日本に限らず様々な国に犯罪組織が存在するが、権力システムに組み込まれていることが珍しくない。例えばアメリカの場合、1943年7月にアメリカ軍とイギリス軍がシチリア島へ上陸する際、アメリカ海軍のONI(対諜報部)がイタリア系犯罪組織の大物ラッキー・ルチアーノ(本名、サルバトーレ・ルカーナ)の助けを借り、大戦後にはCIAが手先として利用するようになった。
ONIとルチアーノの仲を取り持ったのはユダヤ系ギャングの大物だったメイヤー・ランスキー。ふたりは子ども時代からの友人で、いずれもアーノルド・ロスティンの子分だった。シチリア島で影響力が強かったコミュニストを抑え込むため、ONIはマフィアの手を借りようとしたのだ。
日本の場合、敗戦直後まで広域暴力団のような存在はなかったと言われている。存在していたのは「博徒」や「テキ屋」だった。広域暴力団を出現させる発端を作ったのは法務総裁(後の法務大臣)を務めていた木村篤太郎だ。
木村は左翼対策として1951年に「反共抜刀隊」を構想、それまでバラバラだった博徒やテキ屋を組織化しようとしたのだ。1950年6月にアメリカは朝鮮戦争を始めているが、日本はアメリカ軍の重要な兵站拠点であり、労働者にストライキされては戦争を継続できないからだ。木村の構想は途中で挫折するが、広域暴力団に発展する下地になった。
朝鮮戦争は中国でアメリカが支援する国民党軍が敗北して1949年10月に中華人民共和国が成立、その前に極秘の破壊工作機関OPCは拠点を上海から日本の厚木基地などへ移動させた。
その1949年に国鉄で怪事件が続き、労働組合弾圧の口実に使われている。7月5日から6日にかけての下山事件、7月15日の三鷹事件、そして8月17日の松川事件だ。労働組合は大きなダメージを受け、ストライキで物流が止まる可能性は低くなった。OPCは1950年にCIAの内部へ入り込む。
陸での輸送は国鉄が重要だが、朝鮮半島へ運ぶためには船を使わなければならず、港湾労働者を抑える必要が生じる。GHQ/SCAP(連合国軍最高司令官総司令部)は大手倉庫会社のみに船内荷役を許可、劣悪な環境で働かされていた労働者は組合を結成して闘争を展開。物流を止めないための仕組みが必要になったのだ。
そして1952年に山口組の田岡一雄組長は「港湾荷役協議会」を創設して会長に就任、56年になると彼は「神戸港港湾労働組合連合」を設立する。さらに「港湾荷役協議会」を解散したうえで「全国荷役湾荷振興協会(全港振)」を組織した。
全港振設立の際に話し合った相手は横浜笹田組の笹田照一、東海荷役の鶴岡政治郎、そして藤木企業の藤木幸太郎たちで、会長には藤木が就任、顧問には当時の建設大臣、河野一郎が納まった。この後、田岡が神戸港で、また藤木が横浜港で大きな影響力を発揮していくことになる。
それだけでなく、アンダーグラウンドの世界の秩序を維持するために警察が広域暴力団を利用してきたことも否定できない。そうした仕組みを象徴するのが警視庁と関東の暴力団との関係だ。
溝口敦によると、「関東勢は警察と深いらしいですわ」と前置きしたうえで、「警視庁の十七階に何があるか知らしまへんけど、よく行くいうてました。月に一回くらいは刑事部長や四課長と会うようなこと大っぴらにいいますな」と「山口組最高幹部」は語ったという。(溝口敦著『ドキュメント 五代目山口組』三一書房、1990年)
山口組は本拠地の神戸で悪さはしなかったと言われているが、堅気に手を出すということは支配システムに歯向かうことを意味し、存在意義を失うことにつながる。その仕組みを理解せず、組員に堅気を殺傷させる仕組みを作っているような広域暴力団は排除されることになるのだろう。もし排除できないなら支配システムが崩壊して無法状態になる。