2015.07.06
XML
カテゴリ:

小夜しぐれ・高田 郁



♤ みをつくし料理帖シリーズ5

☆小夜しぐれ・高田 郁(たかだ かおる)
・角川春樹事務所
・ハルキ文庫、2011年3月18日 第一刷発行

暖簾を終う間際になって、その女はやって来た。悪意に満ちたしゃがれ声が響く。老婆の前へ出た種市は、その顔を見て形相が一変した。女は、おつるが6才の時に若い男と家を飛び出した別れた女房だった。20年前突然訪ねて来た母親の痩せた姿を案じ、おつるは母親と住みたいと言いだし、種市は一年限りの約束で許した。借財の形として、お蓮の亭主に金貸しのところへ無理矢理送られたおつるは、辱めを受けることを良しとせず自ら首を括って死んでしまったのだ。

伊勢屋の使いが「診察先で倒れた源斉を伊勢屋に運び込んで休んでもらっている。食事を受け付けない源斉のために、口に合うものを作ってもらえまいか」との、主、久兵衛からの伝言を伝えた。年明けから悪い風邪が流行り、多くの患者を抱えて走り回ることになった源斉は、ついに過労で倒れたのだった。澪の作った粥だけは口に合うらしく、装った分を綺麗に平らげた。庭の柿の木に止まる鶯の下手な初鳴きが可笑しくて笑いを堪える澪の姿に、源斉は肩を揺らせた。そんな二人の様子を、庭越しに久兵衛がじっと見つめていた。

如月の最後の三方よしの日、又次は澪に「今夜、翁屋の楼主、伝右衛門がやって来る。ある頼みごとをされるだろうが、断らずに受けて欲しい。あんたの為だけでなく、あさひ太夫のためでもあるんだ…」と言った。その夜、一人でやって来た伝右衛門は、お客たちが切り上げたあと、店主と又次、そして澪を前に「月が変われば弥生、吉原で弥生と言えば花見でございますよ。… 翁屋の上客を、高いばかりか、途方もなく不味い仕出しでもてなすのが、ほとほと嫌になった」と言い、澪に「翁屋で花見の宴の料理を作ってみる気はないか」といった。翁屋へ行ける。野江のいる翁屋へ。澪の心は定まっていた。
あれこれとその日の料理を思い迷う澪に、ふらりとやって来た小松原は、去り際「料理で人を喜ばせる、とはどういうことか。それを考えることだ」さらりといい置いて、さっさと帰ってしまった。

江戸町一丁目、翁屋。
飯碗、汁椀、平腕、それらを載せる蝶足膳は常より大きく朱一色に塗られている。大きな膳を見たとき、澪は多くの品数の料理を一度に目にする喜びと驚きを思った。膳の上が花盛りになるのも花見の宴ならではと。せめてお客たちの反応を間近で見せてやりたいとの又次の配慮で、澪は前掛けを外すと最後に残った膳を運んだ。広間の中ほどには桜の太い枝が据えられ、部屋に居ながら花見の風情が感じられるように工夫されている。床の間を背にして二人、残る八人が左右に分かれて座り、すでに酒を酌み交わしていた。楼主の前に膳を置き、そのまま下がろうとする澪の袖を伝右衛門が見えないところでさっと押さえた。澪は一礼して部屋の隅に控えた。
朱塗りの椀には白魚と黄色い菜の花。「畑にあらば小判に変わる菜の花を…。何という贅沢、何という極み」菜の花尽くしの料理に客が賛嘆の声を洩らす。宴の半ば、客人たちの前に置いた青白磁の茶碗に、遊女たちが熱い酒を満たしてゆくと、茶碗の中で八重桜が一輪、緩やかに花弁を広げてゆく。酒に酔った桜花は、なんとも儚げで美しく、且つ香りの芳しさ・・・。医者に化けた僧侶の祥雲だけが、酒に酔い「あさひ太夫とやら出て参れ、顔を見せよ」と言い、飛びかかった又次に憎悪の眼差しが向け「誰かある、誰か刀を持って参れ」と叫び、楼内は騒然となった。そのとき、眼前に大きな金扇、片手に桜の花枝を持った艶やかな遊女が滑るように近づき、すっと祥雲に桜の一枝を差し出した。そして、甘やかで、気高く、美しいその声で「咲く花を 散らさじと思ふ 御吉野の 心あるべき 春の山嵐」と詠んだ。その姿にどすんと腰が抜けたようにその場に座り込んだ祥雲に、最早騒ぎ立てる意思がないことを見て取ると、あさひ太夫は踵をかえして去った。
「祥雲さま、お忘れなさいませ。これ以上、かかわりになられては、色々と差し障りが出て参りましょう」という声に、祥雲は項垂れ、供のものに支えられたまま帰って行った。

