という。 テングーなるキャラを考案し、テングレンジャーを作ったのですって。彼らの合言葉は「山をナメんなよ!」 こんなコレクションも。みうら曰く「そこまで飛び出さなくてもいいだろ!」「やたら立体感があったり、見る角度で絵が変化したりする印刷物の名称は『レンチキュラー』が正しい」(図録より)という。この用語、この展覧会で初めて知った。 「冷マ ブーム」冷蔵庫にびっしりと貼られた宣伝用マグネット。ウチのポストに繰り返し投げ込まれているのは水道工事の宣伝用マグネット。嫌になる・・・・即、燃えないゴミに仕訳しなくっちゃならない。無駄なアクションがいる!都会にはどんな類いのマグネットが多いのだろう・・・・・。 入口の片方隅には檻があり、ここは「ワニック ブーム」みうらじゅんの人形が中に一緒に入っている。ワニによるパニックを縮めてワニックだとか。この人形の表情の意味は? こんなところで、山手館はぐるりと多様なブームを楽しみました。これが一部なんです。ホントに雑多なコレクション。しかし、そこに社会諷刺の意味を含む、あるいは楽しんで集めたもののコレクションが満ちていました。楽しさとおもしろさと、一方でアイロニーがつまっています。ある観点でコレクションすると、そこに意味がカミングアウトしてくるんですね。あるいは、意味を涌出させたいためのコレクションなのか。ただ、おもしろいだけの楽しみなのか。興味深い。 本館2階のテラスから。その傍には行けないタワー風の「栖霞楼」に近いところで目にとまった飛び出し坊や。もう1ヵ所、東屋(休憩所)に近い広場に置かれた彫刻像の近くにも。 後日ご紹介する予定ですが、美術館から出た後、この山荘の庭園を散策しました。東屋の方向に散策する途中で、地中館へのウィングの端が見える通路を進みます。 その時、上掲の鑑賞の順路で言えば、番号7の位置に、一体だけ置かれた彫刻の背面が見えました。デジカメのズーム機能で撮ったのがこれです。「ヌー銅ブーム」として、この一体が展示されています。背面からは想像できないでしょうが、正面からこの像を眺めると、「何故か顔は僕で、体がタレントのMEGUMIちゃん。」(図録より)というヌー銅です。上掲のいくつかの写真を参照して、イメージを作って見て下さい。みうらじゅん氏はヌードの銅像をヌー銅とよぶことにしたそうです。他にどのようなヌー銅がコレクションされているのだろう・・・・・。展示室2には、みうらじゅん氏が少年時代から始めたという各種のスクラップブックが様々なブームごとに展示されていました。「仏像スクラップブーム」として展示されていたスクラップブックに特に関心を持ちました。小学4年の時から始めたというから驚き。「スクラップ帳に拝観券やパンフから切り抜いた仏像写真を貼り、感想を添えた」というものです。色もかなり褪せ年代物と感じさせるスクラップブックでした。それらが底辺に蓄積されていて、『見仏記』という、いとうせいこうとみうらじゅんの二人三脚による仏像見聞(検分)シリーズが花開いているんだな・・・・・納得! 少年時代から培われた感性が脈打っているんですね。これで「お遊び精神」一杯、もちろんそれだけではない「みうらじゅんマイ遺品展」のご紹介を終わります。ご覧いただきありがとうございます。参照資料当日入手したリーフレットと館内順路案内図図録「開館25周年記念 みうらじゅんマイ遺品展」 アサヒビール大山崎山荘美術館発行補遺みうらじゅん OFFICIAL WEB SITE PROFILE みうらじゅん :ウィキペディア開館25周年記念「みうらじゅん マイ遺品展」 :「アサヒビール大山崎山荘美術館」ゆるきゃらグランプリ OFFICIAL WEBSITE ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2022.03.04
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吉城園のご紹介で載せた写真です。ここを起点に吉城園周辺の現在の景観を点描風に補足してご紹介します。 吉城園の傍を流れる吉城川の北側には、「依水園」があります。川を挟んで、南北に隣り合っています。いずれこちらも探訪してみるつもりです。この園内では、寧楽美術館と庭園を拝見できます(有料)。 吉城園を出て、築地塀沿いに西に進みます。少し西に歩むと、「吉城園」の扁額を掲げた表門がありました。ここは閉まっています。 更に、西に進んでから振り返ると2022年1月時点での景色はこんな感じです。依水園・吉城園の背後には若草山が見えます。手前はわりと幅のひろい道路です。この道は北方向へ屈折して続いています。右側の築地塀の所に、赤いコーンが置いてあり、その先にも白いカバーを掛けたものが置かれています。実は現在、この築地塀の南側は整備工事が進行中なのです。 築地塀の傍に工事内容を掲示してあります。そこに載せてある「土地利用計画図(配置図)」を写真に撮りました。周辺の点描風案内のため、加筆加工してご紹介に利用します。小さな赤色の丸(追記、以下同様)が冒頭の吉城園の受付所前の門で、空色の丸が扁額を掲げた表門。南西方向の庭園が吉城園(Y)です。Yの文字の南側が茶花の庭。黒い線の北側のIの文字辺り一帯が依水園。空色の丸の南西側は、この周辺の整備計画の一環として建つ予定の新築建物群です。つまり上掲の赤いコーンが置かれている築地塀の南側。この辺りが2階建て規模のホテルになりそう。(資料1)2022年の後半、このあたりの築地塀はそのまま残っているのでしょうか。道路環境もリノベーションされているのでしょうか。築地塀沿いに国道369号線手前の歩道まで歩きます。 国道に出る手前で、北方向には池のある景色が広がります。大きなマゼンタ色の丸を追記した所です。このエリア、「みとりゐ池園地」と称されています。池の名は「みとりゐ池」。この名前は、この場所から春日大社一の鳥居が見渡せたことに由来するそうで、「見鳥居」池とも。(資料2)また、後世に「みとゐ池」や「みどり池」という呼び名に転じたという説もあります。(後掲の案内板より) 歩道を北に少し進み、池の西側から東を眺めた景色。時代劇のロケ地になりそうなシーン。この景色、どれくらい時代を遡れる景色でしょう・・・・。 池の畔に「轟(とどろき)橋」と刻された石碑が立っています。 近くに、「京街道と南都八景」というタイトルでの案内板が設置されています。 少し北には、「雲井阪」と刻したもう一つの石碑が立っています。案内板の説明とその他資料を併せて簡単にまとめてみます。 掲示の地図を切り出してみました。現在の国道369号線は、奈良時代の都である「平城京」の東端「東七坊大路」が南北に通じていたところをそのまま踏襲しているそうです。この東七坊大路は、平城京の「外京」と称されたエリアの東端になります。別名「東京極大路」です。外京のエリアに現在の奈良市が位置している対応関係になります。この大路の東側は東大寺の境内、西側は興福寺の境内が広がっていたようです。(資料3,案内板)そして、江戸時代には「京街道」とも称され、奈良と京都を結ぶ主要道路の一つとなっていたそうです。江戸時代に出版された『大和名所図会』(寛政3年編纂)には「轟橋」の項があり、「東大・興福両寺の中間、押明門の南にあり」と簡単な説明を加えています。そして、 打渡る人めも絶えず行く駒のふみこそならせとどろきの橋 多宗 『奈良八景』と詠まれた歌を掲載しています。(資料4)京街道を往来する人々が途切れることなくこの轟橋を渡っていたと歌に詠まれています。このみとりゐ池から流れ出る小川が京街道と交差する所に「轟橋」が架けられていました。この橋「東西4間4尺(約8.5m)、南北1尺1寸(約0.4m)の小さい橋」(資料5)だったと言います。雲井坂は、「とどろきの橋の北にあり」(資料4)と『大和名所図会』は明記しています。そして、次の歌を載せています。 村雨の晴間に越えよ雲井坂三笠の山は程ちかくとも 藤原為重 『奈良八景』現在の国道は緩やかな道になっています。これは昭和初期に道路が整備される時になだらかに改良された結果だそうです。(資料5)江戸時代の「当時は荷車を押して上がらなければならないほどきつい坂だった」(案内説明より)と言います。 『絵本通宝志』には、こんな絵が載っています。享保14年(1729)発行・安永8年(1779)再刻の再刻版。(資料6) 左は「轟橋行人」図で、右は「雲井坂雨」図です。この絵の橋のイメージと上記轟橋の橋幅の説とは整合しない印象が残ります。時代による違いがあるのかも知れませんが。雲井坂はちょっと厳しい坂だったというイメージは整合しますね。雲井坂には、怪物にまつわる話が伝承されているそうです。孫引きになりますがご紹介します。「一、今は昔、理源大師が、大峰山に登ったとき、大蛇が現れ、雲井坂まで追ってきました。このとき、黒雲が大師の前を覆ったので、雲居坂と呼ぶようになったと言います。その時、鈴谷左近将監が剣で大蛇を退治したので、大師はその霊をまつったということです。 二、今は昔、東大寺西大門があったころ、この門に掲げられた額を舐めに毎夜のように龍が舞い降りました。この龍が雲を巻き上げたことから雲居坂の名がついたと言うことです。 三、今は昔、蜘蛛が空中から降り、額を舐めるのを弘法大師が鎮めたため、その後は異変が起こらず、蜘蛛降坂とよんだとか。」(資料5)『大和名所図会』に記す「押明門」はどの辺りかと調べてみましたが不詳です。雲井坂の石標のある近くに、上掲の地図を見ますと、「押上町」のバス停が表記されています。地名「押上町」の押上と「押明門」の押明がひょっとしたら転訛という形でリンクしているのかもしれないな・・・・ふと、そんな気がしてきました。ここでも課題が残りました。さて、この辺りで「登大路町」交差点に戻り、ここから歩道沿いに「県庁東」交差点まで南進します。 登大路町交差点から南西方向の景色 南に歩み、振り返った景色。東側の白い築地塀の向こう側は、登大路町交差点に近い側に「知事公舎」があります。一方、県庁東交差点に近い側に、塔頭寺院旧世尊院があります。こちらの既存の建物は改修整備されるようです。旧世尊院は多目的ホールとしての活用されるとか。古都の景観を壊さずに、どのように変貌するのでしょうか。この松林一帯はそのまま維持されるようです。 「県庁東」交差点に近いところで、築地塀前に石柵で囲まれた石碑が建立されています。石柵の前に駒札が建ててありますが、褪色して読みづらくなっています。駒札が「中村直三農功之碑」と記されていることがかろうじて判読できます。顕彰碑が建立されているようです。水原民造著『中村直三農功之碑 : 附・略伝』が国立国会図書館に所蔵されているのが分かりました。(資料7) こんな道標が歩道脇に立っています。「右 大坂 □せ 左 うぢ □」(私には二文字を判読できません。) 交差点の地下歩道入口傍に、万葉仮名で刻された万葉歌碑がぽつねんと立っています。 見渡者 春日之野邊尓霞立 開艶者桜花鴨何とか文字を識別するとこんな文字列が刻されています。手がかりになりそうな部分を判読して、調べてみると、 見渡せば春日の野辺に霞立ち咲きにほえるは桜花かも 巻10-1872という歌です。巻10の春雑歌、花を詠める20首の19番目に載っています。(資料8)、何の説明もないので、多くの人には意識の外にある石造物に過ぎなくなっているかもしれません。意識的に写真を撮っていなかったら、私も多分気づかずに、スルーしてしまっていたでしょう。 築地塀の南端傍に「拍子神社」があります。春日大社の境外末社です。(青色の丸を追記した所)かつてはこのあたりも境内の一部だったあのかも知れません。祭神は拍子神(ひょうしのかみ)。「南都楽所の祖で鎌倉時代の雅楽の達人狛近真をお祀り申し上げる御社」(駒札より部分転記)だそうです。諸芸発達の神様です。吉城園周辺がどのように変貌するのか・・・・想像しつつ、いつか対比的にその変化を確認できることを楽しみにして、現状の周辺観察を終わります。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1)【奈良市】森トラスト 吉城園周辺地区保存管理・活用事業 2021年4月 :「URBAN-NOTES」2) みとりゐ池園地 :「奈良公園」3)『新選 日本史図表』 監修 坂本賞三・福田豊彦 第一学習社4) 大日本名所図会. 第1輯 第3編 :「国立国会図書館デジタルコレクション」5) 旧京街道と押上町、今小路辺り :「奈良きたまち~歴史のモザイクのまち~」6) 『絵本通宝志』 日本古典籍ビューア:「人文学オープンデータ共同利用センター」7) 中村直三農功之碑 : 附・略伝 :「国立国会図書館デジタルコレクション」8)『新訓 万葉集 上巻』 佐佐木信綱編 岩波文庫 p407補遺平城京 :ウィキペディア大和名所図会. 巻之1-6 / 秋里舜福 [著] ; 竹原信繁 画:「早稲田大学図書館」【轟橋(南都八景)】歩道に埋め込まれた石材が小さな橋の唯一の面影 :「奈良まちあるき風景紀行」中村直三農功之碑 :「グルコミ」中村直三 :ウィキペディア中村直三 :「コトバンク」第十巻 : 見わたせば春日の野辺に霞立ちも :「たのしい万葉集」万葉の古都奈良 :「菊一文珠四郎包永ブログ」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 奈良市 「吉城(よしき)園」3つの庭を楽しむ -1 池の庭 へ観照 奈良市 「吉城(よしき)園」3つの庭を楽しむ -2 離れ茶屋と苔の庭 へ観照 奈良市 「吉城(よしき)園」3つの庭を楽しむ -3 茶花の庭と戻り道 へ
