《櫻井ジャーナル》

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2024.02.27
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 アメリカの情報機関​ CIAがウクライナ領内、ロシアとの国境に近い地域に12の秘密基地を作っていた ​とニューヨーク・タイムズ紙が伝えている。建設が始まったのは2014年2月にアメリカのバラク・オバマ政権がネオ・ナチを使ったクーデターでビクトル・ヤヌコビッチ政権を倒した直後だ。

 CIAが築いた基地には地下司令部があり、そこでロシア軍の通信を傍受、偵察衛星を監視している。ロシア軍の動きはウクライナ軍へ伝え、さらにロシア領内へのドローンやミサイルでの攻撃を支援してきた。ウクライナ側の説明によると、ロシアだけでなく中国やベラルーシの偵察衛星もハッキングしているという。

 ウクライナの情報機関はロシア国内に築いたネットワークを利用して情報を収集するだけでなく、暗殺も行ってきた。​ GUR(国防省情報総局)総局長のキリーロ・ブダノフは「この世界のどこにいてもロシア人を狙い殺し続ける」と語った ​とヤフーは昨年5月6日に伝えていた。

 ブダノフも所属していた2245部隊はウクライナの精鋭部隊と言われ、2016年頃からCIAの訓練を受けている。またCIAのエンジニアは入手したロシア軍のドローンや通信機を分解、解析してロシア側の暗号を解読できるようにしたという。

 2014年2月にヤヌコビッチ大統領が排除された直後にSBU(ウクライナ安全保障庁)の長官に就任したバレンティン・ナリバイチェンコはその前からCIAの影響下にあったと言われているが、長官に就任してまもない段階でCIAやMI6の現地責任者に電話し、両者をSBUの本部へ招待したという。CIA長官のジョン・ブレナンがキエフを訪れたのはその直後である。

 アメリカはベトナム戦争の頃からふたつの戦闘組織が同じ戦場で戦ってきた。ひとつは正規軍、もうひとつはCIA/特殊部隊だ。

 ベトナムへの軍事介入を中止、部隊を引き上げることを大統領として決めたジョン・F・ケネディが暗殺された翌年の8月、アメリカ政府は偽旗作戦で本格的な軍事介入への突破口を開いた。トンキン湾事件だ。

 リンドン・ジョンソン政権は北ベトナムへの空爆と地上部隊の派遣を決めるが、その裏でCIA/特殊部隊は秘密プログラム「フェニックス」を始めた。CIAの分析官でNSC(国家安全保障会議)のメンバーだったロバート・コマーは1967年5月にサイゴン入りし、ICEXを始動させたのだが、これが後のフェニックスだ。このプログラムは「ベトコンの村システムの基盤を崩壊させるため、注意深く計画」されていた。共同体を破壊しようとしたのだ。

 この作戦に参加した将校や下士官は合わせて126名で、特殊部隊のSEALsから隊員を引き抜いたとされているが、作戦の命令はCIAから出ていた。つまり統合参謀本部の指揮系統とは別の戦闘組織が作られたのである。

 この組織で実働部隊として動いていたのは、CIAが1967年7月に組織したPRU(地域偵察部隊)という傭兵部隊。PRUを構成していたのは殺人を含む凶悪事件で投獄されていた囚人たちが中心だったという。

 1968年11月にコマーの後任としてウイリアム・コルビーがサイゴンへやって来た。その8カ月前、3月にソンミ村事件が引き起こされたが、これもフェニックス・プログラムの一環だ。(Douglas Valentine, "The Phoenix Program," William Morrow, 1990)

 1968年3月16日にソンミ村のミ・ライ地区とミ・ケ地区で農民が虐殺された。アメリカ陸軍の第23歩兵師団第11軽歩兵旅団バーカー機動部隊第20歩兵連隊第1大隊チャーリー中隊に所属するウィリアム・カリー大尉の率いる第1小隊に虐殺されたのだ。犠牲者の数はアメリカ軍によるとミ・ライ地区だけで347人、ベトナム側の主張ではミ・ライ地区とミ・ケ地区を合わせて504人だという。

 この虐殺を止めたのは現場の上空にさしかかったアメリカ軍のヘリコプターに乗っていた兵士。アメリカ軍に従軍していた記者やカメラマンはこの虐殺を知っていたが、報道していない。虐殺事件をアメリカの議員らに告発したアメリカ軍兵士もいたのだが、政治家も動かなかった。

 しかし、ワシントンDCでユージン・マッカーシー上院議員の選挙キャンペーンに参加していたジェフリー・コーワンからこの話を聞き、取材を始めた記者がいる。フリーランスだったシーモア・ハーシュだ。

 彼は虐殺を記事にしたのだが、ライフやルックといった有名な雑誌は記事の掲載を拒否、ディスパッチ・ニュース・サービスという小さな通信社を通じて伝えることができた。1969年11月のことだ。

 虐殺の4カ月後の1968年7月にコリン・パウエル少佐(当時)がベトナム入りをした。ジョージ・W・ブッシュ政権で国務長官に就任したあのパウエルだ。彼が配属されたのは第23歩兵師団。彼自身、事件後に現場を訪れて衝撃を受けたと2004年5月4日に放送されたCNNのラリー・キング・ライブで語っているのだが、ジャーナリストのロバート・パリーらによると、パウエルは軍の幹部にとって都合の悪い情報を握りつぶすことが彼の仕事だった。その後、彼が出世できたのは働きぶりが評価されたのだろう。

 CIAと特殊部隊は第2次世界大戦が終わるまで同じ組織に含まれていた。大戦中、西部戦線でドイツ軍と戦っていたのはコミュニストを主体とするレジスタンスだけ。1943年1月にドイツ軍がスターリングラードでソ連軍に降伏すると、イギリス政府とアメリカ政府はカサブランカで会談、同年7月に両国軍はシチリア島へ上陸する。同島もコミュニストの影響力が強かったことから、アメリカの情報機関はマフィアに接近し、協力を得た。そして大戦後、マフィアはCIAの手先として働き始める。

 1944年になるとイギリスとアメリカの情報機関はフランスでゲリラ戦部隊を編成する。ジェドバラだ。そのメンバーのひとりがコルビーにほかならない。このジェドバラ人脈は大戦後に分割され、一部は特殊部隊へ入り、一部は極秘の破壊工作機関OPCへ入る。OPCは1950年10月にCIAへ吸収され、翌年1月にはアレン・ダレスが副長官としてCIAへ乗り込んだ。

 アメリカとイギリスはヨーロッパを支配する仕組みとしてNATOを組織するが、その一方で破壊活動を目的とする秘密部隊のネットワークを築いた。中でも有名な秘密部隊がイタリアのグラディオだ。ウクライナのネオ・ナチもこのネットワークに組み込まれていると言われている。






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最終更新日  2024.02.27 12:49:30


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