伝右衛門が差し出した二つのご祝儀のうち、嵩の低い翁屋からのご祝儀だけ受け取った澪が、五両の小判を目にして「宴の料理を作っただけなのに、こんなに受け取れる道理がありません」というのに、伝右衛門は目尻に涙を滲ませながら大笑いした。そして「この吉原で料理屋をやる気はないか。…お前さんほどの腕があれば、年に八百、いや千両稼ぐことも夢ではあるまい」と言った。せめて三ノ輪まで送るという又次を断って、澪は大門前で又次と別れた。重い足取りで衣紋坂をのぼっていると「澪さん」と声がかかった。顔を上げると、この近くまで往診に来ていたという源斉が立っていた。
卯月二度目の「三方よしの日」客が絶えた頃合い、勝手口からぬっと顔を出した小松原の表情が何処となく暗い。二人は禄に話もしないで黙々と蚕豆を食べ、笊一杯の蚕豆を食べ尽くすと、小松原は腰を上げた。去り際、唐突に「どんな菓子が好みだ」と問い、澪の「…煎り豆です」という返事に、そうかとだけ呟くと背を向けた。

初夏を思わせる朝、つる家の一行は伊勢屋の美緒と共に、屋根付き船で浅草へ向かった。人混みの中に息子の佐兵衛を見つけた芳が、不意に鋭い声を上げ駆け出した。指差す先にその姿を見た澪は、突き飛ばされて転がり、足蹴にされながらも必死に追った。その男の姿を見失い、橋の欄干に凭れ途方にくれている澪の目の下を、佐兵衛らしき男を乗せた筏がゆく。大声で「天満一兆庵の若旦那さん」と呼び、顔を向けた男に「元飯田町のつる家だす。そこに御寮人さんも一緒に」と叫んだ澪は、その男の口が「つる家」と動いたのを確かに見た。
指が元通りに動くようになるのか尋ね涙する澪に、源斉は、回復は難しいことを告げ、澪の手を取り、己の力量の無さを詫びた。その様子を襖の隙間から、美緒がじっと見つめていた。あんなに嫌っていた親の決めた番頭との婚礼を決めた美緒は「本当に良いの?」と問う澪に「あなたを嫌いになれれば良いのに。心から憎めれば良いのに」と答えた。

御膳奉行、小野寺数馬は「嘉祥(かじょう)」の儀式に出す菓子を決めかね、思い悩んでいた。「煎り豆」という澪の笑顔が浮かび、思わず数馬の石臼を挽く手が止まった。「一体どの様な娘かと問う妹に「花にたとえれば駒つなぎ、食に例えるなら、この煎り豆よ」と答えた。そして「あれは根っからの料理人なのだ。あれと俺の人生が、母上やお前の案じるような形で交わることはあるまいて。いらぬ心配はいたすな」断ち切る口調で告げ、きな粉と水飴を練りはじめた。
練り上げて丸く丸めた飴を、三本の指で摘まんで宝珠の形にした菓子に、妹の早穂に摺らせた砂糖をまぶす。数馬はもう一つ生地に抹茶を混ぜた菓子を作った。朱塗りの折敷に置いた宝珠型の菓子はふたつ。ひとつは黄、もうひとつは緑。ともに砂糖の白粉をはたかれて、澄ましながら寄り添う。「ひとくち宝珠」菓子の名はそれ以外にないだろう。好きな菓子を問われ、煎り豆と答えた娘。その下がった眉を想いながら、数馬はゆっくりと、ひとくち宝珠を味わった。