2022.02.16
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苔の庭から「茶花の庭」へはこの道標が誘いとなっています。 吉城園の3つの庭の配置図を再掲します。苔の庭の北東隅が起点になります。 階段道を上って行くと、「あずまや」が見え始めます。 小径沿いに進むと、コンクリート製の素朴なベンチが置かれています。 回り込むと、「あずまや」の全景が見えます。中央の柱をベンチがロの字形に囲み、周囲をぐるりと見わたせるふつうのあずまやです。庭園の公開にあたって整備されたあずまやという印象を抱きました。この茶花の庭は、その名のとおり茶席に添える季節感のある草花などが植えられているそうです。全体は素朴な雰囲気の庭になっています。今は冬涸れという感じですが春、夏、秋と季節に応じた花々が咲き、瑞々しい一輪の花が離れ茶室の床に生けられるのでしょう。あずまやの周囲を眺めてみましょう。 茶花の庭の南西側からの眺めです。 左側の小径を歩み、あずまやに近づいた景色です。小径沿いに枯山水の川の流れが作られています。春の景色がいいでしょうね。 あずまやから少し離れて 庭の一隅に立つ石碑が目にとまりました。 近づいてみますと、「ことり塚」と刻されています。小鳥たちの供養墓として建立されたのでしょうね。茶花の庭は、春・秋には華やかさを加えた庭に変貌するのだろうなと想像しながら、受付所の方に戻ることにしました。 苔の庭を東側から眺めた景色。西端に離れ茶室が見えます。 石灯籠の位置からどの辺りになるかをご想像ください。茶室側からこの苔の庭を散策する人が来ます。 この石灯籠、火袋は東西方向だけに火口があけられています。 苔の庭の小径をこの先で右折します。 吉城川沿いの石敷道に出ます。これらは振り返って撮った景色です。道の高さに近い位置に築地塀の瓦屋根が見えています。吉城園の吉城川沿いの境界塀です。川を挟んだ北側は「依水園」です。 石敷の小径を進行方向で撮った景色です。 苔の庭からは一段低い位置になる北辺を歩いていることになります。 この辺りも築地塀の屋根が小径とほぼ同じ高さになっています。 振り返った景色。右斜め上方向の先に、離れ茶室の萱葺き屋根が見えています。 受付所のすぐ近くの「あずまや」を見上げながら、その傍の小径を進みます。 吉城川沿いの築地塀が、小径よりも高く普通の築地塀の位置関係に見える形になってきました。 その先に受付所の背面が見えてきました。これで、偶然に出会った庭園「吉城園」のご紹介を終わります。いずれ季節を替えて、花の咲く時季の景色を、リピーターとして再訪したいと思っています。ご覧いただきありがとうございます。参照資料当日、受付所でいただいた「吉城園」(園内案内)のリーフレット補遺隠れた奈良公園にある日本庭園『吉城園』|奈良観光コンシェルジュが奈良市の庭園をご紹介:Yoshikien Garden in Nara City|Nara YouTube奈良の庭園 依水園 ホームページ奈良県)県立奈良公園2カ所に高級宿泊施設 公共空間の利用、経済力の有無が左右 県が富裕層狙い誘致 2017.12.15 :「ニュース 奈良の声」【奈良市】森トラスト 吉城園周辺地区保存管理・活用事業 2021年4月 :「URBAN-NOTES」奈良)奈良公園ホテル、開業は2022年夏ごろに延期 :「朝日新聞DIGITAL」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 奈良市 「吉城(よしき)園」3つの庭を楽しむ -1 池の庭 へ観照 奈良市 「吉城(よしき)園」3つの庭を楽しむ -2 離れ茶屋と苔の庭 へ
2022.02.15
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順路の分岐点に戻り、離れの茶室への石段道を上ります。 石灯籠、そしてその手前に手水鉢が置かれています。 萱葺き屋根の離れ茶室の玄関口に向かうと、 正面の板戸の向こうに広がる庭が目に入ります。 玄関口の板の間左側は一部が竹の柵で囲われ、その前に「羅浮山(らふさん)」という題の案内板が設置されています。「板張り床の向こうに、騎馬武者を描いた杉戸絵があります。その上に掲げられた扁額は『羅浮山』と書かれています。『羅浮山』とは、中国・広東省増城県北東の大洞窟のある仙術修験の山です。後水尾天皇の第16皇子の真敬親王(1649~1706)が、彼の姉で、第1皇女の文智女王に長く仕えた、上臈尼が所蔵していた手水の立石(後にこの茶室の玄関の左手にしつらえられた)のたたずまいを、ご覧になって、『羅浮山』と命名されたと言われています。」(転記) この案内文に2つの注釈が付けてあります。「・真敬親王は一乗院門跡、興福寺別当を務められた。御陵は吉城園北東500m、東大寺境内の一乗院墓地である」この最初の注釈は先日、スポット探訪としてご紹介した陵墓に祀られている法親王の一人ということで思わぬ繋がりがありました。「・文智女王は、1610年の21歳で、尼寺の円照寺(山村御殿)を開かれた。」 玄関で少し右方向に目を転じますと。説明にある扁額と杉戸が見やすくなるとともに、この離れ茶屋の間取りも大凡が解り始めます。玄関の土間から建物内部を拝見するだけなのが残念でした。(この茶室は手続きして茶室利用料金を支払えば利用できるそうです。) 玄関口からのズームアップで 玄関口から東に広がる苔の庭への散策路の景色をズームアップしてみました。この離れ茶室を外回りで拝見してみましょう。 玄関の土間を出て、左側を眺めた景色 玄関へのアプローチの途中、少し右奥側にある門扉 斜めからの屋根の眺め 離れ茶室から少し西に離れて、散策路の分岐点からの眺め 少し離れた位置の散策路を回り込むとき、北側からの景色 離れ茶室の西側に回り込みます。 建物に近づき、北側面から眺めた景色。軒を支える柱は、丸木の自然の歪みをそのままに利用されています。 鉄製吊り灯籠が素朴な風情を漂わせています。 西側からの全景 苔の庭(西側)の散策路から離れ茶室に近づきます。 自然石敷きの小径の間に大きな建物の礎石に使われたような加工石と飛石が置かれ小径のアクセントになっています。さて、ここで垣根を入った路地側は、まず東端まで行った景色から順次ご紹介していきます。 表側の門扉から露地伝いに入ってくれば、まずこの待合に至り、ここに留まる形でしょうか。 待合側に立って、離れ茶室の南側面を眺めた景色 右側は離れ茶室の南側面です。左側の簡易な竹垣を挟み、南側には 蹲が設けてあります。かなり苔蒸している手水鉢です。細い丸竹で水が引きこまれています。後には奇妙な形の石灯籠が置かれています。由緒のあるものかも・・・・・。 こちらが茶室の躙り口のようです。 離れ茶屋を南東側から撮った景色それではこの分岐点の標識を起点に、「苔の庭」へと歩みましょう。 庭園の北辺寄りの道を進むとこんな感じで苔の庭に進んでいくことになります。 離れ茶屋に近い散策路を起点に進むと、 苔の庭は、小雨気味の方が瑞々しさが際立ってくるかもしれません。何種類くらいの苔が使われているのか不詳ですが、東西方向に平坦な地形と起伏のある地形が巧みに組み合わされて広い空間となり静寂さを漂わす庭が広がっています。人影を見ることなく広い苔の庭を散策できてハッピーな時間でした。苔の庭の南西隅から「茶花の庭」に向かいます。こちらは地形が高まって行きます。吉城園では一番高い位置になる場所です。つづく参照資料当日、受付所でいただいた「吉城園」(園内案内)のリーフレット補遺吉城園 :ウィキペディア【円照寺(山村御殿)】内部は非公開の「日本を代表する門跡寺院」の一つ :「奈良まちあるき風景紀行」(奈良)「正午の祈り」続ける圓照寺の萩原道秀門跡に聞く:「朝日新聞DIGITAL」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 奈良市 「吉城(よしき)園」3つの庭を楽しむ -1 池の庭 へ観照 奈良市 「吉城(よしき)園」3つの庭を楽しむ -3 茶花の庭と戻り道 へ
2022.02.14
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これも意図せぬ偶然のうれしい出会いです。 わかりやすい道筋でその位置(奈良市大路町60番地の1)をまずご説明しましょう。奈良県庁北側の東西の道路と国道369号線との交差点「登大路町」を横断して、東に進みます。道路は突き当たりで左(北)方向にカーブします。道路右側の築地塀ぞいに歩けば、この案内板が設置されています。案内板に庭園図が載っています。その先に冒頭の門が見えます。まず、入園料が無料という案内に目がとまりました。奈良県立美術館や国道369号沿いは幾度か来ていますが、こちらの奥の道まで足を向けたことがありませんでした。 こちらは当日受付所でいただいたリーフレットから切り出した園内案合図です。この場所には「興福寺古絵図」によれば興福寺子院「摩尼珠(まにしゅ)院」があったそうです。明治に民間の所有となり、平成元年(1989)4月1日より、「吉城(よしき)園」として、庭園鑑賞と茶会利用のために開園されたと言います。(資料1)開園当初は入園料が必要だったそうですが、2020年4月より無料公開になっています。現在は奈良県が所有。(資料1,2) 門を入ると、目前に受付所があります。その右傍に順路標識が立ち、石段の小径です。 石段を上ると、すぐ左に割と急な石段道があり、頂上に「あずまや」が見えます。このあずまやは池の庭全体から見れば、築山に相当する位置づけで、築山にあずまやが建っているというところです。自然の地形が巧みに利用されています。 東屋の天井には竹が使われています。竹の褪色が歳月を感じさせます。 あずまやから「池の庭」を見おろした景色です。池の東側に「旧正法院家住宅」(吉城園)が見えます。この邸宅「吉城園」は正法院寛之という実業家により、大正8年に造られたと言います。正法院氏は、かつて東大寺の僧侶の家柄だったと推察されているそうです。(資料3)平成23年3月、大正期の近代和風住宅として、奈良県有形文化財に指定されています。(資料1) あずまやから南側の石段道を下ります。 振り返って石段道を撮ってみました。 池の北辺を回り込み、主屋側を拝見。砂利の庭に飛石が敷かれていて、建物の縁側に誘う小径が設けてあります。住宅は非公開。 旧正法院家住宅(吉城園) 池の北辺側から眺めた景色 池の東側を順路にそって歩み、途中で振り返って、北西方向を眺めた景色 池の西側の景色 庭園内の小径は、「苔の庭」への道(順路)と「離れ茶室」への道に分岐します。 まずは離れ茶室側に行きます。途中、池の庭の南西側への小径をまず探訪。 池の南辺側は深く切り込まれた渓谷の風情を漂わせて、南端に滝が設けてあります。 主屋の南側に回り込むと蔵が建てられています。この先で行き止まり 池の南から北方向を眺めた景色 池の畔に、石灯籠の残闕(中台・火袋・笠)が置かれています。火袋の一面には、楽しげな唐子が浮彫にされているような印象を受けます。 離れ茶屋への小径に進む前に見かけた「十三重塔」です。石塔の背後に茶室の藁葺屋根が見えています。離れ茶室のある場所は、池の庭より一段高い位置になります。丘陵状の地形の起伏を巧みに取り入れた作庭が施されています。つづく参照資料1) 当日、受付所でいただいた「吉城園」(園内案内)のリーフレット2) 吉城園 :ウィキペディア3) 奈良の名庭園邸宅「吉城園」~近代和風と寺院様式の織りなす名建築~ :「ABS朝日」補遺吉城川 ― Yoshiki-river ― :「奈良観光.jp」奈良県景観資産-奈良公園内を流れる吉城川- :「奈良県」奈良公園を流れる川 吉城川水系 :「川を訪ねる旅」吉城川の想い出(1) :「安達正興のハード@コラム」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 奈良市 「吉城(よしき)園」3つの庭を楽しむ -2 離れ茶屋と苔の庭 へ観照 奈良市 「吉城(よしき)園」3つの庭を楽しむ -3 茶花の庭と戻り道 へ
2022.02.13
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1月に奈良国立博物館に出かけたことは既に拙ブログに書き込みました。JR奈良駅から三条通を東に上って行き、猿沢池の北西辺が見え始める辺りで、道路の左側に見える興福寺への石段道を上り、南円堂を眺めつつ右折して興福寺境内を横切って行き、奈良公園に向かいます。それがいつもの私の往路ルートです。冒頭の景色は、石段の途中から三重塔へむかう道を撮った景色。この日、久々に三重塔への道に何気なく足を踏み入れました。三重塔までは幾度も行っています。手前の大木の前に立つ板碑には、右から「救世観世音菩薩 出世地蔵尊 延命能師地蔵尊 水子地蔵尊」と刻されています。ここには数多くの石仏が祀られています。 地蔵尊の傍に小児が寄り添うように立っています。台座の正面には「延命地蔵尊」と刻まれています。この辺りの石仏等は以前にご紹介していますので省略します。 少し先に、「三重塔」があります。 その手前で北方向への坂道 南方向はというと、境内の門が閉まっています。扉の隙間から撮った景色。三条通へ出られる坂道です。ここはずっと閉鎖されていますので、今まで気にしたこともありませんでした。この北への坂道を歩くことがありません。遠回りになるのを承知でこの坂道を上がって、普段と違った視点からの景色を見つつ、興福寺境内を横切ることにしました。 この三重塔は普段は非公開。一度、特別公開の機会に運良く出くわし拝観したことがあります。調べてみますと、「7月7日のみ内陣公開」と公開情報の記載がありますので、その日だったか、あるいは何らかの特別公開期間に該当していたのでしょう。この三重塔婆は国宝です。平安時代末期の1143年、崇徳天皇の中宮の皇嘉門院聖子が建立しましたが、1180年に焼失し、間もなく再建されたと言われています。鎌倉時代の建物で、平安時代の建築様式を伝えているそうです。興福寺の伽藍の中では、北円堂と共に最古の建物になります。(資料1)丘陵上の境内地では一番低い位置に立地する建物です。通常の年に中金堂や五重塔あたりに観光客を大勢みかけても、この三重塔前ではあまり観光客を見かけません。 坂道を途中まで上ると、正面に見えるのが「北円堂」だとわかります。坂道の左側は築地塀、右側は木柵です。 右に「南円堂」の普段は目にしない背後からの景色が移ろっていくのを眺めつつ坂道を歩むと、正面には北円堂が少しずつ大きく見えてきます。 北円堂運慶一門が作った本尊弥勒菩薩坐像とその脇侍される無著・世親の像が安置されていることで有名です。創建堂とその後2回の焼亡と再興の時代は藤原氏、氏人の追善供養堂でしたが、平重衡の南都焼き討ちで焼亡しました。その後28年の歳月をへて鎌倉時代に現在の北円堂が再興されました。その時には法相宗祖「弥勒の太閤」と位置づけられ、僧侶達の宗祖師堂へとその機能が変容していったそうです。(資料2) 北円堂の南側の道路から、「中金堂」と北側の「仮講堂」を眺めた景色。まだまだ周辺の整備作業(/調査)進行中のようです。 北円堂の南側の道を進み、右折して南円堂の方に戻ります。定規筋の入った築地塀と門が見え、その南側に二階建の建物「納経所」が見えます。納経所の右側にみえる八角形の屋根が南円堂です。その間に低く見える寄棟造屋根の建物が「一言観音堂」(興善院)です。三条通から石段を真っ直ぐに上がってくると、境内地の突き当たりに一言観音堂、斜め左側手前に南円堂、一言観音堂の右側に納経所の建物という景色が目に入ります。この納経所まで戻れば、左折して無料休憩所の前を過ぎ、左側に中金堂の南面を眺めながら五重塔前まで横切り、さらに東金堂と五重塔の間の道を東進することになります。一言観音堂は「霊験七観音巡拝所」の一つです。一言だけ願いを聞いてくださる観音さまだそうです。「古くから霊験あらたかにして諸々の願い事を一つづつ聞き届けて下さる御仏であります。一度に多くを願わず成就すれば次のお願いをするようにしましょう」という説明が掲示されています。(資料3)奈良には、葛城一言主神社があります。一言主神への祈願と同じような祈り方ということになりますね。この一言観音堂は4月17日の「放生会」の法要が行われるお堂でもあり、貫首が金魚たちに仏教の戒律を授けるというユニークな儀式をおこなって、猿沢池に放つそうです。(資料3) 奈良公園に入れば、奈良国立博物館常設の展示案内板です。 奈良公園内の道を奈良博に向かって歩き途中で立ち止まって前方と振り返った景色を撮ってみました。平日の昼間だったとはいえ、こんな様子です。コロナ禍の影響が大きく影響しています。 少し先で、北東方向を見ても、人の姿は見えません。右奥に見えるのは奈良国立博物館の旧館です。北側の大きい建物が「なら仏像館」と現在は名称を変えています。中央の大きなホールを軸にして、南北に張り出した建物の部分が展示スペースと回廊になっています。それに繋がっている一番手前の建物が「青銅器館」として使われ、中国古代青銅器<坂本コレクション>の常設展示室となっています。(資料4) 新館の手前まで来ても、こんな感じで休館かと勘違いしそうな閑散さでした。あとは、奈良博の西新館の1階テラスからの庭の冬の景色を、記録を兼ねご紹介します。 プシュ式のスライド・ドアからテラスに出ると、ほぼ長方形の池が庭園内の池と繋がる形で存在し、庭園公開時以外は、庭側の門扉が閉まっています。外に出た辺りで南東側から南西側を眺めた景色です。 立ち位置を少しずつ変えて眺めて行きます。 池に水草がないので、庭園内の池との接合部もスッキリと見え、少し位置を変えることで、水面に映る樹木や空が変化し、雰囲気も変化します。 萱葺き屋根の建物は茶室「八窓庵」です。テラスには、「八窓庵」の案内が設置されています。江戸中期に創建され、草庵式・入母屋造萱葺平入屋根、柿葺の土間庇という様式で、古田織部好みの茶室です。「もとは興福寺大乗院の庭園(現在の奈良ホテルの南)に建っていた古茶室。奈良の篤志家たちにより、明治25年(1892)に博物館に寄贈、移築された。一名、含翠亭という。 東大寺四聖坊にあった隠岐録(おきろく、東京に移築、戦災で焼失)、興福寺慈眼院の六窓庵(東京国立博物館に移築)と併せて「大和三茶室」と称された。創建当初の姿を良く保っており、茶室(四畳台目)に相の間(四畳)と水屋(三畳)が附属する。織部好みとされるこの茶室は、千利休の好む極端に狭い茶室から、小堀遠州が好んだ四畳半台目のゆったりとした茶室に移行する中間のきわめて貴重な遺構である。」(転記) テラス側のほぼ長方形の池と、庭園内の池とはこのように繋がっています。 西新館側から庭に入り、宝篋印塔が置かれた手前の小径を西に歩めば、上掲の平石の架け橋に至ります。 池の奥側つまり南側には、もうひとつの木橋が架けてあります。 木橋の東詰には待合の建物が立ち、橋を西に渡ると茶室への門扉が見えます。門扉から八窓庵の躙り口までの景色を奈良博の「茶室 八窓庵」のページに360度の展望ができるように工夫してあります。こちらからご覧ください。(今回、調べていて気づきましたので・・・・ご紹介) テラスから、八窓庵の妻側(側面)の眺め 手前に、「宝塔(国東塔)」が置かれています。石製で鎌倉時代14世紀の作とのこと。(資料5)この宝塔の姿を関西では殆ど見かけません。ユニークさに溢れる形状です。法華経見宝塔品に基づく一種の宝塔で、天沼俊一博士により「国東塔」と命名されて以来、これが愛称されるようになったと言います。塔身の首部に穴が作られていること。塔身の直下に蓮華座や反花よりなる台座があること。相輪の頂上に火焔のあることなどの特徴を持っています。九州の国東半島に分布し、その周辺にも点在すると言います。ある時点での酒井富蔵氏の調査結果によれば、有銘32基、無銘113基計145基に及んでいるそうです。西三郷(西国東)に圧倒的に多くが分布し、東三郷(東国東)には数量は少ないが優秀品が集まっていると言います。鎌倉末期から南北朝期に有銘塔が多く、室町期には殆ど無銘塔になるとか。石材は一部凝灰岩を除き、ほとんどが角閃安山岩だとか。銘文の調査によれば、納経、供養、逆修(生前供養のため)、あるいは墓標として建立されています。国東仏教文化遺産の代表としては弘安6年(1283)造顕の岩戸山国東塔(重文)があります。岩戸寺は六郷山・末山本寺の名刹です。(資料6) 西新館の南西隅から北方向の景色。 南西隅から東方向を眺めた景色。テラスに沿い設けられた池は西新館の北、西、東の三方を囲っていることがわかります。 同じ位置から庭側を眺めた景色そして、 小ぶりな石造物が木の根本にちょこんと置かれているのに気づきました。これは何? 人物像のように見えますが、石塔の欠損部材でしょうか・・・・正体不明。課題が残りました。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1) 三重塔 :「興福寺」2)『比べてもっとよくわかる仏像』 熊田由美子著 朝日新聞出版 p1953)[興福寺一言観音堂]放生会の会場にもなる小さなお堂で「一言」の祈りを捧げる :「奈良まちあるき風景紀行」4)なら仏像館 建物について :「奈良国立博物館」5) 宝塔(国東塔) 画像データベース :「奈良国立博物館」6)『国東文化と石仏』 文 大嶽順公 写真 渡辺信幸 著 木耳社 p92-93,p98補遺興福寺 ホームページ 境内案内葛城一言主神社 ホームページ一言主神社(御所市) :「いかすなら」妙法蓮華経見宝塔品第十一 :「広済寺と近松門左衛門」国東塔 :ウィキペディア岩戸寺(国東市) :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)1月の奈良博での特別展については、こちらをご覧いただけるとうれしいです。観照 奈良国立博物館 名画の殿堂 藤田美術館展 -傳三郎のまなざし-
2022.02.10
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1階南辺の回廊に回ると、北側壁面に「綴プロジェクト」製作の高精細複製品6曲1双の屏風が2組展示されています。 回廊の南側はガラス壁面で京博の明治古都館、ロダン作考える人像、西の庭が一望できます。庭に出てから眺める景色とはまた違った雰囲気を味わえます。ここに展示されている「綴プロジェクト」が製作された高精細複製品の屏風は、京博に寄贈された作品です。日本のデジタル複製技術の高度な水準が発揮されています。「海外に渡った日本の文化財」を一般美術愛好者として手軽に傍近くで鑑賞できて有益です。たとえば、京都・建仁寺・方丈の襖絵、海北友松筆「雲龍図」も現在は高精細複製品で代替され、原本の絵は文化財保護の観点から軸仕立てにされて保存管理(京博への寄託)されています。建仁寺で代替後の襖絵を眺めました。ここにも綴プロジェクトが関わっています。「雲龍図」の絵と雰囲気を味わうには遜色ありません。高精細の美術書を楽しむのと変わらない。それより、現地現物の建物空間の中で本来の襖絵(障壁画)として鑑賞できるという点がいいし、写真撮影が可能になっていたのもうれしいことでした。(拝観時点の話。今も多分同じだと思いますが。)回廊に展示された屏風は撮影OKでしたのでご紹介できます。 右隻 式部輝忠筆「四季山水図屏風」(サンフランシスコ・アジア美術館所蔵) 左隻室町時代、16世紀の作品 傍にこの案内板が設置されています。それでは各隻を、右側から順次二扇ずつ部分図として眺めていきましょう。 第1・2扇 山水図は多くの場合、その絵の要所に人や馬、舟などが点描されています。その小さな点描が山水の風景の広がり、大きさを相対的に引き出し、さらにその情景にストーリー性を付与するのでしょう。鑑賞者がその点描された人に同化していくことによって・・・・。この山水図には、第1扇の下部、小径の途中に一人の人物と従者が描かれています。 第3・4扇 第5・6扇この右隻から左隻に目を転じていきましょう。 左隻第1扇と右隻第6扇に注目するとこのように連続していきます。 目を移動させていくことで、雄大な山水風景が広がっていきます。 第1・2扇 第3・4扇 第5・6扇細部を見ていくと、要所要所で人がいることに気づきます。その箇所をクローズアップしておきましょう。 全景の中のどの辺りかお確かめください。 回廊の西側から眺めた屏風の全景西側の屏風に移ります。こちらは以前にも撮っており、各隻全体の写真をうっかり撮り忘れました。右隻から二扇ずつ、眺めていきます。 第1・2扇 第3・4扇 第5・6扇左隻に移ります。 第1・2扇 第3・4扇 第5・6扇こちらは、伝狩野宗芳筆「韃靼(だったん)人狩猟・打毬(だきゅう)図屏風」(サンフランシスコ・アジア美術館所蔵)、桃山時代、18世紀の作品です。右隻が打毬図、左隻は狩猟図です。韃靼人はモンゴル高原で活躍した遊牧民族をさします。韃靼と言えば、司馬遼太郎が『韃靼疾風録』という歴史長編小説を書いていますね。1988年に第15回大佛次郎賞を受賞し、また司馬遼太郎の最後の長編小説になった作品です。(資料1) 馬に跨がった人々が先端部が弧状になった棒を使ってチームで行動しています。打毬とは「騎馬で二組に分かれ、まりを叉手(さで)網ですくって穴の中に投げ込みあう。ポロに似た昔の球技。」(『新明解国語辞典』三省堂)です。上掲の案内文には、「西洋のポロの一種)と付記されています。「打毬は,馬術競技の『ポロ』とその起源を同じくし,中央アジアの一角に発したものであろうといわれています。 西に流れたものがヨーロッパに伝えられて『ポロ』となり,一方,東に流れたものが中国で打毬となり,やがて朝鮮半島を経て,8~9世紀頃我が国に伝わったようです。」奈良・平安時代には、宮中で端午の節会の行事になっていたとか。江戸時代に八代将軍徳川吉宗が武技として推奨したと言います。(資料2)平安時代といえば『源氏物語』。打毬に関連する箇所があるだろうか?調べてみますと、蛍の巻の一節に「打毬樂、落蹲など遊びて、勝負の乱声どもののしるも、夜に入りはてて、何ごとも見えずなりはてぬ。」という記述があります。<打毬楽、落蹲などの舞楽を奏して、勝負の乱声など大騒ぎであるが、それも夜になってしまうと何もかも見えなくなった。>(資料3)手許の本の頭注に、打毬楽について説明が加えてあります。「唐楽で、騎射・競馬・相撲の時に行われる。四人の舞があり、唐人の装束で、毬(まり)を打木で掻きながら舞う。左楽。」(資料3)舞楽の一つを通して、少なくとも打毬というものの概念・イメージは宮廷の人々に認識されていたということでしょう。 狩猟図には、虎が追い込まれた場面も描かれています。これも「寅づくし」のプラス1件に連なりますね。 この屏風も何人が描かれているか、その描写の対比をしつつ、数えてみるのもおもしろいかも・・・・。時間がなくてしませんでしたが。 こちらも回廊の西側から屏風全景を撮ってみました。平成知新館から退場した後、定点観測じゃないですが、やはりロダンの考える人を撮ってみました。 これで終わります。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1) 韃靼疾風録 :ウィキペディア2) 打毬 :「宮内庁」3)『源氏物語 3』 新編日本古典文学全集 小学館 p207補遺Canon 綴TSUZURI 文化財未来継承プロジェクト ホームページ 作品紹介建仁寺 ホームページ 建仁寺ギャラリー式部輝忠 :ウィキペディアAsian Art Museum San Francisco ホームページサンフランシスコ・アジア美術館における仏像調査 :「東京文化財研究所」サンフランシスコ:アジア美術館 :「わたしの気まま日誌」打毬 :ウィキペディア打毬 :「コトバンク」ポロ :ウィキペディアポロ :「コトバンク」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 京都国立博物館 -1 往路点描、「京博のお正月」と2つの特集展示 へ
2022.02.01
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これは今回のPRチラシです。先週、1月26日(水)に京都国立博物館に行きました。主目的は恒例の干支づくしの新春特集展示を鑑賞するためです。今年は勿論「寅づくし -干支を愛でる- 」です。 当日平成知新館で入手した「京都国立博物館だより 2020年1・2・3月号」です。現時点では、併行して企画されている3つの特集展示を平成知新館で鑑賞できます。一つは、上記の「寅づくし」で2月13日までの期間です。併せて特集展示として「新収品展」(2月6日まで)と「後期古墳の実像 -播磨の首長墓・西宮山古墳-」(2月13日まで)を開催中です。当日入手の諸資料も参照・引用し、私の覚書を兼ねたご紹介をしたいと思います。まずは京博への往路の一部を少し点描風にご紹介することから始めます。私は京博に行く時、通常はJR奈良線の東福寺駅で下車して、本町通を北上し、大谷高・中学校の正門前の道路を北上し、JRの軌道上の陸橋を経由して、三十三間堂の南端の築地塀(太閤塀)が面する塩小路通まで出ます。塩小路通りを東に進み、「南大門」を通り抜けて、北方向に転じて京博に至ります。 南大門を通り過ぎ、少し東にすすむと、塩小路通の北側に駐車場のフェンスが見えます。その南西隅にこの石標が建てられています。 傍の壁面に歴史地理史学者・中村武生著によるこの案内銘板(2010年5月)が設置されています。「当地東山には、ながく『大仏』がありました。豊臣政権が造営し、徳川政府が維持したものです。その寺の名を、江戸時代以後、方広寺といいました。 現在も同寺は現存しますが、当時はいまと比較にならない広さで、三十三間堂(蓮華王院本堂)や法住寺、養源院などもその境内に含まれていました。現在地はその南限にあたあります。蓮華王院南大門(正しくは『大仏南門』)と太閤塀はそのなごりです。その前(南側)の道も、一般には塩小路通とよびますが、『大仏南門通』と別称されています。付近にある『大仏変電所』の名もそれゆえです。 幕末期、この大仏南門近くに、坂本龍馬ら土佐出身の志士が住んでいました。ここで龍馬は、妻楢崎龍(のち鞆。龍馬の死後再婚して西村ツル)と出会うことになります。たまたまその母貞(てい)と末娘君江が同所で賄いをしていたからです。 このことはお龍(りょう)の晩年の回想録『反魂香』に記録されています。すなわち『<大仏南の門の今熊の(野)道>の河原屋五兵衛(瓦屋の五郎兵衛の意か)の隠居所を借りて、<中岡慎太郎、元山(本山)七郎(北添佶摩)、松尾甲之進(望月亀弥太)、大里長次郎(大利鼎吉)、菅野覚兵衛(千屋寅之助)、池倉太(内蔵太)、平安佐輔(安岡金馬)、山本甚馬、吉井玄蕃、早瀬某、等』と同居していたといいます。 が、これが事実かどうか、ながくわかりませんでした。これを裏づけたのが、お龍の回想にも出てくる北添佶摩の書翰でした(元治元年<1864>5月2日付、母宛)。そこに『私義は此節は、洛東東山近辺瓦町と申す処へ居宅を借受け、外に同居の人五・六人も之れあり不自由なく相暮らし居候』とあるからです。当地の南向かいの地名はいまも『本瓦町』で、北添が龍馬らと暮らしていた地であったにちがいありません。 当地は同元治元年6月5日、新選組を有名にした池田屋事件の際、龍馬や北添らの住居であったため、京都守護職などの役人に踏み込まれます。龍馬らは不在でしたが、貞や君江が連行されました(まもなく釈放)。ちなみに北添はこの事件で戦死します。その後の8月初旬、帰ってきた龍馬は、お龍と青蓮院塔頭金蔵寺(現東山区三条通白川橋東入ル南側)で内祝言(内々の結婚式)を挙げることになります。 以上の理由から、当地を重要な幕末史蹟として建碑し、顕彰するものです。」(転記) 石標の東面には「大仏(方広寺)旧境内地南限」と刻されています。塩小路通の東から西方向を眺めた景色です。 南大門を通りぬけると、道路の西側は三十三間堂(蓮華王院)で、東側には「法住寺」があります。 法住寺の北隣りは「養源院」です。左は養源院の表門を通り過ぎ、養源院の北西角付近から撮った景色です。南大門から北に歩むとき、見かけたのは一人だけ・・・・、三十三間堂の境内地も静かなものでした。 七条通の横断歩道を渡れば、京都国立博物館です。壁面にこの特集展示案内の大きなパネルが設置されています。平成知新館の3階まで上り、名品ギャラリーを順路表示に従って順番に鑑賞しつつ、下の階に移動していきます。<3F-1陶磁>は、[梅を愛でる][日本と東洋のやきもの]、<3F-2考古>では、[特別公開 四国の弥生土器と弥生・古墳時代の生産-辰砂と鉄-]というテーマで展示されています。2Fの1~3が[新春特集展示 寅づくし -干支を愛でる-]です。当日、入手した出品一覧表では会期中の展示総数は36件。25日以降の展示は34件です。2F-1は「強いトラ、かわいいトラ、どんなトラ?」というテーマが設定されています。 会場の入口で入手したのが「さがしてみよう! こんなトラ」というシート。京博の教育室が準備され、子供たちに展示作品に興味を持たせるための補助手段、ワークシートです。対象年齢は「6歳頃~」と記されいます。勿論、成人も対象のうちで、楽しむことも自由です。日英版と中韓版が準備されています。「つよそうなトラ、よわそうなトラ、かわいいトラ、かっこいいトラ、・・・・・」みつけたら、このシートにあなをあけてね、というものです。 また、「博物館 Dictionary No.225 虎-見たことがない生き物を描く」という解説シートも準備されています。 出品一覧のトップに載っているのがこれ! 尾形光琳筆「竹虎図」です。意図的にかわいい感じで行儀のよい虎を描いているのでしょう。ユーモアのあるトラです。上掲のNo.225には、この竹虎図を紹介し、併せて川柳を紹介しています。 猫でない証拠に竹を書いて置き京博では、ゆるキャラの「トラりん」が公式キャラクター。「実はね、ボクはこの『竹虎図』から生まれたんだリン」と公開されています。トラりんには「虎形琳ノ丞」という名前もあります。(資料1) 「青銅虎符」(中国の秦~前漢時代、紀元前3~紀元前4世紀)と称された虎も出ています。「符」という漢字が使われています。この虎、2つの半身に分かれる「割符」なのです。普段は半身が別々に所持されていて、それが合体するときは戦を始める合図になる、そんな主旨の説明が展示品の傍に掲示されていたと記憶します。メモをしていませんでしたのでちょっと曖昧! ネットで調べてみますとと、「虎符とは、虎の形に作った銅製の割符で、参戦する将軍が徴兵時の証明として、天子から与えられる兵符のことである。」(資料2)という解説に出会いました。これから吼える虎になるというところか・・・・。ここでは、陶磁器の鉢や香炉、香合に描かれた虎、印籠やたばこ入れを帯にはさむために紐の端につける根付と呼ばれる細工物に虎を彫像した「虎根付」が展示されています。根付は小さな細工物ですが様々な意匠があっておもしろい。「虎蒔絵沈箱」(京都・神光院蔵、江戸時代17世紀)という名称のものが展示されています。沈箱というのは「沈香を入れておく箱」のことで、沈香はジンチョウゲ科の常緑高木から採取された天然香料。この香料の優良品が伽羅(きゃら)と称される品だそうです。(資料3,4)「十二類絵巻」(重文、室町時代15世紀)の三巻のうち巻中に描かれている虎の箇所が展示されています。6曲1双の大きな屏風が二種展示されています。横山華山筆「虎図押絵貼屏風」(江戸時代19世紀)と単庵智伝筆「龍虎図屏風」(重文、室町時代15~16世紀、京都・慈芳院蔵)です。 これは、「龍虎図屏風」(左隻)の虎図です。やはり、竹が描かれています。 伝李公麟筆「猛虎図」(朝鮮半島・朝鮮時代、16世紀、京都・正伝寺蔵)これは伊藤若冲がモデルにした虎図と言います。若冲の虎図はエツコ・ジョウ プライス コレクションの一つになっています。この京博で若冲の没後200年特別展覧会が開催された時に、若冲の虎図が展示されていました。この猛虎図を見て、ナルホド!です。ほかにも逸品が展示されています。2F-2は「トラと一緒に」というテーマでの展示です。こちらでは、根付ではなく印籠そのものに龍虎あるいは竹林・虎を題材にした意匠を施してあります。江戸時代、19世紀の作品が3件展示されています。見応えがあるものです。 「竹に虎文様掛下帯」(江戸時代、19世紀、部分図)武家の女の人が身につけた帯に虎と竹が刺繍されています。武術の嗜みもあるきりっとした女性がこの帯を締めているのを想像してしまいます。この部屋にはさらに横山華山筆「四睡図」(江戸時代、19世紀)が展示されています。四睡図というのは、豊干禅師、虎、寒山と拾得の4者が眠る場面を描いた絵です。禅画として一つのテーマになっているようです。(資料5)羅漢さんと虎を描いた「十六羅漢図」(中国・元時代、13~14世紀、重文、京都・高台寺蔵)や「達磨・豊干・布袋図」(中国・南宋時代、13世紀、重文、京都・妙心寺蔵)に虎が描かれている図も展示されています。明治時代の作ですが、田村伎都子コレクションで京博蔵の「龍虎文様火消半纏」が展示されています。リバーシブルの半纏で、消火を完了したら半纏を裏返して龍虎文様を表にするというおもしろいものです。心意気でしょうか。京都・法金剛院蔵の後陽成天皇宸翰「龍虎」の墨書は凄く迫力を感じる文字です。2F-3は「本当のトラは・・・・・」がテーマです。この部屋には、京博に寄贈された作品2件が展示されています。一つは、展示品の中では最も現在に近い作品。20世紀の中国・中華民国時代の作品です。梁鼎銘筆「挿虎図」。勿論、本当の虎を熟視した上での虎が描かれています。 これがもう一つの作品。岸駒筆「虎図」(江戸時代、19世紀)「生きた虎を見るのが難しいので、虎の頭蓋骨に虎皮をかぶせてスケッチしたり、虎の足の剥製を手に入れて、関節の位置や仕組みを調べたり」という「リアルな虎を描くために様々な努力をして」いたと言います。「でも残念ながら、目は猫をお手本にするしかなかったようで、昼間の猫のような縦長の瞳で描いています。虎の瞳は、実際には丸くて、縦長にはならないのです。」(博物館 Dictionary No.225より)それでも、虎の気力を感じさせ迫力が溢れていると感じます。私は岸駒が様々に描いている虎図が好きですね。「寅づくし」はこれで終わり。2F-4近世絵画は、「平清盛没後840年 盛者必衰-『平家物語』と源平の合戦」(2月13日まで)の企画展示として、合戦図の屏風が展示されています。眺めていて、その合戦場面に描き出された人間を数えていけば、何人描かれているのだろ・・・・と思った次第です。すごい数の兵士たちが描き出されています。2-F5中国絵画は、「清時代の絵画」(2月13日まで)というテーマで展示されています。1階に降りますと、常設の諸仏像以外では「四天王と毘沙門天」「日本の彫刻」が2月21日までの期限で展示されています。 これは、今回の特集展示の一つの図録です。この展示を見て初めて知った古墳。播磨の首長墓だそうです。1F-2の部屋に展示されています。これも展示は2月13日まで。兵庫県たつの市西宮山古墳という横穴式石室をもつ前方後円墳の発掘調査結果と共同研究の成果をあわせて、ここにその実像を紹介するという試みでした。展示された一つの古墳の全貌を観察できるというのは、深堀りするような感じを味わえて興味深いものです。1Fの3~5が最後の特集展示「新収品展」です。新たに博物館の収蔵品となった作品の展示です。ここ2年の年度における様々な分野の収蔵品から約40件の紹介です。 伊藤若冲筆「百犬図」が収蔵品となったということだけ触れておきましょう。若冲のこの作品をここで見られる機会がたぶん増えるだろうということは、若冲好きの私にはうれしいことです。1F-6漆工には「中国と琉球の漆芸」というテーマで展示されています。様々な堆朱の作品を鑑賞できます。新春特集展示「寅づくし」を中心にご紹介しました。ご覧いただき、ありがとうございます。つづく参照資料*「新春特集展示 寅づくし-干支を愛でる- 出品一覧」*「京都国立博物館だより 2022年1・2・3月号」*「博物館 Dictionary No.225 虎-見たことがない生き物を描く」1) 2015年10月 はじめまして!トラりんだりん :「京都国立博物館」2) 倣秦青銅虎符 :「ギャラリー解説」3) 沈箱 :「コトバンク」4) 沈香 :「コトバンク」5) 四睡図 :「e國寶」補遺京都国立博物館 ホームページ 博物館ディクショナリー 虎(とら)―見たことがない生き物を描(えが)く PDF版のダウンロードができます。天台宗 法住寺 ホームページ洛東 養源院 公式サイト蓮華王院 三十三間堂 ホームページ十二類絵巻 :「京都国立博物館」東京ステーションギャラリーで「見ればわかる 横山華山展」を観た!:「とんとん・にっき2」 「虎図押絵貼屏風」右隻の図版を掲載横山華山 :ウィキペディア岸駒 :「コトバンク」虎図 岸駒 :「文化遺産オンライン」猛虎之図 :「東京富士美術館」虎木彫根付 :「文化遺産オンライン」虎猿牙彫根付 :「JAPAN SEARCH」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2022.01.31
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1月20日、会期が23日までという直前に、奈良国立博物館に行きました。2019年春に「国宝の殿堂 藤田美術館展」を鑑賞しています。今回はその続編という位置づけで、藤田美術館所蔵の絵画が紹介された特別展です。覚書を兼ねて、少しご紹介します。展示会場のパネルで藤田美術館の告知を見ました。昨年(2021)10月19日に美術館の建替工事が竣工しており、来る2022年4月に所蔵品を展示してリニューアルオープンする予定だそうです。 この展覧会のPRチラシここに掲載の作品図版を引用しつつまとめてみたいと思います。 展覧会チケットの半券 やはり、この竹内栖鳳筆「大獅子図」が異彩を放つという感じでした。一隻の屏風絵です。後でご紹介する今回の図録表紙にもこの絵が使われています。展示会場に入ると、入口に向かって右側壁面前のケースに納まっていました。縦239.0cm、横281.8cmというサイズです。迫力があります。 ライオンの頭部と上半身がグンと迫ってくる感じ。下半身の描写とはかなりアンバランスな第一印象を抱いたのですが、じっと眺めているとやはりバランスはとれている。どのアングルから獅子を見ているかという立ち位置が大きく関係しているようです。あるいはそれだけライオンの相貌にまず引き寄せられていたということかも・・・・・。やはり「藤田家の蒐集を代表する近代絵画の名品」(図録解説より)という位置づけにある作品だそうです。竹内栖鳳は明治34年に渡欧から帰国し、直後に新古美術展に獅子図を出展しました。そのとき「金獅子」として話題を呼んだそうです。これは明治35年頃に描かれた作品とか。 大獅子図の手前に、羽織・袴の和装で座布団に端座する肖像彫刻、「藤田傅三郎坐像」が置かれていました。その坐像の頭部です。数少ないと言われる肖像写真とは少し雰囲気が違います。彫刻像の方が良い感じ・・・・です。会場の説明パネルで印象に残ったのは、藤田傳三郎は自分の好みの絵画をコレクションするという指向ではなく、美術史的な視点で幅広く名品を蒐集したそうです。上掲チラシを後で読みますと、「藤田美術館の絵画コレクションには、日本絵画史を通史的に把握するに十分な作品が擁されています」と記されています。リニューアル・オープン後に、新しい藤田美術館そのものの見物を兼ね、所蔵品の展示を改めて眺めに行く機会をつくりたいと思う次第です。会場は7章構成で、当日入手の展示品リストによれば、会期中の展示品は総数74件。期間限定展示が時期をずらして2件。1件でも鑑査状、付属書、あるいは模本が付加されているものが数件あります。1件でも二幅、三幅の作品や画帖の展示がありますので、実際の展示数は異なります。同様に入手した「奈良国立博物館だより 第120号」(令和4年1・2・3月)には、「展示作品中、初公開作品が23件、藤田美術館外での公開が初めてとなる作品が19件を数えます」と記されています。章ごとに少し印象などをご紹介します。「第1章 藤田傳三郎の視点」11点の展示品中、初公開品が6点。上掲の藤田傳三郎坐像も初公開でした。岩下清周著『藤田翁言行録』(大正2年)が展示されていました。これも初公開。ネットで検索すると古本として高い値段で取引されているようです。蒔絵・金具・螺鈿で表現された尾形光琳作「桜狩蒔絵硯箱」が目を惹きつけました。「浄土五祖絵 善導巻」(重文)は絵巻の一部分ですが、善導(だったと思います)が泳ぎ渡ろうとしているおもしろい場面を見ることができました。「第2章 やまと絵の伝統」7点展示中初公開1点。まず興味を抱いたのは「華厳五十五所絵巻残闕」(重文)です。平安時代の作品。善財童子が仏道を求めて、延べ55人の善知識を訪ね歩き法を授かるというその場面を描いたもの。『華厳経』の『入法界品』が典拠なのですが・・・・。いつか読んでみたいと思うストーリーの一つです。 鎌倉時代の高階隆兼筆「玄奘三蔵絵 巻四」(国宝)の一場面です。「灯光城の龍窟で、礼拝を続けると釈迦らの姿が浮かび上がった」という場面がPRチラシに紹介されています。この巻四は、玄奘が仏頂骨城で釈迦の頂骨を拝する場面から、中天竺の阿踰陀国で海賊に遭い、海賊が改心する場面までが描かれてます。(図録より)鎌倉後期の宮廷絵所の絵師高階隆兼筆のもう一つの作品「春日明神影向図」が展示されています。御車に乗った束帯姿の貴人が現れる様を描くという説明があったのですが、貴人は見えません。束帯の一部が御車の内部にほんの一部描かれているだけです。それだけで貴人を想像させるようです。改めて、図録の解説を読み直し、関白鷹司冬平が庭に影向した春日大明神の姿を夢に見たので高階に描かせたという絵だから、逆にそれで良かったのかも・・・と、後で理屈づけした次第。「第3章 宋元絵画憧憬」(伝)貫休筆「豊干寒山拾得図(羅漢図)」(南宋、3幅)と(伝)梁楷筆「寒山拾得図」(元、1幅)。寒山拾得図は良く描かれるテーマです。絵師によりかなり異なる雰囲気で寒山と拾得が描き出されるのが、いつもおもしろいと感じます。(伝)黙庵筆「白衣観音図」(室町時代)は、突き出た岩に寄りかかりのんびりとくつろぐ姿がこちらをもリラックスさせるような絵です。白衣観音は斜め上方の先を眺めています。絵には描かれていない瀑布を眺めているのだとか。見る人にその景色の広がりを想像させるという絵です。(伝)牧谿筆の作品を2点みることができました。「松樹叭々鳥図」と「樹下猿猴図」です。前者は「ははちょう」と読むそうです。後者は初公開の作品。牧谿の猿猴は別図を見たことがあります。印象深い猿の描き方です。この牧谿猿は日本の多くの絵師たちに影響を与えています。私が好きな長谷川等伯もその影響を受けた一人です。「第4章 中世水墨画」 当日購入した図録。表紙は大獅子図 一方、裏表紙は、初公開作品です。(伝)狩野元信筆「芦鱸藻鯉図(ろろそうりず)」二幅のうちの左側の絵です。 PRチラシでは、左右の二幅が紹介されています。鱸という漢字を辞書で引きますと、「すずき。浅海の魚で、春夏に川にのぼる。幼魚をせいご、中ぐらいのものをふっことよぶ。」(『角川新字源』)と説明しています。図録の解説には、一幅には鯉、ハゼ、鯰。もう一幅にはケツギョとカワイワシが描かれているとあります。魚たちは細密に描き込まれています。ここでは展示品の半数が狩野派の絵が占めていました。室町時代の作品で、71歳の「雪舟自画像(模本)」が展示されていました。原本は既になく、模本ですが原本に最も近いと考えられているそうです。雪舟を想像するのに役立つ絵です。「第5章 近世絵画」狩野山雪筆「夏冬山水図」(2幅、江戸時代)は、人物を点景として描きいれた雄大な山岳の景色の構図に惹かれました。初公開の作品です。 この3幅構成の(伝)長澤蘆雪筆「幽霊・髑髏・仔犬白蔵主図」が印象に残りました。中央の幽霊は美人です。長澤蘆雪は円山応挙の弟子であり、幽霊図は応挙の描いた幽霊を手本にしているそうです。右の仔犬と髑髏の取り合わせがちょっと奇妙でおもしろい。また白蔵主は左の一見僧侶に見える人物のことです。よく見ると狐の容貌です。この白蔵主は狂言の『釣狐』に登場するそうです。狐が白蔵主に化けているのだとか。図録の解説を読みますと、『絵本百物語』には、右と左の絵を関連付けられる話が載っていると言います。幽霊・髑髏・仔犬白蔵主のそれぞれが、画面の枠に納まっていずにそこから少し出て来た形で描かれているのがもう一つのおもしろいところです。 これは、鳥文斎栄之筆「吉原通図」という絵巻の部分図です。男性2人が猪牙舟(ちょきぶね)に乗り隅田川を行き、舟を降りて徒歩で吉原を目指す行程は水墨画で描かれ亭増す。そして、吉原の中での場面は華やかな彩色画に転換するという趣向です。宮川長春筆「美人文珠普賢図」もおもしろい絵です。文珠と普賢を女性(遊女)で描いているのです。最初は見立ての図かなと思いました。が、左幅の女性は謡曲『江口』がもとになって描かれているそうで、『江口』は仏教説話集である『撰集抄』などに載る話だと言います。(図録の解説より)「第6章 近代日本画」明治時代の日本画が展示されていました。図帖、名所図、画帖形式の作品が半数です。これらは一部しか見られないのが残念。図録には図版が小さくなりますが全図掲載されているようです。私が惹かれたのは、森寛斎筆「絶壁巨瀑図」です。絶壁上の岩端ぎりぎりのところから虎が瀑布の滝壺の激しい波を見つめているという図です。斜め上から見下ろした感じの高度感を感じさせる構図が魅力的です。虎の目線で眺める感じになります。「第7章 奈良の明治維新」ここだけ章立ての様子が転換します。「藤田傳三郎は、明治維新によって衰退する社寺から貴重な宝物が散逸することを回避する意識を持って、奈良の社寺に伝えられた品々を多数収蔵しました。」(図録より)とのこと。その収蔵品からの展示です。 右の図がその一例の部分図です。「阿字義」(1巻、平安時代、重文)の中の阿字観の実戦描いた絵図の部分です。左は、第3章に展示されていた(伝)馬麟筆「鍾呂伝道図」です。「八仙」中の2人、鍾(しょう)と呂(りょ)が対話をする場面を描いているとか。これも初公開作品でした。「近年藤田美術館と奈良国立博物館が共同で行った所蔵絵画の調査で確認された隠れた名品群」の一つだそうです。(「奈良国立博物館だより 第120号」より)この最終章で一番印象的なのは、やはり「小野小町坐像(卒塔婆小町)」です。初公開の彫刻像(安土桃山~江戸時代、16~17世紀)で、老いさらばえた乞食の小野小町の姿を彫像にした作品です。観阿弥作『卒塔婆小町』に登場する小野小町の彫像だとか。「花の色は移りにけりな・・・・」の行き着いた姿を表現しているといえます。実際の小野小町はどのような老境を過ごしたのでしょう・・・・。もう一つは「空也上人立像」(室町時代)です。京都の六波羅密寺の空也上人立像が有名ですが、同種の木造彫像です。口から六体の阿弥陀仏が飛び出しているのがやはり印象的、「南無阿弥陀仏」です。図録の図版と六波羅密寺の図像とを対比的に眺めてみようと思っているところです。これで終わります。絵画、彫像等の実物は、リニューアル・オープンする藤田美術館におでかけいただき、ご覧ください。ご覧いただきありがとうございます。参照資料展示品一覧表「名画の殿堂 藤田美術館展 -傳三郎のまなざし-」図録 『名画の殿堂 藤田美術館展 -傳三郎のまなざし-』 奈良国立博物館 2021「奈良国立博物館だより 第120号」(令和4年1・2・3月)補遺藤田美術館 公式サイト藤田伝三郎 近代日本人の肖像 :「国立国会図書館」藤田伝三郎 :「コトバンク」藤田傳三郎と藤田神社 :「藤田神社」牧谿 :「コトバンク」牧谿 :「日本歴史的人物伝」鳥の名前「叭叭鳥(ハハチョウ) 」とはどういう鳥なのかを知りたい。 :「レファレンス協同データベース」ハッカチョウ :ウィキペディア円山応挙ゆかりの幽霊図~「返魂香之図」 :「護國山観音院 久渡寺」釣狐 狂言の演目と鑑賞 :「文化デジタルライブラリー」絵本百物語(桃山人夜話)一 :「ARC古典籍画像ポータルデータベース」演目事典 江口 :「the 能.com」阿字観 :「総本山智積院」撰集抄 :「コトバンク」演目事典 卒塔婆小町 :「the 能.com」小町坐像を初公開 藤田美術館所蔵の名品 奈良博 :「中外日報」色あせぬ歌 移ろう美貌 随心院の卒塔婆小町座像(時の回廊) :「日本経済新聞」重要文化財一覧 :「六波羅密寺」明治初期まで奈良に? - 英国からの確認で判明 隔夜寺に旧蔵の可能性/大阪・藤田美術館の空也上人立像 :「DIGITAL 奈良新聞」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2022.01.30
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玄関先の踏み石脇に 小菊たちが群れ咲いて淡いピンク、白、ピンクの群がりできて 通せんぼうするのもちらほらと咲く花切ることできませぬ雨ふりゃしばらく通行注意 群れ咲く花に目をやれば我ら仲間と顔向けあって 中にゃ、ちょっと離れて集まる花も 同行二人あり 孤高の一輪あり花の世も、人の世と相い似たり 白い花、ちょっと声高、我ここに・・・・・そんな雰囲気、感じさせ 次世代、既に控えてる 紅い色、葉のグラデーションがおもしろいハツユキカズラというそうな デュランタの花がわずかに咲き残る夏の日射しを遮って緑のカーテンさまさまの、お役目果たした オーシャンブルー 咲く花数は減ったれど今も健在 今しばし、花色変化をみせながら 目を楽しませてくれているご覧いただきありがとうございます補遺小ギク(小菊) :「みんなの趣味の園芸」★キク(菊)の花の画像 小菊、夏ギクの育て方 :「育て方.jp」日本小菊 混合 :「サカタのタネ」デュランタ :「みんなの趣味の園芸」デュランタ :「ヤサシイエンゲイ」ハツユキカズラ :「みんなの趣味の園芸」ハツユキカズラ(初雪カズラ)の育て方|剪定時期や増やし方は? :「Green Snap」ノアサガオ :「みんなの趣味の園芸」琉球朝顔(オーシャンブルー)の育て方と花言葉 :「HORTI」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2021.11.27
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17日の午後、新京極通にあるジムに7ヵ月余ぶりに足を向けました。その後、歩いたことのない御幸町通を二条通まで上り、二条大橋から鴨川を渡ることにしました。二条大橋もほとんど渡ることのない橋です。冒頭の景色は二条大橋南西詰めで東方向の眺めです。元治元年の京都古地図を見ますと、二条橋の北西詰には川沿いに二条通と一筋北の夷川通までの間に「角クラヤシキ」があり、南西詰の少し西に川原丁通(河原町通)までが「角倉与一」と記されています。角倉家の邸宅があったところです。その南側が一之船入で、一之船入の南側には高瀬川沿いに、河原町通に面する長州、加州等の藩邸が隣り合っていました。(資料1)現在の地図を見ますと、「角クラヤシキ」のところに「ザ・リッツ・カールトン京都」があり、「角倉与一」の邸宅跡は、東から「がんこ高瀬川二条苑・島津製作所創業記念資料館・銀行会館・日本銀行」が連なっています。一之船入は史跡として保存されていて、そこには高瀬舟がもやっています。序でに一之船入付近を今年の3月末に撮った景色をご紹介します。 木屋町通に面して石標が建てられています。 2021.3.29撮影小橋詰に角倉氏邸址の石標があります。北から高瀬川を眺めた景色。この景色の右側(西)が日本銀行の敷地です。 二条大橋南西詰めから鴨川下流側の東岸を眺めた景色(16時頃)です。東岸の並木の紅葉はスッキリしない色合いです。冴えない感じ・・・・。 鴨川の西側の幅の狭い流れは「みそそぎ川」です。 川の途中に分岐が設けてあります。この分岐を見るのは初めてです。右(西)側が一之船入を起点とする高瀬川への取水口になるのでしょう。現在は「がんこ高瀬川」の庭園部分を経由して、一之船入りに繋がっているようです。つまり、かつては、この二条通付近で鴨川に樋が設けられて水流がここにあった角倉家の庭園に流れ入り、高瀬川の一之船入につながっていたということになります。(資料2)このみそそぎ川は、鴨川の一部で、賀茂大橋の下流取水口が起点となる水路です。この起点から鴨川東岸の園路沿いに、府立医科大学・荒神橋・丸太町橋の傍を通過して二条大橋傍に至ります。ここまでの途中は一部暗渠になっているようですが、現地の確認はしていません。(資料3) 鴨川の上流側。東岸の紅葉もくすんでいます。夕方に近くなってきたせいもあるかも・・・・。 下流側、西岸の紅葉もわすか。がんこ高瀬川二条苑の庭園とその背後に銀行会館のビルが見えています。 二条大橋東南詰めから下流を眺めた景色 東岸の散策路を通り、三条に下ります。鴨川と併行して東側を流れる琵琶湖疏水にかかる木の枝を間近で眺めると秋の紅葉らしさを感じます。琵琶湖疏水は第1疎水の鴨川合流点から伏見区堀詰町までは「鴨川運河」とも呼ばれています。(資料4) 鴨川の水鳥をあちこちに眺めつつ散策路を進みます。並木の秋の風情はちょっと乏しい・・・・。御池大橋西詰方向の景色も、紅葉具合はあまり感じられません。 琵琶湖疏水の水門をズームアップで。紅葉がくすんで見えるのは、暮れなずみ行くせいでしょうか。 下ってくる琵琶湖疏水の流れと間近の枝の紅葉で、街中での晩秋を感じることにいたしましょう。嵐山や高雄の紅葉は冴えているのでしょうか・・・・・。余談です。参照資料にこんな記述があります。ご紹介しておきましょう。「鴨川では、江戸時代より川の中に床几をならべて夕涼みをするようになったとされています。大正時代に入り治水工事により中洲が取り除かれ流れが速くなったことから、床几の床が禁止になりましたが、 その後の河川改修などで高水敷に人工水路の「みそそぎ川」が開削され、納涼床は現代のようにみそそぎ川の上に出される高床形式になりました。」(資料3) これは、江戸時代に出版された『都名所図会』に掲載された「四条河原夕涼之図」です。これができなくなって、納涼床に変化したということになるようです。(資料5)ご覧いただきありがとうございます。参照資料1) 京都古地図 元治元年(1864) 所蔵地図データベース:「国際日本文化研究センター」2) 高瀬川源流庭苑 高瀬川とみそそぎ川 :「親水紀行 ~水とのふれあい~」3) 鴨川真発見記<37から42> ⇒ 38号参照 :「京都府」4) 鴨川運河 :「日本遺産 琵琶湖疏水」5) 都名所図会 6巻 2巻 12コマめ :「国立国会図書館デジタルコレクション」補遺みそそぎ川 :「AGUA」四条河原夕涼図 :「文化遺産オンライン」琵琶湖疏水のご紹介 :「京都市上下水道局」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2021.11.19
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地下鉄御堂筋線天王寺駅でおりて、天王寺公園エントランスエリアから大阪市立美術館に向かいます。「てんしば」という看板がまず目に止まりました。こちらに来るのは久しぶりで、以前に見かけた記憶がありません。 公園内を西方向に進みながら、北方向で見に止まったのがこれ。天守閣を模しているのがおもしろい。目的は何かは不詳。これもまた初めて気づきました。 東西方向に、芝生の広場が広がっています。東南方向にアベノハルカスの高層ビルが見え、広場の西端には動物園の入口の建物が見えます。やがて、右方向に 「旧黒田藩蔵屋敷長屋門」です。 石標の側面に刻された説明「現在中之島三井ビルの場所がおおむね福岡黒田藩の蔵屋敷で、これはその長屋門である。数少ない蔵屋敷遺構の一つで昭和8年三井ビル建設に際し、大阪市に寄贈された。」(説明文転記) 長屋門を通り抜け、振り返った景色。アベノハルカスがすぐ傍にある感じに・・・。 美術館へのゆるやかな坂道を上ります。10/13に訪れたのは、標題に記した「聖徳太子 日出づる処の天子」を鑑賞するのが目的です。特別展の会期は10/24に終了しました。覚書を兼ねてのご紹介です。 坂道の左(南側)にはこの「いのちいきいき」と題するブロンズ像が展示されています。 大阪市立美術館は西面する形で建っています。 正面の石段を上って、会場へ 入場チケットの半券 こちらはこの特別展のPRチラシの表紙。A4サイズの二つ折です。会場内は撮影禁止でした。このチラシの掲載画像を後ほど引用しご紹介に加えます。 図録の表紙これは当日購入した図録。ここまでで繰り返し出ているのは、「聖徳太子童形像・四臣像」(大阪・四天王寺蔵)の部分図です。室町時代・15世紀の絹本着色の掛幅。童形立像の下部に、4人の人物が座して太子を礼拝しています。右側に蘇我馬子と新羅聖人日羅(にちら)、左側に百済博士学哿(がっか)と高句麗法師慧慈(えじ)です。 図録の裏表紙こちらは桃山時代・17世紀の作で、太子立像の下部には、六臣が太子を礼拝する姿を描いています。図録には掲載されていますが、出品目録には掲載なし。ここでは展示予定外だったか変更されたということでしょう。参考にご紹介します。こちらには右に小野妹子、左に聖明王太子阿佐の2人が加えられています。いずれも聖徳太子との関係が深かった人々です。会場で数多くの聖徳太子像を眺めていくと、相対的に眉毛が吊り上り気味に表現されているのが多いという印象を抱きました。 館内に入ると2階が第1会場で、1階が第2会場になっています。第1会場を巡り終えて、1階に移る前に撮った館内の景色です。今回は5章構成で展示されていました。章順にご紹介します。令和4年(2022)、聖徳太子(574-622)が没して1400年を迎えます。「100年に一度の節目にあわせ、太子の生涯をたどり、没後の太子信仰の広がりをご紹介する展覧会」(チラシより)という位置づけで、この特別展が開催されました。鑑賞した全体の印象として絵伝と様々な年齢・時期の太子像をメインに据えて展示されているなと思いました。太子を偲び信仰の対象とすることの結果、それだけ多くの作品が作られてきたということなのでしょう。<第1章 聖徳太子の生誕-太子の面影を追って-> 最初に展示の「聖徳太子絵伝」(重文、大阪・四天王寺蔵)は、鎌倉時代・1323年.遠江法橋筆の掛幅です。150.3cm×83.5cmというサイズの掛幅が6幅ずらりと壁面に掛けられています。聖徳太子の生誕から埋葬までの重要な場面をびっしりと描いてあるのは、やはり壮観です。絵伝を前にして、太子の生涯を諄々と説かれていくと、聖徳太子のイメージが脳裡に定着していくだろうなと思います。この場面は、聖徳太子が27歳の時、黒駒に乗り富士山を駆けあがったと伝わる場面です。 同じ絵伝での最後の場面。聖徳太子が50歳で没し、大阪・磯長廟へ葬られる場面です。この絵から太子は円墳で横穴式石室の中に埋葬されたということがわかります。磯長廟は大阪府南河内郡太子町に所在する叡福寺境内にあります。太子廟には、「前年に亡くなられた母后に続いて太子と妃の二体も埋葬され、三骨一廟」となっているそうです。(資料1)この第1章だけでも、掛幅形式で鎌倉・室町時代の絵伝が3点、絵巻物形式の「聖徳太子絵伝」(江戸時代、大阪・叡福寺蔵)、絵草子形式の「聖徳太子伝」(江戸時代、大阪・四天王寺蔵)が展示されています。木彫像では、立像の二歳像、童形半跏像、摂政坐像(重文)、勝鬘経講讚坐像(重文)がまず展示されています。四天王寺蔵の「丙子椒林剣」(国宝、飛鳥時代・7世紀)、「鳴鏑矢」(重文)や、「十七条憲法」(重文)、「法華義疏」「維摩経義疏」なども展示されています。<第2章 聖徳太子信仰の広がり-宗派を越えて崇敬される太子>ここには勿論、様々なタイプの聖徳太子童形像が展示されていました。1つめは、「聖徳太子童形坐像・二王子像」(平安時代・12世紀、兵庫・鶴林寺蔵)と「聖徳太子童形立像・二王子像」(鎌倉時代・13世紀、大阪・大聖勝軍寺蔵)です。脇侍の二王子とは太子の弟・殖栗王(えぐりおう)と太子の子・山背大兄王(やましろおおえのおう)です。2つめは、「聖徳太子童形立像・二王子像・二天像」(重文、鎌倉時代・13世紀、兵庫・鶴林寺蔵)で掛幅の画像となっているもの。さらに二天がくわわるというヴァージョンです。 3つめはこれ。童形立像ですが、生身信仰に基づき頭部に毛髪を植えてあります。植髪太子とも称される像(鎌倉時代、13・14世紀、兵庫・鶴林寺蔵)です。髹漆(きゅうしつ)厨子(重文、室町時代・1436年、鶴林寺蔵)の中に安置されています。 4つめは、柄香炉を手に持つ童形立像(重文、鎌倉時代・1286年、大阪・道明寺蔵)です。これは16歳の像と言います。同様に柄香炉を持つ童形立像が拡幅として描かれています(重文、南北朝時代・14世紀、西本願寺)。5つめは、童形立像ですが、「孝養像」(鎌倉時代・14世紀、東京・坂東報恩寺像)と称される木像です。6つめは、掛幅の「聖徳太子童形像・二童子像」(室町時代・12世紀、奈良・薬師寺蔵)です。三尊の形式で描かれています。 「聖徳太子勝鬘経講讚図」が4点展示されていました。35歳の時、太子は勝鬘経を講義し讃えられたと言います。これはその内の一つで、鎌倉時代・13世紀の作で三重・西来寺蔵の掛幅です。一方、「厨子入 聖徳太子坐像」(鎌倉時代・1295年、東京国立博物館蔵)という形で、聖徳太子が勝鬘経を講義する姿を表したものも展示されていました。「聖徳太子摂政像」(南北時代・14世紀、大阪・四天王寺蔵)は聖徳太子が成人し、漆紗冠(しっしゃかん)を戴き、薄朱色の袍を着して佩刀して坐す姿の掛幅です。この太子摂政像が「釈迦三尊十六羅漢図」(室町時代・15世紀、奈良・発志院蔵)の三幅をセットの中に描き込まれているという図もあります。興味深い信仰の広がりです。この第2章にも、聖徳太子絵伝が5点展示されています。さらに、円伊筆「一遍聖絵」巻2(国宝、鎌倉時代・1299年、神奈川・清浄光寺/遊行寺蔵)中の四天王寺の場面が展示されていました。<第3章 大阪・四天王寺の1400年-太子が建立した大寺のあゆみ> 四天王寺は聖徳太子が推古天皇元年(593)に建立した日本最古の官寺です。1400年のあゆみを名宝とともに紹介するセクションでした。四天王寺境内から出土した飛鳥時代から江戸時代にかけての丸瓦が展示されています。 「四天王寺縁起(後醍醐天皇宸翰本)」の巻末に天皇が捺された手形です。ここにも絵伝が2点、展示されています。四天王寺の仏像としては、「菩薩半跏像(試みの観音)」(重文、白鳳時代・7~8世紀)「阿弥陀如来坐像・両脇侍立像」(重文、平安時代・9世紀)「阿弥陀三尊立像(閻浮檀金弥陀)」(阿弥陀:室町時代・12世紀、脇侍:鎌倉時代・13世紀)「千手観音二天箱仏」(重文、平安時代・12世紀)が展示されていました。変わり種として伝左甚五郎作「虎像」(江戸時代・19世紀)が出ていました。 聖徳太子は勝鬘経を講讚されました。釈迦にまみえ経典に登場する古代インドの女性「勝鬘夫人坐像」(江戸時代・1694年、大阪・愛染堂勝鬘院蔵)が展示されています。「元禄7年に亡き女性を供養するために勝鬘夫人像として造立された」ことが、像底部の朱書銘で判明する類い希な像だそうです。(図録より) 如意輪観音半跏像宮城・天王寺蔵の仏像で平安~桃山・12~16世紀の作。この仏像は『別尊雑記』巻18にその姿が伝わる四天王寺金堂救世観音像の模刻とされるそうです。「本像の尊名は、12世紀頃に太子信仰と如意輪観音が結びつくことで四天王寺救世観音像が如意輪観音とも称されるようになったことをうけてのものであろう」(図録より)とのこと。この像に併せて宮城・天王寺の「四天王立像」が展示されています。これも大阪・四天王寺の四天王像を模した像と言われています。この四天王の相貌は関西で見馴れている四天王像の相貌とは少し雰囲気が異なり、印象に残る像です。宮城・天王寺の寺伝によれば、「聖徳太子が摂津、伊勢、出羽、奥州にそれぞれ建立した四天王寺のうちの奥州四天王寺にあたる」と言います。聖徳太子が4ヵ所に四天王寺を建てたというのは私には初めての見聞です。単なる伝承でしょうか。少し関心が湧きますが、公式の記録はなさそうです。伝承を生み出す何らかの要素はあったのでしょうね。ネット検索で調べますと、宮城県大崎市岩出山に所在し、現在は浄土真宗のお寺だそうです。(資料2)「扇面法華経冊子」(国宝、平安時代・12世紀、大阪・四天王寺蔵)の中から「無量義経」の扇面が展示されていました。扇面に下絵が描かれその上に経文が写されています。華麗さが漂う作品です。<第4章 御廟・叡福寺の聖徳太子信仰-太子が眠る地>複数の古い時代の境内図や白鳳時代・666年の小さな「弥勒菩薩半跏像」(重文、大阪・野中寺蔵)が展示され、ここにも絵伝が2点出ています。江戸時代・18~19世紀の作ですが「聖徳太子童形椅坐像」(大阪・野中寺蔵)は、童形とはいえ、私は少し大人びた雰囲気すら漂わせていると感じました。<第5章 近代以降の聖徳太子のイメージ・・・そして未来へ -つながる祈り>明治・大正・昭和に造像された聖徳太子の木像3躯と堂本印象筆「聖徳太子・二王子(模写)」(大正~昭和時代、京都府立堂本印象美術館蔵)が展示されています。昭和5年(1930)から昭和33年(1958)にかけて聖徳太子像が使われた日本銀行券が展示されていて、千円札はなつかしさを感じます。山岸涼子作「日出処の天子」の原画が展示されています。昭和の晩期から平成時代において聖徳太子にこの作品を通じてまず親しんだ年代層が生まれていることでしょう。また、蘭陵王、納蘇利という舞楽面をはじめとして、四天王寺舞楽所が舞楽を奉納する際に使用する諸用具が展示されています。現在使用されているものを含めて間近に見られるところが最後のおもしろいところでした。 最後の会場の一角に、江戸時代に制作された「玉輿」と、この「鳳輦」(桃山~江戸時代・17世紀)が置かれています。鳳輦の内に、松下宗琳佛所作「聖徳太子童形半跏像」(令和3年/2021年)が載せてあります。聖徳太子像の造像もまた1400年の時を迎えて、連綿とつながってきていることがわかります。なぜ1年前の特別展かと思っていて、図録をみれば、この11月17日(水)から来年、令和4年1月10日(月)に、サントリー美術館を会場に、東京展が開催される予定が組まれています。ご覧いただきありがとうございます。参照資料*図録『千四百年御聖忌記念特別展 聖徳太子 日出づる処の天子』 2021-2022*出品目録「千四百年御聖忌記念特別展 聖徳太子 日出づる処の天子」大阪市立美術館1) 上之太子 叡福寺 ホームページ2) 大崎市岩出山:天王寺 :「宮城県の町並みと歴史建築」補遺聖徳太子 :ウィキペディア和宗総本山 四天王寺 ホームページ 聖徳太子とは 聖徳太子絵伝 :「e國寶」絹本著色聖徳太子絵伝(法隆寺献納) :「e國寶」5Gで文化財 国宝聖徳太子絵伝 東京国立博物館・文化財活用センター・KDDI大阪市立美術館 ホームページてんしば ホームページ<アートプロデューサー・彫刻家 田村務さんのページです>:「Human の 会」天王寺(宮城県大崎市) YouTube四天王寺 聖霊会舞楽大法要 YouTube四天王寺聖霊会: 舞楽大法要_打毬楽 YouTube 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2021.10.28
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七条通に掲示の特別展案内パネル先日、10月9日から始まった掲題の特別展を見に出かけました。 チケット売り場で入場券を購入し、入口で検温手続きをへて、博物館の庭に入ります。 平成知新館前のウェルカム・パネルです。 こちらは平成知新館に入った正面の壁に設置された大きな案内パネル。 いまなら手軽に入手できるこの特別展のPRチラシこうして並べてみますと、今回の展示でハイライトになる作品が様々な組み合わせでデザインされ、案内媒体となっていることに気づきます。思えばいつものことなのですが、今回は特にその点を意識してしまいました。名称はどこかで見聞し記憶にありましたが、関東の立地なので簡単に行くこともできません。今回、関西初の特別展という機会なので鑑賞してきました。現在、畠山記念館は改修工事のため長期休館中とのこと。そのコレクションの中から古美術の名品を京博で特別展として企画紹介できることになったそうです。関東の人には馴染みがあるのかもしれません。畠山記念館は東京・港区白金台の閑静な住宅地に立地しています。創設者は畠山一清(1881~1971)。大正時代に、荏原製作所というポンプの会社を創業した人。金沢生まれで、能登国主畠山氏の後裔だとか。事業のかたわら能楽と茶の湯を嗜み「即翁」と号しました。50年をかけて美術品の蒐集をされたと言います。即翁は蒐集した美術品に押す愛蔵印に「即翁與衆愛玩」(即翁は皆とこれを楽しみます)という言葉を刻んでいます。その思いが、「畠山記念館」となったのでしょう。特別展の副題は「能楽から茶の湯、そして琳派」となっています。この副題に表れていますが、会場全体は、「1章 蒐集の始まりと金沢」「2章 能楽-美意識の支柱」「3章 名品との出会い」「4章 琳派」「5章 與衆愛玩の思い」「6章 畠山即翁と茶の湯」という構成です。展示会場は3階から順次1階へと下る形の巡覧になっています。コロナ禍での警戒宣言が解かれた後のためか、平日に鑑賞に出かけたのですが、警戒宣言下での企画展の時と比べると鑑賞者の数はやはり増えてきていると感じました。それでも以前一部屋にせいぜい数人というのが、5,6人から十数人くらいに増えているという感じでした。特別展の会期が始まった間なし(10/12)に出かけたので、来場状況の一例にしか過ぎませんが。それでは、少し印象を交えつつご紹介します。案内パネルやチラシの作品を部分引用します。<1章 蒐集の始まりと金沢>即翁は、茶道具を中心に東洋古美術を蒐集されたそうです。大正4年(1915)に古九谷の大鉢を購入したのがその始まりと言います。会場には江戸時代の古九谷の皿と鉢が3点展示されています。それに鍋島の皿が2点。その中で、私は「鍋島色絵更紗文皿」の細やかな文様に惹かれました。実際の茶会で使われたという江戸時代の作「猿猴筒釜」と「鉄鍋形風炉」の取り合わせをおもしろいと感じました。即翁が石川県美術館に寄贈したという沢庵宗彭筆「沢庵和尚自画賛」が印象的です。自画像の眉毛が太く黒々と描かれた目に惹かれます。相貌は市井のオジサン風なところがおもしろい。沢庵さんはこんなお顔だったのか・・・・。<2章 能楽-美意識の支柱>能面と能装束の展示です。能面は4点。3点は前期後期で入れ替えされます。室町時代の伝福来作「翁(白色尉)」(前期展示)は満面の笑みが心地良い位です。昭和時代の鈴木慶雲作「景清」の面は通期展示。即翁は能「景清」を生涯に6回演じたと言います。そのときに使った能面のようです。この面は能「景清」にのみ使用されるとか。「平家の侍大将、景清が流人として日向の国で盲目となり、乞食同然に暮らした姿を表した面」(図録より)という説明を読むと、なるほどな・・・と感じる相貌に彫られています。悪七兵衛景清は屋島での「錣(しころ)引き」の武勇で有名な人物。「景清」は能百番の一つで、作者は不詳。四番目物(人情物)に位置づけられています。宮崎市生目、亀井山の生目神社に景清の伝説が伝わっているそうです。(資料1) 上掲の諸媒体で使われているこの加賀前田家伝来の「雲に雪持椿文様唐織」(部分)は後期展示ということで、残念ながら拝見できませんでした。出品一覧をみれば、能装束は前期・後期で総入れ替えの予定です。前期の展示品では、萌黄繻子地金襴の「亀甲鳳凰丸文様袷狩衣」と、加賀前田家伝来品という「雪輪菊青海波文様唐織」が印象的でした。<3章 名品との出会い>この章には国宝や重要文化財が数多く展示されています。前期は国宝が2点。一つは、中国・元時代の因陀羅筆「禅機図断簡(智常・李渤図)」で右側に賛が墨書されています。老松を背に岩座に坐る南宗禅派の法嗣・智常に、中唐の江州の刺史・李渤が『維摩経』の説く難題を問いかける場面だそうです。その難題とは、小さな芥子粒に無限世界の須弥山を納めるというものだとか。この掛幅は即翁が大茶人・原三渓から購入したものと言います。この特別展では。茶道具の名品が茶人間で売買され移転したり、名品を茶人たちが競って購入した経緯のエピソードがいくつか例示されています。こんな側面が見えるのもおもしろいところです。 2つめがこれ。中国・南宋時代の伝趙昌筆「林檎花図」です。「南宋院体花卉画の高水準を示す優品である。」(図録より)と説明されています。丁寧に描かれているなと思いますが、それ以上のことは私には分かりません。 「伊賀花入 銘からたち」(重文)は桃山時代のもの。これは通期展示。焼成時に自然が加える造形結果が器の色合いを含めて思わぬ風趣を出しているのでしょう。焼成時に口が割れたとのこと。鎌倉時代の作品「清龍権現像」(掛幅、重文)は、醍醐寺の鎮守、清瀧権現を垂迹神形に描いたもの。右下に侍立する童女が小さく描かれ、掛幅の中央に白衣を纏った清瀧権現(龍女)が大きく描かれています。この大きさのコントラストが権現の偉容を表象しているのでしょうか。白衣は清浄性の象徴だそうです。目を惹きつける画像です。通期展示品の中に、朝鮮半島・朝鮮時代の「割高台茶碗」(重文)が出ています。ごつごつした割高台がまず目に止まります。素朴さを漂わせる茶碗。目の利く茶人が見れば見どころの多い名物茶碗なのでしょう。当初は古田織部が所持したものだとか。昭和15年(1940)、大卒の初任給が100円にも満たなかった時代、鴻池家所蔵品の売立の際に、即翁が野村得庵らと競り合い、破格の20万円で落札したという逸話のある茶碗だそうです。「即翁の数寄者としての名を世に知らしめる出来事」(図録より)になったとか。一見の意義はあるでしょう。<4章 琳派> 伝本阿弥光悦作「能面 山姥」(通期展示)を筆頭にして、俵屋宗達・尾形光琳・尾形乾山・酒井抱一・鈴木其一の作品が前期・後期の入れ替えで展示されています。乾山焼9点と御室焼2点が通期展示です。山姥の面は能「山姥」で用いられ、山に棲む鬼女の面です。落ちくぼんだ眼窩の奥の目に金輪が描かれています。怪しい目とこの相貌に彫られた面を付け、蝋燭の燈の中で演じられたら恐ろしさが一層際だって感じられるでしょうね。現代の照明のもとでは、その怪しさは少しマイルドになるかもしれません。能百番の一つである「山姥」は五番目物(夢幻的劇能物)に位置づけられています。新潟県西頸城郡青海町上路(あげろ)に山姥神社があります。(資料1)通期展示では、本阿弥光悦筆、俵屋宗達下絵「小謡本」や本阿弥光悦筆「素紙千載集和歌巻」が展示されています。光悦の書が判読できないのが残念ですが、光悦書の雰囲気を感じることはできます。 これは当日購入したこの特別展の図録です。 表紙に使われているのは、「四季草花下絵古今集和歌巻」(重文)で、これも本阿弥光悦筆、俵屋宗達下絵の作品。残念ながら後期の展示予定であり見ることができませんでした。図録を眺めています。 こちらは渡辺始興筆「四季花木図屏風」(重要美術品)で、六曲一双の屏風の左隻です。渡辺始興ははじめ狩野派で学び、晩年に尾形光琳に師事したと考えられているそうです。会場で眺めていて、何種類の花が描かれているのか数えてはいません。図録の解説によれば45種余りが描かれているとか。琳派の流れを汲む描法であるとともに、本草学的な関心が草花の特徴を描き分ける姿勢に現れているそうです。一つ一つの草花を見ていくと、手書きの植物図鑑のような精細さで軽やかに描かれている気がします。色彩のバランスがいいですね。渡辺始興の代表作の一つと言います。この作品も原三渓の旧蔵品だったとか。前期展示では併せて酒井抱一筆「四季花木図屏風」が出ています。こちらは四曲一隻です。同じ四季の花木を題材にしながら、描かれている花木の種類があまり重なっていないのがおもしろい。渡辺始興は右隻に松・桜を描いていますが、全体でみると左隻の楓(紅葉)を木として大きく描いています。一方、酒井抱一は桜の木をメインにしながら草花を描いています。乾山焼の展示の中では「色絵絵替土器皿(黒手)」という5枚で一組の皿が私好みでした。おもしろいのは御室焼の「水玉透鉢」です。胴部に大小二種類の穴が全体にあけられています。この鉢何に使うのだろう・・・・。飾り鉢? <5章 與衆愛玩の想い>ここから1階の展示です。彫刻の展示室フロアーの東端に平櫛田中作「畠山即翁寿像」が置かれています。等身大より少し大きく、仕舞の所作の一つで左膝を立てて坐った姿が写実的象られています。武士の雰囲気を感じさせる像でもあります。中国・明時代の「青花龍濤文天球瓶」(重文)が目に止まります。景徳鎮窯で作られたもので、波濤文様を背景に天に昇る白龍の外形が白地抜きで描かれています。コバルトの青の色が素敵です。 この「蝶牡丹蒔絵螺鈿手箱」(国宝)は鎌倉時代の作。牡丹が咲き誇り蝶が舞う春の姿が蒔絵螺鈿細工で作られています。蝶の姿が様々に象られています。前期展示。もう一つ、前期展示で室町時代の作「三室山蒔絵硯箱」は、川辺に柳と楓の木が茂り、神社の鳥居と境内が近くに見え、烏帽子を被った男と童子が川に架かる橋を渡るところを蓋に描いてあります。三室山の題から推測すれば傍を流れるのは竜田川ということに。三室山と竜田川から推測できるのは、「延喜式」にも載る「神丘神社」です。(資料2)<6章 畠山即翁と茶の湯>最後の章では、23点が通期展示され、前期の30点が後期には入れ替えられる予定です。通期展示の作品からまずご紹介します。 本阿弥光悦作「赤樂茶碗 銘 石峯」(重文)は、厚めの赤楽茶碗の胴が火割れし、そこに金紛繕いが施されています。口縁から胴に白釉がかかっており、この白釉を山巓に降り積もる雪に見立てた所から「雪峯」と光悦自ら命名したと言います。火割れを失敗作とみずに、そこに風趣を見つける逆転の発想が茶の湯の世界のおもしろさなのでしょう。長次郎作「赤樂茶碗 銘 早船」もまた、胴に貫入が幾本入っています。そこに黒漆繕が施されています。利休の所持していた茶碗だとか。 朝鮮半島・朝鮮時代の作で、この「井戸茶碗 銘 細川」(重文)は天下の三井戸のうちの一碗だそうです。細川三斎の所持からこの銘が付いたとか。松平不昧所蔵を経て即翁が入手した茶碗です。 「唐物肩衝茶入 銘 油屋」(重文)です。中国・南宋~元時代の作。銘は元の所有者が堺の町衆、油屋常言・常祐親子が所持していたことに因んだと言います。この名物茶器は秀吉に渡りその後様々な所有者を経て松平不昧の所蔵となっていたものだとか。この茶入の興味深いところは付属品一式が展示されている点です。仕覆が一緒に展示されるのはよくみかけますが、こちらはなんと「計六つの仕覆と四枚の牙蓋、挽家やそれを含む革袋、そして錠前のある外箱など豪華な付属品が添っている」(図録より)のです。こんな展示は初めて見ました。茶入一つの背後の広がりを感じた次第です。花入2点を挙げておきましょう。一つは「古銅象耳花入」で中国・明時代の作。象耳の形が楽しい。少し太く長めの首とちょっと押しつぶした様な胴部とのバランスが絶妙です。もう一つは昭和時代の大野鈍阿作「鶴首花入 鶴の一声写」。細くて長い首を持つ瓶の姿が美しい。利休旧蔵と伝わる金属製の名品花入を陶製で再現したという趣向がおもしろいところです。釉の色調が素敵です。最後に前期展示で私の惹かれた品々の名称等を列挙してみます。 音羽裂蒔絵提重 伝山本春正作 明治~大正時代 19~20世紀 朝鮮唐津手鉢 桃山時代 17世紀 五彩菊牡丹唐草文香炉 中国・明時代 17世紀 住吉蒔絵平棗 江戸時代・19世紀 梅花文筒釜 室町時代 16世紀 「與衆愛玩」の思いと即翁の好みの一端が感じ取れる名品展です。 平成知新館を出ると、次回の特別展の予告パネルがやはり目に止まります。「最澄と天台宗のすべて」(2022.4.12~5.22)伝教大師1200年大遠忌記念の特別展だそうです。さて、「考える人」をやはり撮ってから退館することに。 ウェルカム・パネルを左端に入れての恒例の撮影です。 今まであまり撮らなかった位置から撮ってみました。 庭の木々の紅葉はもう少し先になりそうという頃に訪れたひとときでした。ご覧いただきありがとうございます。参照資料*図録『畠山記念館の名品』 京都国立博物館 2021*「特別展 畠山記念館の名品 出品一覧・展示替予定表」1)『能百番を歩く』 京都新聞社編 杉田博明・三浦隆夫 京都新聞社 p96-98,p321-3232) 神丘神社・三室山 :「いかすなら」(奈良県歴史文化資源データベース)補遺畠山記念館 ホームページ畠山記念館について :「荏原製作所」松平治郷 :ウィキペディア松平不昧公 :「松江の茶の湯」原三渓 :「コトバンク」横浜本牧三渓園 美のコレクター原富太郎(三渓)日本の美・自然美を愛した原三渓 YouTube琳派 :ウィキペディア琳派とは?知っておきたい琳派の巨匠と代表作 :「This is Media」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2021.10.24
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それでは再び、復元回廊の入口に戻り、右側(内周側)の壁画(誓願図)を眺めて行きましょう。 左側 右側これは「主題1」です。中央の仏は左下の菩薩に右手をさしのべているようなしぐさで描かれています。ご覧の通り、片足ずつを蓮華座に乗せた立像として描かれています。私には左手が肘掛けに腕を乗せたような感じで描かれているのがなぜなのかちょっと不思議です。椅坐像で肘掛けに腕を置いているならこの左手は違和感がないのですが・・・・・。 左側から斜めに撮ると、さしのべられた右腕を奇妙に長く感じるのがおもしろい。右腕の肘から先が胸部につながり1つに見えるからでしょう。真っ正面から仏の全身を撮れれば、腕の長さのバランスはとれていることと思います。主題1という表記は、この15窟の誓願図全体にストーリーがあると考えるならば、最初の場面ということになります。少し調べてみましたが、番号を振られた主題がどういう意味を持ち、どういう場面が描かれているのかについての情報は「主題11」以外見つけることができませんでした。 左側 右側主題1の左側に復元された「主題4」です。中央の仏は、その描き方から主題1の仏と同じと推測します。 これは最初の概説でご紹介した画像です。回廊が90度折れ曲がる内周側壁面の角の部分になります。上掲主題4の左側とリンクしているのがお解りいただけるでしょう。 左側 右側 こちらは「主題5」です。内周側の壁画としては最後の壁画になります。この先は回廊の出口です。この壁画には、前回のご紹介とはまた違った地域からやって来て仏に供物を捧げ布施をする人々が描かれています。それは、人々が異なる帽子を被り、異なるタイプの服装であることからの推測です。シルクロードにあるトルファンには様々な人々が交流していたことでしょう。馬や駱駝も描かれています。 左側で仏の前に臨み布施する人々。仏は施無畏印、与願印の印相を示して人々を迎えています。これをまとめながら1つ気づいたことがあります。日本で見る彫像や図像の仏(如来)は基本的に1枚の衣をまとうだけで、装飾品を身につけることはありません。大日如来は例外的に胸に瓔珞(ネックレス)、腕に臂釧や腕釧(ブレスレット)という装飾品を身にまとっています。一方、このベゼクリク石窟の壁画に描かれた仏はいずれも大変長い瓔珞を身につけた姿で描かれています。 復元回廊模式図復元回廊における誓願図の位置関係を改めてご確認ください。最後に、過去世の仏と前世の釈尊に関連して調べていて、学んだことを少し覚書として記します。*ゴーダマブッダすなわち釈迦牟尼仏の現れる前に6人の仏が現れた。併せて7人を「過去七仏」とされる。釈尊の伝えた教え(法)は普遍的なものであり、釈尊以前のはるか昔から、これら諸仏によって順次説き継がれてきたものである。こういう過去仏信仰がある。 この七仏が共通に伝えた戒が「七仏通戒偈」である。つまり、「諸悪莫作、衆善奉行、自浄其意、是諸仏教」の一偈である。 (資料1)*過去世の仏・燃灯仏に関わる「燃灯仏授記」は『ブツダヴァンサ』という過去仏の系譜を説くパーリ小部にある韻文聖典の中に収載されている。(資料2)*釈尊の前世が語られている。「ジャータカ」と称され、釈尊が「前世において菩薩であったとき、生きとし生けるものを救ったという善行を集めた物語」である。「パーリ語聖典にはジャータカとして547の物語が収められている」という。日本では「本生話」「本生譚」と訳され、漢訳経典には『本生経』がある。ジャータカは、「その形式は、現在世物語・過去世物語・結び、という3要素から成り立っている」という。(資料1) たとえば、国宝の玉虫厨子の側面に描かれている薩埵(さった)太子の捨身飼虎図はジャータカに出てくる捨身布施の物語である。*前世における生という考え方は、今生・後生とあわせて「輪廻思想」にもとづくものである。(資料1)これで終わります。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1)『岩波仏教辞典 第二版』 中村・福永・田村・今野・末木 編集 岩波書店2)「燃灯仏授記と『ブッダヴァンサ』の成立」 勝本華連著 印度學佛教学研究(2010.3)補遺燃燈仏授記図浮彫 :「MIHO MUSEUM」燃燈仏授記図浮彫 2 :「MIHO MUSEUM」燃燈佛 :「Wikidharma」仏種姓経 :「ウィキペディア」ジャータカ :ウィキペディアジャータカ物語 :「日本テーラワーダ仏教協会」玉虫厨子 捨身飼虎図 :「アーサーバイオ株式会社」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 京都・下京 龍谷大学龍谷ミュージアム ベゼクリク石窟の回廊壁画復元 -1 へ観照 京都・下京 龍谷大学龍谷ミュージアム ベゼクリク石窟の回廊壁画復元 -2 へこちらもご覧いただけるとうれしいです。観照 京都・下京 龍谷大学龍谷ミュージアム 特別展「アジアの女神たち」
2021.10.03
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