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2015.07.06 19:33:36
コメント(0) | コメントを書く


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

PR

Freepage List

HTMLソースで遊ぶ


JTrim・自作品 No.1


No.2


No.3


No.4 (2008~)


No.5 (2009.1~)


No.6(2009.3~)


no.7(2009.6~)


no.8(2009.9~)


no.9 (2010.1~4)


No.10 (2010.5~9)


no.11(2010.10~23.4)


no.12(2011.5~)


オートシェイプ画 1


no2


リンク集


ボタニカルアート作品1


ボタニカルアート作品2


ボタニカルアート作品3


植物画・1 new!


ビーズアクセサリー・指輪1


ネックレス&ペンダント&その他


キルト作品・1


ミニバス誘致活動の記録・TOP


活動記録・2


活動記録・3


活動記録・4


活動記録・5


活動記録・6


笑顔走る丘・第1号


笑顔走る丘・第2号


ミニバス試走・第1回~3回


住民説明会


タウンニュース磯子区版・掲載記事


京急バス・上7系統開通


新聞紙の花のブローチ・作り方と見本


和裁教室・いろいろ


ある日の行事風景


JTrimで画像加工


JTrimで描画 作成手順 ↓↓↓


打ち上げ花火


立ち雛・男雛、女雛、屏風


南の島とカニ


秋桜(コスモス)


パンジー


どんぐり


リボン結び


八重桜 & 夜桜


桃の花 & ぼんぼり


露草


ラッパスイセン


桜・河津桜


朝顔・2種


水風船


紫陽花 & 傘


ポインセチア & プリンセチア


うちわ(団扇)


JTrim・その他 作成手順 ↓↓↓


Gifアニメ・雪降りアニメ


コスモスのステンドグラス風


バラのステンドグラス風


フォントで作る・ステンドグラス風


JTrimでクロスステッチ


織物のような模様


両開き窓 & ブラインド


外開きの窓


四つ葉のクローバーの枠


丸窓


Calendar

Favorite Blog

輸送状況に泣いてます New! ♪テツままさん

眼科へ行く New! ごねあさん

慶喜公お屋敷内「ホ… New! 曲まめ子さん

月曜日の朝 New! luumamaさん

浜離宮恩賜庭園 New! マルリッキーさん

梅の木の冬剪定スタ… New! K爺さん

神代植物公園の秋2(… New! みなみたっちさん

【鉄道スケッチ】遂… Tabitotetsukitiさん

今日のごはんと 小… のんのん0991さん

今年最後の庭仕事♪ maria-さん

Comments

のんのん0991 @ Re:港の見える丘公園〜山下公園へ(11/08) New! 港の見える公園から山下公園へ行かれたん…
☆末摘む花 @ Re[1]:港の見える丘公園〜山下公園へ(11/08) 曲まめ子さんへ 5月のあの界隈は一番輝…
曲まめ子 @ Re:港の見える丘公園〜山下公園へ(11/08) こんにちは♪ 港の見える丘公園と山下公園…
☆末摘む花 @ Re[1]:港の見える丘公園〜山下公園へ(11/08) 笹ゆりさんへ そうそう、レモンイエロー…
笹ゆり@ Re:港の見える丘公園〜山下公園へ(11/08) 毎年の事だけど、マリーゴールドが輝くば…
☆末摘む花 @ Re[13]:港の見える丘公園〜山下公園へ(11/08) luumamaさんへ イングリッシュガーデン…
☆末摘む花 @ Re[1]:港の見える丘公園〜山下公園へ(11/08) katanenkeo5さんへ もう少し秋薔薇が咲…
☆末摘む花 @ Re[1]:港の見える丘公園〜山下公園へ(11/08) ごねあさんへ いつもこんなに綺麗な状態…
☆末摘む花@ Re[1]:港の見える丘公園〜山下公園へ(11/08) みなみたっちさんへ ここは比較的近いの…
luumama @ Re[12]:港の見える丘公園〜山下公園へ(11/08) ☆末摘む花さんへ 徒歩で!でも歩ける道だ…

© Rakuten Group, Inc.
X
Create a Mobile Website
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: